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裁判例


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主文
原判決中主文第一項を破棄し、被上告人B1の控訴を棄却する。
上告人らのその余の上告を棄却する。
前項の部分に関する上告費用は上告人らの負担とし、その余の部分に関す
る控訴費用及び上告費用は、被上告人B1の負担とする。
理由
第一上告代理人西嶋吉光、同菅原辰二、同佐伯善男、同東俊一、同草薙順一、
同谷正之、同薦田伸夫、同高田義之、同今川正章、同水口晃、同井上正実、同津村
健太郎、同阿河準一、同高村文敏、同三野秀富、同猪崎武典、同久保和彦、同西山
司郎、同堀井茂、同渡辺光夫、同平井範明、同桑城秀樹、同臼井滿、同重哲郎、同
木田一彦の上告理由について
一事実関係及び訴訟の経過
1原審の適法に確定した事実関係によれば、被上告人B1が愛媛県知事の職に
あった昭和五六年から同六一年にかけて、(1)愛媛県(以下「県」という。)の
東京事務所長の職あった被上告人B2が、宗教法人D神社(以下「D神社」とい
う。)
の挙行した春季又は秋季の例大祭に際して奉納する玉串料として九回にわたり各五
〇〇〇円(合計四万五〇〇〇円)を、(2)同じく同被上告人が、D神社の挙行し
た七月中旬の「みたま祭」に際して奉納する献灯料として四回にわたり各七〇〇〇
円又は八〇〇〇円(合計三万一〇〇〇円)を、また、(3)県生活福祉部老人福祉
課長の職にあった被上告人B3、承継前被上告人B4、被上告人B5、同B6及び
同B7が、宗教法人愛媛県E神社(以下「E神社」という。)の挙行した春季又は
秋季の慰霊大祭に際してF遺族会を通じて奉納する供物料として九回にわたり各一
万円(合計九万円)を、それぞれ県の公金から支出した(以下、これらの支出を「
本件支出」という。)というのであるところ、本件は、本件支出が憲法二〇条三項、
八九条等に照らして許されない違法な財務会計上の行為に当たるかどうかが争われ
た地方自治法二四二条の二第一項四号に基づく損害賠償代位請求住民訴訟である。
2第一審は、本件支出は、その目的が宗教的意義を持つことを否定することが
できないばかりでなく、その効果がD神社又はE神社の宗教活動を援助、助長、促
進することになるものであって、本件支出によって生ずる県とD神社及びE神社と
の結び付きは、我が国の文化的・社会的諸条件に照らして考えるとき、もはや相当
とされる限度を超えるものであるから、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に当
たり、違法なものといわなければならないと判断した。
これに対して、原審は、本件支出は宗教的な意義を持つが、一般人にとって神社
に参拝する際に玉串料等を支出することは過大でない限り社会的儀礼として受容さ
れるという宗教的評価がされており、知事は、遺族援護行政の一環として本件支出
をしたものであって、それ以外の意図、目的や深い宗教心に基づいてこれをしたも
のではないし、その支出の程度は、少額で社会的な儀礼の程度にとどまっており、
その行為が一般人に与える効果、影響は、D神社等の第二次大戦中の法的地位の復
活や神道の援助、助長についての特別の関心、気風を呼び起こしたりするものでは
なく、これらによれば、本件支出は、神道に対する援助、助長、促進又は他の宗教
に対する圧迫、干渉等になるようなものではないから、憲法二〇条三項、八九条に
違反しないと判断した。
二本件支出の違法性に関する当裁判所の判断
原審の右判断は是認することができない。その理由は以下のとおりである。
1政教分離原則と憲法二〇条三項、八九条により禁止される国家等の行為
憲法は、二〇条一項後段、三項、八九条において、いわゆる政教分離の原則に基
づく諸規定(以下「政教分離規定」という。)を設けている。
一般に、政教分離原則とは、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は宗教そ
のものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味す
るものとされているところ、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社
会的条件によって異なるものがある。我が国では、大日本帝国憲法に信教の自由を
保障する規定(二八条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣
民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という同条自体の制限を伴っていたばかりでな
く、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信
仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた等のことも
あって、同憲法の下における信教の自由の保障は不完全なものであることを免れな
かった。憲法は、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き右のような種々の弊害
を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にそ
の保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至ったのである。元
来、我が国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているの
であって、このような宗教事情の下で信教の自由を確実に実現するためには、単に
信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結び付き
をも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であった。これらの点にかん
がみると、憲法は、政教分離規定を設けるに当たり、国家と宗教との完全な分離を
理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべき
である。
しかしながら、元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であって、信
教の自由そのものを直接保障するものではなく国家と宗教との分離を制度として保
障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。そ
して、国家が社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、
援助等の諸施策を実施するに当たって、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れ
ることはできないから、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現
することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。さらにまた、政教
分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生
ずることを免れない。これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象とな
る国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があるしとを免れず、政教分離原
則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸
条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないこ
とを前提とした上で、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の
根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問
題とならざるを得ないのである。右のような見地から考えると、憲法の政教分離規
定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立
であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いを持つことを
全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及
び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相
当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである
と解すべきである。
右の政教分離原則の意義に照らすと、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、お
よそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すもの
ではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られる
というべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対す
る援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきであ
る。そして、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当た
っては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場
所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについて
の意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響
等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。
憲法八九条が禁止している公金その他の公の財産を宗教上の組織又は団体の使用、
便益又は維持のために支出すること又はその利用に供することというのも、前記の
政教分離原則の意義に照らして、公金支出行為等における国家と宗教とのかかわり
合いが前記の相当とされる限度を超えるものをいうものと解すべきであり、これに
該当するかどうかを検討するに当たっては、前記と同様の基準によって判断しなけ
ればならない。
以上は、当裁判所の判例の趣旨とするところでもある(最高裁昭和四六年(行ツ)
第六九号同五二年七月一三日大法廷判決・民集三一巻四号五三三頁、最高裁昭和五
七年(オ)第九〇二号同六三年六月一日大法廷判決・民集四二巻五号二七七頁参
照)。
2本件支出の違法性
そこで、以上の見地に立って、本件支出の違法性について検討する。
(一)原審の適法に確定した事実関係によれば、被上告人B2らは、いずれも宗
教法人であって憲法二〇条一項後段にいう宗教団体に当たることが明らかなD神社
又はE神社が各神社の境内において挙行した恒例の宗教上の祭祀である例大祭、み
たま祭又は慰霊大祭に際して、玉串料、献灯料又は供物料を奉納するため、前記回
数にわたり前記金額の金員を県の公金から支出したというのである。ところで、神
社神道においては、祭祀を行うことがその中心的な宗教上の活動であるとされてい
ること、例大祭及び慰霊大祭は、神道の祭式にのっとって行われる儀式を中心とす
る祭祀であり、各神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義を有するものと位置
付けられていること、みたま祭は、同様の儀式を行う祭祀であり、D神社の祭祀中
最も盛大な規模で行われるものであることは、いずれも公知の事実である。そして、
玉串料及び供物料は、例大祭又は慰霊大祭において右のような宗教上の儀式が執り
行われるに際して神前に供えられるものであり、献灯料は、これによりみたま祭に
おいて境内に奉納者の名前を記した灯明が掲げられるというものであって、いずれ
も各神社が宗教的意義を有すると考えていることが明らかなものである。
これらのことからすれば、県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀に
かかわり合いを持ったということが明らかである。そして、一般に、神社自体がそ
の境内において挙行する恒例の重要な祭祀に際して右のような玉串料等を奉納する
ことは、建築主が主催して建築現場において土地の平安堅固、工事の無事安全等を
祈願するために行う儀式である起工式の場合とは異なり、時代の推移によって既に
その宗教的意義が希薄化し、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっていると
までは到底いうことができず、一般人が本件の玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つ
にすぎないと評価しているとは考え難いところである。そうであれば、玉串料等の
奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小な
り持たざる得ないのであり、このことは、本件においても同様というべきである。
また、本件においては、県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支
出をしたという事実がうかがわれないのであって、県が特定の宗教団体との間にの
み意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない。これらの
ことからすれば、地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特
別のかかわり合いを持つことは、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別
に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであると
の印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ない。
被上告人らは、本件支出は、遺族援護行政の一環として、戦没者の慰霊及び遺族
の慰謝という世俗的な目的で行われた社会的儀礼にすぎないものであるから、憲法
に違反しないと主張する。確かに、D神社及びE神社に祭られている祭神の多くは
第二次大戦の戦没者であって、その遺族を始めとする愛媛県民のうちの相当数の者
が、県が公の立場においてD神社等に祭られている戦没者の慰霊を行うことを望ん
でおり、そのうちには、必ずしも戦没者を祭神として信仰の対象としているからで
はなく、故人をしのぶ心情からそのように望んでいる者もいることは、これを肯認
することができる。そのような希望にこたえるという側面においては、本件の玉串
料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できない。しかしながら、明治維
新以降国家と神道が密接に結び付き種々の弊害を生じたことにかんがみ政教分離規
定を設けるに至ったなど前記の憲法制定の経緯に照らせば、たとえ相当数の者がそ
れを望んでいるとしても、そのことのゆえに、地方公共団体と特定の宗教とのかか
わり合いが、相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになると
はいえない。戦没者の慰霊及び遺族の慰謝ということ自体は、本件のように特定の
宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができると考えられ
るし、神社の挙行する恒例祭に際して玉串料等を奉納することが、慣習化した社会
的儀礼にすぎないものになっているとも認められないことは、前記説示のとおりで
ある。ちなみに、神社に対する玉串料等の奉納が故人の葬礼に際して香典を贈るこ
ととの対比で論じられることがあるが、香典は、故人に対する哀悼の意と遺族に対
する弔意を表するために遺族に対して贈られ、その葬礼儀式を執り行っている宗教
家ないし宗教団体を援助するためのものではないと一般に理解されており、これと
宗教団体の行う祭祀に際して宗教団体自体に対して玉串料等を奉納することとでは、
一般人の評価において、全く異なるものがあるといわなければならない。また、被
上告人らは、玉串料等の奉納は、神社仏閣を訪れた際にさい銭を投ずることと同様
のものであるとも主張するが、地方公共団体の名を示して行う玉串料等の奉納と一
般にはその名を表示せずに行うさい銭の奉納とでは、その社会的意味を同一に論じ
られないことは、おのずから明らかである。そうであれば、本件玉串料等の奉納は、
たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてされたものであ
ったとしても、世俗的目的で行われた社会的儀礼にすぎないものとして憲法に違反
しないということはできない。
以上の事情を総合的に考慮して判断すれば、県が本件玉串料等D神社又はE神社
に前記のとおり奉納したことは、その目的が宗教的意義を持つことを免れず、その
効果が特定の宗教に対する援助、助長、促進になると認めるべきであり、これによ
ってもたらされる県とD神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件
に照らし相当とされる限度を超えるものであって、憲法二〇条三項の禁止する宗教
的活動に当たると解するのが相当である。そうすると、本件支出は、同項の禁止す
る宗教的活動を行うためにしたものとして、違法というべきである。これと異なる
原審の判断は、同項の解釈適用を誤るものというほかはない。
(二)また、D神社及びE神社は憲法八九条にいう宗教上の組織又は団体に当た
ることが明らかであるところ、以上に判示したところからすると、本件玉串料等を
D神社又はE神社に前記のとおり奉納したことによってもたらされる県とD神社等
とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超
えるものと解されるのであるから、本件支出は、同条の禁止する公金の支出に当た
り、違法というべきである。したがって、この点に関する原審の判断も、同条の解
釈適用を誤るものといわざるを得ない。
三被上告人らの損害賠償責任の有無
原審は、右の誤った判断に基づき、本件支出に違法はないとして、上告人らの請
求をいずれも棄却すべきであるとしたが、以上のとおり、本件支出は違法であると
いうべきであるから、更に進んで、被上告人らの損害賠償責任の有無について検討
することとする。
原審の適法に確定した事実関係によれば、本件支出の当時、本件支出の権限を法
令上本来的に有していたのは、知事の職にあった被上告人B1であったところ、本
件支出のうちD神社に対してされたものについては、県の規則により県東京事務所
長に対し権限が委任され、その職にあった被上告人B2がこれを行ったのであり、
また、本件支出のうちE神社に対してされたものについては、県の規則及び訓令に
より県生活福祉部老人福祉課長に専決させることとされ、その職にあった被上告人
B3、承継前被上告人B4、被上告人B5、同B6及び同B7(以下、被上告人B
2を含め、これらの者を「被上告人B2ら」という。)がそれぞれこれを行ったと
いうのである。
右のように、被上告人B1は、自己の権限に属する本件支出を補助職員である被
上告人B2らに委任し、又は専決により処理させたのであるから、その指揮監督上
の義務に違反し、故意又は過失によりこれを阻止しなかったと認められる場合には、
県に対し右違法な支出によって県が被った損害を賠償する義務を負うことになると
解すべきである(最高裁平成二年(行ツ)第一三七号同三年一二月二〇日第二小法
廷判決・民集四五巻九号一四五五頁、最高裁昭和六二年(行ツ)第一四八号平成五
年二月一六日第三小法廷判決・民集四七巻三号一六八七頁参照)。原審の適法に確
定したところによれば、被上告人B1は、D神社等に対し、被上告人B2らに玉串
料等を持参させるなどして、これを奉納したと認められるというのであり、本件支
出には憲法に違反するという重大な違法があること、地方公共団体が特定の宗教団
体に玉串料、供物料等の支出をすることについて、文部省、自治省等が、政教分離
原則に照らし、慎重な対応を求める趣旨の通達、回答をしてきたことなどをも考慮
すると、その指揮監督上の義務に違反したものであって、これにつき少なくとも過
失があったというのが相当である。したがって、被上告人B1は、県に対し、違法
な本件支出により県が被った本件支出金相当額の損害を賠償する義務を負うという
べきである。
これに対し、被上告人B2らについては、地方自治法二四三条の二第一項後段に
より損害賠償責任の発生要件が限定されており、本件支出行為をするにつき故意又
は重大な過失があった場合に限り県に対して損害賠償責任を負うものであるところ、
原審の適法に確定したところによれば、被上告人B2らは、いずれも委任を受け、
又は専決することを任された補助職員として知事の前記のような指揮監督の下で本
件支出をしたというのであり、しかも、本件支出が憲法に違反するか否かを極めて
容易に判断することができたとまではいえないから、被上告人B2らがこれを憲法
に違反しないと考えて行ったことは、その判断を誤ったものではあるが、著しく注
意義務を怠ったものとして重大な過失があったということはできない。そうすると、
被上告人B1以外の被上告人らは県に対し損害賠償責任を負わないというべきであ
る。
四結論
以上によれば、上告人らの被上告人B1に対する請求は、これを認容すべきであ
り、その余の被上告人らに対する請求は、これを棄却すべきであるところ、これと
同旨の第二審判決は、結論において是認し得るから、第一審判決のうち上告人らの
被上告人B1に対する請求に係る部分を取り消して同請求を棄却した原判決主文第
一項は、破棄を免れず、右部分については、同被上告人の控訴を棄却すべきであり、
上告人らのその余の被上告人らに対する控訴を棄却した原判決主文第二項に対する
上告は、理由がないとして、これを棄却すべきである。
第二Gの上告取下げの効力について
本件上告を申し立てた者のうちGは、平成六年七月七日、上告を取り下げる旨の
書面を当裁判所に提出した。そこで、職権により、右上告取下げの効力について判
断する。
本件は、地方自治法二四二条の二に規定する住民訴訟である。同条は、普通地方
公共団体の財務行政の適正な運営を確保して住民全体の利益を守るために、当該普
通地方公共団体の構成員である住民に対し、いわば公益の代表者として同条一項各
号所定の訴えを提起する権能を与えたものであり、同条四項が、同条一項の規定に
よる訴訟が係属しているときは、当該普通地方公共団体の他の住民は、別訴をもっ
て同一の請求をすることができないと規定しているのは、住民訴訟のこのような性
質にかんがみて、複数の住民による同一の請求については、必ず共同訴訟として提
訴することを義務付け、これを一体として審判し、一回的に解決しようとする趣旨
に出たものと解される。そうであれば、住民訴訟の判決の効力は、当事者となった
住民のみならず、当該地方公共団体の全住民に及ぶものというべきであり、複数の
住民の提起した住民訴訟は、民訴法六二条一項にいう「訴訟ノ目的カ共同訴訟人ノ
全員ニ付合一ニノミ確定スヘキ場合」に該当し、いわゆる類似必要的共同訴訟と解
するのが相当である。
ところで、類似必要的共同訴訟については、共同訴訟人の一部の者がした訴訟行
為は、全員の利益においてのみ効力を生ずるとされている(民訴法六二条一項)。
上訴は、上訴審に対して原判決の敗訴部分の是正を求める行為であるから、類似必
要的共同訴訟において共同訴訟人の一部の者が上訴すれば、それによって原判決の
確定が妨げられ、当該訴訟は全体として上訴審に移審し、上訴審の判決の効力は上
訴をしなかった共同訴訟人にも及ぶものと解される。しかしながら、合一確定のた
めには右の限度で上訴が効力を生ずれば足りるものである上、住民訴訟の前記のよ
うな性質にかんがみると、公益の代表者となる意思を失った者に対し、その意思に
反してまで上訴人の地位に就き続けることを求めることは、相当でないだけでなく、
住民訴訟においては、複数の住民によって提訴された場合であっても、公益の代表
者としての共同訴訟人らにより同一の違法な財務会計上の行為又は怠る事実の予防
又は是正を求める公益上の請求がされているのであり、元来提訴者各人が自己の個
別的な利益を有しているものではないから、提訴後に共同訴訟人の数が減少しても、
その審判の範囲、審理の態様、判決の効力等には何ら影響がない。そうであれば、
住民訴訟については、自ら上訴をしなかった共同訴訟人をその意に反して上訴人の
地位に就かせる効力までが行政事件訴訟法七条、民訴法六二条一項によって生ずる
と解するのは相当でなく、自ら上訴をしなかった共同訴訟人は、上訴人にはならな
いものと解すべきである。この理は、いったん上訴をしたがこれを取り下げた共同
訴訟人についても当てはまるから、上訴をした共同訴訟人のうちの一部の者が上訴
を取り下げても、その者に対する関係において原判決が確定することにはならない
が、その者は上訴人ではなくなるものと解される。最高裁昭和五七年(行ツ)第一
一号同五八年四月一日第二小法廷判決・民集三七巻三号二〇一頁は、右と抵触する
限度において、変更すべきものである。
したがって、Gは、上告の取下げにより上告人ではなくなったものとして、本判
決をすることとする。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、
九五条、八九条、九三条に従い、裁判官大野正男、同福田博の各補足意見、裁判官
園部逸夫、同高橋久子、同尾崎行信の各意見、裁判官三好達、同可部恒雄の各反対
意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
判示第一の二についての裁判官大野正男の補足意見は、次のとおりである。
私は、多数意見に賛同するものであるが、多数意見第一の二につき、私の意見を
補足しておきたい。
一本件行為の目的について
本件で重視されなければならないのは、玉串料等の奉納が、戦没者の慰霊、遺族
の慰謝を目的とするものであるといっても、それはあくまでD神社、E神社という
特定の宗教団体の祭祀に対してされているという事実である。その点を捨象して、
単に、地方公共団体が戦没者の慰霊等を行うことに宗教的的意義があるか否かとか、
あるいはそれが社会的儀礼に当たるか否かとかを論ずることは、事柄の本筋を見落
とすものである。
被上告人B1は、本件玉串料等の支出目的は、同人の支持団体であり同人が会長
を務める県遺族会の要請にこたえ、県の行う戦没者の慰霊、遺族の慰謝という遺族
援護行政の一環として行ったものであって、特段の宗教的意識を持って行ったもの
ではない旨主張している。
しかし、憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たるか否かの判断基準の一となる
べき行為の目的は、当該行為者の主観的、内面的な感情の有無や濃淡によってのみ
判断されるべきではなく、その行為の態様等との関連において客観的に判断される
べきものであり、とりわけ支出が宗教団体の世俗的な行為ではなくその宗教的な行
為そのものに向けられているときは、世俗的目的もあるからといって、その行為の
客観的目的の宗教的意義が直ちに否定されるものではない。
本件支出行為は、一面において遺族の援護という行政的な目的を有するとしても、
その対象がD神社等の最も重要な祭祀であって本来の行政の範囲に属する世俗的行
為ではないから、直接的に特定の宗教団体の宗教儀式そのものへの賛助を目的とし
ているといわざるを得ず、その宗教的意義を否定することはできない。
二本件行為の効果について
被上告人B1は、本件玉串料等の奉納は戦没者慰霊等のためにされた少額のもの
で社会的儀礼であり、宗教に対する関心を特に高めたり、その援助、助長をするよ
うなものではないと主張している。
本件玉串料等の支出は相当年数にわたり継続して行われているとはいえ、一回の
金員は五〇〇〇円ないし一万円程度のものであるから、経済的にみれば、宗教に対
する援助、助長に当たるとは必ずしもいえないとの議論もあり得るかもしれない。
しかしながら、政教分離原則の適用を検討するに当たっては、当該行為の外形的、
経済的な側面のみにとらわれるべきでなく、社会的、歴史的条件に即してその実質
をみる必要があり、社会に与える無形的なあるいは精神的な効果や影響をも考慮す
べきである。そして、その観点よりすれば、以下に述べるとおり、その影響、効果
は大きいといわざるを得ない。
1多数意見の述べるとおり、我が国においては各種の宗教が多元的、重層的に
発達、併存しているが、戦没者、戦争犠牲者の慰霊、追悼については各種の宗教団
体がそれぞれの教義、教理、祭式に基づいてこれを執り行っているのであって、そ
の中にあって地方公共団体がD神社等による戦没者慰霊の祭祀にのみ賛助すること
は、その祭祀を他に比して優越的に選択し、その宗教的価値を重視していると一般
社会からみられることは否定し難く、特定の宗教団体に重要な象徴的利益を与える
ものといわざるを得ない。およそ公的機関は、すべての、いかなる宗教をも援助、
助長してはならないが、中でも併存する宗教団体のうちから特定の宗教団体を選択
してその宗教儀式を賛助することは、政教分離の中心をなす国家の宗教的中立に反
するものである。
2地方公共団体によるD神社等への玉串料等の公金の支出の世俗的影響も、無
視することはできない。
宗教的祭祀に起源を有する儀式等が多くの歳月を経てその宗教的意義が希薄にな
り、社会的儀礼や風俗として残っていることもまれではない。このような場合に公
的機関がこれを行ったり参加したりしても、特定の宗教団体を支持していると受け
取られることはなく、また、社会関係の円滑な維持のため役立つことはあっても、
社会に対立をもたらすことは考え難い。しかし、公的機関がD神社等の祭祀に公金
を支出してこれを賛助することについては、D神社に崇敬の念を持つ人々やD神社
を戦没者慰霊の中心的施設と考える人々は、これに満足と共感を覚えるかもしれな
いが神道と教義を異にする宗教団体に属する人々や、D神社が国家神道の中枢的存
在であるとしてそれへの礼拝を強制されたことを記憶する人々、あるいはD神社に
合祀されている者は主として軍人軍属及び準軍属であって一般市民の戦争犠牲者の
ほとんどが含まれていないことに違和感を抱く人々は、これに不満と反感を持つか
もしれない。そのような対立は、宗教的分野ばかりではなく、社会的、政治的分野
においても起こり得ることである。公的機関が宗教にかかわりを持つ行為をするこ
とによって、広く社会にこのような効果を及ぼすことは、公的機関を宗教的対立に
巻き込むことになり、同時に宗教を世俗的対立に巻き込むことにもなるのであって、
社会的儀礼や風俗として容認し得る範囲を超え、公的機関と宗教団体のいずれにと
っても害をもたらすおそれを有するといわざるを得ない。そのようなことを避ける
ことこそ、厳格な政教分離原則の規範を憲法が採用した趣旨に合致するものである。
三被上告人B1は、D神社は我が国における戦没者慰霊の中心的存在であるか
ら、その祭祀に地方公共団体が玉串料を奉納することは社会的儀礼であると主張す
る。
しかしながら、玉串料の奉納に儀礼的な意味合いがあるとしても、また、我が国
近代史の一時期にD神社が戦没者の中心的慰霊施設として扱われたことがあるとし
ても、それを理由に政教分離原則の例外扱いを認めるべきものではない。
憲法二〇条三項、八九条が厳格な政教分離原則を採用しているのは、多数意見引
用の昭和五二年七月一三日大法廷判決及び多数意見が繰り返し判示しているように、
明治維新以降の我が国の社会において国家と神道が結び付き、国家神道に対して事
実上国教的な地位が与えられ、その信仰が要請され、一部の宗教団体に対し厳しい
迫害が加えられた歴史的経緯に基づくものであるが、このような政教の融合が生じ
たのも、「神社は宗教にあらず」ということを理由に、神道的祭祀や儀礼を世俗的
な次元で社会的規範として取り入れ、また、臣民の義務であるとして事実上強制し
たからである。憲法は、第二次大戦後このような歴史的経験にかんがみて、信教の
自由を国民の基本的人権として、これに強い保障を与えるとともに、国家と宗教が
融合することは信教の自由に対する侵害になる危険性が高いことを認識して、その
制度的保障として政教分離原則を採用し、前記規定を設けたものである。この立法
の経緯及び趣旨に照らせば、右各条項は公的機関に対し強い規範性を有するものと
解すべきであるから、我が国社会の中に、D神社に崇敬の念を持つ人々がいること
は事実であり、また、それは信教の自由の保障するところでもあるが、いやしくも
公的機関が特定の宗教団体であるD神社等に対し、公金を使用して玉串料等を奉納
し特別の敬意を表することは、先に述べたとおり、その目的、効果を実質的にみれ
ば、戦没者の慰霊、追悼について公的機関が特定の宗教団体との特別のかかわり合
いを示すことは明らかであって、右憲法条項の規範性に照らし到底許されないこと
である。そして、このことは、単にD神社に対してのみ許されないことではなく、
あらゆる宗教団体に対しても同様であることはもちろんである。
判示第一の二についての裁判官福田博の補足意見は、次のとおりである。
私は、多数意見に賛成するものであるが、この機会に、我が国における信教の自
由について私が考えていることを若干補足して述べておきたい。
信教の自由は、各種の人権の中でも最も基本的な自由権の一つとして、近代民主
主義国家にあってその擁護が重視されているものである。多数意見に述べられてい
るとおり、憲法に定める政教分離規定も、そのような信教の自由を一層確実なもの
とするための制度的保障として設けられたものである。
我が国においては、神道は年中行事や冠婚葬祭などを通じて多くの国民の生活に
密接に結び付いており、そのような行事や儀式への参加が自然なこととして受け入
れられている部分があることは事実である。とはいえ、神道も宗教の一つであるこ
とは、信教の自由を保障する憲法二〇条が当然の前提としているところでもある。
したがって、政教分離規定を適用して国(地方公共団体を含む。以下同じ。)の宗
教へのかかわりをどこまで許すかを検討する際は、政教分離の原則が目指す国の非
宗教性ないし宗教的中立性の理念は、神道を含むあらゆる宗教についてひとしく当
てはまる理念であることを常に念頭に置くことが、不可欠であると考える。
また、政教分離規定は、信教の自由を保障するために設けられたものであり、そ
の適用に当たっては、国のかかわりを認めることにつき基本的に慎重な態度で臨む
ことが重要であると考える。なぜならば、国のかかわりを認めても差し支えないと
されたことが結果的には国の信教の自由への過剰な関与(ひいては干渉ないし強制)
につながることとなった事例が、諸国の歴史の中に散見されるからである。そして、
このような慎重な態度を維持することは、緊密化する国際間の交流を通じ国民が様
々な宗教に接する機会が増えつつある今日、我が国が信教の自由を保障し、いかな
る信仰についても寛容であることを確保していく上でも、重要ではないかと考える
のである。
判示第一の二についての裁判官園部逸夫の意見は、次のとおりである。
本件支出が違法な公金の支出に当たるということについては、私も多数意見と結
論を同じくするものであるが、その理由(多数意見第一の二)については、見解を
異にする。
我が国には、戦前から、戦没者追悼慰霊の中心的施設として、D神社及びE神社
が置かれているが、原審の判断及び被上告人らの主張はいずれも、これらの神社が
通常の宗教施設と異なった意義を有することを強調している。しかしながら、D神
社及びE神社は、戦後の法制度の改革により、他の宗教団体と同等の地位にある宗
教団体(宗教法人)となっており、その施設は、通常の宗教施設である。
私は、右のことを前提とした上で、本件におりる公金の支出は、公金の支出の憲
法上の制限を定める憲法八九条の規定に違反するものであり、この一点において、
違憲と判断すべきものと考える。
一般に、葬式・告別式等の際にお悔やみとして供される金員は、社会通念上、特
定の故人の遺族を直接の対象とし社会的儀礼の範囲に属する支出とみられている。
これと異なり、宗教団体の主催する恒例の宗教行事のために、当該行事の一環とし
てその儀式にのっとった形式で奉納される金員は、当該宗教団体を直接の対象とす
る支出とみるべきである。したがって、右のような金員を公金から支出した行為は、
一面において、その支出の財務会計上の費目、意図された支出の目的、支出の形態、
支出された金額等に照らし社会的儀礼の範囲に属するとみられるところがあったと
しても、詰まるところ、当該宗教団体の使用(宗教上の使用)のため公金を支出し
たものと判断すべきであって、このような支出は、宗教上の団体の使用のため公金
を支出することを禁じている憲法八九条の規定に違反するものといわなければなら
ない。
これを本件についてみると、原審の適法に確定した事実関係によれば、被上告人
B2らは、D神社又はE神社が各神社の境内において挙行した恒例の祭祀である例
大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際して、玉串料、献灯料又は供物料を奉納するため、
多数意見第一の一掲記の回数及び金額の金員を県の公金から支出したというのであ
るから、右の金員は、D神社又はE神社の使用のため支出したものと認めるのを相
当とする。したがって、右の支出は、憲法八九条の右規定に違反する違法な公金の
支出というべきである。
ここで、二つのことを付言しておきたい。まず、従来の最高裁判所判例は、公金
を宗教上の団体に対して支出することを制限している憲法八九条の規定の解釈につ
いても、憲法二〇条三項の解釈に関するいわゆる目的効果基準が適用されるとして
いるが、私は、右基準の客観性、正確性及び実効性について、尾崎裁判官の意見と
同様の疑問を抱いており、特に、本判決において、その感を深くしている。しかし、
その点はきておき、本件において、憲法八九条の右規定の解釈について、右基準を
適用する必要はないと考える。
次に、本件の争点である公金の支出の違憲性の判断について、当該支出が憲法八
九条の右規定に違反することが明らかである以上、憲法二〇条三項に違反するかど
うかを判断する必要はない。私は、およそ信教に関する問題についての公の機関の
判断はできる限り謙抑であることが望ましいと考える。「為政者の全権限は、魂の
救済には決して及ぶべきでなく、また及ぶことが出来ない。」(ジョン・ロック。
種谷春洋『近代寛容思想と信教自由の成立』二三〇頁以下参照)
判示第一の二についての裁判官高橋久子の意見は、次のとおりである。
私は多数意見の結論には賛成するが、その結論に至る説示のうち第一の二には同
調することができないので、その点に関する私の意見を明らかにしておきたい。
一我が国憲法は、二〇条に、信教の自由は、何人に対してもこれを保障する、
いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない
(一項)、何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制され
ない(二項)、国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはな
らない(三項)と規定し、さらに、八九条に、公の財産は、宗教上の組織又は団体
の使用、便益又は維持のため、支出してはならない旨定めている。これは、大日本
帝国憲法における信教の自由を保障する規定が極めて不十分で、国家神道に対し事
実上国教的な地位が与えられ、それに対する信仰が強制されるとともに、一部の宗
教団体に対しては厳しい迫害が加えられるなど、明治維新以降国家と神道が密接に
結び付き種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障す
ることとし、その保障を確実ならしめるため政教分離規定を設けるに至ったのであ
る。
憲法は、信教の自由が人間の精神的自由の中核をなす基本的人権であり、我が国
においては前述のような歴史的事情があったことにかんがみ、信教の自由を無条件
に保障するのみでなく、国家といかなる宗教との結び付きも排除するために、国家
と宗教との完全な分離を理想として、国家の宗教的中立性を確保しようとしたもの
と解される。このことは、多数意見でも認めているところである。
しかしながら、多数意見は、「政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であ
って、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制
度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするもの
である。」とした上、「国家が社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化
などに関する助成、援助等の諸施策を実施するに当たって、宗教とのかかわり合い
を生ずることを免れることはできないから、現実の国家制度として、国家と宗教と
の完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。
さらにまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に
不合理な事態を生ずることを免れない。」、「政教分離規定の保障の対象となる国
家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が
現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件
に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを
前提とした上で、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本
目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問題と
ならざるを得ないのである。」、「(政教分離原則は)国家が宗教とのかかわり合
いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたら
す行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸
条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないと
するものであると解すべきである。」として、憲法のいう「国家と宗教との完全な
分離」を「理想」として棚上げし、国家は実際上、宗教とある程度のかかわり合い
を持たざるを得ないことを前提とした上で、宗教とのかかわり合いをもたらす行為
の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に
照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないというの
である。
この考え方によれば、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、国及びその機関の
活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、「当該行為
の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、
干渉等になるような行為をいうもの」とされ、ある行為が宗教的活動に該当するか
否かについては、「当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の
行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行
うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える
効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければ
ならない。」ということになる。
この考え方は、多数意見引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決(以下「地鎮祭
判決」という。)に示され、いわゆる目的・効果基準としてその後の宗教に関する
裁判に大きな影響を与えたものであって、多数意見は、これに依拠して、本判決の
枠組みとしているが、私は、この目的・効果基準についていくつかの疑問を持たざ
るを得ない。
二第一に、多数意見は、憲法のいう「国家と宗教との完全な分離」は理想であ
って、これを実現することは「不可能に近く」、これを完全に貫こうとすれば、「
各方面に不合理な事態を生ずる」というが、果たしてそうであろうか。地鎮祭判決
の挙げている不合理な事態の例は、特定宗教と関係のある私立学校への助成、文化
財である神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のための宗教団体に対する補助、
刑務所等における教誨活動等であるが、これらについては、平等の原則からいって、
当該団体を他団体と同様に取り扱うことが当然要請されるものであり、特定宗教と
関係があることを理由に他団体に交付される助成金や補助金などが支給されないな
らば、むしろ、そのことが信教の自由に反する行為であるといわなければならない。
このような例は、政教分離原則を国家と宗教との完全な分離と解することによって
生ずる不合理な事態とはいえず、国家と宗教との完全な分離を貫くことの妨げとな
るものとは考えられないのである。
私も、「完全分離」が不可能あるいは不適当である場合が全くないと考えている
わけではない。クリスマスツリーや門松のように習俗的行事化していることがだれ
の目にも明らかなものもないわけではなく、他にも同様の取扱いをする理由を有す
るケースが全くないと断定することはできない。しかし、「いかなる宗教的活動も
してはならない。」とする憲法二〇条三項の規定は、宗教とかかわり合いを持つす
べての行為を原則として禁じていると解すべきであり、それに対して、当該行為を
別扱いにするには、その理由を示すことが必要であると考える。すなわち、原則は
あくまでも「国家はいかなる宗教的活動もしてはならない」のである。ところが、
多数意見は、「国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないこ
とを前提とした上で」と、前提条件を逆転させている。
憲法二〇条三項の規定が、我が国の過去の苦い経験を踏まえて国家と宗教との完
全分離を理想としたものであることを考えると、目的・効果基準によって宗教的活
動に制限を付し、その範囲を狭く限定することは、憲法の意図するところではない
と考えるのである。
三第二は、多数意見が、「(国家と宗教との)かかわり合いが我が国の社会
的・
文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許
さない」、さらに、「諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しな
ければならない。」と、現実の姿を判断の尺度としていることである。前述のとお
り、我が国において国家神道に国教的な地位が与えられ、その結果種々の弊害を生
じたことは周知の事実であり、憲法は、その反省の上に立って信教の自由を無条件
で保障し、それを確実ならしめるために国家と宗教との完全な分離を理想として二
〇条の規定を設けたものと考えられるが、信教の自由は、心の深奥にかかわる問題
であるだけに、いまだに国家神道の残滓が完全に払拭されたとはいい難い。また、
我が国においては宗教は多元的・重層的に発展してきており、国民一般の宗教に対
する関心は必ずしも高くはなく、異なった宗教に対して極めて寛容である。特定の
宗教に帰依するからといって他宗教を排他的に取り扱うことはなく、このことは、
戦前、国家神道が各家庭の中で宗教というよりも超宗教的存在として生活の規範を
なし、多くの弊害をもたらす土壌となったと思われる。宗教的感覚において寛容で
あるということは、それ自体として悪いとはいえないであろうが、宗教が国民一般
の精神のコントロールを容易になし得る危険性をはらんでいるともいえる。その意
味からも政教分離原則は厳格に遵守されるべきであって、「社会的・文化的諸条件
に照らし相当とされる限度」、「社会通念に従って、客観的に判断」というように、
現実是認の尺度で判断されるべき事柄ではないと思うのである。
四第三は、いわゆる目的・効果基準は極めてあいまいな明確性を欠く基準であ
るということである。多数意見は、「(国家が)宗教とのかかわり合いをもたらす
行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条
件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとす
るものである」というが、「社会的・文化的諸条件」とは何か、「相当とされる限
度」というのはどの程度を指すのか、明らかではない。ある行為が宗教的活動に該
当するか否かを判断するに当たって考慮する事情として、「当該行為の目的が宗教
的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になる
ような行為をいうものと解すべきである。」、そして、「ある行為が右にいう宗教
的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみに
とらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的
評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、
程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に
従って、客観的に判断しなければならない。」としているが、これらの事情につい
て何をどのように評価するかは明らかではない。いわば目盛りのない物差しである。
したがって、この基準によって判断された地鎮祭判決後の判決が、同じ事実を認定
しながら結論を異にするものが少なくない。
殉職自衛隊員たる亡夫を山口県E神社に合祀されたことに関し、キリスト教徒で
ある妻からの国家賠償法に基づく損害賠償請求について、一、二審判決は、県隊友
会の同神社に対する合祀申請に自衛隊職員が関与した行為が憲法二〇条三項にいき
宗教的活動に当たるとしたが、多数意見引用の昭和六三年六月一日大法廷判決は、
右行為は宗教的活動に当たらないとした。
箕面市が忠魂碑の存する公有地の代替地を買い受けて忠魂碑の移設・再建をした
行為、地元の戦没者遺族会に対しその敷地として右代替地を無償貸与した行為等が
右の宗教的活動に該当するかどうかが争われた裁判では、一審判決は、右行為が宗
教的活動に当たると判断したが、二審判決は、これを否定し、最高裁平成五年二月
一六日第三小法廷判決も、宗教的活動には当たらないとした。
本件についても、一審判決と原判決とでは、同じ目的・効果基準によって判断し
ながら結論は反対であるし、本判決においても、多数意見と反対意見とでは、同じ
認定事実の下にいずれも地鎮祭判決の目的・効果基準に依拠するとしつつ全く反対
の結論に到達しているのであって、これをみても、地鎮祭判決の示す基準が明確な
指針たり得るかどうかに疑問を禁じ得ないのである。
以上のとおり、目的・効果基準は、基準としては極めてあいまいなものといわざ
るを得ず、このようなあいまいな基準で国家と宗教とのかかわり合いを判断し、憲
法二〇条三項の宗教的活動を限定的に解することについては、国家と宗教との結び
付きを許す範囲をいつの間にか拡大させ、ひいては信教の自由もおびやかされる可
能性があるとの懸念を持たざるを得ない。
五私は、憲法二〇条の規定する政教分離原則は、国家と宗教との完全な分離、
すなわち、国家は宗教の介入を受けず、また、宗教に介入すべきではないという国
家の非宗教性を意味するものと思うのである。信教の自由に関する保障が不十分で
あったことによって多くの弊害をもたらした我が国の過去を思うとき、政教分離原
則は、厳格に解されるべきことはいうまでもない。
したがって、私は、完全な分離が不可能、不適当であることの理由が示されない
限り、国が宗教とかかわり合いを持つことは許されないものと考える。県の公金か
らD神社の例大祭、みたま祭に玉串料、献灯料を、E神社の慰霊大祭に供物料を奉
納するため金員を支出した本件各行為は、いずれもそのような例外に当たるものと
は到底いえないことが明らかであり、違憲というほかはない。
判示第一の二についての裁判官尾崎行信の意見は、次のとおりである。
私は、多数意見の結論には同調するが、多数意見のうち第一の二については賛成
することができないので、その点についての私の意見を明らかにしておきたい。
一政教分離規定の趣旨・目的と合憲性の判断基準
多数意見引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決及び多数意見も説示していると
おり、憲法は、大日本帝国憲法下において信教の自由の保障が不十分であったため
種々の弊害が生じたことにかんがみ、信教の自由を無条件に保障し、更にその保障
を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けたものであり、これを設けるに
当たっては、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)と宗教との完全な分離を理
想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきで
ある。右大法延判決は、右の説示に続けて、国家が諸施策を実施するに当たり宗教
とのかかわり合いを生ずることは免れ難く、国家と宗教との完全分離を実現するこ
とは実際上不可能に近いし、これに固執すればかえって社会生活の各方面に不合理
な事態を生ずることを免れないとし、完全分離の理想を貫徹し得ない例として、宗
教関係の私立学校への助成等を挙げている。なるほど平等権や信教の自由を否定す
る結果を招くような完全分離は不合理極まりないとみることができるから、こうし
た憲法的価値を確保することができるよう考慮を払うことには理由があり、厳格な
完全分離の例外を一定限度で許し、柔軟に対応する余地を残すことは、複雑多岐な
社会事象を処理するための慎重な態度というべきであろう。この範囲において、私
は、右大法廷判決の説くところに同意することができる。そして、私は、右の説示
の趣旨に沿って政教分離規定を解釈すれば、国家と宗教との完全分離を原則とし、
完全分離が不可能であり、かつ、分離に固執すると不合理な結果を招く場合に限っ
て、例外的に国家と宗教とのかかわり合いが憲法上許容されるとすべきものと考え
るのである。
このような考え方に立てば、憲法二〇条三項が「いかなる宗教的活動もしてはな
らない。」と規定しているのも、国が宗教とのかかわり合いを持つ行為は、原則と
して禁止されるとした上で、ただ実際上国家と宗教との分離が不可能で、分離に固
執すると不合理な結果を生ずる場合に限って、例外的に許容されるとするものであ
ると解するのが相当である。したがって、国は、その施策を実施するための行為が
宗教とのかかわり合いを持つものであるときには、まず禁じられた活動に当たると
してこれを避け、宗教性のない代替手段が存しないかどうかを検討すべきである。
そして、当該施策を他の手段でも実施することができるならば、国は、宗教的活動
に当たると疑われる行為をすべきではない。しかし、宗教とのかかわり合いを持た
ない方法では、当該施策を実施することができず、これを放棄すると、社会生活上
不合理な結果を生ずるときは、更に進んで、当該施策の目的や施策に含まれる法的
価値、利益はいかなるものか、この価値はその行為を行うことにより信教の自由に
及ぼす影響と比べて優越するものか、その程度はどれほどかなどを考慮しなければ
ならない。施策を実施しない場合に他の重要な価値、特に憲法的価値の侵害が生ず
ることも、著しい社会的不合理の一場合である。こうした検証を経た上、政教分離
原則の除外例として特に許容するに値する高度な法的利益が明白に認められない限
り、国は、疑義ある活動に関与すべきではない。このような解釈こそが、憲法が政
教分離規定を設けた前述の経緯や趣旨に最もよく合致し、文言にも忠実なものであ
る上、合憲性の判断基準としても明確で疑義の少ないものということができる。そ
して、右の検討の結果、明確に例外的事情があるものと判断されない限り、その行
為は禁止されると解するのが、制度の趣旨に沿うものと考える。
二多数意見に対する疑問
これに対し、多数意見の示す政教分離規定の解釈は、前述の制定経緯やその趣旨
及び文言に忠実とはいえず、また、その判断基準は、極めて多様な諸要素の総合考
慮という漠然としたもので、基準としての客観性、明確性に欠けており、相当では
ないというほかはなく、私は、これに賛成することができない。その理由は、次の
とおりである。
1多数意見は、憲法が政教の完全分離を理想としているとしつつ、「分離にも
おのずから一定の限界がある」という。この判示のみをみれば、宗教的活動のすべ
てが「許されない」のが原則であるが、分離不能など特別の事情のために「許され
る」例外的な場合が存するとの趣旨をうかがわせる。ところが、それに続いて、「
信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかな
る限度で許されないこととなるかが問題」となるといい、突如「許されない」活動
を限定的に定義している。完全分離を理想と考え、国が宗教とかかわり合いを持つ
ことは原則的に許されないという立場から出発するのであれば、何が「許されない」
かを問題とするのではなく、何が例外的に「許される」のかをこそ論ずべきである。
私は、このような多数意見の立場は、政教分離制度の趣旨、目的にかなわず、同制
度が信教の自由を確保する手段として最大限機能するよう要請されていることを忘
れたものであって、望ましくないと考える。
2法解釈の原則は、法文を通常の意味・用法に従って解釈し、それで分明でな
いときは、立法者の意思を探求することである。「いかなる宗教的活動」をも禁止
するとの文言を素直に読めば、宗教とかかわり合いを持つ行為はすべて禁止されて
いると解釈すべきことは、極めて分明で、「原則禁止、例外許容」の立場を採るの
が当然である。にもかかわらず、何ら限定が付されていない文言を「いかなる場合
にいかなる限度で許されないこととなるかが問題」として、性質上の制限があると
読むことは、文意を離れるものであり、これを採ることができない。
憲法二〇条三項に影響を与えた米国憲法の類似規定(修正一条)に関し、いわゆ
る目的効果基準を採る判例が、この規定は一定の目的、効果を持つ行為を禁ずるも
のであると解釈していることにならって、我が国でも同様な限定を「宗教的活動」
に加える考えが生まれたとみられる。しかし、これは、両国憲法の規定の相違を無
視するものである。米国憲法は、「国教の樹立を定め、又は宗教の自由な行使を禁
止する法律(省略)を制定してはならない。」と規定し、国教樹立や宗教の自由行
使の禁止に当たる行為のみが許されないとしているため、右の禁止に当たる範囲を
定義する必要が生じ、判例は、許されない行為を決定する立場から基準を定めたの
である。これに対し、我が憲法は、端的にすべての宗教的活動を禁止の対象とする
としているのであるから、およそ宗教色を帯びる行為は一義的に禁止した上、特別
の場合に許容されるとの基準を設けるのが自然なこととなる。両国の条文の差異を
みれば、基準の立て方が異なってこそ、それぞれ素直に条文に適するといえよう。
3また、多数意見は、憲法二〇条三項の解釈に当たって、用語の意味内容があ
いまいで、その適用範囲が明確でなく、将来の指標とするには不十分と認められる。
多数意見は、「宗教的活動」とは、「国及びその機関の活動」で宗教とのかかわ
り合いを持つ「すべての行為」を指すものではなく、「かかわり合いをもたらす行
為」の目的効果にかんがみ、そのかかわり合いが諸条件に照らし「相当とされる限
度を超えるもの」のみをいい、この相当限度を超えるのは「当該行為の目的が宗教
的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助…等になるような行為」であるという。
この定義において、「当該行為」は、「国及びその機関」(以下「国」という。)
の活動で宗教との「かかわり合いをもたらす行為」(以下「関与行為」という。)
を意味している。
国と宗教とのかかわり合いをみる場合、右のように国の「かかわり合いをもたら
す」国自体の関与行為とかかわり合いの対象となる宗教的とみられる行為(以下「
対象行為」という。)が存在し、その両者の関係がいかなるものか検討されること
となる。なお、この両者は、国教樹立のように大きく重なることもあれば、津地鎮
祭のように重なる部分が減少し、本件玉串料奉納のように重なりが更に小さくなる
こともあり得る。また、津地鎮祭の場合、市がその主催者となっているとはいえ、
宗教行事そのものは、神職が主宰者となり独自の宗教儀式として実施されており、
市はこの他者の宗教行事と参加・利用の関係に立ったのであって、ここでも関与行
為と対象行為の区別は明らかである。
続いて多数意見は、「ある行為」が禁止される宗教的活動に該当するかどうかを
検討するに当たっては、「当該行為」の外形的側面のみにとらわれることなく、「
当該行為の行われる場所」その他の要素も考慮せよという。この場合、「ある行為」
や「当該行為」は、先行定義によれば、国の活動を意味する。ところが、多数意見
引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決は、「当該行為」の外形的側面の例示とし
て、主宰者が宗教家か、式次第が宗教の定める方式にのっとったものかなど、を挙
げており、右大法廷判決が「当該行為」なる用語を国の関与行為とは別異の、宗教
行事など国がかかわり合いを持とうとする対象行為を指すものとして使用している
ことを推知させる。しかし、この判示を定義どおり国の関与行為の外形と解する者
もあろうし、特にこの例示を欠く多数意見は、その可能性を高めている。
さらに、後続部分における「当該行為」も、多義的で意味を特定し難い。多数意
見が「当該行為の行われる場所」というとき、愛媛県による玉串料などの支出が問
題になっているので、県のかかわり合いをもたらす出損行為の場所と考えることも
できるが、直前の「当該行為」が祭式を指すのと同様、例大祭の場所とみる方が自
然である。「当該行為に対する一般人の宗教的評価」も同様で、玉串料奉納行為な
ど関与行為に対するものか、例大祭など対象行為に対するものか、両者を含めてか、
人々を迷わせる。「当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的
意識」という場合、検討するのは関与行為(者)、対象行為(者)のいずれについ
てか、その双方か、やはり不分明である。津地鎮祭の場合、まず、一般人の意識に
おいては、地鎮祭には宗教的意義を認めず、世俗的行為、慣習化した社会的儀礼と
して、世俗的な行事と評価しているとした上で、津市長らも同一の意識を持ってい
たと説示した点をみれば、対象行為を主眼としているとみられる一方、本件の原判
決においては、県の行為は、戦没者の慰霊が目的であったこと、遺族援護行政の一
環としてされたこと、金額が小さく儀礼的とみられることが論じられているところ
からすれば、県の関与行為を中心に「当該行為」や「当該行為者」が理解されてい
たとみられる。つまり、「当該行為」、「当該行為者」という同一用語を、前記大
法廷判決は対象行為について、本件原判決は関与行為について、それぞれ使用して
おり、この用語が必ずしも一義的には解し得ないことを示している。「当該行為の
一般人に与える効果、影響」というときも、国の行為のみについて論じているのか、
例大祭なども考慮の対象としているのか明らかでなく、ことの性質上、後者が除か
れているとは思えない。要するに、多数意見は、その意味内容を特定し難い部分が
あり、真意を把握するのが困難でその適用に際し、判断を誤らせる危険があり、合
憲性を左右する基準として、このような不明確さは許されるべきでない。
4そして、私の主張する前記一の立場によれば、国の行為のうち、一応宗教的
と認められるものは、すべて回避され、特に例外とすべき事由が明確に示されて初
めて許容されることとなるため、検討すべき行為の量も検討すべき事項も、選別さ
れ、限定される。要するに、基準の客観的定立と適用がより容易になるといい得る。
これに対し、多数意見の立場は、「宗教的活動」が本来的に限定された意味、内
容を持つことを出発点とする。そこでは、すべての宗教的活動は、例示されたよう
な多様な考慮要素に照らし総合評価して初めて、許されない宗教的活動の範囲に属
することが決定される。検討対象の量も多く、検討事項も広範に及び、特に総合評
価という漠然たる判断基準に頼らざるを得ず、客観性、明確性の点で大きな不安を
感じさせる。判断基準という以上、単に考慮要素を列挙するだけでは足りず、各要
素の評価の仕方や軽重についても何らかの基準を示さなければ、尺度として意味を
なさない。事実、これまでの裁判例において、同一の目的効果基準にのっとって同
一の行為を評価しながら、反対の結論に達している例があることは、右基準が明確
性を欠き、その適用が困難なことを示すものというべきである。
私は、右基準に代え、前記一に述べたところに従って新たな基準を用いることに
より、将来の混乱を防止すべきものと考える。
三結論
1そこで、本件を前記一において述べた基準に従って見てみると、まず、県が
戦没者を慰霊するという意図を実現するために、D神社等の祭祀に当たって玉串料
等を奉納する以外には、宗教とかかわり合いを持たないでこれを行う方法はなかっ
たのかどうかを検討しなければならない。しかし、そのような主張、立証はないの
みならず、反対に、多くの宗教色のない慰霊のみちがあることは、公知の事実であ
る。したがって、本件の県の行為は、宗教との分離が実際上不可能な場合には当た
らないというほかはない。また、当然のことながら、宗教とのかかわり合いを持た
ないでも県の右意図は実現することができる以上、本件の県の行為がなければ社会
生活上不合理な結果を招来するということはできず、この面からも、政教分離原則
に反しない例外的事情があるということはできない。実際に他の都道府県の知事ら
が本件のような玉串料等の奉納をしなくても、特段の不合理を生じているとは認め
られず、この種の社会的儀礼を尊重するあまり、憲法上の重要な価値をおろそかに
するのは、ことの順逆を誤っている。したがって、本件の玉串料等の奉納は、憲法
二〇条三項に違反するものであり、本件支出は違法というべきである。
2これに対し、本件の玉串料等の奉納は、その金額も回数も少なく、特定宗教
の援助等に当たるとして問題とするほどのものではないと主張されており、これに
加えて、今日の社会情勢では、昭和初期と異なり、もはや国家神道の復活など期待
する者もなく、その点に関する不安はき憂に等しいともいわれる。
しかし、我々が自らの歴史を振り返れば、そのように考えることの危険がいかに
大きいかを示す実例を容易に見ることができる。人々は、大正末期、最も拡大され
た自由を享受する日々を過ごしていたが、その情勢は、わずか数年にして国家の意
図するままに一変し、信教の自由はもちろん、思想の自由、言論、出版の自由もこ
とごとく制限、禁圧されて、有名無実となったのみか、生命身体の自由をも奪われ
たのである。「今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる」との警句を身をも
って体験したのは、最近のことである。情勢の急変には一〇年を要しなかったこと
を想起すれば、今日この種の問題を些細なこととして放置すべきでなく、回数や金
額の多少を問わず、常に発生の初期においてこれを制止し、事態の拡大を防止すべ
きものと信ずる。
右に類する主張として、我が国における宗教の雑居性、重層性を挙げ、国民は他
者の宗教的感情に寛大であるから、本件程度の問題は寛容に受け入れられており、
違憲などといってとがめ立てする必要がないとするものもある。しかし、宗教の雑
居性などのために、国民は、宗教につき寛容であるだけでなく、無関心であること
が多く、他者が宗教的に違和感を持つことに理解を示さず、その宗教的感情を傷付
け、軽視する弊害もある。信教の自由は、本来、少数者のそれを保障するところに
意義があるのであるから、多数者が無関心であることを理由に、反発を感ずる少数
者を無視して、特定宗教への傾斜を示す行為を放置することを許すべきでない。さ
らに、初期においては些少で問題にしなくてよいと思われる事態が、既成事実とな
り、積み上げられ、取り返し不能な状態に達する危険があることは、歴史の教訓で
もある。この面からも、現象の大小を問わず、ことの本質に関しては原則を固守す
ることをおろそかにすべきではない。
私は、こうした点を考慮しつつ、憲法がその条文に明示した制度を求めるに至っ
た歴史的背景を想起し、これを当然のこととして、異論なく受容した制定者始め国
民の意識に思いを致せば、国は、憲法の定める制度の趣旨、目的を最大限実現する
よう行動すべきであって、憲法の解釈も、これを要請し、勧奨するよう、なさるべ
きものと信じ、本意見を述べるものである。
判示第一についての裁判官三好達の反対意見は、次のとおりである。
私は、本件支出は、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に該当せず、また、同
八九条の禁止する公金の支出にも該当しないし、宗教団体が国から特権を受けるこ
とを禁止した同二〇条一項後段にも違反しないと考える。したがって、上告人らの
本訴請求は棄却されるべきものであり、これを棄却した原判決は、その結論におい
て維持せらるべく、本件上告は、理由がないものとして、これを棄却すべきもので
あると考える。以下、その理由を述べる。
一憲法における政教分離原則と憲法の禁止する宗教的活動及び公金の支出
この点についての私の考えは、多数意見も引用するところの最高裁昭和四六年(
行ツ)第六九号同五二年七月一三日大法廷判決・民集三一巻四号五三三頁及び最高
裁昭和五七年(オ)第九〇二号同六三年六月一日大法廷判決・民集四二巻五号二七
七頁の判示するところと同一であるが、以下、その主要な点を申し述べる。
現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不
可能に近く、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に
不合理な事態を生ずることを免れない。これらの点にかんがみると、政教分離規定
の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免
れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の
社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持
たざるを得ないことを前提とした上で、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の
確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されない
こととなるかが、問題とならざるを得ないのである。右のような見地から考えると、
憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、
国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわ
り合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをも
たらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化
的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さな
いとするものであると解すべきである。
右の政教分離原則の意義に照らすと、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、お
よそ国及びその機関の活動で宗教とかかわり合いを持つすべての行為を指すもので
はなく、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる
限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を
持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行
為をいうものと解すべきであり、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するか否か
を検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該
行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、
目的及び宗教的意義の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般
の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。
そして、本件支出が、宗教上の組織又は団体に対する公金の支出として、憲法八
九条によって禁止されるものに当たるか否かの判断も、右の基準によってされるべ
きものであり、本件支出を評価するに当たっては、我が国の社会的・文化的諸条件
に照らし相当とされる限度を超えるものと認められるか否かを検討すべきであり、
また、その検討に当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることがあっ
てはならないのである。
二D神社及び各県などのE神社(私の反対意見において、E神社とは、宗教法
人愛媛県E神社のみを指すのではなく、各県などに存在するE神社一般を指称す
る。)
をめぐる国民の意識等
1祖国や父母、妻子、同胞等を守るために一命を捧げた戦没者を追悼し、慰霊
することは、遺族や戦友に限らず、国民一般としての当然の行為ということができ
る。このような追悼、慰霊は、祖国や世界の平和を祈念し、また、配偶者や肉親を
失った遺族を慰めることでもあり、宗教、宗派あるいは民族、国家を超えた人間自
然の普遍的な情感であるからである。そして、国や地方公共団体、あるいはそれを
代表する立場に立つ者としても、このような追悼、慰霊を行うことは、国民多数の
感情にも合致し、遺族の心情にも沿うものであるのみならず、国家に殉じた戦没者
を手厚く、末長く追悼、慰霊することは、国や地方公共団体、あるいはそれを代表
する立場にある者としての当然の礼儀であり、道義の上からは義務ともいうべきも
のである。諸外国の実情をみても、各国の法令上の差異や、国家と宗教とのかかわ
り方の相違などにかかわらず、国が自ら追悼、慰霊のための行事を行い、あるいは、
国を代表する者その他公的立場に立つ者が民間団体の行うこれらの行事に公的資格
において参列するなど、戦没者の追悼、慰霊を公的に行う多数の例が存在する。我
が国においても、この間の事情は、これら諸外国と同様に考えることができる。そ
して、前述のように戦没者に対する追悼、慰霊は人間自然の普遍的な情感であるこ
とからすれば、追悼、慰霊を行うべきことは、戦没者が国に殉じた当時における国
としての政策が、長い歴史からみて、正であったか邪であったか、当を得ていたか
否かとはかかわりのないことというべきである。
以上のような私の考えは、さきに内閣総理大臣その他の国務大臣のD神社参拝の
在り方をめぐる問題について検討を遂げた「閣僚のD神社参拝問題に関する懇談会」
の昭和六〇年八月九日の報告書(以下、「D懇報告書」という。)において述べら
れているところと概ね趣旨を同じくするものである。
そして、一般的にいえば、慰霊の対象である御霊というものは、宗教的意識と全
く切り離された存在としては考え難いのであって、ただ留意すべきことは、追悼、
慰霊に当たり、特定の宗教とのかかわり合いが相当とされる限度を超えることによ
って、憲法二〇条三項等に違反してはならないということである。
2D神社は、主として我が国に殉じた戦没者二四六万余を祀る神社であり、各
県などにあるE神社は、主として右戦没者のうちその県などに縁故のある人々を祀
る神社であって、いずれも宗教的施設にほかならない。そして、折りにふれD神社
やE神社にいわゆるお参りをする遺族や戦友を始め国民の中には、祭神を信仰の対
象としてお参りするという者もあるであろうが、より一般的には、そのような宗教
的行為をしているという意識よりは、国に殉じた父、息子、兄弟、友人、知人、さ
らにはもっと広く国に殉じた同胞を偲び、追悼し、慰霊するという意識が強く、こ
れをもっと素朴にいえば、戦没者を慰めるために、会いに行くという気持が強いと
いえる。
そうであってみれば、D神社やE神社は、正に神道の宗教的施設であり、右各神
社の側としては、お参りする者はすべて祭神を信仰の対象とする宗教的意識に基づ
き宗教的行為をしている者と受け取っているであろうことはいうまでもないところ
であるが、右に述べたような多くの国民の意識からすれば、右各神社は、戦没者を
偲び、追悼し、慰霊する特別の施設、追悼、慰霊の中心的施設となっているといえ
るのであって、国民の多くからは、特定の宗教にかかる施設というよりも、特定の
宗教を超えての、国に殉じた人々の御霊を象徴する施設として、あたかも御霊を象
徴する標柱、碑、名牌などのように受け取られているといってよいものと思われる。
D懇報告書も、国民や遺族の多くは、戦後から今日に至るまで、D神社を、その
沿革や規模からみて、依然として我が国における戦没者追悼の中心的施設であると
している旨を指摘しているところである。
これに加えて、現実の問題として、戦没者を追悼、慰霊しようとする場合、我が
国に殉じた戦没者すべての御霊を象徴するものは、D神社以外に存在しないし、右
戦没者のうちその県などに縁故のある人々すべての御霊を象徴するものは、その県
などのE神社をおいてほかに存在しないといってよい。H戦没者墓苑もあり、右墓
苑における追悼、慰霊も怠ってはならないが、何といっても、右墓苑は、先の大戦
での戦没者の遺骨のうち、氏名が判明せず、また、その遺族が不明なことから、遺
族に渡すことのできない遺骨を奉安した墓苑であって、日清戦争や日露戦争での戦
没者を始めとし、我が国のために殉じたすべての戦没者の御霊にかかる施設ではな
い。また、識者の中には、追悼、慰霊のための宗教、宗派にかかわりのない公的施
設を新たに設置することを提案する意見もあり、考慮に値する意見ではあるが、国
民感情や遺族の心境は、必ずしも合理的に割り切れるものではなく、このような施
設が設置されたからといって、これまでD神社やE神社を追悼、慰霊の中心的施設
としてきている国民感情や遺族の心境に直ちに大きな変化をもたらすものとは考え
難い。
3国民の中に、D神社やE神社において、国や地方公共団体などを代表する立
場にある者によって戦没者の追悼、慰霊の途が講ぜられることを望む声が多く、ま
た、いわゆる公式参拝決議をした県議会や市町村議会も多いが、それらは、このよ
うに多くの国民の意識として右各神社が戦没者の追悼、慰霊の中心的施設として意
識されていることによるものである。これらのことなどから、まだ占領下であった
昭和二六年一〇月一八日、戦後はじめてのD神社の秋季例大祭に内閣総理大臣、そ
の他の国務大臣らによる参拝が行われて以来、D神社の春季、秋季の例大祭や終戦
記念日に同神社に参拝した内閣総理大臣その他の国務大臣は多く(一定の時期まで
は、内閣総理大臣のうち参拝しなかった者は、むしろ例外である。)、それらのう
ちには、いわゆる公式参拝であることを言明した者がかなりの数に上っているし、
参拝した内閣総理大臣の中には、クリスチャンである者も含まれているとされてい
る。D懇報告書も、「政府は、この際、大方の国民感情や遺族の心情をくみ、政教
分離原則に関する憲法の規定の趣旨に反することなく、また、国民の多数により支
持され、受け入れられる何らかの形で、内閣総理大臣その他の国務大臣のD神社へ
の公式参拝を実施する方途を検討すべきである」と提言しているところである。
4本件支出を評価するに当たっての社会的・文化的諸条件として、以上述べた
ようなD神社やE神社に対する多くの国民の意識等を十分に考慮しなければならな
い。
三本件支出にかかる事実関係とその検討
1D神社に対する供与
D神社に対する供与は、昭和五六年から同六一年までの間、春秋の例大祭に際し、
玉串料名下に一回五〇〇〇円ずつ九回、七月のみたま祭に際し、献灯料名下に一回
七〇〇〇円ないし八〇〇〇円ずつ四回供与したもので、その供与は合計七万六〇〇
〇円である。
右各供与は、恒例の宗教上の祭祀である春秋の例大祭及びみたま祭に際してされ
たものであり、しかも昭和三三年ころから毎年継続して行われてきたというのであ
るが、次の諸点が留意されなければならない。
(一)金員の供与がD神社の恒例の祭祀に際してされたことが問題とされている。
しかしながら、現在のD神社の春秋の例大祭の日は、戦後の政教分離政策の実施と
ともに、それぞれ春分の日及び秋分の日を基に新旧暦で換算して定めたものであり、
春分の日及び秋分の日は、国民生活において、彼岸の中日として、祖先など死没者
の墓参りが行われる日である。また、みたま祭は、古来我が国で祖先などの霊を祀
り、慰め、供養する日とされてきたお盆(もともと民間習俗であって、仏教に由来
するものではないとされている。)の日にちなんで、戦後設定したものであり、お
盆に帰ってくる祖先などの霊を迎えるため提灯を掲げる習俗に合わせ、D神社の境
内にも、献灯料によって二万を超える提灯が掲げられるのである。すなわち、いず
れも特に祭神に直接かかわりのある日を卜して定められたものではなく、我が国に
おいて多数を占める国民が日常生活の上で祖先などの追悼、慰霊の日としてきた日
にちなんで定められた日であって、特定の宗教への信仰を離れても、戦没者の追悼、
慰霊をするにふさわしい日といえる。
春秋の例大祭及びみたま祭は、D神社の立場からすれば、いわゆる恒例祭として、
重要な宗教的意義を持ち、外形的にも主要な宗教的儀式にほかならないけれども、
二に述べたように、多くの国民は、D神社を戦没者の追悼、慰霊の中心的施設と意
識しているのであって、祖先などの追悼、慰霊の日にちなんだ日に行われる例大祭
やみたま祭については、多くの国民や遺族は、戦没者を偲び、追悼し、慰霊する行
事との意識が強く、祭神を信仰の対象としての宗教的儀式という意識は、必ずしも
一般的ではないといえる。憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動及び同八九条の禁
止する公金の支出に当たるかどうかの判断は、多くの国民の側の意識を考慮してさ
れるべきであって、D神社の立場に立ってされるべきではない。このことは宗教的
儀式の二面性ともいうべきものであって、世俗的行事とされている地鎮祭のような
宗教的儀式についてもいえる。すなわち、地鎮祭も、これを主宰している神職の立
場からすれば、降神の儀により大地主神及び産土神をその場所に招いて行う厳粛な
神儀であり、外形的にも宗教的儀式にほかならないが、ただ建築主その他の参列者
を含む国民一般は、世俗的行事と意識しているということなのである。
(二)右各金員の供与は、いずれもD神社からの案内に基づき、あらかじめ愛媛
県知事である被上告人B1から委任を受けていた愛媛県東京事務所長である被上告
人B2が通常の封筒に金員を入れて同神社の社務所に持参し、玉串料又は献灯料と
して持参した旨を口頭で告げて、同神社に交付したというのである。この供与の機
会あるいは例大祭やみたま祭の機会に、県知事自らが参拝した事実はないのみなら
ず、東京事務所長その他の県職員が代理して参拝した事実もなく、通常の封筒に入
れて玉串料又は献灯料と記載することもなく交付しているのであって、供与の態様
は極めて事務的といえる。
例大祭に際しては、交付に当たり「玉串料」と告げているが、玉串料とは、神式
による儀式に関連して金員を供与するに当たっての一つの名目でもあり、葬儀が神
式で行われる場合、香典の表書を「御玉串料」とする例も多いことは、周知のとこ
ろであるし、例大祭において、県関係者による現実の玉串奉奠がされたこともない。
それ故、玉串料という名目に、必ずしも供与する側の宗教的意図、目的を見い出す
ことはできず、また、必ずしも国民一般がこれを宗教的意義ある供与として意識す
るともいえないと思われる。ちなみに、前出最高裁昭和五二年七月一三日大法廷判
決が世俗的行事であって憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たらないと判示した
津市体育館の地鎮祭においては、神事として、津市長、同市議会議長らによって、
現実に玉串奉奠が行われているし、最高裁昭和六二年(行ツ)第一四八号平成五年
二月一六日第三小法廷判決・民集四七巻三号一六八七頁がそれへの参列は宗教的活
動に当たらないとした忠魂碑前での神式による慰霊祭の神事においても、市長ら参
列者により現実の玉串奉奠が行われているのである。
みたま祭に際しては、交付に当たり「献灯料」と告げているが、境内に提灯が掲
げられるのは、お盆に祖先を迎えるため提灯を掲げる我が国の習俗に由来すること、
多くの国民はD神社を戦没者の追悼、慰霊の中心的施設と意識しているしと前述の
とおりであることからすれば、多くの国民は、みたま祭の献灯をD神社の祭神にか
かる宗教的儀式と結び付ける意識は薄く、戦没者の追悼、慰霊のためとの意識が強
いということができる。そのための献灯料の供与に、必ずしも供与する側の宗教的
意図、目的を見い出すことはできず、また、必ずしも国民一般がこれを宗教的意義
ある供与として意識するともいえないと思われる。
(三)供与にかかる金員の額は、一般に冠婚葬祭などに際し、都道府県ないしそ
の知事の名義で社会的儀礼として供与する金員として最低限度の額といえるもので
あることは明らかであるし、愛媛県の規模、予算その他からしても、逆にD神社の
それらからしても、極めて微少であって、金額からみれば、宗教とのかかわり合い
は最低限度のものといってよい。金員供与が毎年の例大祭ないしみたま祭に際し継
続的にされていることから、単に社会的儀礼の範囲にとどまるものとは評価し難い
とする向きもあるが、右のように、例大祭やみたま祭に際しての金員の供与が、追
悼、慰霊としての社会的儀礼の範囲内といえる程度のものであるならば、それが春
秋ないし毎年の追悼、慰霊の機会に継続的にされたことは、あたかも死没者に対す
る毎年の命日ごとの追悼、慰霊のように、手厚い儀礼上の配慮がされたというべき
ものであって、継続的にされたことから、社会的儀礼の範囲を超えるものと評価す
ることは当たらない。
ちなみに、D懇報告書をふまえて、昭和六〇年の終戦記念日に内閣総理大臣がD
神社の本殿に昇殿して、公式に参拝をしたが、その際、「内閣総理大臣何某」の名
入りの花一対を本殿に供えた。その代金として公金から支出されD神社に交付され
た金員の額は、三万円であり、一国を代表する者としての戦没者の追悼、慰霊のた
めの支出として、当然社会的儀礼の範囲内といえる額であるが、これとの対比にお
いても、右各供与が社会的儀礼の範囲を超えるものでないことは明らかである。
なお、判例をみると、地方公共団体が行う接待等については、一回の機会にかな
りの金額を支出している場合にも、社会通念上儀礼の範囲を逸脱したものとまでは
断じ難いとしており、奈良県の某町が、地元出身の大臣の祝賀式典の挙行等のため
に、三二六万余円の公金(同町の当時の歳出予算額の〇・一六パーセントを占める
金額)を支出した事案で、「社交儀礼の範囲を逸脱しているとまでは断定すること
ができず」と判示した(最高裁昭和六一年(行ツ)第一二一号平成元年七月四日第
三小法廷判決・判例時報一三五六号七八頁)のは、その例である。戦没者の追悼、
慰霊のための宗教とのかかわり合いが相当とされる限度を超えるかどうかが問題と
される場合のみ、微少な金額の支出についても、厳しく糾弾するのは、バランスを
欠くとの感を否めない。
2宗教法人愛媛県E神社(以下、私の反対意見において、「愛媛県E神社」と
いう。)に対する供与
愛媛県E神社に対する供与は、昭和五六年から同六一年までの間、春秋の慰霊大
祭に際し、供物料名下に一回一万円ずつ九回供与したもので、その供与は合計九万
円である。
右各供与は、恒例の宗教上の祭祀である春秋の慰霊大祭に際してされたものであ
り、しかも、昭和三三年ころから毎年継続して行われてきたというのであるが、次
の諸点が留意されなければならない。
(一)金員の供与は春秋の慰霊大祭の際にされており、愛媛県E神社の恒例の大
祭に際して供与されたことが問題とされる。しかしながら、春秋の大祭は、愛媛県
E神社の立場からすれば、重要な宗教的意義を持ち、外形的にも主要な宗教的儀式
にほかならないけれども、二に述べたように、多くの国民は、E神社を戦没者の追
悼、慰霊の中心的施設と意識しているのであって、慰霊大祭の名の下に行われるこ
の行事については、(二)に後述するようにこの行事に深く関与している財団法人F
遺族会(以下、私の反対意見において、「F遺族会」という。)を始めとし、多く
の国民や遺族は、慰霊大祭の名に示されるとおり、正に戦没者を偲び、追悼し、慰
霊する行事との意識が強く、祭神を信仰の対象としての宗教的儀式という意識は、
必ずしも一般的ではないといえる。このことは、D神社の例大祭及びみたま祭につ
いて述べたと同じく、宗教的儀式の二面性として把握されるべきものであって、憲
法二〇条三項の禁止する宗教的活動及び同八九条の禁止する公金の支出に当たるか
どうかの判断は、多くの国民の側の意識を考慮してされるべきものであって、愛媛
県E神社の立場に立ってされるべきではない。
(二)右各金員の供与は、以下のようにしてされた。すなわち、まずF遺族会な
いし同会長の名義による愛媛県知事あての慰霊大祭の案内状が届き、愛媛県では、
慰霊大祭の供物料として一万円を支出する手続をとり、「供物料、愛媛県」と表書
したのし袋に入れ、通常は老人福祉課遺族援護係長がF遺族会の事務所に持参し、
これを受領した同会は、慰霊大祭の日に、右一万円を「供物料、財団法人F遺族会
会長B1」と表書したのし袋に入れ替えて、愛媛県E神社に交付した、というので
ある。
このように、愛媛県からの金員供与は、直接的には、F遺族会に対してされ、同
会において、同会会長名を表書した別ののし袋に入れ替えて、愛媛県E神社に交付
しているのであるから、愛媛県から愛媛県E神社に対する金員の供与というべきで
あるかは著しく疑問で、むしろ、供物料を奉納するのはF遺族会であって、愛媛県
は、遺族援護業務として、F遺族会に対し供物料を供与したものといえるのである。
F遺族会が宗教上の組織又は団体に当たらないことはいうまでもない。仮に愛媛県
から愛媛県E神社への供与とみることができるとしても、その供与は間接的という
ほかはない。
表書は「供物料」となっているが、供物料とは、神式に限らず、神式又は仏式に
よる儀式に関連して金員を供与するに当たっての一の名目でもあり、葬儀が神式で
行われる場合、香典の表書を「神饌料」(「神饌」とは、神に供する酒食の意であ
る。)とする例もあることは、周知のところである。それ故、供物料という名目に、
必ずしも供与する側の宗教的意図、目的を見い出すことはできず、また、必ずしも
国民一般がこれを宗教的意義ある供与として意識するともいえないと思われる。
(三)供与にかかる金員の額は、一般に冠婚葬祭などに際し、都道府県ないしそ
の知事の名義で社会的儀礼として供与する金員として最低限度の額といえるもので
あることは明らかであり、愛媛県の規模、予算その他からしても、極めて微少であ
って、金額からみれば、宗教とのかかわり合いは最低限度のものといってよいこと
などは、D神社に対する供与について述べたのと同様である。金員の供与が毎年春
秋の慰霊大祭に際し継続的にされていることから、単に社会的儀礼の範囲にとどま
るものとは評価し難いとする向きもあるが、D神社に対する供与について述べたの
と同様に、金員の供与が追悼、慰霊としての社会的儀礼の範囲内といえる程度のも
のであるならば、それが継続されたことは、手厚い儀礼上の配慮がされたと評価す
べきものであって、継続的にされたことから、社会的儀礼の範囲を超えるものと評
価することはできない。
四本件支出の評価
戦没者に対する追悼、慰霊は、国民一般として、当然の行為であり、また、国や
地方公共団体、あるいはそれを代表する立場にある者としても、当然の礼儀であり、
道義上からは義務ともいえるものであること、また、D神社やE神社は、多くの国
民から、日清戦争、日露戦争以来の我が国の戦没者の追悼、慰霊の中心的施設であ
り、戦没者の御霊のすべてを象徴する施設として意識されており、現実の問題とし
て、そのような施設は、D神社やE神社をおいてはほかに存在しないことは、二に
述べたとおりである。また、本件支出にかかるD神社及び愛媛県E神社への供与は、
右各神社の側からすれば、重要な宗教的意義を持ち外形的にも主要な宗教的儀式で
ある恒例祭に際してされたものであるけれども、多くの国民や遺族にとっては、戦
没者を偲び、追悼し、慰霊する行事に際してのことであること、D神社への供与は、
その交付の態様は極めて事務的であること、愛媛県E神社への供与とされている供
与は、遺族援護業務としてのF遺族会への供与ということができ、愛媛県E神社へ
の供与と断ずべきものか著しく疑問であるのみならず、仮にそのような供与とみる
ことができるとしても、その供与は間接的であること、玉串料又は献灯料と告げ、
あるいは供物料と表書したことに、必ずしも供与する側の宗教的意図、目的を見い
出すことはできず、また、必ずしも国民一般がこれを宗教的意義ある供与として意
識するともいえないと思われること、供与の額は、一般に冠婚葬祭などに際し、都
道府県やその知事の名義で社会的儀礼として供与される金員として最低限度の額と
いえるものであり、金額からみれば、宗教とのかかわり合いは最低限度のものとい
ってよいこと、供与が毎年継続的にされたことから、社会的儀礼の範囲を超えるも
のと評価することはできないことなどは、三に述べたとおりである。
以上に加えて、我が国においては、家に神棚と仏壇が併存し、その双方にお参り
をし、さらに、家の中にはそれ以外の神仏の守り札も掲げられているといった家庭
が多く、場合によっては、その子女はミッション系の学園で学んでいるといったこ
ともみられる。また、前出最高裁平成五年二月一六日第三小法廷判決の事案にみら
れるように、同一の遺族会主催の下に毎年一回行われる同一の忠魂碑の前での慰霊
祭が、神式、仏式隔年交替で行われている事例もある。すなわち、我が国において
は、多くの国民の宗教意識にも、その日常生活にも、異なる宗教が併存し、その併
存は、調和し、違和感のないものとして、肯定されているのであって、我が国の社
会においては、一般に、特定の宗教に対するこだわりの意識は希薄であり、他に対
してむしろ寛容であるといってよい。このような社会の在り方は、別段批判せらる
べきものではなく、一つの評価してよい在り方であり、少なくとも「宗教的意識の
雑居性」というような「さげすみ」ともとれる言葉で呼ばれるべきものではない。
このような社会的事情も考慮に入れられなければならず、特定の宗教のみに深い信
仰を持つ人々にも、本件のような問題につきある程度の寛容さが求められるところ
である。
これら諸般の事情を総合すれば、本件支出は、いずれも遺族援護業務の一環とし
てされたものであって、支出の意図、目的は、戦没者を追悼し、慰霊し、遺族を慰
めることにあったとみるべきであり、多くの国民もそのようなものとして受け止め
ているということができ、国民一般に与える効果、影響等としても、戦没者を追悼、
慰霊し、我が国や世界の平和を折求し、遺族を慰める気持を援助、助長、促進する
という積極に評価されるべき効果、影響等はあるけれども、特定の宗教を援助、助
長、促進し、又は他の宗教に対する圧迫、干渉等となる効果、影響等があるとは到
底いうことができず、これによってもたらされる愛媛県とD神社又は愛媛県E神社
とのかかわり合いは、我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を
超えるとはいえない。本件支出は、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に該当せ
ず、同八九条の禁止する公金の支出にも該当せず、また、同二〇条一項後段にも違
反しないというべきである。
五付言
1本件支出をもって違憲ということができないことは、以上に詳述したとおり
であるが、心の問題としては、わだかまるものがないではない。二に述べたとおり、
公人が公人の立場で、過度に特定の宗教とかかわることのない限度で、戦没者の追
悼、慰霊に尽くすことは、当然の礼儀であり、道義上は義務ともいえるのであるが、
追悼、慰霊が特定の宗教とかかわりを持って行われる場合の支出は、そのかかわり
合いが相当とされる限度を超えないものに限られるのであるから、当然本件支出の
金額程度にとどまる。そうだとすれば、心の問題としては、その程度の金員は、こ
れを自己において支弁することに、より共感を覚える。けだし、自己において支弁
する方がより心のこもった供与となり、追悼、慰霊の趣旨に一層かなうからである。
しかし、このことは、本件支出が違憲かどうかにはかかわりがない。本件では、心
の問題としての本件支出の相当性が問われているのではない。上述のような判断と
なった次第である。
2D神社やE神社と国や地方公共団体とのかかわりに関して、世上、国家神道
及び軍国主義の復活を懸念する声がある。戦前の一時期及び戦時中において、事実
上神社に対する礼拝が強制されたことがあり、右危惧を抱く気持は理解し得ないで
はない。しかしながら、昭和二〇年一二月一五日の連合国最高司令官からのいわゆ
る神道指令により、神社神道は一宗教として他のすべての宗教と全く同一の法的基
礎に立つものとされると同時に、神道を含む一切の宗教を国家から分離するための
具体的措置が明示され、さらに、昭和二二年五月三日には政教分離規定を設けた憲
法が施行された。戦後現在に至るD神社やE神社は、他の宗教法人と同じ地位にあ
る宗教法人であって、戦前とはその性格を異にしている。また、政教分離規定を設
けた憲法の下では、国家神道の復活はあり得ないし、平和主義をその基本原理の一
つとする憲法は、軍国主義の十分な歯止めとなっている。D神社の社憲二条にも、
神社の目的として、「…万世にゆるぎなき太平の基を開き、以て安国の実現に寄与
するを以て根幹の目的とする。」と定められているところである。D神社やE神社
と国や地方公共団体との本件程度のかかわり合いにつき、そのような危惧を抱くの
は、短絡的との感を免れず、日本国民の良識を疑っているものといわざるを得ない。
戦後長い間に培われた日本国民の良識をもっと信頼すべきであろう。
3世上、D神社に一四人のA級戦犯も合祀されているしとを指摘する向きもあ
る。今ここに東京裁判について論述することは、本件訴訟の争点と関係がないので、
差し控えるが、A級戦犯が合祀されていることは、二四六万余にのぼる多くの戦没
者につき、追悼、慰霊がされるべきであることとかかわりのないことであるし、ま
して本件支出が特定の宗教との相当とされる限度を超えるかかわり合いに当たるか
どうかとは無関係の事柄である。D懇報告書にも、「合祀者の決定は、現在、D神
社の自由になし得るところであり、また、合祀者の決定に仮に問題があるとしても、
国家、社会、国民のために尊い生命を捧げた多くの人々をおろそかにして良いこと
にはならないであろう。」と指摘されているので、これを引用する。
4なお、本件のような問題は、本質的には、国内問題であることはいうまでも
ないが、右2及び3については、常に関係諸外国の理解を得るための努力も続けら
れなければならないところである。
判示第一についての裁判官可部恒雄の反対意見は、次のとおりである。
一本件第一審判決(松山地裁平成元年三月一七日判決)は、いわゆる津地鎮祭
大法廷判決(最高裁昭和五二年七月一三日大法廷判決)を先例として掲げて被上告
人B1(元愛媛県知事)の行為を違憲とし、その控訴審である原審判決(高松高裁
平成四年五月一二日判決)は、同じく右大法廷判決に従って元知事の行為を合憲と
し、当審大法廷の多数意見は、同じく右大法廷判決を先例として引いて元知事の行
為を違憲であるとする。私は、津地鎮祭大法廷判決の定立した基準に従い、その列
挙した四つの考慮要素を勘案すれば、自然に合憲の結論に導かれるものと考えるの
で、多数意見の説示するところと対比しながら、以下に順次所見を述べることとし
たい。
二本件は、被上告人B1が愛媛県知事として在任中の昭和五六年から同六一年
にかけてD神社の春秋の例大祭に際して奉納された玉串料各五千円、みたま祭に際
して奉納された献灯料各七千円又は八千円、愛媛県E神社の春秋の慰霊大祭に際し
県遺族会を通じて奉納された供物料各一万円の公金からの支出が憲法二〇条三項、
八九条に違反するや否やが争われた事件であるが、多数意見は、本件支出の適否を
判断するにあたり、「政教分離原則と憲法二〇条三項、八九条により禁止される国
家等の行為」との標題を掲げて、次のように説示した。
1まず、政教分離規定がいわゆる制度的保障の規定であること、現実の国家制
度として国家と宗教との完全な分離を実現することは実際上不可能に近いこと、政
教分離原則を完全に貫こうとすればかえって社会生活の各方面に不合理な事態を生
ずることを挙げて、
2国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があり、政教分離原則が現実
の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照
らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提
とした上で、制度の根本目的(信教の自由の保障の確保)との関係において、その
かかわり合いの許否の限度を論ずべきであるとし、
3このような見地から考えると、政教分離原則は、国家の宗教的中立性を要求
するものではあるが、国家と宗教とのかかわり合いを全く許さないものではなく、
宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的・効果にかんがみ、そのかかわり合い
が我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認めら
れる場合にこれを許さないとするものである、と結論づけた。
三右にいう「我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超え
るものと認められる場合にこれを許さないとするもの」というのは、表現それ自体
としては、いわば、適法とされる限度を超える場合には違法となるとするの類いで、
もとよりその内容において一義的でなく、それ自体としては、当該行為の合違憲性
の判断基準として明確性を欠くとの非難を免れないが、多数意見は、以上に続いて
次のように述べている。
「憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教と
のかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右に
いう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目
的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉
等になるような行為をいうものと解すべきである」と。いわゆる目的・効果基準で
あり、さきにみた「相当とされる限度を超えるもの」というおよそ一義性に欠ける
説示の内容が合違憲性の判断基準として機能することが可能となるための指標が与
えられたものと評することができよう。
しかしながら、具体的な憲法訴訟として提起される社会的紛争につき右の基準を
適用して妥当な結論に到達するためには、更により具体的な考慮要素が示されなけ
ればならない。多数意見は、この点につき、「1」当該行為の行われる場所、「2」
当該行為に対する一般人の宗教的評価、「3」当該行為者が当該行為を行うについ
ての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、「4」当該行為の一般人に与える効
果、影響の四つの考慮要素を挙げ、ある行為が憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」
に該当するかどうかを検討するにあたっては、当該行為の外形的側面のみにとらわ
れることなく、右の「1」ないし「4」の考慮要素等諸般の事情を考慮し、社会通
念に従って客観的に判断しなければならない旨を判示した。
以上、多数意見の説示するところが津地鎮祭大法廷判決の判旨に倣ったものであ
ることは、その判文に照らして明らかである。そこで、以下に津地鎮祭大法廷判決
の事案及びその判旨と対比しつつ、多数意見に賛同し得ない理由を述べることとす
る。
四津地鎮祭大法廷判決が判例法理として定立した目的・効果基準とは、(1)当
該行為の目的が宗教的意義を持つものであること、及び(2)その効果が宗教に対す
る援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為であること、の二要件を充
足する場合に、それが憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」として違憲となる(そ
の一つでも欠けるときは違憲とならない)とするもので、この点、合衆国判例にい
うレモン・テストにおいて、a目的が世俗的なものといえるか、b主要な効果が宗
教を援助するものでないといえるか、c国家と宗教との間に過度のかかわり合いが
ないといえるか、の一つでも充足しないときは違憲とされることとの違いがまず指
摘されるべきであろう。
本件において県のしたさきの支出行為が目的(宗教的意義を持つか)効果(宗教
に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等となるか)基準の二要件を充足するか
否かを、四つの考慮要素を勘案し、社会通念に従って客観的に判断するためには、
まず、津地鎮祭大法廷判決の事案を眺め、それと本件玉串料等支出の事案との異同
を識別しなければならない。
津地鎮祭大法廷判決の事案は、次のようなものである。津市体育館の建設にあた
り、その建設現場において、津市の主催による起工式[地鎮祭]が、市職員が進行
係となって、神職四名の主宰のもとに、所定の服装で、神社神道固有の祭祀儀式に
則り、一定の祭場を設け、一定の祭具を使用して行われ、これを主宰した神職自身、
宗教的信仰心に基づいて式を執行したものと考えられるが、その挙式費用(神職に
対する報償費及び供物料)を市の公金から支出したことの適否が争われたというも
のである。
そして、右大法廷判決は、ある行為が憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」に該
当するかどうかを検討するにあたっては、「当該行為の主宰者が宗教家であるかど
うか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則ったものであるかどうかな
ど」当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、前述の四つの考慮要素等諸
般の事情を考慮し、社会通念に従って客観的に判断しなければならない、としたの
である。
津市長個人を被告とする住民訴訟の形式で争われたのは、地鎮祭の挙式費用とし
ての公金支出の適否であるが、津地鎮祭大法廷判決が憲法二〇条三項にいう「宗教
的活動」に該当するか否かを論じたのは、いうまでもなく、津市の主催した地鎮祭
(その主宰者は専門の宗教家である神職で、神社神道固有の祭祀儀式に則って行わ
れたもの)そのものについてである。同判決は、地鎮祭の主宰者が宗教家であるか
どうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則ったものであるかどうか
など、地鎮祭の外形的側面のみにとらわれることなく、「1」地鎮祭の行われる場
所、「2」地鎮祭に対する一般人の宗教的評価、「3」地鎮祭主催者である市が地
鎮祭を行うについての意図・目的、宗教的意識の有無・程度、「4」地鎮祭の一般
人に与える効果・影響等、四つの考慮要素を勘案し、社会通念に従って客観的に判
断すべきであるとした。
以下に、I事件との対比において、本件において、〝当該行為〟が憲法二〇条三
項にいう「宗教的活動」に該当するか否かを決するにあたり、検討されるべき考慮
要素とは何か、についてみることとする。
五本件において、多数意見が憲法適合性の論議の対象として取り上げるのは、
前述のように、D神社の春秋の例大祭に際して奉納された玉串料、みたま祭に際し
て奉納された献灯料、県E神社の春秋の慰霊大祭に際して県遺族会を通じて奉納さ
れた供物料、の公金からの支出行為自体であって、それ以外にない。
さきのI事件において憲法適合性が論ぜられたのは津市の主催する地鎮祭である
が、本件において多数意見の言及する右の例大祭、みたま祭、慰霊大祭の主催者は、
D神社や県E神社であって、もとより県ではない(慰霊大祭についてはその主催者
が県E神社であるか遺族会であるかの争いがあるが、その実態からみて両者の共催
であるとしても、主催者が県でないことに変わりはない)。
D神社についていえば、被上告人B1の委任に基づき県東京事務所長の決すると
ころにより、同事務所の職員が、例大祭やみたま祭に際し、多くはその当日ではな
く事前に、通常の封筒に入れて玉串料や献灯料を社務所に届けたものであり、知事
は勿論、職員の参拝もなかった。
県E神社についていえば、遺族会の要請により春と秋の彼岸に近接した日に行わ
れる慰霊大祭に際し知事である被上告人B1が(老人福祉課長の専決処理により)
遺族会会長である被上告人B1に対し供物料を支出した後、遺族会会長名義の供物
料として奉納したものである(一審判決によれば、春秋の慰霊大祭の行事中に知事
又はその代理者の参列についての記述がみられる)。
六I事件と本件との事案の相違の最も顕著な点は右のとおりであるが、まず、
検討すべき考慮要素の「1」「当該行為の行われる場所」についてみると果たして
どうであろうか。
この点につき多数意見は、本件公金の支出は、D神社又は県E神社が各神社の境
内において挙行した恒例の宗教上の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際
し、玉串料、献灯料又は供物料を奉納するためになされたものであるとした上、神
社神道においては、祭祀を行うことがその中心的な宗教上の活動であるとされてい
ること、例大祭及び慰霊大祭は、神道の祭式に則って行われる儀式を中心とする祭
祀であり、各神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義を有するものと位置付け
られていること、みたま祭は同様の儀式を行う祭祀であり、D神社の祭祀中最も盛
大な規模で行われるものであることは、いずれも公知の事実である、とする。これ
らの事実が果たして公知であるか否かは暫く措くとして、多数意見は、神社神道に
おいて中心的な宗教上の活動とされる祭祀の中でも重要な意義を有するものと位置
付けられ或いは最も盛大な規模で行われる春秋の例大祭、みたま祭又は慰霊大祭が、
各神社の境内で挙行されることを強調しているやに見受けられる(このことは、み
たま祭において奉納者の名前を記した灯明が境内に掲げられる旨を特記する点にも
表れている)。しかし、恒例の宗教上の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭
が神社の境内において挙行されるのは、あまりにも当然のことであって(灯明の掲
げられる場所が境内であることについても同様である)、問題とされた本件支出行
為につき、津地鎮祭大法廷判決が例示し、本件において多数意見がこれに倣う考慮
要素の一としての〝当該行為の行われる場所〟としての意味を持ち得るものではな
い。
七次に、多数意見の掲げる考慮要素の「2」「当該行為に対する一般人の宗教
的評価」についてみることとする。この点につき多数意見は、一般に、神社自体が
その境内において(ここで再び「境内において」と強調されるのは、考慮要素「1」
とのかかわり合いであろう)挙行する恒例の重要な祭祀に際して右のような玉串料
を奉納することは、建築主が主催して建築現場において土地の平安堅固工事の無事
安全等を祈願するために行う儀式である起工式[地鎮祭]の場合とは異なり、時代
の推移によって既にその宗教的意義が希薄化し、慣習化した社会的儀礼にすぎない
ものになっているとまでは到底いうこということができず、一般人が本件の玉串料
等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難いところである、
という。
元来、我が国においては、(キリスト教諸国や回教諸国と異なり)各種の宗教が
多元的、重層的に発達、併存して来ていることは、多数意見の述べるとおりである
が、さきの津地鎮祭大法廷判決は、この点の指摘とともに、多くの国民は、地域社
会の一員としては神道を、個人としては仏教を信仰するなどし、冠婚葬祭に際して
も異なる宗教を使い分けしてさしたる矛盾を感ずることがないというような宗教意
識の雑居性が認められ、国民一般の宗教的関心は必ずしも高いものとはいい難い、
と述べている。地域社会の一員としては、鎮守の杜のお社の氏子として行動し、家
に帰っては、それぞれの寺院に先祖代々の墳墓を設け、葬儀も供養も仏式によって
行うというのは、国民の間で広く受け容れられている生活の類型である。
初詣には神社に参詣することが多いが、参詣者の大部分は仏教徒である。神社に
参詣すれば通常はお賽銭を上げるが、履物を脱いで参殿し、神前に額づいて神職か
ら格別の扱いを受ければ、玉串料を捧げることになる。七五三の行事は概ねこれに
よって行われる。式次第は神社神道固有の祭祀儀式に則って行われるが、それを受
ける側の参詣者の多くは仏教徒その他神道信仰者以外の者であって、内心において
信仰上の違和感を持たないのが通常であろう。
国民が神社に参詣し玉串料等を捧げるのは、初詣や神前の結婚式や七五三や個人
的な祈願のための行事の機会の外に、神社神道においてその中心的な宗教上の活動
であるとされる恒例の祭祀の機会がある。D神社の春秋の例大祭、みたま祭、県E
神社の春秋の慰霊大祭もその一つである。D神社や県E神社は、元来、戦没者の慰
霊のための場所、施設である。戦後、占領政策の一環として宗教法人としての性格
付けを与えられたが、そのために戦没者の慰霊のための場所、施設としての基本的
性質が失われたわけではない。D神社の祭神は百五単位をもって数える戦没者が主
体であり、県E神社のそれは愛媛県出身の戦没者が主体であるが、そのほかに、旧
藩主、藩政に功労のあった者、産業功労者、警察官、消防団員、自衛官の公務殉職
者等を含むとされる。祭神という言葉はいかめしいが、いわば神社神道固有の〝術
語〟であり、神社に参詣する国民一般からすれば、今は亡きあの人この人であって、
ゴッドではない。
各県におけるE神社は、かつては招魂社と呼ばれた。その恒例の祭祀が招魂祭で
ある。現に六〇歳代以上の年輩者には記憶のあることであるが、「招魂祭」とは戦
没者の慰霊のための催しであるとはいえ、現在の政教分離原則の下で国家神道との
関係が云々されるようないかめしいものではなく、招魂社の境内には綿菓子やのし
烏賊を売る屋台が並び、それらの匂いの漂う子供心にも楽しいお祭り以外の何物で
もなかった。
県E神社についていえば、春秋二回の慰霊大祭に際し、「供物料愛媛県」と書
いたのし袋に一万円を入れて、県E神社の境内にある県遺族会事務所に届け、県遺
族会から「供物料財団法人F遺族会会長B1」と書いたのし袋に一万円を入れて、
県E神社に奉納したものであり、D神社についても、県職員が多くは事前に通常の
封筒に入れて玉串料(各五千円)や献灯料(七千円又は八千円)を社務所に届け、
知事は勿論、職員の参列もなかったことは、前述のとおりである。金額が軽少であ
ることが特に注目されよう。
以上のように具体的に考察してみれば、神社の恒例の祭祀に際し、招かれて或い
は求められて玉串料、献灯料、供物料等を捧げることは、神社の祭祀にかかわるこ
とであり、奉納先が神社であるところから、宗教にかかわるものであることは否定
できず、またその必要もないが、それが慣習化した社会的儀礼としての側面を有す
ることは、到底否定し難いところといわなければならない。
しかるに多数意見は、地鎮祭の先例を引いて社会的儀礼にすぎないとはいえない
とする。地鎮祭は、前述のとおり、津市の主催の下に、専門の宗教家である神職が、
所定の服装で、神社神道固有の祭祀儀式に則って、一定の祭場を設け一定の祭具を
使用して行ったものであるのに対し、本件はD神社又は県E神社の主催する例大祭、
みたま祭又は慰霊大祭に際して、比較的低額の玉串料等を奉納したというのが実態
であって、当該行為に対する一般人の宗教的評価いかんを判定するにあたり、前者
は社会的儀礼にすぎないが、後者をもって「一般人が…社会的儀礼の一つにすぎな
いと評価しているとは考え難い」とするのは、著しく評価のバランスを失するもの
といわなければならない。
多数意見がこのように性急に論断する理由は、「県が特定の宗教団体の挙行する
重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持ったということが明らかである」ことにあ
る。
しかしながら、「政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、そ
れぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかか
わり合いを持たざるを得ない」ことは、多数意見の自ら述べるとおりで、「そのか
かわり合いが…相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを」違憲と
判断するための目的・効果基準を定立し、その具体的適用にあたり検討すべき四つ
の考慮要素を掲げた。その考慮要素の「2」〝当該行為に対する一般人の宗教的評
価〟を論ずるにあたり、「県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にか
かわり合いを持った」ことを理由に、当該行為が宗教的意義を持つとの一般人の評
価が肯定されるというのでは、目的・効果基準を具体的に適用する上での考慮要素
「2」は何ら機能していないものといわざるを得ない。
八次に、多数意見の掲げる考慮要素の「3」「当該行為者が当該行為を行うに
ついての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度」についてみることとする。この
点につき多数意見は、考慮要素「2」検討に該当する箇所において、一般人が本件
の玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難いとし
た上で、そうであれば、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有する
ものであるという意識を大なり小なり持たざるを得ないのであり、このことは、本
件においても同様というべきである、とした。
玉串料等の奉納は、D神社又は県E神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義
を有するものと位置付けられ、或いは最も盛大な規模で行われる祭に際し、神社あ
てに拠出されるものであるから、宗教にかかわり合いを持つものであることは当然
で、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意
識を大なり小なり持たざるを得ないことは勿論であろう。問題は、その意識の程度
である。玉串料等の奉納が儀礼的な意味合いを持つことは、後に多数意見の説示自
体にも現れる。曰く、「確かに、D神社及びE神社に祭られている祭神の多くは第
二次大戦の戦没者であって、その遺族を始めとする愛媛県民のうちの相当数の者が、
県が公の立場においてD神社等に祭られている戦没者の慰霊を行うことを望んでお
り、そのうちには、必ずしも戦没者を祭神として信仰の対象としているからではな
く、故人をしのぶ心情からそのように望んでいる者もいることは、これを肯認する
ことができる。そのような希望にこたえるという側面においては、本件の玉串料等
の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できない」と。
長年にわたって比較的低額のまま維持された玉串料等の奉納が慣習化した社会的
儀礼としての側面を持つことは、多数意見の右の説示をまつまでもなく、社会生活
の実際において到底否定し難いところであり、玉串料等の奉納者においても、それ
が宗教的意義を有するという意識を「大なり小なり持たざるを得ない」とする説示
は、あたかも、この間の消息を物語るもののようにも感ぜられる。なお、多数意見
は、本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できないとした上
で、たとえ相当数の者がそれを望んでいるとしても、そのことのゆえに、地方公共
団体と特定の宗教とのかかわり合いが、相当とされる限度を超えないものとして憲
法上許されることになるとはいえないとするが、これは既に違憲と決めつけた上で
の駄目押しにすぎず、この項で論じているのは、「相当とされる限度を超える」か
否かの判断に資するために定立された目的・効果基準を具体的に適用するにあたり、
検討すべき考慮要素の一々についてであるから、右の多数意見についてはこれ以上
の言及をしない。多数意見が「戦没者の慰霊及び遺族の慰謝ということ自体は、本
件のように特定の宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことが
できると考えられる」云々と説示する点についても同様である。
ところで、考慮要素「3」にいう、当該行為者が当該行為を行うについての意
図・目的についてはどうであろうか。この点につき、多数意見は「本件においては、
県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたという事実がう
かがわれないのであって、県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわ
り合いを持つたことを否定することができない」と判示した。その表現はさりげな
く、その文章は短いが、その意図するところは大きい。考慮要素「3」にいう当該
行為者が当該行為を行うについての意図・目的の検証をこれで一挙に完結させよう
とするものであるからである。
被上告人B1らの主張及びこれに副う書証・人証等によれば、D神社の例大祭、
みたま祭や県E神社の慰霊大祭以外にも、愛媛県は公金を支出して来た。H戦没者
墓苑における慰霊祭には、同墓苑の創設された昭和三四年以来ずっと公金を支出し、
東京事務所長らが出席している。支出金は一万五千円(昭和六〇年)で、D神社や
県E神社に対する年間支出金額と大差ない。全国戦没者追悼式に際しても、毎年供
花料として一万円を支出している。沖縄には愛媛県出身戦没者のための慰霊塔「愛
媛の塔」(昭和三七年一〇月建立)があり、遺族会は毎年慰霊塔の前で仏式慰霊祭
を行って来たが、この慰霊塔の維持管理のため、毎年公金(約二〇万円)を支出し
ている、という。県の公金支出は宗教的目的のためではなく、目的はあくまで戦没
者の慰霊や遺族の慰謝にある、というのである。H戦没者墓苑における慰霊祭、全
国戦没者追悼式、「愛媛の塔」の前での慰霊祭を挙行しているのは、なるほど宗教
団体ではない。しかし、千鳥ヶ淵も、全国追悼式も、「愛媛の塔」も、D神社も、
県E神社も、公金の支出はすべて戦没者の慰霊、遺族の慰謝が目的であると主張さ
れている案件において、D神社と県J神社のみが宗教団体といえるものであること
を捉えて、「県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたと
いう事実がうかがわれない」との理由付けで、「県が特定の宗教団体との間にのみ
意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない」とするのは、
判断として公正を欠くとの譏りを免れないであろう。これまで特定の宗教団体との
かかわり合いとされて来たのが、ここで俄かに「特別の」かかわり合いとされたこ
とに注目すべきであろう。
九最後に、多数意見の掲げる考慮要素の「4」「当該行為の一般人に与える効
果、影響」についてみることとしよう。いわゆる目的・効果基準の二要件のうち、
当該行為の憲法適合性を判断するための最も重要な要件に関するものである。考慮
要素「4」につき多数意見の述べるところは少ない。曰く、「地方公共団体が特定
の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを持つことは、一般
人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が
他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を
呼び起こすものといわざるを得ない」と。
多数意見がH戦没者墓苑における慰霊祭、全国戦没者追悼式、「愛媛の塔」前の
仏式慰霊祭の例を度外視し、これら慰霊の行事の主催者が宗教団体でない点を捉え
てした立論が当を得ないことはさきに指摘したとおりで、これを根拠として、「地
方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを
持つ」ことの是非を論じたのは、その前提に誤りがあるものといわなければならな
い。しかも、この前提の上に立って、多数意見が考慮要素の「4」当該行為の一般
人に与える効果、影響として述べるのは、「一般人に対して、県が当該特定の宗教
団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のも
のであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすもの」であるというに
尽きる。
甚だ抽象的で具体性に欠け、援助、助長、促進との観念上のつながりを手探りし
ているかの感があるが、この点はむしろ一審判決の方が分かり易い。一審判決は次
のようにいう。県がD神社に対して支出した金額は通常の社会的儀礼の範囲内に属
するといってよい額である。しかし、一回一回の支出が少額であっても毎年繰り返
されて行けば、県と神社との結び付きも無視することができなくなり、それが広く
知られるときは、一般人に対しても、D神社は他の宗教団体とは異なり特別のもの
であるとの印象を生じさせ、或いはこれを強めたり固定したりする可能性が大きく
なる。結論として、玉串料等の支出は、県とD神社との結び付きに関する象徴とし
ての役割を果たしているとみることができ、玉串料等の支出は、経済的な側面から
みると、D神社の宗教活動を援助、助長、促進するものとまではいえなくとも、精
神的側面からみると、右の象徴的な役割の結果としてD神社の宗教活動を援助、助
長、促進する効果を有するものということができる、と。県E神社への供物料につ
いても同旨である。
一審判決は、県とD神社、県E神社との間に具体的な結び付きの実体がないにも
かかわらず、両者の「結び付きに関する象徴」としての役割を論じたところに無理
があった。或いは結び付きの実体がないからこそ、「結び付きの象徴」として精神
的側面を端的に強調したものとも考えられよう(合衆国判例における「象徴的結合」
とは、事案も内容も異なる)。
津地鎮祭大法廷判決によって定立された目的・効果基準の適用にあたって、当該
行為の効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるか否かの判定
は、このような専ら精神面における印象や可能性や象徴を主要な手がかりとして決
せられてはならない。このように抽象的で内容的に具体的なつかみどころのない観
念が指標とされるときは、違憲審査権の行使は恣意的とならざるを得ないからであ
る。多数意見は、一審判決のいう「結び付きに関する象徴」云々の表現を用いなか
ったが、その判旨の内容は実質的に異なるものではない。
一〇以上、津地鎮祭大法廷判決の定立した判例法理に従うとして、多数意見が
考慮要素の「1」ないし「4」について説示するところをみて来たが、論理に従っ
てその文脈を辿ることは著しく困難であるといわざるを得ない。考慮要素の「1」
はそもそも本件において機能し得ず、また考慮要素の「2」ないし「4」について
は十分な説明も論証もないまま、多数意見は、目的・効果基準を適用して、本件支
出行為と宗教とのかかわり合いが「相当と認められる限度を超えるもの」と論断し
た。
しかし、すでにみたように、玉串料等の奉納行為が社会的儀礼としての側面を有
することは到底否定し難く、そのため右行為の持つ宗教的意義はかなりの程度に減
殺されるものといわざるを得ず、援助、助長、促進に至っては、およそその実体を
欠き、徒らに国家神道の影に怯えるものとの感を懐かざるを得ない。
本件玉串料等の奉納は、被上告人B1が知事に就任する以前から、通算二十数年
の長きにわたり、一審判決の表現によれば「通常の社会的儀礼の範囲に属するとい
ってよい額」を細々と長々と続けて来たものにほかならない。訴訟において関係人
の陳述を指して…は何々である旨縷々陳述するが…と評することが多いが、縷々と
は細く長く絶えず続くことの意味である。本件玉串料等の支出はまさしくそれに当
たる。そして、この細く長く絶えず続けられた玉串料等の支出が、多数意見によっ
て「相当とされる限度を超えるもの」とされるとき、私は今は故人となった憲法学
徒の次の言葉を想起させられるのである。曰く、「民間信仰の表現としての地蔵や
庚申塚が公有地の隅に存することも容認しないほど憲法は不寛容と解すべきである
のか」(小嶋和司「いわゆる『政教分離』について」ジュリスト八四八号)と。
一一本件支出の合違憲性についての私の所見は、基本的に以上に述べたところ
に尽きるが、私は本件支出は違憲でないとの結論をとるので、憲法二〇条のみなら
ず八九条についても言及する必要がある。
多数意見はこの点につき、D神社及び県E神社は憲法八九条にいう宗教上の組織
又は団体に当たることが明らかであり、本件玉串料等をD神社又は県E神社に奉納
したことによってもたらされる県とD神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・
文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと解されるから、本件支出は、
同条の禁止する公金の支出に当たり、違法というべきであるとした。
憲法八九条は、行政実務上の解釈困難な問題規定の一つであり、多数意見が津地
鎮祭大法廷判決の定立した目的・効果基準に従い、本件支出の憲法八九条適合性を
判断した態度は是認されよう。津地鎮祭大法廷判決は、次のように述べている。
曰く、本件起工式[地鎮祭]はなんら憲法二〇条三項に違反するものではなく、
また、宗教団体に特権を与えるものともいえないから、同条一項後段にも違反しな
いというべきである。更に、右起工式の挙式費用の支出も、本件起工式の目的、効
果及び支出金の性質、額等から考えると、特定の宗教組織又は宗教団体に対する財
政援助的な支出とはいえないから、憲法八九条に違反するものではなく、地方自治
法二条一五項、一三八条の二にも違反するものではない、と。
津地鎮祭大法廷判決においていう「当該行為」とは津市当局の主催した地鎮祭の
挙行であり、本件においては、玉串料等の奉納という支出以外に「当該行為」と目
すべきものは存在しないから、右の先例の判文をそのままなぞって本件に翻訳する
ことはできないが、要するに、玉串料等の奉納という本件支出の目的、効果、支出
金の性質、額等から考えると、特定の宗教組織又は宗教団体に対する財政援助的な
支出とはいえないから、憲法八九条に違反するものではない、というに帰着しよう。
一二憲法八九条についての戦後の論議は、実り豊かなものではなかった(旧帝
国議会での審議当時、宗教関係者が最も怖れたのは、明治政府によつて国有化され
た、名義上の国有財産である神社・寺院の境内地等が、この規定を根拠にして全面
的に取り上げられるのではないか、ということであった)。そして、その条文は、
その規定に該当する限り一銭一厘の支出も許されないかの如き体裁となっている。
そこで忽ち問題となるのが、津地鎮祭大法廷判決の判文にも現れる「特定宗教と関
係のある私立学校に対し一般の私立学校と同様な助成を」することは、憲法八九条
に違反することにならないか、ということである。
この点は、他の私学への助成金(公金)の支出が許されるのに、特定宗教と関係
のある私学への助成金(公金)の支出が許されないとすれば、平等原則の要請に反
するから…と説明されるのが通常である。しかし、憲法解釈上の難問に遭遇したと
き、安易に平等原則を引いて問題を一挙にクリヤーしようとするのは、実は、憲法
論議としての自殺行為にほかならないのではあるまいか。
一方において、宗教関係学校法人に対する億単位、否、十億単位をもってする巨
額の公金の支出が平等原則の故に是認され得るとすれば、そして、もしそれが許さ
れないとすれば即信教の自由の侵害になると論断されるのであれば、その論理は同
時に、他の戦没者慰霊施設に対する公金の支出が許されるとすれば、同じく戦没者
慰霊施設としての基本的性質を有する神社への、五千円、七千円、八千円、一万円
という微々たる公金の支出が許されないわけがない、もし神社が「宗教上の組織又
は団体」に当たるとの理由でそれが許されないとすれば、即信教の自由の侵害にな
る、との結論を導き出すものでなければならない。宗教関係学校法人への巨額の助
成を許容しながら微細な玉串料等の支出を違憲として、何故、論者は矛盾を感じな
いのであろうか。すべて、戦前・戦中の神社崇拝強制の歴史を背景とする、神道批
判の結論が先行するが故である。
戦前・戦中における国家権力による宗教に対する弾圧・干渉をいうならば、苛酷
な迫害を受けたものとして、神道系宗教の一派である大本教等があったことが指摘
されなければならない。
一三悪の芽は小さな中に摘みとるのがよく、憲法の理想とするところを実現す
るための環境を整える努力を怠ってはならない。しかし、国家神道が消滅してすで
に久しい現在、我々の目の前に小さな悪の芽以上のものは存在しないのであろうか。
憲法八九条に関連して一例を挙げれば、宗教団体の所有する不動産やその収益と
目すべきものにつき、これを課税の対象から外すことは、宗教団体に対し積極的に
公金を支出するのと同様の意味を持つ。これが政教分離原則との関係において合衆
国判例において論ぜられて久しい。
我が国において、これらの点に関連して論ぜられるべき問題状況は果たして存在
しないのであろうか。何故これらの点がまともに論ぜられることなく、かえって、
細く長く絶えず続けられた本件玉串料等の支出の如きが、何故かくも大々的に論議
されなければならないのであるか。これが疑問とされないのは何故であるかを疑問
とせざるを得ないのである。
最高裁判所大法廷
裁判長裁判官三好達
裁判官園部逸夫
裁判官可部恒雄
裁判官大西勝也
裁判官小野幹雄
裁判官大野正男
裁判官千種秀夫
裁判官根岸重治
裁判官高橋久子
裁判官尾崎行信
裁判官河合伸一
裁判官遠藤光男
裁判官井嶋一友
裁判官福田博
裁判官藤井正雄

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