弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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         主    文
     原判決を破棄する。
     本件を東京高等裁判所に差し戻す。
         理    由
 上告代理人志村新、同上条貞夫、同小部正治、同滝沢香、同坂本修、同井上幸夫
の上告理由第一について
 一 原審の確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
 1 被上告人は、土木建築の設計、施工、請負等を目的とする株式会社で、肩書
地に本社を、大阪市、福岡市及び札幌市にそれぞれ支店を置き、その従業員数は約
一三〇名である。
 2 上告人は、昭和四五年三月、被上告人に雇用され、以来、本社の工事部に配
属されて、建築工事現場における現場監督業務に従事してきたものである。
 3 上告人は、平成二年夏、ビル建築工事現場において現場監督業務に従事して
いた際、体調に異変を感じ、病院で受診したところ、バセドウ病(以下「本件疾病」
という。)にり患している旨の診断を受け、以後通院して治療を受けたが、被上告
人に対して本件疾病にり患している旨の申出をすることなく、平成三年二月まで右
現場監督業務を続けた。
 4 上告人は、平成三年二月以降は、次の現場監督業務が生ずるまでの間の臨時
的、一時的業務として、被上告人の本社内の工務監理部において図面の作成などの
事務作業に従事していたが、同年八月一九日、翌二〇日から東京都府中市南町の都
営住宅の工事現場(以下「本件工事現場」という。)において現場監督業務に従事
すべき旨の業務命令を受けた。その際、上告人は、被上告人に対して、本件疾病に
り患しているため右業務のうち現場作業に従事することはできない旨の申出をし、
二〇日、本件工事現場に赴任した際にも、現場責任者である工事課長に対し、本件
疾病のため現場作業に従事することができず、残業は午後五時から六時までの一時
間に限り可能であり、日曜及び休日の勤務は不可能である旨の申出をした。その後、
上告人を執行委員長とするDB組分会(以下「組合」という。)も、被上告人に対
する質問状において、上告人の労務につき、「①」現場作業には従事することがで
きない、「②」就業時間は午前八時から午後五時まで、残業は午後六時までとする、
「③」日曜、祭日、隔週土曜を休日とする、との三条件を被上告人が認めるか否か
の回答を求めた。
 5 被上告人は、上告人に診断書の提出を求め、平成三年九月九日、上告人の主
治医の作成した診断書が提出されたところ、それには「現在、内服薬にて治療中で
あり、今後厳重な経過観察を要する。」との記載があった。被上告人は、右の記載
では病状が必ずしも判然としないため、上告人に対し、病状を補足して説明する書
面の提出を求めたところ、同月二〇日、上告人自ら病状を記載した書面が提出され
た。これには、「疲労が激しく、心臓動悸、発汗、不眠、下痢等を伴い、抑制剤の
副作用による貧血等も症状として発生しています。未だ暫く治療を要すると思われ
ます。」とした上、組合が回答を求めた前記三条件を認めることが不可欠である旨
が記載されていた。
 6 そこで、被上告人は、上告人が本件工事現場の現場監督業務に従事すること
は不可能であり、上告人の健康面・安全面でも問題を生ずると判断して、平成三年
九月三〇日付の指示書をもって、上告人に対し、翌一〇月一日から当分の間自宅で
本件疾病を治療すべき旨の命令(以下「本件自宅治療命令」という。)を発した。
 7 上告人は、本件自宅治療命令が発せられた後に、事務作業を行うことはでき
るとして、平成三年一〇月一二日付の上告人の主治医作成の診断書を提出したが、
これには「現在経口剤にて治療中であり、甲状腺機能はほぼ正常に保たれている。
中から重労働は控え、デスクワーク程度の労働が適切と考えられる。」と記載され
ていた。被上告人は、右診断書にも上告人が現場監督業務に従事し得る旨の記載が
ないことから、本件自宅治療命令を持続した。
 8 その後、上告人から被上告人に対して賃金仮払を求める仮処分が申し立てら
れ、その審尋において、上告人の主治医の意見聴取が行われ、平成四年一月時点で
は、上告人の症状は仕事に支障がなく、スポーツも正常人と同様に行い得る状態で
あることなどが明らかになった。そこで、被上告人は、同年二月五日、上告人に対
し、本件工事現場で現場監督業務に従事すべき旨の業務命令を発し、上告人は、同
日以降、右命令に従い、本件工事現場における現場監督業務に従事した。
 9 以上のとおり、上告人は、平成三年一〇月一日から平成四年二月五日までの
期間(以下「本件不就労期間」という。)中、本件工事現場における現場監督業務
のうち現場作業に係る労務の提供は不可能で、事務作業に係る労務の提供のみが可
能であったものであり、現実に労務に服することはなかった。そのため、被上告人
は、右期間中上告人を欠勤扱いとし、その間の賃金を支給せず、平成三年一二月の
冬期一時金を減額支給した。
二 原審は、右事実関係に基づき、次のとおり判断した。
 1 労働者が故意又は過失に基づくことなく、また、業務に起因することなくり
患した病気(以下「私病」という。)のため労務の全部又は一部の履行が不能とな
った場合には、雇用契約、労働協約等に特段の定めがない限り、全部が不能のとき
は、労働者は賃金請求権を取得せず(民法五三六条一項)、一部が不能のときは、
一部のみの提供は債務の本旨に従った履行の提供とはいえないから、原則として使
用者は労務の受領を拒否し賃金支払義務を免れ得るが、提供不能な労務の部分が提
供すべき労務の全部と対比してわずかなものであるか、又は使用者が当該労働者の
配置されている部署における他の労働者の担当労務と調整するなどして、当該労働
者において提供可能な労務のみに従事させることが容易にできる事情があるなど、
信義則に照らし、使用者が当該労務の提供を受領するのが相当であるといえるとき
には、使用者はその受領をすべきであり、これを拒否したときは、労働者は賃金請
求権を喪失しない(民法五三六条二項)。
 2 本件疾病は私病であり、私病のため労務の提供ができない場合でも賃金を支
払う旨の規定があるとの主張立証はない。そして、上告人は、本件不就労期間中、
事務作業に係る労務の提供のみが可能であったところ、本件工事現場においては、
現場作業がほとんどであり、事務作業は補足的でわずかなものにすぎず、信義則上
事務作業を上告人に集中して担当させる措置を採ることが相当であったとはいえな
いし、現場勤務を命じられる前の工務監理部での事務作業は、恒常的に存在するも
のではなく、本件不就労期間中にこれが存在したとは認められないから、 これを
斟酌することはできない。また、上告人提出の病状説明書や診断書の内容につき疑
念を持つべき事情があったとはいえないから、被上告人が改めて医学調査をすべき
であったとはいえないし、復職命令までの間に、上告人が債務の本旨に従った労務
の提供ができるようになったことを明らかにし、その受領を催告したとの主張立証
はない。
 3 したがって、信義則上上告人の労務の一部のみの提供を受領するのが相当と
いうべき事情がなく、上告人の債務の履行が不能となったのであるから、上告人は、
本件不就労期間中の賃金及び一時金請求権を取得しない。
三 しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のと
おりである。
 1 労働者が職種や業務内容を特定せずに労働契約を締結した場合においては、
現に就業を命じられた特定の業務について労務の提供が十全にはできないとしても、
その能力、経験、地位、当該企業の規模、業種、当該企業における労働者の配置・
異動の実情及び難易等に照らして当該労働者が配置される現実的可能性があると認
められる他の業務について労務の提供をすることができ、かつ、その提供を申し出
ているならば、なお債務の本旨に従った履行の提供があると解するのが相当である。
そのように解さないと、同一の企業における同様の労働契約を締結した労働者の提
供し得る労務の範囲に同様の身体的原因による制約が生じた場合に、その能力、経
験、地位等にかかわりなく、現に就業を命じられている業務によって、労務の提供
が債務の本旨に従ったものになるか否か、また、その結果、賃金請求権を取得する
か否かが左右されることになり、不合理である。
 2 前記事実関係によれば、上告人は、被上告人に雇用されて以来二一年以上に
わたり建築工事現場における現場監督業務に従事してきたものであるが、労働契約
上その職種や業務内容が現場監督業務に限定されていたとは認定されておらず、ま
た、上告人提出の病状説明書の記載に誇張がみられるとしても、本件自宅治療命令
を受けた当時、事務作業に係る労務の提供は可能であり、かつ、その提供を申し出
ていたというべきである。そうすると、右事実から直ちに上告人が債務の本旨に従
った労務の提供をしなかったものと断定することはできず、上告人の能力、経験、
地位、被上告人の規模、業種、被上告人における労働者の配置・異動の実情及び難
易等に照らして上告人が配置される現実的可能性があると認められる業務が他にあ
ったかどうかを検討すべきである。そして、上告人は被上告人において現場監督業
務に従事していた労働者が病気、けがなどにより当該業務に従事することができな
くなったときに他の部署に配置転換された例があると主張しているが、その点につ
いての認定判断はされていない。そうすると、これらの点について審理判断をしな
いまま、上告人の労務の提供が債務の本旨に従ったものではないとした原審の前記
判断は、上告人と被上告人の労働契約の解釈を誤った違法があるものといわなけれ
ばならない。
 3 以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、原判決は破棄を免
れず、右の点については、更に審理を尽くさせる必要があるから、本件を原審に差
し戻すのが相当である。
 よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
     最高裁判所第一小法廷
         裁判長裁判官    藤   井   正   雄
            裁判官    小   野   幹   雄
            裁判官    遠   藤   光   男
            裁判官    井   嶋   一   友
            裁判官    大   出   峻   郎

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