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H14.10.30 東京地方裁判所 平成10年(ワ)第25332号 損害賠償
請求事件
              主       文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
             事 実 及 び 理 由
第1 原告らの請求
被告らは,各自,原告乙に対して4000万円,原告甲に対して2000万円,原
告丙に対して2000万円と,これらに対する平成7年12月14日から支払済み
まで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
本件は,国立病院で前立腺切除の手術を受け,その後死亡した患者の相続人である
原告らが,担当医師にはCRP値が高値のまま手術をしたこと,手術前に抗生物質
を予防的に投与しなかったこと,MRSA感染症に対して薬剤を過量に投与したこ
となどに過失があり,病院としても院内感染防止対策について過失があると主張し
て,病院の設置者である国と担当医師に対し,不法行為又は債務不履行に基づき損
害賠償を請求した事案である。
1 前提となる事実(証拠を記載したもの以外は争いがない)
(1) 当事者
ア a(大正12年6月15日生)は,被告国が設置する東京逓信病院(以下「被
告病院」という)に入院して,平成7年9月14日に前立腺切除の手術を受けた
が,同年12月14日に死亡した(当時72歳)。
  原告乙はaの妻であり,原告甲と原告丙はaの子である(甲5)。
イ 被告丁は,平成7年7月から被告病院の泌尿器科に勤務し,aの診療を担当し
て,同年9月14日に前立腺切除の手術を施行した医師である。
  被告戊は,被告病院から内科研修医としての嘱託を受け,平成7年10月31
日から呼吸器内科でb医師とともにaの診療を担当していた医師である。
(2) 平成3年から6年までの診療経過
ア aは,平成3年3月7日,七,八年来の排尿障害と夜間の陰茎付け根の疼痛を
主訴として,被告病院の泌尿器科を受診した。aは前立腺結石と診断されたが,3
月20日には疼痛が軽減し,4月25日には排尿障害も改善した。5月23日以降
は3か月ごとの経過観察を指示され,平成4年5月7日まで通院して受診した。
イ aは,平成4年4月に人間ドックで肺線維症を指摘されたので,7月8日,そ
の精査の目的と数年来の咳と痰を主訴として,被告病院の総合内科を受診した。胸
部エックス線検査により線維化が指摘されて,7月13日からは呼吸器内科を受診
し,以後,鎮咳薬フラベリックなどの投与が続けられた。
ウ aは,平成4年11月13日から12月3日まで,呼吸器疾患の精査を目的と
して呼吸器内科に入院した。aの肺の病変は,気管支鏡下肺生検などの検査によっ
て,特発性間質性肺炎と診断された。
  気管支鏡検査は11月17日と26日に行われ,検査の前処置として硫酸アト
ロピン0.5ミリグラム(通常用量)が筋肉注射されたが,aからは,これによる
排尿障害の訴えはなかった。
エ aは,特に症状はなかったが,前立腺の石灰化と前立腺腫瘍マーカーの高値が
指摘されたので,入院中の11月25日と12月1日に泌尿器科を受診した。11
月25日の受診時には,直腸指診と超音波計測によって軽度の前立腺肥大症と診断
された。12月1日には前立腺腫瘍マーカーによる検査が行われ,その結果を聞く
ため,aは呼吸器内科退院後の12月8日に泌尿器科を受診したが,悪性疾患は否
定され,前立腺結石と軽度の前立腺肥大症についても経過観察のみでよく,定期的
な通院は不要であるとの診察結果であった。
オ aは,呼吸器内科では,平成4年12月3日の退院後も,平成7年9月に泌尿
器科に入院するまで,毎月1回程度の通院をした。咳,痰,労作時息切れなどの症
状があり,毎日1日3回の内服治療を必要としていた。
  平成5年1月からは,呼吸器内科の担当医師がcになった。c医師は,1月1
4日に初めてaを診察した際,特発性間質性肺炎の諸症状に加えて排尿障害の有無
についても問診し,排尿障害のないことを確認した。その後,aの肺は,特に増悪
するなどの異常もなく推移した。
(3) 平成7年の手術に至る診療経過
ア 平成7年3月16日,aに対し,c医師は感冒薬PL顆粒を1日3グラム処方
したが(通常用量1日4グラム),これによる排尿障害の訴えはなかった。4月6
日には,鼻水と咳を主訴として総合内科を受診したので,担当医師が院内製剤の感
冒薬を1日3グラム処方したが(通常用量1日3~4グラム),これによる排尿障
害の訴えもなかった。
  4月13日,aは鼻水や咳,痰が2週間以上持続すると訴え,呼吸器内科でc
医師の診察を受けた。痰は少量白色で,37度を超える発熱がなく,咽頭と肺の理
学所見に著変がないことが確認されたので,c医師は感冒と診断し,抗ヒスタミン
剤である上気道炎治療薬ダン・リッチを1日2カプセル(通常用量)処方した。
イ aは,ダン・リッチ処方から2日目の4月15日午前0時ころから排尿障害が
出現したため,泌尿器科を救急受診して導尿処置を受け,排尿障害治療薬エビプロ
スタットの処方と,ダン・リッチの服用中止の指示を受けた。4月16日,17日
にも泌尿器科を受診して導尿処置を受け,4月17日からは排尿障害治療薬ハルナ
ールの投与が開始された。4月24日の泌尿器科受診時には症状は軽減し,5月1
日の受診時には排尿障害が認められなくなった。5月15日,6月12日,6月2
6日の受診時にも排尿は良好であった。
ウ 5月18日,aは呼吸器内科でc医師の診察を受けた。c医師はaから,感冒
は既に治癒したが,泌尿器科での治療を要したことの報告を受けた。また,問診に
より,aが近医で上部消化管内視鏡検査を受けていたことが確認された。6月15
日の診察では,朝に少量の白い痰が出るだけであり,尿の出もよいことが確認され
た。この日以後,c医師は転勤したため,呼吸器内科でのaの担当医師はb医師と
なった。
エ aは,6月26日の泌尿器科受診時に,担当医師から前立腺肥大症に対する経
尿道的前立腺切除の手術を勧められた。7月10日の受診時からは被告丁が泌尿器
科の担当医師となったが,aが秋ころの手術を希望し,緊急を要するものではなか
ったことから,被告丁は,状態を見て手術予約をすることを予定した。7月10日
まででハルナールの投与は中止されたが,2週間後の7月24日の受診時も排尿は
良好であった。
  8月8日の受診時には,次回に前立腺超音波検査や尿流測定,残尿量測定を実
施したうえで,9月14日手術の予定で入院予約をすることが決定された。被告丁
は,8月21日,前立腺超音波検査などを実施する一方で,呼吸器内科のb医師に
対しては,aに経尿道的前立腺切除の手術を行うことについての危険性などを照会
した。これに対し,b医師は,9月4日にaを診察したうえで,現在症状も安定し
ていて,呼吸状態からも手術は通常どおりで特に問題はないと考えるとの回答をし
た。呼吸器内科初診時の平成4年7月以降,胸部エックス線検査では,aの間質性
肺炎像は著変を認めなかった。
オ aは,9月12日,手術のため泌尿器科に入院した。術前検査として逆行性尿
道造影と経静脈的腎盂造影が行われ,尿道狭窄はあるが,造影剤の排泄は良好であ
り,残尿も少量であることが確認された。また,呼吸機能検査上も,平成4年11
月の呼吸器内科入院時と比べて著変は認められなかった。
  手術前日の9月13日には,動脈血ガス分析によって,軽度の低酸素血症があ
るものの,平成4年11月の呼吸器内科入院時と比べて著変がないことが確認され
た。また,血液検査によって,白血球数9200(マイクロリットル当たり),血
沈37ミリメートル(1時間値),CRP値9.92(単位ミリグラム/デシリッ
トル)と炎症症状を認めたが,尿検査では白血球尿,細菌尿などの尿路感染の所見
は認められなかった。
カ 9月14日午前8時55分から,aに対し,まず右鼠径ヘルニアに対するヘル
ニア根治術が施行された後,前立腺肥大症に対する経尿道的前立腺切除術がd医師
と被告丁によって施行された(以下「本件手術」という)。手術時間は2時間15
分,麻酔時間は3時間20分であり,前立腺は計12.2グラム切除され,前立腺
結石も多数摘除された。本件手術に先立って,予防的に抗生物質が投与されたこと
はない。
(4) 平成7年の手術後の診療経過
ア 本件手術直後から翌9月15日午前9時まで,酸素吸入が毎分2ないし3リッ
トルで行われ,aは,同日から食事摂取を開始した。9月16日に持続硬膜外注入
用カテーテルが抜去されたが,創部は清澄であった。9月18日には尿道カテーテ
ルが抜去され,自然排尿があった。鼠径ヘルニアの手術創は9月21日に半抜糸,
翌22日に全抜糸が行われたが,創部は清澄であった。
イ 本件手術後に,aは38度台の発熱をした。これは翌9月15日に治まった
が,以後も37度台の微熱が続き,10月8日ころからは食欲も低下した。また,
本件手術後から鼠径ヘルニア創部の持続痛があり,10月7日ころまで続いた。
  被告丁は,9月27日,呼吸器内科のe医師に対し,呼吸器系の病変が微熱の
熱源かどうかについて照会したが,翌28日,e医師からは,身体所見や胸部エッ
クス線所見から判断して胸部病変は悪化していないとの回答があった。被告丁は,
10月2日には,呼吸器内科のb医師に対して同様の照会をしたが,同日,b医師
からは,胸部エックス線所見,聴診所見や9月27日に実施した胸部CT検査の所
見はいずれも以前と著変がなく,肺病変からの発熱は考えにくいとの回答があっ
た。
ウ aに対しては,本件手術直後から9月18日まで抗生物質セフメタゾンが1日
2グラム点滴静注され,9月19日からは抗菌薬クラビットが1日300ミリグラ
ム内服投与され,10月1日以降は1日200ミリグラムに減量されて,10月4
日まで内服投与された。
  9月29日に採取した喀痰の培養検査からは,コアグラーゼ陰性ブドウ球菌が
やや多量に検出された以外は常在菌が検出されたのみで,MRSA(メチシリン耐性
黄色ブドウ球菌)は検出されなかった。
  10月2日からは副睾丸炎も疑われたので,10月5日まで抗生物質ペントシ
リン1日2グラムの点滴静注が追加され,10月5日夕方からは抗生物質カルベニ
ン1日1グラムの点滴静注が開始された。
エ 10月6日に採取した尿の培養検査の結果,10月9日にカンジダ類の検出が
報告されたので,抗真菌薬ジフルカン1日100ミリグラムと抗菌薬スパラ1日2
00ミリグラムの内服の併用が開始された。
  10月6日に採取した喀痰の培養検査からは,10月12日に,僅少量のMR
SAが検出されたことが報告された。そこで,同日,再検査が実施されるととも
に,スパラ内服が中止され,菌量が少なかったので,院内感染防止対策としては,
aについてはうがい管理と検査時マスク着用,医療関係者は手洗い励行とされた。
  10月12日に採取した喀痰の培養検査からは,10月16日に,多量のMR
SAが検出されたことが報告されたので,抗生物質バンコマイシン1日2グラムの
点滴静注が開始された。院内感染防止対策として,10月17日からは,aについ
て個室管理とし,医療関係者は手洗い励行,マスク,ガウン着用とされた。なお,
aは10月16日当時も以前からの発熱が続いており,10月の間,再三倦怠感を
訴えていた。
オ 10月23日には,初めて咽頭粘液,鼻腔粘液についても培養検査が行われ,
そこからもMRSAが検出された。10月27日には静脈血の培養検査が2回行わ
れたが,MRSAを含めて菌は検出されなかった。
  10月26日にaのバンコマイシン血中濃度が測定されたが,投与前が23.
3(単位マイクログラム/ミリリットル),投与後が42.1であった。
  血清クレアチニン値は,10月26日が1.4(単位ミリグラム/デシリット
ル),10月30日が1.6と上昇傾向にあって,腎機能障害が出てきたので,1
0月30日からはバンコマイシンの投与量が1日1グラムに減量された。
カ aには,10月23日から足に浮腫が生じ始め,この時は低栄養が原因と考え
られた。10月27日に足の浮腫がやや増加し,10月29日には足関節部に対称
的な発赤,皮疹も生じ始めた。被告丁が10月30日に皮膚科に診断を依頼したと
ころ,アナフィラキシー様の紫斑病の可能性も考えられるが,皮脂欠乏性皮膚炎を
第一に考えるとの回答があった。また,同日には動作の緩慢,尿失禁など全身状態
も悪化してきた。
キ aの発熱は,10月17日から38度台となった。発熱の原因精査のために1
0月16日にガリウムシンチグラムが実施され,両側下肺野,下部胸椎右側,鼻咽
腔,顎下腺などに軽度の集積が認められた。被告丁は耳鼻科と整形外科に診断を依
頼したが,耳鼻科の医師からは,鼻咽腔や顎下腺へのガリウム集積は生理的なもの
であって発熱の原因とは考えにくいとの回答があり,整形外科の医師からは,下部
胸椎右側の集積は同じ部位に存在する変形性脊椎症によるものと考えられるとの回
答があった。
  そこで,不明熱の原因精査と加療目的のために,10月31日,aは呼吸器内
科に転科入院となった。
(5) 平成7年の呼吸器内科転科後の診療経過
ア 10月31日,aは呼吸器内科に転科入院した。担当医師は,被告戊とb医師
であった。10月31日から11月2日までアルブミン(20パーセント,50ミ
リリットル)が点滴静注され,11月1日からはソリタ-T3号Gが1日1000
ミリリットル輸液されたが,発熱,全身倦怠感,尿失禁などの全身状態の悪化は持
続した。
  呼吸器内科転科後,バンコマイシンについては,10月31日は1日1グラ
ム,11月1日からは1日0.5グラムの投与に減量された。11月2日に測定さ
れたバンコマイシン血中濃度は,投与前が20.8(単位マイクログラム/ミリリ
ットル),投与1時間後が29.3であった。しかし,10月16日以来のバンコ
マイシン投与によっても,発熱やCRP値上昇などの炎症所見に改善がなかったの
で,11月7日まででバンコマイシンの投与は中止された。
  不明熱の原因を検索するため,抗生物質の投与を中止した状態で,11月8日
には喀痰,咽頭粘液,尿の培養検査によって,11月10日には喀痰,鼻腔粘液,
尿,静脈血の培養検査によって細菌の検索が行われた。
イ クレアチニン・クリアランス値は,10月31日が25.6(単位ミリリット
ル/分)であり,11月2日から12日にかけてが10ないし19と低下してい
た。血清クレアチニン値も,11月6日が2.0(単位ミリグラム/デシリット
ル),11月9日が2.4,11月13日が3.1,11月16日が3.0,11
月20日が3.5と上昇を続け,腎機能の低下が認められた。
  11月13日から,腎機能に対する影響を無視しうる抗生物質としてミノマイ
シン1日200ミリグラムの点滴静注が開始された。
  11月17日には,不明熱の原因として髄膜炎も考えて,髄液検査が施行され
たが,培養検査も細胞診も問題はなく,不明熱の原因とは考えられなかった。
  11月18日,aは呼吸困難を訴えた。パルスオキシメーターによる動脈血酸
素飽和度が85ないし88パーセントであり,明らかな低酸素血症が認められたの
で,酸素吸入が開始された。
ウ 11月9日から20日にかけて,血中ヘモグロビン値が8.2(単位グラム/
デシリットル)から6.7へと推移して貧血の進行があったので,11月21日に
濃厚赤血球2単位の輸血が実施された。
  aは,11月27日の夕食後に嘔吐をした。以後も食欲の低下,吐き気が持続
し,11月29日の昼食後にも嘔吐を繰り返した。
  そこで,被告戊は,消化性潰瘍の合併を考え,12月1日,消化性潰瘍治療薬
としてヒスタミンH2受容体拮抗薬(H2ブロッカー)であるザンタック1日30
0ミリグラムの内服投与を開始し,その後,12月7日まで嘔吐は治まった。ザン
タックは,12月9日までは1日300ミリグラムの内服投与がされたが,12月
10日から11日までは1日50ミリグラムの点滴静注がされ,その後は投与が中
止された。
エ 11月13日にミノマイシンの投与が開始された後,11月19日には37.
2度程度の微熱となり,CRP値も11月16日の20.87(単位ミリグラム/
デシリットル)から11月20日の15.96へと一時的に改善した。しかし,そ
の後,再び体温,CRP値ともに上昇した。
  12月1日,ミノマイシンは点滴投与から経口投与に変更され,12月5日に
は診断的治療として抗結核療法が開始された(抗結核薬イスコチン1日300ミリ
グラムと,抗結核薬リファジン1日450ミリグラムの併用経口投与)。12月6
日までで,ミノマイシンは効果がないものと判断され,投与が中止された。
オ 血小板数は,11月20日に59.1(単位万/マイクロリットル)あったの
が,11月24日には55.6,11月27日には46.4,12月1日には4
0.1,12月4日には31.2と徐々に減少した。
  12月7日から血痰が出現するようになり,12月8日深夜からは急速に呼吸
状態が悪化して,aは,胸部エックス線所見とも併せて,肺出血と診断された。
  12月9日,止血剤が投与されるとともに,発熱や肺出血が起こる状況として
結節性多発動脈炎を含む膠原病が疑われ,副腎皮質ホルモン製剤ソル・メドロール
によるステロイド剤大量投与療法が開始された(12月9日に1グラム,10日に
2グラム,11日に1グラムを投与)。
 酸素投与量も,それまでの鼻カニューレによる毎分1リットル投与から,リザ
ーバー付きマスクで毎分12リットル以上を要するようになり,その状態でもパル
スオキシメーターによる動脈血酸素飽和度は84ないし96パーセントで,著明な
呼吸困難を伴った。
カ 12月11日午後2時40分,aに呼吸停止があり,経口気管内挿管によって
人工呼吸器に接続がされた。しかし,以後,深昏睡状態が持続し,呼名反応も痛覚
反応もなく,瞳孔が散大し,対光反射も消失した。12月14日午後には血圧も低
下し,午後9時43分にaは死亡した。
  なお,a生前の12月11日に行われた検査において,好中球ミエロペルオキ
シダーゼに対する自己抗体(抗好中球細胞質抗体・MPO-ANCA)が894単
位と著明な高値を示していたことが,12月18日付けの検査報告書で判明した
(基準値は10単位未満)。
  病理解剖の結果,死亡時にaには結節性多発動脈炎(顕微鏡的結節性多発動脈
炎)が発症していたことが判明し,被告病院においては,aの死因は結節性多発動
脈炎からの多臓器不全と考えられた。
(6) 解剖所見
平成7年12月15日午前10時15分から,被告病院においてaの病理解剖が行
われた。解剖の結果は,次のとおりである(乙11)。
ア 肉眼的所見
  主病変は不明であり,結節性多発動脈炎であった。肺は鬱血水腫が高度であ
り,巣状出血が多いことも疑われる。慢性間質性肺炎(特発性間質性肺炎で,主に
左右下葉外側から背側の胸膜下。明らかな蜂窩肺はない)と肺気腫(主に上葉に中
等度,小葉中心性)が認められる。
  軽度の心肥大があり,軽度(一部は中等ないし高度)の冠動脈硬化が認められ
る。肝臓,腎臓に鬱血が認められる。腎盂粘膜,胃粘膜,食道粘膜,肺,小腸に出
血傾向が疑われる。胃底前壁側に直径7ミリメートルの急性胃潰瘍と,その傍らに
小さなびらんがあり,トライツ靱帯近くに空腸のびらんが認められる。軽度の線維
素性胸膜・心膜炎が認められる。左精巣が壊死している。
  前頭蓋底に直径1.7センチメートルの髄膜腫がある。腎臓は乳頭部が黄色調
であり,尿酸梗塞が疑われる。肝臓は軽度の脂肪化が疑われる。大動脈が軽度ない
し中等度に粥状硬化している。
イ 病理解剖学的・組織学的診断
  多発性動脈炎であり,腎臓,精巣,副腎周囲,胆嚢,膵臓等に新しい壊死性血
管炎,古い血管炎(瘢痕)と新旧合併のものが認められ,血管炎と血栓形成による
多発性梗塞が副腎(両側広範多発),精巣(左全体),腎臓に認められる。
  慢性間質性肺炎であり,主に両下葉外側から背側の胸膜下にかけて線維化が優
勢であるが,蜂窩肺はなく,肺動脈枝に軽微な血管炎の痕が疑われる。気管支肺炎
と肺出血も認められる。
  DIC(播種性血管内凝固症候群)の疑いがあり,腎糸球体や肺胞毛細血管と
肺動脈枝に血栓が認められ,腎盂・胃・食道の粘膜と肺には出血傾向が認められ
る。ショックの疑いもあり,急性尿細管壊死や,高度でびまん性の肝小葉中間帯性
壊死が認められる。
  このほか,肺気腫(主に上葉に中等度),心肥大(肺性心が疑われる),髄膜
腫(前頭蓋底,直径1.7センチメートル)が認められる。
(7) 結節性多発動脈炎
  結節性多発動脈炎は,全身の中小の筋型動脈を中心とした壊死性血管炎によっ
て特徴づけられる疾患であり,動脈瘤(結節)を形成することから結節性と名付け
られた。いわゆる膠原病の1つである。
  この疾患は中小動脈が特異的に障害されると考えられていたが,顕微鏡で初め
て確認できる細小血管でも壊死性血管炎が存在する症例が報告されるようになり,
細小血管の病変が主体の結節性多発動脈炎を顕微鏡的結節性多発動脈炎,従来から
の結節性多発動脈炎を古典的結節性多発動脈炎と分類するようになった。原因とし
ては,ウイルス感染やそれに伴う免疫異常が考えられているが,正確には解明され
ていない。
  顕微鏡的結節性多発動脈炎ではMPO-ANCAが高率に検出されることか
ら,早期診断や疾患活動性の指標としてMPO-ANCAの有用性が確立されてい
る。一方,古典的結節性多発動脈炎ではMPO-ANCAは一般に検出されないの
で,この2種類の結節性多発動脈炎は異なる疾患であると考えられている(甲1
0,乙34)。
2 争点
 (1) CRP値が高値のまま手術を施行した被告丁の過失
ア 原告らの主張
  本件手術前日の平成7年9月13日,aのCRP値は9.92ミリグラム/デ
シリットルと高い値になっていた。これは,泌尿器科的な処置や検査による一時的
な感染によるものであった。aは,以前入院した時にも軽い検査の侵襲でCRP値
が上昇しており,今回も入院後の検査の後にCRP値が上昇している。すなわち,
aは,間質性肺炎の持病など不確実な危険因子を持っており,身体に軽い侵襲があ
っても炎症反応を起こす特性を有していたのであるから,ダン・リッチを投与しな
い限り尿閉を起こさない程度の軽い前立腺肥大症のために,手術という重い侵襲を
この時に与えるべきではなかった。手術の施行に関する呼吸器内科の事前回答も,
この点を考慮していない。
  aの持病である間質性肺炎は,膠原病性の可能性もあった。膠原病性の間質性
肺炎であれば,感染や抗生物質投与により増悪する危険性があるのであり,手術は
大きな危険因子であった。手術を行えば抗生物質を投与することとなり,その結
果,抗生物質の使用によって,aの体内にある黄色ブドウ球菌から誘導されてMR
SAが発生する危険性もあった。
  そして,本件手術は緊急性を有するものではなかったから,これらの事情を考
慮すると,手術は感染の鎮静化を待って施行されるべきであった。
  したがって,被告丁が平成7年9月14日に本件手術を施行したことには過失
がある。
イ 被告らの主張
  aの間質性肺炎には膠原病を疑う積極的な理由はなく,平成4年7月以降,胸
部エックス線検査では間質性肺炎像に著変は認められていなかった。平成7年9月
12日の呼吸機能検査上も,9月13日の動脈血ガス分析の結果も,平成4年11
月当時と比較して顕著な状態の変化はなく,明らかな呼吸器感染もなかった。9月
13日の血液検査による白血球数や血沈の数値は従前のデータでも見られる程度の
数値であり,aには発熱も特にはなかった。
  そして,本件手術は手術侵襲の軽度な手術であり,前立腺切除術の手術適応で
あったことを総合的に検討し,CRP値の高値は問題にならないものとして本件手
術を施行した。
  したがって,被告丁が平成7年9月14日に本件手術を施行したことに過失は
ない。
  (2) 手術前に抗生物質を予防的に投与しなかった被告丁の過失
ア 原告らの主張
  手術時の細菌感染を予防するために,手術操作中に抗生物質の血中濃度や組織
中の濃度が最も上昇することをねらって,手術前に抗生物質を投与するのが世界的
な標準的治療方法であり,日本においても平成6年以降は常識であった。しかも,
aには,手術よりも侵襲度の小さい泌尿器科的な措置や検査によって相当な感染が
生じた可能性が高かったのであり,その投与の必要性があった。
  したがって,本件手術前に抗生物質を投与すべきであったにもかかわらず,そ
れを怠った被告丁には過失がある。
イ 被告らの主張
  手術前の抗生物質の投与が世界的な標準的治療方法であるとか,平成6年以降
は日本において常識であったという事実はない。
  また,手術前の泌尿器科的な処置や検査によってaに相当な感染が生じていた
という事実もない。
  したがって,手術前に抗生物質を投与すべき義務はなく,被告丁に過失はな
い。
  (3) 院内感染防止対策についての被告国の過失
ア 原告らの主張
 aからMRSAが検出されたのが本件手術から22日後の平成7年10月6日で
あったことを考慮すると,aのMRSA感染症は被告病院での院内感染によるもの
であったというべきである。aが被告病院への入院前からMRSA保菌者であった
ということは考えられない。
  被告病院における院内感染防止対策の基準となるべきものは,東京大学医学部
附属病院の対策である。ところが,aに対する被告病院の対策は,当初は,aのう
がい管理と検査時マスク着用,医療関係者の手洗い,その後,aの個室管理,医療
関係者の手洗い,マスク,ガウン着用,そして「院内感染予防対策の手引き」の作
成のみであったから,被告病院が東京大学医学部附属病院の対策に照らして十分な
院内感染防止対策をしていたとはいえない。
     被告病院に要求される水準の院内感染防止対策を被告国が怠って,aが
MRSAに感染したのであり,したがって,被告国には過失がある。
イ 被告らの主張
  一般に入院患者の2ないし20パーセントが,既に鼻腔,咽頭などにMRSA
を保菌しているといわれている。MRSA発生と関連の深い第三世代セフェム系の
抗生物質は,aからMRSAが検出された日の前日まで,aには投与されていなか
った。aが入院していた病棟には,aから検出されたのと同種のMRSAを保菌し
ている患者はいなかった。そして,MRSAの保菌部位として最も一般的である鼻
腔や咽頭に関して行われた初めての培養検査において,平成7年10月23日採取
分の検査材料から既にMRSAが検出されていたことを総合考慮すると,aは被告
病院への入院前からMRSA保菌者であった可能性も高く,aのMRSA感染症が
院内感染によるものとするのは早計である。
  被告病院と東京大学医学部附属病院とでは規模が異なるが,被告病院において
も,院内感染予防委員会による感染症患者の実態把握調査を行い,「院内感染予防
対策の手引き」を発行し,これにのっとった対策や処置として,MRSAに汚染さ
れたと思われる医療機器はホルマリンガス消毒をし,MRSA感染症患者に医療機
器を使用する場合には感染防止用フィルターを装着するなど,東京大学医学部附属
病院とほぼ同水準の院内感染防止対策が講じられていた。被告病院におけるMRS
A発症率が他病院と比較して低率であるという事情も併せて考えると,被告病院に
おけるMRSAの院内感染防止対策は,平成7年当時の医療機関における平均的水
準を満たしていた。
  したがって,仮にaが本件手術後に被告病院においてMRSAに感染したとし
ても,被告国に過失はない。
(4) バンコマイシン投与に関する被告丁の過失
ア 原告らの主張
  バンコマイシンの添付文書には,「年齢,体重,症状により適宜増減する」,
「高齢者は腎機能が低下している場合が多いので,投与前及び投与中に腎機能検査
を行い,腎機能低下の程度により減量するなど慎重に投与すること」との記載があ
る。
  当時,aは72歳という高齢であり,血清クレアチニン値は1.1ないし1.
2ミリグラム/デシリットルであったから潜在的腎機能障害があったうえ,本件手
術後には発熱して,全身の倦怠感が離れず,心身ともに衰弱していた。このような
aの年齢や症状を考慮すれば,aに対するバンコマイシンの投与量は減量すべきで
あり,健康な成人の4分の1の1日0.5グラムが適正であった。
  ところが,被告丁は,平成7年10月16日から30日まで漫然とバンコマイ
シンを1日2グラム投与したため,aに腎機能障害が生じたのであり,被告丁には
過失がある。
イ 被告らの主張
  MRSAへの感染を放置しておくことは基礎疾患である間質性肺炎の増悪にも
つながりうるので,早急な解決が必要であった。また,当時のaの血清クレアチニ
ン値は正常値であり,腎機能障害があったとはいえない。したがって,バンコマイ
シンの投与は適切である。
  仮に当時のaの血清クレアチニン値が腎機能障害ありと評価しうるものであっ
たとしても,バンコマイシン1日2グラムの投与は不適切なものではない。また,
バンコマイシンの投与とaの腎機能障害との間には因果関係はない。
(5) ザンタック投与に関する被告戊の過失
ア 原告らの主張
  ザンタックなどのH2ブロッカーには感染症の悪化を招くという副作用がある
から,医師がこれを投与する際には,その用法に特に注意すべき義務がある。
  aに対するザンタック投与時には,aには嘔吐や吐き気,血中ヘモグロビンの
減少があったが,それだけでは胃潰瘍と断定することはできず,心身の消耗等から
生じる神経性胃炎の可能性もあった。ところが,被告戊は,何ら確定診断をするこ
となく漫然と胃潰瘍と思い込んで,平成7年12月1日から9日まで漫然と必要性
の疑わしいザンタックを投与し,その投与の結果として,aのMRSA感染症を増
悪させ,敗血症,DIC,多臓器不全を起こさせて,aを死亡させた。
  仮にザンタック投与の当時,aに貧血を発症させるような胃潰瘍からの出血が
あったとしても,このような輸血を必要とするほどの出血が上部消化管にある場合
には,速やかに上部消化管内視鏡検査を行って貧血の進行を防止すべきであった。
そうすれば,直ちに止血が可能であったばかりか,プロトンポンプ阻害薬の使用な
ど他の治療方法を選択できた可能性が高かった。仮にその時点で緊急内視鏡検査が
できなかったとしても,他科の外来を受診できる全身状態であったのなら,胃チュ
ーブを挿入して冷水胃洗浄を行うなど,胃内の出血状況を確かめることは最低限す
べきであった。それにもかかわらず,被告戊は,このような検査などを怠り,漫然
とザンタックを投与しただけであったため,貧血の進行を止められず,全身状態の
一層の悪化をもたら
して,aを死亡させた。
  仮にaに胃潰瘍が発症しており,これに対するザンタックの投与が必要であっ
たとしても,ザンタックの添付文書には,「症状により適宜増減する」,「腎障害
のある患者や高齢者に対しては慎重に投与すること」との記載がある。aは72歳
の高齢者であり,バンコマイシンの副作用による腎障害が発生し,中枢神経症状も
あったのであるから,ザンタックを投与するにあたっては,新たにクレアチニン・
クリアランスを測定したうえ,適宜減量して投与すべきであった。ところが,被告
戊は,クレアチニン・クリアランスの測定を怠り,漫然と1日300ミリグラムと
いう過量投与をしたため,aのMRSA感染症を増悪させ,敗血症,DIC,多臓
器不全を起こさせて,aを死亡させた。
  したがって,被告戊には,ザンタックの投与について過失がある。
イ 被告らの主張
  H2ブロッカーが一般的な感染症を増悪させるという医学的知見は存在しな
い。ザンタックの投与とMRSA感染症の増悪(ないし敗血症,DIC,多臓器不
全)には何らの関係もない。
  aには泌尿器科入院後,近医から胃の粘膜保護剤セルベックスが処方され,継
続して内服していたにもかかわらず,貧血が徐々に進行していた。しかも,一般に
高齢者では胃潰瘍があっても症状が乏しいといわれているにもかかわらず,平成7
年11月27日から29日にかけて頻回の嘔気や嘔吐があった。したがって,aに
胃潰瘍の合併があったことは明らかであり,確定診断することなく漫然とザンタッ
クを投与した事実はない。
  本件の死因は,結節性多発動脈炎の進行による肺胞内出血と多臓器不全であ
り,ザンタックの投与はaの死亡と因果関係がない。また,ザンタック投与の当時
は,貧血の進行状況,血圧の安定,便の目視による状況や潜血反応検査の結果など
から考えて,aは緊急内視鏡検査による止血を要するほどの状態にはなかったか
ら,内視鏡検査義務はない。
  ザンタックの添付文書によれば,胃潰瘍に対する常用量は1日あたり300ミ
リグラムである。当時,aには濃厚赤血球2単位の輸血を要する貧血があり,嘔吐
も繰り返されるという状況にあったから,強力な胃潰瘍の治療が必要とされた。そ
こで,1日あたり300ミリグラムを投与したのであり,これは過量投与ではな
い。
(6) MRSA感染症,バンコマイシンによる腎機能障害とaの死亡との因果関係
ア 原告らの主張
  被告病院の院内感染防止対策の不十分さによりaはMRSAに感染し,ザンタ
ックの不適切な使用によりMRSA感染症が増悪されて敗血症,DIC,多臓器不
全が発生し,これによりaは死亡したのであり,MRSA感染症とaの死亡との間
には因果関係がある。
  バンコマイシンの投与による腎機能障害は多臓器不全に直結するものであるか
ら,腎機能障害とaの死亡との間には因果関係がある。
イ 被告らの主張
  aの死亡の主因は,いわゆる膠原病の1つである結節性多発動脈炎である。多
発性動脈炎というのも,これと同義である。
  結節性多発動脈炎は,MRSA感染症とは関連がない。肺出血の発症時まで細
菌性肺炎像の増悪を認めなかったこと,バンコマイシン投与中には発熱やCRP値
に改善が見られなかったこと,静脈血培養検査ではMRSAを含めて菌は検出され
なかったことから考えて,aにはMRSA肺炎やMRSA敗血症の兆候は認められ
ず,病態の中心はMRSA感染症ではなかった。MRSA感染症はaの死亡の主因
ではなく,MRSA感染とaの死亡との間には因果関係はない。
  平成7年10月30日のバンコマイシン血中濃度は適正濃度よりも高かった
が,腎機能障害が発生するとされる副作用発現危険度よりは低く,バンコマイシン
の投与を中止した11月7日以降も血清クレアチニン値は上昇を続けていた。aの
腎病変は血管炎が主体で,間質性腎炎や薬剤性腎機能障害を疑うに足りる所見がな
かったことも考えれば,aの最終的な腎機能障害は結節性多発動脈炎によるものと
認められる。バンコマイシンによる腎機能障害とaの死亡との間には因果関係はな
い。
(7) ステロイド剤の大量投与を行わなかった被告丁,被告戊の過失
ア 原告らの主張
  仮にaの死亡原因が結節性多発動脈炎であったとしても,これに対する治療と
してはステロイド剤を大量投与するのが原則である。
  aには間質性肺炎が存在し,平成7年10月31日の時点では皮膚症状も存在
し,腎機能障害も見られた。また,ザンタックなどのH2ブロッカーには他の薬剤
に対するアレルギーを獲得しやすくする役割があるので,これまで顕在化していな
かった膠原病を顕在化させ,あるいはミノマイシンアレルギーを生じやすくした可
能性もあった。
  したがって,被告丁,被告戊は,10月31日の時点で結節性多発動脈炎を疑
って,MPO-ANCAの検査を実施したうえで,ステロイド剤の大量投与を行う
べきであった。しかし,そのような検査は12月11日まで行われず,ステロイド
剤の大量投与が行われたのは死亡の6日前の12月8日夜間からであり,遅きに失
した。
イ 被告らの主張
  平成7年当時,結節性多発動脈炎の診断には相当程度の困難が伴い,本件で
も,aが肺出血を起こした12月8日まで結節性多発動脈炎を疑うことはできなか
った。
  したがって,この日までステロイド剤の大量投与を行わなかったことに過失は
ない。
(8) 損害
ア 原告らの主張
  ① 逸失利益 aは死亡時72歳であり,その平均余命は11.66年であっ
たが,自己が創立したf株式会社の会長職にあり,少なくとも80歳まで8年は会
長として就業することが可能であった。死亡時の年収は1455万1500円(報
酬1116万円,厚生年金339万1500円)であり,扶養家族は原告乙のみで
あったから,生活費控除を35パーセントとして逸失利益を計算すると(8年のラ
イプニッツ係数は6.4632),6113万2015円となる。これを,原告乙
が2分の1,原告甲と原告丙が4分の1ずつ相続した。
  ② 慰謝料 本件が高度の医療水準を有すべき国立病院における重大な過失に
よって引き起こされたことなどを考慮すると,慰謝料はa本人について3000万
円,原告乙について1000万円,原告甲と原告丙について500万円ずつが相当
である。a本人の慰謝料は,原告乙が2分の1,原告甲と原告丙が4分の1ずつ相
続した。
  したがって,原告乙は5556万6007円,原告甲と原告丙は2778万3
003円ずつの損害賠償請求権を有するが,その一部として,原告乙は4000万
円,原告甲と原告丙は2000万円ずつを請求する。
イ 被告らの主張
  aが罹患していた特発性間質性肺炎の予後は,受診からの3年生存率が48パ
ーセント,5年生存率が36パーセントであり,50パーセント生存期間は受診か
ら32.8か月,平均生存期間は受診から49.8か月である。したがって,aの
呼吸器内科初診の平成4年7月を起点として平均生存期間を生きたと考えても,平
成7年12月時点での就業可能見込期間は1年以内とすべきである。
また,遺族年金の給付との関係で,厚生年金額そのものが損害として認められるべ
きではないし,aは自己が経営する会社から収入を得ていたにすぎないから,会長
としての報酬全額が逸失利益として認められることがあってはならない。
第3 争点に対する判断
1 争点(1)(CRP値が高値のまま手術を施行した被告丁の過失)について
(1) 前記の前提となる事実のほか,証拠(甲4の2,4の7,7,8,乙6~9,
19,20,34,50,被告丁本人)によれば,以下の事実が認められる。
ア 前立腺肥大症は,内腺部分に線維性の増殖が多発して結節が形成されることに
よって発症し,結節の増大に従って症状は進行性に変化する。通常,病期は3期に
分けられる。
  ① 第1病期(刺激症状期) 結節による膀胱頸部や尿道への刺激のための尿
意頻数や,膀胱部又は会陰部の不快感や圧迫感が起こる。特に夜間の尿意頻数が起
こり,排尿困難も軽度に起きる。
  ② 第2病期(残尿発生期) 排尿障害が次第に高度となり,排尿時に努責を
必要とするようになる。排尿困難に伴い膀胱利尿筋の肥大が認められる。さらに高
度になると,腹圧を強く加えて排尿するようになる。これらによっても膀胱内の尿
を全部排泄できなくなると,排尿後に尿が膀胱内に残留するようになる(残尿)。
残尿量が少ないうちは自覚はないが,次第に増加してくると残尿感,1回の排尿量
の減少などの症状が出現する。第2病期は膀胱拡張が起こらないので,残尿量は1
50ミリリットル以内である。この時期には過度の飲酒や長時間の座業,会陰部の
刺激,冷えなどによって,急性完全尿閉が起こるようになる。また,充血や炎症が
加わり,血尿や難治性感染(複雑性尿路感染)が起こることがある。
  ③ 第3病期(膀胱拡張を伴う慢性尿閉期) 症状がさらに悪化し,残尿量が
増すと膀胱の過伸展状態となり,膀胱利尿筋は萎縮し,膀胱が拡張する。したがっ
て,膀胱容量は増大するが,残尿量は数百ミリリットルとなり,1回の排尿量は少
なくなって排尿の効率は低下する(慢性尿閉)。さらに進行すると,膀胱は収縮力
を失い,貯溜する尿のため少量の尿を絶えず失禁するようになる。この時期には膀
胱尿管逆流が起こり,上部尿路の拡張を伴い腎機能が低下して,尿毒症に移行す
る。
イ 前立腺肥大症の治療方法は,大きく臨床病期によって分けられる。残尿もなく
軽度の排尿困難が出現する第1病期の患者に対しては,保存的薬物療法がまず行わ
れる。また,結節縮小効果をもつアンチアンドロゲン剤が登場したことにより,第
2病期の一部にまで保存的薬物療法の適応の拡大が可能になっている。
  第2病期以上の患者で薬物療法も奏効せず,残尿がいつも50ないし100ミ
リリットル以上あるもの,又は尿閉を繰り返すもの,さらに尿路感染症が持続する
ものなどは,手術療法の適応となる。手術療法には肥大結節を内視鏡下に切除する
経尿道的前立腺切除術と,皮膚切開して腫大した肥大結節を摘出する開放性手術が
あり,現在では前者が外科的治療の主流となっている。術式の選択は,術者の技
術,摘除すべき前立腺の肥大結節の大きさ,全身状態や年齢などを見ながら決定す
る。手術における危険因子は,年齢が80歳以上,前立腺の大きさが45グラム以
上,手術時間が90分以上,術前に残尿があった場合などである。
   ウ 間質性肺炎は,肺胞壁や細気管支,細動静脈周囲など間質の病変を主座
とする疾患であり,病因としては,各種薬剤,放射線照射,ウイルス感染,細菌感
染,無機塵・有機塵などの吸入,各種スプレーのエアロゾル吸入,膠原病などがあ
る。原因不明なものを,特発性間質性肺炎という。特発性間質性肺炎の症状は,息
切れと乾性咳嗽が特徴的で,喀痰も認める。間質の炎症により隔壁の肥厚や結合織
の増加を来たし,肺を縮小させて低酸素血症を伴う換気障害や拡散障害を起こし,
次第に呼吸不全に至る。
エ CRP(C反応性タンパク)は,細菌感染症,膠原病,心筋梗塞,悪性腫瘍,
外科手術後,分娩後など,急性炎症や組織崩壊があるときに血中に増量するタンパ
ク質である。正常でも微量のCRPは存在するが(0.1ミリグラム/デシリット
ル程度),炎症や組織破壊性の病変が発生すると12時間以内に急激に増加するこ
とから,炎症マーカーとして最も頻用されている。
  CRPが陽性というだけで特定の疾患を診断することはできず,ある病的状
態,すなわち感染,炎症,組織崩壊などが示唆されるだけである。細菌感染症では
陽性率が高く,その程度も強いが,ウイルス感染症や真菌感染症では一般に陽性率
が低く,陽性の程度も弱い。膠原病ではリウマチ熱,慢性関節リウマチ,血管炎で
陽性率が高く,多発性動脈炎では中等度の陽性を示す。発熱疾患では一般に高熱に
なるほど陽性率が高く,38度以上では70ないし80パーセントが陽性を示す。
そのほか,外傷,外科手術など組織崩壊の程度に応じて陽性度は強まる。
  感染症であるかどうかを推定する検査には,CRP値のほか,末梢血の白血球
数,その細胞学的分類と,血沈(赤血球沈降速度)がある。これらの4項目の検査
はおのおの独立した性格をもち,非特異的であるが,感染症では同時に病的所見を
示す頻度が高い。感染症では白血球数とその分類の変化が明らかな現象として見ら
れることが多いから,白血球の検査は必須である。
  CRP値は末梢血の白血球数と相関するが,白血球数はCRPと同時あるいは
それより早く増加し,CRPの陰性化より早く正常に復する。また,血沈との相関
もよく知られており,CRPより遅れて血沈は亢進し,CRPの陰性化より遅れて
血沈は正常化する。
オ aには,昭和58年ころから排尿困難があった。aが排尿障害などを主訴とし
て平成3年3月7日に被告病院の泌尿器科を受診した際,尿流量測定検査では,最
大尿流量率が毎秒8.3ミリリットルであった。3月20日に排尿痛は軽快し,4
月25日ころまでに排尿障害の自覚症状はなくなってきたが,頻尿は続いており,
経過観察が必要とされた。5月23日には時々頻尿になるが通常は具合がよいとい
う状態になり,9月5日には自覚的には排尿障害は問題がない状態になり,以後,
排尿障害の自覚症状がない状態で推移した。
  aは,平成4年11月25日に軽度の前立腺肥大症と診断された。この時の前
立腺の大きさは超音波計測で19グラムであり,最大尿流量率が毎秒9.7ミリリ
ットル,残尿は10ミリリットルであった。11月17日と26日には入院してい
た呼吸器内科で気管支鏡検査を受けていたが,12月1日に採取した血液のCRP
値が3.59ミリグラム/デシリットルと高値を示したので,泌尿器科の担当医師
は,CRP値の上昇は呼吸器疾患が原因ではないかと疑った。
  aは,呼吸器内科で上気道炎治療薬ダン・リッチの投与を受けてから2日後の
平成7年4月15日に尿閉状態となり,泌尿器科を救急受診して導尿処置を受け
た。この時の残尿量は500ミリリットルであった。4月16日に泌尿器科を受診
した時にも再度尿閉があり,導尿を受けた。この時の残尿量は600ミリリットル
であった。4月17日にも排尿障害があり,導尿を受けた。この時の残尿量は54
0ミリリットルであり,前立腺は超音波計測で40グラムであった。4月24日に
は排尿障害治療薬ハルナールにより排尿状態は改善し,ほぼ元どおりとなった。5
月1日は排尿障害はなかったが,最大尿流量率は毎秒12.4ミリリットル,残尿
量は60ミリリットルであり,前立腺は超音波計測で35グラムであった。5月1
5日以降は排尿が良好
で,ハルナールの投与を受けて経過した。7月10日には全体的に状況が良好なの
で,ハルナール投与を一時中止し,2週間後に症状を確認することとなった。7月
24日,薬を投与しなくても排尿の調子は良好であった。8月21日の検査では,
最大尿流量率が毎秒10.5ミリリットル,残尿量は74.6ミリリットルで,前
立腺は超音波計測で39グラムであった。手術のため泌尿器科に入院した9月12
日の残尿量は少量であった。
   カ aがこの泌尿器科への入院以前に受けた泌尿器科的検査は,尿流量測定
検査,残尿測定,超音波検査のみである。通常,残尿測定は,尿道から管を挿入す
るなどの逆行性操作により行われるが,被告病院ではこれも超音波検査で行ってい
た。したがって,本件手術のための入院以前には逆行性操作は実施されていない。
平成7年9月12日の入院日には,逆行性操作を伴う逆行性尿道造影が行われた。
   キ aのCRP値は,手術前日の平成7年9月13日には9.92(単位ミ
リグラム/デシリットル)と高値を示していたが,その直近に測定された前月8月
21日のCRP値は1.19であった。
     なお,それ以前のaのCRP値は,平成4年7月8日が2.31,7月
13日が1.67,10月1日が1.57,11月16日が0.22,11月26
日が0.55,12月1日が3.59,平成5年1月14日が0.61,3月11
日が0.19,5月6日が0.25,11月18日が0.66,平成6年8月4日
が0.40,平成7年8月17日が0.70であった。
(2) この認定事実によれば,aの前立腺肥大症は,平成7年に至って薬剤投与によ
る急性の完全尿閉状態が生じ,排尿障害改善薬によって排尿状態が改善した後も,
最大尿流量率が毎秒12.4ないし10.5ミリリットルと低値であり,排尿後に
60ないし75ミリリットルの残尿があったというのであるから,残尿発生期であ
る第2病期にあったということができる。
  第2病期以上の前立腺肥大症の患者に対しては,薬物療法も奏効せず,残尿が
いつも50ないし100ミリリットル以上あるもの,又は尿閉を繰り返すものなど
に手術適応がある。aは平成7年4月に薬剤投与によるものとはいえ実際に急性の
尿閉を引き起こし,3日連続して導尿処置を受けていたのであり,その後,薬物療
法によって排尿状態は改善したが,残尿量が60ないし75ミリリットルある状態
が続いていたのであるから,これに該当するというべきである。また,前立腺肥大
症は,結節の増大に従って確実に進行する疾病である。aは昭和58年ころから排
尿困難があって,平成4年11月には前立腺肥大症と診断され,前立腺も平成4年
11月に19グラムであったものが,平成7年4月には40グラムに増大している
のであり,aの前立
腺肥大症は確実に進行していたということができる。したがって,これに対する手
術の必要性を否定することはできない。
  他方,前立腺肥大症に対する手術における危険因子は,年齢が80歳以上,前
立腺の大きさが45グラム以上,手術時間が90分以上,術前に残尿があった場合
などである。本件手術は鼠径ヘルニアの根治術を含めて手術時間が2時間15分か
かってはいるが,aの年齢は72歳で,術前の前立腺の大きさは39グラムであ
り,手術直前の残尿量も少量であったことからすると,本件手術を行うについて危
険因子は乏しかったといえる。
  以上の事情からすると,本件手術を施行するにあたってaに手術適応がなかっ
たということはできず,被告丁が本件手術の施行につき医師としての裁量を逸脱し
たものと認めることはできない。
(3) 原告らは,本件手術前日のaのCRP値は9.92ミリグラム/デシリットル
と高い値になっており,これは泌尿器科的な処置や検査による一時的な感染による
ものであったから,この感染の鎮静化を待って手術を施行すべきであったと主張す
る。
  aに対しては,本件手術前々日の平成7年9月12日に,逆行性操作を伴う逆
行性尿道造影が行われているが,その直前のCRP値自体は不明である。感染症が
生じているかの指標としてはCRP値のほか,末梢血の白血球数,その細胞学的分
類と血沈があり,感染症では同時に病的所見を示す頻度が高く,特に白血球数とそ
の分類の変化が明らかな現象として見られることが多いが,本件手術前日のaの白
血球数は9200/マイクロリットルであり,やや多いという程度で感染症を疑う
までの数値ではない。他方,白血球尿,細菌尿などの尿路感染の所見は認められて
いない。これらを総合すると,当時,aに泌尿器科的な処置や検査による一時的な
感染が生じていたものとは認めることができない。
  また,原告らは,aは以前入院した時にも軽い検査の侵襲でCRP値が上昇
し,今回も入院後の検査の後にCRP値が上昇しているのであり,身体に軽い侵襲
があっても炎症反応を起こす特性を有していたから,手術という重い侵襲をこの時
に与えるべきではなかったと主張する。
  aは平成4年11月17日と26日に気管支鏡検査を受け,12月1日にCR
P値が3.59となっている。しかし,CRP値は炎症などが発生すると12時間
以内に急激に上昇するものであり,11月26日のCRP値が0.55であったこ
とも考慮すると,12月1日のCRP値の上昇が気管支鏡検査の侵襲によるものと
いうことはできない。今回の本件手術前日のCRP値の上昇も,前述のとおり,そ
の前日の逆行性尿道造影検査によるものとは認められないのであり,原告らが指摘
する検査の実施とCRP値の上昇という事実をとらえて,aが身体に軽い侵襲があ
っても炎症反応を起こす特性を有していたものと認めることはできない。
(4) さらに,原告らは,aの持病である間質性肺炎は膠原病性の可能性もあったか
ら,aにとって手術は大きな危険因子であったと主張する。
  しかし,間質性肺炎一般について手術の施行が危険であることを認めるべき証
拠はなく,また,現実にも呼吸器内科初診時の平成4年7月以降,胸部エックス線
検査ではaの間質性肺炎像に著変は認められなかったから,間質性肺炎に罹患して
いることが手術適応を否定する要因であるとは認められない。また,間質性肺炎の
病因としては,いわゆる膠原病のほかにも,各種薬剤,放射線照射,ウイルス感
染,細菌感染,無機塵・有機塵などの吸入,各種スプレーのエアロゾル吸入などが
あり,膠原病は病因の1つであるにすぎない。aは平成4年11月に特発性間質性
肺炎と診断されたが,その後本件手術に至るまで,膠原病性の間質性肺炎であるこ
とを疑うべき事情があったと認めるべき証拠もないから,そのことまで想定して手
術を避けるべきであっ
たということはできない。
  原告らは,手術を行えば抗生物質が投与されて,MRSAが発生する危険性が
あったとも主張するが,抽象的なMRSA感染の危険を理由として手術適応を否定
するというのであれば,すべての手術適応を否定することにもなりかねない。MR
SA感染症については,院内感染の予防と感染症患者に対する適切な対応という観
点で議論されるべきものである。
  以上によれば,被告丁が本件手術を施行したことについて過失があったものと
は認めることができない。
2 争点(2)(手術前に抗生物質を予防的に投与しなかった被告丁の過失)について
(1) 証拠(甲12の5の1・2,12の6,証人g)によれば,次の事実が認めら
れる。
ア 平成6年版の「今日の治療指針」(医学書院発行)には,次のような記載があ
る。
  清潔手術や準清潔手術に対して抗生物質を外科的予防的に投与する場合には,
短期間,それも術前に投与するのが最も望ましい。実験動物による実証やヒトから
のデータにより,第一世代セフェム系の抗生物質を術前1時間から30分に投与す
るのが最もよい結果が得られるとされている。この方法により,組織中の抗生物質
が手術中に高くなる。長時間の手術あるいは出血量が多く抗生物質の血中濃度が低
下する場合には,投与を追加する。術後の長期間投与は,耐性菌ことにMRSAの
感染を促すので,行うべきではない。
  ここにいう清潔手術とは,心臓外科手術(弁置換,コロナリー,バイパス),
血管外科手術(大血管手術),脳外科手術(開頭術),整形外科手術(関節置換)で
あり,準清潔手術とは,頭頸部手術(粘膜を切開する手術),消化器手術,胆道系
手術(胆石による胆のう炎,胆管炎),大腸手術,腹式子宮摘出である。
イ オーストラリアでは,1977年末にオーストラリア治療ガイドライン委員会
による「抗生物質治療ガイドライン」が出版され,医学生やインターンに対する教
材として非常にポピュラーなものになり,また,病院内での処方監査を行う際の基
準治療法となった。このガイドラインによれば,予防投与のタイミングは,抗生物
質が手術開始1時間以内に投与されていれば適切とされ,予防投与の投与期間は,
移植手術以外では手術後24時間以内,移植手術では手術後48時間以内がそれぞ
れ適切とされる。
  この「抗生物質治療ガイドライン」については,平成11年2月10日に日本
語訳の初版が発行された。
ウ 抗生物質の術前投与をするということは,国内のかなりの病院では実施されて
いない。
(2) 原告らは,手術前に抗生物質を投与するのが世界的な標準的治療方法であり,
日本においても平成6年以降は常識であったと主張し,g証人はこれに沿う供述を
する(甲11の意見も同じ)。
  しかし,(1)の認定事実によれば,平成6年版の「今日の治療指針」において
も,本件手術のような泌尿器科の手術について抗生物質を外科的予防的に投与する
という記載はなく,また,抗生物質の術前予防投与について記載したオーストラリ
ア治療ガイドライン委員会の「抗生物質治療ガイドライン」も,平成7年当時には
まだ日本語訳もなかった。そのほか日本国内において,本件手術当時,泌尿器科の
手術も含めて一般的に手術前に抗生物質を予防的に投与することが必要であるとい
う医学的知見があったことを認めるべき証拠はない。抗生物質の術前投与が国内の
かなりの病院では実施されていないことも考慮すると,原告らの主張は直ちに採用
することはできない。
    また,原告らは,aには手術よりも侵襲度の小さい泌尿器科的措置や検査
によって相当な感染が生じた可能性が高く,抗生物質の投与の必要性があったと主
張する。しかし,前記1の(3)のとおり,泌尿器科的措置や検査によってaに相当な
感染が生じていたとは認められない。
  したがって,本件手術前に抗生物質を予防的に投与しなかったことについて,
被告丁に過失があったものとは認めることができない。
3 争点(3)(院内感染防止対策についての被告国の過失)について
(1) 証拠(乙16,24~27,29,30)と弁論の全趣旨によれば,以下の事
実が認められる。
ア MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)は,1981年以降の第三世代セ
フェム系の抗生物質の使用により急増した多薬耐性菌であり,難治性の院内感染菌
として知られている。
  黄色ブドウ球菌は,ヒトの鼻腔,咽頭,皮膚,消化管,耳孔などに常在菌とし
て定着しており,また,生活環境にも広く分布している。健康人にとっては危険性
がほとんどなく無害であるのが特徴であるが,感染に対して抵抗性の低い易感染患
者にとっては大きな危険性を有し,病院内では,医療関係者を含めてすべての人が
保菌者,感染源になる可能性がある。入院患者のMRSA保菌者(鼻腔あるいは咽
頭)は,2パーセントないし20パーセントといわれている。
イ MRSAの感染経路は,大きく分けて,易感染者が保菌し,その後基礎疾患や
医原性の要因によって宿主の感染防御能の低下や正常細菌叢の乱れが生じ,保菌部
位の拡大や感染症を発生する自己感染(内因性感染)経路と,MRSAを保菌する
患者や医療関係者が菌供給源となり,同じ病院内で新たな感染症例が生み出される
交差感染(外因性感染)経路とに分けられる。MRSAは,直接感染(接触感染,
飛沫感染),間接感染(空気感染,飲食物を介しての感染,水系感染,介達感染,
手指による感染,昆虫による感染)のいずれの様式によっても伝播していく。
  MRSAはほとんどの消毒薬に感受性であるので,消毒をきちんと行うことが
重要な感染対策となる。院内感染の防止対策としては,一般的には,感染予防とし
て,院内感染対策委員会の設置,施設や医療器具の清掃・消毒などの管理,手指の
消毒など医療関係者の感染予防対策の励行,免疫不全患者やカテーテル留置,気管
内挿管例などに対する医療行為への細心の注意,抗菌薬の適正使用などが行われ,
拡散防止として,感染症発症の早期診断,患者の隔離,入退室者の管理(防塵マッ
ト・ガウン使用,手指消毒,入室制限),病室や器具の管理(清掃・消毒,汚染物
処理,専用器具使用)などが行われている。
ウ 被告病院では,平成7年当時,院内感染予防委員会を設置し,「院内感染予防
対策の手引き」を作成して,MRSA感染症に対する感染対策を行っていた。その
具体的な内容は,次のとおりである。
  ① MRSA感染症の患者を見つけたら,これを関係者に周知し,他の患者へ
の伝播と院内の汚染の防止策を講じる。
  ② 包帯交換,気道吸引の処置時にはディスポーザブルの手袋を着用し,膿,
痰,尿など感染部位からの排泄物の取扱いに注意する。
  ③ 病棟回診時は,MRSA感染症患者の処置を他の患者の回診を済ませた後
の一番最後に行い,処置後は厳重な手洗いをする。
  ④ MRSAは感染症患者のほか,医療関係者や長期入院患者の鼻腔に常在
し,これが感染源となっていることも多いので,MRSA感染症の多発する施設で
は,医療関係者の鼻腔スワップによる細菌培養検査を施行し,キャリアをチェック
する。
  ⑤ MRSAに汚染されたと思われる麻酔器,人工呼吸器などは,必要があれ
ばホルマリンガス消毒をする。
  ⑥ MRSA感染症患者に麻酔器,人工呼吸器などを使用する場合には,感染
防止用フィルターを必ず装着して使用する。
  ⑦ 排菌者以外の院内菌源として,膿,尿,血液などの臨床検体置場,処置室
や汚物処理室の手洗いの蛇口,手拭きタオル,流し台,患者浴室のほか,人工呼吸
器の蛇管,加湿器,ネブライザーから耐性菌が検出されることがあるので,注意す
る。
エ 被告病院の泌尿器科には,平成7年10月3日に採取した尿から少量のMRS
Aが検出された別の入院患者1名がいたが,そのほかには,被告病院において平成
7年10月ころMRSA感染症が流行していたという事実はない。
(2) 原告らは,aのMRSA感染症は被告病院における院内感染によるものである
と主張する。
aは,泌尿器科入院から24日後の平成7年10月6日に採取した喀痰の培養から
MRSAが僅少量検出され,その後,10月12日に採取した喀痰の培養からはM
RSAが多量検出された。10月23日には初めて咽頭粘液や鼻腔粘液の培養も行
われ,そこからもMRSAが検出されている。これらのMRSAの検出は被告病院
への入院後に検出されているのであり,(1)の認定事実によれば,MRSAの感染経
路にはMRSAを保菌する患者や医療関係者が菌供給源となり,同じ病院内で新た
な感染症例が生み出される交差感染経路もあって,平成7年10月には泌尿器科に
MRSAに感染した別の入院患者が1人いたというのであるから,aが院内感染に
よりMRSAに感染した可能性を否定することはできない。
しかし,黄色ブドウ球菌はヒトの鼻腔,咽頭などに常在菌として定着していて,生
活環境にも広く分布しているのであり,MRSAの感染経路については,易感染者
が保菌し,その後に感染防御能の低下や正常細菌叢の乱れが生じて感染症を発生す
る自己感染経路も存在する。平成7年10月23日より前には咽頭粘液や鼻腔粘液
の培養検査は実施されていないから,aが入院以前から咽頭や鼻腔にもともとMR
SAを保菌していた可能性もまた否定できないところである。
  被告病院では,MRSAに感染した患者の存在が判明すると,他の患者への伝
播を防止するための種々の措置を講じており,実際にも,aからMRSAが検出さ
れたときには,aについてはうがい管理と検査時マスク着用,さらには個室管理と
され,医療関係者は手洗い励行,マスク,ガウン着用とする措置が講じられた。医
療関係者についてもMRSAキャリアのチェックが行われること,当時,被告病院
においてMRSA感染症が流行していたという事実がないことも考慮すると,aが
被告病院においてMRSAに院内感染したものとは認定することができない。
したがって,aがMRSAに院内感染したことを前提として院内感染防止対策につ
いての過失をいう原告らの主張は,採用することができない。
4 争点(4)(バンコマイシン投与に関する被告丁の過失)について
(1) 証拠(甲4の5,乙3,9,62)によれば,以下の事実が認められる。
ア バンコマイシン(塩酸バンコマイシン)は,点滴静注用のグリコペプチド系抗
生物質製剤であり,メチシリン・セフェム耐性の黄色ブドウ球菌のうち本剤感性菌
による感染症(敗血症,感染性心内膜炎,骨髄炎,関節炎,熱傷・手術創等の表在
性二次感染,肺炎,肺化膿症,膿胸,腹膜炎,髄膜炎)に効能・効果がある。通
常,成人には塩酸バンコマイシンとして1日2グラム(力価)を,1回0.5グラ
ムで6時間ごと又は1回1グラムで12時間ごとに分割して,それぞれ60分以上
かけて点滴静注するが,年齢,体重,症状により適宜増減する。
イ 塩酸バンコマイシンの添付文書には,「使用上の注意」として次のような記載
がある。
  ① 一般的注意 本剤はメチシリン・セフェム耐性の黄色ブドウ球菌感染症に
対してのみ有用性が認められている(ただし,ブドウ球菌性腸炎に対しては非経口
的に投与しても有用性は認められない)。急速なワンショット静注又は短時間での
点滴静注を行うと,ヒスタミンが遊離されてレッド・ネック症候群,血圧低下等の
副作用が発現することがあるので,60分以上かけて点滴静注すること。投与期間
中は血液濃度をモニタリングすることが望ましい。
  ② 禁忌(次の患者には投与しないこと)本剤の成分によるショックの既往歴
のある患者
  ③ 原則禁忌(次の患者には投与しないことが望ましいが,やむを得ず投与す
る必要がある場合には慎重に投与すること)本剤の成分又はペプチド系抗生物質,
アミノ糖系抗生物質に対し過敏症の既往歴のある患者,ペプチド系抗生物質,アミ
ノ糖系抗生物質による難聴又はその他の難聴のある患者
  ④ 慎重投与(次の患者には慎重に投与すること)腎障害のある患者(排泄が
遅延し蓄積するため,血中濃度をモニタリングするなど慎重に投与すること),肝
障害のある患者,高齢者,未熟児,新生児
  ⑤ 高齢者への投与 高齢者は腎機能が低下している場合が多いので,投与前
及び投与中に腎機能検査を行い,腎機能低下の程度により減量するなど慎重に投与
すること。
  このほか,添付文書には,「その他の注意事項」として次のような記載があ
る。
  ① 血中濃度モニタリング 有効性を確保し,かつ,副作用の発現を避けるた
め,長期間投与中の患者,未熟児,新生児及び乳児,高齢者,腎機能障害又は難聴
のある患者,腎障害,聴覚障害を起こす可能性のある薬剤を併用中の患者等につい
ては,血中濃度をモニタリングすることが望ましい。点滴終了1ないし2時間後の
血中濃度は25ないし40(単位マイクログラム/ミリリットル),最低血中濃度
は10を超えないことが望ましい。点滴終了1ないし2時間後の血中濃度が60な
いし80以上,最低血中濃度が30以上が継続すると,聴覚障害,腎障害等の副作
用が発現する可能性があると報告されている。
  ② 腎機能障害患者への投与法 腎機能障害患者では健常者より血中濃度の半
減期が延長するので,投与量を修正して使用する必要がある。
ウ クレアチニンとは,クレアチンの脱水物であり,生体内では筋肉や脳でクレア
チンリン酸から非可逆的非酵素的脱水反応により生成されたり,クレアチンの脱水
により生成される。このようにして生成されたクレアチニンは血流中に出現し,腎
糸球体から濾過されて,ほとんど再吸収されることなく尿中へ排出される。その尿
中排出量は主として筋肉のクレアチン総量(したがって筋肉量)に比例し,成人で
は体重1キログラムあたりほぼ一定していて,食事性因子や尿量などにはほとんど
影響されない。
  血清クレアチニン濃度は腎糸球体濾過値と相関があって,腎機能障害の指標と
して有用であり,2.5(単位ミリグラム/デシリットル)以上を腎不全としてい
る。基準値は0.7ないし1.2又は1.4である。高齢者では加齢による糸球体
濾過値の低下と筋肉量の減少が相殺しあい,血清クレアチニン値はほぼ変わらな
い。高齢者で長期臥床のため筋肉量減少が著しい場合には,糸球体濾過値が低下し
ているにもかかわらず,血清クレアチニン値がむしろ低値を示すことがあるため,
基準値の範囲内にあっても腎機能低下を必ずしも否定できない。
エ aの血清クレアチニン値は,手術前日の平成7年9月13日から10月23日
にかけては1.1ないし1.2を推移しており,その後,10月26日は1.4,
10月30日は1.6,10月31日には1.7と推移した。
オ aは,少なくとも平成7年10月19日ころまでは,倦怠感があることはあっ
たが,自分でトイレに行くこともあった。
(2) 原告らは,平成7年10月当時,aは72歳という高齢であり,血清クレアチ
ニン値は1.1ないし1.2で潜在的腎機能障害があったうえ,本件手術後には発
熱して,全身の倦怠感が離れず,心身ともに衰弱していたから,aに対するバンコ
マイシンの投与量は4分の1に減量すべきであったと主張する。
    そして,(1)の認定事実によれば,成人にバンコマイシンを1日2グラム投
与することは常用量の範囲内であるが,腎障害のある患者に対しては慎重投与とさ
れ,特に高齢者については腎機能が低下している場合が多いので,投与前と投与中
に腎機能検査を行い,腎機能低下の程度により減量するものとされている。したが
って,高齢者に対してバンコマイシンを投与する場合には,腎機能障害の有無を調
べたうえで,腎機能障害がある場合には減量して投与すべき義務がある。
  しかし,腎機能障害の指標となる血清クレアチニン値の基準値は,0.7ない
し1.2又は1.4である。バンコマイシンを投与するまでのaの血清クレアチニ
ン値は1.1ないし1.2を推移し,平成7年10月26日も1.4と基準値の範
囲内に収まっているから,血清クレアチニン値が1.6となる10月30日まで
は,aに腎機能障害があったという評価をすることはできない。
    なお,g証人は,血清クレアチニン値が1.1ないし1.2であっても,
高齢者の場合には腎機能障害の範囲に入ると供述する。しかし,(1)で認定したよう
に,高齢者でも血清クレアチニン値はほぼ変わらない。高齢者で長期臥床のため筋
肉量減少が著しい場合には,基準値の範囲内にあっても腎機能低下を必ずしも否定
できないが,aは10月30日の時点においても入院から1か月半ほど経過しただ
けであり,10月19日ころまでは少なくとも自分でトイレに行くこともあったの
であるから,長期臥床の状態にあったとはいえない。したがって,g証人の供述は
採用することができない。
    また,バンコマイシンの投与量は症状によっても適宜増減するものとされ
ているが,添付文書には発熱や全身倦怠感がある場合に注意すべき事項は特に記載
されていない。ほかに,発熱や全身倦怠感がある場合にはバンコマイシンの投与量
を減量するという医学的知見を認めるべき証拠もない。
  したがって,平成7年10月16日から30日までバンコマイシンを常用量投
与したことについて,被告丁に過失があったものとは認めることができない。
5 争点(5)(ザンタック投与に関する被告戊の過失)について
(1) 証拠(甲12の8の4,乙4,10,32,37,51,被告戊本人)によれ
ば,以下の事実が認められる。
ア ザンタックは,塩酸ラニチジンの製剤であり,ヒスタミンH2受容体の選択的
拮抗剤である(H2ブロッカー)。胃粘膜壁細胞のヒスタミンH2受容体を遮断し
て,強力な胃酸分泌抑制作用を示す。胃潰瘍,十二指腸潰瘍,吻合部潰瘍等に1日
300ミリグラム投与で,また,胃炎には1日150ミリグラム投与で優れた治療
効果を示す。作用時間が長いので,胃潰瘍,十二指腸潰瘍等に用いる場合には,通
常,成人には,ラニチジンとして1回150ミリグラムを1日2回(朝食後,就寝
前)経口投与し,又は1回300ミリグラムを1日1回(就寝前)経口投与する
が,症状により適宜増減する。
イ ザンタックの添付文書には,「使用上の注意」として次のような記載がある。
  ① 一般的注意 治療にあたっては経過を十分に観察し,病状に応じ治療上必
要最小限の使用にとどめ,本剤で効果が見られない場合には他の療法に切り替える
こと。なお,血液像,肝機能,腎機能等に注意すること。
  ② 禁忌(次の患者には投与しないこと)本剤の成分に対して過敏症の既往歴
のある患者
  ③ 慎重投与(次の患者には慎重に投与すること)腎障害のある患者(血中濃
度が持続するので,投与量を減ずるか投与間隔を空けて使用すること),肝障害の
ある患者(本剤は主として肝臓で代謝されるので,血中濃度が上昇するおそれがあ
る),薬物過敏症の既往歴のある患者,高齢者
  ④ 高齢者への投与 本剤は主として腎臓から排泄されるが,高齢者では腎機
能が低下していることが多いため血中濃度が持続するおそれがあるので,減量する
か投与間隔を延長するなど慎重に投与すること。
  ⑤ 重大な副作用 まれにショック,アナフィラキシー様症状,汎血球減少・
無顆粒球症。類薬で間質性腎炎が現れたとの報告がある。
  ⑥ その他の副作用 ときに発疹等の過敏症,まれに血小板減少・好酸球増
多,黄疸・肝機能障害,便秘・下痢・嘔吐・腹部膨満感・食欲不振,幻覚・うつ状
態・頭痛等の精神神経系の障害,徐脈・房室ブロック,多形紅斑,舌炎,関節痛,
筋肉痛,急性膵炎,男性の乳房腫脹
  このほか,添付文書には,「体内薬物動態」として,腎機能低下患者では血中
濃度半減期が延長し,血中濃度が増大するので,腎機能の低下に応じて,投与量,
投与間隔の調節が必要であるとの記載がある。すなわち,クレアチニン・クリアラ
ンス(Ccr)が毎分70ミリリットルを超える場合の投与法は1回150ミリグ
ラム,1日2回であるが,Ccrが毎分30ミリリットル以上70ミリリットル以
下であれば,投与法は1回75ミリグラム,1日2回とし,Ccrが毎分30ミリ
リットル未満の場合には,投与法は1回75ミリグラム,1日1回として調節する
必要がある。
なお,ザンタックの添付文書には,ザンタックがMRSA感染症をはじめとして,
一般的に感染症を増悪させることについての注意書きは存在しない。
ウ 胃潰瘍の治療にあたり,薬物療法の原則は,潰瘍の発生や増悪に直接関連する
攻撃因子を抑え,さらに防御因子を増強させて治癒を図ることを主眼としている。
このために従来は主として抗コリン薬と制酸薬が使われてきたが,現在では,H2
ブロッカーがその強力な胃酸分泌抑制作用から,潰瘍一般の治療にも第一選択の薬
剤として広く使われるようになった。胃潰瘍で防御因子の低下が著明であっても,
酸がなければ潰瘍の発生はないから,この意味で胃酸分泌の低下している体上部潰
瘍などでもH2ブロッカーが使用され,十分な効果が得られている。最近は胃酸分
泌抑制作用がさらに強いプロトンポンプ阻害薬も登場し,H2ブロッカーでも治療
しがたい難治のものに効果を発揮しているが,長期間の使用には制限がある。
  H2ブロッカー単独で治療した場合,治癒後に投与を打ち切ると容易に再発す
る。再発防止のために,減量して長期に投与する方法,他の薬剤と組み合わせて使
用する方法などが種々検討されている。胃潰瘍は,現在ではまず内科的に治療が可
能であり,外科手術の適応となることはきわめて少ない。
エ H2ブロッカーは,その強力かつ持続的な胃酸分泌抑制作用により,潰瘍の治
癒率を飛躍的に向上させた。しかし,胃酸は本来胃内に存在する生理的物質であ
り,殺菌作用もまた重要な働きの1つである。H2ブロッカーは胃内を低酸環境に
するものであるから,そのために易感染性が問題となる。胃酸分泌抑制作用は胃内
のカンジダ症原因菌を発育し,特に免疫能の低下した症例に対するH2ブロッカー
の投与は,食道カンジダ症を誘発する危険があることが報告されている。なお,H
2ブロッカーを投与すると,一般的に白血球が減少する。
オ 被告戊は,aに対し,平成7年12月1日から9日まではザンタック1錠15
0ミリグラムを朝食後と夕食後に1錠ずつ計300ミリグラム内服投与し,12月
10日と11日については,1日50ミリグラムを点滴静注により投与した。
(2) 原告らは,ザンタックなどのH2ブロッカーには感染症の悪化を招くという副
作用があり,その投与によりaのMRSA感染症が増悪し,敗血症,DIC,多臓
器不全を起こさせてaを死亡させたと主張し,g証人はこれに沿う供述をする(甲
11の意見も同じ)。
  しかし,(1)の認定事実によれば,H2ブロッカーを投与すると白血球が減少す
るということはあっても,ザンタックの添付文書にはMRSA感染症をはじめとし
て一般的に感染症の悪化を招くことについての記載はない。また,H2ブロッカー
と感染症との関係についての報告も,胃酸分泌抑制作用により胃内を低酸環境にす
るため食道カンジダ症を誘発するという特定の感染症についての報告がされている
にすぎない。このほかには,H2ブロッカーが一般的に感染症の悪化を招くという
医学的知見を認めるべき的確な証拠も存在しないから,ザンタックの投与がaのM
RSA感染症を増悪させたものとは認めることができない。
  したがって,仮にザンタックが投与された当時,aのMRSA感染症が増悪し
たことがあったとしても,ザンタックの投与との間には因果関係が認められないか
ら,平成7年12月1日から9日までザンタックを投与したことについて,被告戊
に過失があったものとは認めることができない。
6 争点(7)(ステロイド剤の大量投与を行わなかった被告丁,被告戊の過失)につ
いて
(1) 証拠(甲10,乙40)によれば,次の事実が認められる。
ア 結節性多発動脈炎の初発症状は,他の血管炎症候群に属する疾患と同様に原疾
患特有の症状に乏しく,発熱,体重減少などの全身症状のほか,関節痛,筋肉痛な
どの非特異的な症状が初発であることが多い。
  平成8年に厚生省難治性血管炎調査研究班から提唱された診断基準によれば
(平成9年11月に公表),古典的結節性多発動脈炎では中小動脈を障害されるこ
とにより,主要症候として,発熱,高血圧,急速進行性腎炎,脳出血,心筋梗塞,
胸膜炎,消化管出血,多発単神経炎,皮下結節,多発関節炎を合併し,この主要症
候5項目以上か,主要症候2項目以上と血管造影所見が認められる場合には,古典
的結節性多発動脈炎の疑いがあるものと判定される。顕微鏡的結節性多発動脈炎に
おいては,主要症候として,①急速進行性腎炎と,②肺出血又は間質性肺炎がほぼ
必発で,さらに古典的結節性多発動脈炎に比べて細い血管が障害されるため,③紫
斑,皮下出血などの皮膚症状,消化管出血,多発単神経炎などの合併が見られ,こ
の主要症候の3項目を
満たす例か,主要症候の1項目とMPO-ANCA陽性の例については,顕微鏡的
結節性多発動脈炎の疑いがあるものと判定される。
  この診断基準は,顕微鏡的結節性多発動脈炎の臨床病態が古典的結節性多発動
脈炎とは異なる点が多く,さらにMPO-ANCAの有用性が確立されたことなど
により新たに提唱されたものであり,個々の疾患に対する特徴的な病態が区別され
た。古典的結節性多発動脈炎の肺症状は胸膜炎,皮膚症状は皮下結節のみとなり,
従来の平成2年に提唱された診断基準にあった肺出血・間質性肺炎,紫斑・潰瘍・
壊疽は顕微鏡的結節性多発動脈炎の診断項目に加えられ,また,従来の診断基準に
あった体重減少,筋肉痛・筋力低下は新しい診断基準では除外された。
イ 特発性間質性肺炎に対するステロイド療法には,賛否両論がある。現在では,
このステロイド療法が思ったより奏効しないのみならず,ステロイド剤の副作用や
減量・中断による急性増悪がしばしば死因となることから,むしろ否定的な見解が
多い。
  厚生省の研究班が平成3年に行った535例の実態調査によっても,そのうち
464例の慢性型の特発性間質性肺炎については,4分の1弱にしかステロイド剤
が使用されず,しかも,大量投与療法(パルス療法)は少なく,ステロイド剤の内
服が主であった。
(2) 原告らは,結節性多発動脈炎(顕微鏡的結節性多発動脈炎)に対する治療とし
てはステロイド剤を大量投与するのが原則であり,平成7年10月31日時点で結
節性多発動脈炎を疑ってMPO-ANCAの検査を実施したうえで,ステロイド剤
の大量投与を行うべきであったと主張する。
    aには,死亡時に顕微鏡的結節性多発動脈炎が発症していたことが判明し
ている。平成7年10月31日に呼吸器内科に転科入院した時点では,aには特発
性間質性肺炎が存在し,腎機能障害もあり,また,足に浮腫や発赤,皮疹といった
皮膚症状が生じていた。そうすると,(1)で認定した診断基準によれば,顕微鏡的結
節性多発動脈炎の主要症候がすべて現れていたものということができるから,この
時点で,顕微鏡的結節性多発動脈炎の発症を疑うことができたということになる。
  しかし,この診断基準はaが死亡した平成7年より後に提唱されたものであ
り,この診断基準によって初めて,古典的結節性多発動脈炎と顕微鏡的結節性多発
動脈炎それぞれに特徴的な病態が区別された。それ以前には,古典的結節性多発動
脈炎も顕微鏡的結節性多発動脈炎も区別されずに,結節性多発動脈炎という範疇
で,古典的結節性多発動脈炎の診断基準の主要症候に肺出血・間質性肺炎,紫斑・
潰瘍・壊疽などの症候が加わった診断基準しか存在しなかったのである。そして,
g証人が,MRSAも検出されていたから,aの症状が血管炎症候群なのか薬剤性
の症候群なのか感染症なのかを鑑別することは非常に困難であったと供述している
ことも考慮すると,平成7年10月31日時点で,顕微鏡的結節性多発動脈炎を疑
うことができたものとは
認めることができない。
  なお,原告らは,ザンタックなどのH2ブロッカーが膠原病を顕在化させる可
能性があることも顕微鏡的結節性多発動脈炎を疑うべき根拠としているが,平成7
年10月31日の時点ではまだザンタックは投与されていない。
  また,特発性間質性肺炎に対してステロイド療法を行うことについては賛否両
論があり,むしろ否定的な見解も多く,実態調査によっても多くは使用されていな
かったというのであるから,顕微鏡的結節性多発動脈炎を疑うことができず,特発
性間質性肺炎と診断されていた状況のもとでは,これに対してステロイド剤の大量
投与をすべき義務はない。
    したがって,結節性多発動脈炎を疑ってステロイド剤の大量投与を行わな
かったことについて,被告丁や被告戊に過失があったものとは認めることができな
い。
第4 結論
以上のとおり,原告らが主張する過失はいずれも認めることができないから,その
ほかの争点について判断するまでもなく,原告らの請求は理由がない。
   東京地方裁判所民事第35部
         裁判長裁判官     片   山   良   広
            裁判官     大   垣   貴   靖
            裁判官     岡   田   紀   彦

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