弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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         主    文
     本件上告を棄却する。         
         理    由
  目    次
 第一 はじめに
 第二 判例違反
 第三 法令違反
 第四 実行行為についての事実誤認
    その一 A1自白について
    その二 A2自白について
 第五 自在スパナ・バールの盗み出し、連絡謀議その他について事実誤認
    その一 自在スパナ・バールの盗み出し関係について
    その二 一五日および一六日の連絡謀議関係について
    その三 その他の謀議およびアリバイ関係などについて
 第六 おわりに
第一 はじめに
 以下記載を簡潔にするため、原判決の例にならつて略語を使用する。例えば、
 B1とはB1
 B2とはB2株式会社
 B1側とはB1労働組合福島支部、同福島分会または福島地区労働会議の関係被
告人
 B2側とはB2松川工場労働組合または同鶴見工場労働組合ないしB2労働組合
連合会の関係被告人
 B1労事務所とはB1労働組合福島支部、同分会事務所
 A1自白とは被告人A1の捜査官および裁判官に対する自白
 919B191調書とは昭和二四年九月一九日付B191司法警察員に対する供
述調書
 101山本調書とは昭和二四年一〇月一日付山本検察官に対する供述調書
 102唐松調書とは昭和二四年一〇月二日付唐松裁判官の証人尋問調書
をそれぞれ指し、日時につき月日だけを示すものは、すべて昭和二四年のそれ、日
だけを示すものは、すべて同年八月のそれを指すが如きである。
 本件については、先きに、当裁判所大法廷判決(昭和二九年(あ)一六七一号同
三四年八月一〇日言渡、刑集一三巻九号一四一九頁)が、原二審判決を破棄して本
件を原審に差し戻した。その理由の結論とするところは、原二審判決の認定によれ
は、本件は謀議、実行行為(バール・スパナの持ち出し、線路の破壊作業)および
アリバイ工作の三部門からなる計劃的な犯行であり、その謀議はB1側のみの謀議、
B1側とB2側との連絡謀議、B2側のみの謀議の三組からなるものとされ、その
うちでも一五日および一六日の二つの連絡謀議はB1側のみの謀議とB2側のみの
謀議とを結びつける枢軸であり、しかもB1側のみの謀議、B2側のみの謀議すら、
互に相手方の参加と協力とを予定または前提とするが如き内容のものとされている
のであるから、右二つの連絡謀議の存否は自然その余の謀議ひいては実行行為、ア
リバイ工作、結局本件事案の全般的な構造にまで影響をおよぼすほど重要なものと
みざるをえないものであるところ、右二つの連絡謀議はいずれもその存在に疑いが
あるので、それは本件事実全体の認定にまで影響をおよぼすものと考えざるをえな
くなり、原二審判決が認定した被告人らに関する部分は、結局すべて判決に影響が
あつてこれを破棄しなければ著しく正義に反する重大な事実誤認を疑うに足りる顕
著な事由があるものといわなければならないというにあつた。
 差戻を受けた原審は、原判決(三三頁)の説明しているような審理経過をへて「
上告審判決が原二審判決の二つの連絡謀議をはじめ、その他の謀議、実行行為、ア
リバイ工作などの本件事実全体の認定にかけた重大な事実誤認の疑いを解消するこ
とは遂にできなかつた。既にその意味で上告審判決の趣旨に従い一審判決の破棄は
免れない。同時に新証拠の出現により、謀議についてはもとより、実行行為につい
て、従来の認定に対し、さらにあらたに合理的な疑いを容れる余地が多分に出てき
て、全般的に被告人らが本件犯行をあえてしたことを確信するに足る心証の形成か
らは、ほど遠い結果となつた」とし、結局「本件公訴事実の存在を認めるに足る証
明は遂に得られなかつたことに帰着した次第である」として被告人ら全員に対し無
罪の言渡をしたのである。
 すなわち、原判決はその説示が多岐にわたりぼう大なものであるが、要するに無
罪判決であつて、なんら被告人らの犯罪事実を積極的に認定したものではなく、原
審が上告審判決のかけた重大な事実誤認の疑いを解明するため、二つの連絡謀議は
もとよりその他の謀議、実行行為、アリバイ工作に至るまで一審判決の認定した事
実全般にわたり、新証拠により、またはこれと旧証拠とを綜合して検討を加えた結
果、一審判決のした事実認定に対し合理的な疑いをいれざるをえないこととなつて、
結局無罪の心証が形成されて行つたその心証の経過を逐一説明したものである。原
判決が第一序論、第二本論、第三結論という構成をとり、その本論において、本件
の根幹をなすA1自白、A2自白、線路破壊作業実行行為者のアリバイ関係、連絡
謀議その他の謀議など、主要な問題点ごとにくわしく述べた部分は、すべて無罪の
理由の説明である。この点は検察官の上告趣意について当裁判所が判断を加えるに
当り、先ず指摘しておかなければならない点である。また原判決は検察官も主張す
るように(当審検察官弁論要旨一二頁五行目以下)、一審判決の認定した事実全体
にわたり再度の審理をし、あらたな証拠を加えて判断しているのであつて、この判
決に対し検察官から全面的に不服の申立がなされているのてある。よつて、当裁判
所においては、原判決の判断の全体、とくに実行行為の点について極めて慎重に審
査をとげたものである。
 さて、検察官の上告趣意は、序論、第一点判例違反、第二点法令違反、第三点事
実誤認および結論という構成になつているところ、序論においては、先ず本件差戻
までの審理経過および差戻後の二審すなわち原審の審理経過が述べられ、次いで原
判決の概評および最高裁判所の差戻判決についての検察官側の解釈が示され、その
間、判例違反、法令違反または事実誤認にも言及しているけれども、それらについ
てはいずれも上告趣意第一点ないし第三点において、改めてくわしい主張がなされ
ているのである。それ故、当裁判所としては、上告理由そのものの主張とは認めら
れない序論自体についての判断を加える必要はなく、上告趣意第一点ないし第三点
につき判断を示せば足るものと考える。そして、その判断は、上告趣意の結論の部
分に対しても答えたことになるものである。
第二 判例違反
 上告趣意第一点その一ないしその五について。
 所論は、いずれも判例違反を主張する。
 しかし、所論その一において挙示する最高裁判所判例は、いずれも刑訴三二八条
に基づいて提出された証拠を犯罪事実認定の資料に供することは違法である旨を判
示するものであり、所論その二ないしその五において挙示する最高裁判所判例また
は高等裁判所判例は、要するに、虚無の証拠によつて事実の認定をすることは違法
である旨を判示するもの、聴取書中の不可分の供述の一部を分離してその供述全体
の趣旨と異る意味において事実認定の資料とすることは、結局、虚無の証拠によつ
て事実認定をすることに帰着し違法である旨を判示するもの、虚無の証拠を他の証
拠と不可分的に綜合して事実認定をした場合その違法は判決に影響をおよぼさない
とはいえない旨を判示するもの、検証の際における立会人の指示供述とみられない
供述を事実認定の資料に供するのは違法である旨を判示するもの、被告人以外の者
が単にその心覚えのため取引を書き留めた手帳は、これを刑訴三二三条三号の書面
として証拠能力を認めることはできず、同三二一条一項三号の書面として証拠能力
を決すべきである旨を判示するものなどであり、いずれも有罪判決に関するものば
かりであるところ、原判決は前記の如く、本件公訴事実の存在を認めるに足る証明
は遂に得られなかつたとした無罪判決てあつて、なんら犯罪事実または有罪に関す
る事実を積極的に認定したものではないのであるから、挙示の判例はすべて本件に
適切でなく、所論はその前提を欠くものといわざるをえない。のみならず、刑訴四
〇五条にいう「判例と相反する判断をした」というためには、その判例と相反する
法律判断が原判決に示されているのでなければならないのであるが、原判決は有罪
の認定をしているのでないから、黙示的にも挙示の判例と相反する法律判断を示し
たものとは認められず、したがつて、原判決には刑訴四〇五条二号または三号に規
定する事由があるとはいえないのである(昭和二五年(あ)一四七七号同二六年三
月二九日第一小法廷決定、刑集五巻四号七二二頁、昭和二六年(れ)一二〇六号同
二七年五月一三日第三小法廷判決、刑集六巻五号七四四頁、昭和二八年(あ)一九
三号同三〇年二月一八日第二小法廷判決、刑集九巻二号三三二頁各参照)。故に、
所論その一ないしその五の判例違反の主張は、すべてこれを採用することはできな
い。
 結局、所論その一ないしその五の実質は、原判決が前記の如く、無罪の理由すな
わち無罪の結論に到達するまでの心証形成の過程を主要な問題ごとにくわしく分説
した説明に対して、その訴訟法違反ないし事実誤認を主張するものであつて、適法
な上告理由に当らならないのである。(なお所論その一に挙示の高等裁判所判例は、
いずれも同所論に挙示の最高裁判所判例と同趣旨のものであるところ、既に最高裁
判所の判例が示されている以上、それらは刑訴四〇五条三号の判例に当らない。た
だ、そのうち福岡高等裁判所判例のみは、刑訴三二八条に基づいて供述の証明力を
争うためにのみ証拠とされたものをもつて犯罪事実の存否認定の資料に供しえない
旨を判示するところがあり、犯罪事実の存在の認定ばかりでなく、その不存在の認
定にも言及しているけれども、その判文全体をみれば、右の如き証拠をもつて犯罪
事実の存在の認定資料とした一審判決は違法である旨を判示したものであつて、爾
余の挙示の高等裁判所判例と趣旨を回じくするものである)。
第三 法令違反
 上告趣意第二点その一について。
 所論は要するに、原判決は、上告趣意第一点掲記の各事例において、一面判例に
違反していると同時に、他面証拠能力のない資料により、または証拠に基づかない
で事実を認定し、その結果、事実を誤認したものであるというにあつて、判例違反
の主張については前提を欠くものであることは上告趣意第一点に対して説示したと
おりてあり、その余は単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由
に当らない。
 同点その二について。
 所論は要するに、原判決は審理不尽の違法があるとして一ないし一六の事例(但
し右一六の事例については、昭和三八年二月一一日付上告趣意書訂正申立書により
一部訂正がなされている)を挙げ、右はいずれも公共の福祉の維持と個人の基本的
人権の保障とを全うしつつ刑罰法令の適正迅速な適用実現をはかるために事案の真
相を明らかにすることを期する刑訴一条に違反するというにあつて、単なる法令違
反ないし事実誤認の主張に帰し、適法な上告理由に当らない。(本判決理由第四以
下で判示する如く、本件公訴事実が証明十分でないとする原審の判断に重大な誤誤
があるとは認められないのであつて、したがつて、所論が審理不尽として主張する
各事項は、すべて判決に影響をおよぼさないことが明らかである。)
第四 実行行為についての事実誤認
 上告趣意第三点は、実行行為、自在スパナ・バールの盗み出し、連絡謀議その他
についての原判決の事実誤認を力説するものであり、これに付加して判例違反を主
張する点があるけれども、これについては第二判例違反の項で説明したところに尽
きる。その余の論旨は、事実誤認または単なる法令違反の主張であつて、適法な上
告理由に当らない。かつ、記録および証拠を検討するに、原判決が一審判決を破棄
して被告人らに無罪を言い渡すべき理由として説明するところには、必ずしも首肯
てきない点があるけれども、この項および次の第五に説明する理由により、本件公
訴事実の存在を認めるに足る証明はえられなかつたとの原判決の判断は、これを支
持すべきものと認める。
 この項では、一応、謀議と実行行為とを切り離して、列車脱線顛覆の実行行為そ
のものについて、これを認めるに足る証拠があるかどうかを検討する。
 本件において、公訴事実の如き人為的な列車の脱線顛覆という事故のあつたこと
は証拠上明白なところである。しかし、そのぼう大な証拠の量にもかかわらず、被
告人らと実行行為とを結びつけるものとしては、A1およびA2の各自白をほかに
しては何一つないことは注目すべきことである。A1自白の最も有力な補強証拠と
主張されてきた肥料汲みの農夫B3および一一二列車機関士B5の証言といえども、
同人らの見た人物がA1であつたことを、その証言自体によつて確認するに足るも
のではないのである。したがつて、A3、A18、A1、A19およびA2の五名
が、果して本件列車顛覆の実行行為をした犯人てあるかどうかは、一にA1自白と
A2自白の信用性如何にかかつているといつても過言ではなかろう。よつて、まず
本件捜査の基本となつたと認むべきA1自白の信用性を検討し、次でA2自白のそ
れにふれることとする。
 その一 A1自白について
 一 原判決は、A1自白につき二〇項目にわたる検討の結果、その信用性を否定
したのである。その理由として説明するところには、必ずしも肯定し難い点もある。
けれども、A1自白には少くとも次にあげるような幾多の疑点があることは否定で
きないのであつて、A1自白が全体として信用できないとう原判決の判断は、結局
これを支持すべきものである。
 イ A1自白中事実に反すると認められる点
 1 一五日B1側謀議の席にA18とB7とがいたということ
 A1は最初の自白調書である919B191調書において、一五日のB1側謀議
出席者に関し、その謀議の席にA18とB7とがおり、A1は右両名の間に席をと
つたという趣旨の供述をして以来、101山本調書一五項までこれを維持し、しか
も、謀議の際右両名が「この事をやるについては絶対に秘密を守つて、殺されるよ
うなことがあつてもいわないということをお互に誓つて、アリバイをしつかり作つ
てやれば大丈夫だ」という意味のことを発言したとさえ述べているのである。しか
るに、同じ調書の中で二九項に至るや、右謀議の席でA1の左右にいた者がA18
とB7であるかについては、神明に誓つて間違いないとは断言できないと、従来の
供述を変更している。ところで、一五日にはA18は米沢市におり、また、A1自
白にいうB7とみられるB7は自宅におり、いずれも謀議の行われたとされる時に
B1労事務所にいなかつたことは、証拠上明白である。101山本調書二九項は、
山本検察官が捜査資料に基づきとくに問いただした結果、右のようなA1の供述と
なつたものであろう。しかも、A1は翌一〇月二日唐松裁判官による証人尋問調書
では、右山本調書二九項以前の供述にもどり、A18およびB7の謀議出席を述べ
ているのである。
 A1自白によれば、A1が出席した謀議は、一五日のB1側謀議ただ一回だけな
のである。そして、その謀議出席者はA1自身のほかはA4、A5、A6、A3、
A18およびB7の六名であり、その中でA3、A18およびA1の三名がB1側
の実行行為担当者として指名されたというのである。もし、ほんとうに一五日B1
側謀議が行われ、A1がその席でA3、A18と共に実行行為担当者として指名さ
れ、同人らと共に犯行をしたのであれば、右謀議の席にA18がいたかとうかにつ
いて思い違いをするようなことは、通常はあるまいと考えざるをえないのである。
しかもA1の左右に席を占めていたとされるA18とB7とが、その席にいたとい
うことはありえないとなると、A1の左右の席にいた者は誰なのか。それとも、A
1の左右両側には誰もいなかつたのに、誰かがいたとA1か錯覚したことになるの
であろうか。A1の出席したという一五日B1謀議の存在そのものに疑いが生じい
ひいてはA1自白全体の信用性に疑いを抱かせるゆえんである。
 (ついでながら、101山本調書二九項の記載の始まつた紙以後とそれより以前
とでは、契印部分の折目が左折と右折との違いはあるけれども、二九項の記載の始
まつた紙とその前の紙との契印その他について、何らの異常を認め難いのである。
したがつて、右の折目の違いを重要根拠として、101山本調書が二九項から書き
改められたものであるとか二九項は後日書き加えられたものとみられるとかの疑い
が濃厚であるという原判決の説明は首肯し難い。)
 2 継目板取り外しを一個所しか述べていないということ
 A1自白における列車顛覆のための線路破壊作業中、継目板取り外しに関する供
述が、継目板を取り外したのは一個所だけであるという限定的な意味であるかどう
かは、従来、A1自白の信用性にかかわる重要な問題点とされ、原二審判決は、こ
れを限定的な意味のものではないと解し、原判決はこれを限定的な意味に解すべき
ものとしたのである。よつて、この点について考察する。
 線路破壊作業に関するA1自白の要旨は、次のとおりである。
 919B191調書
 松川の者とA1とが交替で外軌の犬釘を抜いた、始めに松川の者が六米位、次に
A1が九米位、また松川の者が六米位というように抜いた、次に内軌の犬釘を始め
に松川の者が六米位、それからA1が八米位抜いた、その間A3とA18とは交替
でボールトを外していた、結局、外軌は二五米軌条約二本近く、内軌は約一五米近
くにわたる区間の犬釘を抜き、継目板一個所を完全に外したのを見たので、事故を
起すに十分なので皆で止めよといつてやめた、というのである。
 920B191調書
 右の919B191調書と同旨である。但し犬釘・チヨツクの抜き取り作業の分
担量が、前者より明確に区分して述べられている。
 923山本調書
 A3とA18とが継目板取り外し作業を担当し、A1と松川の者二人とが犬釘・
チヨツクの抜き取り作業を担当したこと、および犬釘・チヨツクの抜き取り区間に
ついて前二者とほぼ同旨である。しかし、前二者と違つて犬釘・チヨツクの抜き取
りを始めた位置が特定されている。すなわち、松川の丸顔の者がA3の継目板を外
す側から外軌外側の犬釘やチヨツクを抜き始めたとなつており、また内軌の場合に
ついても、松川の丸顔の者が内軌外側の犬釘・チヨツクを、A3が継目枚を外して
いる前あたりから抜いたとなつている。そして結局、二五米の長さの外軌一本の外
側とこれに続く次の外軌の八分通りの外側の犬釘・チヨツクを大体抜き取り、その
反対側の内軌外側の犬釘・チヨツクを約一五米位大体抜き取り、継目板は一個所を
完全に取り外したので、事故を起すに十分な処置ができたと思われたから、A1が
もう大丈夫だろうというと、他の者ももう大丈夫だろうといつて仕事をやめた、長
年の経験で、継目板を外し、外側の犬釘やチヨツクを五米以上も抜けば、五〇粁な
いし六〇粁の速力でその上を列車が走るとすれば、必ず脱線するということを知つ
ていた、というのである。
 101山本調書
 犬釘抜き取り作業と継目板取り外し作業との関係について、A3が外軌の継目板
のボールト・ナツトを外し始めた側から松川の丸顔の者が外軌外側の犬釘・チヨツ
クを抜き始めた、外軌外側の犬釘抜き取りを終つて、松川の丸顔の者が、A3が継
目枚を外している付近から内軌外側の犬釘・チヨツクを六米ばかり抜いた、内軌の
犬釘をA1らが抜きかかる時分に、A3は継目一個所を完全に取り外したのを見た、
というほか923山本調書と同旨である。
 102唐松調書
 右の101山本調書と同旨である。
 実行行為者とされる五人の被告人らの中で、相対的にいえば、A1は犬釘・チヨ
ツクの抜き取りや継目板取り外し作業についての専門家といえるであろう。ところ
で、継目板の取り外しには、暗がりで、継目板を押えである犬釘を抜き取り、自在
スパナをナツトに合わせてナツトを緩解し、ボールトの頭をたたいてこれを外し、
その上で、継目板をたたくとかスパナの柄を継目板と軌条との間に差し込んでこじ
るとかしなければならないのであつて(B8原二審二四回公判証言、B9原審二九
回公判証言)、もしA1がほんとうに実行行為に参加したのならば、時間の制約も
あることだし、その作業はA1自身がなすべきものであろう。かりに、A1が直接
手を下さなかつたとしても、少くともA1が助言しなければならないところであろ
う。そうだとすると、実際に継目板二個所を取り外した事実があるのなら、A1が
これを知らぬはずはなかろうと考えられる。継目板を外すには、先に説明したよう
な作業をするのであつて音がすることもあろう。また、A1は前記自白によれば、
一個所にしつとしていたわけではなく、始めにA3が継目板を取り外しにかかつた
ところから松川方面に向つて犬釘・チヨツクを抜き取るため移動しており、松川の
者が犬釘・チヨツクを抜き取つた区間についてもよく知つているのである。したが
つて、A1自白が真実であり、かつ、A3らが始めの継目板の取り外しを終えて次
の部分に移動し第二の継目板の取り外しを行なつたという事実があるならば、たと
い一〇米位離れると人の姿がわからぬ位の暗さだつたとしても、A1がそれを知ら
ないわけはなかろうと思われる。しかるに、継目板取り外しについてのA1自白は、
それが一個所だけであるとの限定的意味どうかは別として、少くともA1としては、
一個所を取り外したことしか知らないという意味であることは疑いをいれない。こ
のことは、A1自白が重要な点で不合理かつ不自然なものを含んでいることを示す
ものである。それだけではなく、A1が前記の如く外軌、内軌の各外側の犬釘・チ
ヨツクを抜き取り、継目板一個所を完全に取り外したので、列車脱線事故を起すに
十分の処置をしたと考え、もう大丈夫だといい、他の者もこれに応じて作業をやめ
たと述べているのは、その供述全体を虚心に読めば、A1としては、それがA1ら
のした作業の全部であることを意味しているものと解するのが相当てあつて、継目
板取り外し個所についてのA1自白を一個所と限定的意味に解すべきものとした原
判決は正当である。ところで、本件現場の東北本線東京基点二六一粁二五九米四〇
糎の地点の外軌継目(A継目と仮称)およびその継目の上り方面軌条の他の端の継
目(B継目と仮称)の二個所の継目板が、人為的に取り外されたものであることは、
原判示の如く証拠上明らかな事実である。したがつて、A1自白はこの点でも事実
に反していると認められるのである。
 なお、付言しておくが、前記引用の923山本調書、101山本調書によると、
A3らが最初の継目板(A継目に当る)を完全に取り外したのを、A1が見たとい
う時期は、A1らが内軌の犬釘・チヨツクを抜きかかる時分であつたことがわかる。
しかも、右自白によると、A1らが内軌の犬釘・チヨツクを抜きかかつた時期はそ
れまでに、二五米の外軌一本とその次の外軌一本の八分どおり(約二〇米に当る)
の外側犬釘・チヨツクを大体抜きおわつた後であること明白ある。A1らが関係し
たとされている犬釘・チヨツク抜き取り作業の全体の四分の三にあたる作業量をし
ている間、A3らはA継目一個所の取り外しにかかつていたことになる。しからば、
A1らが残りの作業量である内軌外側の犬釘・チヨツクを合計一五米(全作業量の
四分の一にあたる)の抜き取り作業をする間に、A3らはもう一つの継目板(B継
目に当る)を完全に取り外すことにならなければならないわけである。全作業に要
した時間が約三〇分であるとすると、A継目枚の取り外しに約二二分かかつたこと
になるにかかわらず、B継目板は八分位で取り外されたことにならざるをえない。
B継目のボールト・ナツトの緊締度がA継目のそれと比較して、極めてゆるかつた
のではないかと想像することによつて、A1自白は、なお、証拠上明白な客観的事
実に反しないというが如きことが許されるだろうか。以上の次第でこの点も、また
実行行為についてのA1自白が、A1自身の経験した事実を述べたのではないので
はあるまいかとの疑いを強く抱かせる理由の一つである。
 3 犬釘・チヨツクの抜き取り数
 A1自白によれば、A1らの抜いた犬釘・チヨツクは犬釘七〇数本、チヨツク約
二〇個とみられることは原判示のとおりである(原判決四六一頁3)。しかるに、
本件現場において当時発見収集されたのは、右の約半数すなわち犬釘三八本、チヨ
ツク一二個であることは、検察事務官検証調書により明らかである。実際に抜き取
られたもので発見されなかつたものがあるとしても、当時付近の田圃の中まで捜索
して発見されたのが、右に掲げたものなのであるから、発見されなかつたものの数
は、発見されたものに比べれば、僅かなものであろう。したがつて、これを合算し
たところで、A1自白のそれには遥かにおよばないとみられるのである。この点に
おいても、A1自白は事実に反していると認められるのであり、ひいてA1自白全
体の信用性に疑いを生ぜしめる一つの理由となる。
 ロ A1自白不合理または不自然と認められる点
 これらの点については、原判決が相当くわしく説明しているのであるが、次に重
な点を項目的に羅列しておく。
 1 A1の自宅の近所で、思い違いなどするはずがないと思われる集合出発地点
および永井川信号所南部踏切手前までの道筋についての供述を、明らかに変更して
いること
 2 往路の永井川信号所南部踏切には、臨時踏切警戒が行われていて、A1らが
同所を通れば発見される危険が極めて大であるのに、あえてその危険をおかし、警
戒人らに気づかれずに通過したということ。
 3 B10らの遊間調査をしていた区間の線路を通つて行つたというのに、それ
に全然気づかず、通路になつているホーメーシヨンに置いてあつた猫車にも気づか
なかつたということ
 4 遭遇列車に関する供述のうちで、一一二列車(上り旅客)についての供述が
極めて合理的であるのに、それ以外の列車については、その遭遇に関する供述が不
合理で首肯し難いことおよびA1が述べていない四〇一列車も、A1自白にしたが
えば、その運行時刻に照し、A1らが現場付近を松川の方に向つて歩いているとき
に行き違う関係になり、A1としては一一二列車との遭遇と同様に印象の深い(両
列車は上り下りの差異があつても、各遭遇時点におけるA1らの進行方向も違つて
いたのであるから、両方とも行き違う関係になり、正面から前照燈にてらされ、か
つ両方とも客車であつたから窓明りも強いので、身をかくすように努めたことと思
われる。しかも、その二つの体験は約二〇分の間隔で重なつたことになる)出来事
であつたはずと思われるのに、A1がその事について何も述べていないこと
 5 A1が、その自供したとされている情況の下で始めて知り合つたA19とA
2とを、後日にいたつて識別できたということ。
 6 A1が犬釘・チヨツクの抜き取りと見張りだけをして、継目板取り外し作業
に全然関係しなかつたということ(イ2参照)
 7 継目板のボールト・ナツトの緩解に成功する確率の甚だ小さいと認められる
証一号の五の自在スパナだけで、継目板取り外しができたということ(本件犯行に
使用したとされている証一号の五の自在スパナおよび証一号の六のバールを、捜査
官がA1に示して尋ねた形跡は認められず、したがつて、A1がそれらを本件犯行
に使用したものであると認めた供述もないことは、看過できないところである。)
 なお、一五日B1側謀議についてのA1自白に関し注目すべきことは、後述(第
五その三)するようにA1自白の有力な補強証拠とされるA7自認自体は右謀議を
肯認しうる供述とは認められないということであり、また本件実行にあたり、B2
側の者に松川線路班倉庫から盗み出した道具を現場に持参して手伝つてもらうとい
うことが、一五日B1側謀議の内容としてA1自白に述べられているにもかかわら
ず、この点についてもB1側からB2側に連絡がなされる一五日、一六日の各連絡
謀議および自在スパナ・バール盗み出しの事実がいずれも証拠上疑わしいというこ
とである。これらは一五日B1側謀議に関するA1自白の信用性を疑わしめる事情
と考えられるのである。
 二 以上、A1自白の信用性に対する疑いの理由について説明したのであるが、
それぞれの理由には強弱の程度の差はあつても、それら幾多の疑いを合理的に一掃
できなければ、A1自白に全幅の信用性を認めることはできない。しかるに、A1
自白は一審判決および原二審判決では、その信用性を高く評価され、当審において
も検察官は幾多の理由をあげてその信用性を主張しているのである。たしかに、A
1の自白調書を一読すれば、その自白は具体的かつ写実的であり、たとい取調官の
暗示や誘導に基づくものがあつたとしても、実際に犯行に関係のない者が、果して
このような自白をなしうるものであろうかとの感を抱かせるものがある。とくに、
A1が当時いかに若年で思慮分別が足りなかつたにしろ、本件の如き死刑または無
期懲役の刑罰の予想される重大な犯罪について、自分だけではなく、他の七、八名
をも共犯者に巻き込むような嘘の自白を、逮捕後旬日を出でずしてするというよう
なことがありえようかとの感は、A1自白に対して誰しもが一応は抱くところであ
ろう。しかし、この直感にたよりすぎることは極めて危険であつて、A1自白以外
に、A1らと本件犯行とを結びつける確証があるかどうかを、なお慎重に検討する
必要がある。
 ところで、これまでA1自白の最も有力な補強証拠とみられていたB5およびB
3の各証言は、いずれも同人らの見たという人物がA1らであつたことを、その証
言自体によつて確認することのできるものでないことは、冒頭に述べたところであ
る。そればかりでなく、A18証言については、原判決も一言ふれているように(
原判決一四九頁七行目)、同人が朝早く肥料汲みに行くため森永橋を通つた際に、
付近の川辺の道に三人位の人影を見たのが、一七日朝のことであるとの記憶は、そ
の証言自体が示すとおり、あいまいなものであつて、必ずしも信用し難いのである。
すなわちA18証言(一審一四回公判)によれば、私は日記をつけていないからは
つきりしないが、その朝(一七日朝)肥料汲みに出かけたと思う。それも私の家に
刑事がきて尋ねたので、それから肥料汲みに出かけたことを思い出したのであるが、
あまりはつきりしない、……大体考えるとあの日は肥料汲みに出かけたような気が
する、……本件が起つてから五〇日位過ぎてから刑事がきて、一七日に福島に肥料
汲みに行かなかつたかと最初尋ねられた、私は日記も何もつけていないのでしばら
く考えてみたら、その朝出たかも知れないと思つてそのように答えた、すると今度
は人を見なかつたかというので、しばらく考えたら記憶に出てきたので三人を見た
と返事をした、というのである。
 また、A1予言について考えてみるに、それは本件発生の前夜すなわち、十六日
夜A1がB11らに対し、「今晩あたり列車脱線あるのではないかなあ」といつた
とされている言葉である。これがA1自白の端緒となつたのであり、A1自白の信
用性を保証する有力な根拠と主張されてきたのである。この点について、列車の脱
線に関すをA1の言葉を、B11やB12が聞いたのは、一七日の昼のことであつ
たとみられる公算が極めて強いとする原判示には、支持し難いものがある。しかし、
それが一六日夜のことであつたとしても、A1の発言自体が、A1自身らが列車を
脱線させるという意味のものではないのであるから、A1予言はそれ自体としては、
A1と本件犯行とを結びつけるものと認め難い。
 次に、A1失言について考えてみるに、それは一審における森永橋付近検証の際
に、A1がA3に「俺達が休んだのはもう少し向うの方だつたなあ」と話しかけた
とされているものである。そのような事実のあつたことを、A3の戒護巡査として
同行していたB13が証言(一審五一回公判)しているのである。これをA1が不
用意に真実を吐露した言葉あると解するならば、A1にとつては致命的であろう。
その重要性はA1予言とは比ぶべくもない。しかし、かりにA1が真犯人であつた
としても、自白から否認に転じ、公判開始以来終始無実を訴え続けてきたA1が、
検挙以来否認しているA3に向つて、この重要な検証の行なわれている際に、戒護
巡査はもちろん裁判官や検察官が直ぐかたわらにいるところで、自分たちが犯人た
ることを告白するような不用意な発言をするものであろうか。A1が若年であつた
とか、口が軽いとか、あるいはまた拘禁中の被告人の外出による解放感とかいうこ
とで説明がつくものとは考え難い。B23証言のとおりの発言があつたとしても、
A1がどんな気持あるいは趣旨で、その発言をしたのかについて検討を要するので
ある。この点についての原判決の説明は、果して真相をうがちえているかどうかは
別としても、A1失言について、これを犯人たることの自認とみる以外の見方が成
立しうる余地のあることを示すものである。
 なお、A1の失言に類するものとして次のようなものがある。A1が福島拘置支
所に勾留されていたときのことである。当時の拘置支所長B14の証言(一審二六
回公判)によれば、A1がB60に対して「俺が投げた手袋は黄色味があつたよう
だ、あの手袋は余りきれいだ云々」と話したのを、同証人がたまたま聞いたという
のである。このことは、A1がその自白の中で、犯行に使用したあとで濁川に捨て
たと述べている手袋のことを、B60に話したものとされているのである。しかし、
右証言は原判決の信用しなかつたところであり(原判決一六二頁4)、その判断が
必ずしも誤まりであるとは認め難い。
 これを要するに、A1自白には、いかにも真実らしくみえる点もあり、またこれ
を補強しその信用性を担保するものの如くみられるものがあることは否定できない。
それだからこそ、一審および原二審判決はこれを信用すべきものと認め、有罪の認
定をしたのである。しかしA1自白の信用性の根拠となるかの如くみられるものが、
実は必ずしもそうでないことは、その重要なものについて右に説明したとおりであ
り、その他のものも、すべて、A1自白の信用性を保証するに足りるものではない
のである。しかも、本件において、A1ら五人の実行行為担当者とされる被告人ら
と本件線路破壊の実行行為とを結びつける証拠は、A1およびA2の両自白をおい
ては、他にないことは、本項の冒頭に述べたところである。このような証拠関係の
下において、先にあげたように、明らかに事実に反しまたは不合理不自然な幾多の
ものを含み、その信用性に疑いのあるA1自白をもつて、被告人らの有罪の証拠と
なすことは許されないとした原判決の判断は、結局これを支持すべきものである。
とくに、A1予言その他A1の片言隻句を採り上げて、有罪認定の極めて有力な資
料と解するが如き危険をおかすことは、避けねばならないのである。
 その二 A2自白について
 一、A2がA1自白に基づいて逮捕されたのは、九月二二日であり、その後一〇
日を経て一〇月二日にいたり、ようやくB191警視の取り調べに対して全面的に
自白したものであることは、証拠上明らかである。そして、A2自白はA1自白に
符合するので、両自白はたがいに補強し合うものと解されてきたのであるが、A1
自白の信用性が疑わしいとなれば当然にA2自白の信用性も疑わしくなつてくる。
しかも、A2自白それ自体にも、その信用性を疑わしめる事由があるのであつて、
その信用性を否定した原判決は支持すべきである。次に重要と認められる点につき
説明しておく。
 1 一一二列車との遭遇
 A2は102B191調書で犯行を全面的に自白しながら、A1自白に出てくる
一一二列車との遭遇については何も述べず、かえつて「途中今になつては何物にも
会わない様な気がするが、忘れて憶い出せません」と述べているのである。103
三笠調書でも同様で、「私とB23の二人が仕事をしに行く時汽車にあつた様な記
憶はありません」と否定の供述をし、なお末尾に「今日は非常に疲れ、頭がもやも
やしてアリバイの打合せとかその他もつと詳細な事が頭に浮びませんので、ゆつく
り休ませて頂き後で詳細申し上げたいと思います」と述べている。ところが、10
4三笠調書では、「前日に引続き昨夜良く休んでそして良く考え思い出した事を申
し上げます」と前置きして、一一二列車との遭遇について次のように述べているの
である。「福島の者と会つた辺からは歩いて普通の速度で一〇分位もたつたと思う
辺りで、汽車がくるのに出会いました。その時福島からきたB1の三〇過ぎの者と
判断される男が、汽車がくる、顔を見られるから降りろといい、線路の東側の土手
の下二、三米もあつたと思われた窪地に走り下りたので、私等も続いて走り下り、
顔を伏せてばらばらにしやがみ、汽車の通り過ぎるのを待ちました。その汽車は上
りの客車で、相当速い速度で通り過ぎました。何輛連結だつたか良く見ないのでわ
かりませんが、電気がついていて明るかつたので客車だと思いました。そこから先
は現場までは家は無かつたように思います。」このように詳細な印象深い出来事で
あつたのに、その前日の三日には「非常に頭が疲れてもやもやして」いたにしろ、
積極的に、「汽車に会つた様な記憶はありません」と否定しているのである。もち
ろん人間の記憶は完全ではなく、あてにならぬこともしばしば経験するところであ
る。しかし、A2が104三笠調書で述べている右のような事実を、実際に経験し
たとすれば、A2にとつて忘れることのできないことであつたに違いないと考えら
れる。四日にはこれほど明確に、具体的詳細に供述できた事実を、その前日には記
憶を喚起できなかつたというようなことは考え難いことであり、その理由を解する
に苦しむのである。もともと、一一一二列車との遭遇ということは、A2の経験し
ていない事実であつて、A1らと共にA2が犯行現場に行つたという事実そのもの
が、実は虚偽なのではないかとの疑いが生じてくる。一一二列車との遭遇を認めた
A2の供述は、A2が取調官の意を迎えて記憶にないことを述べたのてはないかと
の疑いを、さしはさむ余地がないとはいえない。
 2 犯行に赴くためA19が松川労組事務所にきて、A2と共に犯行現場に向つ
て出発したとされる際の情況および右両名が犯行現場から同所に帰つてきたとされ
る際の情況
 この点については、A2自白と当夜A2と一緒に労組事務所にいた関係被告人ら
の自白との間には、単なる記憶違いとして見過し難いくいちがいのあることは、原
判決の指摘するとおりである(原判決六〇二頁(3))。
 すなわち、A2を含む関係被告人らの各自白をまとめてみると、次のようになる。
 (1)A19が犯行に赴くため労組事務所にきたとされる際の情況については、
皆起きていて労働歌などを歌つているときA19がきたという者(A2、A8、A
9)と、A19が何時きたかわからないという者(A10、A11)とに分れる。
 (2)A19とA2とが犯行現場に向つて出発したとされる際の情況については、
A10、A11、A12、A9、A8の五人で見送つたという者(A2、A8)、
自分は見送つたが外の者のことはわからないという者(A9)、寝ていたが皆の声
または足音で眼をさましたら、A2か出て行くところであつたといい、またA19
については姿は見ないが、A2と共に出かけたと思うという者(A10)および寝
ていたが足音に眼をさましたら、A12、A9、A8が入口のところにいた、「行
つた」というのでA2が行つたことを知つたといい、あるいはまた、入口まで行つ
て見送り、A2とA19の姿を見たともいう者(A11)に分れる。
 (3)A19とA2とが帰つてきたとされる際の情況については、A12、A9、
A8、A11、A10の五人がまだ起きていた、A19は事務所には寄らなかつた
という者(A2)、右五人がまだ起きており、A19が事務所に寄つて話して行い
たという者(A8)および寝ていたのでよくわからないという者(A9、A10、
A11)に分れる。
 結局、A19とA2とが当夜犯行現場に向つて松川労組事務所を出たという抽象
的なことだけは各供述が一致しているが、その具体的な事実および情況に関する供
述ならびに右両名が帰つてきたということに関する供述は、ばらばらで、どれを信
用してよいのか判断に苦しまざるをえないのである。果してこれが、本件の如き重
大犯行に関係し、同一の事実を共に経験したはずの者たちの供述であるか疑いなき
をえない。ひとりA2の自白に止まらず、関係被告人らの自白のいずれもが、容易
に信用し難い理由の一つである。これに対して、A2については、これから出かけ
て実行する線路破壊作業のことで頭が一ぱいであつたためとか、また、犯行から帰
つてきたときの自己の責任が終つたとの解放感のためとか、A8についてはバール・
スパナの盗み出し行為を終了した後の解放感のためとかで、それぞれの記憶かある
いは欠け、あるいは間違つているのだといういうような説明では、右の疑いを解く
に足りない。結局、A19とA2とが本件犯行の実行のため現場に向つて労組事務
所を出発し、また犯行を終つて労組事務所に帰つてきたとの点については、信用に
値する証拠がないのである。
 3 A1自白とのくいちがい
 この点は、A2、A1の両自白に共通の問題であるが、両者の間には、当夜の明
暗度、たがいに相手方の人相などを識別しえたかどうか、A2の履物が下駄か靴か、
最初に見張りに立つたのはB1側の者かB2側の者かなどの点について、原判示の
如きくいちがいのあることは明白である(原判決四九二頁一八)。この点もまた、
両自白の信用性を疑うべき理由の一つであることは、否定できない。
 4 謝礼金自白
 A2自白がいわゆる謝礼金自白を含み、これがA2自白全体の信用性を疑うべき
強い理由の一つであることは、原判決の指摘するところであり(原判決五七五頁(
8))、あらためて論じるまでもない。
 二 以上、A2自白の信用性を疑うべき理由を説明したのであるが、A2自白に
ついても、A1自白と同様に、その信用性の根拠をなすものの如くみられ、また、
そのように主張される点がある。よつて、これについて検討を加えておく。
 1 A2が新聞記者に対して、自己が真犯人あると思わせるような言動をしたと
いうこと。
 B15およびB16の各証言(一審一八回公判)によれば、右両名はB17記者
であるが、A2の勾留理由開示公判の行われた際に、自己の順番を待つているA2
に会つた、A2は戒護のB34巡査部長とB18巡査との間に、手錠をかけられう
つむいて立つていたが、B15記者が「A2君今日の公判はどうだい、気分はどう
だい」と話しかけると、A2は一寸間をおいて「私はやつたことについては、本当
の事を述べ、今日からは良心的にすつきりした気持になりたい」といつた、その話
の最中にB16記者がB15記者のかたわらにきて、右の話が終ると同時に、A2
に「どうしたい」というと、A2は「とんでもないことをして済みません」といつ
てうつむいていた、それからまた、B15記者が「松川町の人達にも、B2の人達
にもA2君は評判が良く、皆同情をもつて見ている、もし嘆願書という話でもあつ
たら僕も一筆書いてもよい」といつたら、A2は「嘆願書のことは宜しくお願いし
ます」といつた、B16記者は「とんでもないことをして済みません」といわれて、
やはりやつたのかなあと思つた、B15記者は、A2が「やつたことについては、
本当の事を述べ、今日からは良心的にすつきりした気持になりたい」といつたとき
には何とも思わなかつたが、「とんでもないことをして済みせん」といつたときに、
ハツとしてA2が事件に関係したと受け取つた、というのである。
 ところで、A2は九月二五日勾留状の執行を受けて福島地区警察署に勾留され、
その後同地区署と二本松地区警察署との間を往復し、一一月二六日福島拘置支所に
移監されるまのでの間、その身柄を警察の支配下に置かれていたことは記録上明ら
かである。そして記録によれば、勾留理由開示の法廷の開かれたのは、その間の一
〇月六日のことである。しかも、前記のようにB15、B16の両記者がA2に会
つたときには、A2の左右には戒護の警察官が控えていたのである。このような情
況およびA2が逮捕後一〇日を経て一〇月二日にいたりようやくB191警視に全
面的自白をしてから、まだ数日を出ていなかつた時のことであるという事情、なら
びにA2の自白に幾多の疑いがあることなどを考えると、A2のいつたとされる言
葉を採り上げてあれこれせんさくし、その趣旨を臆測することは、かえつて、事の
真相を見誤まるおそれなしとしない。
 2 二本松地区警察署で、A2とA10とがたまたま調室で一緒になつたとき、
たがいに顔を見合わせて「俺は話してしまつた」といい合つたということ。
 B19証言(一審五五回公判、原二審五五回公判)および三笠三郎証言(原二審
六〇回公判)によれば、二本松地区警察署でB19巡査部長がA10を調べ、その
調書に押印させるにあたり、印肉を借りるため、A2を取り調べていた三笠三郎検
事の室にA10を連れて行つたところ、三笠検事は調べを終つてA2と雑談をして
いたが、その際、A10とA2とは顔を見合わせて「俺は話した」「俺も話した」
とたがいにいい合い、A2は「いつたら胸がすつとした」といつた、というのであ
る。検察官は、この事実をもつて、「真実を述べてしまつて、精神的負担から解放
された者の態度とみるのが自然であり、自白の真実性を示す事実と解される」と主
張する。しかし、B19、三笠の両証言は、原判決が信をおくことができないとし
てしりぞけているところである。それだけではなく、この点においても、B15、
B16両記者にA2が話したとされる言葉について説明したと同様で、かりに、そ
のような言動があつたとしても、捜査官を前にしてA2とA10とが話し合つた言
葉をとらえて、直ちに、右被告人らが真実を吐露したものであるかの如く解するの
は危険である。捜査官の面前においてしたその自白そのものの信用性自体が、問わ
れていることを忘れてはならない。
 以上二点は、比較的重要と思われるので、とくに説明したのであるが、A2自白
の信用性を示すものとされるその他の点も、すべてその信用性を保証するに足るも
のとは認め難いのである。そして、A1自白について最後に述べたことは、A2自
白についてもまた同様である。すなわち、A1ら五人の列車転覆の実行行為担当者
とされる被告人らとその実行行為たる線路破壊作業とを結びつける証拠としては、
A1およびA2両名の自白しかない本件において、先に説明したように、その信用
性に疑いのあるA2自白をもつて、被告人らの有罪の証拠となすことはできないと
した原判決の判断は、結局これを支持すべきものである。
 むすび
 以上説明したように、謀議の存在が認定できるかどうかの問題とは別に、実行行
為だけを採り上げて検討してみても、これを認定するに足る十分な証拠はないので
ある。したがつて、アリバイの成否を論ずることは、既に無用のことであるといわ
ねばならない。
第五 自在スパナ・バールの盗み出し、連絡謀議その他についての事実誤認
 その一 自在スパナおよびバールの盗み出し関係について
 自在スパナ・バールの盗み出しとは、一六日夜のB2側謀議において、A13が
A10、A11、A8の三名に同夜一二時までに松川線路班倉庫から自在スパナ・
バール各一挺を盗み出してくるように命じ、これにより右三名が同夜一〇時半頃労
組事務所を出て右倉庫に行き、これを盗み出してきて、右事務所の入口付近におい
たとされているものてあつて、当審において検察官は、通常の窃盗事件として考え
てみても、これ以上の証拠収集ができないほど証拠はそろつているものであると、
主張するのである(弁論要旨四二六頁五行目)。
 ところが、原審は、松川線路班倉庫における自在スパナおよひバールの紛失関係
について、本件事故発生直前における同線路班倉庫備付の自在スパナは三挺であり、
そのうち修理に出してあつた員数は二挺、現在数は一挺であつたと認められること
(B20一審一〇回公判証言)、本件事故直後に福島保線区の人が松川線路班にき
て、自在スパナ一挺を持ち去つたが、その持ち去られたものに該当するとみられ、
かつ本件事故現場にあつた自在スパナ(証一号の五)と同型の、一〇吋自在スパナ
一挺(証一六二号)が昭和三五年七月五日金谷川巡査駐在所事務室において発見領
置され原審に提出されたこと(B21原審二一回公判証言、3575B22任意挺
出書、3575B23領置調書など)、また、本件事故当日現場において証一号の
六のバールが発見されたので、松川線路斑のバール紛失の有無を調査することにな
つたが、その際復旧作業の応援にきていた各線路班の者が持参したバールを集めて
総計し、その総計から他の線路班の分を差し引いた残りを松川線路班の持参したバ
ールの数とし、これに基づき同線路班のバール一二挺のうち一挺が紛失したことを
発見したということ(B20、B18各原二審二〇回公判証言)などから考えると、
当時松川線路班において自在スパナは紛失していないのではないかともみられる余
地かあるし、また、バールについては、本件事故直後早朝に松川線路班から事故現
場に持参したバールの数そのものが元来さほど明確なものではなかつたため、前記
のような誤差を生じ易い方法で調査したものと認められ、かかる情況の下ではバー
ル一挺紛失の事実も確認し難いと判示しているのであつて、右原審の判断には重大
な誤認があるものと認められない。そうすると窃盗の被害そのものが、まだ十分に
確証されていないことになる。
 のみならず、関係被告人らの自白の信用性にも幾多の疑問があるのである。その
あるものについては前に説明したところであるが(第四その二A2自白の項参照)、
なお、次の諸点を特に顕著なものとしてあげることができる。A10自白のうちで
106辻調書における松川線路班倉庫の板戸を手で中に押したら開いたので三人と
も中に入り、真暗で手探りでバール・スパナを探し、A10がスパナを、A8、A
11がバールを一緒に持つて出た旨の供述(ただし、107辻調書では、三人で板
戸の外側にある北側の戸を持ち上げると外れて開いたので、それを南側の戸に立て
かけ、A8、A11の順で中に入り、A10は外で見張りをしており、中でライタ
ーの火をつけたのかと思われるあかりがついたが、五分位してA8がスパナを、続
いてA11がバールを持つて出てきた旨に供述を変更している)は、松川線路班倉
庫の板戸の構造および戸の開け方において客観的事実に反し(一審検証調書など)、
A10も倉庫の中に入つたということは、同人のその後の供述およびA8自白、A
11自白とも異なるのであつて、真犯人であるとすれば、このような事柄について
記憶違いや錯覚を起すはずはなく、しかも、始め、見張りをしたと述へ、次に、中
に入つたと供述を変えるのが通常であると考えられる。かかる点において、A10
自白の信用性には疑いがあるのである。さらにA9自白も、116吉良調書と11
8吉良調書とでは、バール・スパナを持つて三人が組合事務所に帰つてきた方向に
ついての供述に矛盾があるようにみられ、また、いわゆるアリバイ工作に関しA1
3から依頼された時刻などについても、116吉良調書と116三笠調書とでは著
しく供述が異なるほどの疑問点を含んでいるのである。なお、B1職員でない三人
が当夜、A13から命ぜられた後、事前に何んらの下調べもすることなしに、松川
線路班の倉庫の所在を知り、迷うことなくそこに行きつき盗み出せたということも
不思議であるし、三人つれだつて帰つてきたという三人の帰路が二たとおりあつて
合致しないという点も、納得のできないところである。かかる自白中にあつて、ひ
とり自在スパナおよびバールの盗み出し関係部分のみを、措信すべき特段の事情は
認められない。
 したがつて、前述のように、当時松川線路班における自在スパナおよびバールの
紛失の有無について疑問があるのみならず、信用性に疑いのある関係被告人の自白
を除けば、本件事故現場において発見された自在スパナおよびバール(証一号の五、
六)が同線路班倉庫から盗み出されたものであることを確認できないであるから、
結局、この点も肯認できないとする原審の判断には重大な誤認があるとはいえない。
 その二 一五日および一六日の連絡謀議関係について
 一審判決の認定した松川事件の謀議関係は、大要次のとおりである。すなわち、
八月一二日午前九時頃B1側のA6からB2側のA13に対し一三日のB1労事務
所における列車転覆計画に関する会議に出席されたい旨の電話連絡があり、A13
はこれを承諾し、(1)一三日午前一一時五〇分頃B1労事務所において、B29、
B18、A4、A5、A6、A3、A18、A7およびA13に代つて出席したA
14、A19が本件列車転覆を実行する協議をなしその実行の具体的打ち合せは一
五日正午頃同所で行うことにし、(2)一三日午後一二時四、五〇分頃B2松川工
場構内にある同工場労組事務所において、B24からA13、A15、A12に対
し列車転覆計画を打ち明けB2側の協力を求めてその承諾をえ、(3)同日午後一
時頃同事務所において、A12がA8、A10、A11、A2に対し右B24との
謀議の結果を伝えて協力を求めその賛成をえ、(4)前記(1)の謀議を終えてB
2松川工場に帰つたA14、A19は同日午後五時半頃同工場内八坂寮真の間にお
いて、A13に対し右謀議の結果を報告し、右三名はB1側の計画にB2側として
参加協力すること、ならびにその実行に当る者の人選について協議し、(5)一五
日午前一一時頃B1労事務所において、A4、A5、A6、A3、A1が会合し、
一六日未明松川と金谷川間のカーブの所で一二時過ぎの夜行列車を転覆させること、
実行にはB1側からA3、A18、A1の三名が当ること、B2側からも二、三名
作業用具を持参して手伝つてもらうことを決め、さらにA3とA1の間で一六日夜
一二時頃、B25農業協同組合裏に集合することなどを協議した上、A1は正午頃
退出し、(6)A1退出後居残つた四名が同所において、前記(1)の謀議決定に
基づき参集したA19を加え同日正午頃からさらに具体的に日時、場所、実行者と
して双方から出すべき人数、役割など計画実行の具体的打ち合せをなし、(7)右
(6)の謀議を終えて松川工場に帰つたA19は、同日午後五時半頃前記八坂寮真
の間において、A13、A14に対し右謀議の結果を報告してその承諾をえた上、
B2側の実行者をA19、A2の両名とし、A8、A10、A11をして松川保線
区からバール・スパナを持ち出させること、アリバイ工作として当夜、A12、A
9に労組事務所で寝ないで起きているようにさせることなどを決め、(8)一六日
B2松川工場板金工場で開催されたB2松川工場労組の組合大会に出席したA7は、
同大会終了後の同日午後八時四〇分頃、前記八坂寮組合室においてA13、A14、
A19、A15、A2、A8に対し、朝の二時何分かの列車を転覆させる、その前
の貨物列車は運休で時間は十分ある、B1からはA3、A18、A1の三名が行く
から松川からも二人出してもらつてバールとスパナを持つてきてくれと申し入れ、
A13はこれを承諾し、(9)右A7による連絡後の同日午後九時三〇分頃、A1
3、A14、A19、A15、A2、A10、A8、A11が右八坂寮組合室にお
いて会合し、A13からA10、A11、A8は松川の保線区からバールとスパナ
を持ち出し、一二時までに組合事務所に持つてきておくこと、A19とA2は午前
二時頃までに松川と金谷川間の踏切先のカーブのところに行つてB1側の人と一緒
になつてその道具で作業することなどを指示し一同これを諒承したというのである。
 原二審判決は、右の各謀議を認定した一審判決の判断には事実誤認があるとして
これを破棄し、一二日の電話連絡を否定し、前記(1)ないし(4)はいずれも謀
議に至らない話し合いであるとし、(5)以下につき一審認定事実とほぼ同一の一
五日B1側謀議(前記(5)に相当するもの)、一五日連絡謀議(前記(6)、(
7)に相当するもの)、一六日連絡謀議(前記(8)に相当するもの)、一六日B
2側謀議(前記(9)に相当するもの)などを認定したのである。
 この原二審の認定につき大法廷判決は、原二審判決が認定した一五日連絡謀議お
よび一六日連絡謀議には二つともその存在に疑いがあり、同判決には重大な事実誤
認を疑うに足りる顕著な事由があると断定してこれを破棄し、本件を原審に差し戻
したのである。
 大法廷判決が右各連絡謀議の存在が疑わしいと断定する理由の第一は、関係被告
人の自白の信用性に疑いがあるということである。すなわち、大法廷判決は、一五
日連絡謀議の直接証拠はA14自白とA7自認であり、一六日連絡謀議の直接証拠
はA14自白、A8自白、A7自認であつて、その信用性の有無が右各謀議の存否
を決定するものであるとした上、右被告人三名の自白(自認)全都について検討を
加えその信用性は疑わしい旨を判示している。その要点は、A14自白は、一三日
A14が一人で福島へ行つたのか、それともA19と二人で福島へ行つたのかにつ
いて、また一五日B1労事務所における連絡謀議のための会合にA14自身が出席
したのか、それとも自分は出席せず、ただA19のみが出席し同人からその報告を
受けたに過ぎないものであつたかについて供述変更の跡が目まぐるしく、原二審判
決が明らかに虚偽であるとした一二日のB1側からB2側に対する電話連絡および
いわゆる転覆謝礼金についての供述を含む不合理な自白であつて、このような供述
の変更や虚偽は、ただひたすら迎合的な気持から取調官の意に副うような供述をし
たことによるのではないかとの疑いさえあつて、どこまて真実を述べたものか、ま
たどの供述に真実があるのか判断に苦しまざるをえない。A7自認そのものはなん
ら本件各連絡謀議の存在を肯認しうる供述ではなく、またA8自白は、A14自白
に次いで変化の多い自白であり、転覆謝礼金の供述をも含んでいるのであつて、同
自白中の一六日連絡謀議に関する部分のみをとくに信用性があるとしなければなら
ない特段の事情は認めなれず、かえつて、同自白が最初は自分も初から右謀議に加
わつた如く述べておきながら、後になつて自分は途中からこの謀議に加わつたので
あると供述を変更しているなど疑問とすべきものをもつている、というのである。
 原審は、あらたに右被告人三名の供述調書多数を取り調べている。そこで、これ
らの新証拠の自白(自認)の内容を検討すると、A14自白は、一二日のB1側か
らの電話に出た者について、最初はA14であると述べながら後にこれをA13で
あると変更し、一三日福島に行つた者がA14一人であるか、A14、A19の二
人であるかについて供述は二転三転し、一五日のB1側との連絡謀議に出席するた
めA14が福島へ行つたかどうかの点についても、最初はA19と二人で行つた旨
を供述しながら後にはA19だけが行つたと供述を変更し、一六日連絡謀議につい
ては、最初は同日朝の列車でA7が松川にきて、午前一〇時頃からB2松川工場内
八坂寮医務室の隣室において、A13、A14、A19、A15と打ち合せた旨を
供述していながら、後にこの打ち合せを取り消し、さらに転覆謝礼金についても肯
定否定両方の供述をしているなど、旧証拠のA14自白と同様な供述の変更がみら
れるのである。A8自白も旧証拠と同様に供述の変更が多く、A7自認も本件各連
絡謀議の存在を肯認しうる供述とはみられないことに変りはなく、かかる新証拠に
より、またはこれと旧証拠とを綜合判断しても、A14自白、A8自白、A7自認
の信用性について大法廷判決が指摘した疑問を少しも解消できないのである。(原
判決は、一二日午前九時頃、B1労事務所からB2松川工場事務所に電話のかかつ
たこと自体は認めているが((原判決七七六頁五))、A14自白の信用性を補強
するものではない。)
 大法廷判決は、また一六日連絡謀議の存在が疑わしい理由として、一六日までに
A7がB1側被告人らとの間で列車転覆に関し謀議を遂げていたか、同人がB2側
に対する所要の連絡をなすべきことをB1側被告人らと協議していたかという点、
本謀議の内容の一つとされている、B1側からはA3、A18、A1の三名が出向
くとの連絡事項に関して、B1側において既にその時までに、A18が転覆作業に
参加することについて、同人の諒承をえていたかという点、右謀議が行われたとさ
れる同日午後九時頃(一審判決では午後八時四〇分頃)までにA7が転覆列車の前
の列車である一五九貨物列車の運休決定の連絡を受けていたかという点については、
これらを認めるに足りる証拠が原二審判決には掲げられていないということ、さら
に本謀議があつたとされている頃の前示八坂寮における人の出入についての関係諸
証人、被告人らの供述は、実に千態万様であつて、そのいずれを採るべきかの判断
に苦しまざるをえないものであること、A14自白、A8自白は本謀議の出席者に
A2を加えているのに、当のA2自白には何ら本謀議についての供述が見当らない
ことは、A2がこの謀議に参加しなかつたことの証左であるというよりは、むしろ、
本謀議の存在を疑わしめる事情であるように認められ、かかる重要な謀議がB2松
川労組組合大会終了後の僅か五分間位の間に至極簡単に行われたという原二審判決
の認定には無理があるということなどをあげている。
 一六日連絡謀議について大法廷判決が右に指摘するこのような疑問は、原審にお
ける事実取調の結果によつてもこれを解消するに足りる何らの資料をも見出すこと
ができないのである。(原判決は、一六日朝A7がB2松川工場に、行く前に一五
九貨物列車の運休が決定されていた公算は大であると判示しているが((原判決六
五九頁(1)))、これでも一六日連絡謀議の存在に対する疑いを解消できないこ
と、いうまでもない。)
 これを要するに、一五日連絡謀議、一六日連絡謀議の存在は、証拠上依然として
疑問があり、これを肯認できないのであるから、大法廷判決が本件各連絡謀議に関
する原二審判決の事実認定にかけた重大な事実誤認の疑いは、原審における新証拠、
またはこれと旧証拠とを綜合判断しても、これを解消できないのみならず、右謀議
の存在も疑わしいとする原審の判断は、是認することができる。
 もつとも、原審が、本件各連絡謀議の存在を疑わしいとする程度をこえ、さらに
進んでB26メモ(証一三一号の一)などにより、A19の一五日アリバイの成立
は決定的に確証されたとか、また、一六日夜の連絡謀議が行われたとされるB2松
川工場八坂寮組合室におけるB27、B28の加わらない約五分間の時間的間隙は
存在しなかつたとかの相当強い心証をとつていることには、当裁判所は疑問なしと
しない。けだし、B26メモの記載自体は、A19が、一五日午前中に行われたB
2の団体交渉の席に最後までいたか、それとも途中で退席したかについての決定的
な証拠を提供しているものとは認め難く、その他同人の一五日アリバイの成立に強
い心証をえた原審の判断をそのまま是認することには躊躇を感じる。しかし、そう
かといつて一五日連絡謀議そのものの存在も、A19の途中退席の事実も積極的に
証明されない以上、原審の右判断に重大な誤認があるとはいえないことはいうまで
もない。また、大法廷判決の指摘するように、一六日夜B2労組組合大会終了後の
前記八坂寮における人の出入りについての関係証人、被告人らの各供述は千態万様
であつて、そのいずれを採るべきかの判断に苦しまざるをえないものであり、この
ことは原審の事実取調の結果によつても変更があつたとは認められないのであるか
ら、原審としては、この程度の心証にとどむべきであつたと考えられる。
 その三 その他の謀議およびアリバイ関係などについて
 松川事件の謀議中一五日B1側謀議に関するA1自白が措信できないものである
ことは前に述べたとおりであり(第四その一、一イ1)、A7自認も右謀議の存在
を肯認するに足る供述とはみられないのである。また、一六日B2側謀議に関する
A14自白、A8自白の信用性に疑問があることは、先に述べたところであり、A
2自白、A11自白、A10自白は、いずれもいわゆる転覆謝礼金の供述を含み、
A2自白中の実行行為関係部分も前に述べたように措信できない(第四その二、一)
など、いずれもその信用性については相当の疑いがあるものであつて、これら各自
白の右謀議関係部分のみをとくに信用性があるとしなければならないような特段の
事情は認められないのである。そして、以上述べた各関係被告人の自白、自認を除
けば、一五日B1側謀議および一六日B2側謀議を肯認することはできない。
 このように、実行行為に近接する重要な謀議とされる一五日、一六日におけるB
1側謀議、B2側謀議および各連絡謀議がいずれも肯認されない以上、これら謀議
の準備的段階に過ぎないと考えられる、それ以前における一二日電話連絡を含むそ
の余の謀議を肯認しえないことも、おのずから明らかである。したがつて、一五日
連絡謀議、一六日連絡謀議以外の各謀議(原審において予備的に追加された訴因を
含む)の存在も疑わしいとする限りにおいて、原審の判断は、これを支持しうるも
のである。
 その他、関係被告人らのアリバイに関する論議やA18の身体障害の問題など、
本件の長い審理を通じて激しく争われてきた点もあるが、既に、各種の謀議や実行
行為そのものの証明が十分でない以上、さらに多く説明を付加する必要をみない。
第六 おわりに
 思うに、一審がした有罪の認定に対して、二審において合理的な疑いがあるとし
て無罪判決を自判する場合においては、その破棄理由の説示として、心証形成の過
程を適当に説明することは望ましいことであろう。しかし、原判決のこの点の説明
をみるに、措辞誇張にすぎる嫌いなしとせず、必ずしも適切な表現でなされていな
いため、それが本件上告を招く一因となつたのでないかともうかがわれ(当審検察
官弁論要旨一三頁以下参照)、遺憾である。
 以上第二ないし第五に説明したとおり、判例違反の所論はその前提を欠き、その
他の所論は単なる法令違反、事実誤認の主張を出でず、いずれも上告適法の理由に
当らない。また、以上述べたところのほか、記録を慎重に調べ論旨を十分に検討し
ても、所論の点について刑訴四一一条を適用すべきものとは認められないのである。
 よつて、同四一四条、三九六条にしたがい、裁判官斎藤朔郎の補足意見、裁判官
下飯坂潤夫の少数意見あるほか、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。
 裁判官斎藤朔郎の補足意見は次のとおりである。
 一、今日においても、多くの刑事事件が自白を有力な証拠として処理せられてい
ることは、否めない事実である。しかし、ただ一と口に自白といつても、公判廷に
おける自白と捜査中だけの自白とでは、裁判官においてその真実性を吟味するのに
格段の相違があるので、おのずからその証明力の評価にも微妙な差異を生ずること
当然である。
 すなわち、公判廷の自白であるならば裁判所が直接にその自白をきくのであるか
ら、もし自白の内容に矛盾をふくんでいるときは、真実性に誤りないかをいろいろ
の角度から吟味することができる。しかし、捜査中だけの自白の内容に矛盾をふく
んでいるときには、裁判所としてその真実性を吟味するのに十分な方法をもたない。
かような場合に、その自白以外に極めて有力にして的確な別の証拠がないかぎりは、
その矛盾を解消できないままで裁判所が真実性を認めることは到底できないところ
である。捜査官としては、かかる矛盾についていわゆる打診的発問などを行い、そ
の矛盾の解明に意をそそいでおいて、そのことを調書上明らかにしておいてもらわ
ないと、裁判所として心証のとりようがない。かかる発問が決していわゆる誘導尋
問でないこと、もちろんである。例えば、A1自白(101山本調書)では「私が
事故を起すのに十分な処置が出来たと云うたのは、私が線路工手としての四年以上
の経験で継目板を外し外側の犬釘やチヨツクを五米以上も抜けばカーブの処では、
絶対に脱線するということを知つて居りましたので、もう大丈夫だと云うたのであ
ります。」とある。右の趣旨は、継目板一ケ所とカーブの外軌外側の犬釘やチヨツ
クを最低五米も抜けば絶対に間違いなく脱線することを知つていたというのである。
しかるに、そのA1自白では、外軌外側計約四五米内軌外側約一五米合計六〇米も
の犬釘やチヨツクを抜いたというのであり、また現実には継目板二ケ所が外されて
いたというのである(その時間的余裕があつたかどうかの甚だ疑問であることは、
判決理由(第四その一、一イ2)に説明しているとおりである)。かくの如く、A
1からいえば必要以上の作業を時間的余裕もない場合に、果して実際にやつたもの
かどうかを、強く疑わざるをえない。いわんや、事故現場に発見された犬釘やチヨ
ツクの数がA1自白より著しく少ない場合においておや。
 しかるに、このような矛盾の解明をするための打診的発問の行われた形跡は全く
ない。A1は指揮者でないからA3が止めようというまでやつたのだと想像して、
この解決を裁判所が自らしなければならないものだろうか。同様のことは、継目板
の取り外しについてもいえる。検察官は、当審弁論で、継目板が二ケ所取り外され
ていたことは捜査の当初から捜査当局に十分に判つていた事実であつたと強調した。
果して然らば、既に判つていた客観的事実に反して、A1自白のとおりならば、前
記判決理由の説明するように、二ケ所を取り外す時間的余裕のないことになるので
あるが、捜査当局としてはこの矛盾の解明に意をそそいで、その結果を調書上明白
にしておく必要があるのではないか(継目板の取り外しをA1が見たのは一ケ所だ
けかどうかの問題でなく、A1自白のとおりならば継目板二ケ所を取り外すことは
できないと認めざるをえない結果になるという矛盾をどう考えるかの問題である)。
 思うに、本件事案の核心である実行行為そのものに関する自白に、裁判所として
は、想像をまじえる以外では解決しようのない矛盾点があつてもなお、捜査中の自
白を信用しなければならないものだろうか。それは、全く、被告人らが真犯人であ
ると先ず決めてかからねばできないことであつて、自白の真実性を慎重に吟味する
合理的な態度でない。
 二、一般に、犯罪の実行行為の隅から隅まで残りなく、証拠で認定するなどとい
うことは、容易にできることではない。その意味で自白の内容は客観的事実と大綱
において一致していれば、その真実性を認めてよいことになる。しかし、犯人と実
行行為との結びつきについては、どこかの一点で、合理的な疑いをいれる余地のな
いまで確実なものがなければならない。それさえあれば、その余の事実については
大綱の一致でよいこと、もちろんである。
 しかるに、本件ではさようなA1と本件犯行を結びつける証拠は幾多の矛盾をふ
くんだA1自白以外に何もない。濁川に投げすてたという手袋もA1のものとは断
定できないし、101山本調書を見てもA1が使用したとされているバールを示し
てその同一性を確認せしめることさえもしていない。また、B5機関士やB3の供
述といえども、A1自白に真実性を認めてはじめてその補強証拠になる程度であつ
て、A1自白にふくまれている幾多の疑問点を合理的に一掃できるように強力で的
確なものでない。
 三、私は、徒らに捜査当局を不信呼ばりするつもりは少しもない。ただ望むとこ
ろは、科学的といえないまでも、万人を納得せしめるに足るだけの合理的な方法で、
捜査を行つてほしいということである。供述調書の内容に矛盾をふくんでいるとき
でも、ただ供述者のいうがままに録取しておけばよいのだというような態度でなく、
真実の発見のため、その矛盾点の解明に役立つような取り調べをしておいてもらい
たい。そうでなければ、後日その供述をひるがえした場合、裁判所としてはその矛
盾点の解明をすることは、ほとんどできないことである。かような矛盾を解明する
裁判官の職務であるといつても、容易にできることでない。信ずべき部分と信ずべ
からざる部分を区別するなどといつても、確固たる付随事情による補強が別に存在
しない限りは、到底できないことである。もつとも、有罪であるとの心証を直感力
で先取してしまえば、それに符合する部分を信ずべきものとすることは容易である
が。自由心証は、ある程度の直感力に基づくものとはいえ、その確信は、われわれ
の社会通念による論証に十分たえるものでなければならない。確信するが故に真実
であるということは、成り立たない議論であること、いうまでもなかろう。検察官
自身も「捜査の不手際のため真相の究明を困難ならしめたと思われる点があること」
(当審検察官弁論要旨一頁九行目以下)を卒直に認めている本件事案において、な
おさら、捜査中の調書の真実性の吟味に一層慎重ならざるをえない。もしそれ、か
かる捜査の欠陥を、裁判所の専権として有する自由心証の自由をもつて補充し、真
実性を容易に承認するが如きことがあつては、裁判の中立性を自ら放棄するもので
あろう。
 四、森永橋付近の一審検証の際に、A1がA3に「おれたちが休んだのはもう少
し向うの方だつたなあ」といつたとされるA1失言を、どう評価するかは相当に重
要な点である。本件においては、いろいろの失言や予言が出てくるのが一つの特色
であるが、かかる失言や予言が千慮の一失というか天網恢恢疎にして漏らさずとい
うか、思わぬところに、客観的な付随情況が残つているといえる場合もあるので、
果して本件の場合、そういえるかどうかは慎重に考えなければならないことである。
そこで、先ず第一に留意すべき点は、その失言や予言の内容が、できるだけ正確に
保存されておらねばならないということである。検察官の当審における弁論要旨(
四三一頁七行目以下)に引用している『また、福島拘置所に移監された当日、A1
3から「お前はバールを盗つたことがあるか」と問われたのに対し、(A10が)
「ある」と答え、他の房にいたB29にたしなめられてその会話をやめた事実もあ
り(一審五一回B30証言)、右自白の信憑性は十分これを認めることができる』
という点などは、正確な会話の内容を伝えているものとは到底考えられない。A1
3は、検察官の主張によると、A10外二名にバールの盗み出しを命じた張本人と
いうことになつているのであるから、A10にそんなことを質問するはずがなく、
何等かの聞きちがいでなかつたかと考える方がむしろ自然であるまいか。森永橋の
失言の内容も、一審の検証の際であつたのであるから、その場でB13戒護巡査か
ら山本検察官に連絡し、直ちにその点を明確にしておく措置のとられなかつたこと
は遺憾である。右失言の内容が最良の形で明確に保存せられていない以上、いかに
軽率な者でも明らかに自己が犯人であるとみられる事柄を、訴訟関係人のそろつて
いる検証現場でもらすはずがないのではないか、という疑いをぬぐい去ることがで
きない。
 五、真実は期間に拘束されないといわれる。真実発見のためならば、訴訟はいく
ら長くかかつてもやむをえないという考え方である。しかし、さように実体的真実
万能の考え方は、近代的な自由主義的法律思想の下では、存在を許されない考え方
といわねばならない。むしろ、それは全体主義的国家の法律思想であり、そこでは、
被告人有罪か無罪かいずれかであることを証拠によつて確定しなければならないの
であつて、証明不十分による無罪の裁判などすべき余地はないとせられている。証
明がまた十分でないときは、場合によつては捜査機関にまでも事件を差し戻して、
あくまで有罪か無罪かを証拠によつて確定しようとすること(東独の一九五二年一
〇月二日の刑事訴訟法一七四条参照)などは、刑事裁判の正しいあり方ではないと、
私は信じる。刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全
うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正かつ迅速に適用実現すること
を目的とする、わが刑事訴訟法の下では、被告人が有罪であるか、無罪であるかが、
証拠によつて確定できないという真相もまた、右刑訴一条にいう事実の真相の一つ
に外ならないと考えざるをえない。
 もちろん、疑わしきは罰せずの原則に安易にたより、事案の真相の究明をゆるが
せにすることの、許されないことであること、いうまでもない。無罪の裁判におい
て、真犯人が別に現われてきて、被告人の無実が決定的に証明できるような場合−
犯罪事実の不存在の認定の場合−は、ほとんど稀れな場合であつて、多くの場合は、
有罪の認定をするにはなお合理的な疑いが残つているという程度で、事件に終止符
を打たざるをえない場合が通例であること、多言を要しない。それ以上の審理を尽
さなければならないとすることは、国家が裁判所に課している責務の範囲外のこと
を裁判所に求めることである。
 裁判官下飯坂潤夫の少数意見は次のとおりである。
 一、原判決は本事件に対する所信の一端を示して、曰く、松川事件の重大性に鑑
み、国民から重大な責務を付託されている裁判所の義務として、当裁判所は全力を
傾倒して精査検討する云々と。この言葉は私も借用させて貰う。
 われわれは第二審判決(時には第一審判決)を検討批判する責務を国民から付託
されている。その任務の遂行は厳正でなければならず、いささかも寛容であつては
ならない。私は原判決を通読再読してこれは世にも驚くべき判文であると思つた。
このような判決が最高裁判所の関門を無傷で通過できるものと考えられることは、
私の堪え難きところであつた。これ敢えて、少数意見を発表して原判決を仮借なく
論評する所以である。無論刑訴四一一条に従つてのことである。
 まず、第一に私は原判決の根本的誤謬を指摘したい。それは原判決のいわゆる新
証拠に対する考え方である。私もいわゆる新証拠なるものを一々検討した。然るに
その記載内容は旧証拠と比較考量して瑣末な喰違はあつても、大綱において旧証拠
と相反撥するものではないのである。尤も中には相反撥するかの如き記載内容のも
のもあるにはある。しかしそれは文面だけのことであつたり、或は相反撥するにつ
いてそれぞれ首肯するに足りる理由があつたりして、旧証拠に比して決して優るよ
うな証明力をもつものでないのである。このような場合原判決は記載の表面だけに
とらわれ、その底に横わるものを掘下げてつき止めようとはせず、自問自答、自己
の出した答案に陶酔しているのである。証拠価値の甚しい過剰評価である。そして
最も悪いことは新証拠を踏み台として三段跳式論法で自己の都合のいい結論に飛び
付いていることである。そこでは事実認定に付いての論理の法則などは無視されて
いるのである。原判決はその冒頭において次の如く云う。「当審検察官は本件捜査
段階当時に作成された供述調書等一六〇〇余通にのぼる尨大な書面を提出した。当
裁判所は検察官提出のこの新証拠群の書面を精査検討し、その新証拠を相互にまた
はこれと旧証拠と対照吟味することにより(この場合新証拠の書面は物的証拠の性
格をもつ)、自白の真実性を確かめ、被告らの法廷供述や証人の証言の真偽をみき
わめる上において「B26メモ」に劣らぬ幾多の新証拠を発見した。この場合対照
吟味に用いられる新証拠が物的証拠の性格をもつという意味は、例えば被告が身柄
を拘束されて外界との交通を完全に遮断された期間中における被告の供述調書、参
考人の供述調書等の供述の内容がある事柄について合致しているとき、そのような
供述内容の合致する供述調書が存在するということ自体が証拠となるという趣旨で
ある。この場合被告と参考人と事前に打合わせた等の作為的事情がないと認められ
るときは、その合致する供述内容の事柄はお互に体験を共にしたが故に、それに関
する供述が合致するものであるとみて通常差支ない、というのが経験則であるとい
えよう。だから、そのように供述内容の合致する供述調書が存在するという事実は、
その被告の供述調書と同旨の当該被告の法廷供述の真実性、あるいはその参考人供
述調書と同旨の当該参考人の証人としての証言の真実性を強く保障するものといえ
るのである。そうして、そのように強く真実性の保障された被告の法廷供述あるい
は証人の証言であるから、それは動かない証拠、不動の証拠といつても差支ないわ
けである。このように動かない証拠、不動の証拠といつても差支ないほど真実性の
豊かな被告の法廷供述や証人の証言が直接の証拠となつて確証されるのであるから、
例えば、ある被告のアリバイの成立が殆ど決定的であるといえるという趣旨なので
ある。その他、これに類した事例が本文説明中の随所に出てくる。かくして新証拠
のうちのあるものは、右に説明したような意味合において基本的事実についての被
告の法廷供述や証人の証言を動かない証拠たらしめるものであつて、そこに見解の
相違を容れる余地はなく、かくてその新証拠で裏打された不動の証拠に対する反対
証拠と見られるものは、おのずから克服され、またその不動の証拠の線に沿うて自
然に解明し得られるものであり本件全証拠を綜合判断してこれを動かすに由がない
のである……かくてわれわれは前記の意味における不動の証拠に基づき、珠玉の真
実を発見したのである。」云々
 いわゆる新証拠が物的証拠となるものかどうか、またそれが原判決のいうような
意味合において証拠力を有するものであるか否かは、証拠法上問題であろうかと思
うが、それはそれとして、原判決は被告が身柄を拘束されて外界との交通を完全に
遮断された期間中における供述という点を重点として考えているようである。しか
し、被告が身柄を拘束されて外界と完全に遮断されているということ自体に先ず問
題があるのではなかろうか。身柄が拘束されているからといつて、外界と遮断され
ていると云い切れるものではなく、何らかの方法によつて連絡しうる場合があり得
ないものでもなく、また拘束前にすでに連絡打合せがなされないものと保障のでき
るわけのものでもないのである。従つて身柄拘束中だから外界と遮断されていると
云い、また外界と遮断されている期間中の供述だから他の供述と一致する場合云々
というのは早計である。原判決は体験、体験という。しかし体験といつても考え違
いや勘違のものもあるであろうし、また、仮面をかぶつた体験もあるであろう。判
決はそのような点については吟味も、せん索もしようとはせずただ漫然と一途に身
柄拘束中外界と遮断されている期間中の供述が他の供述特に被告の法廷供述(弁解)
と一致する場合、そこに相互の合致する体験が見出され、その体験の中にこそ真実
があるのだというのである。まことに形式論的な甘い見方だと云わざるを得ない。
裁判とはそんな甘いものではあるまい。裁判官は身柄拘束され外界と遮断されてい
る間の供述にしろ、また法廷供述(弁解)にしろ諸般の証拠並びに情況を十分に斟
酌し、これを凝視してその真否を発見しなければならない。その努力の積み重ねの
間にこそ真実発見という裁判官の最大の任務が完うされ得るのである。原判決には
そうした努力の跡は看取し得べくもなく、当然直接喚問して然るべき証人すら喚問
しようとはせずただ以上のような形式的論法にのみ終始しているのである。
 原判決を貫くものは新証拠の出現である。そしてその新証拠の出現により次の如
く論結している。それは、原判決の用語を借りて云えば、原判決の始発駅であり終
着駅てもある。日く、「本件において犯罪と被告らを結び付けるきめ手となる証拠
は自白のみ、脱線作業実行行為の決め手となる証拠は本件捜査の端緒となつたA1
被告の自白と、同自白により検挙されたA2被告の自白である。A1自白によれば、
実行行為担当者は五名でB1側はA3、A18、A1の三被告、特にA3は謀議に
おいても重要な役割を演じ自ら実行を引受けて犯行現場で指導的役割を果したとさ
れている。だから、新証拠の出現によりA3とA18の各アリバイの成立が認めら
れ、もしくはその成立の蓋然性が極めて高いとなれば、それだけで実行行為の認定
はその基底から崩れ去るような虞れがある。同時にA1、A2両自白の真実性が疑
われることになる。さらに本件自白、自認の根幹をなし、事件の大綱を伝えるとさ
れるA1自白、そのA1自身のアリバイ成立の蓋然性が甚だ高いとなれば、実行行
為の認定はもとより、本件事案はその根幹を揺り動かされるようなことになりかね
ない。ましてA1自白の有力な支柱とされるA2自白の真実性に強い疑いがかけら
れる新証拠が現われ、謀議関係においても、その立て役者とされているB1側のA
4、B2側の実行々為もしたというA19の各アリバイ成立が認められもしくはそ
の蓋然性を極めて高からしめる新証拠、その他謀議関係の存在を疑わせ、謀議関係
の中枢をなし、本件の全貌を伝えるとされるA14自白の真実性を一層疑わせる新
証拠が現われ、バール自在スパナの持ち出しおよびアリバイ工作についてもその関
係自白の真実性を強く疑わせる新証拠が出てきたとなればなおさらである。新証拠
の出現は実に右の諸問題を中心とする本件事案の始ど全域にわたるものである。し
かもそれは従来自白の真実性を保証する根拠とされ、検察官もそのように主張する
諸事象、例えば森永橋付近の一審検証の際におけるA1夫言といわれるものそのも
のその他数々の出来事をあるいは根底から崩壊させあるいは疑わしく薄弱ならしめ
る底の新証拠を含むのである。新証拠の出現により前記のような審理の結果から主
要な問題点と事案の全貌を展望してみると、A3アリバイの成立は殆ど決定的、A
18アリバイ成立の蓋然性も甚だ高い、A1自身のアリバイ成立の蓋然性も今や甚
だ高いといえるのである」云々というのである。
 二、ところで、私は原判決がいうところの新証拠の出現により新な判断に到達し
たという二三顕著な例を左に摘記して、これを論評することとする。
 第一は第一審における森永橋附近検証現場におけるA1発言に対する判断である。
この発言は本件を解明する一つの重要な鍵であるが、この発言は第一審五一回公判
における証人B13の供述中に現れているのでまずその供述を録取する。「私は国
家地方警察巡査で本年(昭和二五年)四月八日裁判所が東北本線永井川信号所南方
の山を下つたという地点から東北本線東側田圃道をB31前森永橋に至るまで及び
濁川の検証をした際B32巡査とA3被告の戒護に当りました。その時の検証は脱
線現場より帰途濁川附近で休憩したということに付いてその附近を検証したのであ
ります。私はA1を知つております。それは実地検証でA3被告を戒護してから知
るようになつたのであります。四月八日午後は森永橋製菓工場の正門道路で濁川に
沿つた崩れた処があり、そこで裁判長と大塚弁護人が会話しておりました。そのと
き私はA3被告を戒護しておつて裁判長より川上の方に約一間位、大塚弁護人より
四、五尺離れたところに位置しておりました。A1被告はその中間に居り私の直ぐ
前位の処におりました。又A3被告は私から約二尺位川上に居りました。A1被告
は右裁判長と大塚弁護人の話の時A3被告に向つて『A3ちゃん、A3ちゃん』と
呼びましたが、A3は振り返りも返事もしませんでした。するとA1はA3被告に
対し『俺達が休んだのはもう少し向うの方だつたな』と川上の方を顎でしやくりま
したが、A3被告は何も話をしませんでした。A3被告は返事もせず振返りもしな
いのでA1被告は鉛筆を右手にとつて下唇にあて濁川の方を見て居りました。顎で
しゃくつたというのは『もう少し向うだつた』と顎でしゃくつたのですが、西の方
を向いたので私は横の位置になりましたが、何メートル向うの事かその地点までは
判りませんでした。私はその話により脱線作業をやつたことで起訴されているA1、
A3、A18が帰りにこゝで休み川に手袋を捨てたことにより今実地検証をしてい
るものと推測しました」云々。
 これに対し原判決は「本検証の目的内容から見て、その際A1の弁解するような
『俺達の休んだとされている所はもつと向うの方だつたなあ』という趣旨で右B2
3証人の証言するような舌足らずの発言をしたとしても少しも不自然ではない、そ
の時いかなる目的内容の検証をしていたかを知つている者ならばA1の右発言をA
1の弁解するような趣旨に解しても別段不自然さも感じなかつたであろう」と云い、
あるいは「以上の諸事情を綜合すればB23証人の聞いた問題の発言は『俺達の休
んだとされているところはもつと向うの方だつたなあ』との趣旨であつたのを、そ
の時検証の目的内容を知らなかつたB23証人がただその戒護巡査という職務から
の先入観的意識から『俺達の休んだのはもう少し向うの方だつたなあ』という趣旨
に聞き違えたというのが真相である」という。舌足らずの発言というのか、あるい
はB23証人の聞き違いというのかそのいずれであるか原判決の判示は曖昧で且つ
晦渋でありその説明も如何にもくるしそうである。原判決はその指摘するところの
新証拠はこの間の事情を物語つて余りあるなどと云つているが、その新証拠を見て
も、原判示のような事情は些も窺われないばかりでなく、却つてその内容はB23
証人の供述と大体一致しているのである。いつたい、A1が原判決の理解するよう
な発言したとするならば、側にいたA3被告から何らかの応答あつて然るべきであ
ろう。然るに、A3被告が応答した形跡はいさゝかも認められないのである。A3
被告としてはA1が余りに事実真相を暴露したような発言をしたので応答するとこ
ろの沙汰ではなかつたのであろう。この辺の情景は本件の真相を物語つて余りある
ものと云うべきではなかろうか。然るに原判決は右B23証人を証人として尋問す
るでもなく、また、前示検証の際に立会つていた人々から一片の証言を得んとする
何らの試みさえせず、前叙のような判示の下に、A1自白の真実性の保障を確保す
るものとされてきた最も重要な拠点はこゝにその根底から崩壊し去つたのであると
いうのである。原判決は他の部門で次の如く云つている。「少くともその重要な心
証形成の理由はこれを説明すべきであり、またこれを説明することは実務上決して
不可能ではない。そのように心証形成の理由は上級審のあらゆる角度からの批判に
たえ、一般世人が考えても尤もだと納得のゆくものでなければ、上訴制度の理念か
らはもとより、裁判公開主義の原則の趣旨にも副わないことになるのではなかろう
か。正しい民主々義における裁判は切捨て御免に等しいものになつてはならない」
と。私として率直に云わしめれば、原判決の叙上のような判断こそは最も納得のゆ
かないひとりよがりの裁判であり、しかも原告官に対する切捨御免式の裁判である
と思う。私はこの場合だけでないが、原判決の随所に示されている右のような自己
満足的判断に怪訝の念禁じ得さるものがあるのである。
 第二は被告A11が唐松裁判官から証人として尋問された際に、A11が松川線
路班倉庫の戸を外す恰好をしてみせたという事実についての原判決の判断に付いて
である。唐松裁判官は証人として、原二審七〇回公判において取調べられているの
であるが、その際証人唐松寛と山口検事との間に左記のような問答が交わされ且唐
松はその供述に副う仕草をして見せた事実、そしてこれに対しA11被告からは何
ら発問のなされた事実のないことか認められるのである。
 問 証人は先程A8被告の質問に対し松川線路班倉庫の戸を開けるときの状況に
ついてこのようにして外したんだと云つて、その恰好をして見せた被疑者が一人い
た趣旨の証言をしたが、それは八月一六日夜松川線路班倉庫ヘバール、スパナを盗
みに行つた際の同倉庫の戸を外す状況についてそのような恰好をして見せたのか。
 答 左様であります。
 問 そのような恰好を見せたのは誰れであつたか記憶していだいか。
 答 はつきり記憶しておりませんが、考えて見るとA11であつたように思いま
す。
 問 どんな恰好をして見せたのか。
 答 取調べをした部屋の窓の所へ行つて「こうして外したんだ」といつてその恰
好をして見せたのです。丁度こんな恰好でした。
 このとき証人は証人台から裁判官席の机の前に進み同机の前方嵌め板を窓に想定
して両腕を胸の高さに上げて丁度幅三尺の戸を左右から押さえていてこれを持上げ
て先ず戸の下方を敷居から手前に外し次にそのまゝ戸を完全に取外す恰好を実演し
た、云々というのである。
 原判決はA11被告の右実演はてれかくしでやつたのであつて、本心から出た所
作ではないというのである。そしてその理由として、新証拠であるA11被告に対
する唐松裁判官の勾留尋問調書によるとA11は逮捕状請求書記載の被疑事実を強
く否認しているのであるが、それが三日後に辻検事の取調をうけるやバール、スパ
ナの盗み出しにつき詳細を自白し、松川線路班倉庫入口の板戸を取外した模様をも
詳しく述べているのであり、更に唐松裁判官の取調べをうけることとなり、松川線
路班倉庫からバール、スパナ盗み出しの件等を詳しく自白に及んでいるのである。
一方当時一八才やつとの最年少のA11は取調官に対し屈従的迎合的な心的状態に
陥つていたのであるから、さきに全面的に否認した唐松裁判官の前に引き出されて
ほんとうにやつたのか、どういうふうにやつたのかなどきかれ照れかくしに戸を外
す恰好をしてみせたのであつて、前後の事情から推測して極めて自然に出てくる所
作だつたのであると云うのである。右挙示の新証拠から、そのように判断したとす
れば、無茶というの外はないし、一方検事辻辰三郎のA11被告に対する取調調書
によれば、A11は松川線路班倉庫に押し入つたときの事情特にその戸を取外した
場面を極めてスムーズに何の渋滞もなく述べており、その真実性の豊かなことが認
められ、それが全くのデタラメであり、後日そのデタラメを糊塗しなければならな
いような事情などは一向に認められないのである。
 およそ犯罪者というものは検挙直後はおしなべて事実を否認し、日時の経過につ
れて良心が目覚めすべてを告白するに至るものであり、一旦告白を決意するや真相
を洗いざらい吐露するものなのである。A11被告の場合(特に年少で意思薄弱で
あつた彼の場合は殊更に)は正にその段階にあつたのではなかつたのか。これを原
判示のように判断するということはいわゆる新証拠に対する過大評価の故か、然ら
ずとずれば原判決特有の想像力を無軌道に駆使して作り上げた作文としか思われな
い。直接審理の重要性を呼号する原審としては右のような判断をする前に、何故に
唐松寛を証人として喚問しA11被告が右のような所作をしたときの情況を具さに
聴取しなかつたのであろうか。そのような処置をすることもなく、右のような判断
をしたことは著しく審理不尽で、事実審裁判官の任務を懈怠したものと云われても
致方ないであろう。
 第三に取上げべきはA2被告が勾留開示公判を待ち合せ中、控室でたまたま来合
せた新聞記者B15、B16に語つた言葉の解釈に付いてである。そのときの状況
をB15、B16両記者は次の如く述べている。
 (1)「私(B15)は新聞記者であります。私は本件の被告人A2を知つてい
ます。私は新聞記事取材の為めその勾留理由開示の法廷に来て居りましたので知つ
て居るのです。私はその日裁判所構内に来て居るとき此の法廷外でA2に会つたこ
とがあります。それは此の裏(裁判官席の後を指す)の部屋との間の廊下の一番端
の処でした。A2を戒護して居りましたのは福島地区警察署のB34巡査部長とB
18という刑事でした。その外にも一人居たように思われますが、はつきりしたこ
とは忘れてしまいました。その時私はA2に言葉をかけたことがあります。最初私
がA2君に『A2君元気かい』と声をかけましたらA2君は『元気です』と答えま
した。それから私は『君はこの次公判だね』と云いますとA2君は下を向いたまゝ
うなづきました。そしてすぐ私は『A2君今日の公判はどうだい、気分はどうだい
』と話しかけましたらA2君は一寸その問に間がありました。それに対して『私は
やつたことについて本当のことを述べ今日から良心的にすつきりした気持になりた
い』と言いました。丁度その話の最中、同僚のB16記者が私の左側に来てその話
が終るとA2君が『とんでもないことをしてどうも済ません』と下を見ながら言い
ました、それから再び私はA2君に『松川町の人達にもB2の人達にもA2君は評
判が良く、皆同情をもつて見て居る、若し歎願書という話でもあつたら僕も一筆書
いても良い』と言いましたら、A2君は『歎願書のことは宜しくお願いします』と
言いました。大体会話の内容はそれだけです。その会話を終つてから私はその右の
廊下を通り便所に行つて用便を済ましこの法廷に入りました。法廷前に廊下で私達
と会つた時のA2の態度は私達と話終つた時何かゆつたりした感じが致しました」
云々。―第一審一八回公判における証人B15の供述―同じ公判におけるB16の
供述は次のとおり。
 「私は新聞記者であります。私は本件の被告A2を知つて居ります。昭和二四年
一〇月六日A2に対する勾留理由開示の裁判が当公廷てあつたことを知つておりま
す。私はB17の裁判担当記者としてその法廷に出ていたから知つておるのです。
私はその日裁判所に来ている時法廷外の裁判所の構内でA2に会いました。それは
この法廷のかげの地方法務局の総務課の前の渡り廊下のところで会いました。私が
A2君と会つたのは勾留理由開示裁判のある前です。私が一寸便所に立つた時渡り
廊下のところで会いました。私がA2君と会つたのは勾留理由開示の順番を待つ為
戒護に当つたB34巡査部長が右に、B18巡査か左におり、A2君はその間に立
つて手錠をかけられてうつむいておりました。そしてそこにうちのB15記者がい
て二言、三言しやべつていたようでした。私はその場所でA2君と言葉を交わしま
した。B15記者と何かしやべつていたようでしたので、私は何気なく『どうした
い』といいましたら、彼は『飛んでもないことをして申訳ありませんでした。』と
いつてうつむいていました。私はA2君と言葉を交わしたのはそれだけです」云々。
 右両記者とA2との会話の交換されるとき、側にいた戒護巡査のB34は次の如
く述べている。「私は昨年一〇月六日に本件の被告人であるA2外六名の勾留理申
開示法廷に立会つたことがあります。その立会をするに至つた理由は被疑者が監獄
代用である福島地区署の監房に入つていた関係上戒護の任に当つたが一般看守巡査
の監督権をもつていたのですべてについて責任をもつて戒護に当りました。その際
A2を戒護したことがあります。どのように戒護したかとのお尋ねですが、法廷の
進行を円満にするため連絡係をおき、法廷の裏にある会計室の脇の裁判所の庁舎か
ら通ずる廊下の十字路の処で椅子に腰をかけせて順番の来るまで待機させておりま
した。私がA2を戒護していたときたまたまB15記者が出てきてA2に声をかけ
たことがありました。その会話の内容全部は記憶していませんが二こと三こと記憶
しております。私はそのとき北を向いており、私の右にA2が居りましたところ、
そこへB15記者が来て『やあA2ちやん元気かい』と云つた処A2は『エエ』と
云つて首をまげて肯いて挨拶したように思います。そしてB15記者は『A2ちや
ん間もないね』と云い、それから身体の工合をきいたように思います。B15記者
はA2に『今日の公判はどうだね』と云つたところA2は『やつたことはやつたと
判然言つて、すつきりした気持になり度い』と云つたように思います。そうする中
に名前は判らないがB16という新聞記者が来で『やあA2ちやん』といつたとこ
ろがA2は『どうも済みませんでした』と云つたように記憶します」云々。
 以上の証言によると、被告A2が自分の犯した罪を認め心中深く悔いている情景
が私には彷彿として浮ぶのであるが、原判決は実に驚くべき判断をしているのであ
る。すなわちB15、B16両記者がA2のいつた言葉をそのまゝ正しく伝えてい
るかどうかも疑問であるとした上、A2は既に全面的に自白していること、B15
記者に言つた言葉をうけて、同じ気持でB16記者にも云つたこと、他にも共犯者
とされている者が幾人もあることをA2が知つていることを念頭において新証拠を
参照すれば(ここでも新証拠がでてくる。この理由付は何のことか私には分らない)
A2としては改まつた気持で決意を述べたことを示すに十分であつて、A2の気持
としては「私はやつたとされていることについて何もやつていないので本当のこと
を述べ今日から良心的にスツキリした気持になりたい」「とんでもない嘘の自白を
して他の者に迷惑をかけどうもすみません」という意味に理解する余地が十分にあ
るのである。反骨的な骨つぽいA2だからこそこういう言葉が出て開示法廷でハツ
キリ否認できたのである。既に全面的に自白している者が今更「私やつたことにつ
いて本当のことを述べ今日から良心的にスツキリした気持になりたい」という、音
味だとするとおかしくないだろうか不自然ではないだろうかと云うのである。舞文
曲筆こゝに至つて極まれりという外はない。「私はやつたことについて本当のこと
を述べ、今日からは良心的にスツキリした気持になり」という言葉が「私けやつた
とされていることについて何もやつてないので本当のことを述べ今日からは良心的
にスツキリした気持になりたい」とどうして読み換えなければならないのであろう
か。原判決のように読み換えるならば良心的などという文句は不用なのである。又
「とんでもないことをして、どうもすみません」と、いう言葉を「とんでもない嘘
の自白をして他の者に迷惑をかけてどうもすみません」と、どうしても尾鰭をつけ
て理解しなければならないのか、私は理解にくるしむのである。A2の言葉を率直
虚心に読めば読み換えたり尾鰭を付けたりして理解しなければならない余地はいさ
ゝかも認められないのである。「原審裁判官達よ、物を素直にみたまへ」と云い度
い。原判決は右の判断に自信もないと見え、「当時A2は屈従的迎合的な心理状態
にあつたのである。そうした警察の支配下の拘束状態におかれていたA2が看守巡
査につき添われているのであるから従来の自白と異ることを言えば、警察に帰つて
からどんなことになるかも知れないとおそれたとて不思議ではない。だから「とん
でもない犯行をしてどうもすみません」と言つたからとて別に異とするに足りない。
そのことから直ちに「自己が真犯人であることを表明したとみるべき根拠は甚だ乏
しい」という。これはまるで被告の為め弁解をしているようなものである。およそ
刑事々件においては被告あるいは証人の片言隻語の中に全体を解明する鍵がひめら
れている場合がまゝあるものである。それは刑事裁判官の常識であろう。故に片言
隻語だからといつて閑却してはならないのである。然るに原審裁判官は片言隻語だ
といつてこれて捨て去るばかりでなくこれを曲解して自己陶酔しているのである。
前示B15、B16両記者と被告A2の応答の部分などは本件を解明する上におい
て閑却すべからざる場合ではないか、それを判示のように歪曲するのである。私と
して云うべき言葉を知らない。
 なお附け加えるが、原審は右のような判断をするについてはB15、B16両記
者を公判廷に喚問して当時の情況を具さに尋ねるのを当然と考えられるのであるが、
何らそうした措置に出ていないのである。そして上叙のような判断を書面上だけで
事もなげにしているのである。前にも述べたが、その軽々しさ審理不尽の甚しいも
のであつて事実審裁判官の態度として到底納得ができない。
 三、松川事件の実行行為を解明する方法はいろいろあるであろうが、私はバール、
スパナの盗み出しのくだり及びこれに関連する一連の行為を説明することから始め
るのが、最適であると考える。そこでその点に関する原判示を批判しながら以下に
私見を述べたいと思う。
 バール、スパナ盗み出しに加担し、それを自白しているA8、A10、A11三
被告の供述調書はたくさんある。またそれを裏付けるA2、A12両被告の供述調
書も同様である。しかしこゝではまず盗み出しの実行行為に当つたA8、A10、
A11、三被告の供述に絞つて述べることとする。
 一、A8被告の自白調書と目すべきものは
  1、昭和二四年一〇月六日の笛吹調書
  2、同月七日の唐松調書
  3、同月一一日の笛吹調書
  4、同月一四日の笛吹調書
  5、同年一一月一九日の唐松調書 であり
 二、A10被告の自白調書としては
  1、昭和二四年一〇月六日の辻調書
  2、同年同月七日辻調書
  3、同年同月八日唐松調書
  4、同年同月一〇日辻調書
  5、同年同月一三日辻調書
  6、同年同月一四日辻調書 であり
 三、A11被告の自白調書としては
  1、同年一〇月一五日辻調書
  2、同年一〇月一八日辻調書
  3 一〇月二二日の唐松調書
  4 同月二六日の唐松調書である。
 右調書上の被告らの供述を通覧すると、どれをとつてみても結局同じようなこと
に帰着し、多少の出入りはあるが、大同小異といつていいのであるが、論議を進め
てゆく便宜上右調書の中判りのいゝものとして、検事辻辰三郎に対するA10被告
の供述(二四年一〇月一三日付調書)と同じ検事に対するA11被告の供述(同月
一八日付調書)唐松裁判官に対するA8被告の供述(同年一〇月七日付調書)同じ
裁判官に対するA11被告の供述(同年一〇月二二日付調書)を左に摘録すること
とする。
 A10被告は次の如く供述する。
 『前略、座るとすぐにA13さんは皆に向つて「今夜踏切先のカーブで脱線作業
をやるーA10、A8、A11は駅の工夫小屋から一二時前迄に適当な時間を見は
からつてバールとスパナをもつて来て組合事務所の所において呉れ、アリバイがは
つきりして呉れば絶対にもれる心配はない。このことは絶対に口外してはならぬ。
A2、A10、A8、A11の四人は組合事務所に泊れ、A12に話しであるから
……」と云われましたので、私、A11、A8、A2は皆「ハイ」と答えました。
このA13さんの話の内私等にスパナを持つて来いと云はれる前に「こちらからA
19君とA2君が行くから」と云われたような気も致します。又私達に事務所に泊
れと云はれた後に他の同席者に泊る所を云つておられた様な気がします。私はこの
私を聴いて直ぐにA11は寮に居り駅の近くだからバールスパナの有り場所を知つ
てみるかと思いA11君に「在る場所は分るのか」と言いますとA11君は「行け
ば大丈夫分るから」と答へました。私はこの後無言でしたがA13、A19さん等
向ふ側に居た人は話をして居られました。私はA13さんに会釈して場を立ち一番
先に医務室の入口から外に出組合事務所に帰りました。A8、A11、A2は自分
の直ぐ後バラバラと出て来て事務所に来ました。私がこのA13さん等の席に居た
のは前後約二十分位でありました。事務所に帰つた私達四名とA12、その、の六
人で又ビラ書きを始めました。二十分位して私は事務所土間の方に置いてあつた私
の米袋を持つて八坂寮に行きました。便所の方の入口から入り食堂を抜けて炊事場
に入り流しに置いてあつた鍋を洗いそれに袋の米全部約四合を入れて米を洗い水を
入れて同じ経路で事務所に帰り土間の電熱器に鍋をかけ飯を炊き始めました。この
八坂寮へ行つていた時間は十分から十五分位でありますがその間寮では誰にも会い
ませんでした、私は電熱器の所で鍋が大きいし電熱は小さいので旨く炊ける為に鍋
の上からバケツをかぶせたり電熱器をいぢくつたりして十分か十五分位居りますと
A8君が私の所に来て小声で「行つても良い時間になつたのではないか」と言いま
すので私は「うん」と言いますとA11君も板張りの方から土間の方に来ました。
私はA8君が良い時間と言つた意味を丁度其の晩は駅に近い松楽座でレピユーがあ
り遅くなると其の帰り客にぶつかり早いと又人通りがあるので丁度其の頃が良いと
言う意味で言つているのだと考え承知の返事をしたのであります。斯様にして丁度
十時半頃私、A8、A11は事務所を出ました。A8が先頭で次に私最後にA11
の順で事務所から細道を東に上り八坂神社の参道に出鳥居をくぐり県道に出て県道
を右に折れ県道に出てから三人は横隊になりました。踏切を越えた新聞屋の前の横
道を左に折れました。この横道で又一列にA8、私A11の順になりました。この
横道を歩いて大きい家の後を廻り端にコンクリートがしてある土手の様な所を通り
駅長官舎前の広場を横切り工夫小屋の前に出ました。小屋の北寄りにある板戸にA
8君が手をかけ動かそうとしましたが鍵がかかつて居りますのでA8の北寄りに私、
南寄りにA11が並び三人でこの二枚の板戸の北の方外側にある戸を持ち上げ前へ
ひきますと其の戸ははずれましたので其の戸を南内側の戸に半分程あけて寄りかけ
A8が先ず中に入り続いてA11が入りました、私は背か高いので入らず私は戸の
開いた所より三歩程北に寄つた所で見張りをする為線路の方を向いて立つて居りま
した。中に入つた二人は音を立てませんでしたが、二分程して中でライターかマツ
チの火と思はれるあかりが一瞬間ついた様な気がします。それから一、二分してA
11が戸の開いた所から手を出しスパナを一挺自分の前に投げ出しました。続いて
A8が先A11が後で二人でバールを一本かかへて出て来た様に思います。二人が
出て来る前私は直ぐにスパナをひろい上げネヂのあるモンキースパナでありました。
私はスパナをとりにいく時モンキーでないと大きさが合はない場合困るので盗み出
すスパナはモンキースパナでなければならんと思つてるたので確めて見たのであり
ます。A8、A11が出て来たので三人は直ぐにバール、スパナを開いた戸の前の
地面に置き三人で立て掛けた戸をもとの様にはめ込み私がスパナ一挺をA8、A1
1二人がバール一挺を持ち合い私、A8、A11の順でもと来た道を縦隊のまま踏
切り迄来て県道踏切を越えた所で直ぐに左に折れ軌道に副つて北に歩き駅員官舎の
前から右に折れ井戸の所を通つて八坂神社鳥居の手前で畑の中の小道を事務所前の
B35と言ふ家の方に歩きB35の家の後同家の便所の前を抜けて組合事務所に帰
りました。帰りは終始一列で私、A8、A11の順であつたと思います。私は事務
所土間の小道をへだてた向側にある菊の植へてある所にスパナを置き事務所に入り
ました。A8、A11は恐らくバールを事務所の外側の壁に立てかけて続いて事務
所に入つて来ました。バールが何処に置いたか私にははつきりしません。私は中に
入つて「行つて来た」と言い続いてA8、A11も「行つて来た」と言いますと事
務所内にみたA12、同その、A2は口々に「御苦労様」と言いました。私は直ぐ
に電熱器の鍋を下しますとB194さんが「飯喰うのかい」と云いますので「そう
だ」と答えますと「茶碗持つて来るから」と云つてB194さんとA11君が出て
行きました。十分か十五分してその、A11の二人は茶碗六つと箸六つ皿に盛つた
味噌を一皿もつてきましたので、そのが、飯を一杯づつ盛り六人して事務所の机の
上で食いました。味噌は白つぽい感じがするものでありました。食つた人から茶碗
箸を鍋に入れ机の上に鍋を置いて又六人はビラ書きを始めました。飯を食い又うま
くバールスパナが盗めたので皆の気持がよくなつたので、すぐにビラ書きをし乍ら
誰からともなく歌い出した者があり六人は普通の声で「インター」「赤旗」「仕事
の歌」「若者」を合唱し出しました。二〇分位歌つて又ビラ書きをしました。ビラ
は「ト突入」「首切り反対」「我々を殺す気か」等でありました。一時頃迄続けて
居りましたがその間誰も外から来る者はなかつた様に思います。一時頃私は「ねむ
いから先に寝る」とつて事務所土間の方に行き机の上で横になりましたが、危ぶな
かつたので十分程して板張の間の方に行き東北隅に新聞紙をしいてまくらなしで横
になりました。十分程してA11君が「蚊が居るから蚊いぶしをする」と云つて出
て行き菊の葉を持つて来、机の下の板敷きの処で新聞紙を丸めて焼きその中に一握
り程の菊の葉を入れました。A12君は「蚊いぶしは蓬の葉だ菊の葉では駄目だと」
云いますとA11君は「煙が出ればなんでも良い」と云つてうちわであほいて居り
ました。これからしばらくしてA11君は私の左の脇に来て新聞紙を敷き横になり
ました。A12君は幻燈の暗幕を私とA11君にかぶせてくれました。それから私
はうとうとしましたが室内を歩く足音で目を覚しました。すると事務所入口の内側
の処にA11、A12、B194、A8の諸君か外を向いて立つて居りましたので
私は上半身を起し「今行くのか」と言いますとA11君は「そうだ」と答へ、入口
の所でこの四人が口々に「しつかりやつて来てくれ」と云つておりました。A2君
の姿は見えませんでしたがA2君の声で「うん」と云うのがきこえました。A2君
の外になお人が行くような気配がしましたが誰だか判りませんでした。私はそれか
らすぐ横になり寝ました。一眠りするとサイレンと半鐘で目を覚ましました。A8、
A11両君は外へ出て行き外でA8君が「火が見えないから火事は遠いのだと言い
ました。私は「そうか」と独り言を言い又横になりました。A2君は何時帰つたか
分りませんが机の向ふ側で横になつて居りA12君は自分の頭の上の椅子に腰かけ
て起きて居り、B194さんは右前の机に寄りかかつて寝て居りました。』云々
 A11被告の供述は次のとおりである。
 『(前略)
 A13さんは「A10、A8、A11は保線区へ行つてバールとスパナを取つて
来てくれ、保線区には誰も泊つたりしてるないのだから、之を終つたらA10君は
一番年上なんだからA8やA11を見付からないようにやつて来てくれ、成る可く
早く行つて取つて来てくれ、取つて来たら、組合事務所の脇の処へ置いておけ、A
19さん、A2君は其のバールとスパナを持つて行つてくれ、見付からないように
するには、アリバイを作つて置けば大丈夫だ、お前等は若いんだから一寸して喋つ
たら駄目だぞ、お前等三人して行つて来た後、事務所で歌唱つたりビラ書きして騒
いどれ、二時頃迄騒いどれ、後寝ても構はないから、寝る時にA10とA11はB
36君の机の後で寝ろ、A8とA2とはB37の机の後で寝ろ、俺はB38の処へ
行つて泊るから」と云いました。A14さんは「B1と俺の方が組んでやるように
なつてみるのだから」と云いましたA15さんは「俺は姉の処へ泊るから」と云い
ました、A14さんは「俺は大丈夫、家へ行つて泊るから」と云ひました。A19
さんは[お前等は上の人達の云ふことを聞かなければ駄目だぞ」と云いました。私、
A8、A2、A10の四人は黙つて居りました、A13さんは「倉庫に行けば判る
から、行けば大丈夫だ」と云いました。A14さんかA15さんかが「これ、早い
とこやつて来てくれ」と云いました。A13さんは「行つて来て、やつて来てくれ」
と云いました。A10A8と私は「ハイ」と答えました。一、二分してA10君が
先に立ち、続いて私、A8、A2の四名が立ちました、四人が出て行く時A15さ
んが「見付からないようにやつて来てくれよ」と云いました。四人は医務室脇の出
入口から出て事務所の方へ行きました。私達四人が出るときまだA13、A14、
A15、A19さん四人は組合室に残つておりました。事務所に帰る途中私の前に
居たA8君が私に「生意気しているのではないぞ、この野郎」と云いました。これ
は私がA8君の後からA8君の下駄を軽く蹴つたからであります。私は「何この野
郎」と云いました。A10君を先きにして私達両名は組合事務所に入りました。私
はA13さんから列車顛覆と盗みに行く話を聞いたときこれは大変なことだ、嫌だ
なあと思いましたが本年四月頃A13さんと仲の良い八坂寮の炊事婦B39さんの
「みのり」一〇個を盗んだことや又その頃工場の鋲や錘を盗み私の部屋に持帰つた
ことをA13さんに知られており、この為め自分が選ばれたのだと感じ自分に弱身
があるので断ることが出来ず「ハイ」と云つで承知したのであります。又A13さ
んはA19さん、A2君にバ一ルとスパナをもつて行つてくれと云つた丈けであり
ましたので、その方のことはA19さんが詳しく知つているのだなあと思いました。
私達四名が事務室に帰りますとA12、B194さん二名がおりました。A8君と
B194さんか芝居の真似をしたりして居りました。A10君は暫らくして米をと
ぎに行きました。その間ビラを少しは書きました。私は保線区に行くには明りの火
がいると思い「マツチをもつて行くべえ」と云つて事務所板の間にある五つの事務
机の真中辺、B37の机の上にあつたマツチ一箱をとりスボンの右ポケツトに入れ
ました。このマツチはマークは覚えて居りませんが普通の大きさの箱の中味は半分
より少し多い位入つて居りました。勿論誰のマツチか知りません。A10君は十分
程して鍋を借りに来て米を土間の電熱器にかけておりました。一〇時過ぎ填たと思
いますが土間でA10君が板の間の方を向き「もう行つて来るべえ」と云いました。
私とA8君はA10君のところに行き三人はA10君を先頭にして事務所を出まし
た。その時の服装は私は白の半袖開襟シヤツ黒いズボン(白が混つていますがよご
れていますので黒色になつています)無帽でゴム草履をはき、A10君は白い開襟
シヤツ黒いズボンで鳥打帽を被り下駄履きで、A8君は白いシヤツ白ズボンで無帽
下駄履きでありました。A10君が先頭でA8君、私と一列になり事務所から細い
道を東に登り八坂神社参道に出て参道に出てから三人横に列び鳥居をくぐつて参道
を県道に出、県道を右に折れ県道踏切を越えて新聞屋の手前の横道迄横隊のまま参
りました。其の横道を左に折れ、A10、A8、私の順に一列になつて三軒程家の
前を通りそれから大きい家の後を廻つて端にコンクリートのある土手のような処に
出、其処を南に進み駅長官舎前の広場に出、保線区倉庫に来ました。此処へ来る迄
の間参道と県道の交叉点にあるアイスキヤンデー屋は店を開いて居りましたが、県
道踏切には踏切番は居らず又新聞屋横の横道に入つたところの三軒程ある家の内一
軒は中で話声がして居り此の三軒程の家は皆戸を閉めて居りましたが中は明りが点
いて居りました。駅のホームは明りが点いて居りましたが駅には誰も人が居なかつ
た様に思います。保線区倉庫の北端の二枚になつている入口の板戸をA8君が先づ
開けようとしますと鍵が掛つて居りました。其処でA10君が真中、其の北側に私、
南側にA8君と三人が戸の前に列び二枚の戸の内北外側にある戸を三人で主として
A10君か力を入れて持ち上げ手前に曳いて来ますと其の戸が外れました。其の戸
を五十糎程開けて南内側の戸に寄り掛けました。A8君が先き続いて私が其の五十
糎程の空いたところから倉庫の中に入りました。戸を開けた時A10君は、「俺、
見張りしてるから、お前等早くやつて来い」と云いました。A10君は中に入らず
入口より三尺程北の方に離れた処に立つて居りました。私は中へ二、三歩入つてか
ら真暗でしたので、ズボンのポケツトからマツチを出し軸木二本を一度に擦り明り
にしました。私はA8君の後から明りを見せるようにして左の方へ歩きました。マ
ツチが燃え尽しましたので矢張り二本の軸木を一緒にしてもう一度点火しました。
するとバールが右の方、スパナが左の方にありました。A8君は先づバールを取つ
て部屋の何処かへ立掛け、次にスパナを取りました。A8君はスパナを取ると直ぐ
にそれを私に手渡しました。其の少し前、二回目のマツチも燃え尽しましたので私
は今度は一本の軸木で第三回目の点火をして居りました。私は右手でマツチをもち
明るくして居り左手にマツチ箱をもつていたのですが、A8君かスパナを渡しまし
たので左手のマツチ箱を点火している右手の掌に持替え左手でスパナを受けとりま
した。私はスパナを受取つて先きに出口へ行き中から外のA10君に渡しました。
A10君は入口の処まで来て居りました。スパナを受取つてからA10君に渡す迄
の間三本目のマツチが尽きかけましたのでそれを下に落しました。A10君に渡し
てからA8君が「持つてくれ」と云いますので私の左側奥の方におるA8君のもつ
ているバールを左手で掴み、二人で持つて私が先き続いてA8君が外に出ました。
私は倉庫の中ではマツチの火に気を取られて居りましたのでバールとスパナがどの
ようにおいてあつたか細かいことは見て居りません。三人が出てバールを南側の戸
に立て掛けスパナはA10君が地べたに置いたらしく、A10君が主となり私がA
10君の南側にゆき二人で立掛けた戸を元のようにはめ込みました。A8君は戸に
向つて私の左側の方で見ておりました。A10君がスパナをもちA8君と私がバー
ルを横向けに持ち合いA10、A8、私の順で一列で元来た道を新聞屋の処まで参
りました。私は左手でバールの元の方をもつておりました。帰るときも横道を入つ
たところの三軒の家は往きと同じように燈は点いて居りましたが中の人声は往き程
大きくはなかつたように思います。その家の前でA8君と私はバールを立掛けて持
ちました。A8君が右手、私が左手で縦にバ一ルをもち私の左側にA8君がきて二
人列んで県直に出ました。A10君は県道に出る迄私達の十歩程先きをドンドン歩
いて行きましたが、二人が県道に出た時A10君の姿は見えなかつたように思いま
す。県道を通るのは危険だと思い県道に出てから一五歩程踏切の方へ歩いて私は「
とつち行くべえ」と云つて其処から北の方に入る細道を左に折れました。この細い
道を二人横に列んだ儘真中にバールを持つて五〇米程北に歩き其処で東の線路の方
に道を降りました。降りた処は道も何もない処でありました。二人は真中にバール
を立掛けて見えないようにして鉄道線路を横切り駅員官舎の前に出ました。官舎の
間を通つて東に行き井戸のあるところを二つ通り後の井戸のところから畑の中をB
35と云ふ家に行く道を組合事務所の方に歩きました。B35の家と其の便所の間
を通り抜け組合事務所に出ました。帰る迄ズツト私がA8君の左側に居り二人列ん
で真中にバールを縦にして持つて居りました。帰りは倉庫から組合事務所迄誰にも
会いませんでした。私は事務所の入口で手を離し、A8君より先きに中に入りまし
た。A8君はバールを一人で事務所物置の処に立て掛けに行き続いて入つて参りま
した。私が事務所に入るとA10君が帰つて居り「見付からなかつたか」と聞きま
すので「見付からない」と答えました。スパナはA10君か何処へ置いたか気が付
きませんでした。私とA8君のバール、スパナを取りに行つた道順は図に書いて提
出した通りであります。
 (図面省略)
 帰つた二、三分するとA10君が「飯、食うべえ」と云いますと私とB194さ
んとは寮へ茶碗を取りに出て行きました。二人は便所脇の入口から中に入り食堂の
戸棚を開けて茶碗六ツを出しそれをB194さんに渡し私は更に舟型の皿一枚を出
して、B194さんを食堂に待たした儘皿を持つてB40さんの部屋に行き「B4
0さん」と呼びますとB40さんは寝て居りましたが、「ウン」と云ひましたので
私は戸を開けて中に入り「味噌呉れないか」と云いますとB40さんは「持つて行
きな」と云いましたので私は其の部屋の窓際に置いてあるかめから味噌を其の皿で
掬い上げて部屋を出、B194さんと二人で又便所脇の入口から出て事務所に帰り
ました。此の間約十分でありました。B194さんが事務所で茶碗に飯を盛つてく
れましたので私、A8、A10、A2、A12、B194の六名は一緒に飯を喰い
ました。飯は各人一杯宛しかありませんでした。食べ終つてからビラ書を始め、六
人で歌を合唱し始めました。「インター」「赤旗」「仕事の歌」「メーデー歌」等
を何回も唄いました。歌は普通の高い声で約一時間位唄つてるたと思います。歌を
唄つている時私はA10君に「スパナ何処へ置いた」と尋ねますとA10君は「便
所の脇に置いた」と答えました。又その間B194さん、A8君、私らは芝居の真
似などをしました。この間に書いたビラは「首切反対」「吉田内閣打倒」「不当弾
圧反対」等でありました。このようにして一時頃迄遊んでおりました。一時頃A1
0君が事務所東北隅で板の間に新聞紙を敷いて横になりました。その頃蛟がいまし
たので私は一人で事務所を出て前の組合便所の処にある庭より菊の葉を一握程取つ
て来て棚においである深さ約一寸一尺四方位のブリキの箱を取り出しB194さん
の足許におき、その中で書き潰しの紙などを丸めてたき其処へ菊の葉を置き団扇で
煽ぎいぶし始めました。紙に点火するには土間へ行つて電熱器で火を付けて来まし
た。私はいぶして居るとA12さんが「何んだそれは菊の葉ではないか」といいま
すので私は「違う蓬の葉だよ」と云いました。A12さんは「菊の葉だよ」と云つ
て笑いました。十分位いぶしていると皆から止めろと云われましたので止めて了い
ました。私はそのブリキ箱を事務所の土間へ持つて行き中のものを踏み付けて消し
それからA10君の左側に新聞紙を敷いて沢山ある新聞紙の把を枕にして横になり
ましな。私とA10君以外の人はまだ起きておりました。私は横になるとA10君
が被つている幻燈用の幕の中へ私も入つてゆきました。そしてウトウトして居りま
した。二時頃かと思いますが一眠りしたら室内の足音で眼を醒しました。見ますと
事務所入口の処に(入口の内側)A12、B194、A8君か立つておりましたの
で私もその場で立ち上りますと三人はぞろそろと中へ入つてきました。A8君が入
つてきて「A2が行つたなあ」と云いましたので、私はA2君が転覆作業に出て行
つたと思いました。A10君も寝て居る処で立つて居りました。A2君の姿は見え
ませんでした。出て行くときは見て居りませんが、A2君のその日の服装はチヤツ
クの付いた長袖のシヤツをきて居りました。そこでA2君を際く残りの五人が寝ま
した。A8君はB37の机の後に横になり、A12さんはB36さんの机にもたれ
掛けて腰かけたまま、B194さんはB194さんの机にもたれておりました。五
時頃と思いますがサイレンと半鐘で目を醒し 私は入口から外へ出ますと何も火の
ようなものは見れず私は何かなあと思つて又中へ入つて元の位置で横になりました。
 A12さんも出て居りました。A2君はこのときにはA8君の隣り出入口の処に
横になつていたようでA10、A8、B194は前り位置のままで寝ておりました
』云々。
 A8被告は次の如く云う。
 『前略、A10、A2、私らは組合事務所へ行くとA12とB194さんが事務
の整理をしておりました。それで私達は腹が減つたので飯でも喰うべと云つてA1
0が自分の米を電熱器で炊き殆めました。それから午後一〇半項になつたので私は
A10とA11に「時間だから行こう」と云つて三人で事務所を出て畑の間を通り
八坂神社の鳥居をくぐり駅前通りに出てキヤンデー屋の処を左に廻つて踏切を越で
て新聞屋の脇を通り鉄道官舎の前を通り保線区倉庫に参りました。その倉庫の正面
の左側にある材料置場の通路に面した板戸を先ず私が持上げて取り外しその材料置
場の中に入り続いてA11が中に入りA10は自分は表で見張りをして居ると云つ
て表に待つていたので私は中が真暗なので両手で手さぐりで探したところ先づ私が
奥の方にバールがあつたのを見付けて続いてA11はスパナを見付けたので二人が
その材料置場から出たのであります。帰るとき私とA11がバールをもち見張つて
いたA10がスパナをもつて帰つたのであります。その往復には誰とも舎はなかつ
たと思います。それで事務所へ帰つたのは午後十一時頃と思います。組合事務所の
入口の東側の隅にバールもスパナも寝かせて置きました。そのバールは約一米位で
はなかつたかと思います。重さは大分重く太さは直径五糎位ではなかつたかと思い
ます。スパナは長さ一尺位ではなかつたかと思います。よくモンキースパナと言う
ものです。事務所へ帰ると私は事務所に居たもの皆んなに「持つて来た」と申しま
した。そしたら皆んな事務所から出て持つて来たスパナやバールを見ました。その
時誰か何とか言つた様でしたがそれは忘れました。(押収に係る証第七号及第八号
を示す)その時持つて来たバール及スパナはそれに間違ありません。バールの長さ
は私は約一米位と申上げましたが私の持つて来た時長さが鼻か口までありましたか
ら約一米四、五十糎であつたのです。スパナは長さ一尺位と申上げましたがこれは
それより少し短いですがその時持つて来たものに間違ありません。事務所へ帰つて
から其処に残つていたものと一緒に直ぐ前に炊いた飯を喰べました。それからビラ
書きしたり雑談をしたりインター等を歌つたり致しました。そうしている中に一時
半に(十七日午前)になりますとA19さんがA2さんに現場に行かうと言つて私
達が持つて来たバールとスパナを持つて行きました。それで私達は事務所の出入口
まで出てB23とA2が私達が持つて来たバールとスパナを持つて出掛けるのを見
送りました。その時誰か知りませんが「行つて来」と言いました。私達残つた者は
ビラ書きや雑談をして居りました。B23やA2は三時前後(十七日午前)帰つて
来ました。私はその時寝る準備をしていたのでB23やA2がやつて来た様子をい
ろいろ外の人に話して居ましたが私は聞きませんでした。それからB23、A11
は寝るために八坂寮に行きました。それで私とA2とA10は事務所の板の間に新
聞紙を敷き私とA2は赤旗をかけ、A10は幻燈機の白幕をかけて寝ました。それ
からA12とB194は事務所に起きていたと言う事にするために(それでアリバ
イをつけるため)事務所の板の間にある机にもたれてあごひさして起きている様な
恰好をして居眠りして居りました。その朝起きたのは六時頃でした。私は朝起きる
と又ビラ貼りをする糊を作るためにうどん粉を買おうと思つて松川駅の上の方にあ
る粉屋と出掛けました。その粉屋に行く途中B41床屋さんの前で会社の女工さん
のB42から列車転覆事故を聞いて知りました。そのとき私はタべB23やA2が
やつたんだなと思いました。その時私は本当に嫌な感じをうけました』云々。
 A11被告は唐松裁判官に対し次のように供述する。
 (同年一〇月二二日付調書)
 『前略、それで私は断り切れず承諾したのです。私はその時始めて汽車転覆の話
を聞いたのです。その相談が終つたのは午後一〇時頃ではなかつたかと思います。
その相談が終るとA10、A8、A2それに私の四人はそこを出て組合事務所に行
きました。A13さんら四人は引続きその郎屋に残つておりました。A13さんら
は其処で続いて転覆の細い計画をしていたのではないかと思つております。従つて
すぐは帰らなかつたと思います。私達は組合事務所へ行つてからビラ書をしたり、
少し歌つたりしておりました。その中、A10君は自分の米を四合位持出して飯炊
をき始めました。そうする中に十時頃になるとA10君がもう行くべと云つたので
私は保線区に行くと暗いと大変だからマツチをもつて行くべと云つてB37の机の
上にあつたマツチ一箱をもつて取りズボンの右ポケツトに入れて私、A10、A8
の三人は保線区へバールとスパナを取りに出掛けました。私達は組合事務所を出て
から直ぐ左に曲り畑の畦を通り八坂神社の鳥居をくぐり県道へ出て右に曲り踏切り
を渡つて新聞屋の手前の小径を左に入り大体二〇〇米位行つてコンクリートの土手
の上を通り保線区倉庫へ行きました。倉庫へ行つてから道路端の板戸の二枚の板戸
の中、道路から向つて右側の板戸大体真中位に打つけである横棧をA10が真中、
その左が私、右がA8の三人で下から持上げてそのもち上つた戸を手前に引くと直
ぐその戸が手前側に外れたので真中にいたA10がその戸を左の板戸の方に大体人
間のン入れる位ずらしました(この板戸を開いたときの状況をA11が唐松裁判官
に実演してみせたことはさきに述べたとおりである)。するとA8君が先ずその倉
庫の中に入り続いて私がその中に入つて行きました。その板戸を持ち上げて手前に
引き寄せるとその戸が外れたので何処に鍵がかかつていたのか又鍵かあつたかなか
つたか判りませんでした。A10君は表で見張りをして居りました。A8と私か倉
庫の中に入つたが真暗で何処にバールやスパナがあるか判らないので私は二、三歩
入ると持つて行つた燐寸を摺つて灯りを点けるとA8君がずつと奥へ行きバールを
持出し私はスパナを持出したのであります。それから私が持出したスパナをA10
に渡し私とA8と二人でバールを持つて帰りました。外した倉庫の板戸は元通りに
しめて来ましたがその戸はぴつたりはまりませんでした。私達三人はその倉庫から
元来た道を道り県道に出てから直ぐ右へ曲り踏切り手前の小径を左に曲り約五十位
米行つて右に曲つて線路を渡り鉄道官舎の間を通り会社の守衛所の裏を通りB8さ
んの家の脇を通り組合事務所に帰りました。私達がそのとつてきたバールとスパナ
は組合事務所の入口に向つて事務所の右隅、表に置きました。スパナはA10君が
地上に寝かせておきバールはA8君が事務所の隣りの物置の淺に一方かけて横に寝
かせておきました。私達は事務所へ帰ると出掛けるとき電熱器にかけて行つた飯が
出来て居たので皆んなでそれを喰べました。事務所へ帰つて来たのは午後十一時頃
でした。私達がバール等盗みに行つたときの服装は、A10君は白シヤツに黒ズボ
ンに下駄履きで鳥打帽をかむつて行つたと思います。A8君は白いシヤツにホーム
スパンのスボン(白と黒の斑なもの)に下駄履きで無帽でした。私は白シヤツにホ
ームスパン(A8と似た様なズボン)にゴム裏草履に無帽でした。私達は食事をし
てから皆んなビラ書きをしたり雑談したりして居りました。それからインターとか
メーデー歌とか或は赤旗等の歌を大声で歌いました。それはA13からそういわれ
て居たので歌つたのです。その時組合事務所にはA2、A10、A8それに私の四
人とそれに私達先程申上げた組合室で列車転覆の話を終えて事務所に来たときA1
2さんとB194さんの二人が居りましたがその時も引続きその二人も居りました。
食事後私達がビラを書いたり歌を歌つたりしたのはA12が言つてやつたのです。
A13等が列車転覆の話を私達にしたときA13さんは「A12、同A9が居るか
ら」と言つて居りましたが、その外の事は何か言つたようでしたが今覚えて居りま
せん。A12がそのやうにビラ書きの指図や歌の音頭をとつたのは私達がA13さ
んから列車転覆の話を聞いて組合事務所に来てから一〇分か二〇分位してA13さ
んが組合事務所にやつてきてA12、同A9さんを表に連れ出し何かひそひそ話を
していたのでその時A13さんに列車転覆のことやアリバイのことを話したのでは
ないかと思います。私達は一二時半頃まで歌を歌つてから又ビラ書きを始め約三〇
分位してから示されたとおり寝る仕事をし皆ごろごろし始めました。それから一時
半近くになるとがたがた下駄の音がするので私が起きて見ると外の者は皆んな出口
の所に集つていたのでこれからA2達が列車転覆に出かけるのだと思いました。私
が起きたときはA2達はもう表に出ており出かけるところでした。私が起きて事務
所の入口のところまで行くとA19さんはもう出かけるところで私はその後姿を見
ました。私は一時半近くになると寝て居りましたので、何時頃A19さんが来たの
かはつきり判りませんが私が寝てから後来たとと思いますから多分一時半近くに事
務所へ来たのではないかと思います。出掛けるときの服装はA2君はチヤツク附の
土色つぽいシヤツに鼠色の濃い縞の様なズボンを覆き短靴に無帽のようでした。A
19さんは白シヤツに黒ズボンそれにその当時B23さんは何時も白ズツクしかは
いておりませんのでその時も多分白ズツクだつたと思います。帽子は被つておりま
せん。A12さんはA2ちやんが出て行く時「確りやつて来い」と云い、A9ちや
んは「見附からないようにやつてきな」とか何とか云いました。A10君だつたか
A8君たつたか「今行くのかい」など云つて居りました。A19らが出掛かけてか
ら、A12さん、B36さんの机、B194さんは自分の机にもたれて起きている
ような恰好をして居りました。A10君と私はB36さんの机の後で新聞紙を敷い
て幻燈機の白幕をかけA8はやはり新聞紙を敷いて赤旗を被つて寝ました。B23
らが帰つて来たのは私は寝ていたのでよく分りません。私は七時前頃起きて七時頃
寮に洗面に行くと下り信号のカーブの所で列車が転覆したということを聞かされて
始めてその日朝列車転覆のあつたことを知りました。私はその列車転覆はタベA1
3さんらが相談したのだと考えました。それで私はその日の朝五時頃サイレンが鳴
つたのでそれが列車転覆ではなかつたかと思いどのようになつているか、それを見
たいと思つておりましたところその中、後からA8君も洗面に来たのでA8君と見
にゆくべえと話したような次第です』云々。
 以上の各調書上の被告らの供述(以上その内容を摘録したものを含め)を通覧す
ると、同一被告人の供述の間にも喰い違いかあつたり、云い過ぎがあつたり、また、
A8、A11、A10の各供述を対比すれば同じ事柄で供述が違つていたり、ある
いは一人の供述の中に出てくることが他の者の供述に出ていないことなどあること
は事実である。しかし、三人が深夜、行を共にし、八坂寮から松川線路班倉庫内に
入つて(A10は見張をしていた)バール、スパナを盗み出してこれを八坂寮に持
ち帰つた大筋は原判決が到る処で強調する被告ら三名が体験を共にした事実で、そ
こにはデタラメの供述とか、作り話とか云つて疑を差し挟む余地は全くないのであ
る。原判決は被告らの供述を寸断分解しその中にある穴を拡大鏡にかけて無現に拡
大誇張し、そこに如何にも捜査の欠陥や行過ぎがあるかの如く想定し、延いて供述
全体の信用性が崩かいしているかの如く云つているのである。しかし被告人の供述
にしろ証人の証言にしろその全体が悉く真実に合致するものではなく、細部におい
ては真実から外れていることもあるのてある。そうした供述こそあるいは真実を端
的に伝えていると云いうるかもしれない。思うに原審は右被告らの供述中に問題の
転覆謝礼金の件に関しまことしやかに述べられている部分のあることに拘泥し、転
覆謝礼金のくだりを述べているような供述は全面的に信用できないというのではな
いかと考えられる。転覆謝礼金の件は本件における捜査官の大ミスであることは私
も認める。しかし転覆謝礼金に関する供述があつたからといつてその全供述が全く
信用性を失うものの如く考えるのは事実審裁判官に証拠の取捨選択権あることを全
く忘れたものと云われても致方ないであろう。私は右被告ら三人の前示供述(その
内容を摘録したものを読んだだけでも)を通読して被告ら三名のバール・スパナ盗
み出しの一件は私の心の鏡の中へまぢまぢと焼き付けられたのである。私は同じ実
務家である原審裁判官はそうした感じを持たなかつたのであろうかを疑う。そして
原審が本件について呼号する新証拠なるものも本件盗み出しの件については新な証
拠を提供しているものとは更々認められないのである。
 四、次にA2被告の自白の点を取上げよう。
 原判決によるとA2被告は昭和二四年九月二二日以来B191警視、B60巡査
部長、三笠検事におどかされたり怒鳴られたりすかされたりした揚句心にもない自
白をした、それが調書になつているのだという。ところで右三名の係官の取調べの
直後裁判官唐松寛の前でどんなことを云つているかを調べてみよう。同年一〇月五
日の調書である。問答の形式だが問は唐松裁判官で答はA2被告である。
 問 今告げたように証人として証言を拒むことがべきるがどうか。
 答 拒みません。御答え致します。
 問 証人の経歴は。
 答 私は昭和一九年三月B43学校を卒業後同年五月福島県下に疎開し同年九月
B2松川工場電気熔接工として就職しましたが、本年八月一六日強制解雇になりそ
の後は職もなく今日に至つております。
 問 証人はA13、A14、A15、A19、A10、A8、A11等を知つて
いるか。
 答 よく知つて居ります。
   それは私が会社をやめる当時A13さんは組合委員長でありA14さんは副
委員長で、A15さんは青年部長てありA19さんは鶴見工場の執行委員だと聞い
て知つております。又A10さんA8さんA11さんは私と同じしように青年部員
でありますので知つております。
 問 証人はこれらの者と特別な身分関係等はあるか。
 答 私はその人達とは組合関係で知つて居る丈けで身分関係などは全然ありませ
ん。
 問 証人は本年八月一五日A19と行動を共にしたことがあるか。
 答 私はその日は公安条例違反の嫌疑をうけて朝七時頃私の外六、七人と共に(
A19はおりませんでした)警察のトラツクに載せられ福島市警察署に連れて来ら
れて取調をうけ、午後二時頃その取調が了つたので午後四時一五分の汽車で私とB
44、B45、B46、B47らと一緒にかえり、松川駅に午時四時四〇分頃着い
たので直ぐその足で組合事務所に参りました。
 問 組合事務所え行つてからどうしたか。
 答 私が組合事務所え行つたところ組合員が一〇名許り居つてビラ書きをしてお
りました。それで私に対してA19さんか私に二本松方面にビラ貼りに行つてくれ
と云いましたが、私が腹がへつていると云つたところ、食事は寮の食堂に用意して
あるからそれをたべて呉れと云われましたのでそちらで食事をし、B46、B19
4、A8、A11、A19の六人で松川駅発午後七時七分の汽車で二本松え行きビ
ラ貼りを二手に分けてやつた後、午後九時四五分頃松川駅着の汽車でかえり、私と
A19、A10、B195と共に八坂寮の真の間に泊りました。従つてその日のA
19の行動は二本松えビラ貼りに行つてから後のこと丈しか知りません。
 問 本年八月一六日に於ける証人の行動はどうであつたか。
 答 私はその日朝六時半頃起きて朝食を喰べるために家にかへり弁当をもつて工
場に行きましたところ、B48課長に君は解雇されているのだから工場に入つては
いけないと云われたので入ることができないというので真直ぐ組合事務所に行きい
ろいろ、雑談して居りました。その時間は午前八時半頃だと思います。
 問 証人が事務所に行つたとき誰かいたか。
 答 先程申上げた通り昨晩八坂寮に泊つた者らが二、三人居りました。
 問 それからどうしたか。
 答 それから私達はその時まで出来上つていた首切反対のビラを整理致して居り
ました。そうしている中に午前一一時頃になつたのでこんなにぶらぶらして居ても
仕方がないと思つたし、又A12さんからこのビラ貼りに行つて来いと云われたの
で私とA12、A10、A8、B195、A11の六人で午前一一時一五分松川発
福島行の汽車で福島のビラ貼りにゆきました。
 問 福島に来てからどうしたか。
 答 私達が福島え着いてから直ぐe町のB2信夫寮に行つたところ、もう昼頃な
ので皆んなは昼食にしようと云つて食事を始めましたが、私は弁当を組合事務所に
おいたまゝ出て来たので昼食はたべませんでした。その中皆が食事を了えたのでそ
の寮を出発し、裁判所市警察署松竹映画館の前を通りその間電柱にびラを貼り乍ら
信夫寮に帰つて参りました。
 問 それからどうしたか。
 答 私が信夫寮に帰えると間もなく、当時B36が福島拘置所に公安条例違反と
して拘置されていたので、それに面会に私は拘置所に行きました。それから面会を
了え再び信夫寮に戻り、三〇分位休憩し福島発六時四五分の列車で松川にかへりま
した。
 問 松川に着いたのは何時頃か。
 答 午後七時七分頃着きました。
 問 松川え着いてからどうしたか。
 答 私達は松川に着くと直ぐその足で組合事務所に向つて行きました。それで工
場の門衛から通門券を貰つて組合事務所に着いたのは七時一〇分位でした。
 問 組合事務所に着いてどうしたか。
 答 私が組合事務所え着くと事務所にはB194がガリ版書きをしており、私達
を見ると今組合大会をやつておると申したので、私は通門券をおいて直ぐ板金工場
て開かれている組合大会に出席致しました。
 問 その組合大会とはどんな目的のための大会であつたか。
 答 それは被馘首者に対する今後の対策と中央からの指令と当時首を切られて居
る者があつたので、それらを綜合してストをやるかやらないかなどを決議する大会
であつたようです。
 問 大会は何時頃了つたか。
 答 それは午後八時頃終つたと思います。
 問 大会が了つてから幹部の人達はどうしたか。
 答 先程申上げたA13、A14の二人がやつて来てその時大会に出席した外部
団体のB27、B28さん達が帰るにまだ時間があるからそれまで懇談会をやると
云いましたので、大会が了つてから一〇分位して八坂寮の組合室にゆき懇談会を始
めた次第です。
 間 その時集つた人はどんな人か。
 答  委員長の A13
    副支部長の A14
    青年部長の A15
    鶴見工場の執行委員だという A19
    青年部長の A10
          A11
          A8
    B49の B27
         B28
    福島地区労働組合会議から 二十三、四才の男
  とそれから外B2松川支部分働組合員一、二名それに私の合計十二、三名でし
た。
 問 その懇談会でどんな話がでたか。
 答 それでB27さんは「今日の大会は発言が少くて低調であつた今後は皆が発
言するようもつて行かねばならない」それから「今後の大会で誰だか首になつた者
に対して「今後自分で将来の事を考えて組合に頼ることなく進んで行つて貰い度い」
と云つていたが、今度は三二名馘首されたが今後は何名馘首されるか判らない。だ
からああ云つた人自身も首でも切られたら吃驚するだろう」と云う様な話がありま
した。
 問 その外誰か話をした人はないか。
 答 中には雑談をしていた様な人もあつたかも知れませんが内容は判然覚えて居
りません。
 問 それではその懇談会は何時頃終つたか。
 答 大体九時半頃終つたと思います。
 問 懇談会が終つてから皆何したか。
 答 外部団体の人は懇談会が終ると直ぐその頃の列車で帰りました。それから松
川支部組合員の人もその頃帰つた様でした。問 それからどうしたか。
 答 私達も帰ろうとしたらA13さんともう一人誰れだつたか忘れましたが、用
事があるから残つてくれと云われたので、また帰らなかつた人とそこに残つたわけ
です。
 問 それでは残つた人は誰々だつたのか。
 答 それはA13さんA14さんA15さんA19さんA10さんA8さんA1
1さんと私の八人でした。
 問 そのときの用事というのはどんな用事であつたか。
 答 その時の用事というのは結局汽車を脱線させるという話でありました。
 問 それではどんな話をしたのか。
 答 それはA13さんだかA14さんだか判りませんがとにかくその時話かけた
様な人は前に申上げたA13、A14さんの外A15、A19さん達でありまして、
結局その人達の話をまとめると次の様な事を話したのであります。
   それは
   「現在の社会状勢から考えると労働者の弾圧とかいろいろな事件が起きて居
るそのためにはB2の者も何時引張られるか判らない、その為には何か事件でも引
き起して警察等の手を薄めなくてはならない、そういう意味から汽車を脱線させる
のが一番いいだろう」。
   それから
   「それは今晩やる事はなつているその場所は大体松川と金谷川の間だ」。
   「福島のB1の者が来るからこちらからも誰か出て貰い度い」。
   「道具はこちらから準備することになつている」。
   今申上げたいろいろな話は先程申上げたA13、A15、A14、A19さ
んの四人の人が代る代る申した事で誰がどう云ふ事を云つたかは今思い出せません。
 問 その脱線をやる場所や時間は具体的に話があつたのか。
 答 場所や時間の事は私は具体的には聞いておりません。
 問 先程道具をこちで準備する事となつていると云われた様だがその道具とは何
か。
 答 その時は唯道具と云つた丈けで特定してはいなかつたように記憶致しており
ます。
 問 証人はその話をきいたときその計画を承諾したのか。
 答 私はその話をきき「大変な事をするな」と思い私は「俺はそんな事に参加す
るのは嫌だ」と云つたら、先程申上げたA13さんら執行部の人人から、いろいろ
説得されました。結局その趣旨は「労働者のためになるのだから」ということです
が、その時の説得の内容は私にはうまく表現できません。
 問 その道具というのは誰が準備をする事になつたのか。
 答 それは執行部の人達が
   A10
   A8
   A11
  に松川駅から持つてくるように命じました。
 問 その時どんな道具をもつてくるよう云つたか。
 答 それは執行部の人達がA8さん等に直接指示したのであろうと思います。私
としてはその点に関しては具体的には聞いておりません。
 問 その計画は誰が実行することになつたのか。
 答 それはB23さんが「僕は始めて出て行くので土地の事情が判らないので君
も一緒に行つてくれ」と云われたので結局A19さんと私が行くようになつたので
す。
 問 その相談はどの位の時間かかゝつたのか。
 答 約三〇分でした。
 問 すると何時頃になるのか。
 答 大体一〇時前後だつたと思います。
 問 その相談を終えてから皆はどうしたか。
 答 それから私は皆より一足先にそれからA10さんと二人で出て労組事務所に
行きました。外の者は私達が出ると間もなく労組事務所に参りました。
 問 組合事務所え行つてからどうしたか。
 答 私が組合事務え行つたころB194さんが事務の整理をしておりA12さん
がその側でその手伝をして居りました。私達も事務所え入ると間もなく続いてA8、
A11の二人がやつてきたので、われわれは雑談をして居りました。すると其処え
A13、A14、A15さんがカバンを取りに事務所にやつてきて鞄を取つて直ぐ
帰つてゆきました。
 問 それからどうした。
 答 A14、A15、A13さんの三人は先程申上げたように自分のカバンをも
つて直ぐ事務所から帰つたのでその後の行動は分りません。それで事務所に残つた
私達A12、B194さんを含め六人はお腹がへつたので晩御飯でも喰べようと云
う話になり、その内A10さんは自分の泊つている八坂寮から自分の米五合位を持
つて来たのでそれを炊いて皆んなで喰べたのです。
 問 その後どうしたか。
 答 夕食をたべてから少し経つて午後十一時少し前頃列車脱線の道具を用意する
ことになつてA10、A8、A11三人が「一寸松川駅まで行つて来る」と云つて
外え行つたので私はその時「ああ道具を取りに行くのだなあ」と直感致しました。
 問 その時の三人分服装如何。
 答 A10は白地に青の縦縞の開襟シヤツと黒ズボンに白ズツク、それに濃いね
ずみ色のハンチングを被り、A8は白ワイシヤツに白い長ズボンに下駄履き無帽、
A11は白ワイシヤツに黒ズボンにゴム裏草履に無帽でした。
 問 A8らが事務所を出て行つてから残つた人達は何をしていたか。
 答 何もせず唯雑談をしていました。
 問 それでA8は何か道具をもつてきたか。
 答 A8達は組合事務所を出てから約三〇分位経つてから帰つて参りました。
 問 その時証人はA8達が何か道具をもつてきたのを見たか。
 答 私はA8達が組合事務所え入つて来たときには何も持つていなかつたのて何
か道具を持つてきたかどうか判りませんでした。
 問 その時証人はA8達が道具を持つてきて何処かえ隠してあるのだな等とは考
えなかつたか。
 答 別にそんなことは考えませんでした。別に気にもしていませんでしたから。
 問 それでは証人は何時その道具を持つて来てあるといふ事に気附いたか。
 答 それはA19さんがそのうち事務所えやつてきて同人から誘われて出掛かけ
るときそれを見て始めて列車脱線に使う道具はボールトとスパナと云ふことが判つ
たのです。
 問 それではA8等は組合事務所え帰つて来てから皆は何をしたか。
 答 それから私達は事務所でぽかつとしていても仕様がないので歌でも歌うとい
うので、A12さんの音頭でインターナシヨナル、若者よ、メーデー歌等を大声で
合唱致しました。
 問 それからどうしたか。
 答 私達が歌を歌つて居ると其処えA19さんが参りました。
   それでA19さんも一緒に歌を歌つたように記憶致しております。
   それで私達が歌を歌い了ると間もなく、A19さんが私に『これから出掛け
よう』という趣旨の事を云つて誘いましたので二人で列車の脱線をする為めに事務
所を出掛けた次第です。
 問 それは何時頃か。
 答 歌を歌い終つたのは一時頃でなかつたと思いますから一時半頃(八月一七日
午前)ではなかつたかと思います。
 問 事務所を出掛けるとき何か道具をもつて行つたのか。
 答 組合事務所の出入口を出ると直ぐ左側(出入口の東側)にバール一とイギリ
ススパナ一(自在スパナ又はモンキースパナが)置いてありましたので、B23さ
んがスペナを私がバールをもつて出掛けたのです。
 問 そのバールとスパナは先程云つたA8、A10、A11の三人が松川駅から
持つてきたものか。
 答 私はその三人が松川駅から持つて来たものだと思つております。
 問 組合事務所を出掛けてからどう云う経路で現場まで行つたか。
 答 私は脱線現場や時間等の事は細く聞いておりませんでしたので出発する時間
や現場は具体的に知りませんでしたのですが、A19さんは幹部なのて知つている
と思つて何時もその行動に従つた訳ですが、A19さんは本年八月十一、二日松川
工場に来たのでまだその前に松川方面には余り来ておりませんでしたのでとにかく
汽車の線路に出るまでは私か道案内致しました。それは組合事務所を出てから直ぐ
東え出て畑を抜け八坂神社の階段を降りて鉄道官舎前の小径え出て八坂寮の方を曲
つてそこをずつと西え向つて歩き三、四分して鉄道線路に出ました。
 問 鉄道線路に出てからどうしたか。
 答 線路に出てからは線路の右側(東側)を大体B23さんが先になり福島方面
(北方)に向つて歩いてゆきました。
 問 歩調は早かつたか遅かつたか。
 答 大体普通の足並で歩きました。
 問 歩いている間に誰かに会つたか。
 答 それは東北本線と川俣線の分岐点から約百米か二百米北方福島方面え行つた
ところ(その地点は私は今まで一回も歩いたことがなく又その晩は暗かつたので余
りよく判りません)で福島方面から来た三人連れの男に出会いました。
 問 証人はその三人連れに会つたときどんな人達だと思つたか。
 答 私はその人達は何処かそこらえ用足しにでも行く人かと思いました。
 問 そうしたらどうしたか。
 答 私達がその三人連れに向い会ふと私達の中のA19さんと福島方面から来た
人が立ち止りました。それでB23さんはその人達と何か挨拶を交わしたようでし
た。私はこの三人連れの男は前に執行部の人達が「福島方面からも手伝いに来る」
と云つたその人達だなと直感致しました。
 問 それからどうしたか。
 答 それで私達は全部で五人となり私達五人の者はそのまゝ北方に歩き出し福島
方面から来た人は其処から引返へし福島方面え(北方)私達松川の者はそこまで歩
いて行つたと同じ様に線路の右側(東側)を福島方面から来た三人は先頭になり次
にB23さん一番後に私が附き歩調は普通でした。
 問 歩いている中に列車に会つたか。
 答 会いました。
 問 それは貨車か客車か。
 答 汽車の音と車輌の窓明りで客車であることが分りました。
 問 客車と会つたとき皆なはどうしたか。
 答 福島方面から来た中一人が下りろ(土手から下え降ること)と云つたので、
皆なは歩いて行つた右側の土手より二三米下りてしゃがんで顔を伏せて汽車に乗つ
ている人達から顔を見られない様に致しました。
 問 それからどうしたか。
 答 その中客車が通過したので私達は再びこれまで歩いて来た線路の右側に出て
続いて歩き出しました。それから少し歩いて十分位して(この点はハツキリ判りま
せん)線路が左にカーブのた処で左が山になつており右が田圃(だつたと思う)に
なつている地点で、前に歩いて行つた者が止つたので私もその場で止りました。
 問 其処え着いなのは何時頃か。
 答 多分午前二時頃(八月一七日午前)だつたと思います。
 問 そこえ着いてからどうしたか。
 答 現場に着いてから間もなく福島の人達が作業に取りかかつたようです。それ
は私達松川の者が持つて行つたバールやスパナを現場に着くと直ぐ福島の人達に渡
したのて最初は福島の人達が作業に掛つたものと考えられるからです。
 問 すると松川から行つた者は何をしたのか。
 答 現場に着くと私達が持つて行つたバ一ルやスパナを福島の人達に渡したとこ
ろ私達に見張をしろと云つた(左様に記憶しております)ので私達は先づ見張を致
しました。それはA19さんは現場から松川方面に五六米離れた所で同方面を見張
り、私は福島方面に矢張り五六米はなれたところで同方面を見張りしておりました。
 問 福島の人達は何処から作業を始めたか。
 答 それはカーブになつている線路の外側の犬釘や線路に当ててあつた木をバー
ルで抜き始め、又線路を継ぎ合せてある鉄板をスパナで取り始めたのです。
 問 それからどうしたか。
 答 福島方面から来た人は犬釘等を約十分位かかつて抜き、福島から来た人の一
人が「交替してくれ」と云いましたので私はそれで交替致しました。
 問 A19は交替したのか。
 答 私は夢中だつたので誰がどういう仕事をしたかよく判りません。
 問 証人が交替してから又福島の者と交替したか。
 答 私は五、六本犬釘を抜くと福島から来た者の一人が「お前なんか駄目だ」と
云つて私の持つていたバールを取つて福島の者が同様外側の犬釘を抜き始めました。
それから福島の者はどの位犬釘や線路に当てた木を抜いたか分りません。
 問 証人は何回交替したか。
 答 私は一回やつた丈であります。
 問 カーブになつている線路の内側の線路の外側の犬釘等は抜かなかつたのか。
 答 それは判りませんてした。
 問 外側の線路の内側の犬釘はどうか。
 答 それも判りませんでした。
 問 線路を継ぎ合せる為めに両側に当てゝある鉄板は取り外したのか。
 答 福島から来た者が二人でその作業に当つておりましたが、取り外したかどう
かは私は見張りをしていたのでよく判りませんでした。
 問 すると犬釘などはどの位抜いたのか。
 答 私は二〇米位抜いたと思いますがその点はよく分りません。私は余り作業を
して居らず見張りをして居たのでその点について判然と申上げられません。
 問 仕事にかかつた時間はどの位か。
 答 二、三〇分位だつたと思います。
 問 それでは何時頃になるのか。
 答 現場に着いたのが二時前後だつたので仕事を了えたのは二時半近くではなか
つたかと思います。
 問 どうして仕事をやめたのか。
 答 それは福島から来た者の中の一人が「もうこれでよい止めよう」といつたの
で皆がその仕事をやめたわけです。
 問 福島から来た者の中で誰かその作業に慣れている様なものあつたか。
 答 あります。それは犬釘等を抜くに全然まごつかず手際よくぽんぽん抜いてお
りました。
 問 抜いた犬釘やボールト、鉄板等はどうしたか。
 答 抜いた犬釘やボールト等は線路の東側にある田圃に投げ捨てたりしたものが
あると記憶しております。
 問 それでは仕事に使つたバールやスパナはどうしたか。
 答 最後に作業をしたのは福島から来た人達で、私達松川の者は仕事を了へて直
ぐそのまゝ別れて帰つたのでバールやスパナはどう処分したか私には判りません。
 問 証人等松川の者は福島の人達と何か話会つた事があるか。
 答 別れる一寸前、福島の者達が私達に「この事は絶対に口外するな」と云われ
ましたが、その外には別に話さなかつたように思います。
 問 証人達は福島の人達と別れどうしたか。
 答 私達は福島の人達より一足先に現場より元来た側の線路を松川方面に向い帰
つて参りました。(下略)
 右供述調書を虚心に読めば、如何にも淡々として平明に述べられていることが判
る。判らないことは判らないと云い、知らないことは知らないと云い、多少隠し立
てをしている点がないでもないように思われるが、右供述を全体として観察すると
きは現実味がいきいきとしていて、その供述の裏に原判決が云うような捜査官のす
かしやおどしが後を引いている痕跡などは更々認められないのである。原判決は至
る処で用いる用語すなわちA2は屈従的迎合的な心境にあつたからそのような供述
になつているのだという趣旨のことを強調する。私はそのいわゆる屈従的迎合的な
る供述だという真のねらいは何処にあるのかよく把握できないのだが、まさか唐松
裁判官がA2に勝手なことを口述し、A2がそれに従つて述べたという意味ではあ
るまい。もしそうだとすれば、それは裁判官に対する非常な侮辱である。いつたい
被疑者が係官に対し屈従的迎合的な心境にあつたからといつて、一概にその供述が
真実を伝えないものと断定できるわけのものでもなかろう。被疑者が反撥的でその
供述が悉く事実に反する場合があると同時に被疑者が屈従的だからといつてその供
述が悉くデ夕ラメだと極め付けることもできないてあろう。要は被疑者の供述を裁
判官の心の鏡にてらして見ることだ。原審裁判官に果してそうした心の構えがあつ
たであろうか。ただ声を大にしてA2の場合ばかりてなく到る処で被告らは屈従的
迎合的だつたという。ところがどの場合でも原判決のいうような屈従的迎合的など
という痕跡は認められないが、特にA2の場合、原判決はA2は骨ぽい青年だとい
うその骨ぽい若者が前示問答に見る如く淡々として応答しているのである。そこに
屈従的迎合的な傾向などその片鱗だに認められないのではなかろうか。また、原判
決は例によつてこの場合も新証拠を持ち出し、それと被告A2の弁解が見事に一致
しているといつて弁解を支持し同調している。その弁解なるもの事件後数年も後で
ある前上告審において被告の提出した上告趣意書に記載されている主張であり、お
そらく考えに考えぬいた掲句に作成されたであろうところのものであることは推察
に余りある。しかし、繰り返えして云うように、いわゆる新証拠の上に盛られてい
る供述なるものが、確実に真実を伝えているものであることを保障する確証は記録
上見当らないのである。そんな空疎なものを持ち出して弁解と一致するからといつ
て、被告の弁解をそのまゝ鵜呑みにするなどということは事実審裁判官の採るべき
態度ではなかろう。なお原判決は唐松裁判官に対するA2自白には三笠検事の圧力
が加つて作り上げられたものの如く述べている。この点については原第二審裁判所
が裁判官唐松寛及び検事三笠三郎を証人として取調べそのような事実はないことを
確認している。私はここにそれら証人の証人調書の内容を摘録する煩雑をさけるが、
原第二審裁判所の判断は正当と考えるものであり、この点右唐松寛及び三笠三郎を
証人として喚問するでもなく単に書面の上でだけ軽々しく判示のような判断に出た
原審の態度こそ非難に値するものであつて、そのような判断は臆測以外の何もので
もないと考えるのである。また、原判決はA2被告が犯行現場に赴いた際の自己の
履物や、持参したバールの長さに関する供述をしているがその供述は体験したもの
の供述とは思われないとして、その供述の信憑性に甚大な疑問符を投じている。し
かし人証の供述などというものは歯車の歯が合うように事実に一致するものではな
く、細部におしてはまま一致しないことがあるものである。それは刑事裁判官のベ
テランである原審裁判官の十分に体験していることろであろうと思う。肝腎なこと
は大綱が一致し大筋から外れているかいないかということである。A2被告がA1
9被告と打ち連れバールスパナを持参し現場に赴きいわゆる福島組三名の者と共に
列車の脱線顛覆工作を実行したという大きな点はA2の前示供述の間に如実に示さ
れているのではないか。深夜恐る恐る現場に出向いたであろう二〇才そこそこの被
告A2としては自分の履物やバールの長さに対する記憶がボケていても敢えて不思
議なことではあるまい。原判決はA2供述のたまたま歯車の歯の合わない点を拡大
鏡にかけてこれを誇張して宣伝する被告の弁解のわなにはまつたと云つても敢えて
過言ではなかろう。原判決はまたしても顛覆謝礼金の件を持ち出し「一事に虚偽な
れば万事に虚偽なり」などと云つてA2被告の供述の不信用性を強調する。顛覆謝
礼金の問題は先にも述べたとおり捜査官のミスである。そのミスは不可分的に本件
実行々為に密着しているものでもないのである。それ故に、供述の中にそのミスに
関する供述があるからと云つて、全供述が措信不能のものと断ずべからざるもので
あることはすでに述べたところである。事実裁判官は証言の一部を捨てても他の一
部を採らなければならない場合のあることは実務家の常に経験するところであり、
それがわれわれの常識でもあるのである。原判決はA2被告は捜査官にせめ立てら
れて屈従的迎合的になつでいていて心にもない自供をするに至つたのだと云いなが
ら、しかも一方において骨ばつた青年だともいう。そうした青年が捜査官にせめた
てられた直後に取調べをうけた唐松裁判官に対して、何故に敢然として従来の供述
は皆嘘であつたということを供述しなかつたのであろうか。しかも原判決によれば
三笠検事の前で従前の供述が誤りてあつたことを主張しその取消を泣いて頼んだと
いうA2である。裁判官唐松寛に対し飽くまでその云い分を通すべきではなかつた
のか。然るに唐松裁判官に対しそのような気配を示した事跡は更々認められないば
かりでなく、泣いて前言の取消を頼んだという三笠検事に対し唐松裁官に取調べら
れた両三日後に更に真実を告白するような自供をしているのである。いささか冗漫
にわたるが左に三笠検事に対するA2被告のその供述を録取することとする。昭和
二四年一〇月九日の調書である。
 (前略)八月一六日以前において私は誰れからも今回の列車脱線の話を聞いたこ
とはありません。それまで申上げたとおり同日寮の組合事務室でA13から初めて
今晩松川金谷川間のカーブで列車を脱線させる。夫れが為福島のB1からも三名来
る事になつて居るしこちらからも二名道具をもつて現場に行くことにきまつたので
A2君とA19と一緒に行つて貰い度い。A8、A10、A11の三名は松川駅か
ら今夜バールとスパナをもつて来て貰い度い。尚アリバイをつくる為諸君は今日は
組合事務所に泊るように、事務所にはA12、B194の二名も居ることになつて
居るのだと指令されて初めて列車脱線の事を知つたのです。その時自分としては福
島のB1から来る者の名前又犯行の時間等はA13から聞かなかつた様に思います。
その際A19は私に俺れも一緒に行くが、行つてくれ、適当な時間に事務所に迎い
に行くからと申しておりました。
 指令が終つて午後一〇時前後組合事務所に私とA10が行つたら寮にA12、B
194の二名がいて事務整理のような事をして居りました。すると後からA8、A
11の二人がふざけ合つて何にか悪口のような事をお互に冗談に云い乍らやつてき
ました。続いてA14、A13、A15の三名が事務所に夫々おいてあつた同人ら
のカバン道具類を取りに来てすぐ帰つて行きました。夫れから私はこれまで申上げ
たように飯をたいて皆んなで喰いました。私としてはA10、A8、A11がバー
ルやスパナを盗んで来る前に飯を喰つたと記憶しております。夫れから皆んなで明
日のスト突入のビラ書きをしたりあきてくると雑談をしたりしましたが、午後一〇
時一寸前頃A10、A8、A11の三名は松川駅にバールとスパナを取りに出て行
つたのです。同人らが出て行くときA12とB194はビラ書きをして居たし自分
もその手伝をして居ました。午後一一時半頃多分二時過ぎて一五分か二〇分位の時
に三人は事務所に帰つてきました。まづA10が今帰つてきたと声をかけ続いてA
11、A8の順序で一緒に帰つて来ました。A10が帰つて来てからA11、A8
が帰つてくる迄二、三分間があつたように思います。同人らが帰つて来たとき私ら
は丁度ビラ書きをして居りました。三人共帰つて来て、持つて来たとも、こないと
も云はず又中には何も持つて来ませんでしたが、私は多分何にも云わない処から見
て盗み出しに成功し何故かに置いて来たものだと思い何も聞きませんでした。他の
二人も何も聞かなかつた様に思います。自分としては三人が帰つて来たとき事務所
の外に出て道具を見た記憶はありません。三人が出て行く時も何しに行くのか判つ
て居たので別に声をかけた記憶はありません。
 道具の盗み出しには成功したし、又いよいよそれを持つて出掛けるので我々が事
務所に居る事を認識させる為めにまずインターを六人て合唱し、続いて若者よ、メ
ーデーの歌を高唱しました。その時間は一二時前後から一二時半頃まででした。一
二時一五分過ぎ頃私らが歌を歌つているときにA19も事務所にやつてきました。
前回B23が歌つたか否か判らないと申上げましたがB23も一緒に合唱したので
す。一二時半頃から又ビラ書きを始めそれにあきると雑談を始めましたが午前一時
半頃になつた時A19は私に「よう行こう」「守衛所の前を通れば具合が悪いから
他に道はないか、君案内してくれ」と申しました。夫れでまづB23か外に出、続
いて自分が事務所から出ました。皆んなはまだその時起きていて私らの出るのを見
て居た様に思いますが、別に声をかけてくれた様な記憶はある様な無い様などうも
判然り致しません。B23は事務所の南側物置と事務所の東角の処の白壁の所に行
つたので私が見た其処に三尺余りの先きの二つにわれたバールと自在スパナが立て
かけられてあるのを見ました。夫れから自分がバールをもちスパナはB23が持つ
て私が先頭に立つて道案内を勤めて歩き出しました。
 普通ならば組合事務所からすぐ西に下れば八坂寮前の広い通路に出、それから一
寸歩るけばこの前申し上げた鉄道官舎の処に出られるのですけれども、この道を通
ると通用門を通りぬけなければならず東角には守衛所がありますので私らの出てゆ
く処が見付かる恐れがあり、そうなればなんにもなりませんし、前述のとおり、B
23からも話があつたのて土地不案内のB23に代り私が道案内をして今申上げた
順路の逆に組合事務所から東に畠の間のわづかの小路をわざわざ上つて八坂神社の
下り坂の中途に出、夫れから南に二回石段を下り広い道路に出て鉄道官舎の井戸の
処から官舎の横を通り鉄道線路に出、それから前回申上げた通りの順序で現場に行
きました。尚あの辺りの鉄道線路を通つたことは八月一七日のあの時初めてです。
又組合事務所も今迄人が泊つた事はありません。自分も他の者もあの時初めてです。
私の家は事務所から半道位しか離れておりません。
 現場に行く途中汽車に会つて隠れた窪は測つたわけではなく、暗かつたので判然
りは判りません。下りた時の感じと汽車を上の方に見上げた事から考えて線路から
二米以上、下だつたと思つております。現場に行つてからのことはこれまで申上げ
た通りで私は線路東側の外の犬釘を五、六本丈しか抜いた記憶はありません。西側
の犬釘を抜いた記憶はありません。
 午前三時前後仕事を了つて事務所に帰つて来ました。B23とは事務所の所で別
れました。私が事務所に入つたらまだA11もA8もA12もB194もA10も
起きていて雑談して居ました。夫れから自分はこの図面の通り事務室の南板張の上
に新聞紙五枚宛二枚重ねにし下駄を枕に赤旗を覆つて寝ましたが、二、三〇分した
らA8が私の左側にもぐり込んで来ました、A10は一番早く私よりも先に新聞紙
を敷いて白幕を覆つて板張の北側に南枕に寝ました。A11、B194、A12は
私が寝るときは起きて居たように思います。朝目をさましたら自分とA10丈けが
寝ている丈けで皆んな起きており、A8とA11は室内でふざけており、A12は
土間との仕切りに寄りかかつて居つたしB194は板の間の西の真中の机に寄りか
かつて居りました。その朝午前五時十分頃半鐘の音で私は一旦目をさまし、A10、
A12と三人で事務所の入口まで出て外を見たが火の気もないので又すぐ寝ました
が、A11はそのとき居たか居ないか判然りしません。B194は例の机に寄りか
かつて寝て居た様に思います。その半鐘の音を聞いたとき顛覆事故があつたとは思
いませんでした。朝A10と一緒に帰宅の途中前回申上げたとおりB196に会つ
て同人から顛覆事故のあつた事をきき自分のやつた事の重大さを感じぞつとしまし
た。八月一七日はスト突入の日て、A10と朝スト突入のビラを貼りに二本松に行
くべく松川駅に行き、其処でB50、B51、B52、A11、B53、A11と
九時の汽車で二本松に行きました。途中安達駅からB55も加わり牛後一時頃歩る
いてB50、B51、と安達まで来てB50、B51、A11の三名は安達駅から
二時の汽車で帰り、自分とA10は再び二本松に戻り、借りた糊鍋等を返えし、五
分違いで二時の汽車にのりそこね、四時の汽車でB52、B53、A10と松川に
帰りました。帰つてすぐこの四人で組合の事務所に行つて雑談をしていたら、午後
七時頃だつたと思います薄暗くなつてからA19がやつて来て「今度首を切られた
者は将来のことを考えなければならんのでそれらの事を色々話し度いからA13の
処迄来てくれ」と呼びに来ましたので、A19に連れられて私はA11、A8とA
13の家に行きました。A13方には同人しか居りませんでした。その時A13は
今度首を切られた君ら若い者はすぐ職もあるだろうし今後職をさがすか又組合に残
るようにするかよく考えなければならない」と申し、続いて「昨日は自分はB38
に泊つたしA15はアパートにA14は何処とかに泊つたのだ、君達は組合の事務
所に泊り何処にも出てないことにして今云つたことを良く覚えておいて、人にあの
日のことを聞かれたら必ず今云つたように云つてくれ、兎に角あの日の事は口外す
るなと固く云われました。結局私らを呼んだ用件は前述のアリバイを作る以外の何
ものでもありませんでした。その内に私は時間も夜の一〇時近くになり一六日から
一七日にかけてよくねていないので横になつて眠つて了いましたそれ以後どういう
話がされたか又外の者は何時頃帰つたか知りません。私はその日はそのままA13
の家に寝て了いました。
 この時組合事務所の図面を提出したから本調書の末尾に添付した。(略)
 今提出した図面は私が犬釘抜から帰つてきて私が寝る迄の寝ていた者の位置でた
だB194丈けは朝私が目をさましたときの姿です。尚A10外二名が取つてきた
パールとスパナは私とB23の二人が出るときあつた場所も書き入れておきます。
尚土間の机は八月一六日の当日の形でその後この机は変形されております。
 私は本月六日勾留開示の裁判かあつたとき絶対汽車顛覆のようなわるい事をした
事はない。白状したのは取調官の強迫による為めたと申しましたが、実はそんなこ
とではなく、一度同志として誓つた人達の居る処でしかも絶対口外しないと約束し
た手前ああいう風に申上げざるを得なかつたのです。今迄申上げた通り後悔して二
度と斯様な事をせず更生致しますから御寛大に願います。云々
 被告A2が唐松裁判官の取調べをうけてから後の三笠検事の取調に対するA2の
供述は以上の通りであり、その供述は唐松調書におけるものよりも自己に不利なも
のとなつているのである。この供述を原審裁判官は何んと説明するのであろうか。
原判決の云うように別に異とするに足りないなどということでは片付けられない歴
然たる自白なのである。なおA2被告が勾留開示前新聞記者B15同B16の両名
に対し極めて示唆に富む陳述をしていることはさきに述べたとおりである。これに
対し原判決が余りにも納得のできない解釈をしていることもさきに述べたとおりで
ある。卒直に云つて原審が何が故に左様な解釈をしてまでも被告らを有利に導かな
ければならないのか、その心底の程を解するにくるしむのである。
 犯罪というのは些細なところにその痕跡を残すものてある。中国の古い言葉、天
網恢々疎にして洩さずとは左様なことでも云うのであろうか。本件についてもそれ
が多々あるのであるがA2被告については次のような事実があるのである。原判決
は例によつていろいろ理屈を述べて強弁しているが、それは争い得ない明々白々た
る事実であると私は考えるのである。すなわち
 (一)原第二審五五回公判におけるB19巡査部長の証言および同六〇回公判に
おける三笠検事の証言によると、二本松地区警察署で三笠検事がA2の取調を了え
雑談をしているところにB19巡査部長がA10被告につれて調書に拇印をさすべ
く印肉を借りに来た。ところがそこにA2がいた、A10とA2とは顔を見合せて
ニツコリ笑い「俺は話した」「俺も話した」と云つたというのてある。
 (二)は第一審五一回公判における証人B56の証言に現れる事実である。その
事実は次の如きものである。
 「私は現在宮城刑務所看守部長でありますが、昨年(昭和二四年)一二月も同様
でした、宮城刑務所の方で松川事件の被告戒護応援の為めに一二月一二日から一六
日までこちらの福島刑務所に来て勤務しました。私は本件被告のA2、A11を知
つております。それは戒護応援の為め福島の方に勤務したので知つたのです。一二
月一六日A11、A2のことに付いて記憶に残つていることがあります。それは検
察官が五〇何項目かの陳述書を読み上げて午前中それで終つて被告を中食の為め裁
判所内の留置場に入れ、午後の裁判にかかる為め法廷につれて来る際の留置場の塀
の所で看守のB57という担当看守が被告に手錠をかけようとした時、A11被告
がA2被告に対しこの者が顛覆さしたとの態度を示し非常に追及して居たのを私は
見たのです、A2はそれに対し何も応答しませんでした。A11被告は別に興奮し
た態度も見えませんでした。追及した言葉は列車顛覆をしたというので非常にその
事件に付て責めつけられているその模様を見たのです。私はA2がどういうことを
して起訴されたか又A11がどう云うことをしたか判りませんが、ただその当時の
模様から又A11被告のそう云う様子から見てA2被告が転覆させたのかと想像は
つくがその他は何によつてこうされているか判りません。A11被告の話からA2
が転覆さしたと見えました。追及した方がA11被告で云われた方がA2被告です。
その時云つた言葉の内容は「この野郎が汽車を引つくりかへしたこの野郎が汽車を
引つくりかへした為めこう云うことになつた、この野郎が悪いんだ」と云つており
ました。先程追及されたと云つたのはこれらの言葉です」というのである。
 以上(一)(二)の事実は誰か見ても思い付きや意識的に作られた話とは考えら
れず、本件においては看過の出来ない、被告らの犯行に対する示唆豊かなエピソー
ドと考えられるのであるが、どうであろうか。
 以上の次第でA2自白が虚偽架空のものだなどと断じ得べきているものでないこ
とが判明したものと考える。これと反対の見解を示した原判決は理由不備の甚しい
ものである。
 五、次にA1自白を取上げよう。
 (イ)原判決は云う。A1自白なくして松川事件は存在しない。A1自白は本件
検挙の端緒を作り、松川事件の骨格を形成した。A1自白は松川事件の大綱を伝え
るとともに、実行々為の決め手である。A1自白は自白のみによつて構成されてい
る松川事件の構造から見れば文字どおり、扇のカナメであるそのカナメが崩れれば
松川事件の全体は崩壊する。云々
 まことにそのとおりである。ところで原判決は被告A1の弁解(弁解といつても、
前上告審に提出された上告趣意書中に記載されている主張で、記録と見合わせて考
えに考え抜いた上で作り上げられたものであろうことは疑を容れない)を悉く容れ
てA1自白は全く跡かたもなく償え去つたとし、延いて松川事件も全体として崩壊
したものと認めざるを得ないというのである。思うに、原判決がA1自白の崩壊を
云為する支柱となつているものは原判決が強調するところのA3被告のアリバイ成
立の決定性、A18被告のアリバイ成立の高度の蓋然性にあるものであることは判
文上疑を容れない。しかし私見を以てすれば、A18被告のアリバイの蓋然性もA
3被告のアリバイの決定性も到底容認し得べき筋合のものとは考えられないから(
この点は後に詳述する)原審はA1自白を遇するに当つて、その根底において誤り
を犯しているものと云わざるを得ないのである。原判決はこの場合もA1自白を全
体として観察し、これを凝視してその真の価値を把握することを怠り、これを寸断
細分し、例によつて新証拠をもち出し、捜査の経過がかくかくだから被告の弁解す
るどおりA1自白は虚偽架空のものだというのである。さきに述べたように新証拠
を踏台として三段跳式論法で結論(被告の弁解)に飛び付いているのである。しか
も原判示のような捜査の過程からはどのように考えても原判決の求めるような結論
は引き出し得ないのである。その結論に到達するには何かが欠けているのである。
まして、原判決は捜査の過程についての見方を土台誤つているのである。でわ
 (ロ)まず集合出発地点の変更及び同地点から永井川信号所南部踏切までの道順
の変更と題する原判決の見方について述ベよう。
 原判決は本間の冒頭にA1の弁解を掲げこのとおりA1被告は捜査係官の云いな
り放題に口を合わせているんだということを云わんとする。すなわち「私は遂にや
りましたと嘘を云わされてしまつた。その時の気持は筆でも口でもいい表わせない。
そこでB191警視は誰とやつたのだとくるので先に述べたようなわけで『A3と
A18と一緒にやつたんです』といつた。すると、『どこで待ち合わせたのだ』と
言つてくる。事案やつていない私は困つてしまい、どこで待ち合わせたと言つてよ
いかと真創に考え、思いついたのが、A3もA18もB1労組の者で、永井川信号
所附近は人家もなく、人目につかない所なので、ここで待ち合せたといつたらいい
かも知れない思い、『永井川信号所の踏切り詰所の手前の十字路を少し南に行つた
所で待ち合わせた』といつた。……そのあとで、B60巡査部長は『俺はこれから
お前らが歩いたという所を歩いてくるから』といつて出て行つたが、夕方暗くなり
かかつた頃帰つて来て、『お前は、永井川信号所の北の踏切りあたりで待ち合わせ
て、信号所の東側の道を通つて、南の踏切の所に出たというが、それは間違いでな
いのか。食糧営団に行つているB58という者が、お前らがB58の家の前を通つ
た姿を見たといつているから、本当はB58の家の前を通つたのだろう』といつて
きた。私は実際歩いていないのだが、B58か姿を見たなどというんでは、B58
の家の前を通つたといわなければまずいだろうと思い、『実はB58という人の家
の前を通つたのです』というと、B60部長は『そうだろう。それではB58の家
では一〇〇ワツト位の電気が煌々とついておつたろう』というので、私はそれに合
わせて『そういえば、B58の家では電気が煌々とついておつたようです』と、B
60部長のいうことを真似ていつた。」と。右の弁解によるとA1は集合場所を後
に変更して述べている。それは係官がA1が先きに述べた集合場所では前後の事情
からおかしいと考えそこで係官が取調べをした上ですなわち予備知識をもつた上で
A1を誘導尋問し、A1に口を合せしめたのだというのが原判決の云わんとすると
ころである。A1は集合場所附近の地理に詳しい青年である。間違えようにも到底
間違えない熟知の場所てある。それをはじめA1が記憶違いして述べておいて、あ
とになつて、実はよく考えてみると間違つていたなどということは経験則上あり得
ないことであると云い、A1が捜査係官の誘導のままにデタラメな陳述をしている
のだということを、捜査の過程を見てでも来たかのように、例によつて新証拠をつ
つかい棒にして滔々として弁じ立てゝいるのである。ところが、記録を精読すると
捜査係官は原判決の想像する処の予備知識などをもつてA1を尋問しているもので
ないことが極めて明らかなのである。A1被告は昭和二四年九月二一日付警視B1
91の取調に対し、「一昨日列車てん覆現場に行く場合A3さんの待つていた場所
並に行つた道が違つておつたのでこれから申上げ度いと思います。それは私が前も
つて準備しておいた軍手を自分の家の堀の処からもつて前の道路を西に行きそして
南(森永橋に真直ぐの道路)に行つたらB59製材の材木置場の暗がりにA3さん
とA18さんの二人がしゃがんで待つておりました。これは一五日の計画相談の折
にA3さんが伏拝の農業協同組合のうしろで待つて居るからと云われたのが本当で
先に申し上げたのは思い違いでした。こゝで一緒になり森永橋に向つて真直ぐに行
つたのであります。この橋の一寸手前の西側に郷の目(杉妻)の食糧営団に勤めて
居るB58さんの家はこうこうと電気が付いており道路は非常に明るかつたので未
だ寝ないでおつた様に思われました。それから橋の手前から西に行き踏み切りを越
えて一旦平田村に通ずる道路に出て、又橋を渡り一寸南に行つてガードより南の土
手を上り線路に出てこの前申上げた道順によつて現場に向つたのであります。
 現場よりの帰りには金谷川の墜道の上の山より行くとき通つた道を下り線路を経
て割山を過ぎた地点から東におりて田圃道を森永会社に通ずる道を通り森永橋の南
の東側のたもとで皆んなで疲れたので休んでおりました。此処迄来る途中永井川部
落に入つてから今一寸忘れましたが何処かで犬になかれたのであります。そして橋
の処で休んでおります時に永井川部落の者が牛車を引いて肥料桶をのせ肥え汲みに
行くのに会つたので、私ら三人は顔は判つてはまずいので東の方を向いて下の方に
頭をさげ顔を判らない様にしておつたのであります。その車は橋を渡り真直ぐに北
の方に行つたのであります。私ら三人はこゝで休んでおります中に今晩のアリバイ
は良く作つておかないと後で危険だ又松川の者は今頃家に皈つて休んだろうな、人
が来るとまずいから皈らうなど互に語り合い、立ち上つてA3さんとA18さんは
橋を渡り東に行き国道の方に行つたのであります。私はA3さんらの直ぐ後につい
て真直ぐ橋を渡つて家に皈つたのあります、」云々と述べている。右供述によれば
A1被告は出発地点を変更したばかりでなく、問題の肥え車に出合つた場面をも述
べているのである。A1の右供述は如何にも淡々として淀みなくそこには捜査官の
予備知識に基づく誘導とか示唆とかいう観念を容れる余地がないのである。この事
は次の捜査官の証人としての供述によつてますます明瞭となるのである。すなわち
前示B191は原二審四一回公判において次のように証言する。問は裁判長で答は
証人である。
 問 証人が二、三回調書をとる間にA1の供述が従来と変つたとか発展したと云
うことはなかつたか。
 答 A1君は一回目の調べのときに話すことにまちがいがあるかも知れぬから調
書も後で取つてくれというような前置をして、現場へ行くとき集つた場所について
永井川信号所附近に居れと云われたと云つておりましたが、二回目に図面を書いて
何とかいう材木屋のところに集つたと供述が変つたことがあります(右二回目とあ
るはその翌日の三回目であることは記録上明らかでこの点は証人の記憶違いである
ことが明らかである)。
 問 そのような供述が変つた理由をA1が述べていたか。
 答 A1君は理由は別に云いませんでしたが、私の感じでは私はそのへんの地理
を知らぬので初め概括的に永井川信号所附近とだけ云つたのを二回目にはそれを具
体的に材木屋のところというふうに云つたのだと思いました。
 問 初めA1は永井川信号所附近にある踏切の詰所のあるところから少し南に行
つたところで待ち合せたという話をしていたところ、証人等調べる者の方で八月一
六日の晩B58の家に居た者がその晩遅くお前ら三人が通つたのを見たという事実
があるから現場へ行くとき集つたり通つたりしたのはおまえたちの云つたところで
なくて、そこでないかと云うように云つて聞いたのでそうだとA1の供述が変つた
のではないか。
 答 そうではありません。私がその調書を取るとき私一人で調べたのですが前に
申したように私はそのへんの地理は分りませんし、B58という名も所も知らなか
つたもので、A1君がこゝを行つたのだと云つて地図を書いたのです。それで私が
そういうところを通つたというならその晩は虚空蔵様のおまつりで夜の十一時十二
時頃でも人通りがあつたと思うが人に会わなかつたかと尋ねますと、A1君はB5
8方ではまだ起きており涼んでいた、話声もきこえたようだつたと云い、B58と
いう名が出て来たのであつたと覚えております。私は未だにA1君らが通つたとい
う現場までの道を歩いたことがないのです。云々
 又原二審四六回公判において証人B60(巡査部長)はA1被告の問に対し次の
如く述べている。
 問 証人は私が自白した通りの道筋を九月一九日歩いてきたことはないか。
 答 日のことは判らないがA1君の自白した地点について歩いて来たことはあり
ます。
 問 歩いたのは私が自白した次の日であつたと私は覚えているがどうか。
 答 その頃歩いたと思いますが、自白した次の日か或は数日後のことかはつきり
した記憶はありません。
 間 証人が私に対しお前の云つた通り歩きに行くと話したことはないか。
 答 歩いて見ると話したかも知れません。
 問 それで証人は何処から歩き出した。
 答 B59材木屋の材木置場の道路からB58方前の道を通り、平田村の方に行
く森永橋の手前を右に曲つて濁川に添つて溯つて東北本線の踏切を越えて平田村の
方に進み、土橋を渡つて線路に登つてから線路づたいに歩いて割山を過ぎ、平石ト
ンネルの上の山道を越えて金谷川駅北方踏切辺に出て更に待避壕等を通つて行きま
した。
 問 結局証人は私の云うた通りを間違いなく歩いたのか。
 答 私はその辺を歩いたの始めてでありましたから、大体A1君の云つた通りを
間違なく行つて来たと思います。
 問 それで私は何処で待合わせたと云つたか。
 答 最初は永井川駅附近と云つたと思います。
 問 それなのにどうしてB59材木店の材木置場のところから歩いたのか。
 答 それはA1君はその点について二回員の調べの時だつたと思いますが、思い
違いをしていた、待合わせたのは永井川駅附近でなくB59材木店の材木を置いて
ある道路のところだというので其処から歩いて見たと思います。
 問 私がB58の家の前を通つたと云つたか。
 答 名前は云いませんがその家の人が起きていたというように話したと思います。
 問 証人の方からB58の家が電気がこうこうとついていたのではないかと話さ
れたと記憶しているがどうか。
 答 私の方から話したことはありません。
 裁判長はA1被告に対し
 問 被告人は最初に待合をした地点をどのように述べたのか。
 答 初めは永井川信号所北方の踏切の東方にあるトロ線のある十字路のところで
待合わせして本線に沿つてそのトロ線のある道を通つて永井川信号所南の踏切を越
して行つたと申していたのですが、その後証人ら(B191やB60のこと)が歩
いてきた後でB58の家の前を通つたら同人方の電気がこうこうとついていてお前
らはB58方の人に見られていると話され結局私が初めに述べたのと話が合わなく
なつたので其処を通つたことに述べたのであります。
 問 そのように変つたことを述べたのは何日か。
 答 検事の取調べのある前で証人が歩いて来てからであります。
 裁判長は証人B60に対し
 問 A1らが通つたという地点について今A1が述べたような記憶はないか。
 答 永井川信号所の附近に集つたということで具体的に南部踏切ということはな
かつたと思います。そのような詳しいことは出なかつたと記憶しています。(中略)
 問 取調官の方でこの点は違うではないかと再考を促したかそれともA1の方で
変更して来たのか。
 答 A1君の方から記憶違いだと云つて述べたと思います。云々
 原判決は集合地点はその辺の地理に詳しいA1の間違えようにも間違えられない
場所である。A1が記憶違いして後になつて実はよく考えてみると間違つていたな
どということは経験則上あり得ないという。しかし原判決も云うように最初に出発
点として供述した場所と後に考え違いをしたといつて改めた材木屋云々の場所とは
距離にして近々一丁余りの所なのである。半里一里もはなれている所ならば考え違
いをするということもないかも知れぬが、そんな近い場所を考え違いして述べたか
らといつて経験則に反するなどということは云えなかろうか。場所感などというも
のは往々にして勘違いするものである。以上を要約して考うるに、原判決の出発地
点変更に関する判断は結局三段跳式論法の所産でしま臆測の範囲を出ていないので
ある。
 (ハ)次に肥え車に出会つたくだりの原判示を論評する。
 被告A1の肥え車に出会つた場面は同人の前示B191の昭和二四年九月二一日
の調書に始めて出てくるのであるが、それも捜査官の聞き込みなどによつて形造ら
れた予備知識が基礎になつて、その示唆に基づきこれに口を合わすべく為されたも
のがA1の供述だというのが原判決の見方であり、A1の弁解を殆んど肯定してい
るのである。A1の弁解は次のとおりである。これ亦前上告審に提出された上告趣
意書に記載されているところのものでてる。
 曰く、「B191警視はお前らはそこから森永橋の所に休んだろう」と云つてく
る。私がそれに合わせて「休みました」というと「北側か南側か」といつてくる。
私は北側の方が休むにょいことを知つているので、北側で休みましたと答えると「
いや違う」というので、私は間違つたように「ああ、違う、違う、南側で休みまし
た」というと、「川上か川下か」とくるので、南側では川下しか休み場所がないこ
とを知つているので、「川下です」と答えた。B191警視は「それじゃ、その時
何か通つたろう」といつてくるので、私はその辺は朝早く肥料汲みが通るのを知つ
ているから、「肥料汲みが通りました」と答えると、こんどはB60部長が「その
肥料汲みはどつちの方へ行つた」というので、私はさあ返答に困つた。そんな所で
休んだことがないので、どつちへ行つたかわからないが、答えないと怒られるので、
いい加減に「北の方へ行つたようです」というと、B60部長は「いや、違う。」
こんどは「南の方へ行きました」というと、また「違う。」私は森永橋のところの
道は東南北の丁の字になつていることを知つているので、こんどは「東の方へ行き
ました」と答えて、漸く話が合つたのである。すると、B191警視が「その肥料
汲みは馬車か牛車か」といつてくるので、私はわからないから、いい加減に「馬だ
つたです」というと、B60部長が「田舎の方では牛車を馬車というんだなあ」と
いうので、私ははじめて、その時牛車の肥料汲みが通つたんたなあとわかつた。…
…その後山本検事が保原署に来て「その時の肥料汲みは馬車や牛車でなく、人のひ
く荷車たつたろう」といわれたので、私は山本検事に合わせて、「荷車だつたよう
です」といつた。それから、休んだ時間につき、山本検事は、「君、橋の袂て休ん
だ時間は二、三分でなく、二〇分位だつたろう」といつてくるので、私は二、三分
位だろうが二〇分位だろうがどうせ同じ作りごとてとつちたつて構わないことだか
ら山本検事に合わせて「二〇分位だつたのです」というと二〇分位であつたと思い
ますというふうに調書を書き替えるのであつた。云々
 右弁解に対し原判決は次の如く云う。A1のこの部分の自白は当審に現れた新証
拠によると、B60巡査部長がA1の自白コースを実地調査してきた結果、A1が
最初自白した集合地点、そこから南部踏切までの道筋及び帰路の一部の変更がなさ
れた調書で同時にはじめて新に附加供述されているのである。この事実から見てこ
の新な部分の自白もB60巡査部長の実地調査の結果と関連するものと疑わせる節
が多分にでてくるのであると云い、以下彼是論議している。しかしこれはA1に対
するB191調書の作成された以前にB60巡査部長が実地調査をしたことを前提
とする立論であつて、その前提事実の間違いであることは集合地点変更の項ですで
に述べたとおりであるから、到底首肯できない談議であるが、原判決はA1の右供
述の前に捜査官がその点の聞き込みをしているということを彼是論述するから、そ
の然らざる事実を次の証拠によつて一応明かにしておき度い。
 まず肥え車を引いていたというB3を取調べたB192巡査は原審二五回公判で
証人として次の如く供述している。すなわち
 「九月二二日(A1自白の翌日である)B60巡査部長から肥え汲みの関係を調
べるようにという命令があつたのでB60の調べか終つてから肥え汲み関係の捜査
を森永橋を中心に森永橋のうしろの部落でやつた。肥え汲みの方はどこの家へ行つ
て聞けというふうには全然云われなかつた。肥え汲みの家は調べた結果わかつた。
B3というように記憶している。」
 また当のB3は一審一四回の公判で証人として次の如く供述している。
 「事件後一七日朝見た三人について人に話したことはない。五〇日位たつてから
刑事が来て尋ねられて思い出した」。
 以上によると前示A1の弁解なと到底容認できる筋合のものでないことが明瞭だ
と思うが、原判決は更に右弁解の根拠付けとして原審の行なつた検証の結果その他
を根拠としてB3が人影を見たというのは嘘である、当夜の暗さでは人の姿など見
えうる筈がない。仮に見たとしてもそれは被告A1ら三人の姿ではないという趣旨
のことを強調するのである。よつてここにB3の当夜三人を見たという供述を一応
掲げることとする。前示一審公判における証人としての供述である。
 「私は信夫郡a村大字b字cd番地で大体三〇年位農業をやつており肥料として
は人糞を使つておりますが、その人糞肥料は主として福島市a町から受けておりま
す。私は昨年(昭和二四年)八月中に松川駅と金谷川駅の間において列車か脱線転
覆したことを知つておりますが、その朝どういうことをしたかは日記を付けており
ませんから判然りしませんがその朝は肥料汲みに出掛けたと思います。私はその朝
市内a町へ人糞汲みに出掛ける為め荷車に肥料桶六本を積みその荷車を私が挽いて
私の子供のB61と行きました。出掛けた時刻は正確な時間は判りませんが午前四
時半か五時頃と思います。家を出て濁川の森永橋を渡りましたがその橋を渡る頃そ
の附近で人影を見ました。私は車を挽いて北に向つて進んで行つたのでありますが
私の進んで行く東側の方に約三十間離れて居たところに居りました。人影を見たの
は橋を渡る前で進行に向つて右側でした。その人影の場所は川の土手から僅かに離
れて居り川の渕から二、三間、橋からは約三十間位離れて居たと思います。それは
道路の上で判然りしませんがしやがんで居た様に思います。その人の数は大体三人
位居た風でした。大体男で女てなかつたと思います。幾つ位かは足をとめてみたわ
けではありませんし何の気もなく通り過ぎたので判然少致しませんが老人とは思い
ませんでした。その時その人達は帽子を被つていなかつた様に思います。三人は余
り離れていたとは思いませんでした。互に話を語る位の距離であつたと思います。
その時三人は話していた様であつたかとうかは足を止めて見た訳でありませんから
判りません。私は森永橋から国道に出て森合に行きましたが橋を渡る前に三人の人
影を見ただけでその後ふりかへりもしませんでした。その森合まで肥を貰いに行つ
たのは虚空蔵様のお祭りの日が八月一七日の朝と思います。私が三人の人影を見た
ときの明るさは暗いと言う程でもなく少し明るいことは明るかつたと思います。又
肥桶を積む頃の明るさは積むのに支障のない程度の明るさでした。」云々
 ところで原審が右判断の根拠にした検証とはどんな内容のものかというと、昭和
三五年八月一四日においてA1被告らが犯行の帰途四一二号列車を見たという地点
の午前四時五二分の明暗度及び同四時四五分における遊間調査のテント東方の畦道
の明暗度に関するものであつて、本件地点における明暗度の検証そのものではない
のである。すなわち、原判決は地形その他において条件の違う場所の明暗度に関す
る検証の結果を引用して(後に述べの一審受命裁判官の検証の結果などは捨てて顧
みない)当夜の暗さでは見える筈がないというのである。これでは事実を強いて歪
曲して認定したといわれても仕方がないのではなかろうか。記録によるとA1らが
森永橋の近くで休んでいたと認められる時刻とほゞ同じ時刻に実際に森永橋におけ
る明暗度を調査した検証は第一審受命裁判官田中正一が行つた検証(昭和二五年七
月八日施行)、だけである。この検証によると「森永橋南袂の基点に到着したのは
午前四時三分二五秒当時快晴であつたが右地点に到着した時は東の山の端がやゝ白
みかけており、まだ月はあつたが既に黎明であつた」との記載かある。
 このことは前示B3の証言中に「暗いという程でもなく少し明るいことは明るか
つた、肥桶を積むのに支障のない程の明るさであつた」という供述に一致する。し
てみれば、事件発生の日の午前四時三十四、五分頃から午前五時四、五分頃までの
間にB3が森永橋を通つた際A1ら三名の人間の姿を識別できたとしても些も不思
議ではないのである。そしてその人間の姿が被告A1、A18、A3の三人である
ことはA1の供述に歴然として現れてくるのである。しかもそれを力強く裏付ける
ものとしては冒頭に記述したA1の重要な失言である。その失言を原判示のように
理解することの理不尽であることは既に述べたとおりである。
 そうした失言を原判示のようにゆがんだ解釈をしなければならないところにA1
自白の真実性の秘密があるのではなかろうか。次に原判決はいう。B3の見た人影
の着衣が真実に合致しない。B3の一〇月一八日山田調書によれば「見かけた男の
服装は三名とも白いものを着ていたものはなかつたと思う」とあり、当審に現れた
新証拠のB3の九月二二日の遠藤調書にも「着衣は三人とも上下黒のようであつた」
とあつて、これを裏付けている。然るにA1自白におけるA3、A18、A1の服
装は三人とも白シヤツである。まさに黒と白との違いである。検察官はB3が三人
位の人影を見た時間は瞥見程度の時間であるから記憶違いということもありうると
主張する。しかしB3は人数、性別、年令などまでも見きわめているのである。し
かも夏のことで白い方がむしろ普通である。このような場合およそ白と黒とを間違
えて記憶するなどということは絶無でないにしても極めて稀であろう。故にA18
の見た三人位の人影はA1自白の三人の人とは全く別個の人間の人影であることが
明認されたのであると。しかしB3の供述をしさいに検討するとA18は黒色と断
定しているわけではなく服装の色はよく分らないという趣旨に帰着することが判る
のである(24、922、遠藤調書、926山本調書、1018山田調書参照)ま
して薄暗い所でみた人の服装の色などというものは性別のように判然と分るもので
はなく、知覚の誤りということは有りうることなのである。原判決は例によつて証
拠の細部に拘泥し、その全体を把握して評価することに顔をそむけているのである。
そして原判決はなお次の如く論述する。
 すなわち、「当審に現れた新証拠のB1971017鈴木調書B621017鈴
木調書B631018鈴木調書によれば、一六日夜から一七日朝にかけて虚空蔵様
のお祭りにお籠りをした若者達がこの時刻頃にも三々五々帰つていることが窺われ
るのであつて、B3がその早暁に前記のよな人影を森永橋の訣で見たとて少しも不
思議ではない」と云い、如何にもA1らが前示地点を通つたことのないことを裏付
けんとしている。しかし原判決の右新証拠なるものを検討してみると、右にいわれ
る若者達が森永橋附近を通行していたという内容のものではないのである。
 以上の次第で原判決の「かくて、従来A3、A18、A1らが犯行の帰途森永橋
の袂で休息したというA1自白を裏付けA1自白全般の真実性を確信すべき最も有
力な根拠の一つとされている事実は全く跡かたもなく潰え去つたのである」との判
示は、証拠の評価を全く誤つた結果の独断であるばかりでなく、推認の過程にも無
理があり到底納得できる筋合のものではないのである。
 (ニ)永井川信号所南部踏切を通過したということについてと題して原判決は次
の如くいう。
 A1の弁解(前上告審提出の上告趣意書記載のもの)は次のとおりである。
 「一〇月一九日昼すぎ、田島検事がきて、『虚空蔵様のお祭りの晩には、いつも
永井川信号所の南部踏切に線路班の者がテントを張つて、臨時踏切番に立つだろう
』と聞かれて、私ははじめて思い出し、『立ちます』というと、田島検事は『一六
日晩も臨時踏切番ができていたろう』というので、私はその晩通らないからわから
ないけれども、いつも踏切番が立つ筈だから考えて、『できていました』と答えた。
『はじめから気がついていたか』ときくので、通らない私は、気がつくもつかない
もないけれども、気がついたといえばうまくないだろうと思い『踏切近くまで来て
はじめて気がついた』といつた。『テントはどこに張つてあつたか』一ときかれ、
私はその年の一月に虚空蔵様のお祭りで臨時踏切番をしたことがあつたので、その
晩も多分同じように張つたろうと思つて、『道路に面した線路と田の間の窪地に張
つた』と答えた。その窪地は線路より二メートル以上も低い所にあるので、道路上
からテントの中は見えなかつたのである。『そのテントは遠くから見えなかつたか
』ときかれ、線路と田の間の窪地だから、遠くからは見えない筈だと思い、『遠く
からは見えない』というと、『それじや、踏切に行くまで知らずにいて、そのテン
トを見てハツとしたのだろう』というので、私は田島検事のいうことに合わせて『
そうです。でも、その踏切にけ誰もいなかつたのて、急いでその踏切を渡つたので
す』と、いい加減にいつた。『踏切警戒をしているものがついていなかつたのか』
ときかれ、私は自分が踏切警戒した時のことを頭に入れて、『その踏切警戒をして
いる人達は、、汽車が来るとき以外は、テントの中に入つていて、休んでいるので
す』といつた。『では、テントは何色だつたか』とか、『その晩の明るさはどうだ
つた』などときかれ、私は永井川線路班ではテントは一組しかなく、その色は草色
であることを、長年同線路班に居て見て知つているので、『草色だつたです』その
時の明るさは、『とても暗い晩だつた』とその晩私は虚空蔵様から家に帰つたこと
を頭に入れて答えた。さらに、田島検事は、『その晩暗かつたので、テントが遠く
からは見えなかつたのだろう』とか『君達が臨時踏切ができていることを早くから
知つていたら、どこか別の道を通つたろう』といつたので、私は田島検事のいうこ
とに合わせて『そうです』『早くから気がついていれば、見つかつては大変だから、
別の道を通つた筈です』といつた。そのようにして、一〇月一八日までなかつた永
井川南部踏切の臨時踏切番のできていたことに関する調書が作られた。」
 「私はその年の一月にも虚空蔵様のお祭りで踏切警戒をやつた経験かあるから、
電柱に六〇ワツトの電燈がつき、二個の合図燈があれば、遠くからでも臨時踏切警
戒のことに気付かない筈がない。暗かつたから遠くからテントが見えなかつたとの
べたのは、その晩のことを知らなかつたためである。その踏切に誰も居なかつたと
述べたのは、私が踏切警戒した時は、踏切の東側の窪地にテントを張り、そのテン
トの中に居ると、踏切を通る人は見えないので、一六日夜も同様だつたろうと思つ
て、そのように述べたのである。B64等は長年一緒に居た人だから、私が通れば
見逃す筈がないのに、気付かなかつたというのは、私が通らなかつた証拠である。
テントの色が草色だつたと述へたのは、一月にもそのテントを使つてその色を知つ
ていたからである。」
 当審に現われた新証拠のA1自白の最初の調書である919B191調書以降A
1自白の全供述調書を通し、犯行に赴く際永井川信号所南部踏切を通過したと供述
しているのに、同所のこの臨時切踏警戒テントのことを述べているものは、最後の
自白調書である1019田島調書たけである。A1が起訴されたのは一〇月二二日
であるから、この臨時踏切警戒テントのことは、起訴の基礎資料にはなつていない
わけである。そして、右田島調書以外の調書はこの臨時踏切警戒テントのことに何
らふれていないばかりか、最初の自白調書である新証拠の919B191調書では、
「三人で永井川信号所の者にわからないようにして、待つていたところの道を南に
行き、信号所の南の踏切を渡つて」行つたと述べられており、923山本調書でも、
永井川信号所の者にわからないようにして行つた趣旨が述べられている。その他の
供述書でも、みな南部踏切をなんのこともなく通過したことになつているのである。
 それなのに、1019田島調書にいたつて、突如、南部踏切にさしかかつた時に
臨時警戒テントを見てハツと思つたという供述が現れ、この臨時警戒テントのこと
だけが、とつてつけたように、同調書ではじめて新たに供述されているのである。
 ところが、当審における検証の結果と、当審に現われた新証拠により、A1自白
にいうA1ら三人が当夜永井川信号所南部踏切を通過したとの事実は、経験法則上
到底これを否定せざるを得ないのであり、A1被告1019田島調書の供述記載内
容自体が、新証拠のB651021田島調書、1111田島調書と対照し、当夜A
1ら三人が南部踏切を通過しなかつた事実を物語つているのである。かくて、A1
被告1019田島調書とそれ以前のA1自白調書との関連において、A1自白の真
実性を強く疑わさるを得ないのである。云々というのである。
 その云わんとする所は要するに、被告A1は例の屈従的迎合的心境から田島検事
の誘導のままに口を合わせた丈けであつて右踏切通過の件はデタラメの供述である
ばかりでなく、当時の状況よりして踏切番に気付かれずに通過することはあり得ず、
仮りに通過したとするならば必ず気付かれていたろうに、本件証拠上そうした事跡
は一向に現われていない。これによつて見ればA1らの右踏切通過に関するA1の
供述は全く真実に合致しないものと云わなければならないという趣旨であると考え
る。
 そこで田島検事は果して被告A1を誘導したものであるかどうかも検討しなけれ
ばならないが、それには田島検事のA1被告を取り調べた経過を知る必要がある。
記録によるとA1ら被告の永井川踏切通過のくだりを特に取調べたのは田島検事と
認められる。同検事はA1被告に対するB191警視の一〇月一九日付取調調書に
永井川踏切通過の件がでてきているので、より詳しい取調べの必要を感じたものと
考えられるが、同検事は先ずその夜同踏切の臨時警戒に当つたB64、B65、B
66、B67の四名を昭和が四年一〇月一七日に取調べている。
 B64供述「前略、A1も以前同じ警戒をやつたことがあると思いますから虚空
蔵様の晩には踏切に警戒する人があるということは当然承知しておりますから警戒
の者に判る様な道は通る筈がないと思います」。
 B65供述「前略、私は汽車が通つても通らなくても椅子をもつて行つて踏切の
処に腰かけて警戒しましたが外の三人は汽車が通らない時にはテントの中で休んだ
りなんかしておりました。(中略)線路伝いに東京方面に行つた者もなければ東京
方面から来た者もありませんでした」。
 B66供述「私達は翌一七日午前二時頃まで寝ないで警戒をしておりましたが、
線路を通つた人はありませんでした。線路の両側には道がありますが、東側の方の
道は遠いので人が通るのは分りませんが、西側の道は線路の上にでも立つて特に見
れば薄暗く人の通るのは分つたろうと思いますが、その晩特に西側の道を見張つた
わけではないので人が通つたか、とうか記憶はないのてあります」。
 B67供述「汽車が通らない時はテント内で休憩しておりましたが、休憩中には
各自交代で上り線と下り線の中に椅子を持つて行つて警戒しておりました。私共が
休んでいたテントからは西側の道路を歩く人の姿は見ることがてきなかつたのであ
ります。東側の道は線路から相当離れていますので通行人は勿論見えなかつたと思
います」云々。
 以上によればA1は或は踏切を渡らず東側か西側の道を通つたのではないかとの
疑念が当然に生ずる。そこで田島検事、にもし誘導の底意かありとすれば、A1に
対し踏切は渡らないのではないか、東側の或は西側の道を道つたのではないかと仕
向けるような問か発せられて然るべきてあろう。然るに一〇月一九日の田島検事の
取調べに対するA1の供述にはそのような形跡は一向に認められず、A1は踏切を
渡つたと云い切つているのである。その供述を次に掲げる。
 「私は永井川駅線路班に四年三ケ月も勤めておりましたので、毎年正月と夏の虚
空蔵様の宵祭の夕方からその翌朝にかけて東京起点二六九粁二百米の踏切には臨時
に踏切番か出来て線路班の者が三人が四人で警戒することは承知しておりました。
私は今年の正月にB64、B68、B69の三名と一緒に夜の七時か八時頃から午
後一二時頃迄警戒したことがあります。それでその踏切に臨時踏切か出来ることは
よく知つていたのです。ところが私は本年八月一六日列車転覆の工作に行く途中A
18とA3と一緒にその踏切を通つたのであります。私はその晩が虚空蔵様の宵祭
だということは知つておりましたが、その踏切に来る迄に踏切番が出来ておるとい
うことを気付かず、テントを張つてあるのを見てハツと思いました。然し誰も踏切
には居りませんし人通りもなかつたので急ぎ足でその踏切を渡つて平田村方面に行
く道路に出て、それを真直ぐに歩き、橋梁より東京寄りの二六八粁七〇〇米附近か
ら線路に出て線路の右側だが左側だかはつきりしませんが、多分右側を通つたと思
いますが、線路伝いに大急ぎで東京方面へ行つたのです。行く途中は一回も休まず
に行きました。話はしながら行きましたが、その話の内容は今思い出せ交せんから
思い出したら申します。
 八月一六日の晩最初に雨が降り出したのは、私が虚空蔵様に居た時で時刻は午後
一〇時過頃ではなかつたかと思います。雨が降り出したので参詣人の人達は大郎分
帰つて了いました。それから時々小雨が降りましたので私達が踏切を通る頃には人
通りはなかつたのであります。
 それで踏切の警戒に当つた人達はテント中に入つて居たものと思います。尤も踏
切の人達は汽車の通る度に出るだけで汽車が通らない時にはテントの中で休んでお
るのです。踏切に張つてあつたテントは草色のテントで、その晩暗かつたものです
から遠くからはそのテントは見えなかつたのであります。もし臨時踏切が出来てお
るということに早くから気が付いておりましたならば、私共は見つかつて大変です
から別な道を通つたと思います」云々。
 この供述を味読すれば、検察官が踏切通過の件を注意深く聞いている様子が窺い
得られるし、一方A1も至極自然に応答し、その間に暗示を与えたとか与えられた
とか誘導したとか誘導されたとかいうような形跡は認められないのではなかろうか。
殊に「その踏切に来る迄踏切番が出来ておるということを気付かずテントの張つて
あるを見てハツト思いました」という一節は、実感が籠つていて、A1が当時愕然
とした様子がよく窺われるのであつて、暗示や誘導によつてなされた作り話とは到
底思念できない。原判決はA1被告は当夜臨時踏切番の出来ていたことは自己の経
験上当然知つている筈だから踏切番の出来ていることに気付かないなどということ
はあり得ないということを力説する。しかし当時のA1青年は当夜の出発地点を間
違つて云つたり森永橋の不用意な失言をしたり又A1予言と云われるものを放言し
たり(この点は後に述べる)するような人物で頭脳の廻転が速い性の青年であつた
とも思われないから、右のような点に気付かなかつたからといつて特に不思議とし
なければならないものと思われない。況んや当夜A1は一途に犯行現場に赴くべく
大急ぎに急いでいたことが前示供述のとおりであるから、A1は踏初番のことなど
念頭に浮んで来なかつたのではないかと認められるにおいておやである。
 田島検察官は右A1の供述により、踏切番担当の前示供述人らが果してA1に気
か付かなかつたものであるかどうかを確める必要を認めたものであろう。A1を取
調べた日の三日後てある一〇月二一日にそれらの人々を再調査している。
 (一)B65供述「午後一一時頃小雨の降る前後が一番人通りが多かつたのでそ
の頃までは前回申上げたような椅子に腰かけて警戒していましたが、その後はテン
トの内に入りましたから通行人があつたかどうか分りません」。
 (二)B66供述「その晩の人通りは雨が降つてからは人通りもなくなりました。
雨が降つたのは一一時過ぎてはなかつたかと思います。一二時頃には人通りはなか
つたと思いますが、雨の降る前は汽車が通らない時も外に出ておりましたが、雨が
降つてからはみんな内に入つて了いましたからその後人が通つたかどうかは分りま
せん」。
 (三)B67供述「線路の上で椅子に腰かけて見張りしたのは人通りの多い時で
ありました。それは何時頃であつたか記憶にありませんがとにかく人通りが減つて
からは椅子に腰かけて見張りはしておりません。テントの中に入つていたのです。
テントは東京よりの方だけを垂れ下げており、あとはあけておきましたから人が通
れば分るわけですが私共は別に通る人に気もつけませんでした」。
 なお、右B23、B64の両名は原二審公判において証人として午前二時頃近く
まで勤務していたというのは事実でなかつたことを認め、特にB23は超過勤務手
当が午前二時まで支給されている関係からそれに合わせるように午前二時近くまで
勤務したように供述したことを認めているのである。
 以上に徴して考えれば、A1らは南部踏切を踏切番に気付かれずに通過し得た確
率が大であり、事実また踏切番もこれに気付いていないことが認められ、延いてA
1らは当夜同踏切を通過した事が疑念を容れ得ない事実であると認めざるを得ない
のである。
 原判決は語調を強めて種々論議する。
 (一)四年間も永井川線路班に線路工手として勤め本件事故発生の約七ケ月以前
にも虚空蔵様のお祭りの時この踏切の東側窪地に同線路班に一つしかない濃緑色の
テントを張つて臨時踏切警戒に当つた経験のあるA1が真実当夜南部踏切を通過し
たのが事実とすれば当審検証の結果に照らし踏切の余程手前から平常はつけられて
いない電燈に気付かない筈がない。さらに進んでテントに気付かないことはあり得
ない。気付けば踏切警戒をしている者は顔なじみの人達ばかりなのだから重大犯行
に赴くというA1がその踏切を通るなどということはできる筈がない。それがわれ
われの常識であり経験則だという。しかしさきにも述べたとおりの次第でA1は事
実それに気が付いていなかつたのである。それだからこそテントのあるのを見てハ
ツとしたというのである。それが常識や経験則を外れた現実であろうか。冗言する
までもなく犯罪と云うものは異常な事象の間に行われることは珍しいことではない。
われわれが平素取扱つている人殺しや放火の難件と云われるものの大半が意表をつ
いて行われていることはわれわれの体験している所である。そんなことがベテラン
たる原審裁判官は判らぬのであろうか。本件は世にも不思議な物語などと云われる
程の難解な事件である。到る処に現われてくる難点にもつとするどい観察眼を以て
解剖のメスを入れる常識こそ、私は原審裁判官に望ましかつたと思う。原判決は、
A1は一〇月一九日田島検事の取調べに当つて、初めて、テントを見てハツト思つ
たと供述している。重大犯行に赴く途中このような驚きと怖れを感じたとすればな
んでも自白しているA1でこのような異常な出来事を失念していて最後の田島調書
までそのことを供述しなかつたのであろうか。記憶違いや失念する筈のない事柄を
供述しなかつたということは到底考えられないという。成る程テントを見てハツト
思つたということはA1自白の中の重要な部分を形成するものであろうことは認め
る。しかし犯行者の自白というものは一切合切すべてを網羅するものではない。聞
き洩しもあり、云い落しもあるものである。聞き洩しがあるのではないかと考えた
からこそ田島検察官はA1に対し取調を開始し、テントを見てハツトしたという供
述を得たものであることは既に述べたところである。しかもその供述たるや検察官
の暗示や誘導に基く形跡は認められず、無理がなく自然に述べられており、現実味
を帯びたものであることも既に述べたるとおりである。原判決は右供述を目して驚
きと怖れを感じた異常な供述であり、記憶違いや失念の故を以て片付けられる底の
供述ではないと述べているが、修飾が大げさで空疎感を免れない。原判決はA1自
白によれば、夜間電燈に照らされたテントの色は草色に見えたというが、原審検証
の結果によれば、草色には見えないからA1自白は真実性が認められない旨判示し
ている。しかし前示B64は原二審六七回公判において証人として本件当時のテン
トの色は自分の知つている限り濃いみどり色であつた旨供述しており、その供述は
真実に合致するものと認められるから、A1はそれを知つていてテントの色は草色
である旨供述したものと認められるのであつて、この点に鑑みればA1自白は真実
に合致しこそすれ、これに反するものではないものと認めざるを得ない。原審の検
証は本件事故発生後一一年後に行われたものであり、当該テントの色合もその当時
に比すれば変色しているであろうことは当然推測される処であり、現に前示B64
は原審検証の立会人として「当時使用したものであるが、色は当時より幾分あせて
現在では当時に比べて多少黒ずんている」旨供述しているのであるから、原審検証
の結果に基づいて一一年前の本件当夜のテントの色合を検証当時のものと同一と判
断することは相当ではない。従つてテントの色合の点からA1の自白の真実性を云
々するのは早計である。
 なお、原判決はテントの張つてあつた位置を論議してA1自白を云為する。しか
しこの点に関するA1の主張は原二審一一〇回における最終陳述の際に初めて為さ
れたものである。もしその主張する所が事実であるならば、第一審当時から主張す
るのが当然であろう。然るに第二審最終陳述に至る迄何らその点に触れる主張のな
かつたことは、A1にテントの位置に関することなど更に関心のなかつたことを示
すものであると同時にA1自白の真実性に何ら関連のないものであることを物語る
ものと云わなければならない。従つてテントの位置に関するA1の主張を仰々しく
取上げてA1自白を攻撃する原判決の論法は不可解という外はない。
 以上を要するに、前示A1弁解を殆んどそのまま容認した原判決の判断は到底首
肯のできないものであると考えるのである。
 原判決は本項のむすびとして次のように壮語する。すなわち、自由心証主義にお
ける心証の形成過程にはある程度直感的判断の加つてくることは否定できないであ
ろうし、その心証形成の理由全部を説明し尽くすことは不可能であろう。しかし、
少くともその重要な心証形成の理由は、これを説明すべきであり、またこれを説明
することは実務上決して不可能ではない。そのように説明のできる心証形成の理由
は、上級審のあらゆる角度からの批判にたえ一般世人が考えても尤もだと納得のゆ
くものでなければ、上訴制度の理念からはもとより、裁判公開主義の原則の趣旨に
も副わないことになるのではなかろうか。正しい民主主義における裁判は切捨て御
免に等しいものになつてはならない。云々、という。
 裁判というものは切捨て御免に等しいものになつてはならないという最後の一句
は正に御尤もである。しかし被告人らの弁解を容れることに汲々たる原判決の如き
は正に検察陣に対する切捨御免の裁判ではなかろうか。原判決の右むすびに対し弱
い犬は吠えるの感じをもつものは私一人だけであろうか。
 (ホ)B1側B2側の五名か現場附近で出会い、途中旅客列車と擦れ違つて現場
に赴いたとされたことについて
 先ずこの点についてA1被告がどんな自供をしているかを確めなければならない。
第一審判決が本件実行行為認定の証拠に供しているものは
 (一)昭和二四年一〇月一日付山本(検事)調書
 (二)同年一〇月二日付唐松調書
 (三)同年一〇月一九日付田島(検事)調書
であるが、ここでは(一)の山本調書の本題に該当する部分を左に掲記する。
 「(前略)線路に沿ふた道に出ますが、その道を線路に沿ふて五〇米か一〇〇米
松川の方へ進むと踏切があります。その踏切を渡らず金谷川小学校に通ずる道路上
を線路と並行して約百五十米位行つた処から畑を横切つて線路に出線路上を松川に
向つてどんどん進みました。国道の浅川踏切手前百米位の処に来ると後から貨物列
車が来たので線路の松川に向つて左側の土手に、一、二尺降り乗車の人から顔を見
られない様にしゃがんで汽車の通過を待ち、列車が通過してから線路に出、浅川踏
切四、五十米手前に行つて踏切警手の様子を見ると踏切警手は踏切詰所の前を通つ
て東南に在る宿舎に入る後姿を見たのでその踏切の処を線路上通過しても大丈夫だ
と思ひ、静かに線路の松川に向つて左側を歩いて通過しました。此の辺まで来るま
では非常に急いだのでありますがそれから少しゆつくり歩いて行きました。その淺
川踏切から五百米位行つた処で下りの旅客列車に会いましたので又松川に向つて線
路の左側の土手に一、二尺下り、列車の人に顔を見られない様にしやがんで列車の
通過を待ち列車が通過してから又線路に出て線路の左側を松川に向つて歩きました。
列車脱線事故地点附近に行きますと下りの機関車一輌が進行して来るのに出会ひま
したので又線路の松川に向つて左側の土手の処にしやがんで顔を隠してその機関車
の通過するのを待ち、機関車が通過すると又線路に出て一寸行くと列車脱線事故の
予定地点へ着きました。併し松川から来る予定の者は未だ来て居りませんでしたの
でその辺の現場を見たり等して約三分間程立止り様子を見ましたが未だ松川から誰
も来ていない事が判りましたのでもう少し先へ行つて見様と言ふ事になり、急がず
にぼつぼつと松川駅の方へ向つて歩いて行くと松川駅の遠方信号所の五、六十米手
前で松川駅の方から線路上を歩いて来る二人の姿が見えましたので、私は約束の人
かやつて来たと直感しました。前に申落しましたか金谷川トンネルの上り口の処で
A3が浅川踏切の先のカーブの処まで行けば松川から二、三人来て待つている筈だ
からと言ひましたので私はその晩松川から応援者が二、三名確実に来ると言ふ事を
知つていたのであります。松川遠方信号所の手前五十米の処で松川方面から来た者
に会ふまでの間余り話もせず煙草もトンネルの上の山を越す時に一本喫んだ丈であ
ります。松川の者に会ふとA3が「お晩です」と声を掛けたら松川から来た二人の
内一人は「御晩です」と云い、一人は「今晩は」と云いました。私もA18も「お
晩です」と云いますと一人は「お晩です」云い一人は「今晩は」と云つた様であり
ます。この二人は勿論私の知らない人でありますが一人は年令二十二、三才位丈五
尺三寸位丸顔・長髪て頭を分け油をつけ、開襟国防色様のシヤツ、黒のズボン、短
靴で言葉は地方弁でバールを持つておりました。他の一人の人は年令二一才位、丈
五尺三寸位面長で少し髪を伸ばし漸く分けられる程度で白のワイシヤツ、黒のズボ
ン、編上靴を穿いている様で自在スパナを持つておりました。言葉は都会育ちの者
の様でありました。そこで二、三分立止つてA3が何か話している様でありました。
その中にA3が「これから現場に行きませう」と云いまして、松川から来た二人を
加へ私ら五人は私らが三人で通つてきた元の線路の上を引返えし予定の現場へ向つ
て歩きました。歩いた処はやはり金谷川に向つて線路の東側を進んだのであります。
この時も余り急ぎませんでした。予定現場から松川駅の方へ一五〇米か二〇〇米の
所まで来ると上り客車が参りましたので、私らはその列車の前照燈によつて顔を見
られてはいけないと思い線路の東側の土手へ二、三尺降りて顔を東側の方へ向けて
しやがんだのであります。汽車が通過してから又線路に出て予定の現場へ着き、二、
三分休んで辺りを眺め度胸をつけておりますとA3が「人が来るといけないから早
く取り掛らう」と申しますので」云々。
 第一一二号列車と擦れ違いの点に関しては一審一四回公判における証人B5が次
のように供述している。
 「私は昭和十八年一月十八日から鉄道に勤めて居り現在は機関士をやつて居りま
す。昨年(昭和二十四年)八月頃は機関士として勤務して居りました。私は昨年八
月中に金谷川駅と松川駅間に於て汽車脱線顛覆事故のあつたことを知つて居ります。
その場所も大体知つて居ります。八月十六日は第一四一列車の本務機関士として福
島駅と白石間の上下を運転致し同月十七日は第一一二列車の後部補機として白石駅
と郡山駅間を運転致しました。第一一二列車は八月十七日の多分午前一時二十七分
頃福島駅を発車したと思ひます。福島駅は定時に発車しましたが永井川信号所で下
り第四一一列車と交換の為約四分遅れて永井川信号所を発車しました。その列車は
金谷川駅、松川駅間では停車致しませんでした。金谷川駅を何時に通過したか現在
記憶して居りません。松川駅を何時頃通過したか良く記憶がありませんが午前一時
五十九分頃松川駅を通過したと思ひます。この列車は大体四分遅れて金谷川駅と松
川駅を通過したと思ひます。私は列車脱線顛覆した場所は大体知つて居りますが私
が第一一二列車の後部補機々関士として金谷川駅と松川駅間の浅川踏切を過ぎて線
路が曲線から直線になるところから幾分過ぎた頃三人乃至五人と思ふが多分三、四
人の男の人を見ました。その三人及至五人の男の人は線路に沿つて居る土手の稍々
中間より幾分下つたところと思ふが列車と反対の方向に向つて歩いて居たと思はれ
ました。そしてその男の人は列車と擦違ひました。その場所は列車脱線のあつた場
所から何米離れて居たかと言ふことは明白には判りませんが、記憶にあるのは線路
が曲線から直線になつて幾分過ぎたところであつたと思ひます。幾分過ぎたと言ふ
のは松川駅の方に向つて幾分過ぎたと言ふことです。私が見た男の人の服装は判然
判りませんが黒色のズボンに白のシヤツを着て居た様に見えました。その人達は線
路の土手の中間よりやや下の処で何か重い荷物でも持つて居る様な恰好で幾分前か
がみになり列車とは反対の方向に向いて歩いて居りました。その土手は松川駅に向
つてつまり列車の進行方向に向つて左でありました。三人ないし五人の男は帽子は
被つて居なかつたと思います。頭の髪は長かつたと思います。年齢二〇才位から三
〇才以下と思われました。私は第一一二号列車の後部補機機関士として白石駅と郡
山駅間を運転していたが、郡山駅で機関車を解放し炭水線に入つて発車準備をして
待機しておりました。私が最初に列車の脱線事故を知つたのは郡山駅で多分第一五
一号列車をけん引して郡山機関区で待機中のことでした。私はその事故を聞いて機
関助手のB70に松川金谷川駅間で列車が脱線したのは松川駅方面へ行く浅川踏切
を過ぎた附近ではないかと話をしたのです。私は浅川踏切と松川駅間で人を見たの
でその人が怪しいのではないかと話をしたのです。三人ないし五人の男の人は皆同
じ様な姿勢で歩いて居た様に感じました。その人達は土手のやや下目のあたりを歩
いて居たのではないかと思います。顔は皆列車と反対の方向を向いて居りました」
云々。
 これに対するA1の弁解は次のとおりである。その弁解は前同様原上告審に提出
された上告趣意書に記載されているものである。
 「すると、今度は『現場より約二五〇メートル位向うに行つた石合という踏切あ
たりで、一一二列車とい与客車に出会つたろう、その列車に乗つておつたB5とい
う機関士がお前ら五人の姿を見たといつている。また、お前やA3の顔を見たとも
いつている。だから、会つたろう』と、B191警視はいつてくる。私は、事実歩
いていないのに、変なことをいうなあと思つたが、B191警視のいうことに合わ
せて言つた方が、責められないですむので、一一二列車と合つたといつた。すると、
B191警視は、自分で教えておきながら、『その一一二列車とどこら辺で出会つ
た』と、また変な聞き方をする。で私は今B191警視に教えられたばかりだから、
現場より約二五〇メートル位向うに行つたなんとかいう踏切、(教えられたばかり
だが、踏切の名は忘れてしまつた)の辺りで出会いました』といつた。」
 「それに今度は、『お前とA3、A18の三人で現場に行つて、松川の者とはど
こで出会つた。まだ現場には松川の者は来ていなかつたのだろう』と、B191警
視はいつてくる。私は、前に、一一二列車とは現場より松川方面の方に行つた所で
出会つたことにされているので、それは現場より松川の方に行つた所で、松川の者
と会つたといわねばならないんだろう、と思い、『現場にはまだ松川の者は来てい
なかつたです』といつた。B191警視は、『松川の者と、どこら辺で会つたのだ
』といつてくる。さあ、いいようがなくて困つてしまつた、すると、B191警視
は『松川の者はまだ現場に来ていなかつたのなら、松川の遠方信号機のある辺り迄
行つたのだろう。』というので、私は、それに合わせて『はい、そうです。松川の
遠方信号機のある辺りで松川の者二人と会つたのです』といつた。私が、松川から
来た者は二人だといつたわけは、前に一一二列車と出遭つたことにされた時、B5
という機関士がお前ら五人の者の姿を見たといつているとB191警視にいわれて
おつたから、五人ならば、松川から来た者は二人といえばいいんだなあと考えて、
二人だといつたのである。」
 「検事の調書に、B5機関士に顔を見られたことは検事さんにはじめて知らされ
た、とあるのは嘘で、検事が勝手に書いたもので、B5機関士が何か人を見たとか
いうのは当時の新聞にも出ていたような記憶があるし、また私がいわれたのはB1
91警視がはじめてである。」
 叙上の供述や弁解の展開する下において原判決は次の如く云う。
 従来、A1自白のこの部分、即ち、「福島からの三人が予定現場まで行つたが、
松川からの二人が来なかつたので、更に、松川駅の方へ行くと遠方信号機手前の辺
で、松川の二人に出遭い、それから五人で引き返してくる途中旅客列車(準急一一
二号列車)が来たので、線路の東側に待避し、通過してからまた線路を歩いて現場
へ行つた」というのは、すべてA1が自分で作つて言つたというのであるが、A1
の作り話としては余りうま過ぎ、しかもそれはA2自白に符合し、B5証言に裏付
けられている動かない事実とみられるとされた。それだけに、この事実は列車脱線
顛覆作業の実行々為に直結する事実として、A1自白の真実性を強力に担保するも
のとされ、実行間違いなしとの確信への強い影響力を及ぼしてきたのである。
 ところが、当審に現われた新証拠によると、右自白部分は、A1自身の「作り話」
ではなく、取調官がB5機関士の見た人影を犯人と推定して、そのことをA1に暗
示ないし、示唆した結果、右のA1自白となつたものとみられる疑いが極めて濃厚
である。そうして、新証拠によると、従来右のA1自白を信用すべき根拠とされて
いた諸点はすべて崩れ、その他右A1自白をもつて、取調官の暗示に基くものとす
る不合理だとされた点はすべて氷解するのである。
 A3アリバイが確証され、A18アリバイ成立の蓋然性が甚だ高く、A1自白の
A19、A2の特定が極めて疑わしく、さらにA1自身のアリバイ成立の蓋然性が
甚だ高いとなつては、右の帰結はむしろ当然のことであり、A1ら五名が右のよう
に出遭つた場面は到底あり得ないわけである。云々と述べた上で更に数千語を用い
て本間のA1自白の非現実性を力説する。その措辞徒に生硬で且難解、いつたい何
を云わんとするや捕捉するにくるしむが、その要点とするところは、本問のA1自
白は捜査官のデツチ上げた作り話であり、(原判決によれば、そこには見解の相違
や水掛論を容れる余地は全く存しないという)それをA1の迎合的心境に乗じ「B
191警視がB5機関士の供述に基づく犯人の推定を暗示した結果本問のA1自白
が出来上つたものとの疑が極めて濃厚であり、否その疑いを確証ずる証拠があるの
である」というに帰着するものと考えられる。なお原判決はB1側とB2側の出会
いの場面などは不自然不合理常識では考えられない場面であるというのである。し
かし、原判決の常用する新証拠なるものを――本問でも無論そうであるが、――熟
読検討するもまたこれを旧証拠と対比参照するも、更にまた原判決の痛論する捜査
過程を考察するも、本問のA1自白がもはや見解の相違を容れる余地のない程に捜
査官の作り話と断定できるかというと、その断定にはどの角度から考えてみてもプ
ラスXが欠けているものと認められ、更にその作り話を捜査官がA1に押しつけて
自白となつたという認定の仕方にもプラスXが欠けているのである。原判決はその
Xの追究詮索をいささかもしていないのである。つまり新証拠を踏み台として三段
跳式論法で自己の好む結論に飛び付いているのである。してみれば原判決の判断は
ひつきょうにする想像や臆測の範囲を出てはいないものと認めざるを得ない。原判
決は本問出会の場合は不自然不合理の情景であるという。足が人並でないA18被
告がB2の者が予定現場に来ていないからといつて直ぐ迎えに行つたというのはお
かしいという。しかしどうせ其処まで行つたA18被告である。来ると約束してい
る者が予定現場に見えていないとあつては焦躁感と不安にかられて足を延ばしたで
あろうことは容易に推察のできることである。また出会の場面で「今晩は」「お晩
です」と云つたというのもお互に来たなあという安堵感から当然に出てくる挨拶で
はなかろうか。私見を以てすればこの点のA1自白は不自然不合理どころか、当夜
の情景を活写して余すところないものと考えられる。そこには原判示のように解釈
する余地などないのである。原判示はこぢつけ以外の何ものでもない。思うに本問
A1自白に関する原判示の根底にあるものはその云うところのA3アリバイの確実
性、A18及びA1アリバイの高度の蓋然性にあるものであることは判文上明らか
である。その云うところのアリバイの成立が認められるとすれば、まだ話は判るの
である。現場で被告らが出会つたなどとは想像も出来ないことだからである。しか
しそれらアリバイには確実性は固より蓋然性も到底認め得ないものであることは後
に説明するとおりであるから原判示は根底において問題にならないのである。私は
本問に関する原判示をくりかへし読んで見たが、A1弁解を容るべく汲々とし、胸
を張り、肩をいからせて検察官の主張を非難攻撃する虚勢以外頭底に残るものは何
もなかつたことを告白する。
 原判決は「チンピラA1をしてべテラン検察官を苦しめる反対尋問をなさしめ得
たのは一体どこから出て出たかを、心して考えて見るべきである」というようなこ
とをいう。右のような判決文を草する原審の態度こそ心して考えて見るべきであろ
う。
 (ヘ)A1自白の遭遇列車について
 A1自白の中に現れてくる列車は
 (イ)一五二列車(上り貨物列車)
 (ロ)一一二列車(上り旅客列車)
 (ハ)一一五列車(下り旅客列車)
 (ニ)六八一列車(下り機関車一輌いわゆる単機)の四列車である。
 右の他、A1自白によればA1等は帰路いわゆる平石トンネル附近で、転覆列車
である四一二列車に遭つているのである。右四列車の中一一二号列車に関しては既
に述べた。その点のA1弁解の首肯できないものであることは前述のとおりである
から、こゝではこれを省き、こゝではまず転覆列車である四一二列車に出会つたと
いう場面を取上げて論及したい
 この点に関してはA1は。
 九月二三日山本調書では
 「私ども三名はやはり、鉄道線路伝いに金谷川に向つて歩き国道の浅川踏切の少
し手前で踏切警手に見つかることを恐れ線路から畑や土手を通つて西側に出、踏切
詰所をさけて、その踏切の国道をよぎり、畑の中を通つて踏切から約一〇〇米位の
所で鉄道線路に戻り、少し行つたところの踏切から線路の東側に出て田の土手や畑
の中を通り、その次の踏切の所に出てそこから又畑の中を通り保線区裏の小道を抜
け元来た通りにトンネルの上に出てトンネルの上の山道を通り、トンネルを越して
から再び鉄道線路に出、線路伝いに福島に向つて歩き、平田村大字平石地内の割出
を越したところから線路の東側の小道に下り森永工場の西の道に出て北進し、濁川
の僑の南の袂で皆休もうではないかといつて休んだ。」「現場から帰る途中金谷川
のトンネル(平石トンネルのこと)に上る頃客車が福島の方から松川の方に向つて
進行して来た。その列車を見てお互いにこの列車が脱線するだろうと話合つた。私
が脱線すれば死傷者が沢山出るだろうというとA3が「うんそうだな」といつた旨」
供述し、
 九月二五日勾留尋問調書では
 「私達三人は線路伝いに福島方面に帰つた。途中浅川の踏切に来たとき踏切番に
見つかるとまずいと思つて、その踏切番小屋の後を通り、それから又線路に出て、
金谷川の線路班の詰所の後を通り、元来たトンネルの上を通り、又線路に出て割出
の端から平田村の線路の東側に出、それから線路から離れて小径に入り、永井川の
本通りに出、それから森永橋の南袂の土手の上で三人一緒に休んだ。仕事を終えて
帰るとき、金谷川のトンネルの手前で上り列車に会つた」旨供述し、
 一〇月一日、山本調書では
 「私とA18とA3とは、矢張り鉄道線路添いに金谷川駅に向つて歩き出し相当
急いで歩いた。国道の浅川踏切の百米手前で線路に沿つた西側の小さい川に橋かか
かつて居るが、その橋を渡つて西側に出て、その川の土手を通つて国道に出て浅川
踏切の警手詰所を避け、その国道をつき切つて田圃のあぜ道を真すぐ百米許り行つ
て鉄道線路に上り、再び線路上を福島方面に向つて急いで前進した。金谷川駅手前
の金谷川小学校に行く道の約百米手前から又元通つた通りに畑の中を通つて学校に
通ずる道に出、その道路を金谷川駅の方へ進み、その踏切の前を通つて、来る時に
来た通りに踏切から百米位金谷川駅に寄つた道路の上から小高い土手のような処を
上つて斜面になつている畑を突切つて矢張り金谷川線路班の詰所分区長の官舎の裏
の畑の中を通つて元来た機関車待避壕の上に出て、来た時の通りに待避壕の中を通
り、金谷川駅の北の踏切の前に出てトンネルの入口に向つて道路上を進行し、トン
ネルの上の山道を進み、トンネルを越して再び線路の上に戻り、線路上をどんどん
歩いた。それから割山の終つたところで、今度は線路の東側の高い土手を下りて線
路に大体沿うた小道に出、その小道を永井川信号所方向に進み、瓦を製造する家の
側から東の方へ曲り、少し行つたところで北の方へ曲り真すぐ進んで濁川の森永橋
の処に出た。」「申落したが、私等が帰つて来る途中、金谷川駅の直ぐ北にある踏
切前を通つて二百五十米位来たところで、旅客列車らしい汽車が福島の方から上つ
て来る音を聞いた。永年鉄道に居るので、汽車の走る音で貨物列車か客車かという
ことは判るが、その列車の音は客車のようであつたが私らの歩いて居る道と線路と
の間に小高い丘があつて、列車は直接見えなかつた。その時その列車の音を聞いて
A3は「この列車が脱線するだろうな」といつたから私はこの列車が脱線すれば大
勢の死傷者が出るだろう」というとA3、A18は「うんそうだね」といつた」旨
供述し、
 一〇月二日の唐松調書では
 「私とA18、A3の三人は金谷川駅に向つて線路伝いに急いで歩いた。国道の
浅川踏切の百二、三十米位手前の橋を渡り踏切警手詰所をさけその官舎の裏手の田
圃の畦道を突切り、踏切を越した百二、三十米のところから再び線路上に出て福島
方面え急いで歩いた。それから割山を通り越すまで元来た道を通つたのである。私
達が丁度金谷川トンネル附近に来たとき旅客列車に会つた。そのときA3はこの列
車が脱線するんだなあといつたので私は脱線したら随分負傷者が出るだろうなとい
つた。するとA18とA3とはそうだろうなといつた。割山を出てから線路の東側
に出て畦道を抜けて永井川の瓦屋の前を通り森永橋に通ずる道を帰つて来、四時過
頃森永橋に着いたのである」旨供述している。
 以上の供述を対比してみると、その間に精疎の差があり、多少でこぼこのあるの
に気が付く。例えば、九月二三日の山本調書では「その列車を見てお互いにこの列
車が脱線するだろうと話合つた」旨の供述となつているが、一〇月一日の山本調書
では「旅客列車らしい汽車が福島から上つて来る音を聞いた、永年鉄道に居るので
汽車の走る音で貨物列車か客車かということは判るが、その列車の音は客車のよう
であつたが、私の歩いて居る道と線路との間に小高い丘があつて、列車は直接見え
なかつた」旨の供述となつている。「列車を見た」と「汽車の上つて来る音を聞い
た」とは言葉としては確に違う。しかし事は深夜のことであるし第一審検証の結果
より推認される当該場所の地勢から考えれば「上つて来る汽車の音をきいた」の方
が真実味が強いのではなかろうか。しかし見たというも音を聞いたというも当夜の
A1の実感としては言葉のあやとしか考えられない。顛覆列車にたまたま遭遇した
というA1の自白であることには間違いないのである。そのように表現にでこぼこ
があるからといつて、往復路に関するA1自白には一向に影響がないように考えら
れるのであるが、どうであろうか。兇行を犯して線路を伝いまた山道に差しかかつ
て、帰路を急いだであろうA1らが自分達の工作によつてやがて顛覆するであろう
列車に遭遇したのである。いくらA1らと雖も胸にギクリと来たものがあつたであ
ろうと思う。そこで三人の間に交換された言葉が前示のような会話となつて現れて
いるのである。当夜の状景が穿ち得て妙、彷彿として眼に映ずるものは私たけであ
ろうか。A1被告はその弁解の中で顛覆列車に出合つたとすれば右のよう話をする
のは当然だといつている。けだし問うに落ちず語るに落ちたのたぐいであろう。し
かも第一審検証の結果に徴すれば、A1らが破壊工作の現場から引揚げて歩み出し
てからの時間を測定すると大体平石トンネル附近で顛覆列車に遭遇することになる
ことが第一審及び原第二審検証の結果に徴し明認されているのである。以上の理由
で、私は顛覆列車に遭遇したくだりのA1自白は揺ぎのないものと考えるのである。
これに対しA1弁解は次のように云い、原判決はこの弁解を例のような論法で全面
的に容認しいるのである。
 A1弁解「それに今度はお前らは顛覆作業をやつての帰り四一二列車という顛覆
列車とはどこで出会つた、金谷川トンネルあたりで出会つたのだろう」とB191
警視はいつてくる。実際転覆作業などしていない私は答えようがないので、B19
1警視が云つたことに合わせて金谷川トンネルあたりで転覆列車に出会つた」と云
つた(このことについて一、二審で私は自分でいい加減に作つて述べたといつてい
たがそれは間違であつた。なぜ間違いたかというと当時の記憶もなかなか呼び起す
ことが出来ず、よく考えずに証言したのである。それを自白調書が作られた過程を
初めから順序を追うて考えた結果右のように間違つていたことがわかつた。B19
1警視はその転覆列車に出会つた時この列車が転覆したら死者や怪我人が出るだろ
うなあと話し合わなかつたかといつてくる。実際出会つたとしたらそういう話をす
るのは当然なことだろうからこの列車が転覆したら死人や怪我人が沢山出るだろう
なあと話合つたといつた」云々。
 この弁解に対する原判決の要旨は次のとおりである。
 最初の自白である九月一九日B191調書に「金谷川墜道に登る頃、客車が(三
時頃)上つて行つたとあるは極めて注目すべき点である。先きに説明したように、
捜査当局は当時入手していた捜査資料によりB5機関士の目撃した人影が犯人らで
あるとの推定に立ち、脱線作業は当然一一二列車と四一二列車の間従つて午前二時
から三時一〇分の間で、かつA1の自白で線路伝いに帰ることになるから金谷川駅
から駆け付ける救援者に発見されないためには少くとも三時一〇分の三〇分位前に
現場を脱出することにならねばならぬとの想定をもつていたことは殆んど疑を容れ
ない。そして四一二列車の転覆列車が金谷川駅を通過する時刻は三時六分であるこ
とは明らかであるから、前示九月一九日B191調書に「金谷川の墜道に登る頃客
車が上つて行つた」と記載されている事実は九月一九日B191調書の一一二列車
を待避した場面の確証と相俟つて取調官の暗示によつて右「金谷川墜道を登る頃」
「客車が(三時頃)上つていつた」旨の自白が生れたものであるとみて殆んど誤り
はないだろうというのである。B191警視が九月一九日のA1取調べの際所論の
ような想定をもつていたということはその取調調書は勿論記録のどこを見ても確証
付けることは出来ない。原判決がそう思い込んでいるだけのことである。そして仮
にB191警視が所論のよな想定をしていたとしてもその想定に基づいてB191
警視がA1被告に暗示を与え、その結果「金谷川トンネルを上る頃」「客車が(三
時頃)上つていつた」という自白が生れてきたということの判断がでてくる筋合の
ないことは多言を要しない。原判決はここでも慣用の三段跳式論法で飛躍認定をし
ているのである。そうした認定をするについては何かが欠けてはいないか。さきに
述べたプラスXの詮索探究に欠けているのである。いやしくも裁判官という名をも
つた人の判断として左様な非論理的な浮薄な判断があるであろうか。原判決はその
判断を合理的ならしめるために一一二列車とA1被告らの出合の場面を説示したさ
きに示した原判決の論述を引き合に出している。しかし一一二列車に関する原判決
の論断の首肯し難いものであることはすでに述べたとおりであるから、その説明が
顛覆列車の遭遇の場面の説示に役立つものでないことはいうまでもあるまい。原判
決は続いて云う。山本検察官が九月二八日実地検証をしてきた結果、それまでのA
1自白では右四一二列車を見たとあつたのが一〇月一日山本調書では「小高い丘が
あつて同列車は直接見えず、その列車の通る音を聞いたが長年鉄道に居たのでその
音で客車とわかつた」という細かい供述に変つたものであることは殆んど疑を容れ
ない。このように既に説明したような迎合的心境に陥つたA1は「確信的」取調官
によつてまず最初の自白が生まれ、その自白が次々に飴のように自由自在に曲げら
れて育つた跡が余りにも歴然として証拠の上に現われているのである。」云々。犯
行者の供述というものは日時の経過に従い徐々に核心に近づき或は焦点を絞り上げ
てくるものである。そんなことは刑事裁判官の常々体験するところであろう。A1
の右変化したという供述もそれ丈けのものである。それを証拠もないのに検察官の
暗示誘導のままに飴のように自由自在に曲げられていたなどと判断するに至つては
唖然とせざるを得ない。ひつきょうするに原判決の右判断は自由奔放飽くなき想像
力の所産以外の何ものでもない。
 さて、前示(イ)の一五二列車(上り貨物列車)(ハ)一一五列車(下り旅官列
車)(ニ)六八一列車(下り機関車一輌いわゆる単機)とA1が果して遭遇してい
るかどうか(右列車以外にも当夜事故発生前に現場を通過した四一〇、四〇二各急
行列車のあることは証拠上明らかであるが、それらはA1自白の中に現われて来な
いので論及の要を見ない)。この点については原第二審は詳細緻密な証拠調をした
上で、右三列車ともA1らは、A1自白にいう地点では出会つていないことを論証
している。私も記録を精査した結果原第二審がその判決で示した見解に同ぜざる得
ないのである。この点は確にA1自白の弱点である。原判決はこの弱点を衝いて鬼
の首でもとつたように捜査官殊に検察官を激越な語調で責め立てている。その攻撃
武器は例によつて新証拠であり、且つ新証拠を楯とする三段跳式論法である。その
納得し得る底のものでないことはこの点の原判示を具さに読んだ人ならば、何人も
気付くところであろうと思うが、それはともあれ、A1自由中前示三列車との出会
いに関する部分が真実に合致せず、嘘であることには変りはないのである。ではA
1は何故にそのような嘘を述べたのであろうか。私見を以てすれば、それはA1青
年の性格そのものに基因するものでありまた、これに軽々しく耳を傾けた捜査官殊
に検察陣の不用意不手際に基づくものであると考えるのである。後に詳述するよう
に当時のA1青年は事件発生の当夜いわゆるA1予言と称せられる発言を不用意の
間にしているような人柄であつたし、また先に述べたように森永橋附近の検証の際
に自分らに非常に不利益になるような失言を唐突としている青年であつたのであり、
これらの点を本件自白の後における警察においての言動(後述)などに照して考え
ると得意気に軽口をきく青年であつたこと、他方原二審公判における他愛ない質問
振りに鑑み本件弁解(原上告審に提出されたもの)を通覧すればその人為りの如何
にも空々しく且つ図々しくその狡猾さが推量されるのであり(原判決はチンピラや
ナマコ青年といつている)、これらの事実に基づいて考察すれば、前示三列車に関
するA1供述は自分が鉄道マンで列車の運行事情に精通していることを示すべくは
しなくもその軽口から流れ出たものであるか或はその持前の狡猾さに由来するもの
であると考えられないこともないのである。しかも警察側或は検察側がA1の人柄
に乗ぜられ、その発言を不用意に軽々しく受取つたものであると認め得ないわけの
ものでもない(前示一〇月一日の山本調書及び原二審六一回公判における山本証人
の証言参照)。そしてかく解すれば前示三列車に関するA1供述は成程と肯き得る
のであり、そこに捜査官の暗示誘導によつて右供述がなされたものであることを是
認しなければならない間隙などはいささかも認め得ないのである、いつたい、前示
三列車に関するA1自供の嘘がA1自白全般にどのように響くというのであろうか。
毎々繰かえして云うように犯人の供述などというものはすべてを網羅しているもの
ではないと同時に、嘘もあり思い付きもあるものである。穴もあれば歯車の歯の合
わないところがあるものである。それが、犯罪人心理のなせる仕業というものであ
ろう。従つて穴もあり歯車の合わないところがあるからといつて供述全体が真実を
伝えないものであるなどと速断することは極めて危険である。本件A1自白の場合
もその例外ではない。A1自白については今迄も述べこれからも述べるであろうが、
これを全体として大観すれば、前示三列車の点に欠点はあつても大筋は外れていな
いのではないか。しかもそれは後に述べる被告A1、A3、A18のアリバイの不
成立によつて強力に裏打ちされているのである。従つて前示欠点の故をもつてA1
自白が真実を伝えていないなどと断定することはA1自白の評価を全く誤るもので
あつで、到底組みすることを得ない底のものである。況んや、被告A1の弁解を容
認することにのみ急でその自白を全体として観察することを全然無視しその価値を
凝視しようともしない原判決の如きは全く論外である。
 六、実行行為(列車脱線転覆作業)に関するA1自白について
 原判決はA1自白中で最も重要な部分は列車脱線転覆作業そのものに関する自白
であるという。正にその道りである。然るに、原判決は右自白は、客観的事実に一
致しない虚偽架空のものであり、捜査官の誘導暗示に基づくものであるという。で
は、そのように断定されたA1の自白はどのようなものであろうか。いささか冗漫
にわたるが、さらに数回にわたるA1自白中本問に関する部分を列記して原判決を
論評したいと思う。
 昭和二四年九月一九日警視B191に対する供述
 「前略、私ら五人は其処から元、来た線路を通り現場近くの踏切りより約一五〇
米位の処まで来た時に上り客車(二時近く)に会つたので私らは東側の土堤の下の
処にしゃがんだのであります。客車の明りの為め顔が見えるからしやがんだのであ
ります。汽車が通過して又私らは線路に上り計画の場所に向つて行き此処でやろう
と云うカーブの処で二、三分皆んなで休み辺りの様子を眺め度胸を落ちつけたので
あります。
 そしてA3さんに私は見張りをしろと云われたので、自分勝手に松川方面の現場
より約五米位の処で人の来るのを見張つておつたのであります。A18さんも現場
より、五、六米位離れた処で見張り役をしており、A3はスパナで継目板のボルト
をはずしており、松川から来た二人はバールをもつて犬釘を抜いておりました。こ
の仕事を開始したのは二時一〇分と考えております。
 私は松川の者が釘を六、七米位抜いた頃様子を見て居るとまぬるくて見ておられ
ませんので、私も四年三ケ月も線路工手をして腕に自信がありますのでバールをも
つた松川の方(年とつた)方と交代して九米位をとりました。何れも犬釘は外軌を
抜いたのであります。又松川の者と交代して松川の方が六米位とり其の間私は見張
り役をしておりました。A3さんとA18さんも交代でボールトをはずしておつた
様であります。又私らは交代して私が又釘抜きをして約二〇米位外軌をとりました。
又私らはお互に疲れるので交代してこんどは内軌の方の釘を松川の者が六米位抜き、
次に交代して私が八米位抜きました。その抜いた釘はその辺に投げたりまたそのま
まにしておいたのもあります。A3等は継目板を一ケ所(外軌)を取り除いたのは
見ております。此処の軌条は三七キログラムの二五米であることは何回も行つたこ
とや修理を手伝いしたことがありますから判つておるのであります。仕事を始めて
から約三〇分位て終つたと思います。丁度犬釘を抜いた外軌は二五米軌条約二本近
く抜き内軌は約一五米近く抜きボールト一ケ所を完全にはずしたのを見ております
ので、事故を起すに十分なので皆んなで止めたのであります。止めてから松川から
来た者が現場の東の田圃の処にバールを捨てたのでありますがスパナ及び継目板は
何処に捨てたか私はわかりません。チヨツク木(ラツト)等も取つたかもわかりま
せん。何云うても私を初めむ中で仕事をしたで何にがなんだかわからない位でした。
皆んな大汗を流したのです。犬釘やラツト継目板を取つた現場は東は一寸畠があり、
そして田圃が続いており畠の北の処に小さい山見たいのがあります。仕事を終えた
私らにA3さんはここで別れて帰ろう。このことは絶対秘密を守り殺されるとも云
わないことを言い渡されました」
 同月二〇日B191に対する供述
 「私は昨日列車転覆事件をやる迄の経過のあらましを申し上げた筈てありますが、
未だ云い足りないことがありますので思いついた事を云い度いと思います。(中略)
 そして松川の遠方信号所の手前四、五〇米位の処まで行つたら松川の方から二人
が歩いてくるのに会つたので、この同志と行つた線路を引き返して予定の脱線計画
場所につく一寸前の処で上り客車が通過するので私ら五人は線路東側の土堤の下の
低い処にすくんだのであります。この列車が通過するとすぐ線路を下り予定のカー
ブ現場に来て四囲の状況を窺い更に度胸を定めて二、三分間休憩し、A3さんが指
揮で君は何をせよと命ぜられたのであります。線路破壊作業を初めたのは午前二時
一〇分頃であり、私は最初松川方面を見張りに従事したのであります。
 脱線事故を作るにはあの様なカーブは外軌さいはずせば確実なので誰か云うとも
なく外軌の犬釘並ボールトをはずしにかかつたのであります。その犬釘を抜いた状
況は
 外軌の外側の犬釘のみ
 (1)松川からの者ら 七米位
 (2)私が 九米位
 (3)松川からの者ら 六米位
 (4)私が 二〇米位
 次に内軌の外側山の方(西側)
 (1)松川からの者ら 六米位
 (2)私が 八米位
を抜きましたが、中には抜けないものもありましたがそのままにしておきました。
 結局私らは交代にしたのであります。
 抜いたこれらの犬釘は松川の者が山の方にも田圃又は畑の辺りにも投げておつた
様でした。
 枕木は一米に三本あるので枕木一本に犬釘一本の割合て抜いたので全部で五六米
位抜いたことになりますので、一五〇本以上の犬釘を抜いたことになります。
 そしてA3さんとA18さんはボールトをはずす方も交互にやつたのであります。
私としては外軌の継目板を一ケ所だけはすずした事を知つております。しかし何処
に捨てたかはわかりません。
 バールは松川からの者が現場の側の田圃に捨てたようでした。スパナはA3さん
A18さんが何処に捨てたかわかりません。
 軌条は二五米で約二本近くやつたので脱線の自信がついたのでこの位にしようと
いうことになり皆んなで止めたのでした。この時は二時四〇分前後の頃と思います。
仕事は三〇分前後でした。
 別れるときA3さんはしつかりアリバイを作り秘密を守り又殺されるとも云わな
い様にと云うて松川方面の者は松川に帰り、私ら三人は元来た処を通り浅川の踏切
の一寸手前の処で橋を渡りB71の処を通り昨日申上げた通りの場所を経て帰りま
した。」
 昭和二四年一〇月一日検事山本諫の取調に対する供述
 「前略、列車腕線事故の予定地点に着きました。しかし松川から来る予定の者は
まだ来て届りませんでしたのでその辺の現場を見たり等して約三分間程立ち止り様
子を見ましたが、また松川から誰も来ていないことが判りましたので、もう少し先
へ行つて見ようということになり、急がずぼつぼつ松川の方へ歩いて行くと松川駅
の遠方信号所五、六〇米手前で松川駅の方から線路を歩いてくる二人の姿が見えま
したので私は約束の人がやつて来たと直感しました。前に申落しましたが金谷川ト
ンネルの上り口の処でA3が浅川踏切の先のカーブの処まで行けば松川から二、三
人来て待つている筈だからと云いましたので私はその晩松川から応援者が二、三名
確実に来るということを知つていたのであります。松川遠方信号所の手前五、六十
米の処で松川方面から来た者に会うまで間余り話もせず煙草もトンネルの上の山を
越すときに一本喫んだ丈であります。松川のものに会うとA3がお晩ですと声をか
けたら松川から来た二人の内一人は「お晩です」と言い、一人は「今晩は」と言い
ました。私もA18も「お晩です」と言いますと一人は「お晩です」と言い、一人
は「今晩は」と言つた様であります。此の二人は勿論私の知らない人でありますが
一人は年齢二十二、三歳位、丈五尺三寸位、丸顔、長髪で頭を分け油をつけ、開襟
国防色様のシヤツ、黒のズボン短靴で、言葉は地方弁で、バーを持つて居りました。
他の一人の人は年齢二十一歳位、丈五尺三寸位、面長で少し髪を伸ばし漸く分けら
れる程度で、白のワイシヤツ、黒のズボン編上靴を穿いている様で、自在スパナを
持つて居りました。言葉は都会育ちの者の様でありました。其処で二、三分立止つ
てA3が何か話している様でありました。その中にA3がこれから現場へ行きまし
ようと言ひまして松川から来た二人を加へ私等五人は私等が二人で通つて来た元の
線路上を引返し予定の現場へ向つて歩きました。歩いた処は矢張り金谷川に向つて
線路の東側を通つて進んだのであります。此の時も余り急ぎませんでした。予定現
場から松川駅の方へ百五十米か二百米の処まで来ると上り客車が参りましたので、
私等はその列車の前照燈によつて顔を見られてはいけないと思い線路の東側の土手
へ二、三尺降りて顔を東側の方へ向けてしゃがんだのであります。汽車が通過して
から又線路に出て予定の現場へ着き二、三分休んで辺りを眺め度胸をつけて居りま
すとA3が「人が来るといけないから早く取り掛ろう」と申しますので、仕事に取
掛ろうとしたらA3は私に対しお前は見張りをして居れと言うので私は勝手に松川
方面の見張りをする為に現場より五十米位松川の方へ出て見張りをして居りました。
A18も見張りをしろと言われた様で現場より五、六米金谷川方面に離れた地点で
金谷川方向の見張りをして居りました。A3はスパナで外軌の継目板のボールトナ
ツトを外し始め、松川から来た顔の丸い方の人がバールを持つてA3が継目板を外
す側から外軌の外側の犬釘やチヨツクを抜き始めました。松川の面長の人は抜いた
犬釘やチヨツクやナツト等を附近へ投捨てたりしている様でありました。此の仕事
に着手したのは判然した時刻は判りませんが十七日の午前二時頃と思います。松川
から来た者が犬釘を抜いている処を見ているとまどろくて見て居られませんので、
私はその男が犬釘やチヨツクを六米位抜いた処で交替しようと言つてバールを受取
つて交替し、それに引続いて、外軌の外側の犬釘やチヨツクを約九米許り抜いたの
であります。その中犬釘二、三本とチヨツク一個は枕木に喰込んで居つて仲仲抜け
ないし仕事も急いで居りましたので其の儘にして置いたものもあります。それから
又松川の面長の男が今度は僕が交替しようと言つて私からバールを受取り私が抜い
た外軌の外側の抜いた犬釘に続いて約六米位犬釘やチヨツクを抜いたのであります。
それから又私も交替しようと言つてそれに引続いて約二十米位チヨツクや犬釘を抜
いたのであります。併し此の二十米位の区間の内、犬釘六、七本とチヨツク三、四
本は枕木に喰込んで居て仲々抜けないので前儘にして置きました。その時私が反対
側の内軌の外側の犬釘やチヨツクも抜いた方がいいかなあと申したので松川の丸顔
の男が「そうだ」と言つて私からバールを受取り内軌の外側の犬釘やチヨツクをA
3が継目板を外している附近から六米許り抜きました。それから又私が交替しよう
と言つてそれに引続いて八米許り抜きましたがその区間も犬釘二、三本とチヨツク
が二、三ケ所抜けなくて其儘にして置いた処があつた様です。私が相当の経験者と
して犬釘やチヨツクの仲々抜けないのを其儘にして置いたのがありますので松川か
ら来た人の抜いた個所にも抜けなくて其儘にして置いた犬釘やチヨツクもあつたと
思ひます。その抜き取つた犬釘やチヨツクは手の空いている者が附近に投げ捨てた
りして居りました。チヨツクを抜く時は軌条をテコ台にしたり外側からテコ台にす
る為に石を置いたり又テコ台を何も使はずにチヨツクそのものにバールを当てて抜
いたのであります。此の間A3がやつて居つた継目板外しの仕事をA18が時々交
替し手伝つてやつて居る様でありました。その中私等がバールで内軌の犬釘を抜き
掛る時分にA3は継目板を一ケ所を完全に取外したのを見ました。結局二十五米長
さの外軌一本とその次の外軌一本の八分通りの外側の犬釘チヨツクを少しは残つた
が大体抜き取り、その反対側にある内軌の外側の犬釘やチヨツクを合計十五米大体
に於て抜き取り、継目板一ケ所を完全に取外しましたので、列車脱線の事故を起こ
させるに十分の措置が出来たと思ひましたので私が「もう大丈夫だ」と言ひました
ら他の者も「大丈夫だ」と言つて止めたのであります。私が事故を起すのに十分な
処置が出来たと言つたのは私が線路工手としての四年以上の経験で継目板を外し外
側の犬釘やチヨツクを五米以上も抜けばカーブの処では絶対に脱線すると言ふ事を
知つて居りましたのでもう大丈夫だと言つたのであります。尚その現場は列車の速
力も五、六十粁は出す処であらうと考へても居りましたので特にそう思つたのであ
ります。此の脱線処置の仕事をしたのは約二、三十分間であつたと思ひます。その
仕事は皆夢中になつて大急ぎでやりました。それで私も抜けない釘は其の儘にして
置いた様な訳であります。私は其の仕事を一所懸命でやつたので相当汗をかきまし
た。私が犬釘等を抜く仕事を止めてバールを線路の上に置きましたら松川から来た
男が現場の東側の田圃の中にそのバールを捨てたのであります。スパナや継目板は
どんなに処分されたかは私は気付きませんでした。その現場は線路の東側に小さい
畑があつて畑の東側は田圃であつて畑の北の方に小さな岡があり線路の西は高い土
手でその上は余り木のない山の様でありました。此の仕事が終つた時、A3は吾々
に対し「此処で別れて帰らう、此の事は絶対に秘密を守つて殺されても言はないと
言ふ事を誓つて貰ひ度い」と言渡しました。松川からの二人の者は「左様なら」と
言つて現場から松川の方へ向つて線路伝ひに帰つて行きました。私とA18とA3
は矢張り鉄道線路沿いに金谷川駅に向つて歩き出し相当急いで歩きました。(中略)
それから話が前後しますが脱線処置の犬釘やチヨツクを抜いた数でありますが、二
十五米の軌条一本に枕木が三十八、九本ありまして、犬釘は枕木一本に外軌、内軌
共軌条の両側に一本宛、チヨツクは外軌、内軌共両側丈けで大体枕木三本に一ケ所
宛付いて居ります。夫れで先程御話した通りの軌条の長さの内軌外軌共外側丈けを
抜いたのであり、その中少しは抜けないのは残しましたので抜いた犬釘の合計は八
十数本位、チヨツクの合計は二十個足らずだと思いますが判然した事は判りません。
それからその夜の天候でありますが私がA3A18等と一緒に為つて行く途中トン
ネルの少し手前で雨が少し降りましたが二、三百米行く中に止んで夫れからは降り
ませんでした。仕事をして居る時は十米位離れれば人の姿が判らなくなる位の明る
さでありました。現場で仕事をしている時は勿論燈火等点ける訳に行きませんので
かんでバールを差込み犬釘が嵌らない時はしゃがんで見付けて抜いたのであります。
松川から来た者は自在スパナを持つて来ましたが通常継目板のボールトナツト外す
時は使はないものであります又犬釘を抜いている模様を見ても鉄道方面に関係があ
つてその方面の仕事を良く知つている経験者であるとは思われません。松川の二人
は線路工事には素人の者ではないかと思います」云々(後略)
 昭和二四年一〇月二日裁判官唐松寛の取調における供述
「問 それでは今告げた様に証言を拒むことができるかどうか。
 答 外の者に馬鹿にされ手先に使われて今考えると本当に残念でなりません。そ
れで今後は真面目に働きたいと考えておりますのでこれから問われることについて
本当のことを申上げ自分の過去のあやまちを少しでも清算したい気持でおりますか
ら何んでもお答い致します。(中略)
   私達の予定した脱線現場につきました。然し松川から来る筈の者がまだ来て
いないのでその辺りを二、三分立止り様子を見たがまだ松川から誰も来ないのでA
3は松川から此処え来る約束なのになぜ来ないだろうと云つていましたが、もう少
し待つて見ようと云うことになり急がずにぶらぶら松川駅の方に歩いて行くと松川
駅の遠方信号機に五、六十米位手前で松川駅の方から線路上を歩いて来る二人の姿
が見えたので私は松川の人が来たと直感しました。其処で松川の人二人に会つたの
でA3は「御晩は」と声をかけたら松川からの一人の人は「お晩です」と云い一人
の人は「今晩は」と云いました。それで私もA18も御晩ですと云いました。そこ
で二、三分位立止つてA3が何か話をしている様な様子でしたがA3がこれから現
場に行こうと云いまして松川から来た二人と共に私達五人は前に来た線路上を引返
し予定の現場え向つて歩きました。その時も余り急ぎませんでした。それから予定
現場から松川駅より一五〇米位の処まで行くと上り客車が来ましたので私達はその
列車の明りで顔を見られては大変だと思い線路の東側の土手を二、三尺下り顔を東
側の方え下を向けしゃがんで列車が通過してから再び線路に出て予定の現場に着い
たのであります。
 問 松川から来た二人は何か道具をもつていたか。
 答 一人がバールを持ち一人がスパナを持つて居りました。
 問 その二人はどんな人相であつたか。
 答 一人は年令二三才位で背が五尺三、四寸位丸顔頭の髪を分け服装は開襟国防
色の様なシヤツ、黒の様なズボン短靴をはき無帽言葉は地方弁でした。その人がバ
ールをもつてきたのです。他の一人の人は年令二十一、二才位丈は五尺三、四寸位
顔は面長で髪はやつと分けられる程度でした。服装は白のワイシヤツ黒のズボン編
上靴無帽でした。その人は自在スパナをもつてきたのです。言葉は都会弁の様でし
た。
 問 現場え着いてからA3A18松川から来た二人はどうしたか。
 答 予定の現場に私達は着いたので私達は二、三分休んで辺りの様子を見、度胸
を据えていますと、A3は人が来るといけないから早く取り掛かろうと申しますの
で私達は仕事に取り掛ろうとしたら、A3は私に対し見張りをして居れと云うので
私は現場から松川方面え五米位出て松川の方を見張つておりました。A18もA3
から見張りをしろと云われた様で現場より五、六米金谷川方面に出て同方面の見張
りをしておりました。
 問 それからどうしたか。
 答 A3がスパナで外軌の継目板のボルトナツトを抜き始め松川から来た顔の丸
い方の男がバールをもつてA3が継目板を外しているところから外軌の外側の犬釘
やチヨツクを抜き始めました。それで松川の面長の人は丁度手があいていたのでA
3や松川の丸顔の人が抜いた犬釘やチヨツクやナツト等を附近に投げ捨てて居た様
子でした。ところが松川から来た丸顔の男が犬釘の抜いている処を見ていますと、
私はまどろくて見て居られないので私はその男が犬釘やチヨツクを六米位抜いた処
で交替しようと云つてバールを受取り、それに引続いて外軌の外側の犬釘やチヨツ
クを約 九米ばかり抜いたのであります。私が犬釘を抜いた中二、三本抜けないの
がありました。又チヨツクも一個位は枕木に喰い込んでいてなかなか抜けなかつた
ので往事も急いでいたのでそのままにしておきました。それから又松川の面長の男
が今度僕が交替しようと云つて私からバールを取り私が抜いた外軌の外側の犬釘を
続いて約七、八米位犬釘やチヨツクを抜きました。
   それから又私が交替しようと云つて引続いて約二〇米位犬釘やチヨツクを抜
いたのであります。その時も犬釘六、七本とチヨツクが二、三個どうしても抜けな
いのでその儘にしておきました。
 問 それからどうしたか。
 答 その時私は外軌の方はもうこれでよいと思い、内軌の外側の犬釘やチヨツク
も抜いた方がいいがなあと云つたので松川の丸顔の男がそうだと云つて私からバー
ルを取り、内勤の外側の犬釘やチヨツクをA3が継目板を外している辺りから六米
余り抜きました。それから又私が交替しようと云つてそれに続いて八米ばかり抜き
ましたがその時も犬釘二、三本とチヨツクが二、三個ばかり抜けなくつてそのまま
にしておいたものがあつたように思います。私が四年三ケ月も線路工手としての経
験をもち相当の自信をもつていても犬釘やチヨツクが中々抜けないのでそのままに
しておいたものがありますから松川から来た人の抜いたところにも抜けなくてその
ままにした犬釘やチヨツクもあつたと思います。
 問 抜いた犬釘やチヨツクはどうしたか。
 答 先程申上げたとおり手のあいた者が附近の畑や田圃に投げ捨てました。
 問 犬釘やチヨツクはどう云う風にして抜いたか。
 答 軌条を手こ台にしたり外側に石を置いてそれを手こ台にしたりしてバールを
当てて抜いたのであります。
 問 継目板は取り外したか。
 答 私達が犬釘やチヨツクを抜いている間A3とA18が時々交替してやつてい
る様でありました。私達が先程申した涌り内軌の犬釘を抜き始める時分にA3は継
目板一ケ所を完全に取り外したのを見ました。
 問 結局仕事をしたのはどの位か。
 答 二五米長さの外軌一本とその次の外軌一本の三分目位の外側の犬釘とチヨツ
クを大体抜きとり内軌の外側の犬釘やチヨツクを大体十四、五米位抜き取り継目板
一ケ所を完全に取り外したのであります。
 問 その仕事にかかつたのは何時頃か。
 答 二時一〇分頃ではないかと思います。
 問 その仕事を了えてからA3達はどうしたか。
 答 前に申上げました通り相当犬釘やチヨツク抜き継目板一ケ所も完全に取り外
したので私は列車脱線事政をおこさせるにはこれで十分だと思つたので、私はもう
大丈夫だと云いましたら外の者も大丈夫だろうとかそうだろうとか云つて止めたの
であります。
 問 証人がもう大丈夫だと云つたのはどうして左様な事が云いるのか。
 答 それは私の前申上げました通り線路工手として相当の経験があつて前申上げ
ました様な仕事をして居るので絶対に脱線すると云うことを知つていたので左様に
云つたのであります。又その現場附近は列車の速力も相当出すだろうと思つたので
左様に云つたのです。
 問 その仕事をするのにどの位の時間がかかつたのか。
 答 多分二、三十分位かかつたと思います。
 問 すると何時頃に終つたことになるのか。
 答 仕事を終つたのは二時三、四十分頃ではなかつたかと思います。
   その仕事は皆夢中になり大急ぎでやり一生懸命だつたので相当汗もかきまし
た。
 問 先程証人が云つた軍手はその時使つたか。
 答 はい使いました。
 問 外の者も皆軍手をはめていたか。
 答 その点は気がつきませんでしたが皆が注意深くその仕事をしたので多分指紋
の点を考えはめていたのではないかと思います。
 問 仕事に使つたバールやスパナはどうしたか。
 答 私が内軌の犬釘を抜いてからバールは線路の砂利の上においたところ松川か
ら来た男だつたかも知れませんが現場の東側の田圃の中にそのバールを投げ捨てた
様でありました。
 問 スパナや継目板はどうしたか。
 答 それは私は気付きませんでした。
 問 その晩の天候はどうであつたか。
 答 一時(午前)一寸前に少し雨が降つた様な訳でその晩は曇つており割合暗い
晩でした。
 問 人の顔は誰か見分けがつくか。
 答 よく側え寄つて見ればどんな顔の人よ判りますが少し離れるとなかなか見分
けが付かない位でした。
 問 現場の仕事が終つてからどうしたか。
 答 この仕事が終つたときA3は私達に向つてこゝで別れて帰ろう、この事は絶
対に秘密を守り殺れて云わないということを誓うと申した処、松川からの二人の男
は左様ならと云つて現場から松川の方え線路伝いに帰つて行きました。
   私とA18と本田の三人は金谷川駅に向つて線路伝いに急いで歩きました。」
云々。後略
 叙上の各供述を全体的に展望し(原判決の用語を借りる)且つこれを比較検討す
るとその細部に多少の喰い違いや曲折はあるにはあるが、その大筋からはいささか
も外れていず、供述の一貫性は保たれているのではなかろうか。しかもA1自身が
体験した事実でなければ到底述べ得ないような状景が随所に現われているのである。
その顕著な点を挙げれば松川の者の作業がまどろこくて見ていられないので自分で
やつたというが如きである。この供述など暗示や誘導で引き出し得る底の供述では
ない。頭の底に記憶として残つているものでなければ引き出し得ようにも引き出し
得ない供述である。然るに原判決はこの点を事もなげに次の如く云い放つているの
である。すなわちB2側の者は未経験者なのだからそのようなことは取調官として
当然考えることであつてこの点はB191警視の暗示があつたとのA1弁解は首肯
できる云々と。ところが右供述はB191警視の前ばかりでなく唐松裁判官の前で
も同じように述へているのである。
 いな、右問題の供述ばかりではなく列車脱線転覆に関する全供述がそうなのであ
る。原判決は唐松裁判官に対するA1の供述も亦唐松裁判官の暗示誘導に基づくも
のであるというのであろうか。裁判官の名をもつ人がそうしたいまわしい暗示や誘
導によつて供述を得ようと試みるであろうかという点のせんさくは別論として、仮
にB191警視が暗示誘導によつてA1の前示供述を引き出したとしてもそれから
約一〇日も後に行われた唐松裁判官の取調においても右の暗示誘導が持続性をもち
A1をしてB191警視の前で述べたと同じような供述をなさしめたというような
ことに全く考えられないことである。又、いくらA1が愚かであるとしても、一貫
して同じような供述を繰り返えすものとは考えられない。然るに原判決は激しい語
調でA1の右自白が虚偽架空のものである、捜査官の暗示誘導に基づくものだと云
い、A1の弁解をたやすく容認しているのである。ではA1はどんな弁解をしてい
るのであろうか。左にそれを掲げて論評を進めるわけだが、右弁解を一読した人は、
それが如何に空々しく図々しいものであるかを見て取られるであろうし、一方これ
を全面的にやすやすと容認している原判決が如何に安直で、理不尽のものであるか
を感じとられるであろうことを信ずるものである。
 「B191警視は『お前ら五人で現場に行つて、誰がどんなことをやつたのだ』
といつてくる。私は考えて、A3という者多分機関区の出身者だろうから(当時そ
う思つていた)、スパナで継目のボルトを取り外しにかかつたといつたらいいかも
知れないと思い、『A3はスパナで継目のボルトを取り外しにかかりました。また
松川から来た丸顔の者はバールでA3が継目を取り外しにかかつたところから、レ
ールの外側の犬釘を抜き始めたのです』といい加減なことをいつた。『お前やA1
8はどうしたのだ』というので『私とA18の二人はA14に見張りをしろといわ
れて見張りをしておつたです、といい加減のことをいつた。それに、B191警視
は『松川から来た丸顔の者は素人でバールで犬釘を抜くのは、とてもまどろこくて
見ていられない位だつたろう』といつてくる。私はそれは合わせて、『とてもまど
ろくて見ていられなかつたです。それで、私が松川の丸顔の者が約六米位犬釘を抜
いた所で、バールを受取つて、犬釘を抜いたのです』と、いい加減なことを作つて
いつた。B191警視は、『それからどうした』というので、『私がバールで犬釘
を約九米位抜いたところで松川の面長な者にバールを渡して交代しました』といつ
た。『その間A18はどうしておつた』というので、『A18はA3と二人でボル
トを取り外しておつたようです。』といい加減にいつた。B191警視は『そのあ
とお前は交代しなかつたか』というので、私は自分が元線路工手だつたことからし
て一番多くやつたように見せなくてはうまくないだろうと思い『松川の面長の者が
七、八米代犬釘を抜いた所で、私は交代して、私が約二十米位犬釘を抜き取りまし
た』といい加減にいつた。B191警視は、『お前らは大体レールニ本位の犬釘を
抜き取つたのだろう』というので、私はただいい加減に、『そうです』と答えた。
それに、B191警視は、『お前らは反対側のレールの犬釘を抜かなかつたのか』
というので、私は反対側のレールの犬釘を抜かなかつたといえば、まずいんだろう
と思い、『松川の丸顔の者が約六米位、私が約八米位反対側のレールの犬釘を抜き
ました』といい加減にいつた。B191警視は、『その仕事は大体二、三〇分間位
でやつてしまつたのだろう』というので、私は、ただいい加減に、『そうです』と
いつた。B191警視は、『お前らは作業をやめて使つたバールやスパナなどどう
したんだ、田圃の中に犬釘と一緒に投げ捨ててしまたんだろう』といつてくるので、
私は当時の新聞でバールヤスパナは田圃の中に捨ててあつたということが書いてあ
つたことを思い出して、そしてB191のいうことに合せて『バールやスパナは田
圃の中に捨ててしまつたのです』といつた。」
 「九月二四日午後山本検事、大沼副検事、B75事務官らが保原署に来て、山本
検事から煙草十四、五本貰い、署側からお盆にリンゴを山盛りに持つて来るのであ
る。そして二三日に聞かれたことを聞き返され、前と喰い違うと、山本検事は『君、
それはこうだつたんではないか』といつて助け船を出すようとして聞き返す。そし
て前日の調査を見てもの足りない部分があると、書きかえて行く。例えば、前日の
調書に、取り外した継目板が一ケ所ともなんとも書かれてないので、『君、A3が
継目板一ケ所を完全に取り外したのを見たろう』といつてくるので、私は山本検事
のいうことに合せて『見ました』というと、調書に『A3は継目板を一ケ所完全に
取り外したのを見ました』というように書きかえるのである。……夜になつて、山
本検事は、B1労事務所でどのように相談したか、その人の位置の図面と、転覆現
場の誰がどういうことをやつたかという図面を書いてくれたといわれた。B1労事
務所の様子は前に何回も出入りして居つたから大体わかつており、誰がどの席に居
たかはいい加減に書いた。転覆現場は前に線路工手していた時その現場附近を歩い
ているから線路の曲線はわかつており、ただ、供述調書にあるA18はどこで見張
りをしたとか、A3が継目板を取り外している所から、松川の丸顔の者が何米位抜
き取り、そしてまた、内軌の外側の犬釘をも松川の丸顔が何米、私が何米抜いたと
いうふうにその図面を書いた。だが、実際に転覆作業をやつていない私は、どつち
の方に向つて犬釘等を抜き取つて行つたと書けばよいのかわからなかつた。」
 「923山本調書についている図面(これは九月二四日夜書かせられたもの)を
除いては、みな、犬釘、チヨツク抜き取りが松川方面に向つて抜いたとも金谷川方
面に向つて抜いたとも書かれてないのである。それにこの923山本調書に添付さ
れている図面だつて、初め私は、金谷川方面に向つて犬釘、チヨツクを抜き取つて
いつたように書いたのである。で、その図面を私の側に居たB75事務官に見せた
ところ、B75事務官は『君、金谷川方面に向つて犬釘、チヨツクを抜いて行つた
のではなくて、松川方面に向つて犬釘、チヨツクを抜き取つて行つたのだろう』と
いわれて、私は『これは間違いました』といつて、もう一度、その転覆現場に関す
る図面を新たに書き直して出したのである。で、私はこれで初めて、犬釘等が金谷
川駅の方から松川駅の方に向つて抜かれておつたということを知つたのである。…
…自分の云つた嘘が無実の人を死刑にさせることになるものだということは少しも
考えなかつた。でも、やはり、このように嘘をいつて最後にどうなるんだろうと悩
む時があつた。だが、その悩みも、ピンポンや将棋で楽しまされ、検事や警察官か
ら御機嫌をとられるに従つて自然と忘れてしまつた。」云々。
 原判決は、A1自白は客観的事実に合致しないが故に、虚偽架空のものであると
いう。そのいうところの理由は次のとおりである。
 (一)A1自白は継目板の取外しが一ケ所しかないと云つている、然るに実際は
二ケ所取外されているのである、自己の体験した事実がそのように間違う筈はない。
それによつて見るもA1自白は嘘の自白だというのである。
 継目板がニク所取外されていることの真実であることは原判決の云うとおりであ
る。しかし前示A1自白の供述調書を熟読吟味しこれを展望して考えるに、A1自
白は継目板は一ケ所しか取外していない、原判決にいわゆる限定的意味において述
べているものとは、必ずしも解し得られないのである。むしろ自分の見た範囲にお
いて、自分の知る限りにおいては一ケ所が取外されているという意味で述べている
ものと解し得られる余地が十分にあるのである。何分、深夜くらやみの中で汗を流
しつつ大急ぎで交る交る破壊作業に従事したというのである。A1としてはもう一
枚の継目板が取外されていることを見落しているかもしれないのである。そして作
業量をお互に語り合つた形跡も認められないのであるから、A1としては自分の知
る限りにおいては継目板の取外しは一ケ所だと発言するのは当然であろうし、その
ように考量するのが作業当夜の状況から観察して筋に合うのではなかろうか。従つ
てA1自白の継目板に関する部分に執着して本件作業に関するA1自白が客観的事
実に反するなどと云つて、A1自白が根底から揺ぐように論究する原判決は一面を
見て他面をな見いたぐいのものである。
 (二)原判決はA1自白ではA1らが抜き取つた区域の犬釘が合計八五、六本、
チヨツクニ八個であつてその間犬釘一〇本ないし一三本、チヨツク六個ないし八個
は抜けないでそのままにしたとしても、犬釘七〇数本、チヨツク二〇個は抜き取つ
たことになるが、後に発見収集されたものは結局犬釘三八本チヨツク一二個に過ぎ
ない。尤も事故発生直後の現場保存は不十分であつたものと認められるから実際に
抜き取られた数は発見された数よりも多いことは十分想像されるが、それにしても
A1自白における抜き取り数に実際の抜き取り数との差は余りにも甚しく、このよ
うな客観的事実に反する点こそはA1自白の虚偽架空であることの一証左であると
力説する。しかし、さきにも述べたとおり、深夜くらやみの中で大急ぎで交る交る
やり、自分は見張もやつたという作業である。A1としては自分以外の者が犬釘を
何本チヨツクを何本抜いたか一々見ていたわけでもないのである。従つてA1の犬
釘チヨツクの数に関する記憶、延いてその供述は必ずしも正確を期し難いものと認
めねばなるまい。そして脱線した列車は道床砂利の中にめり込みながら走つたこと
が検察事務官検証調書書添付写真から認められるのであるから、その際に、犬釘や
チヨツクが散乱し或は道床砂利の中に埋没し、それが収集できない状態で残存して
仕舞つたであろうことも容易に想像される。現に原二審の検証の際にも犬釘何本か
発見された事実があるのである。してみればA1の犬釘チヨツの数に関する自白が
客観的事実に反するものと必ずしも論断できるわけのものでなく、従つてこの点の
自白がA1自白を揺り動かす程のものではないのである。
 (三)原判決は「B73鑑定書、B74鑑定書、本件列車脱線転覆事故報告報告
書を綜合すれば、外軌の切断個所から上り一本目のレールの内側の犬釘チヨツクも
相当数抜き取られていた疑が極めて強く、さすれぼA1自白の限定的供述と客観的
事実が完全に喰い違うことになるという。しかしB73、B74各鑑定書、本件列
車脱線転覆事故報告書をし細に検討すれば、右のように「……疑が極めて強い」な
どという判断には到底到達し得ないものであること判明するのである。そればかり
でなく、脱線始点から上り方面一本目外軌内側の、犬釘の中一本目枕木の犬釘が抜
かれていることは争い得ないが、二本目枕木のものは証一号の八の枕木の存在及び
原二審二六回公判における証人B75の供述により抜かれていないことが明瞭とな
つているのである。従つてこの点のA1自白が客観的事実に反するとの原判決の疑
は原判決の独断から発する疑であるという外はないのである。
 (四)また、原判決は次の如き趣旨のことを力説強調する。
 いずれも勿論A1供述を対象としての事であるが、
 九月二三日の検事山本諫の調書では
 「その時私は反対側の内軌の外側の犬釘やチヨツクを抜いた方がいいなあと申し
たので松川の丸顔の男がそうだといつて私の手からバールを受取り内軌の外側の犬
釘やチヨツクをA3が継目板を外している前辺りから六米ばかり抜きました。」
 同一〇月一日の同じ検事の調書では、
 「その時私が反対側の内軌の外側の犬釘やチヨツクを抜いた方がいいなあと申し
ましたので松川の丸顔の男がそうだといつて私からバールを受取り内軌の外側の犬
釘やチヨツクをA3が継目板を外している附近から六本ばかり抜きました」
 同一〇月二日裁判官唐松寛の調書には、
 「その時私は外軌の方はもうこれでよいと思い内軌の外側の犬釘やチヨツクも抜
いた方がいいなあと云つたので松川の丸顔の男がそうだと云つて私からバールを取
り内軌の外側の犬釘やチヨツクを外している辺りから六米ばかり抜きました。」
 以上の供述があるのであるが、C継目(列車事故の脱線始点の外軌すなわちカー
ブ外側軌条の継目を仮称A継目とし及び同所から上り方面に数えて一本目と二本目
の外軌継目を仮称B継目とし、A継目に対応する内軌即ちカーブの内側の軌条の継
目を仮称C継目とする)の点は特に重要である。というのはC継目から上り方面に
向つて一本目の内軌の犬釘、チヨツクが抜き取られていないとみられる公算が大で
あることである。
 検察事務官検証調書、同添付見取図及び写真(特に一一、一八、一九)、証一八・
一号の一の8の写真を総合すれば、切断個所から上り方面一本目乃至三本目の枕木
の内軌外側、内側とも犬釘が抜き取られておらず、かつ、上り方面三本目の枕木の
内軌チヨツクは抜き取られていなかつたこと、右内軌のC継目の継目板のノツツに
打つてあつた犬釘は、下り方面一本目の枕木の内軌内側の犬釘一本たげ抜けていた
が、これはC継目が切れた際引張られて抜けたものに推認されること、及び右内軌
の軌条は前記一本目乃至三本目までの枕木に附着したまま外側に移動し、、四本目
以上の枕木は車体または砂利等の下に埋没し或は線路附近に散乱していたことが認
められ、右の諸事実と、外軌は飴のように曲りくねつているが、内軌は外側に移動
しただけであること、C継目の継目板については、事故前何らの破壊作業もなされ
ていなかつたこと、継目板を取り外さずに犬釘等だけを抜き取つても無意味である
こと等を併せ考えると、右三本目の枕木について、犬釘チヨツクが抜き取られてい
なかつたことは明確であるが四本目以上の車体や砂利の下に砂利の下に埋没して不
明な部分の枕木についても軌条に附着したまま移動しただけで即ち犬釘チヨツクは
抜き取られていなかつた公算が大きく、少くとも右三本の枕木について明確不動で
あり、この事はA1の前示供述が虚偽架空のものであること、少くとも右三本の枕
木についてはその供述が全く虚偽架空であることが確認されたというのである。
 ところでA1の問題の供述が虚偽架空のものであるとしても、列車の脱線転覆と
いう現実の事態にどれだけの響きをもつものであろうか。列車の脱線転覆に関する
A1の全自供から右供述を差引いても脱線転覆という現実は肯定できるのである。
右虚偽架空である自白が真実でなければ列車の脱線転覆という事態が発生しないと
いう程に価値のある供述であるならば格別そうでないなら右供述を仰々しく取上げ
て虚偽架空であると痛論してみたところで余り意味はないもののように思うがどう
であろうか。右供述の虚偽架空のことがA1自白の欺瞞性の一有力な証左であると
いう風に原判決の趣旨を善解してみても、A1自白というものはそんな脆弱なもの
でないことはA1の全供述を熟読吟味してみれば容易に気付くことである。況んや
虚偽架空のものとされたA1の供述はしかく論断できないものであることの数々の
論拠あるにおいておやである(この点は記録を精査すれば窺知できるところである
が、冗長になるので省略する)。
 (五)原判決は「証一号の四のボルトは本件A継目から抜きとつたものとされて
いるものであるが、当審証人B9の証言によると、右ボルトのネジ山が潰れた所が
ありボルトにハンマーの打撃痕とみられる数個のあとがあつて、同ボルトは胴がく
びれていてナカナカ継目板から抜けないのでハンマーで叩いて抜きとりその際ネジ
山が潰れたものとみられる。そうだとすると、これはA1自白に出てこない新事実
であり、A1自白が虚偽であることを如実に証明するものである」という。しかし
右B9証人の供述によつて、仮に原判決いうところの打撃痕が認められるとしても、
そのことから、どうしてA1の自白が虚偽であることを如実に証明するものだとい
う論結になるのであろうか。そうした断定に到達する過程に何か断層があるように
私には思われるのである。そのような断定をするにはA1において右のような打撃
痕を残すことを必ず供述するものとの前提に立たなければならない。然るにA1の
場合そのような前提があるものは記録の何処をさがしても見当らないのである。原
判決は例によつてその慣用手段である三段跳式法を採り跳躍判断をしているのであ
る。況んや右B9の証言をしさいに検討すれば原判決のいう打撃痕は必ずしもハン
マーによつて出来たものと認め得ざるにおいておやである。
 (六)原判決は事件発生当時の本件現場の保守状況は良好であつて、ボルト、ナ
ツトの緊締度が低かつたものとは到底考え難いと認定した上、常識的にいえば素人
が証一号の五の自在スパナで、当時本件現場の継目二ケ所のボルト、ナツト八個を
全部緩解できるということは、始んど偶然に近いといつても敢えて差支えないとい
う。しかし、原判決によれば、松島、利府間の線路で行なつた自在スパナによるボ
ルト、ナツト抜き取りの実験においてB76鑑定人が特定の連続したナツト九個を
緩解することに成功したというのてあるから、本件現場における当夜の緩解が必ず
しも不可能と断定することはできない。のみならず、犯罪は可能のギリギリの線で
なされることが往往にしてあるものである。そこでは常識など通用しない。火事場
で想像もできないような力が発揮されるのと同じようなものであろうと思う。従つ
て実験の結果に反するからということだけて一概に片付けられないのが犯罪の現実
である。故に本件の場合もA1自白に現れてくる所為が客観的に絶対不能と認めら
れない限りA1自白の真実性は否定すべくもないのである。
 (七)原判決はまた次の如くいう。
 「さらに、列車の脱線顛覆作業は、列車通過の合間を狙つて敏速に敢行せねばな
らぬ仕事であるから、誰が考えても時計は是非とも必要であろう。
 A1は926山本調書で、「その晩は、私は一回も時計は見ておりまん」と、態
態供述している。時計を持つていれば当然時計を見た筈であるから、時計を持つて
いなかつた趣旨とみるほかはないてあろう。そうして、態々時計のことを尋ねてい
るのは、取調官が時計の点の重要性に気付いている証左であるから、他の同行者の
A3なり、A18なりが時計をもつていたかどうかを尋ねていない筈はない。それ
が、A3もA18も誰も時計を持つていたかどうかについての供述記載が全くなさ
れていないのは、その点を尋ねなかつたためではなく、時計をもつていなかつた、
或は持つていたかどうかわからない旨の答だつたので、記載しなかつたものとみる
ほかはないであろう。そのように理解するのが合理的であり、そう解されても仕方
がないであろう。云々。」
 しかし私から見ればどうしてそのような断定が、しかく簡単に絞り出されるのか
分らない。断定の過程に断層があり、一足飛びの断定である。合理的どころか非常
な不合理である。
 原判決は続いて次の如く云う。
 『検察官は、弁護人のこの時計問題についての主張に対し、単に、「実行々為の
往復及び現場で、時計を一回も見なかつたからといつて、供述が不自然とはいわれ
ない」との一言で片附けている。不自然極まる話である。他の同行者が時計を見た
というのであれば、これでもよいであろうが、前叙のように、誰か時計をもつてい
たとか、時計を見たとかいう証拠は全然ないのである。「不自然とは云われない」
の一言で片付け得る性質の問題では決してあり得ない。もしも検察官が真に不自然
でないと信じているならば、これこそ世にも不思議な話である」。その高飛車な語
調驚くに堪えたりである。この場合だけではない。原判決を貫くものはそのような
高姿勢である。そして判示を読む者にこれでもかこれでもかと押し付けようとする
物の言いぶりである。予定の出発点から予定の時刻に出発して脱線するであろう列
車をねらいをつけて現場に急いだA1被告らである。現場まで何時間位の時間を要
し、何時頃に到達するであろうかを大体見込を付けていたであろうことは想察に難
くない。往路の行程で一々時計を見なければならない必要もなかつたであろうし、
脱線破壊作業中は時計など見るいとまもなかつたであろう。従つて時計を一回も見
ないからといつて、その供述が不自然とはいわれないとする検察官の主張には無理
がない。それを世にも不思議な話だなどと揶揄する原審の態度こそ怪訝と言わざる
を得ない。又原判決はA1自白に出てくる時間関係の点は取調官の暗示に基づいた
ものであるという。取調官の暗示に基づく云々は例によつて飛躍的断言であるが、
それはそれとして取調官はA1の自白の正確を期すべく判示のような時間を尋ねた
であろうし、これに対しA1は出発時刻から割り出した大体の時間を答えたであろ
うことは想察に余りあるところである。それがA1の自白調書に記載されているだ
けのことである。それがA1自白の真実性を引つくりかえす程の力をもつものであ
ろうか。
 (八)次に原判決は、本件列車脱線顛覆作業の行われたとされている午前二時過
頃から二時三〇分頃までの明暗度は朧月夜程度の明るさとみるのが真実に合するも
のと認められる処、A1自白における明暗度はおよそ朧月夜の明るさとは全く異る
もので、闇夜に近い明るさである。してみれば、当夜脱線顛覆作業をした犯人なら
ばその時の明暗度について記憶違いをする筈がないのであるから、A1自白は客観
的事実に反すること明らかであると云う。では、当夜当該時刻の明暗度は果して原
判示のように朧月夜程度の明るさであつたかというと、必ずしもしかく断定できな
いものと私は考える。すなわち本件被害列車である前示四一二列車に乗務していた
車掌である安倍五朗は第一審第四七回公判で事故発生当時の状況につき「私は機関
車を除いて前から二輛目の荷物車に乗つていたが、事故が起きてから機関車乗務員
の様子をみて、通報しようとしたが蒸気のためよく見られなかつた。それは事故が
起きて間もなくだから三時半頃と思うが−脱線作業から暁に近い頃である−その頃
は真暗であつた」と云い、続いて脱線した瞬間電燈は消えた、私はその瞬間私の乗
つていた車の進行方向に向つて左側のドアをあけて出ようとしたが一面蒸気で見え
ず右側から降りた、その時の暗さは五、六米後の荷物車がボヤツと見える位であつ
た。月は出ていなかつた、と思う」旨供述している。そして、原二審第四回の検証
調書によると、
 昭和二十七年六月十四日夜から十五日早朝にかけて施行した検証の際の状況は、
月令二一・三月の出六月十四日二十三時三十七分、月の入十五日十時四十二分とい
う本件事故発生の時と同じ条件で、現場には十五日一時十分に到着し、三十六分間
滞在して検証した結果で、月が雲にかくれている場合の状況の下で検したところ、
軌条の直ぐ傍に立つて見ると軌条の表面は二本とも左右各十五米位の部分が、夜目
にも白く見えた。枕木は傍に寄つてよく注意して見るようにしてやつとそれが枕木
であるとが見えた。犬釘チヨツクの止釘は傍によつても全然見えない。前述のよう
に軌条の表面が光つていて、その切れ目を見分け得る関係上、継目の位置は容易に
発見できる。そしてその継目の所をしゃがんでよく見れば、それに継目板のついて
いること、及びそれについているナツトの位置は(そこに継目枚があり、ナツトが
ついていると思つて見れば)どうやら見分けられるが、ナツトの形状まては到底見
分けられない。右と同様の月の状態の下で二八点で、その南方十米の鉄道線路上に
眼鏡をかけ、白ワイシヤツ、黒ズボンを着用した者及び茶褐色上衣、黄色味の強い
国防色ズボンを着用し帽子をかぶつた者の二人を並立させその人相着衣等の識別状
況を検したところ、前者においては顔は全く判らずシヤツが白いことは判りズボン
は黒らしいことは判つた。
 後者においては帽子と顔は前同様全然判らない。上衣の色も識別できない。尤も
茶褐色と思えばそのようにも見える。ズボンは黒色のように見えた。次に右二名を
静かに北方即ち右脱線始点の方に向けて近寄らせてこれを検したところ、三米二〇
糎の地点で始めて顔であること、白ワイシヤツを着た人物の頭髪が長髪であるらし
いこと、及び茶褐色の上衣を着た人物が帽子をかぶつていることが判つた。なお両
名の腕(手を含む)及び脚は判つた。更に之を一米の地点まで返寄らせて検したと
ころ、白ワイシヤツを着ている人が長髪で眼鏡をかけていることが判り、顔の輪郭
は略々これを識別することができた。検証が以上の程度まで進んだとき、今まで雲
にかくれていた月が、雲間から出て来たので、此の月明りを機として、前記二名を
再び、右十米の地点に立たしめ取同様の識別の状況を検したところ、右両名の顔で
あることが先ず識別出来たという状況であつたのである。
 という結果になつているのである。以上によれば、当夜当該時刻の明暗度は朧月
夜程度の明るさとは必ずしも断定できないことが認め得られるのである。一方A1
はその時刻の明暗度を闇夜に近い明るさであつたと供述しているものとは必ずしも
受取れないのである。(前示A1供述参照)現にA1は唐松裁判官の問に対し「午
前一時一寸前に少し雨が降つた様なわけでその晩は曇つており割合暗い晩でした。
側え寄つてみればどんな顔の人か判りますが、少し離れるとなかなか見分けがつか
なかつた位でした」といつているのであり、この供述は右検証の結果とぴつたり吻
合するのである。してみれば原判決は立論の前提を誤つているのであり、当夜脱線
顛覆作業をした真犯人ならばその時の明暗度について記憶違をする肯がなくその供
述が客観的事実と喰い違うのがないなどと云つて、A1自白の真実性を云為するの
は全くの勘違いだというの外はない。
 思うにA1自白に関する原判決の記述は原審裁判官の頭底にこびりついて離れな
い次のような固定観念に由来するのである。A1自白に関して原判決がかれこれ云
つているのはいわばその固定観念につじ褄を合わすべく展開した理窟という憚らな
い。すなわち原判決は次の如く云う。
 A1自白における実行々為の指導的役割を演じたA3アリバイ成立し、有力な実
行者であるA18のアリバイ成立の蓋然性も極めて強く、さらに、A1自身のアリ
バイさえその成立の蓋然性が極めて高度であることが明認されるに至つたのである。
A1アリバイの成立の蓋然性が高いとなるとB60報告書の出現と相待つてB2側
の実行者とされるA19、A2の在存は自然消滅の形となる。A1自白の終着駅は
同時に松川事件の終着駅なのであると。しかし原判決いうところの右アリバイは決
定されうる筋合のものてないことは後に述べるとおりであるから原判決の右記述は
何んの意味もなく、ただ力み返つて自己陶酔をしているだけのものである。
 七、A1自白とA2自白の対比と題して原判決は検察官の主張を例の高飛車な調
子で駁撃しつつ、A2自白の虚偽架空であることを痛論する。A2はA1自白に基
づいて逮捕されたものであり、A2自白はA1自白と並んで実行行為認定のきめ手
とされている。A2はまずバール・スパナの盗み出しを自白し、次いで実行行為関
係等を自白した。A2被告は一〇月六日の勾留理由開示法廷で犯行を否認したが、
一〇月三日の三笠検察官調書で実行行為に関する事実のほぼ全貌を自白し、一月四
日の三笠調書ではその供述の補充訂正をし、一〇日五日の唐松裁判官調書で右三笠
調書の供述をまとめた供述をし、その後数回の三笠調書で前の供述の補充訂正をし
ている。A2自白の全貌は一〇月五日の唐松調書で出つくしていると見ていい。そ
こでまずこれを掲載する。
 A2被告の唐松調書
 前略
 問 その計画は誰が実行することになつたのか。
 答 それはA19さんが僕は始めて出て行くので土地の事情が分らないから君も
一緒に行つてくれと云われたので結局B23と私が行くことになつたのです。
 問 その相談はどの位の時間がかかつたのか。
 答 約三〇分位でした。
 問 すると何時頃になるのか。
 答 大体一〇時前後だつたと思います。
 問 その相談を終えてから皆はどうしたか。
 答 それから私は皆より一足先にそこからA10さんと二人で出て労組事務所に
行きました外の者は私達が出ると間もなく労組事務所に参りました。
 問 組合事務所えつてからどうしたか。
 答 私が組合事務所え行つたところ二階堂B194さんが事務の整理をして居り
A12さんがその側でその手伝をして居りました、私達も事務所へ入ると間もなく
続いてA8、A11の二人がやつて来たのでわれわれは雑談をして居りました。す
ると其処えA13、A14、A15さんの三名が鞄を取りに事務所へやつて来て鞄
を取つて直ぐ帰つて行きました。
 問 それからどうしたか。
 答 A14、A15、A13さんの三人は先程申上げた様に自分の鞄を持つて直
ぐ事務所から帰つたのでその後の行動は判りません。そこで事務所に残つた私達A
12、B194さんを含め六人はお腹が減つたので晩御飯でも喰べようという話に
なりその中A10さんは自分の泊つている八坂寮から自分の米五合位を持つて来た
のでそれを炊いて皆んなで喰べたのです。
 問 その後どうしたか。
 答 夕食を喰べて少し経つて午後十一時少し前頃列車脱線の道具を用意すること
になつていてA10、A8、A11の三人が「一寸松川駅まで行つて来る」と云つ
て外え行つたので私はその時「あゝ道具を取りに行くのだな」と直感致しました。
 問 その時の三人の服装如何。
 答 A10は白地に青の縦縞の開禁シヤンと黒ズボンに白ズツクそれに濃い鼠色
のハンチングを被りA8は白ワイシヤツに白い長ズボンに下駄履きに無帽、A11
は白ワイシヤツに黒ズボンにゴム草履に無帽でした。
 問 A8等が事務所から出て行つてから残つた人達は何をしていたか。
 答 何もせずに唯雑談して居りました。
 問 それでA8達は何か道具を持つて来たか。
 答 A8達は組合事務所を出てから約三〇分位経つてから帰つて参りました。
 問 その時証人はA8達が何か道具を持つて来たのを見たか。
 答 私はA8達が組合事務所へ入つて来た時には何も持つていなかつたので何か
道具を持つて来たのかどうか判りませんでした。
 問 その時証人はA8達が道具を持つて来て何処かえ隠してあるのだな等とは考
えなかつたか。
 答 別にそんな事は考えませんでした、別に気にもしていませんでしたから。
 問 それでは証人は何時その道具を持つて来てあると云う事に気附いたか。
 答 それはA19さんがその中事務所えやつて来て同人から誘われて出掛けると
きそれを見て始めて列車脱線に使ふ道具はバールとスパナという事が判つたのです。
 問 それではA8等は組合事務所へ帰つて来てから皆は何をしたか。
 答 それから私達は事務所でぽかんとして居ても仕様がないので歌でも歌うと云
うのでA12さんの音頭でインターナンヨナル、若者よ、メーデー歌等を大声で合
唱致しました。
 問 それからどうしたか。
 答 私達が歌を歌つて居ると其処えA19さんが参りました、それでA19さん
も一緒に歌を歌つたように記憶致して居ります、それで私達が歌を歌ひ終ると間も
なくA19さんが私に「これから出掛けよう」と云ふ趣旨の事を云つて私を誘ひま
したので二人で列車の脱線をするために事務所を出掛けた次第です。
 問 それは何時頃か。
 答 歌を歌ひ終つたのは一時頃でなかつたかと思いますから一時半頃(八月十七
日午前)でなかつたかと思います。
 問 事務所を出掛けるとき何か道具を持つて行つたのか。
 答 組合事務所の出入口を出ると直ぐ左側(出入口の東側)にバール一とイギリ
ススパナ一(自在スパナ又はモンキースパナ)が置いてありましたのでB23さん
がスパナを私かバールを持つて出掛けたのです。
 問 そのバールとスパナは先程云つたA8、A10、A11の三人が松川駅から
持つて来たものか。
 答 私はその三人が松川駅から持つて来たものだと思つて居ります。
 問 組合事務所を出掛けてからどういう経路で現場まで行つたのか。
 答 私は脱線現場や時間等の事は細く聞いて居りませんでしたので出発する時間
や現場は具体的に知りませんでしたのですが、A19さんは幹部なので知つている
と思つで何時もその行動に従つた訳ですが、A19さんは本年八月十一、二日松川
工場え来たのでまだその前に松川方面には余り来て居りませんので、兎に角汽車の
線路に出るまでは私が道案内致しました、それは組合事務所を出てから直ぐ東え出
て畑を抜け八坂神社の階段を降りて鉄道官舎前の小径え出て八坂寮の方を曲つてそ
こをずつと西え向つて歩き三、四分して鉄道線路に出ました。
 問 鉄道線路に出てからどうしたか。
 答 線路に出てからは線路の右側(東側)を大体B23さんが先になり福島方面
(北方)に向つて歩いて行きました。
 問 歩調は早かつたか遅かつたか。
 答 大体普通の足並で歩きました。
 問 歩いている間に誰か人に会つたか。
 答 それは東北本線と川俣線の分岐点から約百米か二百米北方福島方面え行つた
ところ(その地点は私は今まで一回も歩いたことはなく又その晩は暗かつたので余
りよく判りません)で福島方面から来た三人連れの男に出会いました。
 問 証人はその三人連れに会つたときどんな人達だと思つたか。
 答 私はその人達は何処かそこらえ用達しにでも行く人かと思いました。
 問 そうしたらどうしたか。
 答 私達がその三人連れに向い会うと私達の中のA19さんと福島方面から来た
人が立ち止りました、それでB23さんはその人達と何か挨拶を交した様でした、
それで私はこの三人連れの男は前に執行部の人達が「福島方面からも手伝えに来る」
と云つたその人達だなと直感致しました。
 問 それからどうしたか。
 答 それで私達は全部で五人となり私達松川の者はその儘北方に歩き出し福島方
面から来た人は其処から引返し福島方面え(北方)私達松川の者はそこまで歩いて
行つたと同じ様に線路の右側(東側)を福島方面から来た三人は先頭になり次に、
B23さん一番後に私が附き歩調は普通でした。
 問 歩いている内に列車に会つたか。
 答 会いました。
 問 それは貨車か客車か。
 答 汽車の音と車輛の窓明りで客車であるという事が判りました。
 問 客車と会つたとき皆んなはどうしたか。
 答 福島方面から来た中の一人が「下りろ」(土手から下え降りること)といつ
たので皆んなは歩いて行つた右側の土手より二、三米下りて、しゃがんで顔を伏せ
て汽車に乗つている人達から顔を見られないように致しました。
 問 それからどうしたか。
 答 その中客車が通過したので私達は再びこれまで歩いて来た線路の右側(福島
え向つて右側)に出て続いて歩き出しました、それから少し歩いて十分位して(こ
の点ははつきり判りません)線路が左にカーブした処で左か山になつて居り右が田
圃(だつたと思ふ)になつでいる地点て前に歩いて行つた者が止まつたので私もそ
の場で止まりました。
 問 其処え着いたのは何時頃か。
 答 多分午前二時頃(八月十七日午前)だつたと思います。
 問 其処え着いてからどうしたか。
 答 現場え着いてから間もなく福島の人達が作業に取り掛つた様です、それは私
達松川の者が持つて行つたバールやスパナを現場に着くと直ぐ福島の人達に渡した
ので、最初は福島の人達が作業に取り掛つたものと考えられるからです。
 問 すると松川から行つた者は何をしたのか。
 答 現場に着くと私達が持つて行つたバールやスパナを福島の人達に渡したとこ
ろ私達に見張りをしろと云つた(左様に記憶して居ります)ので私達は先ず見張を
致しました、それはA19さんは現場から松川方面に五、六米離れた地点で同方面
を見張り私は福島方面に矢張り五、六米離れたところで同方面を見張りをして居り
ました。
 問 福島の人達は何処から作業を始めたか。
 答 それはカーブになつている線路の外側の線路の外側の犬釘や線路に当てた木
をバールでぬき始め又線路を継ぎ合せてある鉄板をスパナで取り始めたのです。
 問 それからどうしたか。
 答 福島方面から来た人は犬釘等約十分位かかつて抜き福島から来た一人が交代
してくれといいましたので私はそれと交代致しました。
 問 A19は交代したのか。
 答 私は無中だつたので誰がどう言う仕事をしたかよく判りません。
 問 証人が交代してから又福島の者と交代したのか。
 答 私は五、六本犬釘を抜くと福島から来た者の一人がお前なんか駄目だと言つ
て私の持つていたパールを取つて福島の者が同様外側の犬釘を抜き始めました、そ
れから福島の者はどの位犬釘や線路に当てた木を抜いたか判りません。
 問 証人は何交代したか。
 答 私は一回やつただけであります。
 問 カーブになつている線路の内側の線路の外側の犬釘等は抜かなかつたか。
 答 それは判りませんでした。
 問 外側の線路の内側の犬釘はどうか。
 答 それも判りませんでした。
 問 線路を継ぎ合せるために両側に当ててある鉄板を取り外したのか。
 答 福島から来た者が二人でその作業に当つて居りましたが取り外したのかどう
か私は見張りをしていたのでよく判りませんでした。
 問 すると犬釘等をどの位抜いたのか。
 答 私は二〇米位抜いたと思いますがその点よく判りませんそれは私は余り作業
をして居らず見張りをしていたのでその点については判然り申上げられません。
 問 仕事にかかつた時間はどの位か。
 答 約二、三〇分位だつたと思います。
 問 それは何時頃になるのか。
 答 現場についたのは二時前後だつたので二時半近くではなかつたかと思います。
 問 どうして仕事を止めたのか。
 答 それは福島から来た者の一人がもうこれでよい止めようと言つたので皆んな
がこの仕事を止めたのです。
 問 福島から来た者の中で誰かその作業に馴れている者があつたか。
 答 ありました、それは犬釘等を抜くのに全然まごつかず手際よくポンポン抜い
て居りました。
 問 抜いた犬釘やボールト鉄板等はどうしたか。
 答 抜いた犬釘やボールト等は線路の東側にある田圃に投げたりしたものがある
と記憶して居ります。
 問 それでは仕事に使つたバールやスパナはどうしたか。
 答 最後に作業したのは福島から来た人達で私達松川の者は仕事を終えて直ぐそ
の儘別れて帰つたのでバールやスパナはどう処分したかは私には判りません。
 問 証人ら松川の者は福島の人達と何か話合つたことがあるか。
 答 別れる一寸前福島の者が私達にこのことは絶対に口外するなと云われました
が、その外の事は前に話さなかつたような気が致します。
 問 証人達は福島の者たちと別れてからどうしたか。
 答 私達は福島の人たちより一足先に現場より元来た線路を松川方面に向い帰つ
て参りました、そして、八坂寮の裏から左に曲り元来た鉄道官舎の前を通り八坂神
社の階段を登り畑を突切つて組合事務所に戻つたのであります。
 問 その時は何時頃であつたか。
 答 三時前後だつたと記憶して居ります。
 問 事務所へ帰つて来てからどうしたか。
 答 私は事務所へ帰ると
   A12 
   B194
   A8
   A11
   A10
  五人がまた寝ずに起きておりました。それから私は事務所の南側の板の間に新
聞紙をしき赤旗をかけてやすみました。云々
 右供述を味読すれば、淡々卒直として何の渋滞もなく述べられており、其間に誘
導暗示などあつた影は微塵も感じられない。そしてこれをさきに掲げたA1自白と
対照して見れば微妙な点で一致していることに気が付くのである。すなわち(イ)
出会つた者は福島側から三人松川側から二人、(ロ)両者が松川駅上り遠方信号機
北寄りの線路上で出合い現場に引き返えしたこと、(ハ)出合つた際挨拶をかわし
たこと、(ニ)その途中上りの客車に出会い、機関のライトを避ける為線路の下に
降りて列車をやり過したこと、(ホ)A1自白の松川から来た丸顔の男の作業ぶり
がまどろこくて見ておれないのでA1がこれからバールを取つて自分で抜取り作業
をした等々の諸点で両者の口が合致し、そこに脈々たる現実味を感ぜしめるのであ
る。然るに原判決は例によつて右供述は取調官の暗示誘導による虚偽架空の供述で
あると言い、奔放な想像力を駆使して縦横に論議する。論議は自由だが、論理の常
則を無視した得手勝手な議論は判決では困るのである。唐松裁判官の右尋問の前に
行われた三笠検事に対するA2の供述はA1自白を台本にしてなされたと原判決は
言う。恐らく虚偽架空なA1自白に口を合わすべく暗示誘導し、その結果出来上つ
たのが、A2自白だという意味であろう。しかしそのように断定すべき何らの確証
がなく、それは原審の想像でしかない。一方原判決はA2は骨ぽい男だ一旦云い出
したら後に引けない男だといつている。その骨ぽい男が三笠検事の尋問に何故に易
々諾々としてA1自白と同じようなことを述べたのであろうか。しかも三笠検事と
は別人の唐松裁判官の尋問に対し前示のようにA1自白と殆んど同趣旨の供述をい
とも平明に供述しているのである。流石に原判決は唐松裁判官がA1自白を台本に
しているとは云わない。しかも唐松裁判官の勾留理由開示法廷の開始前にA2被告
は新聞記者B16に対し「飛んでもないことをして申訳けありませんでした」とい
つてうつむいていたというのであり、又同じ時新聞記者B15に対し「私はやつた
ことについて本当のことを述べ今日からは良心的にすつきりした気持になりたい」
と云つたというのである(前掲参照)。してみればA2自白は事の真相に徹してい
るのではなかろうか。
 原判決は更に云う。A1自白ではA2に該当する人物が革短靴をはいていたこと
になつているのに、A2自白では下駄を履いているのである。また最初見張に立つ
た者はA1自白ではB1側のA1、A18であるのに、A2自白ではB2側のA2、
A19である。以上の点は記憶違いや錯覚を起す筈のない事柄であるという。しか
し共犯者の供述というものは常に必ずしも歯車の歯が合うように合うものではない
のである。その合わないというところに真実を示唆するに足るものがあるのである。
まして本件破壊作業は深夜行われたものであるからA1としてはA2の履物を革短
靴と見間違いしたかもしれないのであり又見張りの点は共犯者の心理として出来る
だけ自分の責任を軽減させ度く最初に着手したのは自分達でなく、自分達は見張り
をしただけだと糊塗しているものであるやもしれないのである。従つて右のような
喰違いの一事を以てA2自白の真実性を一蹴することはできない。この点につき原
二審判決は次の如く判示している。同感である。
 数人が同一の事実を経験した場合でも、その人の経験の仕方、記憶力の良否その
他種々の事情で、各人の記憶に相違があり、従つてそれに関する各人の供述に不一
致を来すことのあることはいうまでもない。又短時間行動を共にしたに過ぎない人
についての人相着衣履物等に関する供述が、屡々実際とくいちがうことも経験上明
らかなところである。(尤も、そのような人相着衣等に関する記憶が不たしかな時
でも、写真を見せれば、その人を間違いなく特定し得る場合があることも経験上首
肯し得るところであるから、当審証人B191(四一回公判)の証言の如く、A1
被告が、自白をして、当夜松川の方から来た二人の人相着衣等を述べた後に、証八
六号の写真を示したところ、A2とA19とに当る人物を指してこの二人に間違い
ないと述べ、その後いわゆる面通しを行つた際も、その時の二人はA2とA19と
に違いないと述べたということは、少しも不合理ではない。)更に、本件実行行為
の際の如く、重大な犯罪を敢行する緊張した場合で、かつ夢中で、一生懸命やつて
いたというのであるから、その間の記憶、に完全を期し得ないことも理の当然であ
る。これらの諸事情を考慮すればA1、A2両被告の供述に存する前記の如き程度
の不一致は、むしろ当然で、却つて、前記多くの重要な点で供述が一致する反面一
部において趣を異にする点があるのは、供述が自発的になされたもの、即ち誘導に
因つたものでないことの証左と見られるのである。
 叙上の次第で、A1、A2両被告の自白に存する不一致は両自白が虚偽架空なる
が為のものでなく、むしろ両自白は大綱において符合し、相互に理解し合うもので
あると認めるのが相当である。云々。
 八、バール自在スパナの紛失関係について、
 (イ)A8、A11、A10被告らが松川線路班からパール自在スパナを盗み出
し、それがA19、A2被告両名によつて事故現場に運ばれ、本件列車脱線顛覆の
用具とされたことは既に縷々述べたところであり、一点疑がない所と疑えるか、こ
こでは松川線路班から見て、いつたいバールと自在スパナがどうなつていたかを考
察し、右盗み出し行為の裏付けとしたい。けだし盗み出しが本当だとすれば松川線
路班に問題のハールスパナは姿を消している筈だからである。ところで事故発生の
日である八月一七日朝本件列車顛覆現場附近の田圃からパールと自在スパナか発見
された。―そのバール・スパナが列車脱線顛覆の用途に供され、それが線路東側田
圃に投げ捨てられていたものであることはA1被告の前示供述によつて十分に窺い
得られる−そこで松川線路班の器具当番であるB18らが中心となりバール及び自
在スパナの員数調査を行つたところ、果して本件事故発生の前日である八月一六日
夕刻から本件事故発生までの間に松川線路班でバール及び自在スパナ一挺づつが紛
失していることが覚知されたのである。このことは一審及び原二審において詳細に
証拠調が行われ、一点疑を差し挾む余地のないまでに明らかにされ、原審において
もいわゆる新証拠によつても明らかにされた処と考えるが、原判決は新証拠及び旧
証拠を総合吟味してみるに自在スパナはむしろ松川線路班から紛失しなかつたとみ
られる公算甚だ高くバールは依然紛失したかどうか不明であるというに帰着すると
いい、検察官が十余年経た今日これを明確にしようとするのが、そもそも無理なの
であると論ずる。検察官が十年経た後にこれを明確にしようとしているかどうか分
らないが、事件発生後僅かに半歳も経ていないときに前示B18が第一審公判で新
鮮度も豊かに右紛失関係を証言しているのである。然るに原判決はそれが措信でき
ないという。松川線路班における本件事故発生直前におけるバールの員数について、
B20、B18の両証人は第一審原第二審とも一二本であると証言しており、B1
8は毎日器具の全部について点検調査を行つていた旨供述しているが、それは責任
上勤務を怠つていないことを強調するためのもので実際問題として常識的にもその
ようなことは不可能である。B18の証言は措信し難いという。パールスパナを盗
み出したというB2側関係被告の自白が極めて真実性に乏しくもはやパールスパナ
の紛失関係を論ずるに値しないという。まことに、驚くべき一方的判断である。よ
つて左に右B18の第一審公判における証言を掲げこの点を明確にしておき度い。
以下細説する。
 第一審昭和二五年一月二〇日の公判における証人B18の供述は次のとおりであ
る。
 問 (山本検察官)証人は現在何処に勤務しているか。
 答 福島保線区松川線路班に勤務しております。
 問 昨年八月一六、一七日頃何処に勤務していたか。
 答 現在と同じく松川線路班に勤めて居りました。
 問 その勤務場では何をしていたか。
 答 線路工手をして居りました。
 問 線路工手の仕事の大要は。
 答 軌道の整備でありま引。
 問 その整備をするためには道具を使うか。
 答 使います。
 答 その主なる道具はバール、スパナ、ハムマー等でその他細い物が沢山ありま
す。
 問 証人は昨年八月一六、七日頃特別な勤務に服したことがあるか。
 答 ありません。
 問 今証人が述べたスパナ・バール等の器具は常に何処に保管されてどういう風
に使われているか。
 答 線路班内の倉庫に保管されてあつて、使用する場合にはその倉庫から道具を
使うだけ持出して来て使用しております。
 問 仕事を終つた場合はどうするか。
 答 仕事が終ればその道具を倉庫にしまい、員数を点検して工手長のところに異
状の有無を報告することになつております。
 問 そうすると道具を持出すのは何時か。
 答 毎朝であります。
 問 そしてしまう時は今述べた様に仕事を済んでから倉庫に入れるというのだね。
 答 そうてす。
 問 その員数は誰が点検するのか。
 答 当番が報告することになつております。
   そして八月一六、七日頃は私が当番に当つていたのて異状の有無を点検して
工手長に報告致しました。
 問 当番とは。
 答 一週間一週間の器具当番のことです。
 問 当番と云うのは一週間毎に交替するのか。
 答 そうです。
 問 証人は昨年八月一六、一七日頃はその器具当番に当つていたのだね。
 答 そうです。
 問 証人は昨年八月一六日には出勤したか。
 答 出勤致しました。
 問 その時も線路工手として勤務に服したか。
 答 はい。
 問 その日仕事は何時頃終了したか。
 答 午後四時一五分頃終つたと思います。
 問 その日器具の点検をしたか。
 答 点検致しました。
 問 器具の員数には異状なかつたか。
 答 異状ありませんでした。 
 問 その時のバール及びスパナの数は。
 答 バール一二本スパナ一二挺づつありました。
 問 その一二挺のスパナはすへて同種類のスパナか。
 答 違います。大きい物と小さい物とありました。
 問 その一二挺の外にスパナがなかつたか。
 答 自在スパナがありました。
 問 その数は。
 答 三挺ありました。
 問 三挺は間違ないか。
 答 間違ありません。
 問 昨年八月一六日証人がそれらの道具を点検した時刻は。
 答 その日の午後四時三〇分頃と記憶しております。
 問 先程証人か点検した結果異状がなかつたと云つたね。
 答 はい異状はありませんでした。
 問 証人はその結果を工手長に報告したか。
 答 はい報告致しました。
 問 工手長は誰か。
 答 B20という人です。
 問 その翌日八月一七日には午前中証人は出勤したか。
 答 出勤致しました。
 問 何時頃出勤したか。
 答 松川線路班についたのは午前四時半頃でした。
 問 四時半頃は通常の出勤時間か。
 答 違います。
 問 どうしてその様な時刻に出勤したのか。
 答 その日は線路班の誰たつたか忘れましたか、脱線があつたという電話連絡が
あつたので普通の出勤時間より早く出かけて行つたのてあります。
 問 脱線があつたというのは何処て脱線事故かあつたのか。
 答 電話の内容によると金谷川方面に脱線事故があつたから直ぐ来てくれという
話てした従つて金谷川方面に脱線事故かあつたものと思つて線路班事務所に出勤し
たのてあります。
 問 線路班事務所に出勤してどういうことをしたか。
 答 私が同事務所に行つた時は同僚の皆んなが来て道具をトロ車に積んでおり脱
線現場に行くところだつたのて皆んなと一緒に脱線現場に行きました。
 問 トロ車に積んで持つて行つた道具の主なる物は。
 答 バール合図燈シヨベル等て外は覚えかありません。
 問 そこて証人はどうしたか。
 答 その時の器具の点検はしないてトロに乗つて現場にゆきました。
 (中略)
 問 証人は現場に行つてからとういう仕事をしたか。
 答 私は現場に着いてからは電話番の仕事をしておりました。
 問 その電話の番と云うのは通信連絡のことか。
 答 左様てあります。
 問 その現場て証人は線路工夫としての仕事をし、それが了えて引揚けたのは何
時か。
 答 その日は引揚げませんてした。
 問 その現場における脱線事故の原因はどうみたか。
 答 現場に行つたときは全然分りませんでした。
 問 現場に行つて最後に引揚げたのは何日か。
 答 日は忘れました。
 問 どの位の日数現場に行つていたか。
 答 約一ケ月位てあります。
 問 そこて先程証人は八月一七日午前四時半頃松川線路班事務所に出勤したら先
に出勤していた同僚達が現場に出かける処たつたのてその人達と一緒に現場に行つ
たと云つたね。
 答 間違ありません。
 問 その時道具の点検はしたか。
 答 しませんてした。
 問 その後点検したことかあつたか。
 答 ありました。
 問 何時頃か。
 答 その日の午前九時頃だつたと記憶します。
 問 点検した結果は。
 答 バール一挺自在スパナ一挺かなくなつておりました。
 問 それは八月一七日午前四時半頃最初倉庫から持出した人の氏名、持出した道
具の員数を調へた結果その様にバール自在スパナ各一挺かなくなつたことを知つた
のか。
 答 そうてす。
 問 最初現場に赴く時バールを何本持つて行つたか。
 答 四本持つてゆきました。
 問 その後追加して持出したことかあるか。
 答 ありません。
 問 それは誰が持つて行つたか。
 答 倉庫からトロまてB77が持つてゆきました。
 問 するとそれは最初持出したB77等を調査した結果バール自在スパナ各一挺
がなくなつたことを知つたのか。
 答 自在スパナほ私が線路班で電話で連絡した結果自在スパナ一挺か足りないこ
とを知つたのてあります。
 問 自在スパナは脱線現場に持つてゆかなかつたか。
 答 持つてゆきませんてした。
 問 バールスパナ各一挺かなくなつたのは八月一六日に証人か点検した時から翌
八月一七日午前九時まての間になくなつたということになるのか。
 答 左様であります。
 (ロ)バールの紛失について、
 本件事故発生の前日である八月一六日に松川線路班に備え付けられていたバール
は全部で一二本てあつた。然るにその翌朝事故か発生しその現場附近の田圃の中か
らバールと自在スパナとか発見されたのて右線路班の器具当番であるB18らかバ
ール及び自在スパナの員数調査を行つた処一七日朝現場にバール四本か運ばれてい
て器具倉庫には七本しか残つていないことが判明したので一本紛失していることか
明かになつたことは第一審、原二審証人B20、B18の証言の外原審で新に調べ
られたB78、B77、B80、B81、B82、B83、B84、B85、B8
6、B87、B79の各証言及び八月一七日付B88、B89復命書、同日付B9
0、B91復命書によつて確然と認められるのである。原判決は、まん然と右証人
らの供述は措信できないという。そしてB77かバールを持出した際、器具の点検
はされていないし、それが具倉庫の黒板に当然記入さるべきであるのに記入されて
いない。また現場から本件バールが発見されたとき現場において員数調査か行われ
たがそれは応援に来た各線路班の者の持参したバールを集めて集計しその集計から
松川線路班以外の線路班の持参数の合計を差引いた残りを松川線路班の持参したバ
ールの数としたというのてある。しかし各線路班は自分達の持ち来つたものをキチ
ンと正確に勘定して持ちかえるのが当然であろう。松川線路班だけが他の線路班の
ものまて持ちかへるというようなことがあるであろうか。又事実そのような状況で
ないことは証一七四号、一六九号、原審証人B77の証言によつて明らかな所でも
あるのてある。すなわち、事件当日午前七時頃から八時頃までの間に撮影された証
一七四号写真には松川線路班の器具と認められるものが写つており、これを見れば
右時刻頃松川線路班の器具かまとめて置いてあり、他の班の器具と混合するような
状態になかつたことが認められるしまた列車顛覆現場附近の写真てある一六九号写
真を量るとバール、つるはし等の器具が写つているが、その器具がおいてある状況
から一線路班のものがまとめて置かれてあることが分る。そして原審証人B77は
器具の調査をしたときはまだバールを使用するような作業をしておらずおそらく他
班のバールと混同するようなことがながつたものと思う旨述べている。
 以上によれば前示のように判断せざるを得ないのであつてこの点の原判示は卑劣
ないい懸りだというを憚らない。
 原判決は証一号の六のバールが松川線路班備付のものならば同線路班の工手のう
ち誰か一人位は見覚えがあつてもよさそうに思われる。しかるに現場で誰も見覚え
があると述べた形跡がない旨判示している。しかし原審二〇回公判て事件発生当時
松川線路班の工手副長をしていたB81は証人として次のように供述しているのて
ある。
 問 (裁判長)発見されたというバールをあなた自身見た記憶かありますか。
 答 はい。
 問 現場か線路班かわからないけれども見た覚えがあると。
 答 はい見たことは覚えております。
 問 それは誰に見せられたんですか。
 答 警察官のかたと思います。
 問 それを見せられたとき何かあなた聞かれましたか。
 答 聞かれました。
 問 どんなことを聞かれたんですか。
 答 このバールに覚えがないかということだつたと思います。
 問 それであなたは何んと答えました。
 答 当時松川にあつたバールと似かよつていたからしてそうだろうと思いました。
 問 で、松川線路班のものだと思つたわけなんてすか。
 答 はい思つたとおり答えたと思います。
 問 あなたはそれが松川班のものだと思つたといわれるんですがどういうような
点から松川班のものだと思つたんてすか。
 答 ただにかよつていたからしてそうだろうと思いました。
 問 長さや太さなんかはどうですか。
 答 まあ手ごろのバールてあつて柄の方にらせんの形が付いてあつたんです。そ
れににかよつていたからしてまあ、そうだろうと思つたんてす。
 問 そうすると柄のほうにらせんかついていたことと、それから長さや太さも回
じくらいだつたんてすか。
 答 はいにかよつていました。
 以上によれば証一号の六のバールは松川線路班にあつたものとは違うという確証
もないのであるから松川線路班に備付けられていたものであると認定されるのであ
る。
 (ハ)自在スパナの紛失について、
 本事件当時松川線路班に自在スパナ三挺か具え付けられていたことは当時者間に
争のない所である。しかるに検察官側はその内一挺が修理に出されており残りの内
一挺か八月一六日から翌日にかけて紛失し残り一挺は事件後の八月一八日福島管理
部に引揚げられたというのに対し、原判決は備付三挺の内一挺が修理に出され残り
は一挺である処その一挺が事件後福島管理部に引揚げられているので一挺も紛失し
ていないのであるという。従つて修理に出されてあるものか一挺てあるか二挺てあ
るかが争の焦点となつているのである。然るに原判決は、修理に出されたという二
挺が何処にどのようにして修理に出され、その結末はどうなつているか、その一連
の事実は毫末も説明していないのである。証拠を案ずると次の如くである。
 原審二〇回公判における証人B78の供述は次のとおりてある。
 問(吉良検察官)あなたは昭和二四年八月一七日列車顛覆事件のあつたころ松川
線路班に勤務しておりましたか。
 答 はい勤めておりました。線路工手をしておりました。
 問 そのころ八月一七日当時てすね、そのころには何か当番をしておりました。
 答 はい、器具当番をしておりました。B18さんと二人て器具当番をしており
ました。
 問 顛覆事件のあつた朝は現場に行きましたか。
 答 行きましたが、家から現場に行く途中で線路班に寄りました。
 問 それはどうゆうわけで線路班に行つたのてすか。
 答 線路班にいつたん行つて、みんながおればみんなと一緒に現場にゆくつもり
で寄りました。
 問 何か器具を取るため器具を現場に持つてゆくために線路班に行つたようなこ
とはありませんでしたか。
 答 器具を取りに寄つたもわけではなく線路班に行けばみんなもまだいるのかな
と思つて線路班に寄りました。
 問 器具を線路班から現場に運んだようなことはありませんか。
 答 器具を線路班からトロに積んで現場に行きました。
 問 それはまだ暗いうちですか、それとも夜が明けておりましたか。
 答 まだ夜か明ける前だと記憶してます。
 問 そうするとまつくらですか、それともうす暗いくらい時ですか。
 答 月あかりで少し明るいと思いました。
 問 で、その器具を運ぶ時にはあなた一人で運んだんてすか。
 答 いや一人でやりません。
 問 何人ぐらいと一緒に運びましたか。
 答 現場に行く途中で四、五名に会つていつたん線路班に戻つてそしてトロリー
と一緒に向かつたんですから私とでは五名ぐらいと記憶しています。
 問 そのトロに器具を積みこむのはあなたも一緒に積みこみましたか。
 答 私は積みません。
 問 するとあなたは器具倉庫からは器具はなんにも出さなかつたのですか。
 答 何も出しません。
 問 あなたはそのトロと一緒に行つてずつと現場まで行きましたか。それとも途
中で別の方に行きましたか。
 答 現場までその途中で行きません。
 問 どういうようにしましたか。
 答 途中まで行つたところが石合踏切の近くまで行つたところで云われたか忘れ
ましたか、三合内のB85君に知らせてないために知らせてくれと云われてB85
君の所に行きました。
 問 それでB85君を呼びに行つたわけてすか。
 答 はいそうてす。
 問 それから現場に行きましたか。
 答 それからB85君の家に行つて戻つて来てそのまま現場に行きました。
 問 で現場に行つてからですね、また松川線路班に戻つたようなことはありませ
んでしたか。
 答 その後は戻つた記憶はありません。
 問 現場からまた松川線路班の方まで行つた記憶ありませんか。
 答 ああ、戻つて来たのは器具バールの数を調べる時には帰つてきました。
 問 そのバールを数を調べるために線路班に来たというは午前中のことですか、
午後のことですか。
 答 午前中と記憶しますが、時間ははつきりしません。
 問 そうするとその線路班でバールの数を調べるというのはどういうことからそ
ういうことになつたわけなんですか。
 答 これは田の中からバールを見つけ出されたんで線路班でも一応バールの数を
調べてみなければならないというような話になつて誰に云われたかは忘れましたが
そういわれて線路班ヘバールの数を調べるために帰りました。
 問 それで線路班に帰つてからあなたはバールの数を調べましたか。
 答 はい調べました。
 問 それは線路班に器具倉庫に現実においてある数を調べわけですか。
 答 それは持ち出しの数もわたしにはわからなかつたから持ち出した数と線路班
に残つておつた数とを数えて一本足りないということがわかりました。
 問 あなた線路班に残つているバールを自分で勘定しましたか。
 答 自分で数えました。
 問 そのとき何本あつたかということは現在記憶しておりますか。
 答 その時の記憶はありません。
 問 何本あつたか今では思い出せない。
 答 今では記憶ありません。
 問 しかし、その時自分で勘定したことは間違いないんですね。
 答 はい勘定しました。
 問 そのとき線路班に残つている自在スパナの数は調べませんでしたか。
 答 自在スパナもその後に調べました。
 問 その時に調べたんですか。
 答 そのバールを数えたと同時でなくなんぼか時間はあつたと思いますがその後
に調べました。
 問 それはその日のうちのことですか。
 答 その日のうちのことです。
 問 だれから自在スバーナの数も調べるようにでもいわれて線路班に行つたのて
すかそれとも。
 答 いや、線路班にバールの数を調べるのに線路班におつた時に電話で聞いたよ
うに記憶します。
 問 あなたが線路班に行つた時電話で何んといつてきたんですか。
 答 電話てスパナも見てくれといわれたように記憶します。
 問 スパナも見てくれといわれたような記憶がある。
 答 はい。
 問 それは自在スパナの意味てすか。
 答 ええ自在スパナてす。
 問 その時自在スパナが線路班に何丁あつたか記憶しておりますか。あなたがそ
うして調べた時何丁あつたか。
 答 そのバールだけスパナの数てすか。
 問 スパナの数ですタナに何丁あつたか。
 答 今では何丁あつたか盲れてはつきりしません。
 問 あなたが調べた時に何丁タナにかかつていたか思い出せませんかどうてすか。
 裁判長 忘れたというとります。
 問(吉良検察官)あなたは器具当番といわれましたが八月一六日の日には器具の
点検はしましたか。
 答 はい八月一六日の日には私は休んでありますから点検けしません。
 問 一五日には駅に行きましたか。
 答 いや、一六日に休んでおつて一五日には出ております。
 問 その時バールは何本ありましたか。
 答 はい、一二本ありました。
 問 その当時松川線路班にその事件前の一六、一五日ころですね。
 答 はい。
 問 松川線路班には工手長以下何名の線路工手がおつたんですが。
 答 その事故の起きたその一七日の日ですか。
 問 一五日の日です。
 答 一五日には一一名てす。
 問 それから七月の最初ごろ行政整理で一人やめたことは知つておりますか。
 答 わかつています。
 問 それから自在スパナはその当時何丁備えつけられていたか。
 答 一五日てすか。
 問 ええ一五日当時ですね。あなたがそうやつて点検した当時何丁松川線路班に
備付けられておりましたか。
 答 数は自在スパナは三丁ありました三丁のうち一丁は修理に出ておりました。
 問 そうすると現物は。
 答 二丁ありました。
 問 備え付けられている数が三丁だとか修理に一丁出ているとかいうことはまあ
大分古いことなんですけれども、現在どうして覚えているか、何か特に覚えてるよ
うな理由がありますか。
 答 その数ですか。
 問 そうてす。
 答 私は当時器具当番だつたので数たけははつきり覚えています。
 問 修理に一丁出ていたということも覚えておりますか。
 答 覚えております。それはその時B20工手長さんが預り書に一丁はいつてい
るということをいわれて私は預り書は確認しませんでした。
 問 いわれたことは覚えているが確認はしなかつたと。
 答 いわれた記憶はありますが確認しませんでした。
 問(高橋検察官)先程二四年八月一七日に事故の現場から線路班に戻つた後にで
すね、電話かあつて自在スパナの残つている数を調べるようにということであなた
が自身が数を調べたとこういうふうにいわれましたてすね。
 答 ええ、私は数を見ました。
 問 ただしその数は今覚えていないというわけでありましたですね。
 答 いや残つておつた数は忘れました。
 問 忘れました。
 答 はい。
 問 で、結局調べた結果自在スパナは事故前の員数どおりあつたのかあるいは数
が変つておつたのかその記憶はございませんか。
 答 はいその記憶あります。
 問 どういう記憶。
 答 一丁無くなつておるという記憶はあります。
 問 ああそうですか。
 (下略)
 次に原二審第二七回公判において証人B10は次の如く証言している。
 問(裁判長)証人はいつから福島保管区技術係をしているか。
 答 昭和一八年一〇月から引き続きやつております。
 問 技術係の仕事の内容は。
 答 保線区は工事、線路、営林の三つに分かれ保線区長の下に工事、線路、営林
の各技術助役その下に各係員が配属され、各区分に従つた仕事に従事するのですが、
なお、線路助役と共に指導助役とその下に指導係がいて線路係の教養指導を担当し
ています。私は現在工事の方の技術係であります。
 問 昭和二四年七、八月当時はどういう係をしていたか。
 答 その当時保線区は線路と工事との二つに分かれ線路工事の各助役及び指導助
役及び各係員がいましたが、私は指導助役の下で線路の方の教養指導の仕事にたづ
さわつておりました。
 問 昭和二四年当時福島保線区ではその管内の各線路班に対して線路用器具の配
付をする仕事は誰が担当していたか。
 答 その当時は保線区長の下に助役ではありませんが助役級の用品駐在員という
職名の者がいてその用品駐在員が物品関係の担当者としてお尋ねの仕事をしており
ました。
 問 その当時証人は線路用器具配付関係の仕事をしたことはないか。
 答 ありません。尤も最近福島保線区から裁判所に出した昭和二四年八月現在の
管内各線路班の線路用器具現在数調査表の作成責任者として作成したことはありま
す。
 問 証人が責任者となつて作成したというその線路用器具現在数調査表とはこれ
のことか。
 裁判長 証五六号を示す 答 そうです。私の作つた表に間違ありません。
 問 その調査表はいつ作つたものか。
 答 これは、昭和二四年八月東北本線松川金谷川間において列車が脱線顛覆事故
発生直後仙台鉄道局長及び管理部長から再度に亘つて線路班の器具の保管、員数の
確保についての注意がありました。その結果昭和二四年八月二四、五日頃からと思
いますが保線区長から私が責任者となつて管内線路班の保線用器具現在数一覧調査
表を作成することを命ぜられ、直ちに各線路班に対し線路用器具の品名、品質、形
状、員数を一覧式に書きこめるように印刷した用紙を配付し且つ私から各線路班に
対し電話を以て右用紙にはあくまでも線路班の定数にこだわらず現在数を書きこみ、
その日付も記入の上同年八月三一日までに提出されたい旨連絡しておいたのですが、
これに対して各線路班から右用紙に記入して回答のあつたものをまとめて作成した
のがこの調査表ですから作成したのは同年八月末前後と思います。
 問 証人は特にその調査について保線区長から直接に命ぜられたのか。
 答 私が直接命ぜられたのではありません。当時保線区長から松川の列車顛覆事
件が起きたについても保線区としては線路用器具の現在数をはつきりつかんでいな
ければならぬという命令が指導助役の方にあり、指導助役から私かいいつけられて
その現在数を調査したのであります。
 問 すると前示調査表はそのようにしてその当時作成された調査表の原本そのも
のか。
 答 そうであります。
 問 その調査表は各線路班からの報告をまとめて作つたとのことだが保線区にあ
る物品関係帳簿とか書類とは無関係に作つたのか。
 答 そうです。この表はもともと各線路班からの報告によつて現在数だけつかも
うという意味で作成したものなのであります。
 問 その表の数の欄は定数、現数、過不足数と三つに分けられているようだが定
数現数とはどういうことをいうのか。
 答 定数とは規程の上で工手何名に対してどういう器具いくらと定員に応じてそ
の班に備えられてあるべき数のことであり、現数とはその当時その班に現実にあつ
た数のことであります。
 問 調査表作成については各線路班からその定数についても報告させたのか。
 答 それはさせません。定数は今申し上げましたように工手何名に対して何々器
具いくらと規程の上できまつているのでそれによつて算出できますし、またそうし
たのですから、各班からはその器具の定数については全然報告させなかつたのてあ
ります。
 問 その表ては松川線路班の自在スパナの定数と現数とはどうなつているか。
 答 松川線路班の自在スパナはこの表によりますと定数が大と小と各一ク計二ケ
で現数は大小共にゼロとなつています。
 問 するとそれまで証人の述べたところとその表の記載を綜合すると松川線路班
に備え付けられるべき自在スパナの定数は規定上割り出された大一小一となるが昭
和二四年八月に同線路班から回答された現在数はいずれもゼロということになるの
か。
 答 そうです。
 問 その規定数調査の際に線路班で修理のために保線区に提出してある器具につ
いてその修理引受票のようなものがあつても現品が存在しないというようなものは
どのように取扱つたのか。
 答 修理に出したりして報告当時に現実に線路班にない器具については報告させ
ませんでしたからそういうものは調査表の現数の中には入れてありません。
 問 証人はその調査表を作つてからそれを上司に差出したか。
 答 指導助役に差し出し保線区長にもみて貰いました。
 問 証人が管内各線路班の器具現在数を調査しその表を作成するに当つてその定
数を出すについては物品担当者が記入備え付けてある帳簿等は資料にしなかつたか。
 答 物品担当者が記入している帳簿は資料につかいませんでした。それはさき程
から申上げるように規程上各線路班の工手の定員が定められ器具の定数はその人員
から割り出すことができるからです。尤も各線路班の工手の定員とその現在員数と
は違うこともままありますがこのような場合器具の定数は工手の現在員数できめら
れるのであります。
 問 自在スパナの定数が大小各一挺ということであると証人のいうその規程から
いつて工手の定員数は何人になるか。
 答 自在スパナの場合は定員に関係なく一線路班に対して大小各一挺という定数
であつたと思います。
   規程には器具によつてそういう算出の規定もあるのてあります。
 問 自在スパナについてはどこの線路班も同じ大小各一挺になつているのか。
 答 そのように記憶しております。
 問 すると自在スパナの定数が一線路班三挺ということはあり得ないのか。
 答 そういうこともあります。たとえば大小各一挺だけでは足りないからくれと
いう要求が線路班からあつてそれが保線区て都合できればやることもありますから。
 問 そういう場合その三挺というのは現在数で定数はやはり二挺ということにな
るのではないか。
 答 そうです。自在スパナ大小各一とあるのは一線路班に大小各一挺というふう
に規定されてあつたと思いますが明確ではありません。
 問 それではまたその線路用器具現在数調査表について尋ねるが、松川線路班の
自在スパナは定数が大小各一挺で現在数は各ゼロとなつているということだか、そ
の表のうちで松川線路班以外の線路班でもそういうのがあるか。
 答 この表によると赤岩北部及び大沢の各線路班の自在スパナが各定数大小各一
挺のところいずれも現在数かゼロとなつております。
 問 その表で自在スパナの現数か定数よりも多くなつている線路班があるか。
 答 二八線路班のうち半数以上にのぼる一五線路班の自在スパナの現在数か各定
数よりも一挺ないし二挺多くなつています。
 問 自在スパナの定数二に対して現数一又はゼロとなつている線路班に対して証
人かその調査表を作るに当つてなぜそのように足りなく又ゼロになつたかを回答さ
せるとか調査するとかしなかつたのか。
 答 現在数がゼロになつているという報告のあつた線路班に対しておかしいとい
うのでその理由をたしかめたと思いますがどんな方法でたしかめたかいま記憶にあ
りません。たしかめた後の書類もあるかと思つて調べてみたのですがありませんで
した。
 問 自在スパナの定数か二挺あるのに現数かゼロになついては仕事に差し支える
わけではないか。
 答 そうです。それでこちらからそういう線路班に対してその理由をきくのが当
然でありますから、きいたことはきいたのですが、それに対する回答を書類にした
ものはありません。
 問 松川線路班に対し当時自在スパナの現数がゼロになつている事情を照会した
か。
 答 しました。松川の分区長であつたか工手長であつたかは今はよく覚えており
ませんがともかくそのうちのどちらかに対して当時現在数の報告があるとすぐ私か
ら電話を以て自由スパナの現数がゼロになつているのはどういうわけかとききまし
たところ、一挺はなくなつた、一挺は修理に出してある一挺は保線区に引揚げられ
たそれでゼロになつているとのことでありました。
   私はその返事で納得がいつたので松川線路班の自在スパナの現数ゼロと調査
表に記入したのであります。
 問 松川線路班の自在スパナの定数が二挺であるのに今証人が述べたところでは
以前三挺あつたということになるがその関係はどうか。
 答 そのようになくなつたり修理に出したり引き上げられたりしない当時の現在
数が三挺あつたものと思います。
 問 赤岩北部、大沢等自在スパナの現数がゼロになつている各線路班についても
そのわけをきいたか。
 答 きいたと思いますがどうきいたか今記憶にありません。
 問 松川線路班のことだけをどうして特に覚えているのか。
 答 その当時列車顛覆事件に関連して松川線路班のバールや自在スパナがなくな
つたというようなことがさわがれていましたので私としても特に注意してききもし
ましたし、覚えてもいるわけであります。
 問 松川線路班のなくなつたという一挺の自在スパナのなくなつた時期及びその
事情についてもきいたか。
 答 分区長か工手長のいうところでは列車脱線顛覆事故のあつた当時盗難にあつ
たとのことでした。
 問 その盗難は列車顛覆事故発生の前であるとのことだつたかそれとも該事故の
復旧作業等のため事故現場へ器具を持つて行つた際ないしはその後のことであつた
か。
 答 そこまではききませんでした。
 問 ほかの二挺の自在スパナを修理に出し又は保線区に引揚げられたという時期
とかの事情についてきいたか。
 答 修理に出した時期についてはきいたかどうか覚えておりませんが保線区に引
きあげられた時期と事情については工手長であつたか分区長であつたかから電話で
ききました。それによると列車顛覆事故のあつた直後保線区の人が松川線路班に来
てなくなつた(盗まれました)自在スパナと似通つたものはここに置かぬ方がよい
と云つて持つていつたとのことでありました。
 問 証人は保線区の人にそのように松川線路班から自在スパナを引き上げて来た
かどうかきいたことがあるか。
 答 保線区の中で松川線路班から引き上げて来たという自在スパナを見た覚えが
あります。しかしそれがその後どう処置されたかについては分りません。
 問 証人はこれまで警察職員、検察官、弁護士等から本件についての事情をきか
れたことがないか。
 答 昭和二四年一〇月下旬頃一回田島検事に任意出頭を求められきかれましたが
列車事故の事で今日お尋ねのあつた器具の事については何もきかれませんでした。
(下略)
 なお、記録によると、前示管理部に引揚げられた自在スパナ一挺は、事件のあつ
た昭和二四年中に、二本松地区署の警察官が一時借用して同署に持ちかえり、その
後返還の途中これを金谷川巡査駐在所に置き忘れ、それが昭和三五年に至つて同駐
在所の棚の上に発見されたという事実が明認されるのである。右警察官の処置は大
失態であり、大いに咎めらるべきであるが、だからといつて、それが弁護人諸君が
声を大にして云うところの「本件は権力犯罪だ」などという証拠にはなるわけのも
のではないのである。本件は土台、官憲が権力でデツチ上げたようなものとは全く
類を異にするものなのである。
 上叙B78及びB10の再供述はいずれも克明整然としておりそこに工作の跡な
どは微塵も認められない。従つて事故発生当時修理に出されていた自在スパナは唯
一挺であることは明確で一点疑を差挾む余地のないところと私は考えられるのだが、
原判決はこれに疑惑を投げ、右両証人の証言と同様の供述をしている原二審証人B
20がたまたま第一審において、修理に出しているものか二挺であつたと述べた供
述を捉えて、それが真相だと独りぎめをしているのである。成程右B20は第一審
二〇回公判で修理中のものは二挺と述べている。しかしそれについては次のように
弁明しているのである。
 問(袴田弁護人)重ねて尋ねるが事故前に松川線路班で修理に出した自在スパナ
は一挺だけであつたか。
 答 確かに一挺丈でありました。
 問 しかし第一審で証人は修理に出してあつたのは二挺であつたと述べているが
とうか。
 答 福島の裁判所で取調をうけた際は私はあがつておりましたのて間違つて左様
に述べたと思います。修理に出した自在スパナは一挺だけであると現在では判然記
憶致しております。
 問 それだけではなく証人は原審で修理に出した二挺分の引換券もあつたと判然
証言しているがどうか。
 答 どのように証言したかよく記憶しておりませんが定数三本のうち二本が現実
にあつて一本を修理に出しその引換券があつたことは間違ありません。
 素人が初めて法廷に立たされて証人として尋問された際に、B20証人のように
いわゆるあがつて了つて供述に狂いの生ずることも想像のできないことではない、
然るに原判決は右証言はあがつて述べたようなものではない、それは捜査段階にお
けるたくさんの証拠によつて明らかだという。ところが私の見るところではそんな
証拠はないばかりでなく、鉄道当局係員の調査によつて修理中のものが一挺である
ことが明らかにされているのである(前示B79、A7の両供述参照)。そしてし
かも原判決は右B20の原二審の供述は関係者と話合つた結果の証言であるといつ
て右B20の供述が如何にも偽証工作の所産でもあるかの如く揣摩憶測するのであ
る。なお原判決は自説を論証すべく種々強弁する。しかしそれはひきょうするに右
B20証人の第一審における供述をのみ土台とするものであつて一顧の価値もない
ものである。
 思うにA8A11A10三被告のバール及びスパナ盗出しの一件を否定する原審
としてはその立場上バール及びスパナ紛失についてその所説の如きことを強弁せざ
るを得ないであろう。そして、原審裁判官の脳裡には問題のバールスパナは紛失し
ていないということが自らその固定観念とならざるを得ないものの如くである、こ
のことは原審裁判長と証人との次のような問答によつて窺い知ることがてきる。
 原審第二〇回公判における証人B78と裁判長の問答
 問 私が一寸ききましよう。長くなりますから。あのね、二丁修理に出ておると
いう説がその当時あつたのではありませんか
 答 二挺の修理ですか。
 問 そうです。自在スパナをね二挺修理に出しているということがね。この本件
のスパナか問題になつた時に本件の事故が起きてこの自在スパナが問題になつた時
にね二挺修理に出してあるということが誰からか云われたことがありませんか。
 答 聞いたことがありません。
 問 そうですが。でもね、それでは記憶喚起の為にあのそれじゃいいましよう。
証一二八号、これは八月二〇日の民報の二はんの二面ですか、これによるとね、こ
れは新聞社の方が書かれたやつですから正しかどうか知りませんよですか、二丁修
理に出してあることがわかつたというようなことが書いてあるんですよ。あのこの
民報が八月二〇日付のですから二挺修理に出てるということをいう人もおつたんじ
ゃないでしようか。
 答 聞いたことはありません。
 問 そうですか。ところがB20さんというのは工手長ですね。
 答 はいそうです。
 問 この人は第一審の公判挺で自分が赴任前に一挺修理に出し赴任後に一挺修理
に出したということを証言されておるんですよ。ですから二丁修理に出たというこ
とが話に上つたんではないでしようか。
 答 聞いたことはありません。
 問 そうですか。それからもう一つそれじゃもう一つ記憶換起の為にこの二四年
一〇月三〇日付のB18に対する辻検事調書、これは二四年一〇月三〇日付ですよ、
辻検事調書によるとB18さんもね二丁修理に保線区に出しておることを現場の話
合で知つたわけであるという趣旨のことが書いてありますよ。それから二挺修理に
出ておるという何かそういう話がどつか出たんじゃないでしょか。
 答 その当時ですか。
 問 そうです。これあなた一〇月の調べが一〇月三〇日付ですからね。それから
先程いうた新聞は八月二〇日付の新聞ですよ。二四年のですから何か二挺修理に出
しておるという話は出たことはあるんじゃないでしようか。あなたは一挺修理に出
したと今おしやるけれどもあなたのような説もあつたかもしれませんがそうでなく
二挺修理に出しておるんだという説もあつたんじゃないでしょうか。
 答 なんだか私は。
 問 そういうことを聞いたことはありませんか。
 答 そういうことは聞いたことはありません。
 問 そうですが。あなたは器具当番として八月一五日に器具当番をなさつたから
今いうたようにバールが一二本それからスパナは現在数二挺ですか、あつたとおつ
しやるが、そんなに何十種類もある器具を毎日点検するものですか。たいへんだら
しがなかつたんじやありませんか。
 答 いや器具は毎日点検してます。
 問 いや今ごろは非常に厳重にやつておられるけれども、そのころはだらしがな
かつたんじやありませんか。
 答 いやその当時も点検しております。
 問 そうですが。じゃどうぞ。あ、それからもう一問あの何本持出し、あなたは
あのスパナが、あ、バールがですね、結局一本不足しておるということをわかつた
とおつしやいましたがあなたが実際に経験せられたのはその松川線路班の倉庫に残
つている本数だけですね。
 答 はいそうです。
 問 あとは人から聞いたことですね。
 答 は。
 問 何本持ち出したということは人から聞いたことですね。
 答 ええそうです。それはあの持ち出した人に聞いた話です。
 問 聞いた、人づての話ですね。
 答 それは電話できいた話です。
 問 電話で、バールですよ。
 答 いやバールは現場と線路班の者、話は電話連絡で聞いて点検したんです。
 問 もう一ぺんおつしやつて下さい。
 答 あのね、バールの点検は現場の数と線路班の数を合せて一本足りないという
ことなんです。
 問 現場の点検はどういうふうにしてやつたんですか。
 答 私は現場にいなくて線路班にいたから。
 問 ああ、現場場の点検はご存じないんですか。
 答 そうです。
 問 あなたは知らない、とうやつて点検されたか知らないとおつしやる。
 答 そうです。
 問 はい分りました。
 右問答を読み顧みて原判文を熟読すれば原審裁判官の脳底に抜くべからざる固定
観念の横たわつていることが判る。事は簡単のようで簡単でない。それは原判決の
核心に触れるところのものである。私は右問答を読み思い半に過ぎるものあるを感
じた次第である。
 以上冗漫に過ぎる程の記述をしたが、要は松川線路班から事件発生直前備付のバ
ール及ひスパナ各一挺が紛失していることは確実で原判決がいうように紛失したか
どうか不明であるというようなボケたものでないことを私は述べたいだけのことで
ある。そして事はA8、A11、A10三被告のバール、スパア盗み出しの事実を
雄弁に証明しそれがA2、A19両被告によつて本件事故現場に携行され、本件列
車脱線顛覆の用器とされるに至る一連の事実に結び付くものであることは改めて云
うまでもあるまい。
 以上の次第で、原判文はバール・スパナ紛失関係の判断においても著しき理由不
備を露呈しているのである。
 九、いわゆるA1予言について
 昭和二四年九月二九日の検察官山本諫の取調に対し、A1は、「八月一六日は虚
空蔵様のお祭りで私の親戚のB92等がその晩虚空蔵様の境内で幻燈の映写をした。
私は午后四時頃お祭りに行き、B12が母と共にキヤンデー売りをするのを手伝つ
たり、B92等が幻燈映写の準備をするのを手伝つたりして遊んでいたが、午后七
時半頃夕食をたべるため帰宅した。食事の後その晩の列車脱線の仕事に指紋を残さ
ないため手袋を持つて行かねばならぬと思い元鉄道にいる時使つていた軍手を持つ
て行くことにした。しかし、時間がまだ早いので、もう一度虚空蔵様に行つて約束
の時間まで遊び、時間を見計つて集合場所えそのまま行くのに、手袋を持つて行つ
て人に見られてはまずいと思つたので、それを自宅塵捨場の塀の下に隠し、それか
ら虚空蔵尊に行つた。そして幻燈の映写を手伝おうと思つたが、南から、幻燈はA
11という者が手伝うから、A11がしていたキヤンデー売りを手伝えといわれて
キヤンデー売りを手伝つていた。幻燈は十一時頃やめられた。そしてその後片付を
手伝つているところにB12、B11の両名が来た。そのとき私はうつかり、B1
2、B11の両名に『今晩あたり列車の脱線があるのではないかなあ』といつた。
そのうちに時間も十二時近くになり、そろそろA3が指定した本件実行行為に行く
為の集合場所に集らなけれはならないと思つているうちに、B92、B93、B9
4等も帰るようになつたので、私もその一行と共に帰つた。そして伏拝のB95魚
店の前でB92等と分れ、自宅の方に来、自宅には立寄らずに前記の隠していた軍
手を取り出し、自宅南側の道路を西進し、約二百米で十字路に出、それを南進し約
百米のところにある十字路A4製作所の材木置場の所に行つたらA3、A18が来
たので同人らと相会した。云々」
 右の「今晩あたり列車の顛覆かあるのではないかといつた」ことがいわゆるA1
予言として検察官に取上げられているのである。被告A1はこれを全面的に否定原
審もその弁解を全面的に肯定しているのである。原判決はその弁解が後に説明する
証拠関係とぴつたりするからその弁解は真実だと認めなければならないという。い
ささか冗漫ではあるが、ここにA1弁解を摘記する。
 A1の弁解は次のとおりである。
 「九月一〇日午前五時半頃、当時私が働いていたパン屋へ、B198刑事が来て、
一寸署まで来て貰いたいといわれた。(その前八月二二日午前B12の家の前で駐
在巡査と刑事に、八月一六日の晩何をして何時頃家に帰つたかと聞かれたことがあ
り、八月二五、六日頃私の家でB66刑事から同様のことを聞かれたことがある)。
福島地区署でB198刑事から同様のことを聞かれ、調書みたいなものをとられ、
それですんだのかと思つたら、B60巡査部長に調べられた。B60部長は、同様
のことを聞いてから、今度は『一六日の晩誰れかに今晩列車の脱線顛覆があるとい
うことを言つたろう』と突然聞かれた。全然身に覚えがないので、『そんなことは
言つたことはありません』というと、恐ろしい目付きをして、『B11、B12に、
今晩列車脱線顛覆がある、と話したろう』といつてくるので、否定すると、『なに、
いわない。二人はお前から聞いたといつているから、お前のいうことは嘘だ』とい
つて責める。私は『八月一七日の日ならば、B11、B12には、昨夜松川、金谷
川間で列車脱車顛覆があつたということを話しました』といつた。すると、『一七
日の日ならお前がいわなくとも、誰でもそのことぐらい知つている。だからお前は
一六日の晩いつているんだ』という。私はどうしようもない気持だつた。すると、
『お前は喧嘩ふつかけて殴つたことがあるだろう』ときいてくる。その事実はあつ
たのだが、そういえないで、『ありません』といつてしまつた。『この野郎悪いこ
とをしているくせに、嘘ばかりいつている。だから、お前か一六日の晩言わないと
いうのは嘘なのだ』と責められる。『そんなに嘘ばかりいうならば、B11、B1
2に会わせてやる』といわれ一号調室へ連れて行かれ、そこに既に右両名が居て対
質させられた。
 B60部長は、右両名に、一六日の晩私から列車脱線顛覆があるということを聞
いたといわせるのである。で、私は、右両名に、『一六日の晩などそんなこといわ
ない。俺が君達に列車脱線顛覆の話をしたのは一七日の日だ。その時たしか隣りの
B72ちやんがいた筈だ』というと、横の方からB60部長が『そんなデタラメな
ことばかりいつているな』と怒鳴る。
 私は九月七日の午前中パンを配達に行く際、太田町のガードの所で、B11、B
12に偶然に会い、B11に突然『お前のお蔭で毎日位家に警察が来て困つた』と
いわれ、さらに『お前から列車脱線顛覆の話を聞いたのは、あれは一六日の晩でな
かつたか』ときかれたことがあり、その時私はB11に『いや、俺が君達に列車脱
線顛覆の話をしたのは一六日の晩でなくて、あれは一七日の日だつた』というと、
B11は、『そうか、それじや、お前がもし警察によばれて、このことを聞かれた
ら、あれは俺達が聞き違いして居つたのだ、といつてくれ』といわれておつたこと
を、思い出した。
 それで、私は『B11、B12君が八月一六日の晩、私から列車脱線顛覆がある
ということを聞いたのは、それはB11、B12君の記憶違いだつたんです』とい
うと、B60部長は『そんな勝手なことばかり言つているな』と怒鳴る。『お前ら
三人は、どこへ行くにも、また何をするにも一緒に行動する、という仲ではないか。
だから、B11、B12が嘘をいう筈がない。お前は八月一六日の晩言つているの
だ』と責める。私が『言わないことは言わない』といくら言つても、耳をかさない
で、責めたてられる。それに、私は不良で、人と喧嘩したり、女の子をからかつた
り、時には友達と工場から石鹸を盗んだり、B12から刄物を貰つて持つていたり
して、警察に呼び出されたいわゆる土地の不良として、警察に目をつけられていた
弱みをもつていた。それで、一刻も早く恐ろしい警察から出て帰りたいという心が
湧いてくる。B60部長からは『早く言つて家に帰るようにしたらどうだ』といわ
れるので、私は、B11、B12に言つたことを認みることによつて、直ぐ帰えさ
れるとばかり思わされたので、『B11、B12君に言つたかなあ」と認めてしま
つたようなことを言つてしまつたのである。すると、B60部長は『それは誰から
聞いたんだ』と突込んでくる。さあ、今度は益々困つてしまつた。そんな事実がな
いので答えようがないのである。それに、B11は、私が虚空蔵様の附近を黒い服
を着た者と一緒に歩いていたようだと、事実ありもしないことを言い出したので、
B60部長には『その黒い服を着た者から聞いたんだろう。その者は誰だ』と、更
に責めたてられるので、尚更困つてしまつた。そんな事実はなく、答えようがない
ので『そんな黒服を着た者と一緒に歩いたことはありません』といた。B60部長
は『B11等がお前の後から見ている。嘘いうな。必ずその黒服を着た者と歩いて
いるんだから、その者は誰だ』と責めたてる。そうかと思うと、今度は『お前は共
産党に入党しているんだろう。秘密党員だろう』などと変なことを聞いてくる。そ
こへB191警視(その時はしらなかつたが)入つてきて、暫く聞いていたが、大
声で『チンピラ共産党、嘘ばかりいつているな』と怒鳴られた。……私はB11、
B12と大体二時間位二緒の調室に入れておかれてから、又別の調室に移された。
そして、またB60部長から『黒服を着た者は誰だ』と責められる。……そうかと
思うと、梨を買つてきて、『これでも食つて、よく考えろ』という。咽喉がカラカ
ラになつているので、その梨にかぶりつく。少し休んだと思うと、『黒服を着た者
はどこの者だと』責める。
 それで、一六日の晩の行動をきかれた。私はその晩キヤンデー売りを手伝つたり、
幻燈も終つて私一人で家へ帰ると、婆ちやんが眠らず待つていて、お祭の話をした
こと、婆ちやんが泊りに来てい親戚のB97達三人を便所に起したこと、B97が
便所から戻つて床に入ると、何の気なしにB97の髪の毛を引張つて、それから眠
つてしまつたこと等を話した。
 すると、『それなら、一七日は何をしていた』とB60部長はいう。私は次のよ
うに話した。『一七日は七時頃起き、朝食後虚空蔵様へ行く途中、伏拝のB98の
所で、兄の同級生のB99という永井川信号所に勤めている人が出てきて、昨夜松
川、金谷川間で列車脱線顛覆があつたと話されて、はじめて事故を知つた。B95
魚店の近くで、B101やB102に会つて、今聞いた話をしていると、私の妹や
B97達が来たので一緒に私もお墓参りをし、それから虚空蔵様へ行つた。私はひ
とりでブラブラ遊んでいたが、多分九時過ぎと思うが、上の町の坂の方に来てみる
とB12君の母親がB99方前で、丁度キヤンデーを売る店を出すところだつたの
で、それを手伝つた。そのうち、多分九時半過ぎ頃と思うが、B12君が来たが、
直ぐその日売るキヤンデーを買いに行つた。間もなく、永井川信号所に勤めている
B103が来たので、そこで、列車脱線顛覆の模様を聞いたり、雑談をして、A1
4君はお参りに行つた。少し過ぎると、私の隣家のB199が彼氏と二人で来たの
で、列車脱線顛覆のことや雑談をしているうち、B12君が戻つて来たので、B1
2を加えて同様の話を交わしたが、店の邪魔になるといつて、B72らは帰つた。
私にB12君の家のキヤンデー売りを手伝つた。そしてキヤンデーを売りつくして
しまう頃、B11君がやつてきた。キヤンデーをみな売つてしまつてから、B11、
B12君と私の三人で、そのキヤンデーを売つた場所の前で、列車脱線顛覆のこと
や、色々の雑談をした。それから、私とB11の二人でB12君に別れて、家に帰
つて来たのである。その後はズツと家の近所で遊んでいた。』以上のように述べた。
 すると、B60部長は『お前は一七日のことは正直に言つているが、一六日の晩
のことはまだ嘘をいつている』と責めてくる。……そして、また、『黒服を着た者
は誰だ』と責めたてる。『お前はその者と一緒に列車を引つくり返したから、いわ
れないのだろう』と責める。同じことを何回も言つていじめられる。……午後一一
時頃と思うが、B60部長から『B11、B12は今帰るところだが、お前は嘘ば
かりいつているので、泊めてやる』といわれ、B191警視と相談して、一一時半
頃一年も前の喧嘩のことで、逮捕状を出されて、監房に入れられた。
 翌日も同様、黒服の者は誰だとか、誰れから列車脱線顛覆の話を聞いたか、と責
められる。……『B200らと一緒に列車を引つくり返しに行つたのだ』と責めら
れる。……この苦しさに、とうとう耐えきれず、『人通りが余りなくなつた頃虚空
蔵様の附近を、私の前を二人の者が歩きながら列車脱線顛覆の話をしておつたのを、
後から聞いたのです』と在嘘をいつた。ところが、B60部長は、『そういう、重
大な話を歩きながらできる筈がない。直接誰かに聞いているのだ』と、却つて苦し
められるようになつてしまい、『実は、道路の端の暗がりの所で、名の知らない黒
服を着た人から列車脱線顛覆のことを聞いたのです』といつたのである。」
 以上A1弁解を綜合すると、虚空蔵境内におけるA1の発言は、仮りにそのよう
な事実があつたとしても、それは、八月一七日(松川列車脱線顛覆の事故発生の日)
の事であり、その発言の内容も前示検察官の前で述べたようなものではなく「今晩」
などという限定的意味はつけておらずしかもその趣旨は未来形でなく過去形であつ
たというのである。しかし、右発言の内容が未来形であつたか過去形であつたかは
ともあれ、右発言がB12、B11両名の面前でなされたか否かが問題の鍵をなし
重点であると思う。言い換えれば、A1は一七日にもB12、B11の両名が揃つ
たところで出会つているかどうかということである。原判決はこの点につき、新証
拠のB11九月六日付B60調書及びB12の同月九日のB60調書は、A1発言
につきその日時のみ一六日夜であると述べているだけであつて、その供述内容の実
質を見れば、A1発言は本件事故発生後の一七日午後一時頃、B11、B12、A
1の三人が満願寺境内で一緒になつたときその日のニユースである列車脱線を話題
に供したA1発言であることを如実に物語つているという。ところで右新証拠のB
12、B11に対するB60調書はどんな内容のものであるかを検討してみたい。
 B12のB60調書
 (前略)黒岩虚空蔵様のお祭は八月一六日でその日母と二人で午後一時頃虚空蔵
様に登り、虚空蔵様に通ずる通路で店を出してキヤンデー売りをしました。その夜
午後一〇時三〇分頃と思いますが、同町に住んでいる友達でB11君がキヤンデー
を受け取つてきて私の店でキヤンデー売りを手伝つてくれたのであります。
 B11君が店に来てから間もなく友達であるA1君がキヤンデー売りをしていた
という親類の方と二人で虚空蔵様から私達の方に来たのであります。私達のところ
ではその時氷が不足してキヤンデーがとけて了うので氷を買いに行かなければなら
ないと母が話をした時、その場にA1君がいたのでその話を聞いてそれでは家の親
類の叔父さんがキヤンデー売りをして氷が残つていたようだから譲つて貰うように
話をしてやるというて店を去つて行きました。間もなく親類のキヤンデー屋という
年令三七年位の方と来て、私達に後一貫位と思われる氷を私達の処にもつて来てく
れて行つたのであります。その頃の時刻は時計を持つていなかつたので判然致しま
せんが午後一一時前後だと記憶致しております。
 その頃は小雨も降つて空模様も悪くなつてお客さんも少くなつたのでキヤンデー
売りも止めて午後一一時一寸過ぎ頃と思いますが、私は友達であるB11君と二人
で虚空蔵様にお参りに行つたのであります。その途中隣村の通称「B104」とい
う年令一七才位の者と逢つて三人は一緒にお寺の門を入つてお参りをすまして戻つ
てくる途中「B104」と称する者はお寺の方にいた青年のいる方に行つたのであ
ります。「B104」と称する者と私とB11君は別れてお寺との門の中間頃に立
止つて店を眺めて居りました。私達のいた位置はその夜「リンゴ」を出して商つて
いた前でありました。時刻は午後一一時二〇分頃と思いますがその時A1君が年令
二〇才位で黒いような服をきた人と二人でお寺の方向より歩いて来たのです。私と
B11がいたのに気付き私達の側に寄つて私達に向つて「脱線したんじやないか」
と聞かれたのであります。私達は別にそのような事を話されたことはなく、その時
初めてA1君より話されたのでありましたが、その時は別に気にも止めずにいたの
であります。その時A1君の連れのものは私達より約三歩位離れて歩いていました
が、その人は果してA1君の連れのものか如何か判然致しません。当時私達は時計
を見たわけではありませんが時刻は午後一一時から一一時三〇分頃と思います。前
に申し上げたような話をして先きに帰るからといつて帰つて行つたのであります。
 A1君と私等二人は別れてからA1君の行動は判りません。私達はお寺に行つて
御籠りの人達と一緒に休んでおりますと黒岩、伏拝の青年会の人達も来て休んでお
りましたが、青年の人達は寝て了つたので私とB11並びに通称「B104」の三
人は午前二時頃虚空蔵様よりB105福島工場に遊びに出たのであります。B10
5前で市内にいるB106という青年と会つてその後午前三時頃虚空蔵様に戻つた
のであります。その夜は燈籠附近にある休み場になつている小屋で私達三名と他の
四名の者が此処で夜を明かしたのであります。
 朝五時頃目をさまして私達三人は一緒にその場を去つて帰る途中お寺に廻つてみ
たが、別に変つたこともなかつたので三人は虚空蔵様を連れ立つて家の方に向つて
帰つたのであります。
 途中私は母の実家に立寄つて午前五時四〇分頃ねむたかつたので母の実家にねた
のです。起床したのは午前七時五〇分頃かと思います。朝食を御馳走になつて午前
八時一寸過ぎ頃再び虚空蔵様に一人でキヤンデーを商いに登つて行つたのでありま
す。私が店を出している母の許に行くと先に母とA1、B52ちやん、その友達(
男)の四人がおりました。一七日はそのとき初めてA1に逢つたのであります。四
人がいるときは別にA1から顛覆又は脱線の話はされたことはありません。又B5
2ちやんやその他お客さんが帰つた後でも左様な話はききませんでした。私は午前
九時一寸頃市内郷の目のA3キヤンデー屋に行つてキヤンデー五〇本程を仕入れて
きましたがその時A1はまだ私の店の椅子に腰かけておりました。
 その時母は何処かへ用達に行つていたのかその場にいないようでしたが、その時
も別に脱線の話をA1より聞いた覚えはありません。
 母が午前一一時三〇分頃実家に昼食に行つて約二〇分位して再び店に来ました。
それで私は母と交替して昼食をたべに母の実家に行つて昼食をすまして一寸休み一
二時三〇分頃母の処に行つて商売をしたのです。その後午後の一時頃B11が私達
のいる処で暫く休んでいると、B11の姉さんが来て何んだこんな処で休んでいた
のかと云つて店を終うのだから早く手伝えと云われて姉さんと一緒に行つたのであ
ります。
 その間私の処でA1とB11が逢つたかどうか記憶がないのです。午後二時三〇
分頃店を仕舞つて家の姉さん達とリヤカーをひいて帰つて行きました。その後私達
も母と一緒に店を仕舞つて午後五時頃家に帰りました。
 私は松川と金谷川の中間で列車が顛覆したという話をきたのは母の実家の人に聞
いて驚いたわけであります。事件のことについてその後いろいろ考えてみましたが、
私は事件の前夜A1が脱線したかと話したことは考えてみると変に思われます。B
11君が駐在所において「脱線したか」と云うことをA1よりきいたのでその儘話
して来たが俺のきき違いだろうかと云つて訪ねてきたので、いや俺も確かに一六日
夜A1がそういうことを話したのを聞いたと話したわけであります。
                              以 上
 B11のB60調書
 私は福島第一機関区に於て技工手として勤務致して居りましたが、昭和二十四年
三月中依願退職して現在自宅に於て製菓業を手伝て居ります。
 警察の取調を受けたのは私と友達のB107、B108、A1、B109、B2
01等と一緒に昨年八月頃福島市a町B110鉄工場に在つた石鹸工場より石鹸二
〇本程を盗んだ事に就て取調を受けた事があります。その当時取調を受けた、だけ
で処分は受けませんでした。去る八月一六日夜のことに就いて御たづねがありまし
たので当夜の事を詳しく申上げます。八月一六、七日の両日は黒岩虚空蔵様の祭典
でありました。殊に八月一六日は賑かでありましたので私も店の手伝をして居りま
したがその夜は人もでて非常に忙しかつたので午後十時頃まで店番をして居りまし
たが、B111姉さんの友達でツネという方が店にきたので店の方も大分暇になつ
たのでした。それで私は一人で虚空蔵様の御参りに行かうと思つて出かけました。
その途中黒岩にいる親類のB112いう当四〇才位の方と会ひました。恰度その逢
つた場所というのは杉妻村小学校付近の路上でありました。その時B12さんに郷
の目の「B113」よりキヤンデー百本程持つて来て呉れと依頼されたので、私は
その場所よりキヤンデーを受取に家に戻り自転車で「B113」に行つてキヤンデ
ー百二十程を持つてきて帰り家に立ちよつて自転車を置いたのであります。恰度家
に立寄つた処姉さんの友達でB114さんという方がきていたので一緒にキヤンデ
ーを持つてすらつてB12さんが店を出している虚空蔵様に行つてB12さんにキ
ヤンデーを渡したのであります。時刻は十一時一寸前頃と記憶して居ます。B12
さんの店前にある腰掛にB12さんと二人で休んで居りますと約十分位たつてから
a町字b旧永井川保線区線路工手A1がきて、私に松川とは明瞭に記憶していない
が明瞭に脱線があつたと話したので、私はそうか?と返事しただけでそれから親類
の叔父さんがキヤンデー売りをしているから手伝つているのだと又幼燈会も一寸伝
つたといつてキヤンデー売を手伝に立去つて行つた。その後B12の店前で私とB
12、B114、B109の三人が十二時頃まで休んで居りましたが、B114が
先に帰り続いてB109が帰つて行きました。私とB12の二人はB114、B1
09等が帰つた後一寸キヤンデーを売つてましたが、余り売れない処にB12さん
の妻がきて今日はやめたらというので店じまいをしているところにA1がもう止め
たのかといつてきました。その時私とB12がキヤンデー箱を見た処氷が無くなつ
と話していると、A1が氷がなかつたら手伝つている叔父さんの所に恰度氷が余つ
ているから交渉してくると言つて氷もらいに立去つたが間もなく年令五十才位の方
と二人で私達のいるところに約一貫目の氷を持つてきて呉れたのです。それから二
人は間もなく立去つたが時刻は午前零時頃かと思います。その後私はB12さんと
連立つて神様に御参りに行つたのです。その頃寺の前の広場に盆踊があつたので一
寸見て帰宅しました。B12のおくさんは先に黒岩のB99さん方に行つて待つて
いたのでB12さんはその家に廻つたので私は一人で帰宅したのであります。帰宅
すると間もなく就寝しまたが、時刻は午前一時三十分頃であつたと思います。その
夜A1の服装は、上衣は白ワイシヤツ長袖、袖をまくつていたズボンはねずみ色で
履物は白の布靴でありました。所持品は別にもつていない様でありました。私は十
六日夜遅くまで起きていたので十七日は十二時一寸前まで夢中で就寝していたので
母親に起されて昼食を喰べてから虚空蔵様に先に兄さんや弟達が店終をしているの
で手伝に出かけました。午後一時頃皆で店を解体してそれをリヤカーに積んで家に
帰つてきたのであります。その日は午後四時頃夕飯をたべて大映の映画を見に行つ
たがその夜は前に働いていた太田町のB115製パン工場に泊りました。翌一八日
午前九時頃新聞を見ました処松川で脱線事件があつた事が始めて判りました。八月
一六日午後十時三、四〇分頃B12さんの店前に於て松川で脱線したと言う話をA
1より聞きました。松川という点は明瞭に記憶はありませんが確か松川と言つた様
に思います。脱線したと言うことは明瞭に聞きました。
                              以 上
 以上B12、B11両名の供述のどこを捜してみてもA1、B12、B11の三
名が一七日午後一時頃満願寺境内で一緒になつたという事跡が認め得ないばかりで
なく、右三名の間にその日のニユースの列車脱線顛覆の事件が話題に供されたなど
ということは塵のかけらすらも見出し得ないのである。にも拘らず、原判決は右両
供述は一七日当日の列車顛覆事件が三名の間に話題に供されていることを如実に物
語つているなどとそらぞらしくも判断しているのである。何んという虚無証拠によ
る事実認定であろうか。原判決のいわゆる新証拠による判断というものは概ねこの
ようなものである。原判決の用語を借りていえば一事は万事、思い半に過ぎるもの
があるではないか。以上によればA1発言なるものは一六日夜満願寺の祭礼におい
て友人B12、B11の面前でなされていることはもはや争のない事実と信ずるの
である。右B11は事件後一〇余年後の原審法廷において明確にこの点を証言して
いる(原審B11の証言参照)。
 そして、右発言が未来形でなく、過去形であつたとしても、列車脱線顛覆事件発
生の前夜になされていることは、意味重大である。原判示によればチンピラ青年で
あり、ナマコみたいな男であつたA1破告としては、やがて自分も参加するであろ
う列車脱線顛覆工作を十分音識の中に入れて軽口をきいたものであることは想像に
難くないのであり、事態がかく進展しては破告A1の本件事犯えの嫌疑を払拭せん
にも払拭し得ざるものであることは多言をまつまでもない。
 原判決はA1はその当時頻々として発生していた列車事故のことを発言したのだ
という。何の故あつてA1は突如として他地方におきた列車事故のことなどを発言
したのであろうか。そんなことを言うのは窮した揚句の理屈に過ぎない。なお、原
判決は本件A1発言について原審が直接尋問した証人某々の証言についていろいろ
論議し、却つてぶちこわし云々と梛楡めいた批判をする。何の故にさような批判を
するのか。本事件に対する原審の固定観念の一端を語るにおちて示すものだと思う
が、ここではもはや触れまい。
 一〇、A1アリバイ及びそれに関連してA1自白の真実性さて、黒岩地蔵尊の祭
礼で友人B12、B11両名に対し意味深長な発言をしたA1は、B12、B11
の引留めるのもきかず山を下つた。黒岩地蔵尊の祭礼には例年近在の青年男女がた
くさん参拝し、夜通しの祭礼で、おこもりをするものもあり、B12、B11の両
名は当夜はおこもりをしたのであつたが、平素親しくしているA1が祖母に叱られ
るなど、と言つて自分等と別行動をとり一人で山を下つたことを不快に思つたとい
ら、ところでB12、B11と別れて山を下つたA1のその後の行動はどうであろ
うか。第一審二五年二月二日の一六回公判における検察官鈴木久、裁判長長尾信と
証人B92との問答の中にその行動の一こまが窺いうるのてある。その問答を左に
掲げる。
 問(検察官)満願寺で幻燈を映写したのは何時頃からですか。
 答 丁度九時でした。
 問 その映写にはA1も手伝つたのですか。
 答 私はB21方にいたので開始するときは現場にはおりませんでした。
 問 A1が証人の家え蓄音器の針を取りに行つて戻つてきてからA1はずつと証
人と一緒におつたのですか。
 答 境内で掛けたレコードと此の方のレコードとの交換の仕事をして貰いました。
 問 A1はレコードの針を持つてきてから家に帰つたというようなことはありま
せんでしたか。
 答 B21さんの所で虚空蔵様の方え行つておつて何か連絡する事があつたら云
つて来てくれと云つて虚空蔵様の方え行つて貰いましたからその事はよく判りませ
ん。
 問 その日雨は降りましたか。
 答 おそくなつた頃パラついた事がありました。
 問 幻燈は何時頃了りましたか。
 答 午後一一時頃やめたと思つております。
 問 やめてから跡片付をしたと思うが、それにA1は手伝いましたか。
 答 機械のスライドの検査やスクリーンの取片付けを手伝つて貰つたように記憶
しております。
 問 そして境内からは何時頃引揚けましたか。
 答 了つてから夕食を御馳走になつたりしたのですから、午後一一時は過ぎてお
りました。
 問 そしてB94、B93第も証人と一緒に荷物をもつて帰つたのてすか。
 答 そうです。
 問 それにはA1も一緒でしたか。
 答 はい、リヤカーの前になり後になりして帰へりました。又幻燈の説明をして
貰つたという人も一緒でした。
 問 A1とは何処まで一緒に帰りましたか。
 答 道路筋の所まででした。
 問 そこからB21の家まではどの位離れておりますか。
 答 そんなに離れておりません。二〇米位です。
 問 それからA1はどうしましたか。
 答 私は再びB21さんの宅に寄り機械は大切に取扱はねばならないという考の
下に、そこでリヤカーを借りて二台に分散して帰つたのでありますが、A1君とは
その時御苦労さんでしたと云つて別れたと思います。
 問 その別れた時刻は。
 答 午後一一時半は過ぎてたと思います。
      中   略
 問(裁判長)先程証人は帰つたのは午後一一時過ぎになつたと思うと証言された
が、それは虚空蔵様を出たのが午後一一時過ぎであつたということですか。被告人
A1の発問については食事などで途中費したというのだが虚空蔵様を出たのは何時
なのか。
 答 その晩幻燈は午後一一時迄やつておつたのであります。それから夕食を御馳
走になる者は御馳走になり、私達はリヤカーに道具を積んで出たのてすが、その出
たのは午後一一時過ぎであつたというのであります。そして先程述べました道路上、
それは国道の事ですか、そこに出たのは午後一一時半過ぎ頃であつたのてす。
 問 リヤカーに道具を積んで虚空蔵様を出たのは何時なのか。
 答 午後一一時を過ぎておりました。
 問 そして午後一一時半過ぎ頃国道上に出たというのか。
 答 そうであります。
 問 その晩証人かB116方でお茶をのんで家に帰つたというのは何時頃なのか。
 答 午後一二時過ぎ頃と記憶しております。
 問 A1と別れたのは何時頃なのか。
 答 午後一一時半過ぎ頃と思います。
 問 何処で同人と別れたのか。
 答 B95魚屋の前で別れました。
     (下   略)
 以上の問答によると、A1被告は一一時半過ぎ頃B92とB95魚屋前で別れた
ことになるわけである。ところで第一審検証の調書によるとB95魚屋からA1の
自宅までの道程は普通の道順で高々五分ないし一〇分程度のものと認められるから、
もしA1かB92とB95魚屋から別れて自宅に帰つたとすれば、おそくも午後一
二時頃までには帰つている筋合である。被告A1は、自己のアリバイを主張して当
夜は自宅にいたという。然るに、後記司法巡査B192のB117(A1の祖母)
に対する調書、同人に対する検察官山本諌の調書、同人に対するA1被告の主任弁
護人大塚一男の供述録取書及び第一審第一九回公判における被告人A1の供述によ
るもA1被告は当夜午後一二時からおよそ一時頃までの間には自宅にかえつていな
いことが窺い得られるのである。(この点は原判決も争つていない)してみれば、
前示B95魚屋前でB92と別れてから約三〇分ないし一時間位の間ではあるか、
A1はいつたいどこにどうしていたのてあろうか。その間の行動を詳にする証拠は
記録を精査するも全く見当らず、その間は全く空白状態と認めざるを得ないのであ
る。それでは、被告A1としては自己のアリバイを十分に立証したことにはならな
いのではなかろうか。被告A1はとにもかくにも当夜自分は自宅に泊つていたのた
という。そして原判決もその弁解を容認して数千言を費し非常に高い語調でその理
由付けをしている。よつて私は右空白状態の説明不十分の点は暫くこれを措いて、
この点に関する原判示を論評しようと思う。この点に関する原判決は概ね四つの部
分から成り立つている。第一は原判決の珍重する新証拠すなわち、前示B117に
対するB192刑事巡査の調書、同人に対する前示大塚録取書更にこれに結び付く
A1被告の前上告審に提出した弁解に対するその評価であり、第二はB117の孫
娘B118の髪の毛をA1が引張つたという場面、第三は捜査の欠陥、第四は捜査
官か警察調書の勧進帳読みをし、これによつてA1を絶望感の深淵におとし入れ、
A1自白をデツチ上げたという件、以上の四つのくだりによつて組成されているも
のと考えられるのである。よつて私はまづB117の調書の評価について原判示に
対し、論評を加えたい。それには、まづB117のB192調書同人に対する大塚
録取書及び同人に対する検事山本諌の供述調書の各内容がどんなものであるかを知
らなければならないと考えるし、また原判決の根幹を成すものと思うので左にその
まま掲げることとする。
          供  述  調  書
      住居 福島市(以下省略)
              無職
                 B117
                          当七五年
 右者昭和二四年九日一七日午後三時二〇分福島地区警察署において司法警察員B
192に対し任意左の通り供述した。
 私は右住居地に永年住んでおり、家族は私の外七人でありましたが、今度私の孫
であるA1についてお尋ねがありましたので、申し上げます。
 一六日は私は朝六時三〇分起き、A1を起し子供達をつかつて掃除をさせたり、
水を汲せたりし、七時三〇分頃朝の食事用意か出来たので、父を除いて家族全部で
食事をなしたのです。食事が了つて嫁(A1の母)は台所の片付けをしておりまし
た処、丁度七時四〇分頃よりA1はお祭なので外の掃除をするように私が云つたの
で家の手伝をしていた様でした。そしてお祭なので夕食を五時三〇分頃父を除く家
族全部でたべたのです。A1は夕食后B119の手伝に六時前に虚空蔵様に出て行
つたのです。私はB120さんの処に午後七時頃風呂を貰いに行つて、七時一五分
頃かへりました。嫁も向うの家のA1方に風呂を貰いに行つて七時二〇分頃かへつ
てきました。
 丁度七時一五分頃福島市(以下省略)のB121の長女B97、二女B123、
長男B124の三人が来たのでした。それで私は嫁に子供を連れてお祭に行つてこ
いと云つた処、それではと云つて七時三〇分頃嫁は子供B97B123B124を
連れてお祭に行きました。私とB125は留守番をしていたのです。嫁は九時過ぎ
頃、途中で自分の子供も連れて帰つてきたのでした。それで皆でリンゴやかぼちや
を喰べて雑談をなし、一〇時頃就寝したのですが、略図(省略)を示せば別紙のと
おりてす。
 尚私はB124が小便をすると困ると思い、一二時頃B121の子供三人を起し
小便をさせて寝たのでしたが、その時まだA1は帰つていなかつたのです。『一七
日は子供等を小便に起して寝て一時間もした頃、丁度一二時ないし一時頃と思いま
すが、A1がその頃帰つて来た様な気がするのですが、A1は福島の盆踊りにいつ
も夜おそく帰つてきておりますので一四、一五、一六日のいずれの晩かははつきり
判りかねますのでA1が帰つたかどうかは不明です。』それから午前四時頃嫁がB
125を笹木野の東北工業に行つております関係より起きて四時半頃会社に出して
やつたようでした、私は六時三〇分頃起きてA1や子供達を起したのでしたのです。
子供達が起きたのは七時近くと思つております。それから七時三〇分頃朝食事をな
し、私は家に一一時過ぎまでおりましたかA1は午前九時頃お祭に行くと云つて虚
空蔵様に出て行つたのです。丁度一一時頃お祭のオフカシも出来た頃子供達がA1
の外全部来たので一一時三〇分頃食事にしたのでした。A1は一二時三〇分帰つて
来て食事をなしたのですが、私はA1が帰つてくる前に私は一一時四〇分頃お参り
に行つて一二時半近く帰つて来たのでA1より一足早く帰つてきたのです。それか
らA1は何処かに出て行つて午後三時過ぎ頃帰つてきたように思います。なお子供
達は三時頃福島に帰つてゆきました。B97、B123、B124その後は七時頃
夕食をなし家内全都九時過ぎつかれたのて寝たのです。
                 供述人 B117 拇印
 右録取の上読みきかせた処事実相違なき旨申立て署名捺印した。
   前同日  福島地区警察署
         司法巡査    B192「印」
          供 述 録 取 書
   福島市(以下省略)
                 B117
                          当七五年
 問 貴女はA1君の祖母さんですか。
 答 はい、A1の祖母です。
 問 貴女はA1君が八月一六日にどんなことをしていたか知つていますか。そし
て一七日の朝までのことを続けてのべて下さい。
 答 A1は朝から虚蔵様のお祭の手伝に行くといつて出かけ夕方かへり、夕飯を
たべて出かけました。その時は新しいズボン(セル)をはき新しいワイシヤツを着
て出かけました。夜は一七日になつてから〇時から一時の間でA1が部屋に入つて
きたので、私は「何時だ」ときいたのでA1は「まだ一時前だ」と云つてすぐ床に
入つて寝ました。それから二時過頃と思うが、丁度親戚から泊りにきていたB97
(一二才)が小便に起きて便所に行きたいというので、私も一緒におきて便所に行
つてやりましたが、そのときにはA1は確かに寝ていました。それはA1の隣りか
B97ですから私も良く知つてます。そのB97は多分A1が寝つく時と思います
がA1に髪の毛を引張られたといつています。朝四時前に母B72が夫B125(
四七才)の仕事のために起きた処私もその時目がさめてA1のいることを確めて寝
ました。この時には少しも変つた様子もなく、又この間に外に出れば戸のあける音
や障子をあける音で必ず目がさめますから、私にはよく分ります。A1を私が見間
違つたりすることはありませんから、A1はこの間に決して外に出ていないと信じ
ます。
   私は朝六時頃起きて朝の用意をしているときもA1は良くねてました。そし
て六時半頃私はA1を起してやりましたのでA1は起きたのです。
 問 貴女の家で一六日にどんな風に夫々の部屋にねましたか。
 答 私たちは東枕で五人並んでねました。
   次の図のとおりてす。(図省略)
 右に述べたことは事実です。右のとおり相違ありません。私は文盲で字が読めま
せんが孫B126に立会つて貰い、孫に読んで貰つて間違つていないことを確かに
ききました。私はA1がつかまつて間もなく警察に調べられたときに、これと同じ
ことを話しましたが字が読めないにも拘らず、私の述べたことをそのまま聞きとつ
てくれたと思いますが、誰も私の身寄りを立会わせてはくれませんでした。そして
拇印を押させられましたが、ここで述べたことと違うことはないと思います。私は
孫B126の読んだことを真実であると確信しております。私は字がかけませんか
らB126に名前を書いて貰いました。
        右供述者     B117 拇印
        右立会者     B126 印
        右録取者     B127 印
 昭和二四年一〇月六日 B128解放救援会で記す
          供 述 調 書
      住居 福島市(以下省略)
              無職
                 B117
 右の者昭和二四年九月二六日福島地方検察庁において本職に対し任意の通り供述
した。
 一、私はA1の祖母であります。
 二、本年八月一六日虚空蔵様のお祭の日福島市の私の孫
           B118 12才
           B123 10才
           B124  9才
  が虚空蔵様のお祭の為私方に遊びに来て泊つておりました。
 八月一六日は嫁(A1の母)がこれらの孫を連れて虚空蔵様えお詣りに行つて参
りました。大体午後八時頃出掛け午後九時頃帰つてきたと思います。
 その晩B118ら三名と私とは午後一〇時頃六畳の座敷に床をのべて就寝しその
時いつもの寝ておる隣りにA1がねる床をのべておきました
 私はその晩一二時半頃便所へ起きましたがA1はまだ帰つてきておりませんでし
た。その翌一七日朝私は六時頃起きましたらA1は寝ておりました。午前七時頃A
1がおきましたので、私はA1に対し、お前昨夜何時頃帰つたかと聞きました。A
1は一時頃帰つたと云つておりました。私はそれで夜中の一時頃A1が帰つたと思
つておりました。
                 B117(A1)
 右録取し読聞けたるに誤のない旨申立てたるも本人無筆につき代署したるに捺印
した。
 即日 福島地方検察庁
     検   事       山   本       諌「印」
     立会副検事       大   沼   新 五 郎「印」
         第一審一九回公判調書
 (前 略)
 問(山本諌検察官)証人はその晩何時頃家に帰へりましたか。
 答(A1被告)一二時半過ぎ頃か翌朝一時頃てありました。
 問 虚空蔵様の境内から家に帰へる際は誰かと一しょではありませんでしたか。
 答 B92さんとB148さんと私とでB95魚屋の前まで一緒にゆきそこで別
れました。
 問 B95魚やとは何処にあるのですか。
 答 伏拝であります。
 問 その魚屋の附近にB92と関係のある家がありますか。
 答 あると思います。
 問 何という家ですか。
 答 B116です。
 問 その家とB95魚屋とはどの位離れておりますか。
 答 直ぐ近くであります。
 問 そこで別れてから証人は一人で家に帰つたのですか。
 答 そうです。
 (中 略)
 問 八月一六日の晩証人方にB118というものが来ておりませんでしたか。
 答 来ておりました。
 問 B118と証人方との関係はどうですか。
 答 親せきになつております。
 問 その晩はB118以外には来ておりませんでしたか。
 答 B123、B124の三人が来ておりました。
 問 B118外二人の親せきの者はその晩証人方に泊つたのですか。
 答 そうです。
 問 証人方のどの部屋に泊りましたが。
 答 私のいつもねておる部屋に泊りました。
 問 証人と一緒にねておつたのですか。
 答 そうです。
 問 前の三人と証人の四人でねたのですか。
 答 その外に私の祖母とまぜて五人でねました。
 問 その晩の真夜中にB118の髪の毛を引張つたというようなことはありませ
んでしたか。
 答 私が帰つてからおばあさんがB118を小便につれて行つたのですが、帰つ
てきて床に入つたときに私はB118の髪の毛をいたずらして引張りました。
   翌朝B118の髪の毛を引張つたろうと云いましたが、私はしないと嘘を云
つておきました。
 問 八月一七日の朝七時頃証人のおばあさんと証人との間で前の晩の事を何か話
をしたことがありますか。
 答 別に話という事はありませんでしたが、「夕ベ帰つたのは何時頃だつたろう」
と私が聞いた処「多分一時頃ではないか」と云われた外は記憶にありません。
 思うに、人証調書の価値判断は事実審裁判官の裁量に委ねられるといつても、そ
れは常識を外れぬ合理的なものでなければならないことは云うも愚かである。それ
では何か合理的かと云えば、調書それ自体に即し、その内包する供述をしさいに凝
視検討し、或はこれと関連する他の調書との比較考照の上において、その供述の真
の意味を常識的につかみとることである。そこには捜査過程における捜査の手落な
どをかれこれ詮議して捜査の不備を想定して(このことにのみ執着して)これが真
相であるなどと大言壮語することなどは許さるべきではないのである。事実審裁判
官は飽くまで記録に即しで真実発見に努めなければならないのであつて、夾雑物に
煩わされてはならない。そこに事実審裁判官の真の任務があると云うべきである。
そこで私はまず第一に原審裁判官が虎の子のように大事にし、その存在自体松川事
件の運命を左右するが如く評価するところの前示B117のB192調書を取上げ
て論評し度い。問題は至極簡単で、「一七日、子供達を小便に起して寝て一時間も
した頃丁一二時ないし一時頃と思いますがA1がその頃帰つてきたような気がする
のですが、A1は福島の盆踊に行つて夜おそく帰つてきておりますので、一四、一
五、一六日のいずれの晩かははつきり判りまねますので、A1が帰つたかどうかけ
不明です」云々の読み方如何にかかつているのである。私は本調書を繰り返えし読
み通し、問題の点を何度も読み下してみても、右供述するところは、結局、A1は
何時に帰つてきたか、その晩帰つてきたかどうかも実のところ判らないのだという
趣旨に帰着するとしか読みとり得なかつたのである。恐らく素人が読んでもそのよ
うにしか読み得ないであろう。それが常識的な読み方、証拠の正しい価値判断とい
うものである。しかるに原判決は、右問題の部分を分断して、次の如く解釈するの
である。すなわち、B117は自分の記憶としてはA1が一六日の晩一二時か一時
頃帰つて来たように思う。ただ一四、一五、一六の三日間はお祭の盆踊で毎晩A1
はおそく帰つてきていてそのうちに何時頃A1が帰つたのかわからない晩があり、
それが何日の晩か、ハツキリわかりかねるので、A1が一六日の晩一二時か一時頃
扁つたとは断言できず不明であるという趣旨を附け加えたつもりのように解される
のであつて、右附け加えた部分は意味瞬昧で不合理であるという。どうして不合理
であるかについて原判決はるるとして説明しているが、実は私にはその説明が瞬昧
混沌として焦点が合わずよくわからないのである。しかしこれを善解すればB11
7の体験談としては孫A1は一二時か一時頃には確に自宅に帰つていたということ
をB117の供述の中から汲みとりうるということを云わんとするものであろう。
B117の右問題の供述をどうしてそのように受取らなければならないか原審裁判
官の底意の程に非常な疑を抱くのであるが、それはそれとして、B117の右供述
がA1在宅の証拠になるというならば、私は全く措信の価値ないものだと思至ので
ある。次にその理由を他の証拠との比較考照の上で明かにしたい。
 B117の前示B192調書によると、「私は一二時頃子供三人を小便に起し小
便をさせて寝たのですがその時まだA1は帰つていなかつたのです子供達を寝せて
一時間もした頃丁度一二時ないし一時頃と思いますが、A1がその頃帰つてきた様
な気がするのですが」とあり、右によればB117が子供連を小便に起したのはお
そくとも一二時頃のこととなるわけであるが、B117に対する大塚録取書による
と「午前二時過ぎ頃と思うがB97が小便に起きて便所にゆきたいというので私も
便所に一緒におきて便所に行つてやりましたが、そのときにはA1は確かに寝てお
りました」とあつて、B97を小便に起したのがB192調書のそれよりおくれて
午前二時頃になつており、その前に子供達を小便に起したことについては何も記載
がないのである。
 又B192調書によると、B117か子達を小便に連れて行つてからA1が帰つ
てきたことになつているのであるが、第一審一九回公判におけるA1供述によると、
A1が帰つてきてからB117がB118を小便に連れて行つたことになつている
のである。そして又大塚録取書によると、A1が家に戻りA1が部屋に入つてきた
ので私(B117)は「何時だ」ときいたのでA1は「まだ一時前だ」といつてす
ぐ寝床に入つてねましたとあるに拘らず、B117に対する前示山本調書によるに、
私(B117)は翌一七日朝六時頃起きましたらA1は寝ておりました。午前七時
頃A1がおきましたので、私はA1に対しお前昨夜何時頃帰つたかとききました。
A1は一時頃帰つたと云つておりました。それで私は夜中の一時頃A1は帰つたも
のと思つておりました。とあり、更に第一審一九回公判調書によると、
 問(山本検察官)八月一七日の朝七時頃証人のおばあさんと証人との間で前の晩
の事を何か話をしたことがありますか。
 答(A1)別に話ということはありませんでしたが「タベ帰つたのは何時頃だつ
たろうと私が聞いた処「多分一時頃ではないか」と云われた外は記憶にありません」
とあり、
 右問答によると、前示大塚録取書に記載されてあるように、A1が帰宅早々に時
間の問答をしたようにはなつていないのであり、しかも、一方前示B192調書に
は、その点何ら記載されていないのである。
 以上によると、原判決の表現を借りて云えばB117にしてもA1にしても同じ
事柄について体験を異にしているのであり、要するに肝腎な点で喰い違いかあるの
である。これではB117の供述にしてもA1のそれにしても信用したくとも信用
できないではないか、信用せよという方が無理であろう。B117の大塚録取中に
同人の供述として「朝四時前に母B72が夫B125(四七才)の仕事のために起
きた処、私はその時目がさめて、A1のいることを確めて寝ました」との一句があ
り、「確めて寝ました」とはいつたい何を意味するのであろうか。いつも自分の側
に寝るA1の寝姿をなぜその晩に限つて確める必要があつたのであろうか。如何に
もおかしいではないか。私は大塚録取書なるものを繰りかえし読んでみたが、成る
程A1の実兄B126の立会の下に主任弁護人が聴取つただけの値打はあるのであ
るが、B117の供述の語調の中に孫A1を庇護したい一心で云つているのではな
いかと思われる節々があり(祖母としてはそれも無理からぬことであろう)、私と
しては、到底得心がいかなかつたのである。以上を綜合すると、もはや水掛論を容
れる余地がないとか或は松川事件の始発駅であつて終着駅であるとか云つて、珍重
するところのB117に対する前示B192調書(大塚録取書も同じ)に対する原
判決の判断は過剰も過剰、非常な過剰評価と評する以外に表現の言葉を見出し得な
いのである。
 次に原判決が鬼の首でもとつたように論じ立てるA1がB118の髪の毛を引張
つたという場面について述べる。成程髪の毛を引張つたということは偽りではない
と思う。しかしその時間が問題なのである。大塚録取書及び前示第一審一九回公判
のA1供述によると、B118が祖母と小用から帰つて床についた間隙にA1がB
118の髪を引張つたことになつている。無論夜半のことである、原判決はこの事
実を全面的に肯定し、チンピラ青年のA1としては正にやりそうなことで毫も不自
然ではなく、これこそA1アリバイの確実な証拠だと論ずる。一九才のチンピラ青
年であるA1が夜半一二才の少女の髪のを毛を引張るということは単なるいたずら
で、不自然でないということは原判決の云うとおりであろう。しかし、色事でもな
さそうなその場合に、一二才のB118はまだねむつていないのである。痛いとか
何んとか云つたことと思うが、そうした反応については原判決は何も云つていない
し、また前示調書は勿論記録上もその点に触るる何ものもないのである。しかも、
B118はあくる朝になつてA1に対しゆうべ私の髪を引張つたでしょうと問うた
処、A1は知らないといつて嘘を云つたというのである(前示第一審公判調書参照)。
ところがA1自白によるとこの点は全く逆の話になつているのである。すなわちA
1の供述として「朝食後B97にタベ髪の毛を引張つたのを知つているかときいた
ら、知らなかつたと返事したので、あんなに引張つたんだから、わからない筈はな
いだろうといつておいた」というのである。以上によつて考量すると原判示の時刻
にA1がB118の髪の毛を引張つたなどという事実はなかつたのではないかと思
われるのである。しかも、そこにはアリバイ工作の跡歴然たるを感ずるのである。
私見によれば、むしろA1自白に出てくる列車脱線顛覆工作後帰宅してからB11
8の側に寝て、B118の髪の毛を引張つたという事実の方が自然で且合理性をも
つているものと考えられるのである。何んとならば、アリバイさえ十分にしておけ
ばばつれこないと繰り返えし云われてるA1としては、(前掲A1自白参照)その
知恵を絞つて帰宅早々B118の髪の毛を引張り、このとおり自分は当夜自宅にい
たのだという証拠を残しておこうという下心が働いていたと見る方がその時の事態
に即応するからである。(この判断に対する原判決の判断は一向に納得がゆかない)
してみればA1がB118の髪の毛を引張つたという場面は原判決が論ずる程に鬼
の首程の値打かあるものではなく、また髪の毛を引張つた時刻に関するB117の
供述やA1被告の供述はいずれも俄に信をおき難いものと云わざるを得ないのであ
る。原判決は、右髪の毛引張りの件を捜査官は知り乍ら意識的に調書に登載しない、
このことは取りも直さず、捜査官がA1のアリバイを明るみに出すことをおそれた
証拠であり、この事実こそA1にアリバイのあることを示す証左であるといつて長
々と談義を展開する。成る程前示B192調書にも亦山本調書にもその点の供述記
載は何らされていない。しかし、そのことから捜査官がA1アリバイを明るみに出
すことを妨害すべく意識的に供述を登載しないなどという推理が成り立ち得るので
あろうか(前示山本調書より先きに作成された二四年九月二三日付のA1調書には
問題の点が取上げられているのである。原判決はこれをどのように合理的に説明す
るのであろうか)。ここにも原判決は、慣用の跳躍論法を用いて、結論を引き出し
ているのである。そこにはいつもいうとおりプラスXの探究が欠けているのである。
従つて極言すると無軌道な想像以外の何ものでもないのである。また、原判決は大
塚録取書に出てくる事実すなわち、「一七日の朝四時頃嫁B72(A1の母)が夫
B125の仕事のために起きたので私(B117)もそのとき目が覚めてA1の寝
ていることを確めて寝ました」という点について何故右両人を捜査官は取り調べた
上でその供述をとらなかつたのかという。捜査官としてはA1の父B125が朝早
く出勤に出掛けその妻B72が炊事に朝起きする慣例になつていることは知つてい
る筈である。もしB125夫妻を喚問すれば、A1の不在証明は立ち所に明瞭にな
つたであろうという趣旨のことを論じた上で、その手段を敢えてとらなかつたのは、
A1のアリバイの明るみに出ることをおそれた所以であるという風に論難するので
ある。成る程捜査官がそこ迄手を廻さなかつたことは手ぬかりと云えば手ぬかりで
もあろう。しかし、A1の両親としてはわが子A1が列車転覆作業から帰つてきて
寝ているとも或はそのような嫌疑をかけられる可能性があるなどとは夢更々思い及
ばず、いつものとおり祖母B117の側に寝ていることと思つておつたであろうか
ら、A1がその夜寝ているかどうかなど関心がなかつたものと想察されないわけで
もないのである。してみれば、B125夫妻を喚問してみたところで何の効果も挙
げ得なかつたかも知れない。従つて捜査官がB125夫婦を意識的にも無意識的に
も取調べないからといつて、その事から直ちに捜査官がA1アリバイを故意に明る
みに出さなかなたとは云い得ない筋合である。原判決がそれ程までにB125夫婦
の供述に期待をかけているならば自ら職権で調べたならよかつたではないか。何故
に右両名を喚問する手段をとらなかつたのであろうか。この点の原判決の所論は顧
みて他を云うたぐいてあつて首肯し難い。
 以上を綜合して要約すれば、原判決の力説するA1アリバイの高度の蓋然性など
というものは到底認め得べき限りではないのである。
 尚この際原審の証拠の取扱方について一言する。この点は本意見の冒頭ですでに
言及したところであるが、原判決はB117のB192調書(大塚録取書について
も同じ)を確固不動の証明力をもつているものとして論陣を展開しているから重ね
て一言する次第である。原判決によれば体験を同じうしたものの供述(その中には
被告人の弁解も含む)が一致すればそれは真実と認めるのが常識常則であるという。
しかし問題はその前にあるのではなかろうか。体験を同じうするといつてもその体
験が考え違いや勘違いであつたなら、いくら体験が同じようするからといつて体験
プラス体験イコール真実の方程式は成り立たないであろう。そんなことは素人でも
判ることである。本件においてB192調書におけるB117の供述は果して、真
の体験を物語つているのであろうか。大塚録取書におけるB117の供述はどうで
あろうか。況んやA1弁解においておやである。確固不動の供述などというものは
あらゆる反証にされても些も動じない揺ぎない供述をいうのである。B192調書
大塚録取書におけるB117の供述はそのような意味で動じないものであるかとい
うと、数多い反証があり、それにさらされて些も動じないものであるなどとは決し
て云い切れるものでないことは上来縷述したところで明らかであろう。ましてA1
弁解はそれを熟読する人ならば直ちに気付く程に浮薄で空疎なものになるにおいて
おやである。(右弁解の要領は後記参照)。原判決は捜査官る確信過剰型と云つて
冷笑する。しかし前示のような内容しかないB192調書(大塚録取書についても
回じ)を自己陶酔的に過剰評価し、自ら問い自ら答えて満足し、そしてその独特の
推理で得た結論を読む人に押し付けようとする原判決の態度こそは正に確信過剰型
ではなかろうか。この傾向は原判決を一貫しているのであるが、私がこれから論評
を加えようとする捜査官がA1の自白を得るまでの経過及びA1アリバイの結論を
叙述する原判示においてその傾向が特に著しい。その判示は原判決の重要な骨格を
成するものと考えられるのであるが、その表現の方法は、これが裁判官という名を
もつ人の物したものであろうかと驚く程に激情的で尖鋭的でしかも偏向的に高飛車
に押してくるものなのである。その意味で私は非常な異常感に襲われたと同時に、
このような判文は私一人が味読すべきものではないと考えたのである。よつてここ
にその要領を摘記し、また原判決の基底となつているA1弁解の概要をも附加する
こととする。原判決はいう。
 もう一つ極めて重要な点は、新証拠の出現により、A1が「B117917B1
92調書」の内容を、B60巡査部長から、A1はいつ帰宅したかわからない趣旨
に読んできかされ、B117の署名指印を示されて、自分のアリバイを最もよく知
つているお婆ちゃんからも見放されたと深刻な絶望感に陥り、遂に自白するに至つ
たという事実が確証されたことである。この黒は、次に説明する。
 「B117917B192調書」の仮面をかぶつた「B117の警察調書」を、
A1がB60巡査部長から、A1はいつ帰つたかわからない旨述べていると読んで
きかされ、B117の署名指印のところを見せられて、最後の命の網も切られたと
絶望の余り自白するに至つたというA1の弁解の真実であることが、新証拠の出現
により確証された。その証拠は次のとおりである。
 B60巡査部長は、原二審証人として次のように証言する。「A1予言のあと、
捜査はA1アリバイ関係に移つた。A1の申立では、一六日の晩一二時頃帰宅した
際、遊びに来ていた親戚の子供を、祖母が便所に連れて行つて帰り、寝床に寝かし
たところであつた。それで自分はその子の髪の毛を引張つたのだと申立てた。この
ことについては他の捜査員がA1の祖母の許へ行つて調査したかどうかわからない
が、祖母に署に来て貰つて調べたことは確かだと思う。そして、この調書ができて
おつたのであるが、それによると、祖母の申立では、子供を便所に連れて行つた時
にはA1は帰宅していなかつたというのであつた。A1の帰宅した時刻はわからな
いといら趣旨のことが述べられてあつた。その調書は私以外の捜査員が作成したの
である。それで、その点について、A1に対し、更に取り調べを進めた結果、A1
は実は斯様な訳で、私がやつたのだと自白したのである。自白したのは多分九月一
八、九日の頃だつたと思う。B191警視が調べはじめてから四日ばかり後のこと
である。」一審でも同趣旨の証言をし、A1が自白した当時の模様につき、「二人
(祖母とA1)の話が合わないので、私は、君は帰宅したといい、お婆さんは帰つ
ていないと言つているのだが、どうも変ではないかといつたら、A1は非常に困つ
た様子で、今までの態度と変つていた。」
 「その晩(一六日の晩)のアリバイ関係について聞いていたらA1は自供しはじ
めたのである。」旨証言している。この点につき、B191証人も、「九月一八日
前後の午後と思うが、B60部長がA1に、君の家のお婆さんは一二時頃泊つてい
たB118(B97)を便所に起した時、A1はまだ帰つていなかつた、といつて
いるが、というと、A1は一二時頃帰つてB118の髪の毛を引張つたといつて、
婆さんの話と食い違つた。そこで、何か疑念が感ぜられたので、A1に、言わなけ
れば言わなくともよいが、と静かに言つてきかせて、先程の矛盾した点を聞いたら、
A1は共産党に馬鹿にされていた私は本当の人間に立ち返つて、本当のことを申し
上げるから、なんとかお願いする、といつて、椅子に坐り直して自供したのである」
旨(一審)、右矛盾した点をきいて、「それは本当がときくと、A1は邃かに顔色
を変えて、椅子に坐り直し」て自供した旨(原二審)証言している。
 右によると、B60巡査部長かA1に対し、「B117の警察調書」の内容はお
前が弁解するのとは違うというと、A1の顔に困惑の色が現われ、顔色を変えて、
態度が変り、心境が変つて、自白するに至つた、という事実を、取調官自身が証明
しているのである。けれども、誰でもすぐ気付くであろう。B60部長がただ単に
そういうことを言つた程度で、逮捕勾留されて以来一週間以上も否認しつづけてき
たA1が、顔色を変えて、椅子に坐り直し、すぐ自白しはじめたなどとは変ではな
いか、と。
 B60証言(一審)はA1の反対尋問に答えていう。問(A1被告)、証人は私
に、お前の祖母は八月一六日の晩二時頃日を覚していたが、お前は帰つていなかつ
た、また四時頃目を覚した時もまだ帰つていなかつたと言つている。お前が転覆さ
せたのだ、ときいたのはなぜか。答(B60証人)私はそのようなことは言つてい
ない。問、私は証人にいわれておるから、聞いているのである。証人は只今宣誓を
したのだから、良心に従つて言つておるのだろう。それから証人はお婆さんの調書
を見せたのではないか。答、調書は見せておらない。」「問、私は見せられた。又
それを読んで聞かされて、私は責められたのである。それでもないというのか。答、
そのよらなことは絶対にない。問、すると、私がでまかせを言つているのたという
のか答、そうてある。問、私はその供述調書を読んで聞かされたのてある。それに
は、四時頃起きたが、A1はまだ帰つていなかつた、と書いてあるのを読んで聞か
されたのである。どうか。答、その時、君は、あの晩一二時に帰つて寝たといつた
ので、お婆さんの話と違つている。どうして違つているのか、と私は聞いたのであ
る。」「問、その調書を証人は私にどうして見せたのか。答、私は見せない。問、
私はお婆さんの拇印が押してあるものを見せられておるのである。証人は嘘をいら
のである。答、嘘は言つておらたい。問、私はお婆さんの調書を見せられたから、
きいておるのである。……警察という所は一般の人に嘘をいわせる所なのか。((
この時裁判長は、事実に関係のない発問は禁止する旨注意した))」。さらに、別
のととろで、A1の反対尋問は屡々裁判長に注意されたほどの激しい口調で続く。
「問、お婆さんを調べた取調官は誰か。答、現在は記憶がない。問、土屋部長では
ないか。答、記憶がない。問、証人は自分に都合が悪いと記憶かないというのは何
うしてか。答、土屋部長であつたか、B198刑事であつたか記憶がないので、記
憶にないというのてある。問、土屋部長と私は記憶しているのてある。私に記憶が
あるのに、警察官が記憶ないというのは何うしてか。((この時裁判長は穏当でな
い発問は制限すると注意した))。」
 「B117106917B192調書」は当差戻し審になつて、検察官が公益の
代表者としての立場から提出されるまで、「B117の警察調書」なる仮面をかぶ
つたまま門外出の調書であつた。B117は文盲て身よりの立会人かついていなか
つた(「B117106大塚録取書」、「B117926山本調書」の各末尾の記
載、一審B117証人の二二回公判調書の記載及び同宣誓書の記載参照)から、取
調官が誰であるかもちろんわかる筈はない。この点の証拠に基かない単なる臆測は
許されない(例えば、呼出葉書で、係官か土屋であることを知つた家人が、あとで
A1と打合わせたというような)当審に現れたB117九月一七日B192調書の
出現によりその取調官はB192巡査(当時は巡査部長でなかつた)であることは
明白である。B60証言は調書をA1に見せたことはないと繰り返し強調している。
しかし、A1が弁解しているように、その調書の未尾のB117の拇印のおしてあ
るところを見せられないで、その調書の作成者か土屋巡査であることを、A1が知
つている筈かないのではないか。この点の単なる臆測は許されない。
 そうして、「B117917B192調書」の供述内容が、右B60、B191
両証人の証言するような、その晩A1がいつ帰つたかわからないという趣旨のもの
でなく、却つて、その晩一二時から一時頃に帰つて来たような気がすると述べられ
ているものであることは、既に説明した。A1の弁解するB60部長から読んでき
かされたという「B117か二時まで目をさましていたが、A1は帰らない。四時
頃小用に起きた時もまだ帰らない。いつ帰つたかわからない」などという供述記載
はもちろんない。B60部長がそのような趣旨に読んできかせた事実は、「A1が
一六日の晩の一二時か一時頃帰つていないという証拠は、お婆さんの申立によつて
もわかる」旨のB60証言自体から明らかである。B60部長が、その際、A1に
対し、「お婆さんは、はじめは一時頃帰つたと言つたが、あとでは帰つていないと
言つているから、お前が帰つたということは嘘だ、といつた」ということが真実で
あることは、先に説明したところである。B60証人は、また、「問(A1)、証
人が、お婆きんが御飯たきに起きた折は、お前はまだ帰つていなかつた、といつた
のは、どうしてわかつたのか。答(B60)お婆さんは御飯たきをやつておつたの
で部屋には行かなかつたから帰つたかどうか分らないと言つておつたのだから、私
がそのようなことをいう筈がない」と証言しているが、B192調書にはB60証
言のいうようなことは全く記載されていないし、B60部長がB117を取り調べ
たのではないから、B117がそのようなことを述べたかどうかB60部長にわか
る筈もなく、右B60証言は明らかに事実に反する。B60証人は、「A1が一六
日の晩の一二時か一時頃帰つておらないという証拠は、お婆さんの申立によつても
わかる」と確信的な証言をしているが、お婆さんのB117はそのような申立をし
ていないし、いくらB60部長の確信的取調べでも、「B117917B192調
書」をそのように読み違える筈はない。A1自身にしても、お婆ちやんが知つてい
ると訴えつづけた程であるから、お婆ちやんの弱い控え目の表現ながら自分のアリ
バイを供述している「B117917B192調書」を自ら読んだとすれば、反対
の意味に読み違えるなどということは到底あり得る筈がない。
 以上の次第で、B60巡査部長がA1に「B117917B192調書」の末尾
のB117の署名拇印のしてあるところを見せた事実は、A1がその調書の作成者
が土屋巡査であると記憶していたこと、及び右B192調書の出現により動かない。
そうして、A1がB60部長から右B192調書の供述内容をA1の弁解するよう
な趣旨に読んで聞かされ、その読んで聞かされた内容が、実際にその調書に記載さ
れてある供述内容と異つていた事実は、A1が右B117の署名拇印のあるところ
を見せられた事実、前記B60、B191の両証言及び右B192調書の出現、こ
れらによつてその真実性か裏書きされたA1の法廷供述により確証されて余りあり
といえる。
 そこには、見解の相違を容れる余地全くなく、水掛論を許す余地は全然ない。
 A1は八歳の時内地の小学校へ入つたため、満州に居た両親から離れて、祖父母
の許に帰つてきて育てられた「お婆さん子」であつて、本件当時もなお祖母B11
7と一緒に六畳の部屋に寝起きしていた程なのである。お婆ちやんが自分の無実を
一番よく知つていると訴えつづけたそのお婆ちやんの警察調書を、右のような内容
であると読み聞かされ、その署名拇印を見せられた時、一九歳のチンピラA1のう
けた精神的衝撃は、けだし推測を絶するものであつたであろう。B60巡査部長の
勘進帳読みの一幕は、A1自白への最後の切札だつたのである。仮面をかぶつた「
B117の警察調書」はA1自白への決定打となつたのである。だが、しかし、B
191警視にしても、B60巡査部長にとつても、「B117の警察調書」の仮面
をはがれた「B117917B192調書」が、いつの日か日の目を見て、確信過
剰型的捜査過誤の証拠とA1アリバイの証拠とのダブル・プレーを演ずることは夢
にも想わなかつたてあるう。(中略)
 六法全書問題についても、先に少しふれたところであるが、同様である。この点
に関するB191証言は一審と原二審とでは矛盾している。B191証人は一審で
は、「A1は汽車転覆は私が本当に引き起したというので、私は六法全書を見せな
がら、この事件は無期か死刑しかないのだと教えると、A1はどんな罪になつても、
やつたのてあるから、いいます、といつて話しはじめたのである」「それはA1が
自供する前に、六法全書を見せて、この事件は死刑か無期しかないのだから、とい
つたら、君は真人間になつて話をする。といつて、自供したのではないか。それに
私は捜査機関だから、死刑、無期になるとかいえない筈であるし、言つてもいない」
と証言している。即ち、A1の自供前に六法全書をA1に見せたということは、B
191証人自身がいい出したのである。自白前に六法全書を見せられ、死刑、無期
しかない事件だぞといわれて、ハイそれでも本当にやつたのだから申し上げますと、
すぐ自白するなどということが、通常人にあり得ようか。A1は、B191警視か
ら、松川事件は皆自供している。お前だけ自供しないと重くなるから、早くいえ、
いえといわれた旨弁解している。自白前に六法全書を見せられて、この事件は死刑、
無期しかないのだぞといわれた以上、人間性の悲しさで、自白すれば刑が軽くなる
だろうというような趣旨のことをいわれてこそ、少くともそのような趣旨の暗示を
与えられてこそ、はじめて自白するのが、まず常識であろう。この常識は、A1が
福島拘置所から保原警察署長宛に出した証二二号の葉書(一二月三日午前八時乃至
一二時のスタンプがおしてあり、葉書の内容は私は今夕食を終つて云々とあるから、
拘置所における手紙を出す手続からみて、この葉書を書いた日時は一二月一日夜と
認められる。即ちA1の自白を飜す心境変化前に書かれたものである)に、「一日
も早く刑期をすまして社会に出て働きたい」と書かれていることによつて、裏付け
られている。(真に無実の者が多少でも刑期に服する覚悟をしている筈がない、と
みるのは早計である。冒頭で説明した、自分は無実でも共産党の組合幹部がA1が
やつたといつているのでは助からない。お婆ちやんさえ俺がその晩帰らないといつ
ている。こうなつては助りつこはない。せめて死刑は免れたいという心境にA1が
なつた事実は、取調官自身の証言によつて確証された。そのA1が、多少なりと刑
期に服して早く社会に出たいという心境であることが立証されてみると、取調官の
証言する以上に、自白にあたつて取調官から何らかの話、少なくともその暗示があ
つたのではないか、と疑わざるを得ないことになろう)。
 一九歳のチンピラA1が、裁判長の度重なる注意、制止にもめげす、証人台に立
つた捜査のベテランB191警視とB60巡査部長に対し、敢然と、反対尋問を執
拗に繰り返し、さすがのベテランが問いつめられて、タジタジとなり、或は遁辞的
証言をし、或は矛盾した証言をして、その表面的否定にも拘らず、随時随所に、A
1弁解の真実であることの片鱗を証言せざるを得ない羽目に陥つているのは、それ
こそ決して只事ではない。真実の力強さを想わせる光景であるとしか考え難い。
 以上説明したところから、A1が、俺はいくら無実でも、共産党の組合幹部がA
1がやつているというのでは助からない、一番よく俺のアリバイを知つているお婆
ちやんまで、その晩A1が帰らないといつているのでは、もう助かりつこはない、
という孤独的絶望感、こうなつた以上は、せめて死刑だけは免れたい、という追い
つめられた絶対絶命感、さらには刑が軽くなるという暗示による藁をも掴む卑屈感、
こうした心情によつて裏打ちされたA1の「あるいは、自己の経験」しないことに
ついて、ただひたすら、取調官の意に副うような供述をすることによるのではない
かとの疑いさえある」とみられる心境が、新証拠の出現と、取調官自身の証言によ
つて、今やここに最終的に、確証されたのである。
 そうして、確信をもつて、「真犯人ここにあり」と一喝する取調官B191警視
は、さらに「従来一般的に、本当にやつたかどうかの確信をもつてから、調書を書
くわけである。否認したときは調書をとつておらない。私は、取調の方に専心した
ので、自白が合理的かどうか、ということについては、自身では検討してみなかつ
た」旨証言している。このような捜査のベテランの確信過剰型ともいうべき確信的
取調べによつて、A1の前記迎合的心境は自在に操られたものであることが、取調
官自身の口によつて、今ここに、確証されたのである。
 かかる不動の証拠によつて確証される以上、そこには見解の相違や水掛論を容れ
る余地は全然ないであろう。
 B60巡査部長はB191警視と同様に確信的取調べをしたので、A1の弁解即
ち否認の供述は、調書にとつていないのである。だから、A1の当初の弁解はあと
からかように弁解したと述べても、客観的裏付がなく、その意味において、B60
部長の証言した逮捕直後のA1の弁解の内容は重要性をもつ。
 B60巡査部長が一審及び原二審で証言した、A1逮捕直後にB60部長に対し
述べた一六日夜一二時過頃帰宅した時の祖母B117や自己の所作についての弁解
が、A1が外界と完全に遮断された身柄拘束中におけるB117が述べた新証拠「
B117917B192調書」「B117106大塚録取書」の供述内容と、A1
アリバイ成立上決定的に重要な数点において、全く合致しているという事実は、極
めて貴重なことである。
 その合致する数点というのは、(1)その夜一二時から一時頃までの間にA1が
帰宅したこと(A1弁解、B192調書、大塚録取書の三者合致)、(2)その夜
泊つた親戚のB97ら三人の子供をB117が夜なかに小用に起したこと(A1弁
解、B192調書、大塚録取書の三者合致)、(3)小用から床に戻つたB97の
寝しなに、その髪の毛をA1が引張つたこと(A1弁解大塚録取書の両者合致。B
192調書はこの重要点を省略している)、(4)B97の床とA1の床は隣合わ
せに敷いてあつたこと(B192調書の図面・大塚録取書の図面の両者合致。この
ことはA1がB97の寝しなにその髪の毛を引張つたことに関係する)、(5)一
七日朝四時頃A1の母親が起きて仕度をし四時半頃父親を会社に送り出したのを、
B117が目覚めて知つていたこと(B192調書、大塚録取書の両者合致。A1
がその点を知らないのは眠つていたことを示す)の諸点である。
 捜査官はB97を取り調べた事実を証言しているが、このことは捜査官作成のB
117供述調書がその点を省略しているにも拘らず、B117が捜査官に対しB9
7が髪の毛をA1に引張られたといつている旨の供述をしたためであることを物語
り、A1の法廷弁解(B97が翌朝夕べ俺の髪を引張つたべといつたから、B97
も知つている)を裏付けるものである。B97の寝しなにその髪の毛をA1が引張
つたなどということを、B117、B97の間で事前に打ち合わせたというような
ことは到底考えられないところで、このことはA1の逮捕後東京から来てA1に面
会した実兄B126とA1との面会の際の問答からも窺える。
 従来提出されていたこの点の唯一の証拠である山本調書は右調書等とその内容が
正反対で、もちろん右の諸点は全部省略されている。そうして、捜査官がB97を
取り調べた事実が明らかであるのに、その供述調書等何らの資料も出されていない
こと、母親も当然調べられているものとみられるのに、その供述調書等何らの資料
も出されていないこと、検察官は他の重要参考人(B129のようにアリバイ立証
を供述している者は別)と異なり、B117についてのみ刑訴二二七条に基く公判
前の証人尋問請求をしなかつたこと、これらの諸点は捜査常識上当然捜査官側に不
利に推定されても仕方のない重要な事実である。
 以上の諸点を総合することにより、その真実性が裏打ちされるA1の法廷供述お
よびB117証言に徴し、A1アリバイ成立の蓋然性は極めて高いものといわざる
を得ない。
 検察官も弁護人も、この極めて貴重にして重要なA1アリバイ成立関係の事実に、
全く気付いていないのである。
 (中  略)
 右B117の供述(B192調書、大塚録取書に現れるもの)とA1自白とを対
比すれば、A1自白の不合理、不自然さがB97の小用から戻つて寝て、その寝し
なにA1がB97の髪の毛を引張つたのが真実であることを、一層ハツキリ浮彫り
にする。
 A1被告919B191調書にはこうある。「家に帰つたのは四時か四時半頃で、
自分の室に入り、その晩泊つていたB118(一二年)の髪を引張つたが、目を覚
まさず寝ていた。アリバイを作る手段としてやつたのである。………朝食を食へ終
つてから、B118に夕ヘ頭の毛を引張つたのわかつていたか、と聞いたところ、
知らないと返事したので、夕ベ頭の毛を引張つたんだから、わからないことはある
まいというて、アリバイ作りをしたのである。」一体これではなんのアリバイ工作
かわからない。眠りこけている少女には、髪の毛を、ちよつとやそつと、引張つた
位で目覚めて憶えている筈がない。そもそも、アリバイ工作のために、B97の髪
の毛を引張るなどということが、考えられようか。それがアリバイ工作だとすれば、
全く児戯に類した不自然なことである。若者が寝しなに少女の髪の毛をイタズラ気
分で引張つてみる。それならまことに自然である。真にアリバイ工作をする必要が
あるならば、B117と直接話し合つてできる別の手段があつた筈である。B97
の髪の毛を引張つたということ自体が却つてアリバイ工作のためではなかつたこと
を示す証拠である。そして、A1自白のように、午前四時か四時半頃(あとの山本
調書では五時頃)A1が帰宅したとすれば、目ざとい七五歳の老婆のことだから目
ざめて当然気付く筈であるばかりか午前四時頃には母親が起きて仕度をし、四時半
頃笹木野の会社工場へ父親を送り出したのを、祖母B117は目覚めていて知つて
いるのであるから、自分の寝ている六畳間に入つてきてそこに敷いてある床に寝る
A1に、気付くまいとしても気付かないわけにはいかない事情にあつたのである。
 前記のA1被告919B191調書には、その際祖母B117が眠つていたかど
うか全然ふれていない。ただ眠つていたB97の髪の毛を引張つたが、目を覚さず
に眠つていたというだけである。大事な祖母が眠つていたのか、どうしていたのか、
全然ふれていない不自然さ、不合理さ。山本調書になると、B117がその時グツ
スリ眠つていたという供述になつているが、それは、およそナンセンスである。繰
り返すようだが、朝の四時半前後頃眠りこけている少女の髪の毛を、ちよつとやそ
こいら引張つたとしても、目覚めて憶えている筈がない。B97が髪の毛を引張ら
れたのを知つているのは、小用に起きて床に戻つた時の寝しなに引張られたからこ
そ、覚えているのである。
 かようなわけで、アリバイ工作のために、事前に、A1が、祖母B117とB9
7とに、この髪の毛のことを打ち合わせておつたなどということは、およそ、常識
上考えられないことである。
 なお、A1が帰宅した時刻は、大体一二時ないし一時頃とみて間違いない。検察
官は、A1が犯行に赴くため一六日夜満願寺から帰つて家の塀の所に隠しておいた
軍手を取り出し、材木置場の所まで行つた時間関係を算出し、午後一二時頃または
一二時一〇分頃には優に右材木置場に赴き得ると結論する。その計算の基礎をB9
2証言及ひB12証言に出てくる降雨、B130926笠原調書、B131926
西坂調書に出てくる降雨に求めているのは妥当であるが、幻燈の後片附の所要時間、
帰途リヤカー故障のための停止時間等は、推測の時間であるから、不動のものでは
なく、A1が帰宅したのは一二時から一時頃までの間であると認定して差支ない。
 A1が一二時から一時頃までの間に、B97が小用に起きて床に戻つた時の寝し
なに、B97の髪の毛を引張つたということは、祖母B117がB97ら三人の子
供達を小用に起し、便所へ連れて行つて戻つて寝かしたのを、A1が目撃している
事実を前提としている。B97ら三人の子供達がA1方に泊つたのは、一六日の夜
一晩だけであり(一六日午後七時過ぎに来て、翌一七日午後三時頃帰つた)、かつ、
A1が夕食後お祭に出かけたあとで、B97ら三人の子供達が来て泊つたのである
から、A1としては家へ帰るまではわからなかつた事実である。B117がB97
ら三人の子供を小用に起して連れて行つたことは、A1かB97の髪の毛を引張つ
たことに次いで特異な出来事である。A1がこの出来事を知つていて、逮捕直後に
B60巡査部長に申し立てたことは、そのB97が小用から戻つて寝て、その寝し
なにA1が髪の毛を引張つた事実に次いで、A1アリバイの上に、極めて重要な事
実である。A1がその情景を目撃して知つていたからこそ、逮捕直後に申し立てた
のである。
 ただ、「B117917B192調書」では、B117は「一二時頃三人の子供
達を小用に起した時は、A1はまだ帰つていなかつた。その後一時頃までの間に、
A1が帰つて来たように記憶する」趣旨を述べているが、「B117106大塚録
取書」では、「一二時と一時の間にA1が帰つてきた。それから二時過頃と思うが、
子供達三人を小用に起した」旨述べていて、その先後が喰い違つている。けれども、
前者が記憶違いで後者が正しい(といつてむ、A1が帰つて間もなくB97ら三人
を小用に起したのが真実である)といえることは、前叙のように、A1が、B97
の小用から戻つた時の寝しなにその髪の毛を引張つた事実が動かないからである。
A1はB97の髪の毛を引張つたのでよく記憶に残つているわけであるが、B11
7としては特に記憶しようとしていたわけでもなく、一四、一五一六の毎晩盆踊で
A1の帰りがおそくなつたというのであるから、回し部屋に寝ているB117が小
用に起き時、A1がまた帰つていなかつた晩があつてB117の記憶がそれと混線
したというようなことはあり得ることであるから、前記不動の事実に照らし、何ら
異とするに足りない。
 B117がA1被告の祖母であるという特殊関係があるが、これまたB117の
捜査段階における供述ないし一審証言に対する身分による一般的不信用性のの原因
とはならない。その間に、B97という一二歳の少女で介在するからてある。なる
ほど、B97もA1被告と従兄妹ではあるが、一二歳の少女では、その供述の真偽
は容易に識別できることで、身分による一般的不信用性を問題にする必要は認めら
れない。そうして、先にも述べたように、捜査当局としては、捜査常識上、当然、
B60巡査部長に申し立てたA1弁解の直後、直ちに、B97を厳重に調査してい
なければならない筈である。山本証人は、とにもかくにも、B97を取り調べた事
実だけはこれを認める証言をした。その取調べの結果はハツキリしたことを覚えて
いないという山本証言自体、その結果がなんであつたかを証明して余りがある。こ
の点に関する供述調書等の資料が全く出されていないのは、B97がA1に髪の毛
を引張られたことを知つていたこと、そのことをB117がB97から聞いて知つ
ていたことの真実であることを物語るものである。A1の法廷弁解の真実性を裏付
けている。
 A1の母B72が午前四時頃起きて仕度をし、父B125を午前四時半頃会社工
場へ送り出したのを、B117が目を覚していて知つているということは、A1ア
リバイの上で、前同様に重要性をもつ事実である。A1自白によれば、犯行からの
帰宅時刻が午前四時半過頃から五時頃(最初の自白では四時から四時半頃)となつ
ているからてある。
 右の事実は、A1自白前の「B117917B192調書」に出ており、A1自
白後の「B117106大塚録取書」に出ていて、全く合致するのである。捜査当
局としては、A1自白により右の事実がA1自白に極めて重要な意義をもつことを
当然知つた筈であるから、これまた、捜査常識上、直ちにこの点を厳重に調査し、
母親らをも調べていなければならない筈であるが(B117の一審証言によれば、
警察で、A1が三時頃帰つたろうとか、四時頃帰つたろうとかいわれた旨証言して
 いる)、この点に関する供述調書等の資料か全然出ていない。(「B11791
7B192調書」で、午前四時頃母親が起きてからB117が目覚めていて知つて
いるのに、その間A1が居たのかどうなのか全然ふれていないのは、意識的に省略
したものとしかみられないことは前述した。)このことは、右のような事実があつ
て、B117が目覚めていて知つていたのが真実であることを物語る。さらに、A
1被告が、その逮捕直後の弁解、自白、及ひその後の供述を通じて、この点を全然
述べてい ない事実は、目ざとい老婆のB117とは違つて、遊び疲れた若者のA
1がその時間にはグツスリ眠つていたため、その事実を知つていなかつたことを、
雄弁に物語つているものといえる。
 以上の三点は、A1アリバイ成否の鍵を握る極めて重要な三つの柱であり、就中
A1かB97の小用から戻つた後の寝しなに髪の毛を引張り、B97がそれを知つ
ているという事実は、その頂点に位するものである。ところが、従来、証拠として
出されていた唯一のB117の調書である「B117926山木調書」には、右の
三点とも忽然として消え失せている。しかも、その供述内容は「B117917B
192調書」とは全く異つた「一二時半頃私が便所に起きた時には、A1はまだ帰
つていなかつた。翌朝六時頃起きて、七時頃起きたA1に聞くと、一時頃帰つたと
いつていたので、私は一時頃帰つたものと思つている」旨の正反対の極めて簡単な
ものになつている。しかるに、従来、右山本調書の内容は諸般の証拠上真実と認め
られ、B117は警察の取調べでも同旨のことを述べたものとみられて、A1自白
の真実を確信せしめる有力重要な資料とされてきたのである。
 当然右の三点が取調官にわかつていなければならない筈だと考えられるのに、何
が故に、その「B117926山本調書」から全然省略されてしまい、その供述内
容が警察調書の「B117917B192調書」とも全く異るものとなつたのであ
ろうか。理解に苦しむところである。
 その謎を解く鍵がここにある。端的にいおう。山本証言それ自体である。
 曰く。「問(A1彼告)、証人は、B97を調べたことがあるか。答(山本証人)、
調べたような気もするが、ハツキりした記憶はない。問、証人はB97を調べた時
に、一六日の晩私が家に帰つてきて、家に泊つて寝ていたB97の髪の毛を引張つ
たことがるかどうかを聞いたのではないか。答、私がB97を調べたとすれば、八
月一七日の未明A1被告がB97の髪の毛を引張つたことがあるかどうかを聞いた
と思う。問、それに対してB97はなんと答えたか。答、調べたとすれば、そう聞
いたろうというのであつて、調べたかどうかもハツキリ記憶していないので、従つ
て、それにどういう答があつたか、ということも記憶にない。問(裁判長)、その
点について証人若しくは証人以外の捜査官がB97を取り調べたことがあるのかど
うか。答(山本証人)、調べたことは調べたのてあるが、私自身が調べたのであつ
たか、他の捜査官が調べたのであつたかは覚えていない。問、取り調べた結果はど
うであつたか。答、B97がその夜A1被告の家に泊つたということは間違いない
が、寝ているところをA1被告に髪の毛を引張られた記憶はないということでなか
つたかと思うが、ハツキリしたことは覚えていない。問(A1被告)、B97は証
人に対して、その晩私に髪の毛を引張られたと話したということであるかどうか。
答(山本証人)、そういうことは記憶にない。問、証人はB97に対して、一六日
の晩、A1が寝ているお前の髪の毛を引張つたというのは嘘だと、A1本人が言つ
ているから、お前がその晩A1に髪の毛を引張られたのは嘘だろう、とそう聞いた
ことはないか。答、そういうことは記憶しない。」(原二審六三回公判)と。(右
A1被告の最後の方の問は、先にも述べた一〇月五日実兄B126と面会した時、
B126から聞いて知つた事実に基くものである)。
 この重要極まるB97供述の内容は、忘れようにも忘れようがない。髪を引張ら
れた記憶がないという供述ならば、絶好の資料であるから、調書を作成しない筈は
ない。その供述内容がなんであつたかは、右山本証言そのものが告白している。
 もはや、これ以上の説明を要しないであろう。A1自白の実態、松川事件の本態
が、夕闇の中にクツキリと白く浮き出てきた。夕靄が今スツキリはれ渡つてきた。
 B60巡査部長がA1に対し、B117の署名拇印のところを見せ、B117の
警察調書の内容として実際と異る内容を勘進帳読みにして聞かせたこと、A1の最
初の自白919B191調書に右勧進帳読みに照応する内容が現われ、A1が犯行
から帰宅した時の情景に、祖母B117のことが何ら述べられていなかつたのが、
923山本調書では、祖母B117はよく眠つていて、「全然知らなかつた」とな
り、「B117926山本調書」作成後の101山本調書になると、祖母B117
はよく眠つていて、私が帰つたのは「わからなかつたかと思う」と弱い表現に変つ
たこと。重要なB117につき他の重要参考人と異なり、公判前の証人尋問請求を
しなかつたこと、B117証人に対し検察官は全然反対尋問をせず、数日後に右山
本調書は刑訴三二一条一項一号書面として提出したこと、これらのモヤモヤした夕
靄は、今や新証拠の出現という一陣の清風により、跡方もなく消えさつた。
 若し、弁護人が、B117証人に対し、一七日朝四時頃母親B72が起きて仕度
をし四時半頃夫B125を工場の出勤に送り出したのを、B117が目覚めていて
知つたいた点を尋問し(B117106大塚録取書に出ている)、警察で取り調べ
られた時なんと答えたかを確かめた上、検察官に対し右警察調書にその旨の供述記
載があるかどうかの釈明を求めれば、既にその時A1自白の真実性は危地に陥つた
であろう。
 若し、弁護人が、山本証人に対し、「B117106大塚録取書」の内容事項に
つき問いただし、「B117926山本調書」にその点の供述がないことや、内容
の異ることの理由を追及し、B97、B72その他A1アリバイ関係の捜査状況を
尋問し、それらの供述調書等の有無を問いただし、「B117917B192調書」
の内容につき釈明を求めれば、既にその時A1自白の真実性を窮地に追い込むこと
ができたかも知れない。
 以上を総合することにより、その真実性が裏書きされるA1の法廷供述及びB1
17証言に徴し、A1アリバイ成立の蓋然性が極めで高度であることを肯認し得る
に十分である。
 その証拠関係は、当審に現れた新証拠「B117917B192調書」 「B1
17106大塚録取書」を中心とした物的証拠の性質をもつ捜査段階における各調
書の相互、及びそれらとB60証言により認められるA1弁解との対照、それらに
よつて裏打ちされるA1の法廷供述及びB117証言取調官自身の証言又はそれら
から経験則上当然推定し得られる事実であつて、その証拠は確実不動であるといえ
る。
 このような証拠によつて、これまで説明したように、証明し得られるA1アリバ
イ成立の蓋然性は、極めて高度なものであると認めざるを得ない。
 A1自白に出てくる最も重要な役割を演ずるA3被告、A4被告、A19被告の
アリバイが決定的に成立し、A18被告のアリバイ成立の蓋然性で甚だ高いことに
鑑みれば、このことはむしろ当然の帰結かも知れない。
 そこには、もはや、見解の相違や水掛論を容れる余地はないであろう。
 弁護人は、この松川事件の始まりがあつて終りである、新証拠「B117917
B192調書」をめぐる、重大極まるA1アリバイの成立問題について、新証拠の
発見に基く新証拠と従来の証拠の分析と総合の上に立つて、これを論証することを、
全く忘れている。
 叙上説明の次第で、証拠の出現により、従来、A1自白の真実性を確信せしめる
有力重要な資料とされた「B117926山本調書」によつて肯定されたB117
が一六日夜A1がいつ帰つたかわからなかつたとの事実は、今やここに地響きをた
てて、完全に崩壊し去つたのである。
 しかも、それにより、A1自白が、「あるいは、自己の経験しないことについて、
ただひたすら迎合的な気持から、その都度、取調官の意に副うような供述をしたこ
とによるものではないかとの疑いさえある」とみられるA1被告の自白当時の心境
が、今やここに最終こ完全に裏打ちされたのである。
 そうして、「B117の警察調書」は「A1予言」とならんで、A1自白の契機
となつたとされ、特に仮面をかぶつた「B117の警察調書」の勧進帳読みは、実
に、A1自白への直接の決定打となつたのである。しかるに、その「B117の警
察調書」の仮面をぬいで出現した「B117917B192調書」は、実に、A1
自白の真実性に対する疑問への直接の決定打となつた。
 A1自白の出発駅から、一挙に、A1自白の終着駅へ。A1被告が自白する直接
の契機となつた「B117917B192調書」は、はからずも、A1アリバイの
成立する直接の転機となつたのである。まこと、A1自白の本態を物語るものとい
えよう。
 さきに、「919B60報告書」に関する解明で、松川事件の本質にふれ、その
核心を剔出する結果となつた今ここに、「B117917B192調書」をめぐる
解明で、松川事件の本態とA1自白の実態が具体的に明確化されると同時に松川事
件の文字とおり扇のカナメであるA1自白そのカナメの中心点であるA1アリバイ
の成立を証明する始末とはなつた。われわれは今ここに既にA1自白の終着駅につ
いた。否、松川事件の終着駅についたのである。
 A1の弁解
 「B60部長は『お前がやらないということは誰が知つているんだ』と、今度は
いつてくる。私は『婆ちゃんが知つているんです。婆ちゃんは私の帰るまで、眠ら
ないで、待つていました。私が帰つて、婆ちゃんと少し話をしたら、婆ちゃんはそ
の晩泊りに来た親戚のB97ら三人を便所に起して連れて行きました。そして、B
97が便所から帰つて、私の隣に寝たので、私は寝しなに、B97の髪の毛をいた
ずらに引張つたのです。それで、B97も私が一六日晩家に帰つたことを知つてい
る筈です』といつた。B60部長は『それじゃ、婆ちゃんはどつちの便所へ行つた
のだ』ときくので、私はいつも私達の使つている国道の向いの便所に婆ちゃんが起
きて行つたので、そのとおりいうと、『婆ちゃんが行つたのは、お前のいう方向と
は違う。お前のいうことは嘘だ』という。でも、事実なので、『本当に間違いない
んです』という。………そのうち、B191警視が入つて来て………別室に連れて
行き、『この俺にだけ早く言つてくれ』といつた」
 「それから数日後、B191警視やB60部長から『誰がやつたのだ』『お前が
やつたのだろう』と、責められ、それでも、私は『やりません』といつた。B60
部長は『それじゃ、お前がやらないことは、誰が証明してくれる』というので、私
は『その晩一二時か一時頃に帰つて行つたことを婆ちゃんが知つているから、婆ち
ゃんが証明してくれます』というと、『婆ちゃんが証明してくれなかつたら、誰が
証明してくれるのだ』といつてくる。私は、「婆ちゃんは本当に証明してくれるん
です』といつた。すると、B60は『お前の婆さんは知らないといつているんだと
いつても、まだわからないのか』と怒鳴られた。更に、『お前の婆さんは、二時頃
まで目をさましておつたがまだ、お前が帰つて来ない。そして四時頃便所に起きた
時も、まだお前が帰つて来ていない。いつお前が家に帰つたのかわからない。と言
つているんだ。だから、その晩お前が家に帰つたというのは嘘だ』といわれ、私が
いつ家に帰つたかわからないという婆ちゃんの調書を読んで聞かされ、婆ちゃんの
名前を見せられた。その調書の『二時頃まで目をさましておつたが、まだA1は帰
つて来なかつた。四時頃便所に起きた時も、A1はまだ家に帰つて来なかつたから、
A1はいつ家に帰つて来たかわからない』という旨の部分を読んで聞かされ、婆ち
ゃんの名と拇印を見せられた。土屋部長作成の調書であつた。その警察官作成のB
117の供述調書は、証拠に出してある検察官作成のB117の供述調書より可な
り枚数があつた。私は、あれほど、私が家に帰つていることを知つている婆ちゃん
が、本当にこんなことを言つているんだろうかと思い、自分の無実を証明してくれ
る人がなくなつたので、目の前が真暗くなつてしまつた。でも、どうしても婆ちゃ
んが私の帰つていることを知つているので、『婆ちゃんは本当に知つている筈です
から、もう一度婆ちゃんに聞いて下さい』と頼んだが、B191警視は『お前がい
つまでもそんなデタラメなことを言つていると、お前の親兄妹全部をぶちこんでし
まうぜ』と怒鳴つた。私は、どうにもならないという気持になつてしまつた。それ
にB60部長が『お前の母親も一七日朝御飯をたきに起きた時、まだ、お前が帰つ
て来ていなかつたといつているんだ。だから、お前が帰つたというのは、嘘なのだ
』といわれ、『お前の父親はお前のために会社を休んでいるんだ。妹達も恥しくて
学校へも行けないといつて泣いているんだ。そんなに親達や妹達に迷惑をかけない
で、早く言つてしまつたらどうなのだ』と責められる。『お前はその晩家に帰らな
いで、一体どこを歩いておつたのだ』といつて責められる。………B191警視は
時計を見て、『もう二時半も過ぎた。このまま朝まで調べてやる』といつてくる。
………私はこの苦痛の取調から一刻も早く逃れたいという気持から、『明日申しま
すから、どうか寝かして下さい』と頼んでしまつた。………」
 「翌日B191警視は調室にダリヤの花を瓶にさして、『君は明日いうと言つた
から、君のために花を買つてきたのた。この花のようにきれいになつて、早くいつ
てくれ』という。………私は、もういじめられたくない。自分がいくら関係なくと
も、A3という者が俺がやつていると言つているんでは、また、俺の無実を一番よ
く知つている婆ちゃんや家の人まで、あの晩俺が家に帰つて来ないといつているん
では、助からない。いつまでも、やりません、知りませんといい張つていると、そ
れこそ親兄妹全部ぶちこまれ、俺は首をはねられてしまうかわからないと思うと、
恐ろしくて、居ても立つてもいられなくなつてしまつた。私は、殺されたくない、
どうしても生きたい。そして一日も早く出して貰いたい。という考えから、遂に『
私がやりました』といわされてしまつた。そのように嘘をいわされてしまつた時の
気持は到底口や筆ではいい現わすことができない。………」
 「その翌日、B191警視から、今度は『お前が一七日朝家へ帰つた時、婆ちゃ
んか誰か、お前の帰つてきたのを気付かなかつたか』というので、私はいい加減に
『誰も気がつかなかつたようです』といつた。B191警視は『お前がB97とい
う女の髪の毛を引つ張つたということはあれはお前がその晩家に寝ておつたという
ことを、見せようとするアリバイのためにやつたことなんだろう』というので、私
は『そうです』とB191警視のいうことに会わせて答えた。」云々。
 上叙の原判決は異常な程の高姿勢で縦横に弁じ立てこれでもかこれでもか式の御
説法である。その拠り処は帰するところ前示B192調書中のB117の供述であ
り、しかも、B117の供述の意味を原判決の解釈するように受け取つてのことで
ある。私のようにB117の供述を結局A1がその晩いつ帰つてきたかわからない
趣旨であると解釈すれば、原判決の御談義はすべて問題にならないのであるB60
巡査部長もおそらくB192調書中のB117の供述を私と同じょうに解釈したの
であろう。従つて同巡査部長はA1に対しお前の云うことはお婆さんのいうことと
違うと云つたとしても、それは当然であろう(B60巡査部長がB117が四時頃
起きたときもA1が帰つていなかつた。警察調書にはそう書いてあるなどとA1に
云つたという証拠はA1の弁解以外には何の証跡もないのである。)、してみれば、
B60部長にいわゆる警察調書を勘進帳読して聞かせたなどとは云い得べき筋合で
はないのである。従つてそのことがA1自白えの最後の切り札とか、決定打だなと
いうのは考え違いの甚しいものであり、妄断である。原判決は、B60部長とA1
との公判廷における押し問答を掲げている。しかし、それによつてもB60部長が
調書の勘進帳読みをしたということの片鱗だに窺い得ないではないか。原判決はい
う。一九才のチンピラA1が裁判長の度重なる注意制止にもめげず証人台に立つた
捜査のベテランB191警視とB60部長に対し敢然と反対尋問を執拗にくりかえ
し流石のベテランが問いつめられてタジタジとなり、或は遁辞的証言をなし或は矛
盾した証言をしてその表面的否定にも拘らず随時随所にA1弁解の真実であること
の片鱗を証言せざるを得ない破目に陥つているのは、それこそ決して只事ではない、
事実の力強さを想わせる光景としか考え難いと。如何にもその法廷をその目で見て
きたようなことを云うが、その場面でどちらに分があつたかは知る人ぞ知るであろ
う。およそ、被疑者が否認から自白えと推移する段階は多種多様で一律に律し得ら
れるものではない。捜査官との問答のうちに頑強に否認し続けた被疑者が飜然とし
て良心に目覚めて自白えと急転回する場合もなきにしもあらずであろう。本件A1
の場合もそうでないとも云い切れないのである。それを捜査官の勘進帳読みとか確
信過剰型取調などと云つて、それが機縁でA1が絶望感に陥入り真実に反する自白
をなすに至つたなどとはそう簡単に云いうることであろうか。真犯人ならば絶望感
に陥入りそれが自白えと転回することは当然考えられる心理の過程である。絶望感
に陥入つたからといつて必ずしも偽りの自白をしたとの論理は成り立たない。原判
決はいつものことながら論理を飛躍している。原判決の判断は六法全書云々の問題
を加味して考えてみても、如何にも裁判官らしからぬ判断というを憚らない。A1
自白が捜査官が無理に引出したものでなく、A1が良心に目覚めてスラスラと述べ
たものであることは記録上いくたの証拠がある。原二審判決は具さにその点を記述
しているからここでそれを引用させて貰うこととする。
 (イ)、A1が検察官、裁判官の取調に対し一回も否認したことがないことは当
審(原二審のこと、以下同様)証人山本諌、同唐松寛の証言に徴して明らかで、な
お、原審(第一審のこと、以下同じ)証人B75、B133、B134の各証言に
よればA1は検察官の取調に対し否認等をしたことのないことは勿論、すらすらと
述べ、場合によつては問われないことまで先廻して述べているという状況であつた
こと、
 (ロ)、A1被告は最初の自白以来、取調官に対して否認等をしたことがないこ
と。
 原審及び当審証人B191、B60、当審証人山本諌、同唐松寛の各証言を綜合
すればA1被告は昭和二十四年九月十八日頃B191警視に対して最初の自白をし
て以来、原審公判開廷前における検察官裁判官の取調に対して一回も犯行を否認し
たことなく、又警察の取調の苛酷を訴えたこともなかつたことが明かである。
 なおA1被告の原審における各供述に徴しても、右同年十月六日行われた勾留理
由開示公判においても全然発言しなかつたこと、従つて自白が取調官の苛酷な取調
による虚構のものであつたことの主張をしなかつたことが明かである。
 (ハ)、保原地区警察署でのA1被告の言動
 記録によれば、A1被告は昭和二十四年九月二十一日本件で勾留された日から、
同年十二月一日福島拘置所に移監された前日である十一月三十日ま、福島県保原地
区警察署に拘禁されていたことが明かである。而して、
 ①、原審証人土屋留蔵(二五回公判)によると、同証人は当時の右警察署長であ
るが、A1被告は、同署に拘禁されて二、三日過ぎた頃から、署長に対し、問われ
たのでもないのに「すつかり申し上げてさつぱりした。改悛して真人間になる。列
車を引くり返してからは、何時警察に捕まるかびくびくしていたが、本当のことを
申上げてせいせいした」等と何回もいつたことがあり、「検察官裁判官にお願して
同情して少しでも刑を軽くして貰つて一日も早く世の中に出る」といつたこともあ
ること、茶のみ話の際福島地区警察署での取調状況の話がでたこともあるが、A1
は拷問、脅迫強制等のあつたことは少しも述べないばかりでなく、むしろ、「今日
はB191さんが来ないか、検事さんが取調に来ないか」といつて、それらの人が
取調に来ることを待つている様子をしたこともあつたこと、
 「公判に行つたら、最初でなく、後から審理を受けたい。それは皆にいじめられ
るからだ。そして他の人がどんなに嘘をいつても俺が最後に止めを刺してやる」等
としばしば話していたこと、「B135法曹団の弁護士は頼みたくない。俺は共産
党にだまされてやつたのだから共産党の弁護士は嫌いだ」といつたこともあること、
「俺が真面目につとめて出て来たら、親とも兄とも喧嘩して家にいられないから、
其の頃署長さんが何か事業でもやつていたら使つてくれ」といつて刑務所を出た後
の職業の世話をたのんだことかあること、等か明かである。而して以上の点に関し
てはA1被告は土屋証人に対し、之を否定する趣旨の反対尋問をしていない。
 ②、原審証人B136(二五回公判)の証言によれば
 A1被告は、右保原地区警察署に拘禁中十月又は十一月の上旬同署次席たるB1
36証人か宿直の際、A1かB136証人に面会を求め、同証人か会つたところ、
先ず煙草を求め、それから、「此の事件は自分かやつたのです、申訳ありません、
之から先もやつたことはやつたとどこまでも素直に申述べて行きたい、そして少し
でも軽くなりたい」といい、又、右とは別の時に、B136証人が「本当にやつた
のか」ときくと、A1はそうだといつて汽車顛覆のことをいろいろ話したこともあ
つたこと、十一月二十八日頃、A1か兄B126と面会した際B126に対し「自
分は党のために犠牲になることはできない。やつたことはやつたという外はない」
といつたこと、A1は自分はこの事件をやつて居る、間違いない、しかしこの心を
維持して行くのに何かよい方法はないてしようかという意味のことや、聖書の差入
れがあれば自分の心を決めて行くといつたこと等か明かである。
 なお、A1被告は、B136証人の右に関する証言については、之を否定する趣
旨の反対尋問をしていない。
 ③、右土屋、B136両証人の証言によれは、右1、2の外A1は保原地区署に
拘禁中終始明朗快活に過し、その間苦慮懊悩等のことなく、少くとも右両証人の知
る範囲てA1か自己の自白か取調官の強制に因る虚構のものであることを述べ、又
はその趣旨をうかがうべき言動に出たことは一回もなかつたことか明らかである。
そしてこのこと自体はA1被告も原審以来争つていないところてある。
 (ニ)、福島拘置所に移つてからの言動
 ①、福島拘置所から土屋保原地区署長あてに送つたはかきについて。
 前記原審証人土屋留蔵の証言によると、A1被告は、昭和二十四年十二月三日附
郵便消印(十二月三日午前八時―十二時の福島局の消印)のある葉書で土屋保原地
区署長あてに、保原地区署に勾留されている間種々世話になつたことを謝すると共
に「この事件については最後まで頑張ります。そして一日も早く刑期を済して社会
に出て働きたい」旨申送つたことか明かでこれによれはA1被告は、原審第一回公
判期日(昭和二十四年十二月五日)の三日位前までは、有罪判決をうけ、多少なり
とも刑期に服する覚悟をしていたことか明かである。しかも、この当時は既に捜査
は終つたことはもちろん身柄も警察署を離れて拘置所に在り、連日兄B126、祖
母、その他の知人、岡林、大塚各弁護人等の訪問を受けていた時期である。(原審
証人B126(二七回公判)及び同B137(同上)及びA1被告の原審一九回公
判の証言等参照)このような時期、このような状況下てもなお、右のような心境に
在り、之を警察署長に書き送つたということは、警察官の苛酷な取調によつて虚構
の自白をした者の態度とは受取れない。
 この点に関し、A1被告は、私は署長から、A1はたいしたことは無いから直ぐ
出られる、でも公判廷で否認すると死刑か無期だ、それよりも公判では否認しない
で早く刑期をすまして出て来い。出て来て俺のところに来たら職業を世話してやる
等と度々云われていたし、又事実関係なくとも罪にされると思わされ、又署長には
度々福島拘置所や刑務所に行つたら便をよこせといわれたのてこのような葉書を書
いたのであると述べている(A1被告の控訴趣意書一六頁)。しかし、土屋署長か
らそのようにいわれたということは前記三の1、2、3に照して到底措信し難く、
従つてそのような事情でこの葉書を出したものとは認められない。
 ②、十二月一日A1B126と面会した時の状況
 原審証人A1B126、同B137(いずれも二七回公判)の各証言を綜合する
と、十二月一日A1被告か実兄A1B126と接見したことか明かで、その時A1
被告とA1B126とがした談話については、右A1B126の証言によつても、
A1被告が自白をひるがえす趣旨の話をしたことは認められないのであるが、B1
37の証言によると、A1被告は、B126に対し、「今までのが大体本当だ、兄
さんは共産党だが自分は回じ兄弟でありながら気持が違う。自分はどこまでも闘う。
三鷹事件の竹内被告のようにはならない自分一人で背負うようなことはしない。公
判廷ではどうどうと闘う。また黙つているかも知れない」旨話したことか明らかで
ある。
 以上によると、A1自白は捜査官に無理に引き出されたものだとして、そこには
見解の相違や水掛論を容れる余地がないなどと論ずることが結局原判決のひとりよ
がりであり、妄断であることが諒解されるのてある。
 以上の次第で、A1アリバイの高度の蓋然性などというものは肯定しようにも肯
定し得ないのてある。原判決はさして証明力もない書証の内容を誇張して吹聴し、
陳腐な用語の魔術でひたすら事件を混迷に導こうとしている。にれではA1を庇う
に急で、偏向的であると云われても致し方ないであろう。私の最も遣憾とする点で
ある。
 一一、A3アリバイ
 原判決は次の如く云う。新証拠のA3被告の身柄拘束中、接見禁止中におけるA
3101熊田調書及びB138930B204調書並びに既存証拠のB13893
0大塚録取書にはA3アリバイに照応する各供述記載があり、A3被告とB138
との右供述の合致は貴重である。そしてB138が錯覚して別の日の出来事を一七
日朝のそれと誤信して述べたか、等の特別事情のない限り、それはA3被告とB1
38の二人だけが体験を共にした事実だからこそ合致するのであり、その体験内容
が真実であるとみて誤りないことは経験則の教えるところであり、われわれの常識
である。ところが、そのような特別事情はなに一つ見出せない、と。
 成る程本当の体験と体験とか一致すればそこに真実かあると云いうるであろうこ
とは私も是認する。しかし本件において原判決いうところの体験が果して本当の体
験であつたかどうかというと俄にしかく断定し難いのである。或はそれが考え違い
や勘違いであるかもしれない。更に或は全くのしろもので仮面をかぶつた体験であ
るかもしれないのてある。然るに原判決はそうした点の掘下が十分でなく、いわゆ
る新証拠(供述)の表面にのみ捉われて、一途に体験だ体験だと叫びそれが一致し
ていると誇大に吹聴しているのである。それでは体験と体験とが一致するなどと云
いうるものではないのである。いうなれば体験とは如何なる証拠にさらされてもビ
クともしない揺ぎのない確固不動の体験をいうのである。原判決のいわゆる体験は
果してそのような確固不動のものかというと決してそうではないのである。反証に
よつて揺り動かされる土台の極めて怪し気なグラグラしている体験なのである。こ
の点原判決の判断は極めてイーシーゴーイングで浮薄で皮相的である。よつて私は
ここであらゆる角度から原判決のいう体験が如何なるものであるかを撤底的に具さ
に検討吟味し、A3アリバイの具体性、その成立を探究し度いと思う。それではま
ず原判決が虎の子のようにしている前掲24101熊田調書におけるA3供述を左
に掲げる。この供述こそはA3被告のアリバイの出発点となるものである。
 A3101熊田調書
 (前略)
 翌八月一六日には午前七時半頃に起き午前八時半頃に組合に出勤して来た後別に
変つた仕事もなく、常のような仕事と思います(中略)。私達が一日の仕事を了つ
て最早かへる時刻だと思つて居る処えB29君の妻君が子供を抱いて組合に来てB
29君と何か話してから子供をB29さんに預けて出て行つたら、B29君は私達
に俺の家にやーべ、酒もあるし丁度お盆だし弟も来て居るからというので皆なでB
29君の家に行くことにしたのであります。それで午後六時半頃に組合事務所を出
かけたのであるが、私と一緒に出掛けた人はB29、B139、B140、私の四
人で出掛けA4、A6の両君は私達より一足先に出掛けたようで私達四人の内B1
39君がB29君の子供を抱いて組合から出て五月町を通り中町通りに出て十字路
の所でB140がB29君の家に行かずに家に帰るというので別れて仕舞いました。
するとB29君は妻が生家に一寸行つてくると云うて行つたが、どうして居るのか
と云うて迎いに妻君の家の方に引返して行つて仕舞つたので、私とB24君と二人
で中通を通り福島ビル前を通つてB29君の家に行つたのであります。するとB2
9君の家の前にA4、A6の両君が居りましたので、そこから四人で一緒にB29
君の家に入つたら直ぐ後からB29君夫婦が帰つてきたのであります。
 私達がB29君の家に這入つた時にはB29君のお母さん妹さん弟のB141夫
婦や子供達が居つたのであります。私達はこの人達に挨拶してから座敷に通り、テ
ーブルを囲んで焼酌を御馳走になつたが、A6君は酒を一杯も飲まないので茶の間
の方で女の人達と話していた様であります。そこで大体午後一〇時過ぎ頃に相当に
御馳走になり酔つたので四人一緒にB29君の家を辞し帰つたのですか、帰る時私
はB29君の家の玄関口でA4、B139、A6君より一足後れて出たのでB24
君は多分A4君の家に行きA6君は家に帰つたものと思います。
 私は酔つて居るのでB29君の妹さんのB142(当二十二、三才位)に送られ
北川弁護士の前の道路を真直ぐに陣場交番前を通り飯坂道路を真直ぐに駅前道路に
出て十字路でB142さんと別れて其処から私一人で労組事務所に帰つてきたが労
組事務所に帰つた時間は午後一〇時半頃だと思つております。
 私が組合に帰つてきた時は組合に泊つた人達は一人も起きて居る者もなく、皆蚊
帳を吊つて寝て居つた処に帰つて行つたのであります。
 組合に寝た人達の順序を云うと
  南枕に東側 B138
     中  B27
     西  B28
の順に寝ておつたので私はB138君の東側に寝たから私が午後一〇時半頃帰つて
きてからは私が一番東側になつて私、B138、B27、B28の順に寝たのであ
ります。私が組合に帰つてきた時この人達三人はいずれも寝ておつたが、眠りに就
いたかどうか判らないがB138君はまだ眠つた様てないので、私はB138君に
対し俺にさわらないでくれさわると返食するからというて寝たのてあるが、酔つて
いたので靴もぬいだまま、開襟シヤツづぼんもぬがず寝て了つたのであります。す
ると午前四時か五時頃と思うが私の側に寝ていたB138君が私の体をゆすぶりな
がら「誰れか知らんか、誰れか知らんが」という様にきいたので私もうつらうつら
とし知らん知らんと云い乍ら又そのまま、ねむつて仕舞つた様に覚えております。
そして又そのままねむつて仕舞いどの位ねむつたか判らないが又誰れかに電話だと
いうて起されたので起きてみると明るくなつて来たから多分午前六時頃だと思うが
B1労組郡山分会のB143から電話で、内容を聞くと四一二列車が金谷川松川間
で脱線した、直ぐB49や組合幹部に連絡して調査団を現地に送つて貰い度いとい
う電話であるので、私は判りましたと云うて電話を切り、それから少し過ぐてから
ですから午前六時二〇分前後頃に私から今度は郡山の運転本部に列車事故の模様を
きくと、先方からは運転係のB144さんが電話に出て機関車が顛覆し客車が脱線
して乗務員が下敷となつたという電話であるので私は寝てをる人達に列車事故があ
つたというて、私はそのまま又寝て了つたのでありました。その間午前九時頃に私
をオイオイオイと云うので起きてみると、其処にB145君が居いので私はB14
5に対して何処に行つて来たんだと聞くと、B145君は今妻の家からきてこれか
ら帰つてゆくと思うが、汽車が脱線して帰れないと話している処え、又郡山から電
話がきたので電話に出てみると郡山に行つたB146君からの電話で、その内容は
列車事故に現地調査に行つたか、郡山から現地に送つてやるがぐづぐづしていない
で直ぐ送つてくれという電話でありました。このときには組合に泊つていたB27
君、B28君、B138君らは起きており、書記B147、B148君らが出勤し
たのであります。
 私が電話を切ると直ぐ頃に分会書記A6君が出勤してきて委員長やA4君に連絡
したかと聞かれたので私はイヤまだ連絡していないと答へたのでA6君が委員長や
A4君に連絡する為め自転車で出掛ける姿を見たので、私はB49にも連絡しまし
た(略)云々。
 ところが右アリバイ供述は原二審において次のように整理されでいるのてある。
このアリバイ主張において、事務所内にはB138が近所の青年と将棋を差してい
たということ、B138君酔払つてきてわるいなかんべんしてくれといつたという
こと、熟睡てきないでいるとガタガタ下駄の音がして枕元で奴さん参つちやつたな
というA6の声をきいたという諸点が新に附け加えられていることは注目に値する
事柄である。
 原二審におけるA3アリバイの要旨
 『八月一六日の晩自分はA4、A6らと共にB29方で酒の振舞をうけ、同人宅
を辞去したのは一〇時半近くであつた。そしで福島駅前のB149旅館の角までは
普通の徒歩所要時間二五分のところ、酔つていたので既に一一時に達していた、そ
こで立止つて五分位話をしてから別れ帰宅の途についたのであるが、酔つて歩いた
ため、吐気を催し組合事務所(B1支部)の側まで行つた頃には歩行が苦しく、そ
れからなお三〇分を要する自宅まで帰ることが苦痛に思われたので、組合事務所に
入つた。事務所内にはB138が近所の青年と将棋をさしていたので「B138君
酔払つてきて悪いな、かんべんしてくれ」といつて、宿直室の畳に靴も脱がずに引
つくり返つてしまつたが、B138がすぐ私の寝る床を敷いてくれたので、靴をぬ
いで上つてシヤツもスボンも着たまま寝てしまつた。そのとき宿直室には蚊帳が吊
つてあり、西からB28、B27、B150の三人が寝ていた。B138は毛布を
かけてくれ、また将棋の場所に行つたが、しばらくして吐気があるため熟睡できな
いでいるうちにガタガタ下駄の音がして枕元で「奴さん参ちやつたな」というA6
の声を聞いたのを憶えている。それから後は翌朝まだ暗いうちに「保線区のA18
という人の家を知らないか」といつてB138に揺り起されるまで熟睡していた。
揺り起されても起上る気力もない程非常に眠かつたし、A18という人の家も知ら
なかつたので、「知らない」と答えてそのまま寝ていた。(尤も私の記憶ではこの
時起されたことは記憶していない。)私の記憶ではB138に起されて、一番先に
掛つた電話は、郡山分会の書記B151からの電話であつた。電話の内容は「事故
現場に調査団を出してくれ」ということだつた。しかし、記憶ではこのB143の
電話で「金谷川、松川間に貨車十五輌とか三十輌の脱線らしい」ということで、列
車番号も、その他詳しいことも分らなかつた。それで事故の状況を知るために、か
つての自分の職場である郡山駅運転の輸送司令に電話した。そのときに電話に出た
のがB144で事故の模様をきいたところ、「機関車と客車が二、三輌脱線したら
しいが、乗客には別条がない」ということであつた。その話しぶりが非常に忙しい
様子なので、長いことは話しせずに電話を切つて蚊帳の中に戻つた、私が電話して
いるのを聞いてB27、B150、B28、B138が起きていたので、「乗客に
は別条ないそうだから大したことはないだろう」と話し、外はまだ暗かつたしねむ
い為めに勝手にそうきめてしまい、又すぐねてしまつて、朝九時頃組合にきたB1
45に起されるまで熟睡していた。その時は宿直室にねていたのは自分一人だつた、
女の書記B147、B148も出勤していた。』云々。
 松川列車脱線顛覆事件発生の頃に原判示のB1労組事務所の斜め向側の製本屋に
見習さんをしていたB152という将棋好きの青年がいた。彼は当時B1労組事務
所に寝おきしていたB138と将棋の好敵手であつた。問題の八月一六日の夜、彼
は映画や盆踊をみたあと右事務所を訪れてB138と将棋をさしたのである。時刻
はA3被告が酔つて事務所に立寄つたという前である(A3のアリバイ主張の中に
でている)。場所は宿直室の隣の事務室にB152は入口を背にして腰かけ、B1
38は入口に向つて腰かけ、奨棋盤を真中において将棋を二盤さした。そこにA6
が自転車でやつてきてA6と三回程さしてその勝負は全部B152の負けになつた
というのである。ところが、その間にA3はこなかつた。B152とA3とは知り
合ではなかつたが、B138に聞けばあの男かと気が付く程度に知つていた。その
男は、自分が将棋をさしている間に事務所にはこなかつたと記憶する。またA3が
宿直室に寝ているということは誰からも聞いていないというのである。B152は
新鮮度も豊かに以下の調書で次のように述べている。この点は貴重であるから左に
掲げる。
 B15224101B202調書
 一、私は本籍地福島市において出生し両親の許に育てられ福島市第一小学校実務
科卒業して其の後現住地の伯父に当るB153方において製本業の見習として同居
し今日に至つております。
 一、去る八月一六日夜、私がB1労組事務所にゆき将棋をさして居た時の状況に
ついてお尋ねの様ですから申し上げます。
 一、私は小学校を卒業すると間もなく将棋が好きになる暇があれば家の附近の友
達と将棋をやつて居つたのであります。本年八月十二、三日頃になつて、私の家の
南斜向へのB1労組事務所でちよいちよい将棋をやつて居るということを聞いたの
で、八月十三、四日頃にB1労組に遊びに行つた処、労組のA6さんと名前の知ら
ない人で眼鏡をかけやせ形の二十四、五才位で一見好男子の人とその外二、三名の
者が将棋をやつておつたのであります。私がその将棋を指す所を見ておると、私も
一番指してみたくなり、A6さんに対して俺にも一番教えて貰い度いと言つた処が
よかろうと云い、名前の知らない人と二番位やつて帰つたのであります。こ七が労
組で始めて将棋をやつたので、それからついつい労組に将棋を指すに行くようにな
つたのであります。
 一、その後八月一六日午後八時頃、前に同じように向いのB1労組に行つた処、
例のとおりA6さん、B138さんという二十二、三才位の人と名前の知らない人
が二、三人おり私が労組に入つて行つた処、B138さんが今晩一勝負やんべとい
うのでいつもやる労組を入つて左側の青年部事務室の長い腰掛けに股をかけてB1
38さんと二回位やつて牛後九時半頃になつたかと思う頃にA6さんが這入つて来
て、俺と一番指すべいと云うので、よかろうとB138さんと代つて私とA6さん
と二、三回程指しましたが、私が負けて午後一〇時半頃に私は家に帰つたのであり
まして、A6さんは何時頃帰つたか分りません。
 一、その夜私は午後八時頃からB1労組に一〇時半頃まで何処にも出ず将棋をさ
しておりましたが、その間労組のA3さんもその他の人の姿も見受けませんでした。
又A6さんか労組に来てからB138さんと私が将棋を指して居たのでありますが、
A6さんが労組に入つてきた時B138さんが今A3さんが酔つて来て寝たと云つ
た様なことはきいた覚はありませんでした。
 B15224102検察官田島勇調書
 一、私は昭和二一年春頃からB153方へ製本業の見習に入り現在に至つて居り
ます。関川方はB1労組事務所の斜前になつておりますから、同年夏頃から将棋指
しに出入するようになりました。労組の人達で私の知つておる人は、B138さん、
A6さん、B29さん位であります。
 一、本年八月一六日の晩にも将棋差しにゆきました。その時刻は午後八時過ぎ頃
でありました。その時間は駅の構内の線路のところにある時計を見たから判つてお
ります。
 労組事務所に入りました処、B138さんと名前の判らない五、六名の人がおり
組合事務所入口から見て左手の方の青年部の処で遊んでおりました。B138さん
と私は是迄数回将棋をさしておりますが、何時も勝つたり負けたりの仲なものです
から、私もB138さんと将棋を差し度いと思つた処、B138さんは「一番やつ
ぺ」と云うたので、その青年部の処にあつた長椅子に私は出入口を背にして、跨り、
B138は出入口の方を向き、中に将棋盤を挾んで将棋さしをしました。B138
さんとの勝負は五分五分でありました。午後一〇時か一〇時半頃A6さんがきまし
た。私とB138さんの将棋差しをA6さんは一寸見ておりましたが、勝負か付い
たので、A6さんがやろうと云つて、B138と交代しましたので、二、三回A6
さんとやりました。その結果私は一回も勝ちませんでした。私は毎晩一一時迄にか
えらないと叔父さんに叱られるので、その晩も一一時近くに帰つたと思います。
 A6さんが来たのは私がかえるまりも三〇分ないし一時間早く米たと思いますの
で、A6さんの来たのは一〇時か一〇時半頃だと思います。
 一、私は出入口を背にしてはおりましても、人が出入すれば気配で感じますし、
又何んとかB138さんなんかに挨拶もするのでしようから判る筈でありますが、
中に居た人達が出入りした以外には誰も入つて来た人はありませんでした。
 A6さんは気配で自転車できたように思われました。A6さんは入つてきてから
は真ぐ私達のところに来ましたが、B138さんとは別段何も話をしませんでした。
 私が居る間に酔払つて入つてきた人はありませんでした。
 今度の列車顛覆事件で、大勢検挙されてからB138さんにA3というのはどん
な人だと聞いたら、B138は背のちつこい男でこの間来た奴だと教えてくれたの
で、その人なら名前は判らなかつたが、顔は屡々組合事務所で見ていたので、あの
人がA3さんかと思つたのであります。
 そのA3が一六日晩私が組合事務所に居た間に来たことはないと思います。又私
が事務所に入つて行つた時B138さんと遊んでいた氏名不詳者の中にも入つてい
なかつたと記憶しております。
 一、労組事務所の宿直室は入口の右手にありますので私が居た場所から宿直室の
中は見えませんが、何だか蚊帳が引いてあつたような気が致します。宿直室の上り
口のところに履物があつたかどうかは気が付きませんてした。
 一、私がかえる時A6さんやB138さんの外に右側のテーブルの方に何人か居
たような気がしますがハツキリ致しません。毎晩事務所には三、四人泊りますので
その晩宿直する人が居たのではないかと思います。
 一、只今申上げたことは間違ありませんが、公判の際証人として調べられて本当
の事は大勢の前だから云いにくいと思いますので、なるべく証人にならないように
お願いします。
 B15224104裁判官唐松寛調書
 問(裁判官)証人はB1労組の幹部の人で誰か知つている人がいるか。
 答 私が労組幹部で知つている人はB29さん、A6それにB138さんの三人
位であります。
 問 証人はB1労組事務所に度々遊びに行つたことがあるのか。
 答 私は本年八月に入つてからB1の者が首になつて皆事務所に集まつて将棋差
等をしていたのでその頃から私も将棋差にちよいちよい行きました 問 証人は本
年八月一七日の晩B1労組福島支部事務所へ行つたか。
 答 私はその晩映画を見てから盆踊を見に行つて一〇時半頃組合事務所に立寄り
一一時頃帰宅致しました。
 問 その時労組事務所には何人位人が居たか。
 答 はつきり思い出せませんが、大体四、五人位居たと思います。
 問 その中に証人の知つている人がいたか。
 答 私の知つているのはB138さん位のものでした。
 問 証人は何をしに労組事務所へ行つたか。
 答 私は将棋を差に行きました。
 問 それでは誰と将棋を差したのか。
 答 私はそれまでB138さんと一番多くやつて居りますが、B138さんとは
五分五分の勝負なので、その晩もB138さんと一番やろうかと思つて居りました
処、私が事務所に行くとB138さんが一番やつぺいと云つたので私は事務所に入
つて左側にある青年部の机の長椅子にまたかり、B138さんと向い合つて将棋を
二番差したのであります。尚それからA6さんとも三番位差しました。
 問 A6は何時頃事務所に来たか。
 答 A6さんは私がB138さんと将棋を差している間に事務所へやつてきたの
であります。
 問 証人はB138と二回、A6と三回将棋を差して居る様だが、それだけでも
三〇分以上時間がかかるではないか。
 答 その晩私が家を出たのは午後六時半頃でした。それで私は映画を見にゆき、
映画館を出てから稲荷様の盆踊を見にゆきましたが、雨がバラバラ降つていたので
直ぐ引返えし、今度将棋でも差そうと思つて組合事務所へ行つたのですから、事務
所へ行つたのは多分九時か九時半頃になるかと思います。帰つたのは午後一一時頃
だつたので、事務所には一時間半か二時間位いたと思います。
 問 証人はA3を知つて居るか。
 答 私は新聞を見て始めて私が組合事務所へ行つていた当時二、三回会つて顔を
知つていた男がA3であつたのかと知つた次第であります。従つてA3とは何の身
分関係もありません。
 問 その晩証人が事務所に行つた時A3を見たか。
 答 その晩私が事務所に行つた時四、五人の者がいたと先程申上げましたが、そ
の四、五人の中にはおりませんでした。又私が組合事務所にいた間にA3は来なか
つたと記憶します。
 問 証人はその晩事務所の宿直室にA3が寝ているということを誰からか聞かな
かつたか。
 答 私は左様なことは聞きませんてした。
 問 宿直室は何処にあるのか。
 答 労組事務所の宿直室は事務所の入口から入つて直ぐ右手前の角にあります。
 問 証人は事務所にいた時宿直室の中を見たか。
 答 私はその晩宿直室を覗きませんでしたが、蚊帳は釣つてありました 問 蚊
帳が釣つてあつたのなら誰か泊つておつたのではないか。
 答 それは毎晩事務所には二、三人泊つておりますので、その晩も宿直する人が
泊つていたかも知れませんが誰がそこに泊つていたか判りませんでした。
 問 それでは履物はどんな物があり何足位あつたか。
 答 履物の点は全然記憶ありません。
 問 A6は証人がB138と将棋を差しているとき来たと先程云つたがそれは何
時頃てあつたか。
 答 私はA6さんと将棋を三番差したのでありまして、私が家へ帰つたのはもう
一一時頃でしたから、A6さんが事務所へ来たのは一〇時頃ではなかつたかと思い
ます。
   A6さんが事務所へきでから間もなく将棋を差したのですから、それから考
えてもA6さんが事務所へ来たのは先程申上げたとおり午後一〇時頃来たのかと想
像するのでありまして、その時間の点ははつきり申上げられません。
 問 A6は一人で来たのか誰か連れの者と一緒に来たか。
 答 A6さんは一人で事務所へやつて来たと記憶して居ります。
 問 重ねて尋ねるのだが、証人が事務所に居た間にA3が事務所へ来たか、或は
又証人が事務所に居たときA3が事務所に居たか。
 答 私が事務所に行つた時先程申上げたとおり私の知らない人が四、五人ばかり
居りましたが、A3さんは居りませんでした。又私が事務所にいる間にもA3さん
は来ませんでした。
 問 証人が事務所にいる間にA6の外に誰か事務所へ来た者があるか。
 答 私が組合事務所へ行つたとき、先程申上げた私の知らない人が四、五名居り
ましたが、その人達が事務所を出入りしましたが、A6の外別の人は来なかつたよ
うに思います。(下略)
 以上調書に現われたB152供述から考えて、もしA3がその主張のように当夜
事務所にきて、B138に対し「酔払つているからさわらないでくれ、返食しそう
だ」とか、或は「酔払つてきて悪いな、かんべんしてくれ」とか云つて宿直室に靴
も脱がずに引つくり返えり、B138に介抱されて寝たというならB138は一時
なりと将棋をやめてその席を立つたであろうから、そのような事実はB152の記
憶にどとまつていると認めるのが事の筋道である。然るにB152の右供述の中に
はそうした記憶のあることはさらさら認められないのである。この点を原判決はど
う説明しているかというと、こうである。
 曰く、当時B152はA3と面識なく、しかもB138との将棋に夢中になつて
いたとみられるB152としてはその夜A3の来たことを忘れてしまつたものと解
しても別段不思議はないであろう。云々。
 いつたい、このような認定は何を根拠とするのであろうか。前示三調書に現われ
たB152の供述を通観すれば、そのような認定を容れる余地など全くない程に整
然としているのである。原判決の右認定は想像以外の何ものてもない。一事は万事
である。
 右B152は右供述をしてから一〇余年の歳月を経た昭和三五年一二月八日原審
第二六回公判において次のとおり供述している。その供述は記憶がうすれているが、
これも貴重であるから以下に掲げることとする。
 原審35128二六回公判調書中高橋検察官と証人B152との問答
 問(高橋検察官)あなたは二四年八月当時はどこに住んでおりましたか。
 答 a町に住んでおりました。
 問 現在と同じ場所ですか。
 答 そうです。
 問 当時は何をしておりました。
 答 製本の見習です。
 問 あなたの家の近くにB1労組の事務所がありましたか。
 答 はいありました。
 問 歩いてどの位の距離ですか。
 答 歩いて三分です。
 問 二、三分、あなたはそのころその組合事務所へ行つたことがありますか。
 答 それはいつですか。
 問 二四年の八月。
 答 何時ごろてしよう。
 問 と聞いてもちつとわからんと思いますからね。
   じや二四年の八月中旬にですね。松川と金谷川の間で汽車がひつくりかえつ
たことを知つておりますか。
 答 はい知つております。
 問 その頃あなたはB1の組合事務室に行つたことがありますか。
 答 その頃行つたのは一二―一三日だと思います。
   一三日から一六日にかけて行つて来ました。
 問 その頃は何しに行つておつたんですか。
 答 将棋さしです。
 問 昼間ですか夜ですか。
 答 夜です。
 問 夜ね。大体何時ごろから行くんですか。
 答 たいがい八時から一〇時半まで、あと一六日の日は、 問 いや、まあ一六
目の日といつて特に初めから聞くわけてないし。あのね、そのころのこと聞くんで
すがね、そのころね、大体その八時ごろから終りは一〇時半ごろですか。
 答 はい、一〇時半ごろです。
 問 あなたの所はそれじや門限があつたんですか、何時までに帰らなくちやいか
んというような。
 答 門限はないんです。
 問 ない、すると何時に帰つてもいいんですか。
 答 そんなことはないです。
 問 何時ごろまで帰らなくちやいけないんです。
 答 やつぱりねる時間か一〇時ごろですからその前に帰ります。
 問 将棋はおもにどういう人としておつたんですか。
 答 おもにしたのはB138さんとA6さんぐらいのもんです。
 問 B138何という人ですか。A6という人は。
 答 B138で、A6さんだと思います。
 問 大体一晩に何回ぐらいやるんですか。
 答 二―三、二―三ばんですね。
 問 二時間か二時間半ぐらいで二―三ばんですか。
 答 それよりも多い時もありますから、なんだか忘れました。
 問 あなたはあのB1の労組事務所にでていた人でA17という人を知つていま
すか。
 答 忘れました。
 問 忘れましたつて、当時は知つておつたんですか。
 答 はい、当時は知つておりました。
 問 忘れたというのは今顔を見ても分らんという意味ですか。
 答 そうです。
 問 当時はどういうわけで知つておつたんですか。
 答 将棋をさしてた時はいつてきたから判りました。
 問 当時将棋をさしている時にはいつてきたので名前を聞いたんですか、だれか
に。
 答 そうです。ほかの人が呼ばつたからわかりました。
 問 ああ、ほかの人がA3さんとか何んとか呼んでいるのを聞いてわかつたとい
うのですか。
 答 はい。
 問 あなたはその列車顛覆のあつた日ですね。前の晩B1の事務所へ行つて将棋
をさしたかどうか。その点で記憶がありますか。
 答 記憶あります。
 問 その記憶のある限りでいいからいつて下さい。どういうことを、その前に、
じや、やつたか。
 答 あの一六日の日でしよう。
 問 ええ。
 答 一六日の晩は映画を見てあとは盆踊を見て帰つてきて九時半だか何んだか、
なんぼだかわかりませんが、そのころ行きました。
 (中略)
 問 それでB1労組事務所へ着いたのは何時ごろなんですか。
 答 九時過ぎと思いますがはつきりわかりません。
 問 あなたかそこに行つたときB1労組事務所の内には誰かおりましたか。
 答 顔は忘れましたがB138つう人がいたように思います。
 問 B138ですか、A6という人はいましたかいませんでしたか。
 答 いたような気がします。はつきりしたことはわかりません。
 問 わからない、あなたはそのことについて二四年当時警察や検察庁できかれま
したか。
 答 きかれました。
 問 それはどこできかれたか今記憶しておりますか。何回きかれたか、何回ぐら
いきかれたか。
 答 警察署と裁判所とあとかんしや。
 問 一番最初はどこですか。
 答 一番最初は警察です。
 問 福島警察ですか。
 答 はい。
 問 それから。
 答 二番目が裁判所かんしや。
 問 裁判所のかんしゃ。
 答 はい、あと三番目が裁判所です。
 問 裁判所。
 答 はい。
 問 一番最初は誰にきかれたかわかつていますか。
 答 わかりません。忘れましたから。
 問 二回目のかんしゃの時は。
 答 わかりません。
 問 三回目は。
 答 わかりません。
 問 その時に調書はみんな取られましたか。
 答 取られました。
 問 その当時は記憶にあることを述べたんですか。
 答 そうだと思います。
 問 その頃覚えていることをね。
 答 はい。
 問 覚えていることをそのまま話しましたか。そのころ。
 答 そのころ。今になつては分りませんが。
 問 今、今てなくね。裁判所とかね、警察にきかれた時にあなたが覚えていると
おり話したんですか。
 答 はいそうです。
 問 そうですか。
 高橋検察官
   証人に成立を確めるために調書の署名部分を見せたいと思います。
 裁判長 はい、どうぞ。
 高橋検察官
   昭和二四年一〇月一日付司法警察官B202作成にかかる調書の署名部分を
示す。
   ここにB152と名前か書いてぼ印が押してありますね。
 答 はい。
 問 これはあなたの字ですかどうですか。
 答 わたしのです。
 問 そうですか。
 答 これ間違つているのかな。
 問 じや次のとひかくしてみて下さい。次に(二四年一〇月二日付検察官田島イ
サム作成にかかる証人に対する調書の署名部分を示す) これはどうてすか。
 答 わたしです。なんだかつづり間違つたかな。
 問 何。
 答 あんときいたんだなあ。
 問 何がさ。いや、あなたこれ、これだけ聞いているんですよ。これね、あなた
が書いたんですか。
 答 はいそうです。
 問 最初のこれもそうですか。
 答 はい。
 問 それから。
   (昭和二四年一〇月四日付裁判官唐松ヒロシ作成にかかる証人に対する尋問
調書の末尾の署名部分を示す。)
   このB152というのはあなたの書いた字ですか。
 答 はい。
 問 この下の判コもあなたの判コですか。
 答 はい。
 問 そうですか。
 答 はい。
 (中 略)
 問 唐松調書によるとB138と将棋をやつている処へA6が来たというふうに
述べておるんてすが、そういうふうに述べた記憶は今ありますかありませんか。
 答 今はありません。忘れましたから。
 問 その事務所には一時間半か二時間くらいいたと思うと。
 答 はい思います。
 問 それはそういうふうに述べたかどうか記憶にありますか。
 答 その時述べました。
 問 それは記憶にあるんですか。
 答 はい。
 (中 略)
 なおB152は右問答に続いて上田弁護人との間に次のような問答をかわしてい
る。
 問(上田弁護人)先程のあなたのお話をきいていますとですね。
 答 はい。
 問 将棋をさしていた時にね、A3さんがね、事務所に入つてきたことがある。
 答 はい。
 問 それでそのあの人はA3さんだということを誰かが呼んだので、A3さんだ
ということがわかつたとおつしやいましたね。
 答 はい。
 問 それは勿論夜のことでしようね。
 答 夜のことです。
 問 そうするとあなたは夜B1事務所で将棋をさしている時にあとで人がA3と
呼ぶのてA3さんとわかつた人がね、あなたが将棋をさしている時に組合事務所に
入つてきたことがある、そういう記憶をおもちなんですね。
 答 あん時、将棋をさしてたとこさ来たんだからそういう記憶は。
 問 そういうことはあつたということなんですか。
 答 あつたと思いますね。
 (下 略)
 右問答中のB152の供述はそれが一〇余年前のことであり、記憶の不確かさは
ともあれ、問題のA3が事務所に来たといふ点になると、それがB138と将棋を
さす為めに何回もB1事務所にきていたというB152としては一六日夜のことか
どうか、判然と確言していないのである。従つて、焦点がぼけているばかりでなく、
右問答の前に行われた高橋検察官とB152証人との間の問答中に「これ間違つて
いるかな」とか、或は「つづり違つていたかな」、或は「あんときいたんだなあ」
とかいう発言は、その意味捕捉し難く、供述のひ弱さと何かしら黒い陰影を感じら
れ、右供述を以てしてはB152の一〇余年前の新鮮度豊かな供述を覆えす程度に
は至つていないのである。原判決はB152と上田弁護人との右問答の部分と前示
特記にかかるB152の意味不明の発言を捉えてそれは一六日晩のことを述べてい
るものと認定しているのである。どうしてそのような認定になるのであろうか。上
田弁護人との問答の部分とB152の意味不明の供述をかみ合せてみても、そうし
た認定が出てきようもないのてある。ここにも原判決の認定の甘さがある。一事が
万事、原判決の認定の仕方はすべてこのとおりである。
 A3が八月一六日夜アリバイ主張の時刻頃までに来ていなかつたことは、A7の
次の調書上の供述によつても明らかである。この点は特記に値するから、以下にそ
の調書を掲げる。
 A7241119司法警察官B19調書
 私か今迄申上げたことで思い違いの点を訂正して申上げたいと思います。それは
八月一六日の晩の私の行動について、この前に当日はB2松川工場の職場大会より
福島B49のB27さん、B28さんと福島駅前のB149旅館前において別れて
家に帰つたと申上げたのでありますが、それは思い違いであります。八月一六日の
夜午後九時四〇何分かの松川発列車に私とB49のB27、B28の三名で乗車し
て午後一〇時三分に福島駅に到着し、同時に三名で下車し、一緒に駅前B149旅
館の西側道路を廻つてB1支部に参りました。駅前から支部にゆくその間は雨は降
つておりませんでした。私達がB1支部に着いた時に同事務所の一隅にあるB49
事務所のところに、B138さん、B150さんの両名がおり、その外に支部事務
室にも、地区労事務所宿直部屋にも誰もおりませんでした。
 私ら三名もその両名の所にゆき、B2松川工場の職場大会の状況を話合つており、
その会話は約二〇分か三〇分位ではなかつたかと思います。
 私がB1支部におるその間に雨が降つてきた事は記憶にあります。私は二、三〇
分して雨がやんだので一人で事務所におる四名の方と別れて支部を出た時は盆踊か
ら帰る人に逢いその儘家にかえりました。云々。
 A3とB138との供述が完全に一致し、おこしおこされた時の情景まで、その
自然さが照応していると原判決のいう前示場面が、もし本当の事実であるならば、
A3アリバイの成立の可能性の大であることは云うまでもないところであろう。と
ころが、そうした大事な事柄が検察官の取調段階においては何ら述べられていない
のである。すなわち241013検察官山本諫調書(同年119同検察官調書のに
おいても同じ。)を見ても右の場面については何も主張されていないのである。即
ち同調書においてA3は、「一六日夜はB29方で酒や肴の御馳走になり、午後一
〇時頃皆帰つてゆきした。私は一足おくれB29の妹B142におくられ、陣場町
交番の前に出、飯坂街道を歩き福島駅手前の十字路から駅の方へ折れて真直に歩き、
B149旅館前まで二人で話しながら参りました。そこでB142と別れ、私は組
合事務所にゆき、その晩は組合事務所に泊つたのであります。私が組合事務所に行
つた時刻は午後一〇時半頃であつたと思います。その時事務所にいたのはB138、
B27、B28でありましたが、B27とB28は蚊帳を吊らずにねておつたとき
憶します。B138は何をしておつたか記憶ありません。(B138がB152と
将棋を差していたことについては何ら認識のないことは注意に値する。)私は少し
酔つておつたのでその儘宿直室に大の字になつてねて了いました、」云々というの
みで、B138との夜半のやりとりについては勿論B138に床をしいて貰つて毛
布をかけて貰つたことや、A6が下駄音をガタガタさしてきて、奴さん参つて了つ
たなどと云つたこと、又A3がB138に向つて酔払つてわるいなかんべんしてく
れとか自分のからだにさわらないでくれとか云つたということについては、これを
窺わせるに足る何らの供述もないのである。そしてそれらの事実は第一審八一回公
判において、更に原二審提出の控訴趣意書において初めて前面に押し出されている
のである。いつたい、これはどうしたことであろうか。原判決は、A3被告におい
て事の重大性を認識しなかつた為めだという。しかしA3としてみれば自己の生死
を決するといつても差支ない程の重大問題である(後に記述するが)、原二審の公
判におけるA3被告と証人B138との対決の場面で、A3はB138に対しその
夜の状景を思い出して貰い度いと鳴咽しながら訴えている。そのようなA3が事の
重要性に気付かず認識しなかつたなどとは到底考えられない。原判示はこども騙し
のたぐいであるといつても過言ではあるまい。
 ところで、A3はB29方の御馳走でどの位飲酒し、その晩どの程度に酔つてい
たのであろうか。その間の事情はB142の24924司法警察員B202調書中
において同人が平明卒直に述べている。その供述記載は次のとおりである。
 B14224924司法警察員B202調書
 私はB29の妹であります。八月一六日は亡父の命日に当つておりました。兄B
29がB139、A4、A6、A3らを連れて家に午后五時頃きました。右の人々
七人で家の座敷八畳間で兄B141が持つてきた焼酎に果汁を割つて飲んでいたの
でありますが、その内に兄B29が新町の千歳にゆき酒四合ビン一本を買つてきた
のでその酒を飲み了る頃に五月町の兄B29の妻B154の実母が焼酎五合程持つ
てきてくれたので、その焼酎も飲んで了い、話ながら私の家で買つておいた西瓜を
皆で喰つて帰つたと思います。
 一緒に飲んだ七人の内でA6さんは身体がわるいと云つて酒も焼酎も飲まなかつ
たと思います。それであとの六人で結局焼酎一升五合酒三合果汁三合ビン三本を飲
んだことになりますが、一番酔つたのはB139、A4さんらで、次はA3、B8
秀雄、兄B141でしたが、動けなくなる程に酔つた人はありませんでした。酒を
飲み終つたのは九時一〇分か二〇分頃で、雑談をして皆んな帰つたのは九時半頃と
思います。
 A4さんはB139が酔つているから私の家に連れて行つて泊めてやるからと云
つてA4とB24が出てゆくとき、A6は来るとき乗つて来た自転車をおいてA4
さんの家までB24さんを送つて行つたのであります。
 後に残つたA3さんも五分位過ぎたかと思う頃に私の家を出たのでありますが、
同時に私も母親に一寸行つてくるからと云つてA3さんと一緒に家を出たのであり
ます。それは私がA3さんに話をしてみ度いことがあり、又A3さんも私に対して
話をしてみ度いという話があつたからであります。その話というのは森川町におる
友達でB1に勤めておる人でA3さんとB1に勤めて居た男と二人に恋していたの
で、その事がA3さんの耳に這入つたのでA3さんは私に対してその気持を聞きた
かつたのであります。又私もその事についてA3さんに話をして見たかつたのであ
ります。
 そうして私の家を出て右側に折れて陣場町交番前を通り駅前に出てB149旅館
の角で二、三分立話をして居る内に雨が降つて来たのて、其処で別れてA3さんと
別れました。一〇時一〇分頃と思います。
 私とA3さんと町を歩いて居るとき、A3さんは電燈二つに見える様な話してお
りましたが、別に二の足踏む程でもなく何もわからない様なことはありませんでし
た。(下略)
 右供述記載によれば、A3被告は当夜そのアリバイ主張において述べる程に酔い
潰れていたものとは認められないのである。従つて酔つて自宅に帰り得ずB1労組
事務所に行つてB138に対し前示のようにつぶやき、その介抱を受けたとの事実
に対しては多大の疑惑を抱かさざるを得ないのである。
 次にA3アリバイ中に出現する人物の行動について論議したい。まずA6の行動
について述べる。
 A3アリバイの主張の中に、B138が毛布をかけてくれてからしばらくして吐
気があるため熟睡できないでいるうちにガタガタ下駄の音がして枕元で「奴さん参
つちやつたな」というA6の声をきいたとの一とこまがあるが、右の点は捜査段階
では何ら主張されておらず、事件発生一年後の第一審八一回公判においてよみがえ
つた記憶として初めて述べられているのである。従つて右の点は容易に信をおき難
いのであるが、A6自身も右の点を自己の記憶として述べているものは記録上見当
らないのである。すなわち、A6に対する24923巡査部長B203調書、及び
24101田島検察官調書中 におけるA6の供述中にも右の点に言及しているも
のは何一つないのである。そして右B203調書によればA6がB1労組事務所に
行つた時刻は一一時半頃であつて、事務所にはB138か組合事務所の向の活版屋
の息子と二人て将棋をさしておりその際、B138が云うにはA3は組合の宿直室
に泊つて参るからと聞かされ、私も活版屋の息子と将棋をやり、かえりましたとあ
り、又右田島調書にはB1事務所へ来たらB138がおり事務所前の製本屋の息子
と将棋をさしておりました。B138の話ではA3が帰つてきて泊つておるという
ことでした。私は荷物を宿直室の東側の机の上におきましたのでその荷物を取りに
行きましたが、その際A3さんが履いておられるような頑丈な然しそれよりももつ
と赤い靴が宿直室の前に揃えてあり、北側の方に蚊帳の中で誰れかがねていたよう
に記憶しますので或はそれがA3だつたかも判りません。ねている者の顔を見た記
憶はありませんが、ぬれている靴がA3君が履いていた靴に似ておりましたので、
A3君が泊つていると思いましたとある。そして、第一審八一回公判における供述
では「B1労事務所でB152と将棋をやつてから、私の品物を受取つて帰ろうと
したが、その荷物がいつもA3が使つている机の上の処にあつたのでそこへ行つた
ところ、A3の顔が見え、枕元のところにA3の靴があつた。A3の顔を見たこと
は田島検事の調書に一回取られた」とあり、右各供述の推移を見るに、次第に変化
し遂にA3の顔を実見したというような供述に発展しているのであつて、曲折がは
げしくたやすく信を措き難い。そして右各供述をさきに述べたB152の供述(公
判調書におけるものを除く。)と対比して考量するときは、ますますその感を深う
せざるを得ないのである。
 次にB145の行動について述べる。
 B145は一審六六回公判において次の如く述べる。即ち、
 『八月十七日朝私は、午前八時半頃福島市a町b番地B155方を出て、八時五
十四分かの上り列車に乗ろうとして八時四十五分頃駅に着いたところ、改札口の掲
示板に「事故のため上り列車は行かない」と書いてあつたが、何の事故か、判らぬ
のでB1支部に行つた。それは八時五十分頃と思う。B1支部入り口真向いの所の
向つて左側の机に当時B49に一部貸していたところで、女一人混えて四人が飯を
食べていた。又右の方の机は総務の方になつているがそこでは庶務のB147が事
務をとつて居り、その前の宿直者が寝る処が四畳敷位の部屋で、そこに誰か寝て居
た。私はB147に「お早う、暫らくでした。誰も居ないのですが、上り方面の列
車は不通ですが、何かあつたのですか」などと話してから「そこに寝ているのは誰
ですか」と尋ねると、「A3さんです」と教えられ、そこに寝ているのが、A3で
あることが判つた。シヤツの下に黒いズボンをはき毛布を被つて寝ていた。起して
挨拶しようと思い、起したところ、目をこすりながら、起きて、「暫くだつた」と
いうわけで、それから四方山の話に入つた。その時A3は、二日酔のような状態で
あつた。A3は余り酒を呑まない人であるが、後できくと「昨夜酒をのんで、頭が
ガンガンする」といつていた。お盆でB29さん(B29)の所で御馳走になつた
といつていた。それからA3と話しているうちに、てん覆の内容に次第に判つて来
た。それに私が帰ろうと思つていたところに汽車が行かないことも判つたので、そ
れから二人で雑談をしていた。その後組合事務所には、組合関係の人が沢山来た。
その中にA18、B139、B29、A5、B156労のB157がいた。その人
達が来たとき、B29がA3を見ると「痛い、A17の野郎昨晩暴れて歯がグラグ
ラした」などといつていた。列車事故については民主調査団を派遣することになり、
調査団が出かけた。調査団は仙台から来た起重機のようなものを載せた列車に乗せ
てもらおうとしたが、それは発車して了い、九時半のバスも出た後なので、一〇時
半のバスで行くことになり、B158銀行脇の停留所に行き、結局二本松行の臨時
バスに乗つて行つた。その顔ぶれはB29、A5、A3、B24、A18、私外に
もう一人B49のものと計七名である。』(旨以上弁護人の問に対する供述)「八
月十七日朝、B1支部で私がA3を起したときA3は列車の脱線事故を知つていた
様子であつた。郡山のB144さんとかあちこちから電話がかかつ来たということ
であつた。だからA3は事故を知つていながら寝ていたことになる。B147は、
私がA3を起すところを見ていたと思ら。A3は宿直室の入り口から入つて寝る方
に行つたところの手前の方である。足を机の方即ちB147の居た方に向け、頭は
窓際の方に向けて居た。毛布は被つていた。A3を起してから同人と話したのは時
間にして十分位のものである。その場所は机の前で、起きて立つたところの板の間
である。その時B147は矢張り机に向つて居た。事故については、A3と話して
いて判つたというのは、A3は電話がかかつつ来たとかで判つていたので、自然事
故か妨害事故か判らないということであつた。旨(以上田島検察官の問に対する供
述)供述し、更にA3被告の寝ていた姿勢につき、A3被告の問に対し(問)「そ
の時足を机の方に頭を窓の方に向けて寝てたというが、証人は私を起す時畳に腰を
かけて私の肩をゆすぶつたのではありませんか」(答)「起した時はそうでした。」
(問)「それで足が机の方に向つて居りましたか、窓の方が足だつたのではありま
せんか」(答)「私の記憶違いかも知れませんね。私が起すには右の手をづつと延
ばさねばならない訳ですから、それに毛布を外して直ぐ答えたのですから、記憶違
いかも知れませんがはつきり致しません」旨供述している。
 右供述によると、B145は一七日朝八時五〇分頃組合事務所に行つてみると、
A3がまだねていたので起して挨拶した、それから雑談の後A18らと調査団に加
わり、一〇時半頃バスに乗つて行つた。B147は自分がA3を起すところを見て
いたというのであるが、そのB147は、一審三三回公判において証人として、自
分は昭和二三年七月以来B1労組福島支部の有給書記をしている、八月一七日に右
事務所に出勤した人で名前の覚えているのはB29、A6、B139、A18、A
5ぐらいであり、出勤した人達は皆ラジオで事故のことを知つていた、そしてあん
な酷い事故では組合でも調査しなければならない、それには調査団を組織して現場
を見に行こうといつてカメラを探したりしてとても忙しい様であつた、その調査団
の中にはA3も加つていた、調査団の出発したのは一〇時頃と思う、私はB145
を知つている、同人は若松分会の書記をしていたので知つている、八月一七日朝B
145はB1支部事務所に来た、B145は皆何処へ行つたかときいた、B145
は皆が出かけてから来たのである。私はそうきかれて、今日は列車事故現場を調査
するとて一〇時半頃出かけたので大急ぎで行かぬと間に合わないと答えた、その朝
B145から畳の部屋に寝ているのは誰ですかときかれたことはない、と云つてい
るのである。この供述によるとB145は全くのうそ、いつわりを云つているので
はないかとの疑が濃厚である。
 然るに原判決は、B147のB145は調査団が出発してから来た旨の証言は、
新証拠のA18922伊藤調書、A71028B191調書、B1591017山
田調書に照し同女の記憶に残つた一場面を証言したに過ぎないものとみられると判
示する。同女の記憶に残つた一場面とはその意味不明であるが、おそらくB147
の右供述部分は間違いであるということを云わんとするものであろう。しかし、そ
のように認定すべく原判決が引合に出した右A7の調書からは何ものも得られず、
またA18伊藤調書、B159山田調書各記載にかかる供述もその点至極簡単でB
147の右供述を覆す程の心証を惹起するには足りないものである。そして、他方
当時福島労働組合会議(地区労)の有給書記をしていて八月一七日朝七時五〇分頃
B1労組福島支部事務所(地区労事務所もここにあつた)に出勤したというB14
8も前示と回じ一審三三回公判において証人として、「私はB145を知つている
が、同人が八月一七日朝労組事務所に来た記憶はない」旨述べているのである。こ
の事実よりしてもB145の前示供述に対する疑はますます深いものと認めざるを
得ない。
 次にA3アリバイ主張の中に出てくる人物で、A3が自己の主張の支えとしてい
るB147及びB148の各供述を吟味しなければならない。
 B147は一審三三回公判において証人として次のように証言している。
 「私は昭和二十三年七月十五日からB1労組福島支部有給書記をしている。本件
列車事故のあつた昨年八月十七日朝、私は午前七時五十分頃に組合に出勤した。七
時五十分頃というのは私が事務所に着いた時刻である。私はその時一人で出勤した
のではなく、回じ笹木野駅から一諸に通勤しているB148と一諸であつた。事務
所に着いてから普通の日と変らず、私は掃除をした。その日朝出勤すると、B13
8が机の所で電話をかけて居た。私はその時B138から、列車事故があつたこと
を聞いた。私は組合にいて、いろいろ列車の話を聞いて居るので、別に大した事故
でもないと思つて、自分の机の処で、新聞を読んでいた。右事務所内に畳の敷いて
ある部屋がある。そこは、私が執務するところから二間位離れているが、その部屋
は私の机から真向いになつている。私は事務所に来て入るとすぐにその畳のしいて
ある部屋を見た。私は朝出勤すると習慣になつて畳の敷いてある部屋を見ているが、
偶には、宿直員が寝ていることもある。其の日(八月十七日)は寝て居た。そこで
寝ている処に入つて行くのも悪いので、誰が寝ていたか確めなかつたが、寝ていた
ことだけは確かである。その人は、ラジオの方に向つて、毛布を着て寝ていたよう
に記憶している。私は、自分の腰かけにかけてからは別段に見ない。私は事務室に
B148さんと一諸に入つた時、『A3さんはまだ寝ているのだね』といつて話合
つたことを記憶して居る。A3さんとはA3のことである。それからはB148l
さんも私も机の処に来て新聞を見ていたが、それからは別に二人の間では寝ている
人の話はしなかつた。畳の間に寝ていた人が起きるのは気がつかなかつた。右の寝
ているのがA3さんだと判つたのは、普通頭の恰好で誰だか判る。その時も確めて
は見ないが、頭の恰好からA3さんと思つたのである。」云々。
 右供述の中で重要な点は、「A3さんはまだねているのねとB148と話合つた」
という点、「寝ている男の頭の恰好でA3だと思つた」という部分である。しかし
それだけであつてA3の実物を見たとは云つていないのである。如何にもフワフワ
とした風船玉のような頼りのない証言なのである。そんな軽い証言ではA3アリバ
イを十分に立証するものとは云えないであろう。
 次にB148は同じ公判で証人として次の如く供述する。
 私は昭和二十四年二月十五日から、同年十一月頃近福島地区労働組合会議(略称
地区労)の有給書記をしていた。地区労の事務所はB1労組福島支部事務所内にあ
つた。本件列車事故のあつた八月一七日朝私は七時五十分頃事務所に出動した。B
1労組福島支部に勤めているB147と二人一緒に出勤したのであつた。私がその
朝出勤した際、別に話というわけではないが事務所に入つてすぐ、B147が私に
「A3さんがまだ寝ているんですね」と話掛けられたことがある。そこで私は振返
つてA3が寝ているところを見た。A3は組合事務所の宿直室である畳の敷いてあ
る部屋に寝て居た。私は、それが誰であるかということはよく判らなかつたが、丸
くなつて寝ていたのが、A3ではないかと思つた。その時布団でも被つていたかど
うか記憶ない。私がその人をA3だと思つたのは頭の形がA3に似ていたのでその
様に思つた。それから私達は仕事を始めたのであるが仕事を始める前にB147の
ところに行つて、新聞を読んだことがある。B147の机と畳の部屋は二間位離れ
ているがB147の机に向えば、畳の部屋が向い合つている。畳の部屋に寝ていた
人が起きるところを私達は見ていないが、新聞を読んでいるときに黒板の前に来た
のがA3であつた。その時のA3の姿は今起きたがかりの様子であつたが、どんな
様子であつたかはつきりした記憶はない。A3が黒板の処にいたのは記憶している。
そしてA3はてん覆のあつたことを聞いていたようであつた。それは私がB147
の机の処にいた時見たのである。その時畳の部屋には誰も居なかつたように思う。
私がB147と共に出勤した時事務所にいたのは、B150、B28、B138、
B27等であつたと思う。その日B1労組福島支部の人で出勤した人の内、私が現
在記憶しているのはB29、B146、B139、A6である。それらの人達は、
支部事務所に来て、列車てん覆の調査団として現場に行くという話をしていた。調
査団の顔ぶれで私が記憶しているのは、B29、B146、B139、A3である。
調査団が出発した時刻ははつきり記憶していないが、午後からてあつたと思う。そ
して帰つたのは午後四時か五時頃かと思う。私はB145を知つているが、同人が
八月十七日朝労組事務所に来た記憶はない』旨、(以上大塚弁護人の問に対する供
述)及び「八月十七日朝私が労組事務所に行つた時畳の間に寝ていた人は、入口の
方に寝ていた。その時寝ていたのは二人であつたような気がする。私がA3だと思
つた人はラジオの方に寝ていた。もう一人の人けそのすぐ脇に寝ていた。そこに寝
ていた人がA3であるかどうかはつきりはしないが、A3だと思つた。もう一人の
人はB27だと思う」旨(以上田島検察官に質問に対する供述)「八月十七日朝A
3の寝ているところを見たといい、田島検事の問に対してはA3とはつきり判らな
かつたという趣旨のことを答えたが、A3のような気がしたのである。私か新聞を
見ている間に黒板のところに来たのは正にA3であつた。B27、A3の二人が寝
ていたといつたが、二人とも毛布を被つて寝ていたかどうか記憶がない。私がA3
と一諸に新聞を見た時間は私等が支部事務所に行つてから二十分位後で、八時十分
頃である。」旨(以上B146被告の問に対する供述)
 右供述をしさいに吟味してみると頭の恰好でA3と思われる人がねていた、A3
とはつきりはしないが、A3と思つたその人の起きるところは見ていないが、自分
が新聞を見ているところに黒板の前に立つていたのはA3であつた、今起きたよう
な様子であつたが、どんな様子があつたかはつきりした記憶がない。A3が黒板の
所にいたことは記憶しているというのであつて、だんこ、A3とは言い切らず、甚
だ心許ない証言なのである。(A3はその朝右事務所に姿を現しており、B148
もその姿を見て知つているのであるから、その印象が同女の記憶の中にごつちやに
なつて入つているのではないかとも考えられるのである。)そのような不確な供述
を以てはA3アリバイを立証したものとは云い難いのである。(この場合アリバイ
の主張責任はA3被告にある)
 次にA3が同夜同室に泊つたというB150、B27、B28の供述について論
及する。
 B150は241017裁判官山田瑞夫の証人尋問調書において次の如く述べて
いる。
 自分は本年六月末から日本B49福島支部の常任でありますが支部長と書記長を
兼務しているかたわら県本部の執行委員をしている。県本部の執行委員長はB27
であります。県本部及び支部の事務所はB1労組福島支部の建物の中にありました。
自分は本年八月初め頃から右事務所内の一段高くなつている畳五畳位敷いてある処
に寝泊りをしていた。そこには八月初頃から、B27、B138がおり、八月半頃
からはB28も寝泊りするようになつた。
 八月一六日の夜は午後九時半か一〇時頃床についた。自分と一諸にB28、B2
7、B138もねたのである。自分達がねたときは西端からB28、B27、自分、
B138の順でねたのであるが、午後一一時半頃入口の戸ががらりとあいたので頭
を起してみるとA3が入つてきたのが見えた。その時ははつきり目がさめず、A3
が入つてきたということを感じた程度であり、自分はその儘ねて了つた。一七日の
午前一時半か二時頃、自分が便所に起きた時、B138の隣りに毛布を着て寝てい
た男がいたので、A3かどうか確める意味で毛布を取つて見ると、A3であつた。
それから便所からかえり又寝たが、午前六時半B138が電話で話をしておるのを
聞いて目を覚したが、B138が電話を受けて松川のてん覆事件のしらせを聞いて
おり、それで自分は飛び起き、自分と一諾にB28、B27も起きてきた。A3は
その時も寝ており、B138らはA3を起した様であるが、起きないのでその儘ね
かせておいた。A3が起きたのは午前八時から八時半頃の間であつたと思う。(下
略)云々。
 右供述をA3アリバイの主張に対比すると、B150の体験した場面とA3の体
験したそれとは大分異るのである。A3アリバイ主張においては、酔払つて労組事
務所に来て、「B138酔払つてきてわるいな、かんべんしてくれ」と云つて畳の
上にごろり寝て了い、B138に介抱されたと云つているのに、B150の右供述
の中にはそのような場面は一向に現れず、A3が戸をがらつとあけて入つてきた、
そして早朝事故を知らせた電話を受けたB138が、A3に知らすべく同人を起し
たがおきなかつたというのである。これでは余りに違い過ぎる、信用しようにも信
用できないではなかろうか。しかも夜中に便所におきA3であるかどうかを確める
為めに毛布をめくつて顔を見たらA3だつたというのである。何の為めにA3であ
るかどうかを確めなければならなかつたのであろうか、解せないところである。
 次にB27についてである。B27は241029裁判官山田瑞夫の証人尋問調
書において次のように述べている。
 自分は日本B49福島県本部執行委員長B160青年会議事務局長をやつている。
 そしてその事務所は本年八月初めから九月中旬までB1労組福島支部事務所内に
あり、自分はそこに八月一五日から寝泊りをしていた。
 本年八月一六日はB2松川工場で組合大会があつたので、友誼団体としてB49
青年会議のメツセージを送ることとし、B28と松川工場に出向いた、大会は午後
八時半頃終了したので、松川発午後九時何分かの汽車で福島にかえり、一〇時三分
福島駅に着き、事務所に帰つて夕食をすましてから、そこで寝た。一〇時半頃寝た
と思う。自分とB28と宿直室に布団を一杯にしき、蚊張をつつてやすんだ。その
晩午前四時半頃電話で誰か話している声で目を覚した処B138が電話で話をして
いた。その時自分の隣にB150がねており、一番入口の近いところに一人の男が
毛布を被つて寝ていた。その際その人が誰であるかはつきりしなかつたが自分が朝
七時半少し前に起きた処その男が数分たつて起きてきたのでその男がA3であると
判つた。自分はB138が電話にかかつていた際目を覚しただけである。朝四時半
頃であつたと思う。その電話の内容は松川金谷川間に鉄道事故が起きたから事務所
附近におる保線区の誰かを起してくれという風で保線区から組合事務所にかけてよ
こしたものと思う。その電話をうけてB138はA3と判つた男を起している様子
であつた。云々。
 ところが、B27は右調書の作成される前に右供述と相容れないこと或はそれと
大分内容の変つたことを述べているのである。すなわち、923B202調書では、
「一六日夜誰か泊つた記憶がない。A3もB138も泊らなかつた」旨述べており、
又108B132調書では、私とB28はその夜一〇時半頃床をのべ蚊帳を吊り就
寝した。その夜B150もB138も同じ蚊帳にねたわけであるが、その夜中一七
日午前四時前後労組支部に電話がかかつてB138が電話をうけていた様子であつ
た。その電話の用件をB138が今一人の蚊帳の中で寝ていた人に告げていたよう
であるが、ウトウトしてハツキリ記憶がない。
 その翌一七日午前六時半頃自分とB28と起床すると、今一人の宿泊者が起きて
ズボンをはいていた。その男は今から考えるとA3である(下略)。云々となつて
いる。右各供述の推移を見ると肝腎な点で変転していることが一見明瞭である。す
なわち、初めA3は泊つていなかつたと云うかと思うと、次ぎにはA3は泊つてい
たと変り、次にB138が電話をうけてその用件(どんな用件かは述べていない)
をA3に告げていたようであるが、ウトウトしていたのではつきり覚えてないと云
い、最後には右電話の用件がハツキリしてきて事務所附近にいる保線係の誰かを起
してくれという依頼であつたと変つているのである。これをA3アリバイの主張に
照し合わせて考えると右アリバイ主張に口を合わすべく、右のような供述の変転が
なされているものとの疑が極めて濃厚である。このような供述の措信すべからざる
こと多弁を要しないところであろう。
 次にB28の供述について考える。原判決は次の如く云う。
 B28は923B204(二回)調書で「私達と泊つたB1の人の名前はわから
ないが、私とB27と外三人位は居つたが、そのうちの一人はB150が居たかわ
からない。B1員の泊つた人の人相はわからないが、白開襟シヤツを着ていたけれ
ども、ズボンのことは明らかに記憶しないが、大体黒い色のズボンであつたと思う」
旨供述している。B150はB1員でなく、B138はB1の馘になつた者たが、
当夜はズボンもズボン下もはいていなかつたし(B138、B150の各原二審証
言)、一七日朝B145がB1労事務所へ行つて起した時、A3はシヤツの下に黒
いズボンをはいていた(B145証言)のであるから、右B28のいう一六日B1
労事務所に泊つた白い門襟シヤツ、黒ズボンの人はB138でなく、A3に該当す
る人物だということになる。B28の右供述は新証拠の108山本調書、1019
山田調書で、あとでその人物がA3であることがわかつた旨展開してゆく。検察官
はB28が923B204(二回)調書ではA3が泊つたことを供述していないの
に、108山本調書で泊つたように供述を変更している旨主張するけれども前記の
ようにA3に該当する人物の泊まつたことを供述しているのである。その供述は朝
起きた時わかつた趣旨であるが、A3逮捕直後にA3と全く無関係のB28かこの
ような供述をしているという事実は貴重でA3被告の法廷供述の真実性を強く裏付
けるものである。云々。
 右判示によれば、A3被告と黒いズボンとを結び付けているのであつて、そう簡
単に断定できるかどうかは問題であるが、(黒いズボン云々の点は一七日の朝B1
労事務所でA3と会つたというB145の観察を根拠としているのであるか、B1
45のそのような供述が信用できないものであることは先に述べたところにょつて
諒解できるであろう。)その点はともあれ、B28に対する24108検察官山本
諌調書記載のB28の供述によれば、一七日の朝起きて顔を見てB138であるこ
とを知つた。今一人のB1員は誰れであつたか判らなかつたが、その朝七時頃事務
所に寝て起きた人らしい者が列車てん覆の話をしていた。その人が後でA3である
ということを知り、A3がその晩そこに泊つたことを知つたものである。」と云い
ながら、回じB28に対する241019裁判官山田端夫の調書上のB28の供述
によると、「A3はその頃名前を知らなかつたが、先般裁判所の勾留開示法廷で知
つた。B138は夜中に電話をかけておりその声で自分は眼をさましたので、同人
が泊つたことは間違ない。A3は自分が翌朝起きたとき事務所内のB1支部の机の
ところで列車てん覆の話をしておつたので、その晩泊つたものと思いますが、別に
寝ているところを見たわけではないので同人が泊つたということは確信を以て云う
ことはできない。目分が一七日朝起きたのは、午前七時から九時迄の間ではつきり
しない。自分が起きる際B27を起し、その時B150も一諸に起き出したように
記憶する。自分が起きた際にA3がB1支部の机の角におつて列車てん覆の話をし
ていたが、同人が何時起きたかということについては記憶がない。」というのであ
つて、右前後の供述の間に肝腎な点で喰い違いがあり、結局A3は一六日夜B1労
組宿直室に泊つたかどうか確実でないということに帰着するのである。これでは判
示のように黒いズボンの男がA3であることが判つたと展開してゆくなどと云うに
は無理があるのではなかろうか。なおB28は24923司法警察員B204調書
において、看過できない供述をしているからここに掲げて参考に供する。
 「一六日夜から一七日朝の私が起きた時間迄に誰も新に入つてきた人もないし、
夜中に出て行つた人も酒に酔つて這人つて来た人も別段ありませんでした。また、
夜中戸を明けて人が入つてきた人のあることも気付きませんでした。電燈をつけた
ままにして寝ていたから誰が這入つてきたか判るのです。」云々。
 原判決は、B27、B150、B28の各供述の変転推移につき次のように判示
する。
 当審に現れた新証拠のB150、B27、B28の各供述調書をみると、当初誰
かわからなかつた者が後にA3となり、はじめボンヤリしていたことがあとでハツ
キリしている供述経過になつている。ところで、B150もB27もB28もB4
9関係の者で、B49の事務所をB1労事務所内に移して八月初めから同事務所内
に寝泊りするようになり、A3とは本件事故までに数回会つた程度で、特にB28
は事故二日前に東京から来たばかりの者である。その上前夜おそく松川から疲れて
帰つて熟睡していた若者達で、その夜のことを注意していたわけではないから、或
は夢うつつのうちに誰か来たような記憶がかすかに蘇つてきても、或は誰かB1の
者が朝寝ていた記憶がボンヤリ残つていても、それが直ちにA3と結びつかない事
情は首肯できる。B29らとその晩B1労事務所に泊つた者達との話合いが、アリ
バイ工作の臭味の認められないことは先に説明したとおりであるが、そのような話
合いで、B27らのボンヤリした記憶が整理され、固まり、更にはその際聞いたこ
とが自己の記憶の中に混り込んだ部分もあろうことは推測に難くない。かくて同人
らの前記供述の変遷は、A3逮捕直後の頃にボンヤリ記憶の蘇つたものや記憶の残
つていたものが不分明の形で供述され、それが右のような事情で次第に分明な形に
展開し、一部は変化して行つたものとみるのが相当であり、後における供述を全部
そのまま記憶どおり述べたものとみることは危険であると同時に、当初における記
憶の蘇つたものや記憶の残つていたものとみられる部分まで捨て去ることも危険で
ある。この意味において、B150の前記供述も、夜中夢うつつに誰か入つてきた
ような気がし、用便に起きた時その男と思われる者が寝ており、朝起きてからその
男がA3とわかつたという趣旨で措信でき、B150930大塚録取書と共に、A
3被告の法廷供述の真実性を裏付けるものといえる。云々。
 ところが、右判示中には根拠のない判断があるのである。右判示はB150もB
27もB28もA3とは本件事故発生まで数回会つた程度であると云つているが、
B28は事故二日前に東京から来た者であるからB28については論外としても、
B150は原二審二八回公判において証人として、「年月日は忘れたが、終戦後B
49の常任として勤めて以来、A3を承知している。少くとも昭和二四年以前から
A3を知つていた。」と云い、またB27も一審七〇回公判において証人として、
「A3は友誼団体の一員として知人であり、B1支部事務所に移転した昨年八月頃
から承知していた。」と供述しているのであるから、両名ともA3とは旧知の間柄
といつて差支ないものであり、右原判示のようにA3とは本件事故発生まで数回会
つたに過ぎない間柄てあるなどとは到底認め得べくもないのである。更にB150
ら三名は一六日夜おそく松川から疲れて帰つた旨判示しているが、B150は原二
審の公判証言によれば、同人は一六日午後四時か五時頃まてに帰つているものであ
り、B28はともかくとして、他の二名が疲労して帰つてきたことを肯定させる証
拠は何もないのである。原判決の事実認定の仕方は概ねかくの如し。ここでも一事
は万事であると云い度い。しかも右判示中その他の部分は何ら証拠に基づかない観
念的記憶形成論に過ぎず到底首肯できるていのものではない。
 B27、B150、B28の前示各供述はA3アリバイの工作との関連において
これを検討考究するの要がある。
 第一審一五回公判調書のB138の供述によると、『九月二四、五日頃マーブル
遊戯場に行つていると、B29の伝言として名刺のかげに九時迄待つてくれとのこ
とが書いてあつた。そこで私はB29を待つていた処、B139と一緒と思うが、
九時一寸前頃来て、何処かお茶飲みに行こうと云つて駅に向つて右側の喫茶店に誘
われ、ミルクを御馳走になつた。そこでA3のアリバイの話があり、A3が酒に酔
つて労組に泊つたという事がその時の話てあつた。
 それから、その次の日だつたか話したいことがあるというので朝八時頃B27、
B150、B28、B24四人と私は隈畔板倉神社の境内で話をした。B28やB
150もその場にいた。そこでB139その他から話があつた。A3が十六日晩A
3が労働組合に泊つた話て、A3はその晩心ず泊ているとB150やB27が地区
警察署に呼ばれて参考人として述べているが、皆の意見が合わないとまづいという
話であつた。それから九月未頃しばらくて実家に帰つた処両親から警察の方でお前
をさがしているということであつたから、警察にゆく序に翌朝八時頃労働組合事務
所に寄りましたら、B159がおり、こんな事件で一寸警察に行つてくると云つた
ら、B159は一寸待つてくれと云つて出て行つたが、間も無くもどり、警察にゆ
く前に共産党の県委員会に行つてくれというのでその委員会に出向いた。そこでB
135法曹団の弁護士がいてA3のアリバイについて話をされ、「A3はその晩酒
を飲んで泊つたが君はどう思う」ときかれたので、自分はその時そう思つていたの
でそうでしたと答えた処、弁護士は調書をとり、自分はその調書に署名捺印した』
とある。ところか隈畔の右板倉神社集合の一員であるB27は、第一審公判におい
て田島検察官の問に対し、 問 証人はB138と昨年九月下旬隈畔に行つたこと
がありますか。
 答 B138と一緒に行つたことがあるように記憶しております。
 問 B29と隈畔に行つたことがありますか。
 答 B29さんと行つたことはありません。
 問 B139と行つたことがありますか。
 答 あるように記憶します。
 問 B28とは行きましたか。
 答 行つたことがあります。
 問 今尋ねたそれらの人と証人と五名で隈畔に行つたことはありませんか。
 答 判然とは記憶ありません。
 問 隈畔でA3のことについて話が出た記憶はありませんか。
 答 判然と記憶しません。云々。
といつて板倉神社集合のことを大体において記憶なしといつて通しているのである。
又B1381012唐松調書によると、「一〇月一一日午前八時頃私がまだねてい
る間にB27、B28が自分の下宿に訪ねてきて、『最近警察に呼ばれて調べられ
たことがあるか』というので、『同月七日警察で山本検事に取調べられた』という
と、右二人は『B139に連れられて自分達と板倉神社の境内でA3のアリバイに
ついて何か話があつたか』と聞くので、自分は『山本検事の方で既に知つていたの
で、その事実を話した』というと、二人は『私らも警察に呼ばれてそのことについ
て取調べられたがそんな覚えはないといつて蹴飛してきた』といい、『今度警察え
呼ばれたら余りつまらんことは云わないがよい』といつた」と述べており、又B2
7の24108山本諫調書によると、B27は、「A3の八月十六日のアリバイの
事について九月二三日福島地区警察署において参考人として取調をうけましてから
本日までB139、B150、B28、私等とB138と阿武隈川板倉神社境内附
近においてA3の八月一六日におけるアリバイ関係の話をしたことは絶対にありま
せん」と供述していることが明認できるのである。以上の各供述より考察すれば、
A3の周囲の面々(勿論B150、B27、B28三名を含む)はA3が一六日夜
から一七日の早朝にかけてB1労事務所宿直室内に宿泊していなかつたという事実
の暴露することを虞れ、これを隠蔽すべく腐心苦慮していた状況が判明すると同時
に、彼ら三名のA3宿泊に関する供述はひつきょうするにA3を庇わんが為めのも
のてあつて、信憑力に乏しいものであることを看取できるのである。そのことは他
面A3アリバイの脆弱性を示すものでもある。
 次にA3アリバイの主張中において重大なこととされている電話関係について論
評を進め度い。
 A3被告がB138の受けた電話で同人に揺り起されたという問題の電話は当時
福島管理部施設課保線係に勤務していたB161のかけてきた電話であることは本
件証拠関係に照し疑を容れない事実である。B161がその電話をかけた時刻、何
の為めにA6が労組福島支部事務所に電話をして来たのか、またその電話の結果は
どうであつたかと、いう這般の消息は以下に掲げるB161に対する24103検
察官田島勇調書により明瞭に知ることができる。右調書上のA6の供述は、ただに
電話関係を明瞭にするばかりでなく、B138がA3被告をその電話で揺り起した
というような事実が時間的にありそうでないことを示唆している意味において看過
できない貴重な証拠でもある。他方B29がA3被告のアリバイ工作に如何に腐心
苦慮しているかを示している点においても重要な資料である。原判決は、B161
の右供述はA3被告が当夜労組事務所宿直室に泊つていたことを裏書するところの
有力な証拠の如く力説する。私はB161の供述をどうしてそのように読み取らな
ければならないものか怪訝に堪えない。私からみれば、A6供述はA3アリバイの
主張を減殺こそすれ、これを補強するところの作用など更々ないのである。
 B16124103検察官田島勇調書
 私は昭和二二年から福島管理部施設課保線係に勤務しております。
 八月一七日四一二号列車が金谷川松川間で脱線事故の通知は、同日午前三時五〇
分頃電話で自宅で受けました。それで早速管理部に出掛け施設課長や保線係長とい
ろいろ相談した結果、私に連絡の為、事故現場には行かず施設課にとまることにな
り、四時五〇分より一寸前頃二人とも現場に出発したのであります。私は二人とも
四時五二分に発車した救援車で出かけたものと思つておりましたが後でききました
ら保線係長は救援車で行つたが、課長は自動車で現場に行つたということでありま
した。当時事故の原因、正確な事故発生の場所が不明であつたので、階下運行係宿
直室に行つたりなんかしてその情報を早くきこうと思いましたが、私が施設課の席
を外せば電話がきた際これをうけるものがいないので、保線係に勤めているB16
2に出勤して貰うと思い、福島保線区の人に頼んで来て貰うと思い福島保線区え行
きましたが、A18君の住所はB1労組福島支部事務所の近くであるから呼出に行
くよりむしろ労組に電話して頼んだ方が早いと思つたものですから、保線区から労
組事務所に電話をかけました。暫く電話が出ませんでしたが暫らくして相手が出た
ので、私は保線係のA6ですが事故がおきたから、A18君を呼びたいんだがA1
8君の家は判りませんかと、云いましたら、相手の人は判りませんと返事をしたの
で、私はそれではいいですと云つたら、事故は何処ですかと聞きかえしましたので、
私は松川金谷川間だよと云いました。それに対し相手はそれ以上何もきかず電話を
切りました。私がA18の家は判らないかと電話した際相手の人はその場で直ちに
判らないと返事をしましたので、A18君の家の所在を人にきくとか探しに行つた
とか云うことはあり得ないと思われます。その電話をかけた時刻は救援車が出て間
もなくであり、モーターカーが出発する前でありましたから、五時頃だと思います。
 その際相手は誰であるか判りませんが今から一週間か一〇日位前労組のB29か
ら私に電話がありました。その内容は、事故の出来た朝に労組に電話をかけたのは
誰ですか。それは私ですと云つたら、それは何時頃ですかと聞いたので、今時間の
記憶はないが、救援が出た後だと云いますと、実はあの時電話をうけたのは私の方
のB138ですよ。B138がA18君を探しに行つて帰つてきた時、A3君は郡
山のB144助役と電話で話中だつたんですよと云いました。なおB29君は時間
の点について四時半頃じやなかつたんですか、とも云いました。
 その翌日又B29君から私に電話があつて労組に電話されたのに救援が出た後だ
つたんですかと云つたので、そうですと云つたら、それで電話は切れました。なお
申しおくれましたが、最初B29君から電話が来た際、B29はA3のことで困つ
ているんだと云いました。
 私はB29からの以上申し上げたような電話がきたので、私はA3の為め証拠を
蒐集しているのだと思いました。云々。
 次にA3被告自身事故の内容を知るべくかけたといういわゆるB144電話につ
いて述べる。当の本人B144は241011裁判官唐松寛に証人として尋問され
て次のように供述している。
 すなわち、
 「自分はB1職員で本年八月一七日当時郡山駅運転本部に勤務し同月一六日から
一七日かけて当直していました。本年八月一七日朝四一二号列車が松川金谷川駅間
で脱線てん覆したことは知つています。それは午前三時五〇分でした。自分達鉄道
関係者は電話で種々連絡がある時は必ずお互に氏名を名乗り合い、又その連絡があ
つた時刻は心ず時計と照合する例となつて居りますのでその時も電話で連絡のあつ
た時、自分はその電話の上にあつた電気時計を見て紙片に書きとめておいたので、
右に申述べた時刻をはつきり記憶しているのであります。私は当時本部の輸送室に
おりましたが、右通報は福島管理部の運行係からでした。その通報をした人の名前
はききませんでした。いつもなら名前を名乗り合うのが本当ですが相手が非常に急
いでおる様な様子でしたし、相手も電話をさきに切つたので、その名前はききませ
んでした。自分はその列車てん覆の通報をうけると郡山駅内の北部運転室、中部運
転室、南部運転室にそれぞれ電話をかけ、ついて郡山機関区検車室に電話をかけ、
応援車を出して貰う様に連絡致しました。尚お郡山保線区にも連絡致しました。
 その朝A3から電話連絡がありました。午前四時一〇分と記憶致します。前に述
べたように、同じ電気時計を見たので記憶しているのです。それは交換電話であり
ました。自分は前述の輸送話で当直をしていると、一〇一番の交換電話のべルが鳴
つたのでその受話器をとると、相手の人が『一〇一番ですか』と尋ねるので自分は
『そうです』と答えますと、相手は『助役さんかい、B144さんでないか、A3
だが』というので自分は『そうた』と云うと、相手のA3は『脱線事故があつたそ
うだがとんな事故なんだい』と云うので、私は「管理部から手配がき土ばかりで詳
しいことは判らないが客車三輛位脱線したそうだ。お前何処にいたんだ』というと
A3は、『支部にいたんだが(B1労組福島支部事務所の意)下山事件に似た事故
が起きたから調査してくれと起されたんだ。そこでとんな事故がおこつたんだか貴
方の所にきいたんだ』と云うので自分は、『まだ手配が来たばかりだから詳しいこ
とは判らない』と話すと、A3は『そうかい』といつて電話を切つたのです。
 自分はその電話連絡の件について、B29から電話でいろいろきかれたことがあ
ります。A3が逮捕されてから一週間位後のことと思いますが、日時ははつきり記
憶がありません。その用件というのは、A3の電話連絡のあつた時間及びその連絡
の内容でした。それで自分は先程述べたとおりの事を話してやりました。それから
又二時間位経つてからB29から電話があり、『その電話は五時一〇分頃ではない
か。それは福島から第一回の急援車は四時五二分に出ている。その後幅島保線区の
A6さんが組合支部に電話をかけたことが判つたので、それから組合支部で判つた
のであるから、四時一〇分は貴方の記憶違いでなかつたか』と云つてきたので、自
分は『先にも云つたように、記憶かはつきりしているから間違ではない』というと
B29は『それではもう一回調査しなおさなければならない』といつて電話をきり
ました。自分は以前福島の労組の執行委員をやつていた当時A3さんも部員であつ
たし、勤務先も同じでA3は操車係をやつていた関係上A3とはしばしば一緒に仕
事をして親しくしていました。」云々。
 右供述によると、八月一七日早暁福島労組支部事務室にいる予て友交のあるとこ
ろのA3だと云つて脱線事故の内容を交換電話できいて来は、時刻は四時一〇分で
その時刻は電気時計を見た上でのことだから確である。A3は「下山事件に似た事
件が起きたから調査してくれと起されたのでどんな事故か君の所にきくんた」とい
つたというのである。しかし右電話をうけた時刻が四時一〇分と云えば、B161
が福島労組事務所に問合せをした、前示電話の前になるわけであるが、そのような
電話をA3自身がかけたというような事実はA3の全供述(後記参照)からは認め
るに由ないばかりでなく、A3アリバイの主張自体に照してみても右時刻頃は、A
3はグツスリ寝込んでおり、事件の発生など知り得ようもないわけであるから、A
3自ら電話などかける筈もないのである。してみるとB144証言の内容は、俄に
全幅的な信用をおき難いのであり、殊にB144がA3に対しどこにいるんだとき
いた処A3は支部にいたんだが云々の点はどう考えてみてもおかしいのである。(
A3は支部以外の場所からそのような電話をかける可能性があつたのではないかと
考えられないこともないのである。)一方B144電話は、A3アリバイに出てく
るB144電話と時刻の点で喰い違いここでもA3アリバイの脆弱性を示す盲点と
なつているのである。
 なおB144証言によつて明らかなようにB29はB144に対し右電話を問合
せ、その時刻は五時一〇分頃ではなかつたかと尋ねたという一節は、A3アリバイ
を理解する上において貴重な点である。
 次に郡山分会との電話の点を考察する。この点に関しては次の調書上の被告本人、
証人の各供述の対比考照して詮議するのを相当と考えるから右調書を以下に掲げる。
 A324119検察官山本諫調書
 (前 略)
 八月一六日の晩B29方に行つて御馳走になつたものは前に申述べたとおりです。
その晩一〇時半頃B29方から組合事務所に帰つて泊つたことは前回申上げたとお
りであります。
 私は組合事務所に泊つておると一七日朝白々と夜があける頃労組郡山分会のB1
51から鉄道電話がかかつてきました。その電話はその晩事務所に泊つていたB1
38が最初に私を起し取次ぎましたから私が電話口に出て見ると、
 『四一二号列車が脱線事故を起したからB29委員長に至急通知して調査団を送
つて貰いたい』
ということでありました。私は初めてこのとき列車事故の事実を知り、なお詳細に
その模様を知りたかつたので、B151との通話が済むとすぐ郡山駅の運転本部を
呼出したところ、B144という私のよく知つている運転係が出ましたので、四一
二号列車の脱線事故の模様をきいた処『機関車が脱線顛覆して乗務員が死んだが乗
客に死傷がなかつた』ということでありました。私はこの二回の電話で大体脱線の
模様が判りましたが、これは自然事故で調査員を出す必要がないと思つたので、委
員長と連絡もせずその儘寝て了いました。その時刻は時計を見ませんでしたが夜が
しらじらと明けていたことは間違ありません。この電話の所要時間は二回とも二、
三分の間てあつたと思います。
 私が郡山運転本部を呼ぶ時は余り時間はかからずに直ぐ出たと思います。それか
らB145が事務所に参りまして私を起しました。起きて見るとB147、B14
8らの事務員が出勤しておりました。それから間もなくB146から今郡山分会に
おる調査団を出したかと聞くのでまだ出さないというと、早く出さなければ駄目だ
と郡山からは救援列車に調査員をのせて出発させたという話でありまして、その時
刻は大体八時前後と思います。
 B138241012裁判官唐松寛調書
 (前 略)
 答 八月一六日の晩組合事務所から市内に遊びに出たのは大体七時過ぎ頃と記憶
しますが、それから盆踊りを見て半沢ダンス教習所をのぞき帰途組合事務所前のB
163という焼鳥屋に寄つて午後一一時過ぎ頃組合事務所に帰りました。
 問 その間組合事務所には誰々いたか。
 答 B159とB150の二人が机に向つて事務をとつていたように思います。
 問 それから証人はどうしたか。
 答 私が組合事務所に帰つてから五分か十分してB159は帰宅しB150はま
だ仕事をしていた様子でした。それで私はいつものとおり宿直室に布団をしき、部
屋の東側ラジオのある方南側を頭にしてすぐやすみました。
 問 証人が事務所に帰つたときB159、B150の外誰かいなかつたか。
 答 その外の者はいなかつた様に記憶します。
 問 翌一七日午前四時半頃電話がかかつてきたか。
 答 午前四時半過頃と記憶しますが、B1労組支部の組合事務所の卓上電話がヂ
ヤンヂヤンなつたので私は目をさましました。
 問 それでどうしたか。
 答 私は宿直室には私の外B1の人が泊つているだろうと思つて私の側にねてい
る人達を見ましたが、私の隣にはB150その隣にはB49の人二人だけしか居り
ませんでしたので致方なく私がその電話をうけたのであります。
 問 その電話はどんな話であつたか。
 答 その電話は、「こちらは管理部の保線係の誰々(その時名を云いましたが現
在記憶しておりません。)ですが、組合事務所近くに保線係のA18君が居るが呼
んでくれ」と云う話でしたので私は「チヨツト待つて下さい「と云つて電話をきら
ずにその儘A18の家を探さうと思つて事務所の出入口まで出ましたが、如何せん
外は真暗なので、どうせ探しに行つても皆んなねており判らないだろうと思つてす
ぐ又電話口に出て、「A18さんの家は今暗くつて判りませんから明るくなつてか
らおしらせします。」と返事をしますと相手の人は、「判らなければしようがない、
もうよい。」と云つたので、私はすぐその儘電話を切り、又自分の床にもどつてや
すみました。
 問 その時列車顛覆のことについて、何か話がなかつたか。
 答 今考えて見ると、その時何か列車事故のことについて話があつたような気が
致しますが、その時はとにかくねむかつたので、その点についてははつきりききま
せんでした。
 問 それではその後午前六時頃再び電話がかかつてきたか。
 答 かかつてきました。
 問 その電話はどんな電話であつたか。
 答 それはB1労組郡山分会からの電話でそれをかけた人は何とか云う(その名
前はいいましたが今記憶にありません)人でしたが、松川駅と金谷川駅間で列車が
脱線して機関車が顛覆し客車三輔脱線し機関士と助手が行衛不明で何処かに逃げた
らしい。第二の三鷹事件が起るかもしれない」という話でした。それで私は「御苦
労様でした」とその電話をきり、話の要旨を事務所の黒板に書きつけました。
 問 それからどうしたか。
 答 その電話の話を黒板に書いてから、私は隣にねていたB150に話すと、B
150は驚いて起き上りましたので二人で煙草をすいながら、「大変だ、列車は不
通だろう。然しそんな気がしないなあ」と云つて話合いました。それから間もなく
宿直室にねていた者は起きたのであります。
 問 A3はその晩組合事務所に泊つたか。
 答 絶対泊つておりません。先程申上げた四人丈けであります。
   もしそこにA3さんが居たら、勿論先程申上げた電話は同人に取次いだわけ
てあります。(下略)
 B151241112検察官柏木忠調書
 私は本年七五日のB1第一次整理でかく首されるまで白河機関区機関士としてお
りました。しかし昨年八月頃から休職中であり、本年五月からB1労組郡山分会の
有給書記をしております。
 私は八月一六日宿直で分会の宿直室に泊りました。八月一七日朝(午前四時以後
であることは判りますがはつきりしません)やはり郡山機関区第一次整理者B16
4が分会の表の方を叩いて私らを起したのでB165が起きて表の戸口の処かある
いは分会の室の中で列車事故が起きて貨車三〇転位脱線したらしいという趣旨の話
をしておるのを寝床でききました。そこで、私は、B164に共産党郡山地区委員
会に連絡してくれるようにたのみました。それからB165は方々へ電話をかけた
様でありました。
 順序時間等はよく記憶にありませんが、かけた先はB1労組福島支部、松川駅、
郡山機関区、岩代熱海の厚生寮等であります。
 福島支部には取りあえず事故のあつた事を知らせる為め(中略)、熱海の厚生寮
は支部のB146が泊つていることが判つておりましたから事故連絡をする為めか
けて貰つたと思います。
 その電話には私は全然かかりません。もし福島支部へ岩代熱海のB146氏へか
けた後に電話をかけたとすれば、私も電話口に出ておると思います。福島支部では
A3が出たと思います。
 通話の内容は列車事故について調査団を派けんする様にという熱海のB146か
らの電話を取次いだと思います。
 一番六六回公判における証人B165の尋問調書
 問(大塚弁護人)二四年八月頃は何処に勤めておりましたか。
 答 鉄道をやめて郡山分会の会計の補助をしておりました。
 問 どこに泊つておりましたか。
 答 分会事務所に泊つておりました。
 問 証人は昨年八月に松川金谷川間で列車の顛覆事故のあつたことを知つていま
すか。
 答 知つております。八月のいく日だつたか日ははつきり記憶しておりません。
 問 その事故のあつたことを証人はどういう事情から知りましたか。
 答 私が泊つておりましたら機関区のB164が福島に用達にゆくべく郡山に来
たが事故でゆけないと分会事務所に教えに来たのです。
 問 その頃の明るさはどうでした。
 答 朝方でしたが、分会には時計がなく、一寸分りませんが、夏時間で明るくな
つておりましたから三時か四時頃だつたと思います。
 問 明るくなつていましたか。
 答 東の空が明るくなつて来たか来ないか位でした。
 問 寝たのを起されたのですか。
 答 そうです。戸を叩きながら呼んだので目をさまし、起きてゆき、その話をき
いたのです。
 問 その晩一緒に泊つていた人は誰ですか。
 答 B151とB166かB167のどちらかでした。
 問 B164との話はどういう話でしたか。
 答 松川付近で貨車一〇輔位と機関車顛覆して上下線とも不通で汽車が動かない
という話でした。
 問 それからどうしましたか。
 答 B164は真直ぐに帰つてゆきました。
   B151が起きてきたので、年長者でもあり、書記をやつてたので電話をか
けてくれと云われ、私は一番先に郡山駅に電話をかけたのです。
 問 一番先きに郡山駅に電話をかけたのですか。
 答 順序は判りません。
 問 何処と何処とにかけたのですか。
 答 郡山駅、郡山機関区、松川の現場、それから福島支部、熱海にかけて又支部
にかけたと思います。
 問 福島支部には二回かけたのですか。
 答 そうです。
 問 支部に最初にかけた時は事故内容でも教えてやつたのですか。
 答 そうです。
 問 熱海にはどうして電話したのですか。
 答 支部にかけた時事務所で事故のおきた事が分らず熱海にB146さん、B2
9さんで行つているから熱侮にかけて見て、それから処置するから聞いてみてくれ
と云われたので、熱海にかけたのです。
 問 誰が電話に出たのですか。
 答 最初はB168が出てそれからB146さんが出たのです。
 問 B146さんは何か云いましたか。
 答 B146さんもその時は事故を知らなかつたらしくそれを話したらそれは大
変だと、一番最初に云つたのは負傷者はなかつたのかという事でそれから医療品の
事を云つて、又組合がやつたと云われるから民主調査団を派遣するという事を云い
ました。
 問 それから又支部を呼出したのですか。
 答 そうです。
 問 二回目に支部を呼出して証人は何か話しましたか。
 答 B146さんから云われた事を云つてやりました。
 問 証人は終りまで話しましたか。
 答 話が終らない中にB151が私のかけていた電話をとつて支部と話を致しま
した。
 問 B151はどの位話をしましたか。答 時間は忘れましたが、よくよく少し
の間だつたと思います。
 問 証人が二回目に支部と話をしたと時の声は証人がききなれた声でしたか。
 答 はつきりしませんでした。
 問 一回目はどうでしたか。
 答 一回目も二回目も同じ人だつたと思います。
 問 二回目の支部への電話が了つてから、B151から証人に何か話をしたこと
はありませんか。
 答 別になかつたと思います。
 問 B143が支部と話をしたときの相手の事なで話しませんでしたか。
 答 一寸記憶にありません。(中略)続いてA3被告との間に次のような問答が
行われている。
 問 証人は支部に電話をかける際誰か役員はいないかと話した記憶はありません
か。
 答 はつきり記憶しておりませが、とにかく支部の宿直の方で名前は判りません
が誰か「今日は役員はいない」と云つたのを覚えております。普通は名前をきいて
たがその時に限つて相手の名前を問いておりませんでした。
 問 俺しか役員はいないと答えたのをそう記憶違いをしているのではありません
か。
 答 その点ははつきり記憶しておりません。云々。同じ公判における証人B15
1の尋問調書 問 (大塚弁護人)八月一六日の晩証人は郡山分会の事務所に泊り
ましたか。そして誰か外にも泊りましたか。
 答 泊りました。B165君、その外は覚えておりませんが、合計四、五人が居
つたと思います。
 問 B164という人が戸を叩いて事故を知らせたというが、それから証人はど
うしましたか。
 答 私は分会の休憩室でねており、B165君がおきてその話をきいたのですが、
大声でしたので私にもきこえました。それからB165君は福島の支部、熱海にい
るB146さん、郡山機関区、松川駅に電話をかけました。
 問 それからどうしましたか。
 答 熱海におるB146に連絡した処、この事件については直ちに福島支部とし
て調査団を組織する心要があるというので、B165君はまた福島支部に電話をか
けました。そして支部が出て丁度話が始まつたので、私が起き出し電話に出て相手
はその声ではA3君だと思いましたが右の旨を話しました。
 問 その時証人と福島支部との間では何分位話をしましたか。
 答 二、三分以上はかかつたと思いますが、大して長い時間ではありませんでし
た。
 問 どうしてその時の相手がA3君の声だということが判りましたか。
 答 A3君が郡山駅の出身で私が郡山にきて最初に会つたのがA3君で、それか
らずつと知り合つており声に特徴があるので分りました。(下略)
 以上の調書上の各供述を通覧すれば、大事な点で供述に洩れがあつたり相互に喰
い違いがあつたりして何処まで本当であるか必ずしも明確ではないが、少くともB
1労組郡山分会のB165から本件列車の脱線顛覆事件を一七日電話でB1労組福
島支部事務所に知らせてやり、その電話をB138が受取つたことは疑のない事実
である(その時刻が夜のしらじら明ける頃であるか、午前六時頃であるかについて
は疑問があるが)。しかし、その電話をB138からA3被告が受取り右電話口に
出たかが問題点である。ところでA3の右供述によると、B29委員長に連絡して
調査団を送つてくれとのことであつたので、郡山の運転本部のB144を呼出し模
様をきいた処、乗務員は死んだが乗客には別状もないとのことであつたので、自然
事故と思い調査団る送るまでもないと思い、B29委員長に連絡もせずそのまま又
寝たというのである。しかし、A3被告は当時B1労福島支部長をしていた者であ
り、一方折柄目前に勃発した顛覆事件が組合がやつたのではないかなと云われるの
を警戒していた情勢であつたから(右調書参照)、A3被告としては直ちにB29
委員長に連絡し卒先調査団を組織し、現場に急行することこそ当然に採るべき措置
であろうと思われるのに、自然事故と独りぎめして調査団を組織するけでもないと
し、B29委員長に連絡するでもなくねて了つたなどということは如何にも不可解
のことである。しかのみならず、A3の供述するところによれば、郡山分会からの
電話では事故発生のしらせと同時にB146の伝言も伝えてきていることになつて
いるのに、前示B165の供述によると、福島支部にかけた電話に出たものが、岩
代熱海にB146さんB29さんが行つているから熱海にかけてみてくれ、それか
ら処置するからと云つたということになつているのである。この喰い違いは記憶違
いだなどと云つて片付けられない甚しい喰い違いで、話が全く逆なのである。又一
方福島支部からの電話としてB165の聞いた話の内容もおかしいのである。何ん
となれば、A3被告は一六日夜はB29方で御馳走になり、B29が岩代熱海に行
つていないことは熟知していた筈であるから、A3被告からの依頼として岩代熱海
はB146さん、B29さんが行つているから電話をかけてみてくれ、それから措
置するなどと云つたということは如何にも変だからである。そして、B165が熱
海のB146さんに電話し、これをB1支部事務所に電話したところ途中でB15
1がその電話を横取りし、話をしていた。B143の供述によると相手は特徴のあ
る声で予て友交のあるA3であることが判つたというのである。ところが、B14
3と福島支部事務所との電話がどのような結末となつたものであるかは、証拠上こ
れを確めることのできるものは何もないのである。そして、B165はB1支部の
電話に出た人は一、二回とも同一人であつたと思う、とにかく宿直の方で名前は判
りませんが誰か「今日は役員はいないと」いつたのを覚えていますと述べているの
である。(A3はB1福島支部の宣伝部長で役員であつた。)
 以上の事実関係の下では、A3被告が一七日朝B1福島支部の電話にでて郡山分
会のB143と通話をし、B143も亦電話の相手方がA3であつたという関係供
述は容易に信憑し難いものと認めさるを得ない。
 B165が福島B1支部に第一回目に電話した際、その電話に出た者が、「熱海
にB146さん、B29さんが行つているから熱海にかけてみてくれ、それから処
置する」といつた旨証言していることはすでに述べた。また、B29さん(B29
のこと)が熱海に行つている筈がなく、それを万々承知のA3がそのようなことを
いう筈のないこともすでに論じた。これに対し原判決は次のようにいう。新証拠の
B1511112柏木調書の出現により、B151はB29も岩代熱海に泊つてい
るものと思つて、B165をして熱海にいるB146らに事故発生通知の電話をか
けさせたものであることが明らかである。この事実からして検察官の主張する従来
の疑点は氷解する。すなわち「熱海にB146さんB29さんが行つているから熱
海に電話をかけてみてくれ」とB151がB165に云つたのを、寝ぼけ眼のB1
65がB1労事務所の電話口に出たものがそういつたと記憶違いをしているもので
ある云々と。しかし、B1511112柏木調書には「熱海の厚生寮は支部のB1
46氏が泊つていることが判つていたから事故連絡をするためかけて貰つたと思う」
とあるのみで、B29の氏名は同調書のどこを探しても見当らない。原判決は同調
書にB146氏とあるをB146らと誤読して右のような認定を下しているのでは
ないか。しかも、寝ぼけ眼のB165がB1労事務所の電話口に出たものがそうい
つたと記憶違いをしていたなどとの認定に至つては何の格拠もなく、全くの想像で
しかない。
 また原判決は、B165は、熱海に電話をかけてみてくれという依頼をB151
から受けたのを、福島支部から受けたように記憶違いをしているという。しかし、
B165は一審六六回公判において「B151が起きて来たので年長者でもあり、
書記をやつていたので、電話をかけてくれといわれ、私は一番先に郡山駅に電話を
かけた」といい、そのあとで、「支部にかけたとき事務所では事故の起きたことが
判らず熱海にB146さんB29さんが行つているから熱海にかけてみてそれから
処置するから聞いて見てくれといわれたので熱海にかけたのです。」と明確に証言
しているのである。これによればB165が記憶違して述べているものとは認める
余地がないのである。従つて原判決の右認定も何ら根拠のない想像力の所産という
の外はない。
 また、原判決は、B165が支部で電話に出た者の声が二回とも同じ人だつたと
思うといい、また支部で電話に出た者が今日役員はいないと云つた点に関し次のよ
うに判示する。
 「最初の電話はB138が出て、二度目の電話もはじめはB138が受けたが、
その電話は調査団派遣という支部役員に知らすべき事柄なので役員はいないかとい
うことになり、B138は役員の中A3を起し、A3がその電話を受け継ぎ、他方
A3の出る間にB143がB165の電話を引き継いだものとみられるのであつて、
それをB165はB1労事務所の電話口に出た者が今日は役員はいないと云つたよ
うに会話のやりとりを記憶違いをしているのであり、また、二回とも同一人が電話
口に出たものと記憶しているわけなのである。」云々。
 その云わんとするところはよく呑み込めないが、要するに、一つの推論である。
推論も時によりけりであろうが、右のように推論のできる根拠はB165の証言中
にもB143のそれの中からもいささかも見出し得ないのである。ひつきょうする
に全くの想像か、臆測に過ぎない。ものの判断ではないのである。
 原判決がなぜそのような無理な認定や強引な臆測をするのであろうか。そのこと
は取りも直さずA3アリバイの主張の成り立たないことを自認していると云つても
過言ではないてあろう。
 さて、A3アリバイの主張の中で原判決がその最も重要な支えとして論ずるB1
3824930巡査部長B204調書(大塚録取書も同じ)に現れてくるB138
の供述について論及する。これを論ずるに当つてさきに述べたB117のB192
調書と同じように原判決の虎の子調査である右両書面を次にそのまま掲げる。
 B13824930巡査部長B204調書
 (前略)私の泊つておる宿直室は主にB1支部員が泊ることに設けたもので、そ
の外に宿直に当つて居る者が泊る様になつております。その宿直室という処は、支
部事務所内にあり、事務室の入口より這入つて一番奥の西側になつて畳六畳敷の室
であるが、別段に事務所との間に戸障子や硝子戸があるわけでもありません。その
宿直室には私は七月二〇日頃より九月十五、六日頃まで泊つておつたのであります
が、現在はB169方に移つたのであります。私がその宿直室に宿泊して居る当時
の模様について申上げます。八月一六日の状況の事については普通の日よりは記憶
はある様に思つておりますが、他の夜の事に就いては余り記憶はありません。それ
で八月一四日より八月一六日まで夜の宿直室に泊つた人達のことについては八月一
四日は午後一一時頃に就寝したのでありますが、その時は宿直室には自分とB49
のB150君と外にB27君も宿つたものと記憶致しておりますがはつきりは致し
ておりません。その外に支部員一名宿つて居るが名前は判りません。
 八月一五日は私とB150君とその外支部員一名、この時も支部員の名前はわす
れてしまつたのであります。その外にB27君か泊つて居るかも忘れて了つたので
あります。
 八月一六日は午前七時頃起きて事務所内を宿つたもので掃除してから朝食は自分
が炊いて事務所内でたべてから午前八時四〇分頃B170組合に出勤致したのであ
ります。(中略)郡山を午後四時頃の列車に乗つて福島に午後六時頃着いてからA
5さんと二人B1労組事務所に行つたのであります。事務所に行つたときは事務所
内にB147さんとB148さんがおり、その外に中には男の人達が数は分りませ
んが居つたようでありました。それから私は支部でも話をせずしてすぐに其処でA
5さんと別れて私はB170組合に帰つてB171さんに郡山に行つて来たことを
報告して又何時頃であつたか時間は判りませんが支部事務所に戻つたのです。夕食
は郡山で列車に乗る前にそば屋でたべてきたから事務所では夕食をたべずに市内に
遊びに出てしまつたのでありました。私は共同組合より戻つたときは、A5さんは
事務所内には私は見受けなかつたから、多分帰つたものと思いますが、或は宿直室
に居つて将棋をやつていたかも知れませんが、私は事務室に入つて五分も居らずし
て市内に遊びに出掛けたのであります。その時間の点は判りません。
 それから半沢ダンスホールか日の屋ダンスホールに行つて午後一〇時か一〇時半
頃と記憶しておりますが、私が事務所に帰つてきた時はB159さんと誰れか居つ
たような記憶が有りません。そして私は事務所に這入つてからB159さんと話も
せずして直すぐに事務所の側にあるやきとりやに行つて、やきとりやのB163さ
ん二十七、八才位と話をして居る内にB163に今時計何時頃ですと聞いた処、B
163は時計を見て午後一一時何分であると云つたので、私は支部事務所に帰つて
テーブルに向つて書きものをしたのです。午後一一後三〇分頃にA3が酔払つて支
部の事務所に這入つてきたのです。その際にA3は、私に「B138酒を飲んで来
酔払つたから勘弁してくれ」と云つたまま其処の宿直室の畳の上に寝ころんでしま
つたのです。A3さんが帰つてきたときはB49のB150さんとB27さんとB
28さんとが居つたのです。然し、B150さんとB27さん、B28さんは私が
やきとりやより帰つた時は居つたことは間違いないが、寝て居つたか起きて居つた
かどちらであつたのであるか判りませんでした。そうしてA3さんが大部酔つてき
たので布団をしいて私はねかしてやりました。然し服をぬがしてやると思つたか、
ねころんだ儘で居つて起きないので、毛布をかけてねかしてやりました。それから
私は電話で交換手に朝七時半に起してくれと頼んで午後一一時五〇分頃床に就いた
のであります。それでその夜はすぐ寝て了つたのでありました。朝方の午前四時か
午前五時頃と思いますが、この時間は明瞭ではないが、福島保線区の誰か判りませ
んが電話で支部附近にA18かB21かどちらかであるかわすれたが急用であるか
ら起してくれと電話をよこしたので、私は宿直室にねているA3さんを起したので
あつたが、A3さんは起きませんので自分は戸外まで出たが、表が真暗い為めに戻
つて電話にかかり、明るくなつてから知らせますからと云つて電話をきつて了つた
のであります。それから私はまた床に就いて寝てしまつたのであります。すると又
電話があり、起されたのです。その時は表の方は薄明くなつて来たようでありまし
た。そしてその電話は郡山分会よりの電話で金谷川松川間で列車顛覆したとの事故
知らせの電話を私が受けたのであつたが、郡山の分会の誰が電話をよこしたか聞か
なかつたのです。そうしてA3さんを起した処、A3さんが起きてその電話を私と
変つて受けたのでありました。その時間は時計等は見ませんでしたので判りません
でした。
 私がA3さんを起した時向つて右からA3さん、私でB150さん、B27さん、
B28の順序に寝て居つたのであります。そしてA3さんが起された時はB150
さんもB27さんもB28さんも床の中におつたか寝ておつたか判りません。
 それからA3さんは何処かに電話をかけたか判りませんがあつちこつちに電話を
かけておる様子でありました。その内にB150やB27、B28等は床から起き
て事故の話をして居つたのです。その時は表は明るくなつて了つたのでありました。
それからA3さんはお飯をたべに行くというて事務所を出て行つたように記憶があ
ります。それで私等はいつもの様に事務所内を掃除を致し食事の用意をしている内
支部勤務者がぞろぞろと勤めはじめて来たのです。その外に大部人か集つてきて大
変さわがしくなつてきたのでありましたが、私は出勤時間になつたので組合に行つ
たので後のことは判りません。云々。
 B13824930大塚録取書
            無職   B138
                          当二二年
 問 貴方の職業経歴は
 答 私は本年七月五日附でB1を馘首され二〇日頃からB170組合に勤めてい
たのですが同組合が赤字経営のため間もなく閉鎖状態になりました。
 問 貴方は馘首後何処に住んでいましたか。
 答 私は首を切られてからB1の組合事務所で泊りこむことが多く、時々実家へ
帰える程度でした。私が新しい職場を得たのも組合に泊つていたからでした。
 問 その組合事務所には貴方以外に屡々泊る人がありましたか。
 答 組合宣伝部長のA3さん、地区労のB8さん、B49のB150君らが組合
や団体の仕事の都合で私と一緒に泊り合せることかありました。
 問 本年八月一六日組合事務所へ泊つた人は誰ですか。
 答 私の他にA3さん、B150さん、B27さん及びB28さんてす。
   A3さんは夜一一時か一一時半頃酒酔つて組合にやつてきて泊つた。
 問 その時の様子は。
 答 彼は相当酔つていた。丁度私は机でかきものをしていたら戸をがらりとあけ
て私のところにきて、「B138、酒を飲んで来て少し酔つているけれどもカンベ
ンしてくれ」と云うやそのまま畳の上にねころんで眠つてしまつた。そこで私はフ
トンを敷いてやつて服を脱がせようとしたが、酔つているので脱げず、毛布をかけ
てやつた。A3cさんは入つてきた時顔は赤く眼は相当充血していた。服装につい
てはハツキリした記憶はない。
 問 A3君が入つてきた時他に泊つた人達はどうしていましたか。
 答 他の人達は机の所で仕事をしていたようにも思うしねころんでいたようにも
思うがハツキリしない。
   私が起きていたこと丈は事実で、私もA3さんが寝つくとすぐ寝た。尚私は
寝る前にいつものように交換手に七時頃起してくれと頼んだ。
 問 それからどういうことが起きましたか。
 答 ところが、朝四時頃か五時頃かと思うが、保線区から組合に電話があつて(
私は電話の音で眼をさました。)私がでた処、B1労組支部の近所にA18だかB
21だか(電話できいたがハツキリ覚えていない。)の家があるから起して呼び出
してくれ、という話があつた。然し私にはわからぬので、組合に長く働いているA
3さんなら知つていようと思つて彼を起したが「ウーン」とかうなつて起きないの
で、今暗くつてわからぬから明るくなつたら知らせようと云つて電話を切つた。そ
れから又私は眠りました。
 問 それから。
 答 ウス明るくなつた頃(五時半頃か六時半頃か時間はハツキリしない。)郡山
分会から列車顛覆したことについて電話があつたので(この電話の為めに私は又眼
をさました)、A3さんを起して受話器を渡した。従つてそれ以後の電話の内容は
知らない。
   私がA3に電話を渡したのは、私のかつての職場が第一機関区であつたため、
郡山分会のことは知らないで、A3さんが宣伝部長をしている支部員であるから彼
を起したのです。
   私がA3君を二回目に起したときはB150君はめざめていたように思う。
 右の通り相違ありません。
  昭和二四年九月三〇日
   於 福島市(以下省略)
      B128解放救援会福島県本部
       右供述者     B138
       右録取者弁護士  大   塚   一   男
 原判決は云う。新証拠のA3被告の身柄拘束、接見禁止中におけるA3101熊
田調書(前掲参照)に、前夜B29の家で酔つて組合事務所に来て靴をぬいだまま
で寝たようなわけでグツスリ寝ていたところを午前四時か五時頃と思うが、B13
8が私の体をゆすりながら誰か知らんか誰か知らんかというように聞いたので、私
はウツラウツラしながら知らん知らんといいながらまたそのまま眠つてしまつたよ
うに覚えている旨の供述記載がある。他方新証拠のB138930B204調書に
A3が一六日夜一一時半頃酔つて支部事務所に来て泊り、翌一七日朝方の午前四時
か五時頃と思うが、この時刻は明瞭でないけれども福島保線区の誰かわからないが、
電話で支部附近にA18かB21かどちらであるか忘れたが、急用があるから起し
てくれと電話をよこしたので私は宿直室にねているA3を起したのであつたがA3
は起きないので、私は戸の外まで出たが表か真暗なため戻つてきて、電話にかかり
明るくなつてから知らせるからと云つて電話をきつてしまつた旨の供述記載があり、
既存証拠B138930大塚録取書にも同旨で、組合に長く働いているA3なら知
つていると思つて彼を起したが「ウーン」と唸つて起きないので今は暗くてわから
ないから明るくなつてから知らせると云つて電話をきつた旨の供述記載がある。両
者の供述記載内容は完全に合致しており、起こし起された時の情景までその自然さ
が照応している。云々と。
 しかし、ここでまず問題にしなければならないのは、A3の右供述中の「グツス
リ寝ていたところを午前四時か五時頃と思うが、B138が私の体をゆすりながら
『誰か知らんか、誰か知らんか』というように聞いたので、私はウツラウツラしな
がら知らん知らんといいながら、そのまま眠つて了つたように覚えている」という
場面である。グツスリ眠つていた人が午前四時か五時頃と時刻を覚えているという
のはおかしいし、また揺り起した人がB138であると特定して覚えているのもお
かしい。いつたい熟睡中の人間が夢でもない限りウツラウツラしながら聞いたこと
を右のようにはつきり覚えているものであろうか。不可思議のことと思わざるを得
ない。しかも、右電話はさきに述べたようにB161からかかつてきたのでB13
8が受けたものであるが、前示B161の供述によると、B138はすぐ電話を切
つて了つたというのであるし、またB138の前に示した供述によるとB138は
A6の電話を受けて外を見たが真暗で探し人の家が判りそうもないので明るくなつ
たら探しましようという意味のことを云つたら、相手はよろしいと云つて電話をき
つたというのであつて、およそ、A3のいうようにB138に揺り揺られおこされ
たなどという場面の浮びそうもない情景なのである。してみればA3のいう右の情
景は他からの聞きこみを織りまぜて考い出したアリバイ工作の一端でないかとの疑
が濃厚であり、そのまま信憑し難いものと考えざるを得ないのである。飜つてB1
38の前記B204調書上の供述について論評を加えるわけだが、B138は右供
述は右供述調書の後僅か五日後に作成された105B204調書において自分の考
違いであつたと訂正し、爾来原二審公判の終結に至るまでこれを堅く維持している
のである。
 思うに、記憶形成の上において勘違いや考え違が作用する場合のあることは誰し
も経験するところであろう。或る日の出来事が次の日のそれのように考え違をする。
忘れ物が自分の記憶と全く違つた場所において発見されたりするととはわれわれの
日常生活においてしばしば体験するところである。記憶というものはそうした頼り
なさを往々にして示すものである。930のB204調書(大塚録取書も同じ)に
おいてB138によつて述べられているところは(電話取次ぎの点は別に論ずる)、
大方そのような記憶に基づくものではないだろうか。と云うのは、右供述の中には
当然現れてこなければならない前示B152とB138とが、その晩将棋をさして
いた事実、その際A6も事務所に来て右二人の将棋を見ていたが二人の勝負が終つ
た後にB152の挑戦に応じ将棋をさしたという事実、その晩はA7も支部事務所
に来ていた事実、電話がきてから黒板に電話の件をしるした事実が何ら述べられて
おらず、却つてB138が同夜テーブルに向つて書物をしていたというB152供
述中に現れていない事実が述べられているからである。そしてB138の同夜の記
憶中には彼の記憶線上の他の事象が入り込んできて全く変つた内容のものと発展し
ていつたのではないかと疑われる節があるのである。すなわち、A3が酔払つてき
て「B138、酒に酔払つたから勘弁してくれ」と云つたまま寝ころんでしまつた
ので自分が布団をしいてねかしてやつたという場面である。そうした場面がB13
8の体験として彼の記憶の中に残つていたことは事実である。(後記公判調書にお
けるB138の供述参照)
 そのような記憶がB138の脳底に残つていて、それがB204調書上の記憶の
中に混入してその調書に見るような供述となつたのではなかろうか。そのような記
憶の機微な発展過程は次に示す一審一五回公判におけるB138の証言の中で看取
できるのである。問題は電話取次の件である。B161からの電話をB138が受
けたことは事実であるが、同人がこの電話によつてA3を揺り起したというような
事実のないこと、郡山分会からの電話もB138が受けたが、それをB138がA
3に伝えA3がそれを受け継いだという事実も肯認さるべきものでないことは既に
述べた。それではB138は何の故にA6電話でA3を起したとか、郡山分会から
の電話をA3に取次きA3がその電話にかかつたとか述べたのであろうか。その疑
点を解くものはA3の周囲の面々のB138に対する働きかけである。彼らのアリ
バイ工作の影響の然らしめたものである。本件列車脱線顛覆事件の発生後アリバイ
工作の行われていたことは記録上随所に認められる。(本件犯行前アリバイさえ作
つておけば大丈夫だと話し合つたという趣旨の事は、A1自白で述べられている。)
 B29、B139らA3被告周囲の面々がA3の為アリバイ工作に腐心苦慮して
B138に働きかけていたことはすでに述べた。A3が一六日夜労組事務所に泊つ
たように思い込んでいたB138は、右の面々に当局から調べられる際にはそのと
おり述べてくると云つたこと、その間の事態の推移についてもすでに記述した。(
後に示す公判調書にもそれが具体的に記載されている。原判決は、B138は板倉
神社の集合の際、右の面々に対し、「私が毛布をかけて寝かしたのだから、A3は
必ず来ているから大丈夫だから安心してくれ」と云つたと判示しているが、そのよ
うな事跡を肯定するに足る措信し得べき証拠は何一つ存在しない。)そうした面々
の一人であるB29は、A3被告が二四年九月二三日逮捕されてから後、前示B1
38に対する930B204調書及びA3被告に対する101熊田調書の作成され
る一週間ぐらい前にさきに述べたB161に電話をかけ、事件発生の日福島労組支
部に電話をかけたのは誰であつたか、かけたとすれば何時頃であつたかを二回に亘
つて問合せ、A3の為めに困つているんだと云つたこと、またA3と交友のあつた
という郡山分会のB144に自分にかけてきたというA3電話について、A3逮捕
後一週間ぐらい後にB29から二回に亘り問合せがあり、右電話の時刻は五時一〇
分頃ではないかと尋ねてきたので、いや四時一〇分が間違いないと答えた処、B2
9はそれではもう一度調べ直さなければならないと云つたこと、以上の事実もすで
にそれぞれの供述調書を示して述べたところてある。これらの事実に徴すれば、B
29は八月一七日早暁から朝にかけての労組支部における電話関係につき特に関心
の深かつたことが窺われる。このように深い関心をもたれた電話関係が本事件の応
援に駈け付けた弁護人の耳に入り、その予備知識となつたであろうことも推測に余
りあるところである。そのことはさきに掲げたB138に対する弁護人の供述録取
書の記載からも容易に窺い知られる。(弁護人は供述録取の事実を他に洩さぬよう
にと念を押している。)そしてその供述録取書が作成されてから後、その同じ日に
B138は警察に出頭して尋問をうけ問題の新証拠の930付B204調書が作成
され、右電話関係については右供述録取書に記載されていることと同じことがB1
38の供述として記載されて記載されているのである。これは何を物語るものであ
ろうか。私はここで示唆とか暗示とかあつたということを云おうとは思わない。し
かし、以上一連の事実に鑑みれば、右B204調書上のB138の供述の中に現わ
る電話関係の記憶は、その記憶形成の過程の間に來雑物の混入している疑が濃厚で
あるとは云いうると思うである。そのことは右B204調書の作成されてから僅々
五日の後に再び同一係官の取調を受けて、一六日夜A3被告が労組事務所宿直室に
泊つたことも亦電話関係のこともすべて自分の考え違いであつたとして前言を飜え
していることによつて証明されるのである。その取調調書は以下に掲げるとおりで
あり、また、B138の上叙供述の推移変遷の関係事実は以下に掲げる第一審一五
回公判調書におけるB138の証人としての供述によつて明かである。
 B13824105B204調書
 (前略)それから私が一六日夜に労組事務所に宿つたときは私以外にはB1関係
にある者も誰も泊らなかつたのでありますから、私が先に申上げたA3は夜おそく
酒に酔つて来たから靴を脱がしてねかしたと云つたが、その事は考い違いでA3さ
んは労組事務所には顔を出して居らず、勿論泊つておらなかつたのであります。
 私がA3が泊つたといつたわけはB27、B28の両名が警察署に呼ばれてA3
のことをきかれたと云つた後日で九月二五日頃にB139に明二六日午前八時まで
五月町B172商事会社に集つてくれと謂われたので、何の事で呼んだのかと思い
つつ九月二六日午前八時頃B139、B150、私が一緒に労組事務所より出て午
前八時頃B172商事に行つたのでありましたが、その後少し過ぎ、おくれ足でB
27、B28が来たのであつたがB172商事の戸が開かなかつたので、そこから
五人で県庁裏の板倉神社の処に行つたのでありました。そこでB139は私に対し
「A3が泊つたことについては明らかであるからその点については違いがあると困
るから打合せをしたらよいではないか」と謂われた。それからB27は「俺が警察
に行つて謂つて来たことはB138君もおぼいてをつてくれ。警察に行つて違つた
ことを云うと困るから」と謂われたのでその時は私はA3さんが泊つて居つたもの
と考い違いしておつたのでありました。B139は「A3が泊たんだろう」と前置
きのように云われたので一時はそのつもりになつたが、思起してみると、A3は泊
つていなかつたのでありました。それから私が警察署に呼出になつたので警察署に
出頭する前の九月三〇日午前九時頃に福島市c町共産党本部に呼ばれたので行つた
処が、B135法曹団弁護士で名前は判りませんがおりまして私に対して「A3さ
んが労組事務所に泊つていた事はB138君は知つているな」と云われたので、当
時私はA3さんが泊つていたものと思い、その旨を弁護士の処に申したので、その
旨を弁護士は紙に書いて拇印をさせられたのでありました。そうして弁護士は逢つ
たことは云わないでくれ。そうしてA3の事については良く話してくれと謂われた
のでありました。それで結局十六日の夜は労組に泊つたのは私とB150と外二名
位のもので二名は名前は判りませんがB49の者であること丈けはおぼいておりま
す。このことは事実の事で、先に申上げた事について思い起したわけでありました
から訂正を願いたいのであります。それからB29、B146さんらが私に対しA
3が一六日夜は酒に酔て泊つて居るんたから、その処は良く話してくれと謂われて
おるので、私は頼むぞと謂う口振りで謂つておる様な事に思われます。然しそう謂
われても現在思起して居るにはA3さんは泊つておりません事が確実でありますか
ら、いくら云われてもA3が泊つたという事は出来ません。この事については裁判
所に行つて証人になります。それから一六日朝午前四時か五時頃と思いますが、福
島保線区より電話があつた。このことは先に電話の内容は申上げた通り。次に少し
空か博明くなつた頃、多分午前六時頃と思いますが郡山より電話があり、これも先
に申上げた通りの内容でありますが、二回共私が電話をうけたがその電話は、誰が
よこしたか判りませんでした。すると、A3が挙つてからB146が郡山の電話は
俺がかけたのだ。受けたのはB138君だつたのかと謂われた事もありました。そ
れから電話があつた時宿直室にねておつたA3を起したと申上げたが、その事は違
つております。私は誰も起さなかつたのでありました。それから私は午前六時三〇
分頃に起きてきてから事務所内を掃除したので、終つた頃に午前七時か八時頃の間
であつたが、A18が一番先に這入つて来たのでありました。この事は先にも申上
げたと思います。そしてA18は何処か知りませんが鉄道電話で各方面に電話をか
けて居つた様でありました。その後A3さんがいつ事務所に這入つたか判りません。
云々。
 一審一五回公判における検察官山本諌その他と証人B138との問答
 (前 略)
 問(山本検察官)証人は昨年九月二十四、五日頃市内B173銀行前にあるマー
ブル遊戯場へ行つた事がありますか。
 答 日については、はつきり記憶がありませんが行つたと思います。私は福島に
居る時は殆んど毎日のようにそこへ行つて居りました。
 問 九月二十四、五日頃そこへ行つた時B29さんの伝言を聞いた事はありませ
んか。
 答 あります。
 問 その伝言の趣旨はどうゆう事でしたか。
 答 名刺のかげに九時迄待つて呉れとの事が書かれてありました。
 問 証人はその伝言を受けて九時迄待つて居られたのですか。
 答 そうです。
 問 その伝言をして呉れた人の名前を記憶して居りますか。
 答 その人はマーブルの事務員で姓は忘れましたが名はB174とゆう人です。
 問 そこでB29さんに会いましたか。
 答 会いました。
 問 それは何時頃ですか。
 答 はつきり記憶ありませんが九時一寸前頃だと思います。
 問 B29さん一人でしたか。
 答 B139さんも居たように思います。
 問 会つてどうしましたか。
 答 何処かにお茶飲みに行こうとゆう事で、或る喫茶店に入つてお茶を御馳走に
なりました。
 問 それは何処の喫茶店ですか。
 答 駅と福ビルの中間頃の大通りにある喫茶店でした。
 問 その喫茶店は大通りのどちら側にあるのですか。
 答 駅に向つて右側にあります。
 問 そして喫茶店でミルクを御馳走になつた時会話がありましたか。
 答 ありました。
 問 どんな内容の会話でしたか。
 答 顛覆事件の事に関するA3さんのアリバイについての話でした。
 問 その内容はどうゆうような事でしたか。
 答 A3さんは酒に酔つて労働組合に泊つたとゆう事がその時の話でした。
   私としてはA3さんが酒を飲んで酔つて来て泊つたとしか記憶がありません
ので私は確かにA3さんと一緒に泊つたのだからその通り警察に行つても話します
と言いました。
 問 A3さんが泊つたのは何時ですか。
 答 A3さんは八月一六日には酒を飲んで酔つて来て泊つてはいないのです。A
3さんが泊つたときには、次の朝の九時頃迄寝て居たとゆう記憶がありますからA
3さんが泊つたのはその前後だと思います。
 問 八月一六日と違うのがすか。
 答 違います。
 問 証人はその趣旨の話があつたのに対してどう答えましたか。
 答 判りましたと答えました。
 問 それからすく三人は別れたのですか。
 答 そうです。
 問 その別れ際にB24さんと証人との間に約束をしませんでしたか。
 答 はつきりは申し上げられませんがその次の日だつたかに話したい事があると
ゆう事で朝八時頃、B27、B150、B28、B24の四人と私は隈畔の板倉神
社の境内で話をしましたが、それはその前の日に喫茶店で通知を受けたように思わ
れます。
 問 すると前日喫茶店で明日会うとの約束をしたのですか。
 答 その日であつたのか、喫茶店の中であつたのか、外であつたのかも判りませ
ん。
 問 証人はすぐ所定の場所に行つたのですか。
 答 そうです。
 問 何処かに寄つて行きませんでしたか。
 答 労働組合に寄りました。
 問 証人が労働組合に寄つた時B24さんやB27さん等は居りましたか。
 答 大勢居りまして、その中にB24さんは居りましたが、B27さんは居りま
せんでした。
 問 B28さんやB150さんは居りましたか。
 答 居つたかどうかは判りませんが板倉神社では会いました。
 問 板倉神社の境内には労働組合から真つ直ぐに行つたのですか。
 答 そうです。
 問 すると板倉神社には皆ばらばらに行つたのですか。
 答 B24さんとは一緒に行きました。
   B27さんはB172商事内の生活協同組合あたりに居たように思います。
 問 板倉神社に行つてからB24さんその他から話がありましたか。
 答 ありました。
 問 どうゆう話でしたか。
 答 A3さんが労働組合に泊つた話です。
 問 何時泊つた事なのですか。
 答 一六日の晩の事です。
 問 どうゆう趣旨の話でしたか。
 答 A3さんはその晩必らず泊つているとB150さんやB27さんは地区警察
署に喚ばれて参考人として取調を受けた際に言つたが皆の意見が合わないとまづい
とゆうような話でした。
 問 何か頼むというような話はありませんでしたか。
 答 別段頼むとゆう話ではありませんがそのような趣旨であつたと思います。自
分と致しましてはその当時A3さんは泊つたものと思つて居たのです。
 問 証人はそれに対して何んと答えましたか。
 問 A3さんが泊つたとゆう事については間違いないと思つて居りましたのでそ
の時にはそう話しました。
 問 証人は昨年九月終り頃共産党の県委員会の事務所に行つたことがありますか。
 答 行きました。
 問 どうして突然共産党の県委員会の事務所に行く事になつたのですか。
 答 私は家の方に暫く帰りませんでしたので家に帰りましたところ父や母から「
福島の警察の方でお前を参考人として喚んだと言う事だが行つたか」と言われまし
たが、私はそんな事は知りませんでしたので、「全然行つてない」と言いました。
   それから桑折署の署長さんや刑事さんがコマンドカーで私を探し廻つていた
とゆう事を聞きましたので私はそんな事なら明日すぐ行くと言いました。
   そして翌朝八時頃管理部に移つた労働組合事務所に寄りましたら、B159
さんが居りましたのでB159さんに「此んな用件で一寸警察に行つて来ます」と
話しましたら、B159さんは「一寸待つて呉れ」と言つて出て行きましたが間も
なくもどつて来まして私に向つて「警察に行く前に共産党の県委員会に行つて呉れ」
と言いましたので、それで私は共産党の県委員会の事務所に行つたのです。
 問 共産党の県委員会の事務所には誰れが居りましたか。
 答 名前は忘れましたがB135法曹団の弁護士さんが居られました。
 問 そしてどんな話をしましたか。
 答 A3さんのアリバイについて話を致しました。
 問 それはどうゆう趣旨の話ですか。
 答 「A3さんはその晩は酒を飲んで酔つて泊つて居ましたか、君どう思う」と
聞かれましたので、私はその時はそう思つて居りましたから「そうでした」と答え
ました。
   そしてその事について弁護士さんが調書を取り私はその調書に署名捺印致し
ました。
 問 そしてその調書に証は署名の上それを弁護士に交付したのですか。
 答 そうです。
 問 その書面に証人が書いたのは名前だけですか。
 答 そうです。
   それから捺印致しました。
 問 只今証人がその晩泊つたとゆう事を言われましたがその晩とは何時の事を指
すのですか。
 答 八月一六日の晩です。
 問 昨年の一一月中旬頃証人の宿舎にB27さん、B28さんが来た事がありま
すか。
 答 あります。
 問 それはどうゆう関係の話ですか。
 答 大した話ではありませんがその後警察に喚ばれた事があるかとゆう事を聞か
れました。
 問 それで何んと答えましたか。
 答 私はあれからは余りないと答えました。
 問 そしたらそのB27さんとB28さんは何か言いませんでしたか。
 答 私の家に行つて来たとゆうような事を話しました。
 問 それだけですか。
 答 あとは記憶ありません。
 問 警察で調べられた事について話はありませんでしたか。
 答 ありました。
   A3さんが泊つた事についてB27さんとB28さんは泊つていたと頑張つ
たとゆう話でした。
 問 その他にはありませんでしたか。
 答 あとは別段無いように思います。
 問 証人は昨年の九月一〇日か一一日頃福島市の公会堂に行つた事がありますか。
 答 あります。
 問 どうゆう関係で行つたのですか。
 答 鉄道の慰安会か何かがあつたように思います。
 問 証人は慰安会に行く際にB29さんやB146さんに会いませんでしたか。
 答 会いました。
 問 その他に労働組合支部事務所の関係者に会いましたか。
 答 会いました。
 問 それは誰ですか。
 答 B148さんとB147さんが居たように思います。
 問 その時B29さんから話はありませんでしたか。
 答 ありました。
 問 大体どんな趣旨の話ですか。
 答 大体私が警察に喚ばれて調書を取られた事について話したのです。
 問 そしたらB29さんは何んと言いましたか。
 答 此の事については警察当局のデツチ上げだから君の思つた事を良く話して呉
れと言われました。
 問 その他にはありませんでしたか。
 答 その他については忘れました。
 問 それから証人は何うしましたか。
 答 すぐ帰りました。
 問 先程証人は八月一六日の晩A3さんが労働組合事務所に泊つたものと思つて
居たが、その後泊つて居ないとはつきり言われたがそれが判つたのは何うしてです
か。
 答 私もいろいろ考えて見ましたが、一七日の朝はそのような事件が起きたため
皆早く起きたのです。
   それから思い合わせますと皆が起きたにも拘らず一人だけ寝ている訳がない
のですそれでその日には泊つて居ないとゆう事が判つたのです。
 問 郡山分会から電話がかかつて来た時証人はその部屋に寝ている人を見ました
か。
 答 見ました。
 問 A3さんは居りましたか。
 答 居りませんでした。
 問 その晩電燈が灯いて居りましたか。
 答 灯いて居りました。
 続いて岡林弁護人の問に対し、B138は次の如く答えている。
 問 証人が八月一六日の夜A3君が泊つたと思つたのはどうしてですか。
 答 私としてはその様なことに干渉しておりませんでしたので、又皆が酒を飲ん
で泊つて居つたというておりましたし、その上日にちが長かつたせいか、頭にチヤ
ンポンに入つて居たわけなのです。
 問 それでその時証人はA3君が泊つて居たものと思つていた訳ですか。
 答 そうです。
 問 A3君は労働組合事務所に酒を飲んで酔つて来て泊つた事がありますか。
 答 あります。
 問 それは何時ですか。
 答 日は判りません。
 問 八月一六日の前後と思いますか。
 答 思います。
   期日の区間は判りませんがその当時です。
 問 それは一回だけですか、それとも何回もありましたか。
 答 一回だけです。
 問 その晩にはどんな人が泊りましたか。
 答 先程言つた通りです。
 問 A3君が酒に酔つて来て泊つた日にはどんな人が泊りましたか。
 答 労働組合にはいろいろな人が泊つて居りますから、誰々とゆうのは判りませ
ん。
 問 A3君が酔つて泊つた折には何時頃来ましたか。
 答 夜遅くなつてからです。
 問 何時頃来たか時間は記憶ありませんか。
 答 一〇時過です。
 問 その時証人に何か話しましたか。
 答 しました。
 問 どんな話をしましたか。
 答 「今頃飲んで来て悪いなあB138」と言つて引つ繰り返つて寝てしまいま
した。
 問 A3君は自分で床を取つたのですか。
 答 私が取つてやつたのです。
 問 他に泊つた人が居りましたか。
 答 その事は思い出せませんが誰か居たように思います。
 問 証人が泊つた他誰も泊らなかつた晩がありましたか。
 答 ありました。
 問 A3君は泊つた翌朝何時頃起きましたか。
 答 九時近く迄寝て居りました。
 問 A3君はそれ迄一眠りに眠つて居たのですか。
 答 眠つていたと思います。
 問 途中で証人と話した事はありませんでしたか。
 答 ありません。
 問 証人は八月一七日の朝電話をかけてよこした人の名前は一人も覚えて居りま
せんか。
 答 覚えて居りません。
 問 証人はその二回きりしか知りませんか。
 答 朝方になりあちこちから電話がかかつて参りました。
 問 朝方とは何時頃からですか。先程の二回の電話があつた後の事ですか。
 答 そうです。
   七時前頃です。
 問 証人が買物に行つたのは何時頃すか。
 答 七時一寸前です。
 問 それ迄は労働組合事務所にずうつと居たのですか。
 答 そうです。
 問 それ迄は労働組合事務所から電話をかけた事はありませんか。
 答 あります。
 問 幾つ位ありますか。
 答 保線区、郡山分会や駅の案内所からもありました。それから松川あたりから
もあつたように思います。
 問 労働組合の方から電話をかけた人はありませんか。
 答 その点については、はつきりおぼえがありませんが、かけた事はあると思い
ます。
 問 誰がかけましたか。
 答 私もかけましたが、他は判りません。
 問 他に誰か、かけた人も居るのですか。
 答 思い出せません。
 問 証人は何回かけましたか。
 答 一回か二回です。
 問 何処にかけたのですか。
 答 私は正式に事故を知りたかつたので、駅の案内所に電話をかけました。
 問 その他にはどうですか。
 答 かけない事はありませんが覚えがありません。
 問 案内にかけたのは覚えて居るのですか。
 答 そうです。
 問 案内では誰が出ましたか。
 答 判りません。
 問 案内では何んと言いましたか。
 答 機関車が脱線顛覆し、客車四輛が脱線し、機関士、機関助手はその下敷きに
なつて居るらしいと言いました。
 問 その電話をかけたのは何時頃ですか。
 答 六時から七時の間だろうと思います。
 問 先程証人は案内からもかかつて来たと言われたが、その電話はかけたもので
すか、かかつて来たものですか、どちらですか。
 答 それは私がかけたのです。
 問 証人の記憶では電話がかかつて来たのは三回だけですか。
 答 三回とはつきりは言いませんが、大体その位です。
 問 保線区からの電話には証人が出たのですか。
 答 そうです。
 問 松川からの電話にも証人が出たのですか。
 答 そうです。
 問 郡山分会からの電話にも証人が出たのですか。
 答 そうです。
 問 郡山からは何んとゆう人がかけてよこしたのですか。
 答 忘れました。
 問 証人は郡山に電話をかけませんでしたか。
 答 かけません。
 問 証人がA5君と一緒に郡山に行かれたのは何日ですか。
 答 事件の起きる前の日ではないかと記憶して居ります。
 問 A3君が酔つ払つて来て泊つたのはその前ですか、後ですか。
 答 その前後であつた事は判りますがはつきりした事は判りません。
 問 郡山に行かれたよりも前か後か判りませんか。
 答 郡山に行きましたのは事件の前の日か多分一五日と思いますがA3さんが酔
つて来て泊つたのはその前後でした。云々。次に同じ公判における被告A3との問
答は次の通りである。
 問 証人は最初の中私が一六日の晩泊つたと記憶していたが、その後において取
調の過程でそうでなくなつたということですが、その動機は一七日の朝は、列車事
故があつた為大体皆早く起きており、私だけがおきてないということは考えられな
いから、一六日には泊つておらないということになつた訳ですか。
 答 そうです。
 問 証人自身がそう考えて居る中にそうなつたのですか。それとも警察の方から
「A3は泊つてないんじやないか」とか「A3を見て居る人がある」というような
話をされてそんな動機からそうなつたのではありませんか。
 答 いや違います。
   私は第一回に供述書を取られた時にはA3さんが泊つたと言いました。処が
その後時間とか何かに喰い違いがありましたのでだんだんと私の記憶を呼び戻して
考えた上でそれを話したのです。そしてその間において、新らしい事を思いついて
その都度お話したのですから絶体に間違いありません。
 問 証人は私が酔つ払つて来て組合に泊つたのは一六日と記憶して居た頃、元職
場の機関区の方に「A3さんは一六日の晩泊つたし、私が寝かせたと」言つた記憶
はありませんか。
 答 なし。
 問 その人の名前を云いますが、B205という人にそのようなことを云つたこ
とはありませんか。
 答 そのような人は全然知りません。
 問 証人は私が酔払つて行つたとき私をねかせてくれたと云われましたが、その
時私が証人に「余りさわらないでくれ。あげそうだ」と云つた記憶はありませんか。
 答 ありません。
 続いて被告人A18との問答は次のとおりである。
 問 証人は一六日から一七日にかけてA3君が泊らないことと、私が一七日の朝
早く私が六時頃出勤したこととを断言できるのですか。
 答 出来ます。新聞が配達されると間もなく出勤されて来たので、私はあなたに
「えらく早いですね」と云つた覚がありませんか。そうしたらあなたは「うん」と
云いました。
   それから私が「事件がありました」と言つたらあなたは「判つて居る」と答
え、そしてあなたは私に「新聞が来て居ないか」と言われてから、机に向つて何か
探し物をされて居たのではありませんか。
 問 それから証人はA3君の質問に対して最初は一六日の晩A3さんが泊つて居
たと思つて居たがその後行き違いが出来たため、だんだんと思い出したところが泊
らないとゆう事が判つたとゆう事ですが、その行き違いとゆうのは何を標準にして
言うのですか。
 答 私はA3さんと一緒に泊つたことは相当あります。
   それで私は此の事件について誰からも干渉されずにそうゆう事やそれから皆
からA3さんはその晩酒を飲んで酔つて来て泊つたのだと言われましたので私もそ
う思つて居たのです。処が冷静に考えてみますとA3さんが酒に酔つて来たのは再
三とゆう事はなく、一、二回位のものであり、又A3さんが二日酔とか何んかで朝
九時頃迄寝て居た事は私も覚えがありますがB147、さんやB148さんも知つ
て居ります。それでそう変つて来たのです。
 人間生活においては、自動的にも他動的にも思い込みというものがあるものであ
る。殊に後者の場合には常識では測り難いようなものもあるものである。やつたろ
うと云われればそう思い、やらないだろうと云われればそう思う。それが記憶とし
て脳裡に残る。複雑怪奇な心理現象のなせる魔術とでも云うべきものであろう。し
かし、そのような思い込みも卒然として、或は徐々に真の記憶に蘇つてくる場合も
あるのである。B138の場合もその例でないように考えるのであるがどうであろ
うか。すなわち、B138は自動他動の思い込みをしている間に真の記憶に目覚め
たのである。そして彼のこの心の動きは如実に巧まざる自然さで語られており、そ
こに官憲の強制誘導などのあつたことを思わしめる余地はなく、記録を精査するも
そうした黒い影は見当らない。原判決は、B138の右反言は思い付きで理屈であ
るというが、これは人間の心理現象の動きを知らないものというを憚らない。かく
てB138の真の記憶は次等に凝結度を高め遂には挺でも動かせないような確固不
動のものとなつたのである。その間の消息は原二審四二回公判における証人B13
8とA3被告との間の劇的問答の中に窺い知ることができる。私はこの問答を録音
できいている。A3は鳴咽しつつB138に迫つている。次にその問答を掲げる。
 問(被告人A3)
   私が酔つて組合事務所に行き、証人に介抱されてその晩は組合事務所に泊り、
翌朝B147さんらが出勤するまで寝ていたということは証人も認めております。
その日がいつであつたかもう一度考え直していただけませんか。その日が八月一六
日の晩でないということを、証人は確信を以て断言できますか。
 答 断言できます。
 問 八月一六日でないと断言されるのですか。
 答 そうです。
 問 私が酔つて組合事務所に泊つたことは事実あるでてすね。
 答 事実ありました。
 問 そして証人が私を介抱してくれたことも事実あるのですね。
 答 あります。
 問 私は三年の間組合に勤務していましたが酒を飲んで生態もなく組合に泊つた
ことは只の一回しかありません。それがお盆の一六日であつた。あの八月一六日の
晩です。そして今でも、あの晩あなたが私を寝かせてくれ、毛布もかけてくれ、夜
中に僕を起して電話に出してくれた。そして僕は次の日の朝おそくまで寝ていたこ
とに私の記憶は変りないのです。裁判長 問 証人の記憶は変りないのか。
 答 変りないです。被告人A3 問 証人はその朝B147さん等も僕の寝てい
るのを見ていると言つています。それについてB147さんもそれが八月一七日で
あつたと言つておられます。夜中に電話がかかつて来てあなたが聞かない電話を私
が聞いております。電話は最初から客車二輌ではなく貨車の脱線であつたのです。
B150君もB27君も大体これを認めております。B28さんも証人にはなつて
おりませんが、ある警察調書の前の方を見れば明らかにその晩私が泊つており、事
故通知の電話は私がきいたと言つております。それでもあんたはがんばられるでし
ょうか。
 答 僕の記憶では先程来述べているようにしか思われないのです。
 問 僕はこれで無実を着て絞首台に吊されても、矢張り僕の無実を信じ、又は証
明するのはあなた以外にないということを信じていなければならないのです。それ
でも思い出していただけないでしようか。こんな惨酷なことがありましようか。無
実で殺されるものが矢張りあなたを信じていなければならないのです。
 裁判長
 問 証人の供述は記憶の儘か。
 答 そうです。
 問 記憶は違わないか。
 答 A3さんについての僕の気持は本当に先程来述べたようにしか思えないです。
僕の記憶はどういうようにきかれても違いありません。私の証言でA3さんの白黒
が分れるということは知りませんが、仮りにそれが事実としても記憶通り述べる自
分の気持を変えることは出来ません。
 第一審、原二審各裁判所はB138を証人として直接取調べ、なお、同証人の公
判廷における挙措態度等記録に現われていない面からも心証を得たであろうことは
疑を容れない。然るに、原審は前掲B138に対する930B204調書を手懸り
としてのみB138供述の価値判断をしているのである。
 B138の本件に占める比重は極めて大である。原審としてはすべからく同人を
証人として喚問し、直接尋問すべきではなかつたのか。それが事実審裁判所の当然
に採るべき処置であろうと考えられるのに、原審はそうした処置を試みようとさえ
せず、書面審理のみに拠つて論議を進めているのは甚しい審理不尽と云わなければ
ならない。
 以上の次第で、原判決の力説するA3被告とB138との各体験が図らずも一致
したなどとは云いうべき限りでなく、従つてA3アリバイの成立がほとんど決定的
であるなどと断定しうべき筋合のものでないことが判つたであろうと考える。
 一二、A18アリバイ
 A18アリバイについては八月一六日夜から翌一七日の朝にかけてのアリバイに
限局して述べる。
 A18被告は本件実行行為に参加したことを否定し、一六日夜は一〇時半頃盆踊
り見物から間借先のB175方二階四畳半の自室にかえり妻子とともに就寝し、翌
一七日は午前六時半頃目を覚まし、床の中で枕元のラジオにより七時のニユースを
聞いて本件事故を知り七時半頃階下に洗面に降りて家主B175子らに列車事故か
あつて機関士三名が即死した旨を話したと述べ、同夜は盆踊り見物から帰つた後は
外出した事実はないとアリバイを主張している。
 (イ)ところが一七日早朝A18はB1労福島支部に来た、その姿を見たと云う
人物が現れた、それは外ならぬB138である。B138は次の如く供述する。以
下供述をした日附の順を追つてこれを掲げる。
 241011検察官山本諌調書では、
 「午前六時前後に又電話のベルが鳴つて誰も起きないから私が電話口へ出ますと
B1労組郡山分会からの電話で『松川駅と金谷川駅間で列車が脱線機関車が顛覆し
客車が三輛脱線し機関士と助士は行方不明で何処かえ逃げたらしい、第二の三鷹事
件が勃発するかも判らない』という事でありました。私は御苦労様でしたといつて
電話を切りその電話の要旨を支部の黒板に書き私の隣に寝ていたB150にその事
を話しますとB150は驚いて床の上に起き二人で煙草を吸い大変な事になつたな
列車は不通だろうなどと話合いました。この間一五分位でもう寝る間もないから起
きようといつて起きますとB150の隣に寝ておつた二人の人も起き出てB49の
事務所の机の方に行つた様であります。私はすぐ床を上げて蚊帳をたたみ洗面して
B150と二人で事務所の掃除を致しました。掃除をした時間は一五分か二〇分と
思います。掃除を終ると直ぐ私は朝食の炊飯を始めました。その時刻は六時半頃で
はなかつたかと思います。その時何時になく早くA18が出勤して参りました」云
々と言い、
 1012裁判官唐松寛調書では、
 問 それではその後午前六時頃再び電話がかかつてきたか。
 答 かかつてきました。
 問 その電話はどんな電話であつたか。
 答 それはB1労組郡山分会からの電話でそれをかけた人は何んとかいう人でし
たが。
   「松川駅と金谷川駅間で列車が脱線して機関車が顛覆し客車三輛が脱線し、
機関士と機関助手は行衛不明で何処かに逃げたらしい、第二の三鷹事件が起るかも
しれない」という話でした。それで私は「御苦労さまでした」と云つて電話を切り、
電話の要旨を事務所の黒板に書きつけました。
 問 証人はそれからどうしたか。
 答 その電話の話を黒板に書いてから私の隣に寝ていたB150に話すとB15
0は驚いて起き上りましたので二人で煙草を喫いながら「大変だ列車は不通だろう、
然しそんな気はしないな」と言つて話合いました。それから間もなく宿直室に寝て
いた者は起きたのであります……。
 問 それで翌一七日朝組合事務所に一番早く来た人は誰か。
 答 それはA18さんです。
 問 それは何時頃か。
 答 大体六時半頃ではなかつたかと思います……。
 問 証人はその時A18とどんな話をしたか。
 答 私はA18さんが先程申し上げた様に何時になく早く組合事務所に参りまし
たので私はA18さんに対し「早いですね」と申し、それに次いで其の朝郡山分会
から電話のあつた列車脱線の話をするとA18さんは「今聞いて判つている」と言
うので私はその電話の内容を細くは話しませんでした」云々と言い。
 第一審一五回公判では、
 問(検察官)その朝労働組合事務所に一番早く出勤した人は誰ですか。
 答(B138)私の記憶ではA18さんだつたと思います。
 問 何時頃出勤して来たのですか。
 答 皆が起きたのは六時頃でA18さんが出勤したのはその頃だつたと思います
が時間ははつきりわかりません。とにかく明るくなつてから間もなく出勤してきた
様でした。
 問 そこで証人はA18に郡山分会からかかつてきた列車脱線顛覆事故の電話内
容を話しましたか。
 答 しました。
 問 そしたらA18は何といいました。
 答 なんだか判つているという口吻でした。
 問 証人はそれからどうしましたか。
 答 食事の用意をしました。
 問 食事の用意は労働組合支部事務所内でしたわけですか。
 答 そうです。
 問 証人はその時刻頃組合支部から外に出たことはありませんか。
 答 外と云いましても買物に出た程度です。
 問 何を買いに行つたのですか。
 答 朝の食事のおかずを買いに行つたのです。
 問 そしてすぐ帰りましたか。
 答 その店は労働組合支部事務所から五〇米位離れたところですから三〇分位し
て帰つたと思います。
 問 証人が買物をして帰つた時A18は事務所におりましたか。
 答 いたように思います。
 問(A18被告)一六日から一七日にかけてA3君が泊らなかつたことと、私が
一七日の朝早く六時頃出勤したことを断言できるのですか。
 答(B138)出来ます。新聞が配達されると間もなく出勤されて来たので私は
あなたに「えらく早いですね」と言つた覚えがありませんか。そしたらあなたは「
うん」といいました。それから私が事件がありました」と言つたらあなたは「判つ
ている」と答え、そしてあなたは私に「新聞が来ていなかつたか」と言われてから
机に向つて何か探し物をされていたのではありませんか」……。
 問(A7被告)一七日の朝新聞は何時頃来ましたか。
 答(B138)時間は、はつきり判りません。
 問 証人が、買物に出て行く前に来たのですか。
 答 私が買物に行つてから来たものと思います。私が買物に行く前は来ておりま
せんでした。
 問 すると証人が買物から帰つて来た時には新聞はあつたのですか。
 答 買物から帰つて来た時新聞があつたかどうかは記憶がありません。新聞は読
んだ日もありますし読まない日もありましたが今では覚えがありません。
 問(岡林弁護人)証人がその朝買物に行つた時間は、何時頃ですか。
 答(B138)七時一寸前頃です。云々と言う。
 以上B138の供述について特に注意しなければならないことは、列車脱線顛覆
という異常事件発生の朝の出来事についてのことであること、B138は郡山分会
から電話で事故発生の通知をうけ、その要旨を黒板に書きとどめたこと、それから
側にねていたB150を起して右事故を知らせるとB150もおどろき汽車が不通
になるだろうという意味の話合をしたこと、それから他の者も皆起きたこと、する
と間もなく(明るくなつていた)A18がいつになく早くやつてきたこと、B13
8は「早いですね」と云つて郡山分会からの電話の内容を話したところ、A18は
知つているというような口吻であつたこと等の事どもである。これらは何人をB1
38の立場においても脳裡深く刻みこまれ原判決の用語をかりて云えば忘れように
も忘れられない事ではないだろうか。それが、淡々として卒直に述べられている。
こしらえ事とか作り話とかでは片付けられないていのものである。前掲一審一五回
公判におけるB138とA18被告との問答を見ると、A18被告はB138に逆
襲されていて一とことも反言が出来ないでいる。これは見遁し得ないことであり、
この一事はB138証人の記憶の確かさを示すものでなくして何んであろうか。原
判決はそんな事があつてもB138証言は全体として信用できないのだという。こ
れでは一方的で高飛車で話にならない。判示に一々答案を出すのも愚である。しか
し、一応論評をしよう。原判決は、A18被告が事務所に来た時刻に関するB13
8証言は曖昧だという意味のことをいう。すなわち、105B204調書では七時
から八時頃までの間、107山本調書では午前七時となり、1011山本調書、1
012唐松調書では午前六時半頃となり、更に一審証言では検察官の尋問に対して
は皆が起きたのが六時頃で、A18さんの出勤したのはその頃だと思うが時間はハ
ツキリしない、朝食の買物に出掛ける前であつたと述べ、原二審では普通の時間よ
り早く来たとは記憶しているが時間まではわからないと云つている。そして第一審
における弁護人及び被告らの反対尋問に対しては買物にでかけたのが七時一寸前、
帰るまで約三〇分かかりその後新聞が配達されてから間もなくA18がきたと云つ
ているから、A18の来たのは結局七時二、三〇分ということになると判示する(
A18が七時二、三〇分頃に事務所に来たこととなればA18のアリバイ主張と合
わないこととなり、アリバイ自体がその点で揺らぐことになるのではないか)。し
かし、A18が新聞が配達されてから後に来たというB138の供述は弁護人被告
人らの反対尋問でつつき廻された上での供述であり、B138は右供述の後に自分
は新聞を読む日もあり読まぬ日もありと云つて前言と相容れない供述をしているこ
とが、前掲公判調書のB138の供述によつて明らかであるから、右供述の一事を
以てB138の供述を云為するのは早計である。A18の出勤時刻に関するB13
8の全供述を通覧玩味すれば、郡山分会から電話がかかつてきたのは薄明るくなつ
た頃であり、皆が起きたのは六時頃で、A18はいつもより早く、その頃出てきた
ように思う、とにかく明るくなつて間もなく出勤したようであるというに帰する。
その意味でB138の供述は瞹昧でも何んでもないのである。原判決は、B138
の供述の趣旨を善解していないのである。また原判決はB138供述によれば、A
18が来た時はB150、B28、B27が起きていたというのであるから、その
うち一人ぐらいはA18の来たことに気付いて記憶に残つていてもよさそうに思え
るのに、誰一人としてA18の来たことに気付いたと云つている者はいないのであ
ると云う。しかし右三名に対して取調官がA18の入来に重点をおいて尋問してい
ない為めに、そのような供述をしなかつたのかもしれないし、又前に述べたように
右三名はA3宿泊の事実に関しては、A3に有利な供述をしている面々であるから、
A18被告について、その不利になるようなことについては黙して語らなかつたの
かも知れないのである。従つて右三名の供述の中にA18被告の名が現れていない
からといつて、その一事を以てB138の供述を云為することはこれ亦早計である。
 (ロ)次に原判決はA18被告が実行犯人だとすると、A18は森永橋でA1と
分れたのは検察官の主張によれば午前四時三〇分頃で、それからA18の足でも一
時間あれば十分であり、犯人がウロウロしているなど全く考えられないからおそく
も午前五時半頃にはB1労事務所に到着する筈である。だからA18がB1労事務
所に立寄つたとすれば、その頃はB1労事務所に誰も起きていない時刻に当るので
あつて、B138が証言するように皆が起きている場面に遭遇するというようなこ
とはあり得ない。故にこの時間関係から見てもB138の証言は信用できないとい
う。A18が原判決の計算するように皆がまだ起きていない頃に立寄つたなら却つ
て皆に怪しまれるであろう。だからA18は原判決が云うようにウロウロして道草
を食い時間を稼せいでいたかもしれないのである。そのように考えられる公算も大
いにあるのである。従つて、原判示のような考え方だけで、B138証言を信用で
きないものとは云えないものと思う。
 (ハ)また、原判決は、そもそも犯人の心理として他人に怪しまれないように行
動するのが普通てあるのに、A18は何の必要があつて態々B1労事務所に立寄つ
て目撃証人を作つ先のであろうかと云う。しかしこれなど愚問である。犯人心理と
して犯行現場に引き返えし犯行の跡を探ぐり罪責の隠蔽に腐心し行動しようとする
ことのあることは、われわれが実務の取扱の上においてしばしば経験するところで
ある。B1労事務所は犯行現場ではないが、おそらく焦燥感にかられていたであろ
うA18被告としてB1労事務所に立寄つて何かも探ぐろうとしたものと考えられ
ないこともないのである。従つて、原判決の云うようなことだけでB138供述を
信用できないなどと割り切れるものではないのである。
 第一審及び原二審被判所は直接尋問したB138の供述を信用できるという建前
の下で重要な判断をしている。然るに原審は書面の上だけでB138の供述は全体
として信用できないという。B138の証人としての比重はA18被告の場合でも
大である。原審は何故にB138を証人として喚問し自ら取調べをしなかつたので
あろうか。原審の態度まことに不可解である。審理不尽の最たるものと非難したい。
 (ニ)事件発生の朝七時半頃A18被告は家主B175方で事故の話をした。A
18はいつたい事故を何によつて知つたのであろうか。当時A18方のラジオは故
障していたのであるから、ラジオによつて知る筈はないという問題がある。これに
対し原判決は当時A18方のラジオは故障していなかつたし、A18被告は自宅の
ラジオで本件列車事故の内容を知つたものであり、右ラジオ以外のもので事故を知
つたという証拠は絶無であり、A18宅のラジオは故障していなかつたと高飛車に
判断している。ここで私はさきに述べたA18被告が当日朝六時半頃B1労組事務
所に現われB138から事故発生の電話のあつたことを告げられるやこれを知つて
いるような口吻であつたという事実を想起し度い。しかしここではこれを別論とし
て問題をA18方のラジオが当日故障しないで聞こえていたかどうかの点に限局し
て答を出すこととしよう。A18被告の家主B175は一審一六回公判において次
のとおり証言している。
 問 一七日の朝ラジオは掛つていたか。
 答 ききませんでした。
 問 A18の部屋でラジオを掛ければラジオは聞こえるか。
 答 聞こえます。
 問 音が小さくとも聞こえるか。
 答 聞こえます。
 問 一六日は聞こえたか。
 答 聞こえませんでした。
 問 故障でも起きていたのか。
 答 ずつと前から故障していたと聞いておりました。云々。
 そして新証拠である同人の24922樋山調書及び928田島調書にも同旨の供
述記載があるのである。
 原判決は右B175の供述中ラジオが故障しているというのは警察のスパイ的働
きをしていたB176からの伝聞証言であり、お盆前からズツと聞こえないでこわ
れていると思うという程度のものであり、又A18被告は妻子とともに八月九日か
ら一六日夕方まで自己や妻の実家え帰つていてその間一度帰つて一泊しただけであ
るからお盆前からズツとA18方のラジオを聞かなかつたのはむしろ当然であると
いう。
 B175の供述が伝聞証言であるか或はA18被告夫婦が外泊してきたという点
はともあれ、当一七日朝、A18宅のラジオがきこえなかつたという事実はB17
5が右公判調書において一貫して確言しているところである。B175は前示92
2樋山調書において「事件の起きた朝新聞を見たのでもなくまたラジオを聞いたの
でもないのに、A18さんが汽車の顛覆したことについて馬鹿に詳しく知つていた
ので少し変に思つた」旨述べている。右供述中少し変に思つた旨の部分は貴重であ
る。それは新聞も見ずラジオも聞いたわけでもないのにということと不可分的に結
び付いての結論である。自己の近辺に列車脱線顛覆という大事件が発生した、それ
を間借人のA18が詳しく知つていた、新聞も見ずラジオもないのに知つていた、
B175でなくとも変に思うのが当然であろう。その当然のことがB175の強い
印象となつて脳裡に刻み込まれたものであろう。してみれはB175の供述は証明
力豊かでしかも新鮮度の高いものであると云わなければなるまい。従つてA18被
告は自宅のラジオで事故内容を知つたものであり自宅のラジオ以外のもので事故内
容を知つたという証拠は絶無であるなどと断定し得べき限りではないであろう。
 原判決は更に云う。A18方のラジオは八月一七日当時破損していた旨の八月一
八日付聞込み捜査報告書が出されてあり、A18被告は新証拠の928田島調書で、
「私のラジオは音が低くなる欠点はあるが、今年初頃修理したほかは修理に出した
ことがない」と述べ、その修理店名まで供述しているのであるから、捜査の常識上
直ちにその点の調査がなされたものと考えられるのに、その点に関する調査資料が
出されておらず、却つて、新証拠のB175922樋山調書に、「A18のラジオ
は前々から壊れて聞いていなかつた」と断定的に述べられてあつたのが、前記A1
8被告の田島調書の翌日の日附である新証拠のB175929田島調書では、「A
18のラジオはお盆前からズツと聞えないので壊れていると思う」と変化している
ところをみると、捜査官が調査しても破損していたことを確かめ得なかつたものと
みるべきであると。
 しかし右のような資料からどうして捜査官が調査しても破損していたことを確め
得なかたものと見るべきであるとの結論が引き出し得るのか。私にはわからない。
例によつて原判決慣用の跳躍判断でしかない。原判決は結局A18被告の法廷供述
及びその妻B129の証言に確実性があるとして、A18方のラジオは故障してい
なかつたものと断定しているのである。原判決はラジオ故障の点ばかりでなく、A
18アリバイの支えとなるものとしてB129の供述の確実性を力説強調している
のである。ではB129はどのような供述をしているのであろうか。以下事件の発
生から約二ケ月後に作成された証人尋問調書とそれから半年余を経過して二五年四
月一五日に開かれた第一審三四回公判における証人調書とを掲げてこれを論評する
こととする。
 B129241013裁判官唐松寛調書
 (前略)
 問(裁判官)八月一六日夕食後どうしたか。
 答 夕食が済むと私達夫婦と子どもとそれにB175さん方に居るお孫さんの「
B177」さん計四人でお稲荷様と大映々画館の北側でやつていた盆踊を見にゆき
ました。
 問 それからどうしたか。
 答 私は大映の所から稲荷公園に出て盆踊を見てから「B177」ちゃんを連れ
て行つてるので余りおそくなつてはいかんと思い直ぐかえりました。
 問 盆踊を見に行つたのは何時頃か。
 答 出掛けたのは薄暗くなつてからですが時間ははつきり判りません。
 問 それでは盆踊から帰つたのは何時頃か。
 答 一一時前頃と記憶しております。
 問 盆踊りから帰つてからどうしたか。
 答 帰つてから夕方買つたミシンを少しいたづらをしてからすぐやすみました。
 問 真夜中に証人は子供を便所に連れて行かなかつたか。
 答 その晩私は子どもの「おむつ」を二、三回取りかえました。
 問 それは何時頃か。
 答 私はいつも一二時過ぎるとチヨクチヨク目をさまします。それで子どもが泣
くと「おむつ」を取換えてやつていたのです。その晩何時頃取りかえたか判りませ
んが、然し一二時頃から翌朝までの間に「おむつ」を取替えたことは間違いありま
せん。
 問 その晩証人が目をさましたとき夫はねていたか。
 答 同じ蒲団に一緒にねて居りました。
 問 それでは八月一七日の朝証人は何時頃起きたか。
 答 はつきりわかりません。
 問 それでは夫は何時頃起きたか。
 答 その点もはつきり判りません。
 問 それではどちらが先きに起きたか。
 答 私ども夫婦はその日の朝床の中で何時のラジオニユースだつたか判りません
がそのニユースを聞いてから起きたのであります。
 問 それではそのニユースの前後にはどんな放送をしていたか。
 答 その点はわかりません。
 問 それではそのニユースは毎日聞くのか。
 答 朝目をさますといつもニユースの時間にはラジオをかけておりました。
 問 証人は本年八月一七日列車顛覆事件のあつたことを知つているか。
 答 知つております。
 問 それは誰から聞いたか。
 答 それは朝のラジオのニユースでききました。
 問 そのラジオではその列車顛覆事件の内容をどの様に放送したか。
 答 内容は忘れました。
 問 それではそのニユースの中で何か印象に残る様なことはなかつたか。
 答 わかりません。
 問 それではそのニユースの前に「臨時ニユースを申上げます」と放送したか。
 答 その朝はどうであつたか忘れました。
 問 その放送をきいて夫はどうしたか。
 答 主人はそのニユースを聞いてから八時か九時頃外出致しました。その日は午
後五時頃帰宅致しました。
 問 夫がそのニユースを聞いた時どんな様子だつたか。
 答 それはびつくりしておりました。
 問 証人は本年八月一九日頃B176に会わなかつたか。
 答 私の家で会いました。
 問 その時証人はB176に対し
   「今日午前六時頃A18さんから列車顛覆事件の話を聞いたがA18さんは
他所から聞いてきた」と云うことを話さなかつたか。
 答 その様な話をしたかしなかつたか忘れましたがミシンの話をしたことは覚え
ております。
 問 列車顛覆事件があつた朝七時頃証人が台所にいた時夫とB175とどんな話
をしたか。
 答 列車顛覆事件の話を致しておりました。
 問 その話の内容はどうか。
 答 私にはわかりません。
 問 夫がB175に列車顛覆の話をした時証人は何か顛覆列車の番号を訂正した
様なことがあるか。
 答 私は訂正致しません。
   私はただもと米沢駅に勤めていたので五時何分かの米沢発の列車番号が四一
二号たつたのでその顛覆列車は四一二号ではないかと尋ねたのです。従つて夫の云
つた列車番号を訂正したのではありません。
 問 夫は列車顛覆のあつた当時朝何時頃起床し又何時頃外出していたか。
 答 主人は何時も七時か八時頃起床し八時か九時頃外出しておりました。
 (中 略)
 問 証人は本年九月二三日頃市内郵便局前でB176と会つたことがあるか。
 答 あります。
 問 その時どんな話をしたか。
 答 その時B176さんは警察にゆくところだと云つておりましたが、その外の
事は忘れました私も何を云つたか忘れました。
 (下 略)
 第一審三四回公判における証人B129供述調書
 問(大塚弁護人)証人はA18被告の妻ではありませんか。
 答 そうです、昭和二二年一一月二五日結婚しました。
 問 結婚前までの証人の職業は。
 答 奥羽線庭坂駅の出札係でした。
 問 結婚後はその職業をやめたのですか。
 答 そうです。
 問 二四年八月一〇日頃は証人はどこにいましたか。
 答 米沢に行つておりました。
 間 八月一〇日ですよ。
 答 佐倉です。A18の実家にいたのです。
 問 いつ佐倉に出かけましたか。
 答 八月九日です。
 問 その時証人と一緒に行つた人は誰かありますか。
 答 ありません。
 問 それては証人は一人で行つたのですか。
 答 主人と一緒にゆきました。
 問 A18君と行つたわけですね。
 答 そうです。
 問 実家の方えは何か訳があつて行つたのですか。
 答 お盆で墓参に行つたのです。
 問 佐倉には幾日おりましたか。
 答 九日から一四日までおりました。
 問 一四日は何時頃まておりましたか。
 答 一四日の最終バスで帰りました。
 問 帰つたのは福島の自宅えですか。
 答 はい。
 問 A18君も一緒に帰りましたか。
 答 はい帰りました。
 問 帰つてきてから証人はどうしましたか。
 答 それから駅前を通つてミシン屋に寄りました。
 問 何の為めにミシン屋に行つたのですか。
 答 ミシンを買おうかと思つて行つたのです。
 問 証人が一人で行つたのですか。
 答 主人と二人でゆきました。
 問 何というミシン屋ですか。
 答 A4ミシン屋です。
 問 その日何かミシンを買いましたか。
 答 はい買つてきました。
 問 八月一四日にですよ。
   佐倉から帰つてきてミシンを買つたのですか。
 答 間違いました。一四日に最終バスで帰つてきましたが、ミシン屋に行つたの
は一六日でした。
 問 それでは一四日に最終バスで帰つてきてからどうしましたか述へて下さい。
 答 最終バスで帰つてから夜七時の汽車で米沢に行きました。
 問 証人が一人で行つたのですか。
 答 違います。主人と二人でゆきました。
 答 米沢には何か親戚でもあるのですか。
 答 私の実家があります。
 問 米沢には幾日までおりましたか。
 答 一四日から一六日までです。
 問 すると昨年の八月一五日にも米沢におつたのですか。
 答 そうです。
 問 A18君は八月一五日にはどこにおりましたか。
 答 家におりました。
 問 家とはどこの家ですか。
 答 米沢の実家です。
 問 一六日には何時頃の汽車で帰りましたか。
 答 米沢発二時一七分の汽車です。
 問 すると福島には何時頃着いたのですか。
 答 三時過ぎだと思います。
 問 帰りはA18君も一緒でしたか。
 答 そうです。
 問 福島に着いてから真直ぐ家に帰りましたか。
 答 はい帰りました。
 問 何処にも寄り途しないで帰つたのですか。
 答 ミシン屋によりました。
 問 何んというミシン屋にです。
 答 A4ミシン屋です。
 問 A18さんも一緒にミシン屋に行きましたか。
 答 行きました。
 問 そこでミシンを見たわけですか。
 答 はい。
 問 そうするとその日証人はミシンを買つて自分の家に持つて行つたのですか。
 答 ミンン屋の旦那と息子と主人の三人でリヤカーにつけて持つてきました。
 問 そうすると証人は主人より少し早く家に帰つたのですか。
 答 そうです。
 問 その日ミシンはいくらで買うことに話がきまつたのですか覚えていますか。
 答 一万四千円です。
 問 その日にお金は払いましたか。
 答 払いました。
 (中 略)
 問 そうするとミシンを持つて来て貰つたのは夕方になるのですか。
 答 そうです。
 問 その八月一六日の夜証人は外出しませんでしたか。
 答 しました。
 問 誰と外出しましたか。
 答 主人と下の孫と子供としました。
 問 子供というのは証人の子供ですか。
 答 そうです。
 問 どこにゆきましたか。
 答 盆踊りを見にゆきました。
 問 どこの盆踊を見に行つたのですか。
 答 大映の脇の広場と稲荷公園の二ケ所に行きました。
 問 いつ頃出掛けましたか。
 答 八時過ぎと思います。
 問 かえつてきたのは何時頃ですか。
 答 一〇時半頃だと思います。
 問 その晩下のお孫さんに証人達は何か買つてやりませんでしたか。
 答 買つてやりました。
 問 何を買つてやりましたか。
 答 風船を買つてやりました。
 問 踊りを見て帰つて来てから証人がねたのは何時頃ですか。
 答 ミシンを三〇分ぐらいいぢつてから床に入つたのですから一一時過ぎと思い
ます。
 問 A18さんは何時頃やすみましたか。
 答 私と一緒にやすみました。
 問 証人は先程子供があるといわれましたが子供さんはいくつになるのですか。
 答 満二才です。
 問 生れたのは何時ですか。
 答 三四年三月一七日です。
 問 するとその夜やすんでから―昨八月頃―赤ちゃんのおむつを取りかえたよう
なことはしませんでしたか。
 答 しました。
 問 その八月頃は夜何回位取りかえましたか。
 答 三、四回位取りかえました。
 問 大体の時間はわかりませんか。
 答 夜ねるとき一回、一一時半過ぎ頃です。
 問 その後は。
 答 二時過ぎ頃です。
 問 それは昨年八月一七日の午前二時過ぎ頃のことですか。
 答 そうです。
 問 その後は朝起きるまで取りかえませんでしたか。
 答 四時一寸過ぎ頃取りかえたと思います。
 問 証人達のねている部屋はどのくらいの部屋ですか。
 答 四畳半です。
 問 するとミシンもその四畳半においたわけですか。
 答 そうです。
 問 その他世帯道具もその部屋においたのですか。
 答 ハイそうです。鏡台やラジオもおきました。
 問 八月一六日の夜から一七日にかけおむつを取りかえたときA18さんはねて
おりましたか。
 答 やすんでおりました。
 問 夜中に二回取りかえた時二回ともやすんでおりましたか。
 答 はいやすんでおりました。
 問 一七日朝証人は何時頃起きましたか。
 答 七時半過ぎだと思つております。
 問 証人とA18さんとどちらが先におきましたか。
 答 私が先におきました。
 問 七時半頃起きたというのですか。
 答 床の中で目をさましたのは早かつたのですが起きたのは七時半過ぎだつたの
です。
 問 床の中で目おさましたのは何時頃ですか。
 答 六時半前です。
 問 A18さんは何時頃目をさましたか。
 答 やはり六時半過ぎたと思います。
 問 証人の家のラジオはその頃鳴つていましたか。
 答 鳴つていました。
 問 きこえたのですか。
 答 はい。
 問 昨年の八月頃東北線の松川と金谷川間で汽車の引つくりかえつた事故のあつ
たことを覚えておりますか。
 答 覚えております。
 問 幾日頃か記憶がありますか。
 答 八月一七日です。
 問 その事故を何で知りましたか。
 答 ラジオで知りました。
 問 何日のラジオですか。
 答 一七日のです。
 問 何時頃か判りますか。
 答 七時頃のニユースだと思います。
 問 七時頃のニユースだと思つているのですね。
 答 七時だつたと思います。
 問 そのラジオというのはどこのラジオですか。
 答 家のです。
 問 証人の家のですか。
 答 そうです。
 問 その時証人の他に誰か証人の家のラジオを聞いていた人はありませんか。
 答 なし。
 問 じや、証人がそのニユースを聞いているときA18さんは何処におりました
か。
 答 床の中で目をさましておりました。
 問 A18さんはその時そのニユースを聞いたようでしたか。
 答 はいききました。
 問 証人達の住居は下ですか二階ですか。
 答 下です。
 問 証人達のねている部屋は下ですか。
 答 二階です。
 問 食事の準備は二階でするのですか下でするのですか。
 答 下でします。
 問 八月一七日の朝、先に下え降りていつたのは証人ですかA18さんですか。
 答 私です。
 問 そして食事の準備をしたわけですか。
 答 そうです。
 問 証人が降りた後でA18さんが下に降りてきましたか。
 答 顔を洗いにきました。
 問 洗面に晴雌さんが降りて来て証人以外の人にラジオのニユースできいたこと
を話していましたか。
 答 知りません。
 問 証人はB179(B176のことである)を知つていますか。
 答 はい知つております。
 問 どういう関係で御存知ですか。
 答 主人の……。
 問 どうして知つたのですか。
 答 e町に住むようになつてから知りました。
 問 e町のどこでする。
 答 B175さんのところです。
 問 証人もB175さんの家におるのですか。
 答 そうです。B179さんは私どもの隣です。
 問 そのB179さんという人が汽車が引つくりかえつた事故の二、三日後証人
の家に来たことがありますか。
 答 ありません。
 問 二、三日後でなくとも事故後証人のところにきたことはありませんか。
 答 ありました。
 問 それはいつ頃ですか。
 答 主人が入院してから逮捕されてからです。
 問 すると汽車が引つくりかえつてから二、三日後には来なかつたというのです
か。
 答 はい。
 問 証人の主人はいつ頃から入院されましたか。
 答 九月一六日頃からです。
 問 その入院中どこかでB179さんと会つたことはありませんか。
 答 ありました。
 問 どこで会いましたか。
 答 局前です。
 問 その時証人はB179さんと何か話しましたか。
 答 はい、しました。
 問 どんな話をしたのでする。
 答 生活状態についての話です。
 問 何か汽車の事故について話はしませんでしたか。
 答 友達なので格別しませんでした。
 問 それは立話ですか。
 答 はい。
 (中 略)
 問 汽車の事故後B179さんがすりこぎ棒をとりにきたことはありませんか。
 答 来ました。
 問 それはいつ頃ですか。
 答 九月末頃だつたと思います。
 問 八月ではありませんか。
 答 なし。
 (中 略)
 問 B179さんが証人の隣りの部屋にいる頃B179さんのところの米が失く
なつたということで問題になつたことはありませんか。
 答 ありました。
 問 それはいつ頃ですか。
 答 なし。
 問 覚えがなければ構いません。
 答 なし。
 問 その米がなくなつたことで証人か或はA18さんが疑をかけられたことはあ
りませんか。
 答 あります。
 問 その事で証人達が調べられたことはありませんか。
 答 あります。
 問 どこで調べられましたか。
 答 陣場の交番でです。
 問 証人はB179さんの米のことで疑をかけられるようなことをしたことがあ
るのですか。
 答 ありません。
 問 そんな事でB179さんと喧嘩みたいな事をしたことがありますか。
 答 あります口喧嘩です。
 (中 略)
 問(田島検察官)八月一七日の朝七時のニユースで列車の顛覆を知つたといわれ
ましたね。
 答 はい。
 問 その七時のニユースではその内容をどのように放送していましたか。記憶が
ありますか。
 答 はつきり記憶がありませんか、松川、金谷川間で列車顛覆したと放送してい
ました。
 問 そのニユースはA18さんもきいていましたか。
 答 はい。
 問 それでA18さんは何んとか云いましたか。
 答 最後まで聞かないで私は下に行つて炊事をやりました。
 問 そうするとA18さんと列車顛覆の話はしなかつたのですか。
 答 炊事が了つてから話しました。
 問 どんな話をしましたか。
 答 機関士が二名死んだという話です。
 問 何処でその話をされましたか。
 答 部屋の中でしました。
 問 機関士か二名死んだということもラジオで放送しましたか。
 答 はい。
 問 その朝証人は顛覆したのは列車の番号のことを人に話したことはありません
か。
 答 主人と話しました。
 問 何んと話しましたか。
 答 四一一列車が顛覆したのかと話しました。
 問 どこで話したのですか。
 答 下の洗面所です。
 問 どういう機会にそんな話が出たのですか。
 答 車掌をやつていた関係上。
 問 どういうきつかけからそういう話をされたかときいているんです。
 答 何列車が顛覆したか判らないからです。
 問 何か主人からきかれたのですか。
 答 いいえ。
 問 主人が誰かと話されたのですか。
 答 いいえ違います。
 問 それでは証人の方からボカンと話されたのですか。
 答 はい私は前に四一二列車に車掌として乗務していたから何気なくきいたので
す。
 問 そうすると主人が洗面している時証人が何気なくボカンと聞いたというので
すか。
 答 はい。
 問 四一二列車というのはラジオできかれたのですか。四一二列車が顛覆したと
ラジオできかれたら聞く必要はないではありませんか。
 (弁護人の異議あり)
 (中 略)
 問 四一二列車を乗務していたことがあるといわれるのですか。
 答 はい。
 問 それは庭坂駅に勤務中ですか。
 答 そうです。
 問 その頃その列車は庭坂駅何時発でしたか。
 答 七時半です。
 問 午後七時半ですか。
 答 午前。
 問 午前ですか。
 答 はい米沢駅発午前五時一四分です。
 問 その後時間が改正になつていませんか。
 答 なし。
 問 ラジオの七時のニユースで顛覆のことを最初に云つたのですか。
 答 ラジオできいていつたのです。
 (中 略)
 問(A18被告)先程証人は前の勤務場所を庭坂駅の出札係と云いましたがそれ
は米沢車掌区の間違でありませんか。
 答 米沢車掌区でした。
 (中 略)
 問 証人は先程顛覆した列車番号のことについて述べたが、そのようなことでは
なく、私はラジオで何列車か分らずその朝私が顔を洗いに洗面所に降りて行つたと
き下の小母さんと横山さんの奥さんが炊事場で炊事をしていて、同人らはラジオで
汽車の顛覆したことをきいたが恐しいと話していた、その時証人は外から帰つてき
て何列車か判らないが奥羽線廻りの汽車が顛覆しが四〇二か四一二か判らないとい
つた。
 それで私は四〇二は急行だから少しおそいといつたら証人は四一二ではなかつた
かと云つたと思うがその点はどうですか。
 答 そうです。そうだつたと思います。
 問 証人は先程米沢駅七時半といつたがそれは曽つて証人が米沢車掌区に勤めて
いた時の四一一列車―あの通学通勤列車―の時刻ではありませんか。
 答 あれは五時です。
 問 それは証人が勤めていた頃の四一二列車ですか。
 答 そうです。
 問 それは私がはつきり云わないので証人が四一二と訂正したわけですね。
 答 はい。
 (下 略)
 B129の供述の確実性を検討するに当つては前掲B138の供述によつて認め
られた、A18被告が一七日早朝六時半頃B1労事務所に現われたという事実を想
起しないわけにはいかない。なんとなれば、B129の供述によれば右時刻にはA
18被告は正に自宅にいたということになるからである。これではB129の供述
は確実性ありなどとは云い得べき筋合ではないのである。しかし、この点をぬきに
してもB129の右前後二回の供述を対比して考うるに、前者において知らぬ存ぜ
ぬと述べてある点が後者においては整理されており、しかもそれが弁護人或はA1
8被告のリードのままに述べられており、他方検察官の尋問に対しては或は黙し或
は避けて判然としない点が多々認められ、右供述が全体として、夫A18をひたす
ら庇わんとする意思が窺い得られるのである。妻の座におるものとして当然の供述
でもあろうが、それでは信用できないと云わなければならない。(B129を直接
取調べた第一審裁判所は同人の供述を信用しなかつたのである。原二審裁判所亦然
りである。況んや肝腎な点において後記大河原(旧姓B179)B176の供述と
も相容れないものあるにおいておやである。B176は一審一六回公判において証
人として次のような趣旨の証言をする。
 自分は福島市e町f番地のB175の家に間借りしていた関係でA18夫妻を知
り、A18夫妻も自分と同じ間借人で隣同志の部屋(二階)にいた。昨年八月に松
川金谷川間て列車の顛覆事故のあつたことは知つている。その当日は自分はすでに
転居してB175方に居らなかつた。右事件後二日くらい後にA18宅を訪ねB1
29と会つたことがある。そのA18の家を訪ねたのはその日二人の刑事が自分の
家にきてA18の妻君が列車顛覆事件を知つたのはその日の朝ラジオで聞いてのこ
とか、それともA18が云つたのを聞いてのことかきいてきて貰い度いという依頼
があつたからである。丁度その日は夕方四時から勤務することになつていたので弘
済会に行つて暇を貰い刑事の自転車をかりてA18家に参つたものである。然るに
B129が不在なのでB175と話をしている中にB129がお母さんと帰つてき
てB129はすぐ二階に上つた。自分もそれに続いて上り、顛覆事件を話す前に、
擂粉木棒を忘れて行つたのでそれを取りに来た旁々寄つて見たのですが、
 顛覆事件は恐しかつたね。
 顛覆事件は何で知つたのかね、ラジオで聞いたのですか。とB129に云つたら、
同人は朝、目を覚したらA18さんが教えてくれたと云つた。その時ラジオは掛け
ていなかつたと云つていた。
 (中 略)
 その後自分はB129と会つたことがある。自分が警察に呼び出されて警察に行
く途中郵便局前で出会つた。
 最初B129と会つて、
 「暫くでした」
と云つたらB129は
 「何処え行く」
と云うので、自分は
 「今A18さんのことで警察から呼出を受け警察に行くところだ」
と云つたらB129は
「A18さんはそんなことしないのだから何も話さない様にしてくれ、私もA18
さんから何も云わない様に云われているのだから」
と云つて居つた。云云。
 原判決はB176は警察のスパイ的働きをしたものであるから、その証言は措信
し難いとの趣旨を判示する。しかしB176は何事も(未亡人であつた自分が男の
世話になつていたというようなことまでも)隠し立てせず卒直平明に述べており措
信できないものとも認められない。
 以上によつてみれば、B129の供述は原判決の云うようにA18被告の法廷供
述を裏付けする程に確実性に富むものとは到度認められない。
 (ホ)A18被告がB175らに気付かれずにB175方から出かけ、帰ること
ができたとの問題がある原判決はできないと判断している。しかし、私はここでも
さきに認定したところのA18被告が一七日早朝六時半頃B1労事務所に現れた事
実を想起しないわけにはゆかないのである。そしてB1労事務所から、高々一五分
程度で帰宅し得たであろうと認められるA18被告は一七日朝七時半頃にはB17
5方の間借先にいたという現実を見逃すわけにはゆかないのである。してみればA
18被告はB175らに気付かれずに自宅に帰り得たものと認めるの外はないので
はなかろうか。次にA18被告は一六日夜B175らに気付かれずに抜け出し得た
かどうかという問題である。私はこの点も可能であつたと考える。前掲B175の
241013唐松調書上の証言によれば、同人は同夜九時か九時半頃就寝しA18
夫婦の帰つたころウトウトしていたが翌朝までグツスリ寝込んでいたことが認めら
れ、又同証言及び前掲B176の証言並びに第一審検証の結果を綜合すれば、B1
75方の家屋の構造からして抜け出す可能性が全くないものとは認められないから
である。原判決はこの場合可能性の確率が甚だ少いと云つて論議する。しかし第一
審裁判所は事件発生当時の新鮮な状況において、実施について検分し、証人を直接
に取調べた上で可能性を肯定し、原二審裁判所もこれに同じているのである。私は
この判断を相当と考える。いつたい犯罪というものは百分の十の可能性においても
行われうるものである。網渡りするような場合においても行われうるものである。
原審裁判官は実務の取扱の上においてそのような事件を経験したことがなかつたで
あろうか。
 (ヘ)次にA18被告が一六日午後米沢市から帰つたあと集合時刻場所の連絡を
うけうる機会があつたかどうかということが問題にされている。原判決は勿論これ
を消極に認定している。しかし私はここでもさきに述べた一六日夕刻B1労事務所
においてB29がA6、B139、A3らの面々に対し御馳走をすると云つて自宅
に来るよう勧誘していたこと、その際A18被告もそこに居合わせ右面々と同様招
待されたが、これを辞退した場面を想い起すのである。右の連絡といつても、計劃
がすでに熟していたものと認められ、本件において(前掲A1自白によれば一五日
には集合時刻場所の打合せができていたという)A3被告とA18被告との間にお
いては耳打ち程度で可能であつたと思われるのである。右の場面はそのような連絡
の機会を提供しないものと保障できるであろうか。
 (ト)また原判決はA18被告が盆踊りから帰つてすぐ家をぬけ出さなければ(
原判決はその時刻を午後一〇時四〇分ないし一〇時四五分とみている)、午後一二
時頃にB59材木店脇の材木置場で犯行現場に赴く為A3とともにA1を待つとい
うA1自白の場面はあり得ないという。しかし原二審の検証の結果によれば前掲B
175方から右材木置場までの徒歩所要時間は約一時間程度と認められるからA1
8夫妻が午後一〇時半頃に帰宅したとしてもA18は一一時頃にぬけ出せば待合せ
時刻に十分間に合つたものと認められるのである。
 (チ)次にA18被告の身体障碍の点に言及しよう。この点については原二審判
決が詳密に検討論議している。その結論は相当と認めるが、私もその点についての
見解を前上告審判決の少数意見の中に発表しているからここにその要旨を引用記載
することとする。右に反する原判断は承服し難い。
 原二審判決はいろいろな角度から詳細、克明に検討しA18被告は鉄道に奉職中
昭和一八年三月六日公務負傷に因り骨盤骨折尿道破裂症を患い、その治療を受け、
完全に負傷以前の状態には戻らず、その後遺症として股関節運動の軽度な制限、軽
度の骨盤変形、会陰部尿道手術創痕部球海綿体筋端部の圧痛等の症状を遣したが、
昭和二四年八月一六日、一七日当時においてはその症状は固定期に入つていた。そ
して、その当時右障碍はいずれも軽微のものでこれによつて格別歩幅が制限される
ということもなく、椅座にさほどの困難もなく、人が気付く程の跛行もせず、跳躍
や疾走もある程度は可能で、要するにその運動機能、特に歩行機能においては、常
人に準ずるものであつたと認めるのが相当で、又A18被告の右当時の一般的健康
状態は良好であつたことが明らかであるから、その当時の歩行能力は、同年配の正
常人(身体障碍のない健康人)に準ずるものであつたと認めるのが相当であると判
断し、なお夜間検証の結果を参酌し当時年代二五才を越えたばかりで且つ前記の如
く歩行能力を持つていたA18被告は右夜間検証の際の歩速で問題の区間を歩行す
ることは可能であつたと認めたものであり、右判断は記録を調査して十分首肯でき、
そこに事実認定の上において重大な誤認のあることを認め難いのである。
 A18被告の身体障碍に関しては、原二審の審理は慎重を極め、特に知識経験豊
富なその方面の権威者である
  B180大学医学部整形外科助教授 B181
  B182大学医学部整形外科教助 B183
  B184大学医学部整形外科教授 B185
  B186大学整形外科教授 B187
をそれぞれ鑑定人に選定して鑑定を為さしめておるのであるが、
 B181鑑定人は
 (イ)A18被告は昭和二四年八月一六日、一七日当時歩行機能の障碍があつた
ものと認める、その程度は現在の歩行機能障碍程度と大差ないものであつたと思考
される。
 (ロ)A18被告はその歩行機能障碍のため昭和二四年八月一六日夜から一七日
朝にかけて問題の区間の歩行に堪えない程度のものであつたと判断し、
 B183、B18、B185三鑑定人は
 (イ)A18被告は昭和二四年八月一六日、一七日当時その身体に運動機能特に
歩行機能に障碍があつたかどうかについて軽微障碍があつたものと意見が一致し、
 (ロ)右歩行機能の障碍が問題の区間を指定された条件で歩行するに堪えない程
度であつたかどうかについてはB183鑑定人は困難ではあるが不可能ではないと
判断し(同鑑定人は後に証人として右のいわゆる困難というのは、歩行区間中往路
の問題の行程約一里三〇町を四五分ないし五五分位で歩行するには、時に疾走しな
ければならぬと推察されるがその疾走を含めてA18被告の身体状況から不可能で
はないと証言する)、B185鑑定人は旺盛なる精神力が加わるならば歩行に堪え
ないものではなかつたと判断し(歩行区間中の往路中問題の行程の強行軍も自己の
軍隊における六キロ行軍等の経験に鑑みA18被告の身体状況でも歩行可能と認め
ると証言する)、B18鑑定人は精神力の如何によつては十分歩行可能であると判
断しているのである。
 右対立する鑑定のいずれがより信頼度が高いかは討論の価値ある問題であろうが
私はB181鑑定はその基礎とされた資料において他の三名の鑑定より重要なるも
のが不足していること及びその鑑定の方法にいささか納得し難いものある点に鑑み
て、B181鑑定は俄かに首肯し難いものと思料するのである。右鑑定の優劣はと
もあれ、重要な点はA18被告の事故発生当時の一般状況であらねばならない。(
イ)原二審三二回公判におけるA18被告の供述、同七六回公判における証人B2
06、同七三回公判における証人B207、B208の各証言によつて認められる
A18被告は受傷後本件事故発生前において一里有余の道を自転車で通勤し、時に
は野球をし又は実家の裏山にキノコを採りに行つたという事実、(ロ)原二審二四
回公判における証人B188の証言によつて認められるA18被告は二二年四月か
ら二四年七月まで庭坂駅に勤務しており、その勤務は一昼夜交代で一日おきに終夜
勤務し特に記憶に残るような欠勤病気等のことがなかつた、そして昭和二二年四月
から同二四年七月当時まで庭坂駅では春秋、二回位駅員で旅行会をしていた、それ
は庭坂駅から二、三里位の吾妻山の中腹にある高湯温泉と同駅から一里位のところ
にある信夫温泉で、高湯に行く道は途中二里位は可なり急な山道で且つ路面も悪く
トラツクで上るにも難儀な道である、信夫温泉に行く道は大体平坦である、それら
の旅行会にA18も大体参加していたとの事実、(ハ)昭和二四年九月二六日付八
子医師作成名義のA18被告に対する診断書並びに原二審二五回および七八回公判
における証人八子幸治の証言(前後二回)により認められるA18被告に対する肛
門部手術創の治癒後において本手術瘢痕部をも考慮し椅座に差支ないものと診断し
たが、右診断当時A18被告は何らの苦痛をも訴えていなかつたとの事実、(ニ)
原二審七三回公判における証人B189、B190の証言により認められる、A1
8被告は第一審の検証に立会い相当の距離を歩行したる際にも何ら苦痛を訴えたこ
とのない事実、(ホ)前示B185鑑定は一般に瘢痕というものは初め過敏である
が、時日の経過とともに漸次馴化し鈍化して、やがて大して気にかからなくなるも
ので、会陰部の手術瘢痕が何時までも、過敏であり股関節の運動制限歩行機能障碍
の原因を為すということは普通考え難いところであつて、さればこそA18被告は
野球をやり裏山にキノコ採りに行くことが出来たと論及している事実、(ヘ)前示
B18鑑定人が証人として骨盤骨折に関する九州大学赤岩外科所属木村三郎氏の論
文を殆め幾多の論文に基き骨盤骨折は骨折当時死亡すれば格別、生命を取り止めた
ものは予後極めて良好で歩行機能についても障碍を残すことは少く甚だしい障碍を
残す例がないものだとされている旨証言している事実、(ト)A18被告は一審九
一回公判の最終陳述で初めて、しかもA3被告が云い出した後になつて、自己の身
体障碍の事実を主張した事実(この点に関しこのように主張が遅れたことを以て障
碍の部位が露出をはばかるような場所にあるので、恥しくて主張が出来なかつたの
であるとか、あるいは当然無罪と思つていたから主張しなかつたとか言うA18被
告の弁解はそれ自体不合理で到底首肯できない)、等に鑑みて考えれば本件発生当
時のA18被告は軽微な身体障碍しかなかつたものと認むべきものと考えるのであ
る。
 論旨中にはA18被告の当夜だけの本件歩行を考察するだけでなく、翌日の民主
調査団に代つての活動に影響を及ぼさなかつたかどうかも検討を必要とするので、
もしA18被告が本件に参加したとせば翌日の活動は不可能であると主張する者が
ある。
 しかし八月一七日のいわゆる民主調査団は一、原二審相被告B29、B139、
A3、A18、A5各被告及びB150で構成されたもので、原二審二八回公判に
おける証人B150の証言によれば、相当歩いたけれども、一里も二里も歩いたと
いうわけでもなく、帰りは又さきに下車したところまで歩いて、そこからバスで福
島に帰り二時か、三時には帰つて来たというのである。その他原二審三二回公判に
おけるA18被告の供述によれば、同様調査の内容は明瞭でなく、現場を離れた時
刻も明らかでないが、弁当をA3被告らにやつて了つたので福島に帰つて昼食した
ことになつており、最初は午後四時頃帰宅したと述べていたが、(前示B29被告
の一審公判における質問で午後七、八時頃まで事務所で話しをしていたと訂正して
いる)いずれにしても、現場に到着したのは午前一一時半頃から一二時頃の間であ
り、午後一時から二時までの間に、現場を去つたことになるから、この程度の調査
が前夜強行作業をしたからといつてできないものとは到底言い得ないものと考える
のである。
 以上の次第で原判示のいうようにA18被告のアリバイ成立の蓋然性が高度なも
のであるなどとは到底云いうべき限りではないのである。
 私はA1被告、A3被告、A18被告の各アリバイにつき冗漫と思われる程に書
きしるしてきた。それは原判決の論結するA3アリバイの決定的成立、A1被告、
A18被告の各アリバイの高度の蓋然性が原判決の骨格を成しているからである。
その骨格も、原判決の用語を借りて云えば、地響を立てて崩れ去つているのである。
そのことはA1自白に現れてくる列車脱線顛覆工作という実行々為への一里塚を示
すものに外ならない。
 結 語
 以上私は縷々として証述したわけであるが、これによつて、原判決には幾多の甚
しい審理不尽、理由不備の存することが判然としたものと考える。そしてその理由
不備は重大な事実誤認に直結するものであり、これを看過することは著しく正義に
反するものであることは云うまでもない。上来私の述べたところは実行々為に関す
るものであるが、実行々為あつての松川事件である。実行行為に関する判示に許し
難しい欠陥があれば原判決全体に影響を及ぼすものであることはこれ亦証をまたな
い。
 よつて、私は原判決は全部これを破棄し、原裁判所に差戻すを相当と考える。
 最後に私はもう一度原判決をふり返つてみてこれを大観したい、原判決は要する
に、A3被告のアリバイ確立の決定性、A1、A18両被告各アリバイの高度の蓋
然性が根幹となつて、原判決を一貫しているのであり、ただ、これに尾鰭を付けて
いるだけのことなのである。つまり右アリバイに対する考え方を理由付けんがため
に辻褄を合せようといろいろ御談義を展開しているに過ぎないのである。そしてそ
の証拠上の根拠としているものはいわゆる新証拠に属するB117に対する前示B
192調書とB138に対する前示B204調書だけなのである。本松川事件は世
にも不思議な物語として喧伝されている程の世紀的な大事件である。複雑怪奇な事
象が後から後からわれわれの眼前に迫つてくる。そして枚挙にいとまもない程の証
拠物がくり展げられてくるのである。そのような事件のまつただ中に在つて、これ
と正面から取組んで本当の事実は、いつたい何んであるかを発見しなければならな
いのである。それが、裁判官の運命でもあるのである。そこには非常な努力の積み
重ねがなければならない。いささかの逡巡があつてはならないし、また、怯びえて
ならないことは云うも愚かである。有能な第が審原第二審の裁判官達は本事件を裁
判しなければならない運命を甘受されていささかも遅疑することなく、その職務を
遂行された。
 私の同僚は本事件と真正面に取組まれ老体遂に職務に斃れられた、然るに原審裁
判官はどうであろう。何千とある証拠の中も片々たる前示二つの調書にのみ拘着し、
しかのこれに十分な詮索検討をも加えず、いとも簡単に且つこれが判文であるかと
驚く程の舞文曲筆で以て第一審判原二審判決を一蹴して去つているのである。その
浅薄さ、その短見さ極言するとその卑劣さ、云うべき言葉を知らない。しかも大言
壮語する。弱い犬程大いに吠えるのたぐいである。今後もあることと思うが、裁判
所の門戸に打ちつける嵐はきびしい、われわれ裁判官は徒手空挙で以ても、これを
はねかえさなければいけない。私と雖も人権の尊重すべきことは十分に知つている。
殊更に被告らを窮地に追い込もうなどとは思つてもいない。しかし、その構造の粗
雑さにおいて、その表現の独断的で偏向的な、しかも壮語高言する原判決には我慢
ができなかつたのである。このような判決を見逃すことは最高裁判所の恥だと考え
たのである。これ敢えて、私が少数意見を発表する所以である。
 さもあれ、私は合議で、三対一で敗れた。しかし、私は本当に敗れたとは思つて
いないのである。多数意見と雖も、まさか、本件を権力犯罪などとは思つてもおら
れないだろうし、また心の底から本件を白だと考え、原判決のような見方で、珠玉
の真実を発見したなどとは考えてもおられないと思うからである。要は裁判に対す
る態度の違いであり、極言すると、人生への生き方の相違でもあろう。私は失礼な
がら斎藤裁判官の補足意見を拝見してその感を深うした次第である、しかし、この
点は重大である。何んとならば、下級審裁判官の裁判に対する考え方に及ぼす影響
なしとしないからである。裁判官に対し甘い考え方を植え付ける虞なしとしないか
らである。
 いつたい、裁判所は何の為めに本事件と十年もの間取り組んで来たのか、異常な
程の執着を以て何が真実であるかを発見すべく努力に努力を重ねて来たのではない
か。斎藤裁判官は原上告審における本件審理の状況を御存知ない。田中元長官を始
め主任裁判官の僚友達は本件の真相を確知すべく二年以上に亙る期間優秀、有能な
調査官の援助の下に全精力を傾けて本件の調査に当られ、本件は黒だという確信に
到達されたのである。然るに主任裁判官の構想によるいとも簡単な調査で本件は証
明不十分、無罪を言渡すべきものだというのである。多数意見の拙速主義或は観念
主義、まことに遺憾の極みである。斎藤裁判官は私が本件について初めから黒とき
めてかかつているような口吻を洩されている。飛んでもないことである。私も初め
て本事件の記録を与えられたとき事件の筋が怪しいと思つた。しかし、だんだん調
査を重ねている中に実行行為に関する限り黒は動かないものとの心証を得るに至つ
た。そして当審に至り、いわゆる新証拠なるものを具さに検討しても、その心証に
いささかも揺ぎがなかつたのである。裁判官が事件に当面して、初めから黒ときめ
こむことの邪悪であることは勿証であるが、また一方初めから白ときめ込んで国民
の納得のゆく裁判をするなどと広言することの危険であることは云うも愚かである。
どちらも裁判官の資質に欠くるところあるものと云わなければならない。ところで
原判決はいろいろごまかしは云うが、多数意見の云うように、本件を証明不十分だ
とは言つていないのである。珠玉の真実を発見したと云つて胸を張り、本件を白だ
と断定し、全篇に無罪ムードを漲らせているのである。当上告審としては記録を丹
念に読んで、そのような断定が果してできるものか、そのような無罪ムードが首肯
できるものであるかどうかを、最高裁判所の権威の為めに徹底的に調査、批判すべ
きではなかつたのか。
 裁判所の態度として、甚しく穏当を欠く原判決の如きものに対し強いて眼を蔽い、
安易な気持で犯罪の証明不十分であるなどと云つて、済まされる場合ではないので
ある。構造の粗雑さにおいて、その表現の偏向的で偽まんに満ち満ちている原判決
の如きものに対し、しかも十数年もの間幾多の裁判官がその精査に心魂を捧げてき
た本件の如き案件については、最高裁判所としては、刑訴四一一条を全面的に適用
し、職権調査をなすを然るべきものと考えられるに拘りず(例えばアリバイの成否
について、―もしアリバイの不成立が肯定されるとなれば、A1自白は自ら信憑せ
ざるを得ないこととなるであろう。)主任裁判官はその適用を考慮しようともされ
ていない模様である。これでは、国民を納得させ得ないばかりでなく、裁判を逃避
したと云われても致し方ないであろう。裁判所は学問の場ではないのである。
 ともあれ、私の少数意見は心ある人や後世の史家が正しく批判してくれるであろ
うことを信ずる。
 検察官村上朝一、同渡部善作、同玉沢光三郎、同高木一、同高橋正八公判出席
  昭和三八年九月一二日
     最高裁判所第一小法廷
         裁判長裁判官    斎   藤   朔   郎
            裁判官    入   江   俊   郎
            裁判官    下 飯 坂   潤   夫
 裁判官高木常七は退官につき署名押印することができない。
         裁判長裁判官    斎   藤   朔   郎

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