弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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         主    文
     本件控訴を棄却する。
     控訴費用は、控訴人の負担とする。
         事    実
 控訴代理人は、「原判決はこれを取消す。被控訴人等の請求は、いずれもこれを
棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人等の負担とする。」との判決を求
め、被控訴代理人は、控訴棄却を求めた。当事者双方の事実上及び法律上の主張並
びに証拠の関係は、次に掲げるもののほか、原判決の事実摘示と同一(ただし、原
判決九枚目裏一行目の「(一一条)」とあるのは、「(一一号)」の誤りであるか
ら、訂正する。)であるから、これを引用する。
 第一 控訴人の補充的陳述
 1 原判決の法律上の誤りについて
 原判決は、懲戒権の本質ならびに労使の合意によつて成立した懲戒規定の解釈を
誤つたものであり、到底これを採用することを得ないものである。
 一 原判決は、政治暴力事件としての砂川事件に関し、「使用者が従業員に対
し、解雇その他の懲戒処分を課することは、これによつて企業の規律を維持する必
要があるため、使用者に残された指揮命令権を根拠として是認されると解するとと
もに、労働者と企業との関係はただ労働契約に基づき労働力を提供する地位にある
だけであるから使用者の懲戒権は本来就労に関する規律と関係のない従業員の私生
活上の言動に及び得るものではない。」とし、更に「もつとも従業員は、労働契約
関係に伴う信義則の要請により私生活上においても企業の信用を損い、また利益を
害するような言動を慎しむべき忠実義務があると解されるから、従業員の私的言動
といえども、それが右のような忠実義務に違反し企業の運営に悪影響を及ぼし、ま
たは及ぼす虞がある場合には、その限りにおいて懲戒権が及び得るであろう。」旨
判示する。
 原判決は、懲戒の本質ならびに労働契約の性格から、「使用者の懲戒権は本来就
労に関する規律と関係のない従業員の私生活上の言動に及び得るものではない」と
いう立場をとるが、原判決を行なつた東京地方裁判所民事第十一部(以下「原裁判
所」という。)は、原判決を行なう以前にも懲戒権の本質に関し、その態度を明ら
かにしているのである。
 すなわち、同部は昭和四二年七月一七日、夜十一時過ぎに他人の居宅の風呂場の
扉を排した上同所から屋内に忍び入り、家人の誰何を受け逃走し、間もなく逮捕さ
れ住居侵入罪として罰金二五〇〇円に処せられた被告を賞罰規定の「不正不義な行
為を犯し、会社の体面を著しく汚した者」に該当するとして懲戒解雇した横浜ゴム
事件において、「使用者の懲戒権は本来就労に関する規律と関係のない従業員の私
生活上の言動にまで及びうるものではない。もつとも従業員は労働契約関係に随伴
する信義則の要請により、私生活上においても、企業の信用を損い、利益を害する
言動を慎しむべき忠実義務があるものと解されるから、従業員の職務外の私的な言
動といえどもそれが企業の運営に悪影響を及ぼし、その利益を害し、または害する
虞がある場合には、その限りにおいて懲戒権が及び得るであろう。しかし、その場
合にも右言動が本来企業の規律から自由な私的生活の領域で生じたものである以
上、これに対する懲戒権には自ら限度があるべきである。それ故、就業規則におけ
る懲戒条項の趣旨についてはさような見地に立つて合理的に解釈すべきである。」
という判決を下している。
 右二つの判決に明らかなように同部は、「労働者と企業との関係は、ただ労働契
約に基づき労働力を提供する地位にあるだけである」とみ、懲戒権について「使用
者の懲戒権は、本来就労に関する規律と関係のない従業員の私生活上の言動にまで
及びうるものではない」といつた所謂「契約説」を採用していることが明らかであ
る。
 (1) まず、契約説を採る原判決の立場は誤りである。何となれば、近代企業
の実態は、原裁判所の考えているように「労働者と企業との関係は、ただ労働契約
に基づき労働力を提供する地位にあるだけである」といつた単純なものでないから
である。
 この意味において、原判決はその基本的立場を誤つたものである。
 いつたい「労働関係」とは何かについては、労働法学上相対立する二つの基本的
立場がある。
 (一) その一つは、これを強者たる使用者と弱者たる労働者とを当事者とする
労働力の個別的取引関係とみるものであつて、労働法学上「契約説の立場」と称せ
られるものが即ちそれである。この立場は、要するに十八世紀の理念した個人主義
的自由対等契約の不対等化を現代のコーレクチヴイズム(集団主義)の理念によつ
て修正し、実質的対等契約を実現することを主眼とするものであつて、その立揚
は、法学上十九世紀後半より本世紀初頭にかけてのいわゆる修正主義の理念と系列
を一にし、別段新しいものではない。いわばこの立場は、今日いみじくも労働法学
の新たなる装いをなしつつあるとはいえ、末だ個人主義法律学の領域を蝉脱し得な
いものであつて、明らかにいまなお市民法的方法論の立場に止るものである。
 しかしてこの立場は、強弱者間の取引関係を基本関係として捉える関係上、労働
関係といえば、必然的に専ら労使間の闘争関係として把握されるか、ないしは原審
判決のいうように、たかだか「従業員は労働契約関係に伴う信義則の要請により…
…忠実義務があると解される」といつた風な妥協的修正理論を附加する以外に途が
ないことになる。
 かような立場からして、「契約説」の学者は、労働法といえばただ憲法二八条の
労働三権によつて武装された労働者と強者たる使用者または使用団体との間におけ
る「労使対抗関係を規整する法」であると定義し(例えば吾妻「労働法概論」二一
八頁)、集団的労働法だけが労働法であるかの如き錯覚に陥ることにもなるのであ
り、延いてはまた労働法上基本関係たる「労働契約」なる概念を否定抹殺して「労
働契約なる概念は、契約の概念としてこれを把握する限りにおいて、労働法上の概
念たり得ず、市民法上の概念たるに止り、従つて、労働法学の研究の対象となるも
のではない」(吾妻、前掲書二八九頁以下、吾妻編「註解労働基準法」一四九頁)
といつたような、まことに世界に類例をみない学説を生み出すことにもなつてくる
のである。この種の学者は、あたかも戦時国際法だけを国際法なりと考える如く、
闘争労働法だけを労働法なりと考えるものであつて、なおこれと並んで「平時の労
働法」即ち「経営的労働法」なる広汎なる分野の別に残されていることを不覚にも
忘れている。
 (二) 然らばこの過誤はどこから出てくるか。それは、「労働者概念」を一元
的に捉えることから出てくる。即ち、労働者といえば直ちにみな憲法二八条にいわ
ゆる「勤労者」に該当するものと考えることから出ている。然らずしてわれわれ
は、これを二元的に捉え、「闘争主体としての労働者即ち憲法二八条の勤労者」と
「経営組織人としての労働者即ち従業員」とを性格的に峻別し、従つてまた労働組
合と経営内従業員団体との両者を全く異質のものとして別個に把握することが必要
である。このことは、わが国においてしかあるべきのみならず、現在世界各国に共
通した普遍的な考え方でなる。
 労働者が就職する場合、その労働者が初めから闘争を目的として雇われていくと
いうようなことは常識的にいつて到底考えられないことである。もしそのような人
間があつたとしたら、それは恐らく異例な異常変質者であろう。労働者として就職
するということは、その職場において生活の本拠を求めるということである。これ
が労働関係の本来の基本的な姿である。
 かかる従業員と経営者との生活の維持発展の場が即ち労働法学上の経営なのであ
る。経営はかくしてこの両者の共通目的によつて結合された一の福祉協同体的組織
体たるものとして把握されねばならない。勿論、この場合労働者は、通常、労働契
約を媒介として経営と接触をもつのであつて、その全人格ないし全生活面をもつて
経営に投入するものではないけれども、その労働関係に関する限り労働者の地位は
単に労働給付の義務を負うに止まらず自己の属する経営組織体たる小社会の組織人
としての義務をも負うべきことはいうを俟たないところである。このことは経営者
についてもまた同様である。もつとも、わが国多数労働法学者は、いずれも経営の
組織性はこれを認めながらも、その独立の組織体たる性格を認める者未だ少なく、
例えば石井教授の如きは、「企業というものは……実定法上では、単に企業財産と
企業取引活動の総合として考えられているだけであつて、労働組合のような統一的
な団体として組織強制が強く行なわれているものとは質的に相違する。使用者と労
働者との関係は法律的にみれば労働契約によつて結合されている対等当事者の関係
であり、この多数の労働契約が集合して一つの企業活動を組織的に展開しているも
のにすぎない」(石井・萩沢「労働法」一一五頁)といつているが、かような考察
は全く市民法的考察の域をいでないものであつて、近時労働法学の発展を無視した
学説というほかはない。
 さらに、企業経営が、石井説の如く単に労働契約の集合の上に立つ一つの組織的
企業活動に止まるものではなく、それ自体一個の独立した組織体として把握さるべ
きことは、なおわが憲法の定立した「民主的・社会的福祉国家」の原理からもでて
くる。
 わが憲法には、西独基本法二〇条一項、二八条一項の如き国家の性格についての
明示定は存在しないが、わが憲法の前文、一二条、一三条、二二条、二五条、二九
条等の規定ならびに憲法の全構造から推して、わが国が西独同様「民主的・社会的
福祉国家」として性格づけられていることは、全く争う余地なきところと考える。
ここに「民主的・社会的福祉国家」とは、およそ国家は「すべての人のものであ
り、またすべての人のためのもの」であることを意味する。この原理よりして、あ
らゆる国家活動あらゆる経済活動またすべての人のものであり、すべての人のため
のものであるべきことが当然に要請せられる。かくしてすべての国民は平等の地位
において国家活動に参画しまた経済活動に参加することが、憲法上基本権として保
障されているものとみなければならぬ。もつとも、労働者の経済参加権については
わが憲法に何ら明示的な規定はないけれども、明文のあるなしに拘わらず、「民主
的・社会的福祉国家」の原理からいつてこれを肯定的に解釈しうることは毫も疑い
ない。現に西独基本法にも、ワイマール憲法一六五条のような労働者の経済参加権
を保障した規定はないけれども、ニツパーダイ、フーバー等の主要学者は民主的、
社会的国家原理に照らし、一様にこれを積極的に解すべしとなし、ワイマール憲法
同様広く労働者の経済参加権を認めている。かようにわが国においても国家の性格
上労働者に経済参加権が憲法上基本権として保証されているとすれば、下部経済組
織としての企業経営においても経常参加権が憲法上労働者の基本権として保障され
ていることは明らかであり、従つて経常なるものは、市民法上の性格如何に拘わら
ず、経済憲法上労働者基本権行使の場として独自の存在を認めらるべきことは当然
であるといわねばならない。石井説のような市民法理論は今日の労働憲法ならびに
労働法の分野においては最早通用しないのである。
 いつたい労働法の指向するところは、労働者に対してただ単に有利な労働条件を
獲得せしめることにのみ存在するものではない。それよりもむしろ経営参加より企
業参加へ、そして一国全経済組織への参加へと押し進め、かくして労働者を被傭者
たる境涯より脱却して経営者と並んで生産者たる地位に高めることが終局的な指標
である。現に現代労働法はこの指標に向つて進んできている。
 一九五一年五月二一日の西ドイツ「鉄鋼・石炭鉱業における共同決定法」、一九
五二年一〇月一一日の同「経営組織法」、一九四五年二月二二日のフランス「工場
委員会令」などは、いずれもこの指向を学んだ顕著な労働制度法であるといい得
る。即ち近代の企業は、物的人的に有機的に組織化された形態において、対外営業
活動と対内的生産活動を営んでおり、経営なるものはその組織活動の実体ならびに
態容からいつて、一面私法的にみても一個の労使協同的組織体として把握すること
ができるし、また他面公法的にはわが経済ないし労働憲法上労働者基本権行使の場
として独立の存在を有するものであること毫も疑いない。
 また例を近時の賃金の性格論にとつてみても、右の労働法の指向に伴い労働者の
経営体組織人たる性格がいよいよ明瞭に浮んできている。
 従来の市民法理論では、賃金は労働給付の対価だと説かれてきたが、この説明は
労働法上もはや通用しない。労働と賃金との対価関係は多くの場合存在しないから
である。今日では、賃金は労働者が経営者と共通目的をもつて協働する福祉協同体
的組織人たることに対する生活保障の概念にまで高まつてきているのである。
 しかも、かかる経営組織体は、労働法上、組織体として独自の存在を有するに止
まらず、同時にまた一の団体人格として権利能力を有するものということができ
る。もつとも従来多くの学者は、経営体の団体人格性や権利主体性の有無の問題を
専ら法人格の有無の問題として取り上げているようであるが、この考え方は既に旧
時代的なものであつて、今日はもはや通用しない。なるほど旧時の市民法において
は、人格や権利主体は自然人と法人に限られ、法人以外の団体に対してはこれを否
定するのが一般の建前であつたが、現在の社会法の下においては、かかる原則は無
惨にも打ち破られて革命的な修正を余儀なくせられているのである。けだし旧来の
人格法なるものは、単なる個人の尊厳性に基づく抽象的個人主義の上に構想された
ものであつて、いわば観念的存在たるにすぎず、今日の如き躍動するコーレクチヴ
イズムの社会を対象とする社会法・労働法の要請とは到底相容れないものがあるの
である。かくて社会法・労働法の部面においては次々と新たなる団体人格が創設さ
れ、市民法上の権利能力とは全然無関係な権利能力概念が生れつつあることを忘れ
てはならない。その適例としてまずいわゆる「協約能力」の主体としての労働組合
を挙げることができる。労働組合は法人格をもたなくとも、協約法上特殊の権利能
力を有し協約上の権利義務の主体となりうるというのが今日の定説である。なお、
次の例証として経営参加権の主体としての経営内従業員団体を挙げることができ
る。かかる団体は、もちろん法人格を具えてはいないけれども、団体そのものとし
てこれを参加法上共同決定権の主体とみるべきだというのが現在ドイツ「経営組織
法」下の有力説である。なお、われわれは、かような各論的な例証をかりるまでも
なく、既にわが労働憲法はその出発点においてはや独自の立場から団体人格の創設
にのりだしていることを注視すべきである。それは、労働三権を賦与することによ
つて労働組合の団体的人格性を創設しているということである。ジンツハイマー
は、団結自由を保障したワイマール憲法一五九条の意義を説明して、「一五九条を
設定した人々は、これによつて個人的権利を創設せんとしたものではなくて組織体
的権利を創設せんとしたものである」といつているが、このことはわが憲法二八条
についてもそのまま妥当することなのであつて、憲法の意図するところは、労働三
権を個人権として個々の労働者に保障するというよりは、むしろ進んで団結(組
合)それ自体に対し組織的権利としてこれを保障せんとするにあるものと解すべき
である。しかもこの場合、かかる組織体的権利の主体性のためには、憲法は当該組
織体たる労働組合の市民法的性格の如何の問題などは毫も眼中においてはいないの
である。つまり労働組合なる組織体を市民法の領域とは全然無関係に取り上げその
独自の立場から労働法上一の団体人格として創設し、これを権利ならびに活動主体
たらしめんとするのが労働憲法の意図するところなのである。
 経営体の団体人格もまたこれと同様なる団体法的観点から考察せられねばならな
い。けだし経営体は、経済的にみて一の公共的な社会活動の主体であるばかりでな
く、わが労働憲法の保障する労働者経営参加権の行使のための法律上の場として重
大なる役割を負わされているものであり、従つてこの意味において、これまた市民
法の領域を超えて労働憲法が独自の立場から創設した団体人格として解されねばな
らない。要するに、市民法上の人格と労働法上の人格とは、その間何らの関連をも
もたないものであつて、この両者は全くその成立の基盤を異にする。多くの学者
が、労働組合については無条伴にその法的主体性を認めながら、経営についてはと
かくこれを否定しがちなのは、全く矛盾した態度といわねばならない。かようにこ
れを専ら市民法的固定観念からのみ考察せんとすることは、もはや許されないので
ある。われわれは、現時の法律学特に労働法学がかくして相ついで新規な団体人格
を創設し、特殊な権利能力を認めつつあることを忘れてはならないと考える。
 但し、ここにいう権利能力は、右の協約能力や経営参加能力と同様に一般市民法
上の権利能力とは何らかかわりもないものであつて、従つてこの主体は、そのため
に法人となるという観念のものではなく、またその部分法人と目すべき性質のもの
でもないというのが現在ドイツの定説である。要するに経営体は、労働法上一の団
体人格として私法上・公法上独立の活動主体たる組織体として把握せらるべきもの
であり、これを構成する労使関係もまたかような観点から考察せらるべく、従つて
懲戒に関する問題もまた市民法的「契約説」の立場をはなれて社会法的・団体法的
「組織説」の立場から解決せらるべきものと信ずる。
 以上を要するに、「平時労働法」の分野のものとして、独立の組織体としての経
営なるものの存在することは、今日何人も否定することができないであろう。従つ
て、「労働者と企業との関係は、ただ労働契約に基づき労働力を提供する地位にあ
るだけである」とする原審判決の態度の、理論的にもまた実際的にも到底支持し得
ないものであることは明らかであり、またこれを起点とする原審判決の爾余の一連
の理論の偏頗不公正のものであろうことも、このことによつて大凡明白である。
 原審判決のかような態度は、労働法的考察方法においてすでにその出発点を誤つ
ているものといわなければならない。
 (2) 第二に、原判決の「信義則の要請から忠実義務を認めて企業に悪影響を
及ぼす場合には懲戒権も及びうるのである」といつた議論も誤りである。
 原判決がこのような立場をとつたのは、懲戒権が就業に関する規律維持のための
みならず、企業の有する「法益」からも発生している現実を無視できなかつたの
で、これを合理的に解決するため双務契約上の「信義則に基づく忠実義務」から企
業に悪影響を及ぼす場合は、懲戒権が発生するといつた議論を持ち出したと考えら
れるのである。しかし、懲戒権は、「個別的労働契約の履行に対する使用者の利益
のためのものだけではなくして、むしろ経営協同体全般にわたる経営的利益を主眼
とするものである。」実際にも、わが国産業界において、経営組織体的利益の保護
を念頭において就業規則や労働協約の懲戒規定に盛り込んでいる。しかるに原判決
がこのような現実を無視して「信義則」というような市民法上の修正の用語を用い
て懲戒の本質を糊塗したことは明らかに誤りである。すなわち、企業経営なるもの
は、労働法上、契約説論者のいうが如き権利客体の集積に止るものではなく、独自
の存在と使命とをもつた一個の福祉協同体的組織体であることが明らかであるとす
れば、これに伴い「経営秩序」の概念および懲戒権の法的根拠ならびに性格に関す
る理論もまたおのずから違つてこざるを得ない。
 (一) ここに「経営秩序」とは、本来右の如き福祉協同体的組織体の固有の秩
序を意味する。強者たる使用者の一方的に設定し作り上げた秩序を意味するもので
はない。原判決は「労働者の就労に関する規律」だけを経営秩序と解しているよう
であるが(判決三三頁)、この考え方は狭きに失する。経営秩序は、「職場秩序」
や「契約秩序」とは全くその性格、範囲を異にする別個の概念である。まず職場秩
序は、職場即ち労働者が職業的安定を得ている有形的な場の秩序であつて、組織的
統合体たる経営の秩序とは全く異る。ヒユツクが、「経営を職場と同義に解するこ
とは狭きに失するばかりでなく、それは、経営が独立の有機体たる本質ともそぐわ
ない」といつていることでもわかるように、経営秩序を職場秩序と同様に解するこ
とは全く誤りである。次にまた「契約秩序」は、労働契約の履行に関する秩序をい
うのであつて、これまた経営秩序と同一のものではない。もつとも労働契約の正常
なる履行ということは、経営秩序の一環をなすものであることは勿論であるが、契
約秩序の主体はあくまでも債権者としての使用者であつて経営体自体ではない。経
営秩序は契約秩序よりも広い概念であり、経営自体を主体とし維持者とする組織体
的秩序である。殊に経営体を経済憲法上労働者の経営ないし企業参加の場として捉
える場合、その場が公法的性格をもつものであることは明らかであるし、その秩序
もまた公の憲法的秩序の一環として考察せらるべきことも当然なことである。ドイ
ツ学者のいうように、「経営の組織や経常組織内における労働者の地位というもの
は、もはや個々の労働者や個々の使用者のみに関する問題ではなくして、むしろわ
れわれの経済組織に関する問題であり、従つてまたわが憲法の形成原理の問題とも
なつているのである」。こうみてくると、経常秩序なるものは、ただ単に労働者の
就労関係に関するものに止まらないのはもとより、また強者たる使用者の専権によ
り設定された私的秩序と解さるべきものでもなくて、むしろわが労働ないし経済憲
法の定立する公的秩序の一環としてこれを把握すべきものであるということもでき
るのであり、従つてまたその侵害は、同時に公益侵害として経営体の公的立場から
厳粛に処理せらるべきであるということにもなつてくるのである。原判決の態度は
まさに市民法的考察の域を出ないものであつて、到底承服することができない。
 かような意味における経営秩序は、労使相互の協力信頼によつてのみ維持される
べきことはいうまでもない。けだし、労使の福祉協同体的組織体としての経営は、
労使相互の誠実と相互信頼とを侯つてはじめてその成立が可能だからである。もつ
とも、原判決においても労働者の忠実義務(註、誠実義務というのが正しい)なる
ものを認めてはいるが、それをただ「労働関係に伴う信義則の要請により」生ずる
ものと説いていることは(判決三三頁)、まことにもつて古々しい考え方である。
この考え方は、あたかも所有権の自由を権利濫用の法理をもつて外部から制限し、
債権の行使や債務の履行を信義則によつて外部から律し来つた旧時の修正主義民法
理論と毫も択ぶところがない。否らずしてこれらの制約は今日では、すべての権利
の「社会的義務の内在性」、「債権関係の協同体性」そのものの中からでてくるも
のとみるのが通説である。労働者や使用者の誠実義務もまた然りであつて、それ
は、信義則というが如き修正の道具をかりるまでもなく、経営的労働関係の協同体
性そのもの、即ち経営の福祉協同体性そのものの中から出てくるものとみるのが現
在ドイツ学者の定説である。
 かくみる場合、誠実義務の内容は著しく拡大され、労働給付に関してだけでな
く、広く経営体の存立発展に対する労使の協力義務の形となつて現われてくる。そ
してそれは、労使それぞれの個人に対する義務ではなくて、経営組織人としての労
使がその帰属する経営体自体に対する義務であるということになる。従つて、労働
者の社外行動が経営秩序を紊したかどうか、またこれによつて誠実義務に違反し経
営体の存立発展をおびやかしたかどうか、ということもすべてかような観点から考
察せられねばならない。ここでは、それが社内行動によるものなりや、社外行動に
よるものなりやといつたようなことは、これを区別すべき何らの理由も存在しな
い。そのいずれなりやが問題なのではなくして、問題は専らその行動の内容および
経営体に対するその影響如何にある。凡そその行動が誠実義務に違反するものであ
る場合には、必然的に労使の信頼関係が失われ、ここに経営体の基幹が崩壊する。
これに対する責任は、社内行動によると否とを問わず当該労働者において負わねば
ならない。このことは、使用者についてもまた同様である。
 これを要するに、原判決は、経営秩序なるものを経営体的組織秩序と解せずし
て、職場ないし契約秩序の意味に解し、従つてまたその侵害は例外の場合を除き専
ら社内行動によつてのみ生ずるものと断じ、懲戒問題をただ労使の契約関係を基本
として考え、経営の組織体的機能の面を全く閑却し去つていることは、許し難い過
誤といわなくてはならない。
 (二) 懲戒権の根拠および性格については、原判決は直接判示するところがな
いが、判決を通観してみてやはり前記契約説の立場に立つていることは毫も疑いな
い。
 わが国の契約説論者は、一様に懲戒権の固有の存在を否定し、懲戒権は労働者の
合意によつて発生し、この合意に基づいてはじめて使用者がこれを行使し得るもの
としている。さきに出された昭和三九、三、二七、日本鋼管川崎製鉄所事件(砂川
仮処分事件)についての東京高裁判決もまた明らかにこの所説によつたものであ
る。しかしこの考え方は、根本的に間違つている。
 イ まずこの考え方は、上記経営組織体の独自の存在を知らず、労働関係をただ
強弱者間の個別的労働取引関係として捉え、懲戒は強者たる使用者が一方的専権に
基づき行使する課罰にすぎないということから出発する。しかしその誤りであるこ
とは縷々前述したとおりであつて重ねてここに再言するの要をみない。
 ロ 次にこの説は、法学上契約罰と秩序罰との区別を知らざるものである。例え
ば、吾妻「解雇」一三、一四頁が「懲戒は、労働契約によつて労働者がこれに服す
ることを、その自由意思によつて容認する場合の外は、これを加うべき法的根拠は
存在せず、またかかる事態の下においては、懲戒は懲戒権の行使というに値せざる
ものと化しているといわなければならない。右の事情を裏面から表現するならば、
懲戒の法的根拠が契約以外に存しないということは、懲戒はその事実上の根拠を、
解雇の市民法的構造、即ち使用者の一方的意思表示による労働契約の終了、という
法原理にのみ求め得ることを意味するものである。」といつていることは、契約罰
と秩序罰との相違を全く無視した暴論であつて到底賛同することができない。エル
トマンも明らかにしているように、この二つのものは法律上全くその性質を異にす
る。即ち契約罰としての懲戒は、労働契約の完全なる履行を担保するために使用者
と個々の労働者との間の特約に基づき、労働契約違反に対する制裁として課せられ
るものであつて、本来の懲戒とは違い純然たる契約法上のものである。これに対し
秩序罰としての制裁は、経営秩序を紊したことに対する制裁として課せられるもの
であつて、経営体に固有する懲戒権に基づき従業員たる労働者に対してのみなら
ず、使用者に対してもまた同様課せられ得る性質のものである。かように秩序罰
は、経営体の存立および安全のための基本秩序の維持を目的とするものであつて、
契約罰とは全くその根拠ならびに効果を異にする。
 吾妻、石井、峰村といつたわが国の学者が、徒らに前世紀的契約原理にのみ膠柱
し、契約罰のみを認め、この顕然たる秩序罰の概念を根本からくつがえし抹殺せん
としていることは、まことに許し難い。
 右の如く懲戒権の法的根拠に関する契約説の立場は、労働法学上到底支持し得な
いものである。然らずしてわれわれは、いわゆる組織法的見地に立ち、経営組織体
に内在する固有の権限としてこれを把握するのが、労働法的に正しい考え方である
と思う。然らば、懲戒は就業規則や労働協約に何らの規定なくしても課し得るや、
これは否定的に解されねばならない。けだし、現行法治主義原理からいつて如何な
る場合に如何なる制裁を課し得るかは一々法的規制に拠らなければならないからで
ある。経営組織体の懲戒権の所在の問題と、その行使の問題とは、混同してはなら
ない別個の問題である。
 懲戒権の根拠を組織法的原理に求める学者は、わが国においても必ずしも少なく
ない。津曲「労働法の基礎理論」三一七頁以下、沼田「職場秩序と懲戒解雇」「労
働法律旬報」二〇五号所収、清水「懲戒権の根拠と懲戒解雇」(菊池教授記念論文
集「労働法と経済法の理論」所収四三七頁以下)、孫田「学説・判例批判、わが国
労働法の問題点」一九二頁以下等を挙げることができる。また、昭和三三、九、一
八、九州電力佐賀支店事件について福岡地裁が「懲戒権は、……組織体としての企
業に内在する準司法的機能として承認せられているものと解すべきである」と判示
していることも注意を要する。また、ドイツにおいても、懲戒の本質を組織法的に
捉える見方が有力であるが、就中ヒユツクが懲戒の本質を捉えて、「経営的秩序罰
は、経営の秩序および安全の確保のためのものである。もつとも経営秩序に順応す
るということは労働義務および服従義務の履行をも意味するから、懲戒には、労働
者に課せられた義務の正常なる履行を確保するということにも関係はあるが、しか
しそれは単に個別的労働契約の履行に対する使用者の利益のためのものだけではな
くて、むしろ経営協同体全般にわたる経営的利益を主眼とするものである。懲戒は
それ故に、経営協同体の自治より流れ出るものとみられる」といつていることは、
労働法上懲戒が個別的労働契約法上のものではなく、組織的分野のものであること
を物語つて余りあるものである。
 これを要するに、懲戒権の根拠はいずれにあるか、またそれが何人によつて行使
せらるべきか更にまたそれがいかなる場合に行使せらるべきかは、すべて経営組織
体を本位とし、その存立発展の見地から考察せらるべきであつて、個人法的立場か
ら処理せらるべき問題ではない。原判決は、いわめる契約説の立場に立ち、経営秩
序を専ら「就業に関する規律」に限定し、懲戒権者を強者たる使用者であると誤認
している結果として、「懲戒権の行使については、自ら限度があるべきであるか
ら、就業規則または労働協約の定める懲戒条項の趣旨についても、さような見地に
立つて合理的に解釈しなければならない。」といつているが(判決三四頁)、この
所述こそ実は合理的な解釈とはいえない。なるほど、労働関係を強弱者間の取引関
係と考え、懲戒権を強者たる使用者の専権と考えるならば、懲戒権行使の合理的制
限ということには意味はあるけれども、然らずして、労使協力体制下における経営
組織体の自主的懲戒に関するものとしては、原判決のこのような説明だけでは如何
とも納得し難い。重ねていう、経営秩序の維持者や懲戒権の主体は経営組織体その
ものであつて、強者たる使用者個人ではなく、懲戒権の行使は、経営組織体自体の
立場から、その存立発展の必要に応じ自由にこれを課し得るものと解されねばなら
ぬ。ここから懲戒に対する経営体の自由裁量の許容の原則が生れてくる。
 もつとも、懲戒権者は経営体そのものであるといつても、現実にこれを行使する
者は経営者であるが、それは現行資本制法秩序上、経営者がたまたまその機関たる
地位において行使しているまでのことであつて、経営専権者としての経営者個人が
行使しているという観念ではない。況してや、現在わが国の経営においては、労働
者側委員を混えた懲戒委員会なるものができており、司法参加制度が広く布かれて
おり、労使協力の下に運営せられていることに想到すれば、この点直ちに理解し得
るところと考える。
 (3) 第三に、原裁判所が、かような立場に立つて、わが国産業界において慣
行として行なわれている懲戒原因としての「体面汚損」に独自の性格と意義づけを
与え、独断的な論理に終始したことも誤りである。
 原判決のこの態度は、次に述べる如く、自活規範としての就業規則、労働協約に
反するばかりか、わが国産業界が企業外の行為に関して企業法益としての会社体面
を保護せんとしている法慣習にも反するものである。
 二 私的自治規範の解釈について
 (一) 国家は企業内における就業規則や労働協約に対し、労使の自治規範とし
て、法規範的効力を付与している。即ち、その立法者は企業という部分社会におけ
る組織人たる労使である。従つて、その立法事項は、それが公序良俗に反しないか
ぎり、企業内において自治的に処理さるべきであつて、国家は濫りに関与してはな
らず、その立法趣旨を曲げて解釈することが許されないことはいうまでもない。
 従つて、企業という部分社会の自治立法である就業規則や、労働協約に私生活上
の言動を懲戒の対象と定めるか否かも、その部分社会が決すべき問題である。そし
て、社会通念は私生活上の言動でもそれが会社法益ないし、労使組織体的法益を侵
害する場合には、これらの言動を懲戒原因として懲戒規定の中に盛り込むことに毫
も抵抗を感じていない。このことは民間企業の就業規則ないし、労働協約中に多く
のこの種懲戒規定が見受けられることによつて明らかである。
 この事実は、また私生活上の言動を懲戒の対象とすることが公序良俗に反するも
のでないことを示すものである。
 いうまでもなく、懲戒規定は、企業体の特殊性にしたがい、それぞれの立場から
その保護しようとする法益を取りあげ、懲戒規定に盛り込んでいるのであるから、
その適用の当否を判断するに当つては、立法者の意図を充分尊重する必要があるこ
とは多言を要しないところである。
 しかるに原判決は、懲戒の本質を誤り解釈したばかりか、企業の自治に委ねられ
た懲戒条項につき「私生活上の言動には懲戒権は及びえない」としたことは国家が
認めた自治の則を自ら破るものであり、かかる態度の許されないことは明白であ
る。
 (1) 労働法はその本質上よりしても、またその発達の過程に徴しても、国家
の一方的干渉手段によつて支持せられ助長せられるべきものではない。それは原則
として、関係当事者ないし団体の自治に放任しその独自の発達に委すべきものであ
る。即ち国家機関の共力は、国家が労働力の庇護者として労働関係につき直接の利
害をもち、これに干渉を加える場合のほかは、濫りに発動すべきではなく、労働関
係の成立・存続・消滅をはじめとして各般の労働事象は、できるだけ労使の処理に
一任し、その自主的解決に委すべきを本則とする。故に労働法上一般原則として労
働事象はまず関係当事者それぞれの自由意思により、第二に当該関係者の自治によ
り、第三に国家機関の補充的共力により処理せらるべきものということができる。
かくして労働法の範囲においても、立法自治、司法自治および行政自治の三原則が
明瞭に現われてくる。組合規約、就業規則、労働協約等の諸立法は、即ちかかる観
点から制定を労使に委された自主立法にほかならないのである。
 これら三者がそれぞれ労働組合や経営体といつた小社会を規律する法規範である
ことは明らかであるが、その法規範性の根拠についてはいろいろな学説がある。
が、現在最も有力な学説は、「立法授権説」なるものである。これはドイツのニツ
パーダイやフーバー諸教授が労働協約の規範的部分の法規範性の根拠につき唱え出
したものであるが、なお、組合規約や就業規則の法規範性の根拠についてもひとし
く妥当する学説であることはいうまでもない。
 即ち、これによれば、労使がそれぞれ国家より立法権を委ねられて自主的立法を
しているというのである。フーバーは協約の場合その締結権(規範設定権)を「真
正なる協約立法高権」と呼び、その公法的性格を一層明らかにせんとしているこの
締結権を公法体系のものとみることは、ジンツハイマーまた同様である。
 ただここに問題は、かような重要な事柄について国家が何故に私的当事者ないし
団体に立法授権をしなければならなくなつたかという点であるがそれは要言すれ
ば、現代階級社会における階級的正義の分裂とこれに伴う国家の立法機能の後退に
基因するものとみるべきである。更に詳しくいえば、ジンツハイマーその他のいら
ように、いつたい社会はそれ自らの中において、「法を生成分化する衝動」を有す
るものである。この衝動は、社会状態が平静を保つている場合には自然と統一した
形をとつて働き、国民の法律確信となりまた慣習法となつて現われるが、社会内部
が幾多の勢力関係に分裂して闘争状態を呈している場合には、この衝動もまた分裂
して統一的な法律確信または慣習法の成立を不可能ならしめる。前の場合において
は、国家はその単独の力をもつてなおよく法を決定することができるけれども、後
の場合においては、国家は事実上立法の能力を喪い、多くはただ社会階級ないし団
体間の利害の協調に対する媒介者の役目または傍観者の立場を保有するに止まつ
て、立法は専ら各種の社会力の意識的・計画的なる協働作用によつて自主的に行な
われていくものである。即ちかかる階級的正義の分裂の下においては、国家がその
立法機能を社会生活の末端にまで及ぼすということは事実上不可能なことであり、
また場合によつては無駄なことでもあるわけである。ここに国家立法授権の合理的
根拠があり、自主立法の合法的基盤が存在する。しかもかような立法作用は、労働
協約の制定についてのみならず、就業規則や組合規約の制定についてもみられるこ
とは周知のとおりである。のみならずかかる現象は、ただ労働者団体と使用者ない
し使用者団体との間に存するのみならず、地主団体と小作人団体との間、地主ない
し家主の団体と借地人ないし借家人の団体との間、被保険者団体と保険者団体との
間、消費者団体と生産者団体との間にも存し、それぞれの間において現在個別的契
約条件を規制する団体的協約規範の設定せられる傾向にあることも注視すべきこと
である。これらはすべて前記国家の立法機能の後退に伴う社会法上必至の現象とし
て把握さるべきである。要するに、労働協約、就業規則等の制定に関する「立法授
権説」は以上の意味において最も実態に即した正しい考え方であると信ずる。
 (2) さて、本件の場合、労働協約三八条一一号の懲戒規定もまた左様な意味
のものとして考察せられねばならない。即ちこの規定は、日本鋼管川崎製鉄所労働
組合と日本鋼管株式会社とが、国家の授権の下に、規範設定契約の形において立法
高権を行使し設定した自主的経営法規なのである。しかもそれは、国家の無条件的
完全授権によつたものであつて、規定の意義・内容・効果等を定むる一切の権限
は、受権者たる協約当事者に専属し、これに対しては国家機関の権力は何らのかか
わりをもたないものである。国家機関たる裁判所はこれに対しては、たかだか、そ
の立法が憲法的基本秩序からいつて立法権限を逸脱したものであるかどうか、また
具体的適用に当つてそれが公益規定違反や公序良俗違反に該当するか否かを審査し
得るだけである。国家機関はこの場合規定の内容にまで立入り干渉を加えることは
許されない。規定の内容は専ら立法者たる協約当事者の意思によつて定まるべきで
ある。
 しかるに原判決はこの理論を無視し、敢えて独断的見解よりして、本条項の意味
内容を歪曲改変し、その適用の範囲や要件を不当に限定していることは(判決三四
ないし三七頁)、全く許し難いことである。本条項は全く原判決の思惟するような
左様な立法意思をもつて設定された規定ではない。それは、協約立法当事者の意思
においては、その適用を「企業の規律、利益を直接侵害する場合」に限定したもの
でもないし、また「従業員の就労に即した規律違反」のみを対象としたものでもな
いし、さらにまた経営の平和や秩序が「社内行動によつて害された場合」のみに限
定して考えたことも全然なかつたし、「会社の社会的信用ないし、名誉を現実に著
しく傷つけたこと」を要件とするものなどでは勿論なかつたのである。それはさら
に広く、前記経営体の存立発展の見地から、これを阻害しまたは阻害する虞れあり
とみられる一切の行動を捉えてその対象としたものである。従つて、その適用に当
つては、専ら協約当事者の意思を基本として考察せらるべきであつて、これを離れ
て純客観的に判断せらるべきものではない。例えば、「凡そ不名誉な行為とはどの
程度の行為をいうか」とか、またこの行為によつて会社の体面を著しく汚した場合
といつているその「著しくはどの程度のものをいうか」とかいつた観念論はここで
は全く不必要かつナンセンスな議論なのである。それは、あたかも「豪雪」とは二
メートル以上をいうのか、三メートル以上をいうのか、と徒らに空論を闘わしてい
るようなものである。地元民が一メートルでも豪雪と思つていたらそれはやはり豪
雪なのである。凡そ懲戒論の要諦は、そのようなところにあるのではなくして、協
約立法者の意思が果して那辺に存するかを究明尊重することにある。前に当事者の
意思が決定的であるといつたのは、この意味にほかならない。
 更に繰り返していえば、当該条項の適用については、裁判所は一切干渉を加らべ
きではなく、協約立法当事者の意思を尊重して、その自由裁量に委ねるべき筋合の
ものである。殊に、懲戒の必要性ということは、本来相対的な観念であつて、企業
の規模、経営事情、内外の情勢等諸般の条件によつてそれぞれ時と所に従い違つて
くる。従つて原判決の如くこれを観念的に捉えて画一的な絶対的適用基準を見い出
そうとすることは、全く無益かつ有害な努力である。その必要性は専ら経営体自体
の認識および判定に委すべき性質のものである。それが労働自治の不動の原則なの
である。
 控訴人会社川崎製鉄所の就業規則九七条にも右協約条項と全く同文の規定がある
が、その解釈適用もまた同様に解さるべきである。
 (二) 殊に、原裁判所において、控訴人会社が、本規定は「広く社会一般から
不名誉と評価されるあらゆる行為を意味し、それが一般社会に喧伝され会社に対
し、何らかのはねかえりが生じた場合をいう」と主張していたのに対し、被控訴人
(原告)すら本規定の解釈については、労使間に口頭了解があり、
 (1) 会社に対して名誉毀損を構成するとき
 (2) 会社に対して民事上の損害を与えたとき
 (3) 会社に対して信用を損なつたとき
 の場合に限り、本規定の適用がある旨の甲第一号証を提出している。
 しからば、私生活上の言動でも右の場合は、本規定に該当することを認めている
のであるから、少くも本件が会社に対し民事上の損害を与えたかどうかに関し判断
すべきであるのに、原告の立証態度及び甲第一号証の存在にかかわらず本規定に対
し原判決が私生活上の言動には、及ばないといつた独断的解釈から、本件が(1)
(2)(3)に該当しない旨の説示を欠如している。このことは協定当事者の意思
をも無視するものとして許されないばかりでなく、理由不備の違法あるものとして
取消さるべきであること明らかである。
 三 本件法益の特質について
 (一) 原判決の使用した帰納法的思考の誤りについて
 原判決は、控訴人会社の就業規則、労働協約の懲戒事由をとりあげ、そのうち三
つを除く「その他の懲戒事由は、すべて従業員の就労に即した規律違反ないし勤務
懈怠、企業の財産ないし人的組織に対する直接侵害、事業所内における非行等、企
業活動の領域内における行為であつて、その性質上、明らかに企業の利益を害し、
または害する虞れがあるとみられるものを対象とし、また例えば、事業所内での賭
博(……)、会社財産の横領(……)事業所の設備備品等の毀損(……)背任行為
(……)なと、刑法上の犯罪を構成する非行についても、企業の規律、利益を直接
害する場合に限定していることが認められる。」とし、原判決は、懲戒規定におけ
る本条以外の他の規定の解釈から被告会社の懲戒の目的を帰納し、これをまた演繹
して、本規定の解釈を決定している。しかし、これは論理的に杜撰極まりない議論
である。
 即ち、懲戒事由は全て同質であるという命題が与えられてこそ、かかる帰納法は
適用されるべきであるのに、懲戒事由は、全て同質であるとは限らず、本件懲戒事
由は特殊性を有するという点を全く看過していることである。
 会社は、社会的有機体として種々の活動をしていることから、当然に、保護せら
るべき、いくつかの法益を有している。「体面」は、会社が社会的活動主体として
存続発展していくために維持・保護せられるべき重要な法益である。会社がかかる
法益を有することを組合としても否定できなかつたところから立法化されたのが、
自治規範としての本規定である。かかる「会社体面」という法益の特殊性を考え
ず、これを他の懲戒規定から一般的懲戒事由を帰納し、それを演繹するのは立法趣
旨ならびに法益の特殊性を無視した「論理」の暴用というほかはないのである。
(原判決は右に述べた帰納法的思考を導びくに当り懲戒解雇条項のみならず譴責、
出勤停止条項に定める各行為をとりあげている。しかし、譴責、出勤停止条項は一
般に職場秩序に関するものがほとんどであつて、かかる条項に社外の行為に対する
懲戒規定がないからといつて、懲戒解雇に関する第三十八条十一号の規定を企業の
規律、利益を直接侵害した場合に限るとしたことは誤りである。)
 なお、体面が原判決のいう「企業の利益」にあたることは明らかであるが、その
性質上、企業活動における行為よりも、企業外でこれを害する場合が多いし、また
直接向けられた行為で害されるよりも間接的な形態で侵害される場合の多い法益で
ある。この点については次項で述べる。
 いずれにせよ、原判決のいうように懲戒権の行使は「企業活動における行為に限
る」とか「直接害した場合に限る」ということになれば、本条項の立法趣旨は全く
無意味と化し、本条項の適用される事例はありえないこととなり、立法者の意思を
遠く離れることは明らかである。
 (二) 「体面」という保護法益
 (1) 本規定が「会社体面」を保護法益とするものであることは、文理上明ら
かである。ところで、憲法一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生
命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限
り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定めるが、その前段は抽
象的に人格の尊厳性を保証したものであり、後段は具体的に人格の発展の自由に対
する権利を保証したものである(西独基本法二条一項参照)。この場合の人格は、
自然人に限らず、法人格としての全ての会社の人格を含み、憲法一三条は、自然人
のみならず、全ての会社に対しても会社人格の尊厳性と会社人格発展の自由(全て
の生活領域における行為の自由)を保証した規定であることは、明らかである。し
かして、会社体面なるものの保護は、会社人格の維持発展のために必要欠くべから
ざるものである。
 (2) それでは「体面」とは何か、以下体面の断念について分析を加えてみよ
う。
 「体面」とは、単に「名誉」とか「信用」とかに特定せらるべきでなく、ひろく
会社の有するすべての形象や価値が、一般社会人の法感情や社会的感覚に訴え感得
せられて生ずる社会的評価とその社会的評価について会社側関係者が抱いている主
観的価値意識ないし価値感情の両者により構成されるものである。この意味におい
て「体面」は、道義的な人格的価値としての「名誉」や、外的経済的価値としての
「信用」と異り、より広い社会的観点から考察されるべきものである。
 このように「体面」は、一般社会人の会社に対する社会的評価とそれに対する会
社の主観的価値意識ないし価値感情より構成される実在する価値であるが、それは
企業規模、生産設備、生産能力、販売機構、得意先、技術、金融関係、人的構成等
有形の具体的形象そのものとしての価値ではなく、これら具体的形象に伴い発生す
る価値―いわば観念的形象としての価値として、特殊な性格を有するものである。
したがつて、それは経済的価値として、より客観性・具体性を帯びた「信用」や、
人格価値としての「名誉」の二つに極限されるべきものではない。
 (3) こうした「体面」の概念よりすれば、会社体面という法益侵害としての
「会社体面の汚損」とは、一つには、一般社会人が会社に対して抱く社会的評価を
汚損することであり、一つには、社会的評価について会社側関係者が抱いている主
観的価値意識ないし価値感情を侵害することである。そして、一般社会人による社
会的評価としての面における「体面」は、「会社の企業規模、生産設備、生産能
力、販売機構、得意先、技術、金融関係、人的構成などの具体的形象を通し、会社
人格を媒介として、一般社会人により感得せられる観念的形象としての会社の総合
された無体的客観的価値につき、一般社会人のくだす一切の社会的評価」のことで
あり、その汚損は、結局、さらに具体的価値としての他の法益たる社会的地位、信
用、生産力、得意先、のれんなどの侵害を惹起するのである。 しかもこの意味に
おける「体面」の汚損は器物損壊等の物的侵害と異り、その補填は容易でなく従つ
て長期間にわたり右具体的価値のそれぞれを毀損する怖れがあり、その意味でより
一層保護される必要があるのである。
 (4) そしてまた会社に対する社会的評価についての信頼感情としての会社側
関係の主観的価値意識ないしは価値感情の面における「体面」の汚損は、さらに会
社側関係者全体に存する内在的人格感情としての名誉感情の侵害といつた法益侵害
を惹起するのである。
 しかるに一般には、体面と社会的地位、名誉、信用とが右のように密接な関係に
あることから「体面汚損」を「社会的地位、名誉、信用等の毀損」と混同すること
が多いのである(砂川事件東京高裁判決)。しかし、これは言うまでもなく体面と
いう法益に対する分析、検討を欠いた結果もたらされた誤りという他はない。
 そして、さらに会社は、営利法人として株主のため継続反覆的に営利活動を実現
し、さらには全従業員より構成される経営体を総括し、広く従業員について保護義
務を有する。かかるところから、「会社体面」は株主および従業員にとつても、極
めて重要な意義を有している。これは企業規模が拡大し、永続的大企業となればな
る程、その面での影響は甚大となつてくる。
 (5) 次に「体面汚損」と「名誉毀損」との差異について、簡単に触れておき
たい。「体面」と「名誉」概念の区別については前述したとおりであるが、加えて
「名誉毀損」の場合には、原則として名誉侵害者の行為が被害者に向けられている
場合に限られるのに対し、「体面汚損」は、かかる場合に限定せられるのでなく、
行為者自体の行為が別の目的をもつ行為であつて、しかも、その行為が結果として
第三者に対する関係で、行為者を含め行為者の帰属する団体の社会的評価を損う結
果を惹起する場合が多いのである。この意味において「段損」は動的な行為観念で
あるのに対し、「汚損」は単純な結果概念であり、「汚損」は「毀損」を含むより
広い概念なのである。
 したがつて、体面汚損は行為が法益帰属者に向けられていなくてもよく、例えば
従業員が窃盗や破廉恥罪あるいは政治的暴力事件を惹起し、それが報道されたよう
な場合に、従業員の行為そのものは第三者に向けられていても、結果として会社の
体面が大なり小なり汚損されるということが発生するのである。
 (三) 以上述べたように「会社体面」という法益は存在し、企業活動を行なう
ために、その維持存続は不可欠である。控訴人会社のように多岐に亘る経営活動を
行なつているものにとつて「企業自体」あるいは「経営組織体」として発展してい
くためには、この法益はとくに保護されねばならないのである。控訴人会社の労使
が「会社体面」を右のように評価し、これを不可欠の保護法益と考えたからこそ、
かかる自治規範ができたと解するほかないのである。
 このような現実を無視し、原判決が独自の見解に基づき本条項の存在意義と立法
趣旨を無視したことは大いなる誤りであるといわねばならない。
 2 原判決は事実及び証拠に対する評価ならびに懲戒規定の適用を誤れるもので
取消ざれるべきこと明らかである。
 一 (一) 原判決は、「不名誉な行為をして著しく会社の体面を汚したとき」
とは、「会社の従業員が、社会的に不名誉と目さるべき非行を犯し」これにより
「客観的にみても、企業の秩序ないし規律の維持と相容れない程度において会社の
体面、すなわち企業としての社会的信用ないし名誉を著しく傷つけ」「その結果、
社会通念上、使用者たる会社に当該従業員との雇傭関係の継続を期待するのが困難
な事態を生じさせた場合を意味し、従業員の私生活上の不名誉な行為は、その限り
においてだけ右懲戒規定に該当することがあるにすぎないものと解するのが相当で
あり、これに抵触する被告の見解は採用しない。」とし、「原告らの(砂川事件に
おける)前記行為は、原告らがこれにより刑特法二条違反として刑事罰を受けたと
はいえ、その目的、動機並びに法益侵害に徴すると直ちに会社の企業秩序ないし規
律の維持と相容れないものとは解し難い。また原告らの行為が会社の従業員の行動
として報道されたこともしくは右行為自体により、会社がその企業体としての社会
的信用または名誉を現実に著しく害されたことを認むべき証拠はない。」とする。
 (二) 結局原判決のいわんとするところは、
 (1) 本件行為は、本来従業員の私生活上の不名誉な行為に過ぎないものであ
り、会社の企業秩序ないし規律の維持と相容れない性質のものとは解し難い。
 (2) また原告らの行為自体、もしくはそれの報道により企業体としての社会
的信用または名誉を現実に著しく害されたことを認むべき証拠はなく、社会通念
上、雇傭関係の継続を期待することを困難とするものではないから、解雇は不当で
ある。
 というのである。
 (三) しかし右二点はいずれも本規定の解釈を誤り全く事実を歪曲したる偏見
である。即ち、本規定の立法趣旨よりすれば、私生活上の言動でも、企業体の法益
としての「体面」を侵害し、会社に有形無形の損害を与えた場合は、当然その見地
に立つて、本規定の適用が考えられるべきである。いま仮に最低限被控訴人(原
告)等が甲第一号証により立証せんとした如き立法趣旨であつたとしても、本件は
不名誉な行為の結果、「会社に民事上の損害を与えたとき」に該当することが明ら
かであつて、本条項の適用されるべきことは多言を要しない。
 まして、本規定は、民事上の損害を要件とするものではない。しかも、その法益
の性格は、刑法における名誉毀損罪とその性質を一にするものである。したがつ
て、同罪が危殆犯と評価されているかぎり、「体面汚損」も同じく危殆犯的なもの
と解すべきで、損害の発生を要件とするものではない。苟しくも客観的に会社の体
面を著しく失墜する怖れのある言動があれば、それで本条に該当するというのが実
は協約当事者である立法者の意思でもあつたのである。
 そしてまた、本件の場合、会社に民事上の損害を与えたことは、原判決も認める
ところである。
 なお、原判決が職場の秩序に膠着し、本件行為が「企業秩序ないし規律の維持と
相容れない性質のものとは解し難い」とするのが誤りであることは、すでに指摘し
たとおりである。
 (四) (1) また原判決は、原告等が、昭和三二年七月八日「午前一〇時
三、四〇分頃から午前一一時頃までの間、右飛行場がアメリカ合衆国軍隊の基地で
あつて、一般の立入を禁止された区域であることを知りながら、同軍隊の意に反し
て同飛行場に深さ四、五米にわたり立入り、警官隊が立入の進展を防ぐため設置し
た移動バリケードをはさんで警官隊と対峙してさらに気勢をあげたが、原告らもそ
の最前列に位置し、率先して行動したこと」ならびに、「さような砂川事件につい
て、原告ら会社の従業員九名(組合員)を含む二五名が同年九月二二日逮捕され、
そのうち原告らを含む七名が同年一〇月二日刑特法二条違反として起訴されたこと
及び以上の事実が当時新聞紙上に報道され、またテレビ、ラジオなどで広く報道さ
れたこと」を「当事者間に争いがない事実」であると認定しながら右報道もしくは
行為自体によつては企業体としての体面を現実に著しく害されたと認むべき証拠は
ないとして報道だけでは、体面を汚損されることはありえないといつた立場に立つ
ているが、体面は世評により支持せられる特殊的法益であり、本件においては、各
種報道機関により非難されることにより控訴人会社は、世評の支持を甚しく失なつ
たもので、これはとりもなおさず著しき体面の汚損である。
 それは公然なされた点において証明を必要とせざる裁判所に顕著な事実であり報
道自体により会社体面は直接且つ甚しく汚損されたものである。
 (2) さらに、本件行為は、被控訴人等が強く主張するように政治的、社会的
対世間的な公然たる活動であつて、決して原判決のいうように単純な「私生活上の
言動」ではない。
 この点、世間的な一般人の私生活上の行動と評価すべきではなく、控訴人会社の
従業員という関連において評価すべきなのである。控訴人会社の如き規模、取引
筋、株主等の国際的分布状況からみて、本件のような反米的政治的暴力行為は広い
意味で、内外において控訴人会社に悪影響を与え、会社経営秩序(職場秩序ではな
い)、会社法益の維持・発展と相容れない性質のものであることは明らかである。
 しかして、第一項で詳述したように、体面すなわち社会的信用または名誉ではな
いし、対内的には被控訴人等の政治的暴力行為により会社は、被控訴人等に対する
信頼感情を喪失し、また被控訴人の行為により直接間接甚大な悪影響を与えたこと
により、控訴人会社が、被控訴人等との間の労働契約の継続をし難いと考えたのは
極めて当然のことである。
 それはむしろ、国際的にも国内的にも、また経営内部の観点に立つても解雇が必
要と考えられたのである。(後述の世界銀行に対する体面回復の必要性だけを考え
ても早急に原告等を懲戒解雇する必要があつた。)
 二 次に、原判決は、
 (一) 会社は、水江製鉄所の建設等に莫大な資金を必要としたので、昭和三二
年五、六月頃世界銀行に約八〇億円の借款を求めたが、その実現が会社において予
期した昭和三三年四、五月より約三カ月遅滞したため、右製鉄所の建設にも若干の
遅滞を来したこと、その間において会社は昭和三三年一月及び同年三月の両度にわ
たり世界銀行の担当者から砂川事件を指摘して、説明を求められたこと」を認定し
ながら「もともと右借款が会社の予期した時期に実現すべき事情にあつたとみるべ
き根拠はなく、」「また仮にさような事情にありながら、その実現が遅延したとし
ても、それが、原告ら会社の従業員の砂川事件における行動と関連があつたことを
窺わせる証拠はない」とする。
 しかし、右の判断は、ことさら砂川事件と世界銀行借款および水江製鉄所建設と
の因果関係を無視せんとするものである。すなわち、
 世界銀行に対する借款申入れについては通常借款の実現が予想ないし通告される
ものであるのに、本件の発生により世界銀行の審査課長から砂川事件について釈明
を求められるという異例の措置を受けたのである。そしてそのことは、それだけで
控訴人会社が、被控訴人等の行動とその報道の結果、世界銀行に対し莫大な体面汚
損を蒙つていることを示すものであり、同時にそれは借款遅延の事実と被控訴人等
の行動との関連を示すものである。特に、昭和三三年一月控訴人会社は世銀から第
一回目の借入会社としての資格審査を受けたが、その際世銀審査官から砂川事件を
惹起した控訴人会社の労使関係につき釈明を求められ、控訴人会社は「砂川事件に
ついては労働協約、就業規則に照らして、対処いたします」と弁解した事実があ
る。また同年三月第二回の審査においても、世銀審査課長の砂川事件に対する関心
は深く、その後の経過につき説明を求められ、控訴人会社は「もう懲戒解雇の措置
をしました」と答えたという経過があるのである(A証人証言参照)。そして、当
時わが国においては住友金属、神戸製鋼および控訴人会社がほぼ同時に世界銀行に
対し借款の申入れをしていたが、住友、神鋼の二社に対してはいち早く世銀から借
款に応ずる旨の呼出しがあり借款ができたのに対し、控訴人会社に対しては前記二
社より約三カ月を遅れて借款のための呼び出しがあり、その結果借款の成立が大分
遅延した事実は一審で立証したところである。若し、控訴人会社が、被控訴人等に
対し解雇をもつて臨まなかつたならば第二次世銀借款が不成立に終つたであろうこ
とは充分推測されるのである。しかるにこれらの点に関し、原審判決が「仮にさよ
うな事情にありながら、その実現が遅延したとしても、それが原告ら会社の従業員
の砂川事件における行動と関連があつたことを窺わせる証拠はない」とするのは、
全く証拠の存在と経験法則を無視するものであり、かの独断的論理を貫ぬくための
誤つた認定というほかはないのである。
 (二) 更に、原判決は、
 「その他、会社が原告らの行為により企業としての体面を汚され、損害を蒙つた
ことを肯認するに足る証拠はない」と断定する。
 右判示部分は明らかに前述の独断的法律論に基づいて、懲戒の意味及び体面とい
う法益を極めて限定解釈して、控訴人側証人による無形の体面汚損に関する立証を
全く無視し去つたもので、誤れるものであることは明らかである。
 3 控訴人は、原判決の摘示事実のほか、左のとおり補足陳述する。
 一 控訴人会社において世界銀行が果した役割
 わが国経済は、昭和二七年のサンフランシスコ平和条約により占領が解除された
頃から戦後の崩壊状態を脱し、その後重要産業を中心に復興の一途を辿るが、その
復興にあたつては、外資導入および貿易に対する依存度、なかでも米国に対する依
存度は、極めて高く、ことに外資導入の面において世界銀行がわが国産業の復興に
果した役割は極めて大であつた。
 控訴人会社の場合も、製鉄、造船という主要基幹産業の一翼を担い、わが国産業
の上で極めて重要な役割を果してきた関係上、米国を中心とした自由経済およびこ
れら諸国の出資によつて設立された世界銀行からの借款に負うところは多大であつ
た。
二 被控訴人等の行為に関する補足主張
 砂川においては、本事件発生直前の昭和三二年六月二七日にも、東京調査局の吏
員による予備測量の実施に際し、これに反対する学生、労組員と測量員あるいは米
軍との間に暴力事件が惹起されている。
 従つて、被控訴人等が、基地測量反対で現地に赴いたことは、実力をもつて警察
官に抵抗し、あるいは駐留軍の立入禁止の立札を無視して基地内に侵入し、測量担
当官または警察官との間に暴力沙汰の起ることを予想しながら、かつこれに実力を
もつて抵抗する意図を有していたことを示すものである。そして、被控訴人等三名
は、乙第三十六号証乃至第三十九号証等によれば明らかな如く、単に立入禁止に違
反して米軍基地に侵入したのみならず、警察官に対し足で蹴とばす等の暴力をふる
い、あるいは立入禁止のための柵やバリケードを破壊し、また警察官がバリケード
を補修しようとするのを妨害した。これらの点からして、被控訴人等の行為は極め
て暴力的であり、ハガチー事件にみられる多数暴力とその性格において一脈相通じ
るものがあるのである。
 ところで、被控訴人Bは労働組合の専従執行委員であつたが、同C、同Dの両名
は非専従であり就業時間中である午前一〇時頃から一二時頃にかけて本件行為を犯
したものである。
 以上の被控訴人等の行為については、現場写真、警察官の目撃、16ミリフイル
ム、8ミリフイルム等によりその程度が確認され被控訴人等は、逮捕、拘留、起訴
されたのである。
 三 本件の与えた影響に関する補足主張
 (一) 控訴人会社は、昭和三二年三月川崎市に薄板を製造する工場として水江
製鉄所を建設する計画を決定し、そこにホツトストリツプミル等という薄鋼板製造
用の新鋭機械をアメリカから輸入して設置し、粗鋼一二〇万トンの生産を行なう予
定であり、同所は控訴人会社にとつて極めて重要な役割を負担することになつてい
た。しかして、同所の建設には約八〇〇億円の資金が必要であり、そのため控訴人
会社は通産省を経由して世界銀行に第二次借款を申込中であつたが、この申込書の
中には「労使関係」という記載項目があり、右項目に「組合は非常に穏健であり決
して過激なものではなく労使関係は良好である」と記載して提出してあつた。とこ
ろが、翌三三年一月に世界銀行から審査官が来日し、借款申込の審査のため申込各
社の事情聴取を行なつたが、その際控訴人会社に対しでは砂川事件を指摘してその
釈明を求めた。これに対し、控訴人会社は借款は極めて切実な問題であり、また被
控訴人等の行為は非常に遺憾なものであつたので、「砂川事件を起したのは、ほん
の一部の者であり、これについでは労働協約、就業規則に照して対処いたします。
どうぞ労使関係については昔から悪いことはありませんから、良好なんだというこ
とで理解していただきたい」と弁明に努めた。その後、二月末に被控訴人等を処分
したところ、三月に至り世界銀行のE審査課長が来て砂川事件を再び指摘したの
で、「既に砂川事件に関係した従業員については、懲戒解雇の処置を致しました。
労使関係は決して悪いことはない」と述べたことがあつた(A証人証言参照)。
 しかし、その後同時に世銀借款を申し込んだ住友金属、神戸製鋼には同銀行より
呼出しがあつたが、控訴人会社にはなく、三カ月ほど遅れてようやく呼出しがあ
り、その結果借款も住友金属、神戸製鋼より遅れてしまい、水江製鉄所の建設に二
カ月の遅滞を招いただけでなく、他社は成立したのに控訴人会社には何の呼出しも
ないということから、借款が不可能かもしれぬといつた不安を生じ、控訴人会社の
資金関係は重大な悪影響を蒙つたのである。かように、同時に申込んだ三社のう
ち、控訴人会社が他の二社より三カ月も遅れたのは砂川事件に原因すること多大で
あつたと推断されるのである。
 しかして、右の第二次世界銀行借款が遅れたため、水江製鉄所熱延工場は当初の
予定より丸二カ月遅れた昭和三四年九月三〇日に操業が開始され、このため水江製
鉄所の建設が二カ月も遅延したことは、結果的には昭和三四年以降の薄鋼板を中心
とする鉄鋼市況の好況期において、控訴人会社が同業他社におくれをとる原因とな
り、この遅滞によるうべかりし利益の喪失は極めて大きいものがあつた。
 (二) 以上のように世銀からの第二次借款は、控訴人会社において被控訴人等
を処分し、あるいは昭和三三年三月に来日した世界銀行のE審査課長にいろいろ釈
明もし、三ヵ月という遅延は招いたが、ともかくも借款の成立をみることができた
のであるが、その後本件の従業員に対する波及的な影響によつてハガチー事件が起
り、この時も世界銀行に第三次の借款を申し込んでいたが、この時は砂川事件に引
続くハガチー事件ということで、遂に、世界銀行からの借款は成立しなかつたので
ある。このように第三次借款が不可能となつた原因は、直接にはハガチー事件であ
るが、前に砂川事件を起したにも拘らず、更に激しい反米的暴力事件を起したとい
うことで砂川事件も借款不成立に重大な影響を与えているに違いないのである。
 (三) 控訴人会社の輸入、輸出先としてアメリカ及び欧州諸国が圧倒的に多い
が、そういつた取引先に対して反米的暴力行為としての本件は、悪い意味での影響
を与えることが予想され、担当者はその釈明に苦慮した。
 (四) 控訴人会社の資金関係においても、担当者が一方ならぬ苦慮をしたこと
は、世界銀行の例に止まらなかつた。
 (五) 株主および第三者からも、「従業員がとんでもないことをしたな」とい
うことで攻撃され、また鉄鋼六社で構成される六社会や日経連労働部会において
も、他社から顛末の報告および釈明を求められて、社長以下著しく体面を汚損され
た。
 (六) 控訴人会社には多数の従業員がいるが、これら従業員にも悪影響を与
え、現に昭和三五年には、米国大使を車内に監禁して車に手をかけ、上下動して暴
力を働くというハガチー事件が控訴人会社従業員によつて惹起された。
 (七) 控訴人会社の国内取引先には、造船業、建設業、ガス会社といつた大企
業が多かつたが、そういつた企業では労使関係の安定度合を重視するので、営業担
当者はその点で釈明その他に苦慮した。
 (八) 以上の悪影響を最小限に防止するように、控訴人会社の各担当者は、い
ろいろと釈明し、あるいは砂川事件を起した被控訴人等には懲戒を以てのぞみ、規
律維持の意思のあることや、労使関係が良好であることを説明する必要があつた。
 第二 被控訴人の補充的陳述
 1 被控訴人らの行為は、たまたま刑罰法規にふれ刑罰を科せられたとはいえ、
その行動の本来の目的動機は、国民としての政治活動である示威行動をすることに
あつたのであり、その実質も、示威のため飛行場滑走路内に約四、五米短時間に入
つたというだけである。したがつて、本件は政治的な激動期における政治行動とし
てのみ起りうる事件であつて、被控訴人らが、他の場合において、また、企業内に
おいて、同様な行為に出るであろうとは考えられない性質のものである。控訴人
は、砂川事件の影響でハガチー事件が起つたというが、ハガチー事件は特殊な情況
の下で全く偶発的に起つた事件であつたことは同事件仮処分事件判決も認めるとこ
ろであつて、控訴人の主張は、全く非常識である。被控訴人らの本件行為は、第一
審の判決によつて罰条を違憲として無罪とされ、多くの学説、世論によつて支持さ
れ、最終的には有罪とされたとはいえ、科せられた刑罰は軽い罰金刑にすぎなかつ
たものである。また、本件基地反対闘争には地元民を始めとして、広汎な国民の支
持があつた。
 このようにみてくれば、被控訴人らの行為が刑罰法規に違反するとされたとはい
え、あながち不名誉な行為と断定することはできず、いわんや、直ちに企業の秩序
ないし規律の維持と相容れない性質のものであるとはいえないことが明らかであ
る。
 2 控訴人会社の信用または名誉が現実に著しく害されたことはない。
 控訴人の主張は、「雇人が悪いことをすれば、主人の体面にかかわる」という前
近代的な非合理な観念を控訴人会社のような近代的巨大企業にそのまま導入しよう
とするものである。もともと、従業員の私生活、ことに本件のような国民としての
政治活動によつて会社の体面が汚されることはありえないのであつて、もし本件行
為を理由に会社を非難するものがあつたとしたら、非難する方がまちがつている
し、会社の体面が汚されるおそれさえないものである。世界銀行の借款申込書に
は、労使関係という項目があつたのであるから、砂川事件について同銀行の係員か
ら聞かれたとしても不思議はないし、このような事件があつたことが企業内の労使
関係が不良であるということにはならない。
 そのように認められたからこそ同銀行との間で借款が成立したのである。また、
砂川事件のために同銀行との間の借款が遅れたかどうかは明らかではない。
 第三 証拠(省略)
         理    由
 一 (一) 被控訴人らがそれぞれその主張の日に控訴人会社に工員として雇わ
れ、その事業所の一つである川崎製鉄所に勤務し、昭和三二、三年当時の職場及び
職種が被控訴人らが主張するとおりであり、いずれも川崎製鉄所の従業員で組織す
る被控訴人主張の労働組合(以下単に「組合」という。)の組合員であつたが、控
訴人会社は、昭和三三年二月二一日被控訴人B及び同Dを同月二六日付をもつて懲
戒解雇する旨、及び被控訴人Cを同日付をもつて論旨解雇する旨の意思表示をした
こと、(二)控訴人会社と組合との間において、この当時効力を有した労働協約三
八条一一号及び同製鉄所の就業規則九七条一一号において、従業員に対する懲戒解
雇又は諭旨解雇の事由の一つとして、「不名誉な行為をして会社の体面を著しく汚
したとき。」と定めていたこと、(以下「本件懲戒規定」という。)(三)昭和三
二年七月八日被控訴人らを含む組合員(川崎製鉄所従業員)九名が組合の指令に基
づき、在日アメリカ合衆国空軍の使用する東京都北多摩郡a町所在の立川飛行場の
拡張に反対し、同飛行場内の民有地の測量を阻止しようとする地元民並びにこれを
支援した労働組合員及び学生らの反対行動に参加したが、その際生じたいわゆる砂
川事件の被疑者として被控訴人らを含む組合員九名がその他の一六名と共に同年九
月二二日逮捕され、被控訴人らを含む七名が同年一〇月二日刑特法二条違反の罪名
で起訴され、この事実は、当時新聞紙上やテレビ、ラヂオなどで広く報道され、こ
のことが右の懲戒規定に該当するものとして被控訴人らに対する前記解雇の理由と
されていること、及び(四)控訴人会社が被控訴人らに対し前記解雇の処分を行な
うについて、昭和三三年一月一七日組合にその旨の通知を行なうとともにその後七
回にわたり組合と協議したことは、いずれも当事者間に争いがない。
 二 そこで、控訴人会社の被控訴人らに対する右の懲戒の処分の当否について判
断する。
 (一) 被控訴人らを含む組合員九名が昭和三二年七月八日組合の指令に基づき
前記民有地測量を阻止しようとする行動に参加するため右飛行場の北側に集合して
いた反対派の集団に加わつたこと、その際被控訴人B及び同Dが携行したヘルメツ
ト型帽子を着用し、同Cが赤鉢巻をしめて参加したことは、当事者間に争いがな
く、成立に争いのない乙第六号証の(一)、(二)、第八号証の(一)、(二)、
(三)の各(1)、(2)、第一六号証の一、二及び三の(一)から(四)まで、
第一八号証、第二〇号証の一、二及び三の(一)、(二)、(三)、第二三号証の
一、二、三、第二四号証の一、二及び三の(一)、(二)、第二五号証の一、二及
び三の(一)、(二)、(三)、第二六号証の一、二、三、第一八号証から第三三
号証までの各一、二及び三の(一)、(二)、第三五号証の一、二及び三の
(一)、(二)、第三六号証の一、二、及び三の(一)、(二)、(三)、第三七
号証から第三九号証までの各一、二及び三の(一)、(二)、第四一号証、第四七
号証の一から三まで、第四九号証から第五四号証までの各一、二、三、第五六号証
の一から四まで及び六、第六一号証、第六八号証及び第六九号証を総合すると、同
日早朝から地元民の組織するa町基地拡張反対同盟員並びにこれを支援する労働組
合員及び学止ら約二〇〇〇名の者らがアメリカ合衆国軍隊の使用する区域であつ
て、立ち入ることを禁止された右立川飛行場の北側において、集合して気勢を挙げ
被控訴人らを含む約二五〇名が同日午前一〇時三〇分ごろから同一一時三〇分ごろ
までの間において、右の立ち入ることを禁止された区域であることを知りながら、
幅数十メートルにわたつて有刺鉄線による境界柵の破壊された箇所より右飛行場内
に約四、五メートルの深さまで立ち入り、警官隊の設置したバリケードを足を踏み
つける等して警官隊と対峙してさらに気勢を挙げた際、被控訴人らは、その最前列
附近でスクラムを組み等して率先して行動したものであることが認められる。そう
して、前認定のとおり、被控訴人らを含む九名の組合員は、このため、逮捕され、
そのうち被控訴人らを含む七名は、刑特法二条違反として起訴され、この事実は、
当時新聞紙上やテレビ、ラヂオなどで広く報道されたのである。
 したがつて、控訴人会社が被控訴人らに対してなした懲戒解雇及び諭旨解雇の理
由とした基礎の事実関係は存在したものと認められるものである。
 (二) ところが、右に認められる事実が本件懲戒規定である「不名誉な行為を
して会社の体面を著しく汚したとき。」に該当するものであるかどうかに争いがあ
るので、この点について判断する。
 右各規定の意味については、その規定の文言をそれが制定せられるに至つた経過
及びその後における労使間の了解事項の有無等の諸事情を勘案して合理的に解釈す
べきものであること当然であるので以下これらの点について検討する。
 <要旨第一>(1) 使用者がその従業員たる労働者に対して有するいわゆる懲戒
権は、使用者が一方的に労働者に対しその固有の権利として有するもの
と解すべきものではなく、使用者と労働者との間において個別的又は集団的に合意
がなされることによつてはじめて生ずるものと解すべく、右の合意が憲法その他法
令に違反することなく且合理性のあるものである限り、使用者も労働者もこれに拘
束されるものというべく、これに反する控訴人会社の見解は採用できない。
 (2) そこで、まず、右の控訴人会社と組合間の労働協約及び川崎製鉄所の就
業規則の文言についてみると、成立に争いのない乙第一、二号証によると両者の懲
戒に関する条項は、右の労働協約第三四条から第三九条まで及び右就業規則第九三
条から第九八条までに規定せられ、その文言は、両者ほとんど同じであり、懲戒区
分又は懲戒の種類として、譴責、減給、出勤停止、諭旨解雇及び懲戒解雇の五種を
設け、これらの懲戒につきそれぞれ懲戒事由を列挙し、その合計は、三八の事由に
及ぶのであるが、そのうち、「暴行、脅迫、傷害、侮辱などして同僚などに迷惑を
かけたとき。」(右労働協約三六条一〇号、右就業規則九五条一〇号)「素行不良
で同僚に悪影響を及ぼしたとき。」(右労働協約三六条二〇号、右就業規則九五条
二〇号)及び「不名誉な行為をして会社の体面を著しく汚したとき。」(右労働協
約三八条一一号、右就業規則九七条一一号)という三つの事由を除くその他の合計
三五に及ぶ懲戒事由は、すべてその文言上、従業員の就労に関する規律違反、勤務
懈怠、企業財産又は企業の人的組織に対する直接侵害、事業所内における非行等企
業活動の行なわれる領域内における行為であつて、企業の利益を害し又は害するお
それがあるものと認められるものを対象としているのである。
 したがつて、右の労働協約及び就業規則における懲戒事由は、その大部分が従業
員たる労働者の事業所内における就労に関する規律を維持し、企業財産を保護する
ことにあつて、この点に重点が置かれているものであること明らかであるに反し、
右の「不名誉な行為をして会社の体面を著しく汚したとき。」という懲戒事由は、
それぞれ懲戒解雇事由を定める条文中最後の箇所に配列して掲げられているもので
ある。
 (3) 次に、本件懲戒規定が労働協約及び就業規則で制定せられた経過につい
てみると、成立に争いのない甲第一号証、原審における証人Fの証言によりその成
立を認め得る甲第二号証及び成立に争いのない乙第一、二号証並びに原審における
証人G、同Hの各証言及び弁論の全趣旨を総合して次の事実が認められる。すなわ
ち、昭和二九年三月一月より実施の就業規則において本件懲戒規定はその九七条一
一号として定められているが、それ以前から就業規則には同文若しくはこれに類す
る規定が存したこと、会社と組合間の労働協約は一年ごとに改訂交渉がなされつつ
更新されて来たものであるが、昭和二八年当時の労働協約において既に右規定と同
旨の懲戒規定が存したものであつて、また昭和三〇年に締結せられる際の組合と控
訴人会社側との交渉においては、本規定と同文の「不名誉な行為をして会社の体面
を著しく汚したとき。」という条項を更新する協約中から削除すべしとする要求が
組合側から提出せられていること、右昭和三〇年の改訂交渉において、組合側は削
除を要求する理由として、この規定が抽象的にすぎることと被控訴人会社のような
大会社が末端の従業員によつて体面を汚されるというようなことはあり得ないと主
張し、これに対し被控訴人会社は、その存置を主張し、双方より委員を選出した小
委員会を設置し、検討を行なつたのであるが、その際組合側委員の要求により控訴
人会社側委員において、この条項を適用すべき場合の例として挙げたものは、当時
新聞紙上に報道せられたいわゆる「Iちやん殺し事件」「Jの子息の誘拐事件」で
あつて、これらに対しては、組合側もそれらの事件の犯人が被控訴人会社の従業員
であつたとしたならば、この条項を適用して解雇せられてもやむを得ないものとす
る態度を示し、さらに、控訴人会社が世界銀行から借款を行なうにあたつて同銀行
の調査団が控訴人会社の工場視察中に従業員がこれに対して無礼をはたらいたとい
うような場合には、この条項を適用すべきであるとする控訴人会社の説明によつて
組合側の態度が軟化してきて、組合側よりこの条項の存続を前提として次の運用基
準、すなわち、「(イ)会社に対して民事上の損害を与えたとき。(ロ)会社に対
して名誉を毀損したとき。(ハ)会社の信用を失墜したとき。」という運用基準に
あたる場合に限つて、この条項を適用するものとしようとする提案がなされたが、
これに対しては、控訴人会社において了承せず、結局組合側において削除の要求を
取り下げることとなつて、昭和三〇年度の労働協約(乙第一号証)が締結せられた
こと、昭和三一年一一月に締結された労働協約については、労使いずれの側よりも
右条項の変更は要求せられなかつたものであつて、この条項については、労使双方
の間において覚書又は了解事項というようなものは全然存在しないことが認められ
る。
 被控訴代理人は、右昭和三〇年度の協約改訂交渉において前記運用基準(イ)、
(ロ)及び(ハ)の場合に限つてこの条項を運用すべきものとする了解事項が存す
る旨主張し、成立に争いのない甲第一号証の記載には、これにそうものがあるが、
原審における証人Hの証言に照らすとこれを採用できない。
 以上によつてみれば控訴人会社における就業規則、労働協約で定める懲戒規定は
その多くが経営秩序を維持し、企業財産を防衛するため、企業内における従業員の
服務規律違反等の行為を対象としたものではあるが、利益追求を目的とする企業体
たる会社としても、相当なる社会的評価を享けることは経営秩序、企業財産を維持
し、生産性向上において欠くべからざるものであるところから、本件懲戒規定にお
いて、従業員の企業内外の行為がそれ自体において不名誉な行為として社会的非難
に値する行為であり、その結果として、企業に対する具体的損害を惹起しない場合
であつても、会社の社会的評価を著しく損うものと見られる事案について、当該従
業員を企業から排除する解雇の措置を執り得るものとしたものと認められるのであ
つて、このことは協約締結に当り組合側としても十分了承していたことが明らかで
ある。このように本件懲戒規定は服務規律違反等の行為に科せられる制裁としての
一般の懲戒規定とは些か対象を異にするが相当な社会的評価を保持しようとする企
業体としては斯かる懲戒規定の設置を希むことはやむを得ないところと考えられる
し、企業の構成員としての従業員も当該企業体の社会的評価を損わざることは当然
従業員たる身分上要請されるところといえるから本件懲戒規定は憲法その他の法令
に違反するものでないことは勿論、その趣旨において合理的根拠あるものである。
もつとも本件懲戒規定はその文言において如何にも抽象的であるのに加え、従業員
の行為が企業外の行為であるときはその行為による企業体の社会的評価の汚損の有
無及び程度の認定は必らずしも容易なものではないから、右規定の適用に当つては
特に当該行為の性質、態様等との関連において慎重な認定を要するものである。
 <要旨第二>そこで、さらに、右認定のような事情のもとに、被控訴人らの前記の
行為が本件懲戒規定にあたるものと認めるべきかどうかについて考える
と、前認定のとおり、被控訴人らにおいて刑特法に違反すると認められる行為をあ
えて行ない、このため逮捕され、さらに起訴され、このことが広く報道されたこと
が本件懲戒規定の「不名誉な行為」にあたるものであることは、たといそれが被控
訴代理人の主張するように、その行動の本来の目的動機は、国民としての政治活動
である示威行動をすることにあつたとしても、これを否定することはできない。し
かしその行為に対する刑事判決における問責は最終的には罰金二千円という比較的
軽微なものであつて、それが集団的暴力行為犯の範疇に入り、社会的非難を到底免
れないものとはいえ、その不名誉性については左程強度なものとはいえない。
 一方、控訴人会社が東京都千代田区に本店、神奈川県下に、川崎製鉄所鶴見製鉄
所及び当時建設途上にあつた水江製鉄所を含む六事業所(工場)、富山、静岡、新
潟各県にそれぞれ一事業所(工場)を設け、米国、西ドイツ等にも事務所を有し、
当時の従業員約三万名、資本金一〇〇億円(株主総数一〇万余名)をもつて鉄鋼、
船舶、肥料等の製造、販売を営み、わが国において公共性の大きい基幹産業をなす
ものであることは、当事者間に争いがなく、成立に争いのない乙第三号証及び第四
号証並びに原審における証人Kの証言を総合すれば、控訴人会社は、鉄鋼の原材料
である鉄鉱石のほとんどを米国、カナダ等より輸入する一方、製品の販売先も国内
にとどまらず、米国、カナダその他諸外国に及んでおり、工場施設、原材料の購入
等に要する多額の資金は国内の各金融機関及び国際開発復興銀行(世界銀行)から
の借款によつているものであること、昭和三二年当時薄板の需要の増大に応じるた
め、ホツトストリツプミルという新鋭の機械によつて薄板を製造する水江製作所の
建設を計画し、その資金八〇〇億円のうち約八〇億円について同年一〇月世界銀行
に借款を求めて昭和三三年四月頃よりその建設を開始することを予定していたとこ
ろ、同年一月に世界銀行の審査官より控訴人会社の労使関係につき砂川事件を問題
とされ、同年三月には同銀行審査課長に対し、同事件に関係した被控訴人らを懲戒
解雇した旨報告したが、同時に借款を申し込んだ他の会社より三箇月位遅れて資金
の借入れを受けることとなつたものであること、その間において控訴人会社の関係
者は、砂川事件が反米的色彩を有していたことから、控訴人会社従業員の被控訴人
らがこれに加つたことが、アメリカ資本の大きい世界銀行からの借款の成否に影響
を及ぼすおそれがあると相当心配し、また六社会という他の鉄鋼関係会社の部課長
らとともに構成する会議の席上被控訴人らが砂川事件に関係したことについて報告
をせざるを得ない立場となり、他の構成員からの批判を受け恥しい思いをしたこと
が認められるが、右の借款が実現すべきものとされる時期については、控訴人会社
と同時に借款の申込みをした他社に比し控訴人会社の分が遅れることはないとする
確かな根拠があつたと認めるに足る証拠はなく、また、被控訴人らの砂川事件にお
ける行動が報道されたことが借款の実現を遅らせる原因となつたものと認めるに足
る適当な証拠もない。
 以上認定のとおり、従業員約三万名を有する控訴人会社のようないわゆる巨大産
業会社における一事業所の従業員にすぎない被控訴人らの前記のような行為につい
て、それが、右に認定した程度において、控訴人会社の企業としての社会的信用等
に若干の影響を及ぼしたことは認められるものの、それ以上に、控訴人会社の主張
するようにその主観的危倶、認識の程にまで控訴人会社の社会的評価を著しく損う
ところがあつたことを認めるに足る証拠はない。
 したがつて被控訴人らの前記認定の行為は、本件懲戒規定の懲戒雇解又は諭旨解
雇事由に該当しないものと判断する。
 三 以上のとおりであるから、控訴人会社が被控訴人らに対してなした前記の懲
戒解雇及び諭旨解雇の意思表示は、いずれも前記就業規則九七条一一号及び労働協
約三八条一一号の懲戒事由が存しないに拘らずこれありとしてなされた無効のもの
であつて、被控訴人らと控訴人会社との間には、雇傭関係に基づく法律関係が存在
しているものというべきところ、控訴人会社は、被控訴人らを解雇したとして、従
業員として処遇しないことは、当事者間に争いがない。
 したがつて、被控訴人らが控訴人会社との間において雇傭契約に基づく権利の存
在することの確認を求める本訴請求を認容した原判決は相当であつて、本件控訴
は、理由がない。
 よつて、民事訴訟法三八四条、九五条、八九条に従い、主文のとおり判決する。
 (裁判長裁判官 岸上康夫 裁判官 横地恒夫 裁判官 田中永司)

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