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主文
被告人は無罪。
理由の要旨
第1当事者の主張と本件の争点
1検察官主張の本件公訴事実(訴因訂正後のもの)は,「被告人は,平成27
年5月25日午前零時40分頃,横浜市内のa荘A方において,同人(当時4
9歳)に対し,その顔面を殴るなどの暴行を加えた上,持っていた包丁(刃体
の長さ約21.3センチメートル)の刃先をその喉元に突き付け,「殺すぞ」
などと言い,もって凶器を示して脅迫し,さらに,同人を畳に仰向けに倒して
馬乗りになり,その右腕を左手でつかんだ上,その左顔面直近の位置において,
包丁の刃先を畳に数回突き刺すなどの暴行を加え,よって,同人に全治約1週
間を要する口唇部挫傷,右上腕部挫傷の傷害を負わせたものである。」という
ものである。
これに対し,被告人は,Aの腕をつかんだり,平手で頬を叩いたことはある
が,それ以外の暴行や脅迫はしておらず,上記行為についても,Aが自傷行為
に及ぶのを防ぐためにしたものであると供述し,弁護人は,被告人の供述に沿
い,暴行行為の一部及び脅迫行為の存在を争うとともに,被告人がした行為に
ついては,正当防衛若しくは緊急避難又は少なくとも誤想防衛若しくは誤想避
難(以下「正当防衛等」という。)が成立するから,被告人は無罪であると主
張している。
2以上によれば,本件の争点は,①被告人が,Aに対し,公訴事実記載の暴行,
脅迫を加えたか,②被告人の行為に正当防衛等が成立するか,という点である。
第2当裁判所の判断
1争点①について
本件の証拠構造と判断枠組み
本件では,目撃者は存在せず,検察官の立証が成功するかは,公訴事実記
載のとおりの被害を訴えるA証言が信用できるか否かにかかっている。他方,
被告人は,上記のとおり,A証言と大きく食い違う内容の供述をしているか
ら,本件の判断枠組みは,A証言について,これと対置する被告人供述を踏
まえてもなお,信用に値するものか否かを検討する,というものになる。
A証言の信用性
アA証言の要旨
Aは,当公判廷において,要旨以下のとおり証言する。
平成27年5月24日夜からa荘のAの自宅に被告人と2人でいたとき
に,トイレに入った被告人が右手小指から出血したという出来事があった。
Aは,絆創膏を探して被告人に渡したが,被告人は何が気に入らないのか
怒り出し,Aが自衛隊を辞めた後,ラインのグループトークに元同僚で好
きでなかったBを招待したことなどに文句を言ってきた。Aが言い訳をす
ると,被告人はAの髪の毛を引っ張り,右側の唇の上を左の平手で殴った。
そのとき,テレビ台のカラーボックスに顔が当たってAの歯が欠けた。6
畳間の柱の前で,被告人が「おまえは俺に一体何をしてくれたんだ。」と
言ったのに対し,Aが「愛は見返りを求めるものではないんじゃない
か。」と口答えをすると,被告人は,いきなり走り出して流しから包丁を
持ってきて,左手でAの口を塞ぎながらAを柱に押さえ付け,包丁をその
喉元に突き刺さるぐらいのところまで突き付けて,「殺すぞ。」「おまえ
を殺して俺も死ぬ。」と言った。Aが「殺せば。」と言うと,被告人は,
包丁を持った右手を水平にスイングして包丁の柄か拳でAの左側の唇の上
を殴り,唇が腫れ上がって出血した。Aが「こんな醜い顔で死にたくな
い。」と言うと,被告人は,Aを押入れ前の畳に仰向けに押し倒して体の
上にまたがり,左手でその右腕を強くつかんだ上,右手に持った包丁で,
その左顔面すれすれの畳を四,五回思い切り突き刺した。Aが,殺される
と思って恐怖を感じ,「死にたくない。」と連呼すると,被告人は,包丁
で畳を刺すのをやめた。Aは,玄関の側に被告人がいたことから,2階に
ある自宅窓から外に飛び降りた。Aが,背中に激しい痛みを感じ,両足の
感覚がなくなり,立ち上がれないでいると,被告人がその場へやって来て,
Aを抱きかかえてAの部屋まで運び,玄関のところにどさっと落とした。
Aが「救急車を呼びたい。」と言うと,被告人は「何と言って呼ぶん
だ。」などと言いながら,かばんの底でAの左目の辺りを何回も殴った。
Aは「階段から落ちたことにするから。」と言うなどしたが,被告人は,
救急車を呼ぶ理由を何回も確認しながら,しばらくかばんで顔を殴ってい
たため,Aの顔が腫れ上がった。その後,被告人は,いったん部屋から出
ていった後,戻ってきて,再度かばんでAの顔面を殴り,「この荷物(被
告人の荷物)を家に送れ。」と言った。その後,被告人がいなくなってか
ら,Aは自ら119番通報をした。
イ客観証拠や争いのない事実との整合性
検察官は,A証言が信用できる根拠として,客観証拠や争いのない事実
と整合している点を挙げるので,順次検討する。
畳の損傷について
検察官は,被告人が包丁を畳に突き刺した状況に関するA証言は,A
方6畳間の畳に,鋭利な刃物を刺したと認められる損傷4条及びかぎ裂
き様の損傷1か所が存在することと整合していると主張する
この点,証拠によれば,平成27年6月1日に捜査機関がA方の現場
確認を行った際,6畳間の押し入れ付近の畳の上に刃物を刺したことに
より生じたと見られる損傷4条及びかぎ裂き様の損傷1か所が存在し,
同損傷付近には長い毛髪様のものが落ちていたことが認められる。この
ことは,被告人が,6畳間の押し入れ前の畳の上に押し倒したAの左顔
面直近の畳を,持っていた包丁で四,五回突き刺した旨のA証言と整合
しているようにも思われる。
しかし,一方で,上記損傷の深さは,いずれも約1.5センチメート
ルから約3センチメートルの範囲に収まっており,本件の際に被告人が
手にしていたと認められる刃体の長さ約21.3センチメートルの鋭利
な柳刃包丁を,Aが証言するように「思い切り」畳に突き刺したことで
生じた損傷にしては,深さが浅過ぎるといわざるを得ない。そして,A
証言以外に上記損傷が本件で生じたことを裏付ける証拠はなく,上記損
傷が本件以前の何らかの別の機会に生じた可能性を排斥することができ
ないこと,毛髪様のものが落ちていた経緯も証拠上不明であることから
すると,上記損傷の存在は,A証言の信用性を決定づけるものとはいえ
ない。
Aの負傷状況について
検察官は,暴行及びそれによる負傷に関するA証言は,Aの負傷状況
と整合していると主張する。
この点,証拠によれば,本件の後,Aは,口唇部挫傷及び右上腕部挫
傷を負っていたほか,前歯が欠けていたことが認められ,このことは,
被告人が,Aの左右の唇の上を殴り,その右腕を強くつかんだというA
証言と整合しているようにも思われるが,これらの負傷結果は,後記の
とおり被告人が自認する行為によっても生じ得るものである。
なお,Aの入院中の写真を見ると,Aの左目周辺が赤く腫れている様
子が認められるところ,この傷がAの証言するように被告人がかばんで
殴ったことにより生じたかについては,当該かばんが柔らかい素材で出
来ているように見え,当時のかばんの内容物がポーチ以外明らかになっ
ていないことも併せ考えると,このかばんにより生じたものとはにわか
には考えにくく,Aが深夜,窓から飛び降りた際,どこかに左目を打ち
付けるなどしたために生じた可能性も否定することはできない。
そうすると,Aの負傷状況がA証言の信用性を決定づけるものでもな
い。
Aが2階の窓から飛び降りたことについて
検察官は,被告人が包丁を持ち出してきて生命の危険を感じたという
A証言は,Aがa荘の2階の窓から飛び降りたという,争いがなく証拠
上も明らかに認められるAの行動と整合していると主張する。
確かに,2階の窓から飛び降りるというのは尋常な行動ではなく,特
段の事情がない限り,生命の危険などの差し迫った事情があったことを
推測させるものであるが,Aについて認められる以下の事情に照らすと,
この飛び降り行為は,Aが生命の危険を感じたことを当然に推測させる
ものとはいえない。
すなわち,証拠によれば,Aは,①平成23年12月頃,出張先のホ
テルの上層階にある部屋の窓から大きく身を乗り出し,飛び降りるなど
と発言してその場にいた男性2人に止められたこと,②平成24年5月
頃,山梨県の山中にある人里離れたキャンプ場に行った際,辺りが真っ
暗な中,突然はだしで山荘から飛び出して,泥だらけの足で体中に葉や
草を付けて戻ってきたこと,③同年夏頃,上司宅マンションの高層階に
あるラウンジで行われた懇親会で,上記②の出来事が話題に出ると,突
然興奮して泣き出し,ラウンジのベランダに出ようとして周りの人に止
められたこと,④平成24年12月頃,被告人方で被告人と口論した後,
帰り際にその玄関で自身の左胸を包丁で刺したこと,⑤平成26年1月
頃,A方で被告人と口論した後,Aの知人方へ行き,その際腹部に包丁
による2か所の刺し傷を負い,緊急手術を要するほどの重傷を負ったこ
と(Aは,自ら軽く1回刺した後,上記知人に包丁を取り上げられて深
く刺されたと証言する。)が認められる。これらに照らすと,Aには,
感情的にかなり不安定な面があり,被告人と口論するなどして興奮した
精神状態になると,時に自傷行為を含む突飛な行動に出る傾向があるこ
とが認められる。
そうすると,本件でAが2階の窓から飛び降りたことをもって,A証
言の信用性を支えるものとみることには慎重であるべきである。
ウ供述の一貫性
検察官は,Aは,被害直後から一貫して母親や救急隊員に被害状況を申
告していたと主張する。
この点,救急隊員であるCの証言によれば,Aは,119番通報により
臨場したCに対し,けがの原因について,当初「階段から落ちた。」と説
明していたが,不審を抱いた同人から追及されると,「男友達とお酒を飲
んでいて口論になり,身の危険を感じ,2階の部屋の窓から飛び降り
た。」と説明を変えたほか,「顔を殴られた。」「包丁で脅された。」な
どと述べ,けがの原因について最初に違う話をした理由について,「男友
達に迷惑が掛かるから。」と述べたことが認められる。
このように,AのCに対する申告が,本件直後になされたものであるこ
とに加え,Aが,けがの原因について当初異なる説明をしていたところ,
救急隊員から追及されて初めて上記のとおりの申告に至っていること,異
なる説明をしていた理由も自然なものであることを併せ考えると,申告内
容が真実である可能性はそれなりに高いようにも思われる。
他方で,上記申告内容は,後記のとおり被告人が自認する行為の内容と
必ずしも矛盾するものではなく,それをAが主観的にどのように感じたか
を表現したにすぎないものとみる余地がある。しかも,本件では,既に認
定したとおり,Aには,自傷行為を含む突飛な行動に出る傾向がある上,
し周りの人に止められてもいないと述べていることなどからすると,Aに
は,そのような自身の行動傾向を殊更に否定しようとする姿勢が見受けら
れる。こうした観点からすると,Aの救急隊員に対する上記申告内容につ
いては,Aが,興奮状態で2階の窓から飛び降りたという自身の突飛な行
動を隠すために,「身の危険を感じた」という弁解をした可能性を否定す
ることはできない。
なお,Aの母親は,本件後にAから公訴事実に沿う被害状況を聞いた旨
の職場の上司への対応ぶりなどにも照らすと,同証言がA証言の信用性を
支えるものとは到底認められない。
エ証言内容の合理性
検察官は,A証言は,具体的で迫真性があり,内容も自然であると主張
する。確かに,A証言は,本件当夜の一連の事実経過を具体的かつ詳細に
述べる内容であり,被告人が包丁を畳に刺したときに死にたくないと連呼
したという場面などは,迫真性を備えているともいえる。
しかし,被告人とAの間で本件前日に交わされたラインのやり取りは,
Aが,元同僚で好ましい感情を持っていなかったBをラインのグループト
ークに招待したことに関し,被告人がAに「無理して付き合わなくてい
い。」「楽しい仲間以外は声かけない。」などというメッセージを送り,
Aを穏やかに諭す内容である。そうすると,この件に関して言い訳をする
Aに対して被告人が激高し,包丁を持ち出してAに突き付けながら,「お
まえを殺して俺も死ぬ。」と脅迫するほどの事態に発展したというA証言
の内容は,事実の推移に飛躍があり,自然な内容であるとはいい難いよう
に思われる。
また,公訴事実そのものではないが,A証言によれば,被告人は,負傷
して動けなくなっているAの顔面をかばんで何度も殴り,A方にあった自
分の荷物を被告人の家に送るように言ったとされる。しかし,Aの話を前
提にしても,負傷したAを被告人が更に殴る理由は理解し難いものがある
し,身動きできないAに荷物を送るよう命じたのも状況にそぐわない行動
といえる。こうした事件後の状況に関する証言内容の不自然さは,公訴事
実に関する証言部分の信用性判断にも一定の影響を与えるものといわざる
を得ない。
オ小括
そうすると,A証言は,客観証拠や争いのない事実と一応は整合し,供
述も一貫しているようには見えるものの,証言の信用性を支える決定的な
根拠があると断定することはできず,その内容にも不自然なところがある
といえる。
被告人供述の信用性
そこで,進んで,被告人供述の信用性を検討する。
ア被告人供述の要旨
被告人は,当公判廷において,要旨以下のとおり供述する。
A方で,被告人がトイレに行ったときに右手小指にけがをして血が出た。
被告人が水で手を冷やして血を止めてから,2人で酒を飲み始めたところ,
Aが立ち上げた元同僚とのラインのグループトークなどについて口論にな
った。Aは,被告人が同グループトークから脱退したことを誤解し,「な
んであなたはBの肩を持つんだ。」などと言って逆上して席を立ち,外に
出て行こうとした。被告人としては,1年前にAが自分でお腹を切ったと
きのことが頭から離れず,Aを興奮した状態で外に出すと自分を傷付けて
しまうというイメージがあり,Aが外に飛び出すのを防ぐために制止しよ
うとした。しかし,Aが殴る蹴るなどして抵抗してきたため,被告人は,
Aを何回も床に組み伏せ,平手でAの顔を二,三回叩いた。その後,被告
人が組み伏せてはAが逃げるという追い掛け合いが30分位続き,被告人
は,A以上の突飛な行動に出なければ,その場を収めることはできないと
考えて,台所へ行って包丁を手にし,Aを布団の上に仰向けに倒して組み
伏せ,馬乗りになり,左手でAの右腕を押さえ,右手に持った包丁の柄を
Aの額の上に乗せ,刃先を被告人の首の方に突き付けた状態で,「刺して
もやる。殺してもやる。でもな,自分の大切な人がいつも血だらけになる
姿を見る気持ちが分かるか。お前には分からないだろう。だったら俺を刺
してみろ。」などとAに言った。Aが少し落ち着いたように見えたので,
被告人は,立ち上がって押し入れの方へ向かい,被告人とAの間で,被告
人が荷物を持って帰るからAにかばんを貸してくれと頼み,Aが断るとい
ういつものけんかのパターンのやり取りが続いた。Aの答えが途切れたの
で被告人が布団の方を振り返ると,Aがいなくなっていて窓から飛び降り
ていた。被告人は,Aを抱えて部屋に戻った。Aが自分で救急車を呼ぶと
言うので被告人は外に出て,救急車が来たのを確認してから,その場を後
にした。
イ客観証拠との整合性
証拠によれば,A方6畳間にある掛け布団に,血痕様のものがある程度
まとまって付着していることが認められ,このことは,右手小指を負傷し
ていた被告人が,Aを組み伏せて馬乗りになったのは,Aが証言するよう
に畳の上ではなく,布団の上であるという被告人供述と整合的である。
ウ供述内容の合理性
被告人供述は,A証言に勝るとも劣らない具体性,迫真性を備えており,
被告人とAが口論に至った経緯についても,2人の間で本件前日に交わさ
れたラインのやり取りや,AがBに対して抱いていた感情に照らし,自然
な内容といえる。
そして,前記のとおり,Aには,感情的にかなり不安定な面があり,被
告人と口論するなどして興奮状態になると,時に自傷行為を含め突飛な行
動に出ることがあるのであり,被告人が,興奮して外へ出ようと暴れるA
を落ち着かせるために,Aを組み伏せた上,その顔を平手で叩くなどして
制止しようとしたが,目を離した隙にAが窓から飛び降りていた,という
被告人の述べる一連の事実経過は,Aの行動傾向を踏まえれば,十分あり
得る出来事といえる。
この点,検察官は,以前に包丁で自傷行為に及んだことがあったという
Aがまたしても自傷行為に及ぼうとしていると認識しながら,その場を収
拾するには突飛な行動に出るしかないと思って包丁を持ち出したのは不自
然,不合理であると主張する。しかし,空手の有段者であるAが約30分
もの間興奮して暴れていたという状況を前提とすると,これを収拾するた
めにはA以上の突飛な行動をするしかないと考えたこと自体は了解可能で
あり,不自然,不合理であるなどとはいえない。
エ小括
そうすると,客観証拠と整合的であり,供述内容にも一定の合理性が認
められる被告人供述を,不自然,不合理であるとして排斥することはでき
ない。
結論
以上検討したところによれば,A証言については,信用性を支える決定的
な根拠があると断定することはできず,その内容にも不自然なところがある
一方で,これと対置する被告人供述を不自然,不合理であるとして排斥する
ことはできないのであるから,A証言は信用に値するものとはいえない。し
たがって,A証言に基づいて事実認定を行うことはできず,被告人供述に基
づいてこれを行うほかはない。
そうすると,公訴事実記載の行為のうち,本件で被告人がAに対して行っ
たと証拠上認められるのは,Aの顔を平手で数回叩いた行為と,Aを仰向け
に倒して馬乗りになり,その右腕を左手でつかんだ行為(以下これらの行為
を併せて「本件行為」という。)のみであり,その余の暴行,脅迫の存在に
ついては,合理的な疑いが残るというべきである。
なお,付言するに,被告人が,包丁の柄をAの額の上に乗せ,刃先を被告
人の首の方に突き付けた状態で,「刺してもやる。殺してもやる。」などと
言った行為が,「凶器を示して脅迫し」たといえるかが問題となり得るが,
包丁の刃先はAに向けられていない上,上記発言を全体としてみれば,自傷
行為を思いとどまるよう諭す内容であると理解するのが素直であるから,被
告人に脅迫の故意があると認めるに足りない。
2争点②について
次に,被告人の本件行為について,正当防衛等が成立するか否かを検討する。
被告人供述によれば,Aは,本件当夜,被告人と口論になり逆上し,Aを制
止しようとする被告人に対し,殴る蹴るなどして約30分間にわたり激しく抵
抗していることが認められる。前記のとおり,Aには,興奮した精神状態にな
ると,時に自傷行為を含む突飛な行動に出る傾向があり,本件以前に被告人と
口論になった際には,Aが被告人の目の届かない場所に行き自身の胸部又は腹
部を包丁で刺すという自傷行為に及んだことが2度あり,本件当夜にもAは被
告人が目を離した隙にアパート2階の窓から飛び降りて重傷を負っていること
も考慮すると,本件当時,相当興奮した精神状態にあったAが,その状態のま
ま外出すれば,何らかの方法により重大な自傷行為に及ぶ現実的危険性があっ
た疑いを拭い去ることができない。
思うに,本件で想定されるAの自傷行為は,Aが自身の胸部や腹部を包丁で
刺すなどという生命に危険が及びかねない行為であって,自殺関与罪が刑法上
規定されていることも踏まえると,違法と評価すべきものと解される。そうす
ると,被告人による本件行為は,Aが外出して自傷行為に及ばないようにAを
制止する目的からなされたものであり,Aの生命身体という法益に対する不正
の侵害が切迫した状況において,これを防衛するためになされた行為というべ
きである。また,女性ではあるが空手の有段者であり,被告人に激しく抵抗し
ていたAを制止するには,ある程度の有形力行使は避けられなかったと思われ
ること,本件行為によりAが負った傷害の程度も全治約1週間にとどまること
に照らせば,本件行為は,防衛手段として必要かつ相当なものであったと認め
られる。
したがって,被告人の本件行為については,正当防衛が成立する。
第3結論
よって,被告人の本件行為は,刑法36条1項に該当し,正当防衛行為とし
て罪とならないものであるから,刑訴法336条により,被告人に対し無罪の
言渡しをする。
(求刑懲役2年)
平成28年1月29日
横浜地方裁判所第1刑事部
裁判長裁判官足立勉
裁判官
裁判官椙山葉子

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