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平成29年5月30日判決言渡
平成28年(行ケ)第10154号審決取消請求事件
口頭弁論終結日平成29年3月23日
判決
原告フォーモサ・ラボラトリーズ
・インコーポレーテッド
訴訟代理人弁理士志賀正武
実広信哉
渡部崇
堀江健太郎
渡部純子
被告特許庁長官
指定代理人瀬良聡機
井上雅博
中田とし子
井上猛
板谷玲子
主文
1特許庁が訂正2015-390128号事件について平成28年3月
8日にした審決を取り消す。
2訴訟費用は被告の負担とする。
事実及び理由
第1原告の求めた裁判
主文同旨
第2事案の概要
本件は,訂正審判請求に対する不成立審決の取消訴訟である。争点は,①誤記の
訂正を目的とするもの(特許法126条1項2号)に当たるか,②新規事項追加(同
条5項)に当たるかである。
1特許庁における手続の経緯
原告は,発明の名称を「マキサカルシトール中間体およびその製造方法」とする
特許(特許第5563324号。以下「本件特許」という。)の特許権者である。本
件特許は,平成22年2月3日(以下「本件出願日」という。)に出願され(特願2
010-22200号),平成26年6月20日に設定登録されたものである(請求
項の数7。以下,本件特許の請求項1~7に係る発明をまとめて「本件発明」とい
い,本件特許の明細書及び図面(甲19)を「本件明細書」という。)。(甲19)
原告は,平成27年11月17日,明細書の訂正を求めて訂正審判請求(訂正2
015-390128号。甲20。以下「本件訂正」という。)をしたが,特許庁は,
平成28年3月8日,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をし,その謄
本は,同月17日,原告に送達された。
2本件訂正の訂正事項(甲20)
明細書【0034】の「EAC(酢酸エチル,804ml,7.28mol)」と
いう記載を「EAC(アクリル酸エチル,804ml,7.28mol)」という記
載に訂正する(以下「本件訂正事項」という。)。
3審決の理由の要点
(1)目的要件について
ア明細書の誤記を目的とする訂正が認められるためには,特許がされた明
細書の記載に誤記が存在し,それ自体で又は図面の他の記載との関係で,誤りであ
ることが明らかであり,かつ正しい記載が願書に最初に添付した明細書,特許請求
の範囲又は図面(以下「当初明細書等」という。)から自明な事項として定まる必要
がある。
イ本件訂正事項についてみると,【0034】の「EAC(酢酸エチル,8
04ml,7.28mol)」という記載に,一見して誤りが存在することは理解で
きず,関係する他の明細書の[合成例4]の記載や図1との関係をみても,酢酸エ
チルという化合物名やEACという略称の表記は一致していて,明らかな誤記が存
在するとはいえない。
ウ請求人(原告)は,【0034】の[化14]に記載された化合物(3)
及び化合物(4)の化学構造に誤りがないことを化合物(5)のNMRによる確認
と図1の表記との一致を根拠に説明した上で,[化14]のスキームに記載されてい
る化合物の働きを推測し,【0034】の反応の種類を推測し,そのような反応であ
るという前提で,酢酸エチルの生成物を推測し,化合物(4)が得られないので,
「酢酸エチル」が誤記であることが当業者に一見して明らかであると主張する。
しかしながら,化合物(3)や化合物(4)の化学構造に誤りがある可能性は,
酢酸エチルという化合物名の誤りと同等に存在すると考えるべきで,ましてや化合
物(5)にNMRのデータがあることを根拠として,化合物(3)や化合物(4)
についてのみ誤りではないという前提を置く根拠はない。
むしろ,化合物(5)や図1の記載との関係で,化合物(3)及び化合物(4)
の化学構造に誤りがないと当業者が判断できるのであれば,図1や[化14]の記
載と表記上矛盾しないEAC(酢酸エチル・・・)との記載を,そこにだけ誤りが
存在すると当然理解するとはいえないし,後記のとおり,その正しい記載がアクリ
ル酸エチルであると直ちに理解することもできない。
エ請求人(原告)は,化合物(3)と反応するのはEACであることが理
解でき,【0034】の反応の種類がOH結合の切断を伴う反応で,化合物(3)及
び(4)の立体構造から一義的に定まると主張する。
しかしながら,[化14]スキームの記載には,各化学式のものがどの働きをして
いるか,その他の成分の関与がないか,その他の工程が存在していないかは特定し
て詳細に記載していないのであるから,その部分の本文における説明の記載から理
解するのが前提であって,甲1(特開2008-133275号公報),甲2(「マ
クマリー有機化学(中)」第4版(東京化学同人)650頁)を用いて,各物質の働
きを理解したり,反応機構を解釈した上で誤記の存在をたとえ理解できたと仮定し
ても,明細書の記載に明らかな誤記が存在していたとはいえない。
さらに,アルコールの反応機構に関するSN1,SN2に依拠した主張に至っては,
本願明細書にまったく該反応機構について記載がないから,そのような前提をおい
て論ずる主張を採用することはできない。
オ請求人(原告)は,反応剤が(EAC)であった場合に「酢酸エチル」
である場合には,化合物(4)が得られないと主張し,反応がカルボニル炭素の求
核反応であるという前提で,加水分解反応又はエステル交換反応のみであることが
技術常識であるとして,酢酸エチルが反応した場合に化合物(4)は得られないと
主張する。
しかしながら,一切反応機構の説明がない明細書の記載に基づき,明細書の記載
と関連付けられて記載されているわけではない参考資料等を参照しながら,一見し
て誤りが存在することが理解できない「EAC(酢酸エチル,804ml,7.2
8mol)」という記載のうち,「酢酸エチル」のみが誤記であることが,当業者に
一見して明らかであるとの主張を採用することはできないし,誤記の訂正を目的と
するものとして認められるために必要な,その正しい記載がアクリル酸エチルであ
ることが直ちに定まるとすることもできない。
カ請求人(原告)は,反応剤が,プロピオン酸エチル又はアクリル酸エチ
ルであることが自明であることを逆合成的考え方,オキサマイケル付加反応が出願
前当業者に知られていたことを主張し,甲3(N.Kuboderaら,Chem.Pharm.Bull.40
(6)1494-1499(1992))が本願明細書に先行技術として記載されており,アクリル酸
エチルでアルキル化して,エステル化した記載があることを主張し,22-オキシ
ビタミンD3類似体類の合成に関して,甲6(P.A.Leesonら,DrugsoftheFuture1996,
21(12):1229-1237),甲7(米国特許第5,436,401号明細書)を示して【0
034】の酢酸エチルが本来アクリル酸エチルを意図した誤記であることを主張し,
甲8(和光純薬工業株式会社,“アクリル酸エチル”,[online]),甲9(純正化学株
式会社,“製品規格書アクリル酸エチル”,[online]),甲10(和光純薬工業株式
会社,“酢酸エチル”,[online]),甲11(和光純薬工業株式会社,“酢酸エチル”,
[online]),甲12(純正化学株式会社,“製品規格書酢酸エチル”,[online]),甲
13(純正化学株式会社,“製品規格書酢酸エチル”,[online]),甲14(東京化
成工業株式会社,“Ethyl3-Chloropropionate”,[online]),甲15(東京化成工業株
式会社,“Ethyl3-Bromopropionate”,[online])を示して容量とモル数との関係から
正しい記載がアクリル酸エチルに定まると主張し,甲16(ActaChromatographica,
No.18,2007,219-225),甲17(NationalToxicologyProgram,“NTPReportonthe
AssessmentofContactHypersensitivitytoEthylAcrylateinFemaleB6C3F1Mice
(CASRN:140-88-5)”[online])を示して,「EAC」との略称がアクリル酸エチル
の略称として一般に用いられていたことを主張する。
しかしながら,請求人(原告)の主張は,多くの参考資料に基づき,それらの参
考資料の関係を,アクリル酸エチルであったと解釈した場合に矛盾がないことの説
明をしているだけで,本願明細書の記載を判断する場合に,請求人(原告)の主張
に沿って多くの参考資料によって解釈しなければならない理由はない。
そうすると,当業者が本願明細書の記載に接した場合に当然酢酸エチルが誤記で,
アクリル酸エチルが正しい記載であることを直ちに理解できるとはいえないから,
上記主張を採用することはできない。
そもそも,特許法施行規則24条で規定する明細書の記載は,様式29で定めら
れているところ,[備考]6において,「他の文献を引用して明細書の記載に代えて
はならない。」とされている。
キ請求人(原告)は,化合物(3)中の酸素に結合した炭素原子の立体化
学が化合物(4)で維持されていることから,EACの炭素原子を求核攻撃する反
応であることは自明で,逆合成的に考えると3位に脱離基を有するプロピオン酸エ
チル又はアクリル酸エチルであることは自明であると主張する。
しかしながら,【0034】の[化14]の反応スキームは反応の概要を示したも
のであり,明細書において,その反応スキームをどのような反応機構で行ったのか
の説明がない以上,【0034】自体の記載に基づいて解釈するのは当然であり,反
応スキームに書かれた工程のみである必要性がないのはもちろんのこと,反応機構
は一つに定まるとはいえない。
したがって,反応機構に関してEACの炭素原子への求核攻撃であるという前提
をおいて,逆合成的に反応剤の化学構造に解釈を加える請求人(原告)の主張は,
そこに正しい記載として何が一義的に定まるかという訂正要件の誤記の判断として,
アクリル酸エチルが記載されていたはずであるとはいえない。
ク請求人(原告)は,甲4(有機合成化学協会誌54巻2号139~14
5頁,1996年),甲5(C.F.Nisingら,Chem.Soc.Rev.,2008,37,1218-1228)
を示して,求核共役付加反応(オキサマイケル付加反応)が本件特許出願前広く知
られていたことを主張するが,求核共役付加反応が知られていたからといって,本
願明細書の特定の記載である[化14]がその反応機構で進行していたかどうかは
不明であり,アクリル酸エチルが記載されていたはずであるとの誤記の判断に関す
る主張としては,前提において失当であり,採用することはできない。
ケ請求人(原告)は,甲3が,本願明細書の先行技術文献名として記載さ
れていたことを挙げて,そこに記載された反応に用いられた反応剤であるアクリル
酸エチルが使用されたであろうと誰もが理解するとの主張や,甲6には,22-オ
キシビタミンD3類似体の合成に関して,アクリル酸エチルを用いた例,N,N-
ジメチルアクリルアミドを用いた例,1-ブロモ-3-ブテンを用いた例があり,
甲7でN,N-ジメチルアクリルアミドのルートが米国特許となっていること,甲
6のReferencesに甲3が記載されていることから,アクリル酸エチルを用いる甲3
の反応及び条件が広く知られていたと主張する。
しかしながら,これらの主張は,本願明細書の先行技術文献として文献名(甲3)
のみが記載されていたことを根拠として,その文献に関して本願明細書で具体的箇
所を何ら指摘されていない上に,[化14]のスキームとも出発物質が異なっている
記載内容を検討の前提とし,さらに他の文献で甲6,7をも併せて,当業者が直ち
に誤記の存在と正しい記載を認識するというものである。
一見して誤りが存在することは理解できず,関係する他の明細書の[合成例4]
の記載や図1との関係をみても,酢酸エチルという化合物名やEACという略称の
表記は一致していて,明らかな誤記が存在するとはいえない「EAC(酢酸エチル,
804ml,7.28mol)」という記載から,「酢酸エチル」が誤りで,正しい
記載が「アクリル酸エチル」に一義的に定まるとは到底いえず,請求人(原告)の
主張は採用できない。
コ請求人(原告)は,甲8~15を示して,市販品の純度,比重から計算
して,本願明細書の容量とモル数の関係を満たしているのは,アクリル酸エチルの
みで,酢酸エチル,3-クロロプロピオン酸エチル,3-ブロモプロピオン酸エチ
ルでは満たさないので,EACをアクリル酸エチルであると確信できると主張する。
しかしながら,主張の前提としている市販品をそのまま用いたことは何ら根拠が
ないもので,明細書に特別に記載がなく,モル数と容量が記載されていれば当業者
はそのような濃度の材料で処理が行われたことを理解するのであって,全く記載の
ない数種の市販品の値から純粋なものとして計算をし,それによって求めたモル数
の数値範囲に入る化合物として,アクリル酸エチルであればその関係を満たすとす
る請求人(原告)の主張は,前提において失当であり,誤記の判断に関する主張と
しては,採用することはできない。
サ請求人(原告)は,甲16,17を示して,「EAC」がアクリル酸エチ
ルの略称として使用されている事実を示し,正しい記載がアクリル酸エチルであれ
ば,【0034】,図1の記載とも整合すると主張する。
しかしながら,EACをアクリル酸エチルの略称として使用している例が存在す
るからといって,本願明細書では,EACを「酢酸エチル」と記載していることは
事実であり,アクリル酸エチルを(EA),酢酸エチルを(EAC)と請求人(原告)
の主張と異なる表記をしている例もあること(甲18,乙3,4)を考慮すると,
EACを「酢酸エチル」と表記したものが,誤記であり,「アクリル酸エチル」が正
しい記載であると当業者が当然に理解するとはいえない。
シしたがって,本件訂正は,特許法126条1項2号を目的とするものと
はいえない。
また,本件訂正は,特許された明細書,特許請求の範囲,又は図面中の記載との
関係で不合理はないのであるから,明瞭でない記載の釈明を目的とするものではな
く,特許請求の範囲の減縮,請求項の引用関係の解消を目的とするものでないこと
は明らかであるので,本件訂正は,同項に掲げるいずれの事項を目的とするものと
も認められない。
(2)新規事項について
ア仮に本件訂正が誤記の訂正を目的とするものであると認められる場合に
ついて,念のため検討すると,当初明細書等には,訂正しようとする「アクリル酸
エチル」の記載はもちろん,その化学式も全く存在していないことから,仮に何ら
かの誤記の存在が理解できた場合でも,正しい記載が自明な事項として定まるとは
いえない。
そして,明細書【0034】の[合成例4]化合物(4)の合成に関する記載は,
[化14]のスキームとそれに関する説明によって完結して記載されたもので,そ
の出発原料を「酢酸エチル」から全く記載のない「アクリル酸エチル」に変更する
ことは,当初明細書等の他の記載を総合的に勘案したとしても,新たな技術的事項
が導入されたものと判断すべきである。
イ請求人(原告)は,正しい記載がアクリル酸エチルであることは当業者
に自明に定まり,【0034】には,「アクリル酸エチル」が記載されているのと同
然であると誰もが理解すると主張する。
しかしながら,本件訂正は,略称の誤りを正す場合と異なり,明細書に化合物名
の記載も化学式も一切存在しない化合物名に,出発原料を変更するもので,その変
更しようとする化合物名の略称も一義的に正しい記載が定まるものではないもので
ある。
したがって,多くの参考資料を参照し,併せて検討することで,その記載がアク
リル酸エチルであったとした場合に矛盾がないといえたとしても,上記請求人(原
告)の主張は採用できず,本件訂正によって,新たな技術的事項が導入されたもの
と判断すべきである。
第3原告主張の審決取消事由
1取消事由1(目的要件の判断の誤り)
審決は,本件訂正が特許法126条1項2号の誤記の訂正を目的とするものとは
いえないと判断したが,誤りである。
当業者であれば,以下のとおり,本件明細書【0034】の「EAC(酢酸エチ
ル・・・)」という記載中の「酢酸エチル」が誤記であり,正しくは「アクリル酸エ
チル」であると理解するのが当然であるから,本件訂正は,誤記の訂正を目的とす
るものである。
(1)まず,本件訂正と本件発明との関係は,次のとおりである。
本件発明は,マキサカルシトール等の1α-2,5-ジヒドロキシ-22-オキ
シビタミンD3類似体の製造を容易にするための中間体として有用である,新規な
キラル化合物である化合物(2)及び化合物(3)(請求項1~4)並びにこの化合
物(3)の製造方法(請求項5~7)に関する。
これらの化合物(2)及び化合物(3)が,マキサカルシトール等の1α-2,
5-ジヒドロキシ-22-オキシビタミンD3類似体の合成に有用であることは,
それらの化学構造から当業者には明らかであるが,本件明細書の実施例には,本件
発明に係る化合物(2)及び化合物(3)を本件発明に係る方法で合成した実施例
([合成例2]及び[合成例3])に加えて,従来技術による方法で化合物(3)か
らマキサカルシトールを簡便に効率よく製造することができることを実証した実施
例([合成例4]~[合成例9])を記載している。
本件明細書の図1を用いて説明すると,赤枠で囲んだ部分には,本件特許の請求
項1~4の化合物(2)及び化合物(3)並びに請求項5~7の製造方法(化合物
(3)の製造方法)を示すスキームが記載されている。
そして,図1の赤枠で囲んだ部分以降,すなわち化合物(3)以降には,本件発
明に係る新規な中間体である化合物(3)に,ビタミンD類似体の製造の分野で周
知の官能基変換法を適用して,最終的にマキサカルシトールが得られることを実証
した実施例を示すスキームが記載されている。
このように,本件訂正に関連する【0034】に記載した化合物(3)から化合
物(4)への変換工程は,本件発明に係る新規な化合物(3)から出発して,従来
技術による方法でマキサカルシトールを合成するための最初の反応工程である。
(2)本件明細書の【0034】には,[合成例4]が記載され,化合物(3)か
ら化合物(4)への官能基変換反応が,[化14]のスキームと,用いた出発物質,
反応剤,反応条件等により具体的かつ詳細に記載されている。
この【0034】には,この反応に用いた試薬等が,EAC,50%NaOH溶
液(水溶液),トルエン及び(n-Bu)4HSO4であることが記載されているが,
トルエンは溶媒であり,(n-Bu)4HSO4は周知の相間移動触媒(甲1)であ
ることから,EACが反応剤であることは明らかである。したがって,「EAC(酢
酸エチル,804mL,7.28mol)」という記載中の「酢酸エチル」は,化合
物(3)から化合物(4)への官能基変換反応において側鎖を形成する反応剤であ
るEAC(略称で表された化合物)が指す化合物名として記載されている。
しかし,次のア~ウのとおり,CH3COOC2H5という化学構造を有する「酢
酸エチル」と,【0034】における「酢酸エチル」以外の他の記載から当業者が把
握する[化14]の反応との間には,当業者にとって一見して明らかな矛盾がある。
そして,【0034】の[合成例4]の記載を,[化14]のスキーム,次いで本
文の実験操作の記載の順に読んだ当業者であれば,「EAC(酢酸エチル・・・)」
という記載に不自然さを感じ,EACが酢酸エチルを指すならば[合成例4]の記
載どおり化合物(3)をEACと反応させても目的の化合物(4)が得られないこ
とに当然に気付き,「酢酸エチル」が誤記であることを直感的に理解する。
ア当業者であれば,CH3COOC2H5という化学構造を有する「酢酸エ
チル」と,これによりもたらされる化合物(4)の官能基との間で,技術常識に基
づけば炭素数の辻褄が合わないことが一見して認識される。化合物(3)から化合
物(4)になるには,化合物(3)のヒドロキシル基がエーテル化されて炭素数3
のカルボン酸エステル部分が導入されなければならないのに対し,酢酸エチルは,
炭素数2のカルボン酸エステルであって,炭素数が足りないからである。
イ【0034】の[化14]のスキームには,EACを反応剤とする化合
物(3)から化合物(4)への変換反応において,ビタミンD構造のC-20位炭
素(化合物(3)においてヒドロキシル基が結合している炭素)の立体が保持され
ることが記載されている。
そして,アルコールの反応は,C-O結合の切断を伴う反応とO-H結合の切断
を伴う反応の二つに分けることができるが(甲2),アルコール化合物をアルキル化
する反応において,ヒドロキシル基が結合している炭素原子の立体が保持されたア
ルキル化生成物を得るためには,反応の種類が,O-H結合の切断を伴う反応に限
定されることは有機化学における技術常識である。C-O結合の切断を伴う反応は,
-OHが脱離する反応となるところ,-OHが脱離する反応は,立体異性体の混合
物(ラセミ体)又は立体が反転した化合物を与え,C-20位の炭素の立体が保持
されないからである。
したがって,当業者には,C-20位の炭素の立体が保持されることから,【00
34】の反応の種類は,化合物(3)のC-O結合が保持されてO-H結合の切断
を伴って起こる反応,すなわち化合物(3)の-OHの酸素の非共有電子対が反応
剤(EAC)の炭素原子を求核攻撃することによって起こる反応に限定されること
が理解できる。
他方,酢酸エチルの化学構造はCH3C(=O)OEtであり,この構造中,酸
素の非共有電子対による求核攻撃を受け得る部位はカルボニル炭素のみであるから,
酢酸エチルが化合物(3)の求核攻撃を受けることになる場合に起こり得る反応は,
酢酸エチルのエステル交換反応又は加水分解反応のみである。【0034】の条件で
は,通常エステル交換反応は起こらないと考えられるが,たとえエステル交換反応
が起こったとしても,以下に示すとおり,化合物(3)のアセチル化合物が得られ
るのみであり,目的とする化合物(4)の基-O-CH2-CH2-C(=O)OE
tが得られないことは明らかである。
ウ【0034】には,「EAC(酢酸エチル・・・)」という記載の4行後
に,反応後の生成物の後処理の際に用いた溶媒として,略称で記載されていない「酢
酸エチル」が記載されている。また,【0028】~【0030】,【0032】,【0
034】~【0037】には,「酢酸エチル」という略称によらない記載が,実施例
を通して略称を用いることなく多数記載されている。これらの記載と,EACを「酢
酸エチル」の略称として用いる「EAC(酢酸エチル・・・)」という記載との間に
は,表記上の矛盾とまではいえないとしても,明らかな不自然さが存在し,何らか
の誤記の存在が示されている。
エなお,審決は,[化14]はスキームであって反応の概要を示すだけの記
載であるからその他の成分の関与やその他の工程が存在していないかが不明である
と判断した。しかしながら,【0034】の記載は,実施例についての記載であり,
実施例は,反応スキームと共に,当業者が技術常識に基づいてその反応例をそのま
ま追試可能となるように記載されるものである。[化14]のスキームを具体的にみ
ても,反応スキームと共に,原料及び生成物である化合物(3)及び化合物(4)
の化学構造と,その反応に用いる試薬,溶媒が完全に記載されている。本件明細書
の実施例全体をみても,各工程は1工程ごとに詳細に記載されており,記載内容が
欠けており不明確となっているという事情は存在しない。
また,審決は,甲1,2を用いて各物質の働きや反応機構を理解することによる
原告の主張や,アルコールの反応機構に関するSN1,SN2に依拠した原告の主張は
採用できないと判断した。しかしながら,甲1,2は,相間移動触媒及びアルコー
ルの反応機構という技術常識を当業者以外の者に説明するための証拠にすぎない。
本件訂正の場合,各物質の働きや反応機構や,アルコールの反応機構に関するSN1,
SN2に関する技術的事項は,当業者には説明するまでもなく明らかな事項であり,
[化14]のスキーム中の本来の意味内容を考えるときに,当業者であれば当然理
解する事項として考慮されるべきものである。
(3)本件明細書の【0034】の[化14]のスキームに記載された化合物(3)
及び化合物(4)の化学構造は,次のア,イのとおり,本件明細書全体の記載,既
知の化合物(1)の化学構造,最終生成物であるマキサカルシトールの化学構造,
化合物(2),化合物(3)及び化合物(5)の機器分析データ,各工程の官能基変
換に関する従来技術との関係からみて,当業者に正しいと理解される。
機器分析データによって化学構造の少なくとも特徴部分(可能であれば構造全体)
を確認することは,当業者の常とう手段であり,明細書等に記載された特徴的なシ
グナルに注目したり,構造既知の化合物のデータと照合したりして,化合物の化学
構造を決めることは,有機合成分野の当業者が日常的に行うことである。
しかし,仮に当業者が機器分析データを全て除外して,本件明細書を読んだとし
ても,本件明細書には,当業者が化合物(3)及び化合物(4)の化学構造が誤り
であると理解する何の合理的根拠も存在しない。構造既知の化合物(1)から構造
既知のマキサカルシトールまでの中間体である化合物(2),化合物(3),化合物
(4),化合物(5)の化学構造が正しいことは,当業者に十分に理解される。
ア当業者であれば,本件明細書の【0027】~【0032】の合成例1
~3の記載を読み,【0010】及び図2~7に掲載された機器分析データの特徴的
な部分を技術常識に基づいて読み取ることによって,【0034】の[化14]に記
載された化合物(3)の化学構造が正しいと理解するのが当然である。
すなわち,当業者は,化合物(3)の化学構造について,①合成例2において,
甲26に記載され,その化学構造が既知の化合物(1)から,ビタミンD骨格が保
たれたまま,意図した酸化的脱ホルミル化による-C(CH3)CHO基から-C
(=O)CH3基への変換が起こって化合物(2)が得られ,かつ,②合成例3に
おいて,ビタミンD骨格が保たれたままの化合物(2)から,意図した還元による
-C(=O)CH3基から-CH(OH)CH3基への変換が起こって化合物(3)
が得られたことが,本件明細書の【0010】及び図2~7に記載された化合物(2),
化合物(3),及び化合物(3)の20R-異性体の1
H-NMR及び13
C-NMR
データによって裏付けられることから,正しいと理解する。
(ア)【0010】及び図6の1
H-NMRデータは,化合物(3)の構造
を明確に裏付けている。以下に示すとおり,有機化学の当業者であれば,この1

-NMRスペクトル上の特徴的なシグナルを,【0034】の[化14]のスキーム
に記載された化合物(3)の化学構造に存在する水素原子に帰属させることが容易
にできるからである。
すなわち,当業者であれば,化合物(3)についての1
H-NMRデータの特徴
部分を解析して,①オレフィン炭素上の水素原子4つの存在(図中に示したa~d),
②酸素原子が結合した炭素上の水素原子(>CH-O-)2つの存在(e及びf),
③5員環又は6員環炭素上の18個の水素原子の存在(2.84ppm~1.59
ppm),④-CH(OH)CH3基のメチル基の水素原子の存在(g),⑤-O-
tert-ブチルジメチルシリル基(-OTBDMS)のtert-ブチルの9H
分及びジメチルの6H分の水素原子の存在(h及びj),⑥炭素環の架橋位のメチル
基の水素原子の存在(i)を確認することができる。このうち,図中に示したa~
d,e,f,g,h及びjのシグナルにより,化合物(3)に存在するビタミンD
骨格が十分に特徴付けられている。特に,a~dの特徴的なシグナルにより,ビタ
ミンD類のトリエン構造が確認される。5員環又は6員環炭素上の水素原子につい
ては,シグナルが重なっているが,全体のパターンがビタミンD類のその部分のパ
ターンに類似していることが確認される。当業者であれば,化合物(3)の全ての
水素原子が,【0034】の[化14]のスキームに記載された化合物(3)の化学
構造を支持する位置にシグナルを有していることを理解する。
(イ)化合物(3)についての13
C-NMRデータ(【0010】及び図7)
をみると,δ値の高い順から六つのシグナル(δ値が100より高いシグナル)が,
ビタミンDのトリエン構造(アルケン部分)を特徴付けている。さらに,アルケン
炭素に続くシグナルによって,δ値が概略で高い順に,第三級炭素,置換基を有す
る第二級炭素,第二級炭素,第一級炭素の存在が確認される。
そして,シグナルの数(炭素数に関連する数;13
C-NMRスペクトルでは,全
ての炭素のシグナルが得られるが,シグナルが偶然重複する場合や,周囲の化学的
環境が同じため磁気的に等価となる炭素のシグナルが1本となる場合等があり,シ
グナルの数は必ずしも炭素数に一致しない。)から,【0034】の[化14]のス
キームに記載された化合物(3)の化学構造に矛盾がないことが確認される。シグ
ナルの数を具体的にみると,化合物(3)の13
C-NMRデータから観測されたシ
グナルの数は24であり,【0010】には24個のシグナルと,数値(ケミカルシ
フト値)が記載されているところ,この24から,①図7の13
C-NMRチャート
で極めて強度が小さいノイズであることが明らかな14.1ppmのシグナルを除
き,②【0010】にその数値が記載されてはいないものの,図7で-4ppmに
認められるシグナル(Si-CH3基に基づくシグナル)を加えた数である24は,
【0034】の[化14]のスキームに記載された化合物(3)の化学構造が有す
る炭素数27から,tert-ブチルジメチルシリル基の炭素が2本のシグナルに
なる(tert-ブチルジメチルシリル基は,その五つの炭素のうち,tert-
ブチル部分の三つのメチル炭素及びジメチル部分の二つのメチル炭素がそれぞれ等
価であるため,13
C-NMRで観測されるシグナルは2本となる。)ことにより見
かけ上減るシグナル数3を引いた数に相当する。したがって,この13
C-NMRデ
ータから読み取った化合物(3)のシグナル数24は,【0034】の[化14]の
スキームに記載された化合物(3)の化学構造中の炭素数を支持している。
(ウ)前記(ア)及び(イ)のとおり,当業者であれば,【0010】,図6及び図
7の化合物(3)の1
H-NMR及び13
C-NMRデータから,【0034】の[化
14]のスキームに記載された化合物(3)の化学構造に矛盾がないことを確認す
る。
そして,当業者であれば,化合物(3)の化学構造中に四つ存在する不斉炭素の
立体配置を含めた,化合物(3)の化学構造を,更に以下の事項から確認すること
ができる。
(エ)化合物(2)を得る工程である合成例2の官能基変換についてみると,
【0028】及び【0029】から,室温又は40℃における温和な条件下,収率
67%という高い収率で,公知の化合物(1)から化合物(2)が得られたことが
分かる。
そして,化合物(2)の1
H-NMRデータ及び13
C-NMRデータ(【0010】,
図2及び図3)を見ると,化合物(1)の-C(CH3)CHO基のアルデヒド(-
CHO)の1
H-NMRシグナルが消失したことが,9~10ppmにシグナルが
存在しないことにより確認される。また,得られた化合物(2)が-C(=O)C
H3基を有することが,1
H-NMRのシグナル(2.06ppm(3H,s))及
び13
C-NMRのシグナル(208.6ppm)によって確認される。さらに,ビ
タミンD骨格を裏付けるシグナルも,化合物(3)と同様に確認される。
したがって,当業者であれば,合成例2において,意図した酸化的脱ホルミル化
による-C(CH3)CHO基から-C(=O)CH3基への官能基変換が起こった
ことを理解する。
(オ)次に,化合物(2)から化合物(3)を得る工程である合成例3の官
能基変換についてみると,【0030】~【0033】から,水素化ホウ素ナトリウ
ム又はリチウムアルミニウムハイドライドを用いる周知の還元条件で,化合物(2)
から二つの生成物を得られたことが分かる。これらの還元剤は,ケトン等のカルボ
ニル基(>C=O)をアルコール(>CH-OH)に還元する周知の還元剤であり,
化合物(2)の-C(=O)CH3基が還元されて-CH(OH)CH3基が生じ,
互いにC-20位がS-形であるかR-形であるかのみが異なるジアステレオマー
異性体が得られたことが分かる。
化合物(2)及び化合物(3)の1
H-NMRデータ(【0010】)を比較する
と,以下のとおり(上段が化合物(2)のデータ,下段が化合物(3)のデータで
ある。),化合物(2)では,酸素原子が結合した炭素上の水素原子(>CH-O-)
に帰属されるシグナルが一つ(3.82(1H,m);-OTBDMSが結合してい
るビタミンD骨格のC1位の炭素原子上の水素原子)だけであったのに対し,化合
物(3)では,二つ(3.83(1H,m),3.68(1H,m))(前記(ア)のe
及びfのシグナル)になったことが確認され,3.68(1H,m)が化合物(3)
の新たに生じた-CH(OH)CH3基の>CH-O-部分に帰属されることが確
認される。加えて,化合物(2)の-C(=O)CH3基の水素原子に帰属される
特徴的な2.06(3H,s)のシグナルが化合物(3)では消えたことが確認さ
れる。
さらに,化合物(2)及び化合物(3)の13
C-NMRデータ(【0010】)を
比較すると,以下のとおり(上段が化合物(2)のデータ,下段が化合物(3)の
データである。),化合物(2)の-C(=O)CH3基のカルボニル基(>C=O)
の炭素原子に帰属される208.6ppmのシグナルが化合物(3)では消失した
一方,化合物(3)には化合物(2)にはなかった70.1ppmのシグナルが出
現しており,このシグナルが,還元により生じた-CH(OH)CH3基の>CH
-O-部分の炭素原子に矛盾なく帰属されることが確認できる。
したがって,当業者であれば,合成例3において,本件明細書に記載した化合物
(2)から化合物(3)への所望の反応が起こり,意図した還元による-C(=O)
CH3基から-CH(OH)CH3基への変換が起こったことを理解する。
(カ)続いて,ビタミンD骨格について検討する。化合物(2),化合物(3),
及び化合物(3)の20R-異性体の1
H-NMR及び13
C-NMRデータを比較
すると,いずれの化合物も,化合物(3)の1
H-NMRにおける特徴的なシグナ
ルとして前記(ア)に示したa~d,e,f,g,h及びjのシグナルに相当するシグ
ナルを全て有し,化合物(3)の13
C-NMRのシグナルに相当するシグナルをほ
とんど有していることが確認される。合成例2及び3の温和な条件及び高い収率,
最終的にマキサカルシトールが得られていることを考慮すると,合成例2及び3に
おいて化合物(1)からのビタミンD骨格が保たれたままであったことが理解でき
る。
このように,当業者であれば,構造既知の化合物(1)から化合物(2)への変
換(合成例2),及び化合物(2)から化合物(3)の二つの異性体への変換(合成
例3)において,本件出願日前に既知の化合物(1)が有していたビタミンD骨格
がその三つの不斉炭素原子の立体配置を含めて維持されたまま,合成例2及び3で
意図された官能基変換が起こって化合物(3)が得られたことを理解する。
(キ)化合物(3)の20位がS-形であることは,化合物(3)から,途
中でキラルな反応剤を用いたり,ジアステレオマー異性体の分離をすることなく,
各工程において高い収率で,20位が同じくS-形であるマキサカルシトールが,
実際に合成できたことから,当業者に明らかである。本件明細書の【0023】及
び【0031】並びに請求項5に記載された化合物(3)の化学構造は,C-20
位がS-形である。化合物(3)のC-20位がS-形であることが本件発明の特
徴であることは,当業者に明らかに記載されている。
(ク)化合物(3)の20R-異性体については,質量分析がされており,
その結果によっても化学構造が裏付けられている。これは,同じ分子量を有するジ
アステレオマー異性体である化合物(3)の化学構造をも更に裏付けるものである。
イ当業者であれば,以下のとおり,化合物(3)及び化合物(5)の化学
構造と,【0035】の合成例5の記載から,合成例4の[化14]のスキーム及び
合成例5の[化15]のスキームに共通して記載された化合物(4)の化学構造が
正しいことを理解する。
(ア)化合物(3)及び化合物(5)の1
H-NMRデータを比較すると,
以下のとおり(上段が化合物(3)のデータ,下段が化合物(5)のデータである。),
化合物(5)の1
H-NMRデータでは,化合物(3)から化合物(5)への変換
により,化合物(3)に存在していたシグナルに相当するシグナルに加えて,酸素
原子が結合した炭素上の水素原子(>CH-O-)の存在が想定される領域に二つ
の新たなシグナル(3.46(1H,m)及び3.23(1H,m))と,-C(C
H3)2OH部分のメチル基の水素原子の存在が想定される領域に一つの新たなシグ
ナル(1.21(6H,m))とが出現したことが確認される。これらの新たなシグ
ナルは,化合物(3)から化合物(5)への変換により導入された-OCH2CH2
C(CH3)2OH基の,それぞれ-OCH2-部分及び-C(CH3)2-部分の水
素原子に帰属される。加えて,化合物(5)の1
H-NMRデータには,化合物(3)
の1
H-NMRにおけるビタミンD骨格に特徴的なシグナルとして前記ア(ア)のa
~d,e,f,g,h及びjのシグナルに相当するシグナルが全て存在する。
(イ)化合物(3)及び化合物(5)の13
C-NMRデータをδの値の高い
方から順に照合していくと,以下のとおり(上段が化合物(3)のデータ,下段が
化合物(5)のデータである。),化合物(3)から化合物(5)への変換により,
化合物(5)のデータにおいて,化合物(3)に存在していたシグナルに相当する
シグナルに加えて,78.9ppm,65.5ppm,41.5ppm及び29.
3ppmの四つの新たなシグナルが出現したことが分かる。【0035】の[化15]
のスキームに記載された化合物(5)の化学構造によると,化合物(3)から化合
物(5)への変換により-OCH2CH2C(CH3)2OH基に基づく四つのシグナ
ルが加わることが予測される(化合物(3)から化合物(5)への変換により増加
する炭素数は五つであるが,末端のメチル基二つはシグナルが極めて近い可能性が
高いため四つ加わることが予測される。)。したがって,当業者は,新たに出現した
シグナルの数が化合物(5)に導入された-OCH2CH2C(CH3)2OH基の構
造を支持していることを理解する。
また,当業者であれば,化合物(3)から化合物(5)への変換により化合物(5)
の13
C-NMRデータに新たに出現した上記四つのシグナルを,公知のマキサカル
シトールの13
C-NMRデータと照合することもできる。例えば,甲30に記載さ
れたマキサカルシトールの1
H-NMR及び13
C-NMRデータは,以下のとおり
である。
甲30には,13
C-NMRデータがシグナルの帰属と共に記載されており,ビタ
ミンD骨格のC23位~C27位に相当する-OCH2CH2C(CH3)2OH部分
の炭素のシグナルが,70.52(C-25),65.55(CH2-23),41.
47(CH2-24),29.24(CH3-26),29.10(CH3-27)と
記載されている。このデータと照合することにより,化合物(3)から化合物(5)
への変換により化合物(5)の13
C-NMRデータに新たに出現した78.9pp
m,65.5ppm,41.5ppm及び29.3ppmの四つのシグナルが,-
OCH2CH2C(CH3)2OH基に帰属されるシグナルであることを確認すること
もできる。
(ウ)前記(ア)及び(イ)のとおり,当業者であれば,化合物(3)及び化合物
(5)の1
H-NMR及び13
C-NMRデータの照合により,ビタミンD骨格が保
たれたまま,化合物(3)から出発して合成例4及び5の2段階の反応によって意
図された官能基変換が起こった結果,【0035】の[化15]に記載された化学構
造を有する化合物(5)が得られたことを理解する。
(エ)ビタミンD類似体の合成の分野において,二酸化セレンによってトリ
エン構造のエキソ二重結合に隣接した炭素原子をヒドロキシル化する反応,ter
t-ブチルジメチルシリルオキシ基をヒドロキシ基にする脱保護反応,及び光照射
によってトリエン構造の中央の二重結合をEからZに異性化させる異性化反応は,
周知の反応であって,反応条件が確立されている(例えば,甲26のPreparation1
のcompound4の合成(第18欄),Preparation54のcompound54の合成(第27欄),
EXAMPLE4のcompound58の合成(第28欄))。
当業者であれば,合成例6~8のスキームに示されている各反応が,従来技術に
よる公知の官能基変換反応であることと,化合物(5)からマキサカルシトールが
実際に得られたという【0036】~【0039】からも,【0035】の[化15]
に記載された化合物(5)の化学構造が正しいことを理解する。
すなわち,当業者であれば,合成例6~8で化合物(5)からマキサカルシトー
ルが従来技術と同様の方法で得られたことから,公知の反応を逆にたどってみるこ
とによっても,マキサカルシトールの化学構造から,【0035】の[化15]に記
載された化合物(5)の化学構造が正しいことを理解する。
(オ)化合物(4)から化合物(5)を得る工程である合成例5の官能基変
換についてみると,【0035】から,メチルマグネシウムクロライド(CH3Mg
Cl)を用いる周知のグリニャール反応によって化合物(4)から化合物(5)が
高い収率で得られたことが分かる。カルボニル化合物へのグリニャール試薬の付加
によるアルコールの合成は技術常識であるから(甲31),当業者であれば,メチル
マグネシウムクロライド(グリニャール試薬)を用いる合成例5の反応が,化合物
(4)の側鎖のカルボニル基へのメチル基の付加によるアルコールの生成反応であ
ることを容易に理解する。
ここで,ケトンは,一般に,1当量のグリニャール試薬と反応して,グリニャー
ル試薬に由来する一つのアルキル基を有する第三級アルコールを与え,エステルは,
一般に,2当量のグリニャール試薬と反応して,グリニャール試薬に由来する二つ
のアルキル基を有する第三級アルコールを与える(甲31)。
したがって,仮に合成例5の[化15]のスキームに化合物(4)の化学構造が
全く記載されていなかったとしても,合成例5では,メチルマグネシウムクロライ
ドが用いられていることと,-OCH2CH2C(CH3)2OH基を有する化合物(5)
が得られていることから,メチルマグネシウムクロライドによって新たなメチル基
が付加されるという反応の理解によれば,合成例5の化合物(4)から化合物(5)
への官能基変換が,側鎖の末端部分の以下のいずれか
,又は
の変換であったことは,当業者に明らかである。すなわち,合成例5の記載から,
化合物(4)の側鎖部分の基は,-OCH2CH2COOR基(エステル含有基,R
はアルキル基)又は-OCH2CH2COCH3基(メチルケトン含有基)であると
当業者に理解される。
【0035】の[化15]のスキームには,-OCH2CH2COOEt基(エス
テル含有基,Rはエチル基)を有する化合物(4)の化学構造が記載されており,
その末端部分は上記技術常識から導かれる構造と整合しているから,記載された化
合物(4)の化学構造に誤りがあると当業者が考える根拠はない。また,化合物(4)
の基が-OCH2CH2COOEt基(エステル含有基)である場合には,化合物(5)
が得られるためにはメチルマグネシウムクロライドが2当量以上用いられる必要が
あるが,合成例5では3当量用いられているから,この点でも矛盾がない。
なお,化合物(4)の側鎖部分が,-OCH2CH2COOEt基ではなく,-O
CH2CH2COOR基(Rはエチル基以外)又は-OCH2CH2COCH3基であ
るとすると,【0034】(合成例4)の反応の反応剤がアクリル酸エチルと異なる
ものとなるが,その場合には,その反応剤は,【0034】の「EAC(・・・,8
04mL,7.28mol)」という記載の体積とモル数の関係と整合しなくなるし,
「EAC」という略称とも整合しなくなる。
(4)本件明細書には,「アクリル酸エチル」という文言の記載はないが,当業者
であれば,次のア~オのとおり,【0034】の「酢酸エチル」という記載以外の記
載及び技術常識から,訂正前の記載である「EAC(酢酸エチル,804mL,7.
28mol)」という記載のうち,反応剤であるEACが指す化合物は「酢酸エチル」
ではなく「アクリル酸エチル」であり,この誤りが略称に対応させるべき化合物名
の誤記により生じたものであると理解するのが当然である。
ア前記(2)イのとおり,当業者には,C-20位の炭素の立体が保持される
ことから,【0034】の反応の種類は,化合物(3)のC-O結合が保持されてO
-H結合の切断を伴って起こる反応,すなわち化合物(3)の-OHの酸素の非共
有電子対が反応剤(EAC)の炭素原子を求核攻撃することによって起こる反応(下
図参照)に,明らかに限定されることが理解できる。
(式中、Rは、基を表す)
加えて,【0034】の[化14]のスキームには,EACを反応剤とする化合物
(3)から化合物(4)への変換反応において,化合物(3)の-OHが化合物(4)
の-OCH2CH2COOC2H5に官能基変換されることが記載されている。すなわ
ち,【0034】の反応剤は,化合物(3)の側鎖に炭素数3のカルボン酸のエチル
エステル部分(-CH2CH2COOC2H5)をもたらし得る化学構造を有する化合
物でなければならない。
【0034】の記載から自明な上記反応の種類及び上記反応剤の種類を理解する
当業者にとっては,【0034】には,実質的に以下の反応
が記載されているのと同然である。
ここで,この場合に考えられる-OH基の酸素による求核攻撃反応の類型は,こ
の反応によって生成物中に形成される側鎖の構造が-CH2CH2COOC2H5と
いう具体的な基に限定されていることから,置換反応(生成物及び副生成物の2分
子が生成する反応)又は付加反応(生成物の1分子のみが生成する反応)に限られ
る。
そうすると,当業者にとっては,以下の反応
が記載されているのと同然である。すなわち,当業者であれば,【0034】に実質
的に記載された上記反応が求核置換反応である場合には,3位に脱離基を有するプ
ロピオン酸エチルが反応剤となり,上記反応が求核付加反応である場合には,アク
リル酸エチルが反応剤となることを当然に理解する。
このように,当業者は,【0034】に記載されたC-20位の炭素の立体化学及
びこの反応によって生成物中に形成される側鎖の化学構造から,【0034】の反応
のための本来の正しい反応剤が,3位に脱離基を有するプロピオン酸エチル又はア
クリル酸エチルに限定されることを理解する。
なお,3位に脱離基を有するプロピオン酸エチルへのアルコールの置換反応は,
極めて一般的な反応であり(例えば甲4),アクリル酸エチルへのアルコールの付加
反応は,オキサマイケル付加反応として本件特許の出願日前から知られている(例
えば甲5)。
イ【0034】には,「EAC(酢酸エチル,804mL,7.28mol)」
と記載されているから,前記アのとおり,酢酸エチルが誤記であることに気付き,
正しい反応剤が3位に脱離基を有するプロピオン酸エチル又はアクリル酸エチルに
限定されることを理解した当業者であれば,略称EACに対する正しい反応剤がい
ずれであるかを判断するために,上記記載における反応剤の体積とモル数の関係(8
04mLが何molに相当するか)を検証してみることに想到する。液体の有機化
合物は,市販品であればその比重データは容易に入手でき,体積と比重(又は密度)
から所定の体積の質量が分かり,その化合物の分子量が分かればそれに対応するモ
ル数が分かるので,EACがアクリル酸エチルであるか,3位に脱離基を有するプ
ロピオン酸エチルであるかを容易に判断できるからである。
酢酸エチル,3位に脱離基を有するプロピオン酸エチル,アクリル酸エチルにつ
いて,純度が100%であるとして,804mLが何molに相当するかを計算し
た結果は,次のとおりであり,当業者は,アクルリ酸エチルであれば【0034】
記載の体積とモル数の関係を満たすが,酢酸エチル,脱離基を有するプロピオン酸
エチルエステルの場合には【0034】記載の体積とモル数の関係から大幅に外れ
ることを簡単に確認することができる。
反応剤密度
(g/mL)
分子量密度及び分
子量の根拠
804mLが何
モルに相当す
るか(mol)
0034の記載
との合致の程
度(%)
(0034の記載)7.28100
酢酸エチル0.9088.11甲第11号証8.21113
アクリル酸エチル0.92100.12甲第8号証7.39102
3-クロロプロピオ
ン酸エチル
1.10136.58甲第14号証6.4889
3-ブロモプロピオ
ン酸エチル
1.42181.03甲第15号証6.3187
したがって,【0034】の記載から正しい反応剤が3位に脱離基を有するプロピ
オン酸エチル又はアクリル酸エチルに限定されることを理解した当業者であれば,
【0034】記載の体積とモル数の関係から,正しい反応剤が「酢酸エチル」では
なく「アクリル酸エチル」であることを容易に理解する。
ウ本件明細書の【0003】の最終行には,本件発明の技術分野における
先行技術として,甲3が記載されているが,この甲3は,1α-2,5-ジヒドロ
キシ-22-オキシビタミンD3類似体の合成を開示する文献として,本件明細書
の【背景技術】において唯一引用されている文献である。したがって,甲3は,化
合物(3)に従来技術を適用して1α-2,5-ジヒドロキシ-22-オキシビタ
ミンD3類似体の一つであるマキサカルシトールを合成可能であることを実証する
ための最初の工程である【0034】に記載の反応と関連して記載されているとい
うことができる。「酢酸エチル」は誤記ではないかとの疑問を抱き,【0034】記
載の反応を理解しようとする当業者であれば,【0034】記載の反応が甲3に開示
された合成法による可能性が高いと考えるのが当然である。
そして,甲3には,以下のスキーム
が記載されている。このスキームは,反応に関与する-OH基周辺の化学構造が本
件明細書の化合物(3)に類似した構造を有する化合物(11)と,アクリル酸エ
チルとが反応して,化合物(11)の-OHが化合物(12)の-O-CH2-C
H2-C(=O)OEt基に変換されることを示している。この甲3の実験の部を
みると,化合物(11)から化合物(12)への変換反応が,トルエン,相間移動
触媒,50%NaOH水溶液を用い,室温で行われたことが詳細に記載されている。
この反応条件が,本件明細書の【0034】記載のEAC(反応剤),50%NaO
H溶液(水溶液),トルエン,及び(n-Bu)4HSO4を用い,室温で行う反応
条件に酷似していることは,当業者に明らかである。甲3をみた当業者であれば,
【0034】記載の反応では,甲3の化合物(11)から化合物(12)への合成
法が適用されていることを容易に理解する。
したがって,【0034】の記載から正しい反応剤が3位に脱離基を有するプロピ
オン酸エチル又はアクリル酸エチルに限定されることを理解した当業者であれば,
前記イの反応剤の体積とモル数の関係を確認しなくても,本件明細書の【0003】
記載の甲3の内容から,EACが指す正しい反応剤が「酢酸エチル」ではなく「ア
クリル酸エチル」であることを容易に理解する。
エ本件明細書の【0002】~【0005】記載のとおり,広く治療に用
いられている重要な医薬であるマキサカルシトールを含む22-オキシビタミンD
類似体類の合成に関しては,本件出願日前から数多くの研究が報告されていた。
本件明細書記載の文献ではないが,例えばP.A.Leesonらによる22-オキシビタ
ミンD類似体類の総説(甲6)には,以下のスキーム
により,ビタミンD類似体の20位に相当する炭素原子に置換した-OHをエーテ
ル化して側鎖を形成する際に,反応剤として,アクリル酸エチル(ⅩⅠⅠⅠ)又は
N,N-ジメチルアクリルアミド(ⅩⅤ)を用いた付加反応の例,及び1-ブロモ
-3-ブテン(ⅤⅠⅠⅠ)を用いた置換反応の例が紹介されている。
甲6は総説であり,ビタミンD類似体の20位に相当する炭素原子に結合した-
OHをエーテル化して側鎖を形成する工程において,脱離基を有する化合物への求
核置換反応又はα,β-不飽和カルボニル基を有する化合物へのオキサマイケル付
加反応を用いることが本件出願日前に既に常法であったことを示している
なお,この甲6のアクリル酸エチル(ⅩⅠⅠⅠ)を反応剤として用いるルート(付
加型反応)の元文献は,甲3であり,本件出願日から18年も前である1992年
に公開されていた。また,この甲6のN,N-ジアルキルアクリルアミド(ⅩⅤ)
を反応剤として用いるルート(付加型反応)は,本件出願日から15年も前である
1995年に米国で特許されており,本件出願日にはこの分野では広く知られてい
た(甲7)。
したがって,当業者であれば,「EAC」が酢酸メチルであるという本件明細書の
記載は明らかな誤記であり,この分野で広く知られていた-OH基をアクリル酸エ
チルでエーテル化して側鎖を形成する付加反応を想起して,「EAC」で表される正
しい反応剤がアクリル酸エチルであると理解する。
オ「EAC」という略称は,本件出願日前の刊行物,公的機関による文書
などにおいて,酢酸エチルの略称として使用されていた(甲16,17)。
「EAC」という略称は,アクリル酸エチルを英語で表記すると「EthylA
crylate」であるため,正しい記載が酢酸エチルではなくアクリル酸エチル
ではないかと当業者は容易に気付き,【0034】に存在する誤記が,略称に対応さ
せるべき化合物名の誤記であると確信し理解する。
なお,「EAC」という略称が酢酸エチルの略称として使用されている例が存在す
るとしても(甲18),【0034】の反応を起こすための反応剤として酢酸エチル
が機能しないことを理解する当業者の上記理解に何らの影響を及ぼすものでもない。
2取消事由2(新規事項追加の判断の誤り)
審決は,本件訂正によって,新たな技術的事項が導入されたと判断したが,誤り
である。
前記1のとおり,本件訂正は,当業者が技術常識からみて「アクリル酸エチル」
の明白な誤記であると理解する「酢酸エチル」という記載を,当業者が本来の正し
いものであると理解する「アクリル酸エチル」という記載に改めるものであって,
新たな技術的事項を導入するものではない。
第4被告の主張
1取消事由1(目的要件の判断の誤り)に対し
(1)明細書の誤記を目的とする訂正が認められるための判断基準は,審決記載
のとおり,特許がされた明細書の記載に誤記が存在し,それ自体で又は明細書又は
図面の他の記載との関係で,誤りであることが明らかであること,かつ,正しい記
載が願書に最初に添付した明細書,特許請求の範囲又は図面から自明な事項として
定まることが必要であり,「誤記」というためには,訂正前の記載が誤りで訂正後の
記載が正しいことが,当該明細書及び図面の記載や当業者の技術常識などから明ら
かで,当業者であればそのことに気付いて訂正後の趣旨に理解するのが当然でなけ
ればならない,というものである。
このような判断基準を前提とすると,明細書における訂正前の記載が一見して誤
りであると理解でき,訂正後の記載が正しい記載として一義的に定まるといえるの
であれば,その訂正は,誤記の訂正を目的とするものといえる。
これに対して,原告は,審決は,当業者であればその記載をどのような趣旨とし
て理解するかを十分に考慮していないとか,正しい記載が当初明細書等の記載から
自明な事項として定めるか否かを当初明細書等の表記のみに基づいて判断し,当業
者であればその記載をどのような趣旨として理解するかを十分考慮せずに判断をし
たとか,当業者が技術常識に基づいて当初明細書等の記載内容をどのような趣旨と
して理解するかを考慮しないで誤記に関する判断をしたなどと主張する。
しかしながら,審決は,上記判断基準に従って,原告から提出された参考資料も
検討した上で,当業者の立場から,「酢酸エチル」の箇所が一見して誤りであると理
解でき,訂正後の「アクリル酸エチル」が正しい記載として一義的に定まるとはい
えないと判断したものであり,当初明細書等の表記のみに基づいて判断したもので
はない。
また,その判断に当たっては,誤りであることが明らかな箇所が定まれば,その
誤りの記載の本来の記載を解釈するために,明細書における前後の記載やその記載
に関係した技術常識を参酌することは許容される余地があるものの,原則として,
明細書の記載に基づいて判断されるものであり,技術常識の名を借りて,周知技術
であるからといって,明細書の記載を離れて,種々の周知技術を解釈に用いて明細
書に記載のない事項を導いてよいわけではない。
そのことは,明細書の内容を信じる第三者との公平性の観点からも整合するもの
で,記載自体に変動が生じた場合に不特定多数の一般第三者に影響を及ぼす弊害を
防止することを考慮し,明細書の表示を信頼する第三者の利益を保護するために訂
正の範囲を最小限のものとしている訂正審判制度の趣旨とも合致するものである。
(2)原告は,【0034】の「EAC(酢酸エチル,804ml,7.28mo
l)」という記載中の「酢酸エチル」という記載は,【0034】の「酢酸エチル」
以外の他の記載との関係で,酢酸エチルでは目的とする反応が達成し得ない化学構
造を有する化合物であるため,技術常識からみて明らかに誤りであることを当業者
は理解するなどと主張する。
しかしながら,[合成例4]の記載内容と[化14]のスキームの表示とは,一見
して不一致となる記載がなく,また,「EAC」は酢酸エチルの略称として使用され
るものであることから(甲18,乙1,2,5,6),「EAC(酢酸エチル,80
4ml,7.28mol)」という記載自体に不自然な点はない。したがって,明細
書全体に誤記がないことが当然あるという前提に立てば,本件明細書における訂正
前の記載に一見して何らかの誤記があることに気付くとはいえない。
また,そもそも,本件明細書における訂正前の記載に誤記が存在せず,反応剤を
スキームから書き漏らした可能性も考えられるのであるから,スキームの記載に一
見して何らかの誤記があることに気付くわけでもない。
さらに,[化14]の化合物(3)は新規な中間体であるから,反応工程そのもの
も新規なものといえるので,酢酸エチルが用いられていることを当業者が一見して
誤記であると理解するとはいえないし,従来の技術常識を参酌できるともいえない。
(3)原告は,化合物(3)及び化合物(4)の化学構造が正しい場合には,E
ACが指す化合物名が酢酸エチルであるとすると,酢酸エチルを反応させることに
矛盾が生じることを示そうとしているようである。
しかしながら,当業者は,原則として明細書の記載を正しいものとして,記載ど
おり理解するのであり,誤記が明細書全体のどこにもないことも当然にある。
そして,そもそも,スキームは,化学反応の概要を示したものにすぎないから,
[化14]のスキームに全ての反応工程及び関与成分が記載されているとは限らな
いし,反応剤を書き漏らしたことも当然あり得るのであるから,化合物(3)及び
化合物(4)の化学構造が正しいからといって,酢酸エチルが当然に誤記となるわ
けではない。
また,明細書における特定の記載が明らかな誤記として,当業者がそのように当
然理解するかどうかは,原則として,明細書の記載に基づいて判断されるものであ
り,明細書に直接記載がない他の文献(甲1,2)や,単に化合物(3)及び化合
物(4)の化学構造と共通する部分があるにすぎない別の化合物が記載された文献
(甲3)は,化合物(3)及び化合物(4)の化学構造が正しかった(その記載部
分に誤記がなかった)ことの直接の証拠になるとはいえない。
(4)原告は,NMRデータが化合物の化学構造と一致していることを示して,
化合物の構造式が正しい(その部分に誤記がない)ことを結論付けようとしている
ようであるが,NMRデータが化合物の化学構造と実際に一致しているかどうかは
さておき,たとえ一致していたからといって,化合物の構造式やNMRデータが誤
って記載されていないかどうかは不明であるから,それらの部分に誤記が存在して
いないとはいえない。
NMRデータは,化合物の化学構造を分析するための手段であって,両者が整合
することによって,記載自体が誤記でないかどうかが結論付けられるものではない。
(5)原告は,機器分析データによって化学構造の少なくとも特徴部分(可能で
あれば構造全体)を確認することは,当業者の常とう手段であり,明細書等に記載
された特徴的なシグナルに注目したり,構造既知の化合物のデータと照合したりし
て,化合物の化学構造を決めることは,有機合成分野の当業者が日常的に行うこと
である旨主張する。
しかしながら,文献にNMRデータがあることによって,実際に何らかの化合物
が合成され分析されたものであると理解することができても,そのデータが正しい
測定結果を表していない可能性があるし,また,そのデータにより,その化合物の
化学構造が一義的に決定されたものとして理解できるかどうかは,分析結果の解析
を進めることによって理解できることであって,当業者であっても一見して分かる
ものではない。
ましてや,明細書の記載中に誤記が存在しているかどうかも含めて,不明な状況
において,誤記の存在や箇所を特定するステップにおいて,各NMRデータを解析
して,その箇所が正しい記載であることを判断して,その他の箇所に誤記があるこ
とを想定して探求し,誤記の存在の有無や誤記の存在の箇所を特定することは,明
細書の記載を原則として正しいと信じる第三者が求められる範囲をはるかに超える
事項である。
そして,化学構造式やNMRデータ自体を誤って記載する可能性があるのである
から,結局その部分が一応正しい記載であると仮定すると,矛盾がないことを示し
ているにすぎない。
また,1
H-NMR及び13
C-NMRは,有機化合物の構造決定に利用される測
定手段であるからといって,分析結果として記載された結果が正しい記載であるか
どうかや,その対象として記載された化学構造が正しい記載であるかどうかを直接
裏付けるものではなく,この箇所に誤記が存在する可能性も当然あるといえる。
さらに,NMRスペクトルは,溶媒の影響等で,ケミカルシフトがかなり変動す
る場合もあり,元々化合物の化学構造が推定できている場面において,他の分析手
法と併せて検討することによって,化学構造の一部の特定に利用されるものであっ
て,NMRデータであるからといって,一義的に化合物全体が決定され,化学構造
式が確認できるとは限らないことはいうまでもない。
(6)原告は,【0034】の[化14]のスキームに記載された化合物(3)及
び化合物(5)の化学構造は,1
H-NMR及び13
C-NMRデータによって裏付
けられることから当業者に正しいと理解され,化合物(4)の化学構造が,合成例
5に記載のグリニャール反応によって化合物(5)を与える化学構造であることか
ら,当業者に正しいと理解される旨主張する。
しかしながら,1
H-NMR及び13
C-NMRデータがあるからといって,化合
物(3)と化合物(5)の化学構造の記載に誤記がなく,正しいことの理由にはな
らないことは前述のとおりである。
また,[化14]のスキームに全ての反応工程及び関与成分が記載されているとは
限らないし,反応剤を書き漏らしたことも当然あり得るから,化合物(5)から逆
合成の考え方を用いて化合物(4)の化学構造に誤記がなく,正しいことを示すこ
とはできない。
(7)原告は,化合物(3)の1
H-NMRシグナルについて,図6や【0010】
に対して,実際には明細書に記載がないにもかかわらず,シグナルの帰属を行い,
化合物(3)の化学構造を支持する位置にシグナルを有していることを理解するこ
とや,シグナル数から化合物中の炭素数を支持することや,シグナル消失や維持か
ら,【0010】及び図2,3,6,7に掲載された機器分析データの特徴的な部分
を技術常識に基づいて読み取ることによって,【0034】の[化14]に記載され
た化合物(3)の化学構造が正しいと理解する旨主張する。
しかしながら,既に述べたとおり,NMRシグナルや化学構造の記載自体の誤記
の存在の可能性があるのだから,誤記が存在するとしても,誤記の箇所が特定され
ることはない。
さらに,NMRシグナルの帰属は,明細書に記載がない上に,あくまでも解析す
ることによってされるもので,原告が周知技術と称する事項をも併せて考慮した上
で,ようやく化合物(3)の化学構造とNMRデータが一致していると理解して特
段支障がないことを説明しているにすぎない。
(8)原告は,明細書に記載のない化合物(3)及び化合物(5)の1
H-NMR
データの比較表と13
C-NMRデータの比較表と推定に基づく帰属を行った上で,
化合物(3)の化学構造から,【0035】の[化15]に記載された化合物(5)
からマキサカルシトールが従来技術と同様の方法で実際に得られたことから,公知
の反応を逆にたどってみることによっても,マキサカルシトールの化学構造から,
【0035】の[化15]に記載された化合物(5)の化学構造が正しいことを理
解する旨主張する。
しかしながら,既に述べたとおり,NMRシグナルや化学構造の記載自体の誤記
の存在の可能性があり,この部分に誤記がなく,誤記が別にあると仮定しても誤記
の箇所が特定されることはない。
さらに,NMRシグナルの帰属やシグナル同士の比較は,明細書に記載がない上
に,原告が周知技術と称する事項や推定をも併せて考慮した場合に,ようやく化合
物(5)の化学構造とNMRデータが一致していると理解して特段支障がないこと
を説明しているにすぎない。
(9)原告は,【0035】の合成例5の記載と反応試薬の記載から周知のグリニ
ャール反応であることや,反応機構はアルキルエステル末端かメチルケトン末端に
対してされたと理解でき,反応剤のモル数から化合物(4)の化学構造が正しいこ
とを理解する旨主張する。
しかしながら,既に述べたとおり,化学構造の記載自体の誤記の存在の可能性が
あり,この部分に誤記がなく,誤記が別にあると仮定しても誤記の箇所が特定され
ることはない。
また,反応機構の具体的記載が明細書に記載されていない上に,[化15]のスキ
ームが反応条件を全て記載していないことは明らかであるので,メチルマグネシウ
ムクロライドがグリニャール反応によく用いられるからといって,異なる反応剤や
機構の関与の可能性がないわけでもない。例えば,原告が主張しているように,化
合物(5)を得るためのグリニャール試薬を反応させる際の原料には,少なくとも
エステル化合物とケトン化合物の二つがあり得るのであるから,化合物(4)が正
しいとは限らない。
(10)原告は,甲31を引用した上,当業者であれば,メチルマグネシウムクロ
ライド(グリニャール試薬)を用いる合成例5の反応が化合物(4)の側鎖のカル
ボニル基へのメチル基の付加によるアルコールの生成反応であることを容易に理解
し,合成例5では,メチルマグネシウムクロライドによって新たなメチル基が付加
されるという反応の理解によれば,合成例5の化合物(4)から化合物(5)への
官能基変換が,側鎖の末端部分が-OCH2CH2COOR(エステル含有基・・・)
又は-OCH2CH2COCH3基(メチルケトン含有基)であると当業者に理解さ
れ,化合物(4)の基がエステル含有基である場合には,2当量以上用いられる必
要があるが,合成例5では3当量用いられているため矛盾がないとして,当業者で
あれば化合物(4)の化学構造が正しいことを理解する旨主張する。
しかしながら,仮に甲31の記載に基づいて反応機構を解釈しても,メチルマグ
ネシウムクロライドと反応したのは,ケトン含有基であったかもしれず,当量より
過剰に反応剤を添加することは通常のことであるから,3当量用いられているため,
ケトン含有基であった可能性がないことにはならない。
審決では,反応剤も含めて,スキームに全ての関与成分や素反応ステップを記載
するとは限らないのであるから,反応剤を書き漏らしたかもしれないし,別の反応
機構であったかもしれないし,構造式を誤って記載したかもしれないので,様々な
誤記の可能性があることを述べているのであり,結果的に誤記が特定の箇所に一見
して定まることはない旨判断しているものである。
(11)原告は,【0034】の[化14]のスキームに記載された化合物(3)
及び化合物(4)の化学構造は,本件明細書全体の記載,既知の化合物(1)の化
学構造,最終生成物であるマキサカルシトールの化学構造,化合物(2),化合物(3),
化合物(5)の機器分析データ,各工程の官能基変換に関する従来技術との関係か
らみて,当業者に正しいと理解される旨主張する。
しかしながら,正しい記載であるかどうか,すなわち誤記が存在するかどうかの
可能性は,たとえ,化合物(2),化合物(3),化合物(5)の機器分析データが
存在していたとしても,誤記が存在しないことが決まるものではなく,原告が主張
する「酢酸エチル」の箇所と同様に可能性として存在するものである。
また,明細書以外の多くの文献の記載の中から選択して,本件明細書の反応機構
を説明することや,明細書に記載のないNMRの帰属に基づく化合物(3)の化学
構造の説明や,明細書に記載のないNMRの帰属やNMRチャート同士の比較に基
づく化合物(5)の化学構造の説明や,明細書に記載のない甲30を用いたマキサ
カルシトールのNMR帰属に基づく側鎖ピークの位置の確認をすることは,それら
の具体的内容からみて,周知の技術的事項などといえないことはもちろんのこと,
それら多くのことを参酌していえることは,各化学構造と機器分析データが一致し
ていると理解して一応矛盾がないというだけのことで,その化学構造や機器分析デ
ータの取り違えの可能性は依然としてあることに変わりない。
また,このように,明細書に一見して明確に理解できる誤記の内容が不明である
にもかかわらず,当業者が,誤記の存在やその場所を理解するに当たって,通常参
酌することのできる技術常識の範囲を超えて,多数の前提を置いて誤記の内容を理
解するという手法が許されるものではなく,結局,誤記の箇所が「酢酸エチル」の
箇所であることは,原告の主張によっても示されているとはいえない。
(12)原告は,ビタミンD構造のC-20位の炭素の立体配置や官能基の変換結
果から反応剤の選択肢が二つに限定される旨主張する。
しかしながら,明細書における特定の記載が明らかな誤記として,当業者がその
ように当然理解するかどうかは,原則として,明細書の記載に基づいて判断される
もので,明細書に記載のない反応機構を検討して反応剤を推定して,初めて明細書
の記載からプロピオン酸エチル又はアクリル酸エチルと理解できるというのであれ
ば,二つの選択肢に限定することに関しても,正しい記載が一義的に理解できるこ
とにならない。
また,反応剤自体を書き漏らした可能性もあるし,スキームは,出発物質とその
プロセスの目的物質を表しているにすぎず,反応が,求核置換反応又は求核付加反
応の一段階反応とは限らず,素反応を考慮すれば,複数ステップである反応を生じ
る場合もあるし,何れかのステップで,他の成分が関与する場合もあるので,全て
のステップ,全ての関与成分の記載があるとは限らないスキームの記載のみから反
応剤を二つに限定することはできない。
(13)原告は,体積とモル数との関係から仮定や計算によって反応剤がアクリル
酸エチルに定まる旨主張する。
しかしながら,仮定や計算をして結果を分析して初めて分かることは,誤記の解
釈において,正しい記載が一義的に理解できたとはいえない。
また,明細書の記載の試薬の純度が100%であると仮定する理由はないし,そ
もそも,体積やモル数にも誤記が存在していたかもしれず,そのような仮定や体積
やモル数に誤記がないとの前提の下に選択肢を限定した上で,一番近い化合物であ
るはずであるという結論自体,正しい記載が一義的にアクリル酸エチルに決まるこ
とを説明しているとはいえない。
(14)原告は,【0003】において従来技術として引用した甲3には,類似の
反応における反応剤として「アクリル酸エチル」が記載されている旨主張する。
しかしながら,甲3は,従来技術として,文献名が記載されているものの,明細
書には,【0034】との関係や関係箇所が記載されているわけでもなく,多数の化
合物が記載されている中で,同じ化合物でもないのにそのスキームに着目する理由
はないし,仮に合成条件をみても関与する成分も一致しているわけでもないから,
甲3に記載された多数の反応スキームの中から,特定の箇所の別の化合物の特定の
スキームを選択して,明細書の本来の正しい記載を決定することはできない。
また,明細書の記載において,他の文献を引用して明細書の記載としてはならな
い(特許法施行規則24条)。
(15)原告は,甲6,7を根拠に,脱離基を有する化合物への求核置換反応又は
α,β-不飽和カルボニル基を有する化合物へのオキサマイケル付加反応を用いる
ことが本件出願日前に既に常法であった旨主張する。
しかしながら,本件発明の化合物ではなく,明細書に記載のない甲6の特定の箇
所に着目して検討することは,明細書の本来の正しい記載を決定することにならな
い。また,甲6には,スキームが1~5まであり,スキーム1に着目しても,多数
のルートの1段階において,三つのルートの一つに,アクリル酸エチルを用いてい
る例が存在するだけである。
甲7についても,明細書に記載もなく,本件発明の化合物に関する記載でもない
点は同様である。
(16)原告は,「EAC」という略称が,アクリル酸エチルの略称として使用さ
れていた例を挙げて,「EAC」という略称が酢酸エチルの略称として使用されてい
る例が存在するとしても当業者の上記理解に何らの影響を及ぼすものではない旨主
張する。
しかしながら,明細書には,「EAC」という略称と「酢酸エチル」という化合物
名が何の矛盾もなく記載されているのであるから,記載をそのとおり理解すること
が当然であって,正しい記載が,通常「EA」として使用されているアクリル酸エ
チルであると一義的に理解する根拠はない(乙3,4には,アクリル酸エチルの略
称としてEAが使用されることが記載されている。)。
(17)原告は,当業者であれば,「酢酸エチル」が誤記であることを理解し,本
来の正しい反応剤が少なくとも3位に脱離基を有するプロピオン酸エチル又はアク
リル酸エチルに限定されることを理解し,反応剤の体積とモル数の関係,【0003】
に記載の甲3の内容,従来技術の側鎖合成法のうち,少なくとも一つから,EAC
が指す正しい反応剤が「アクリル酸エチル」であることを容易に理解し,【0034】
に存在する誤記が略称に対応させるべき化合物名の誤記であると理解する旨主張す
る。
しかしながら,原告自ら認めているように,複雑な過程を経ることで,アクリル
酸エチルにようやく到達することができるものである。明細書に記載のない反応機
構や文献,仮定を用いて,それらを周知技術と称して,都合よくつなぎ合わせるこ
とで,誤記の存在,誤記の箇所の特定,一義的な正しい記載の特定をすることは,
訂正における「誤記の訂正」に当たるかどうかの判断のプロセスにおける考え方を,
明らかに逸脱したものである。
また,原告の主張は,多くの参考資料を参照し,併せて検討することで,「酢酸エ
チル」との記載が「アクリル酸エチル」であったと解した場合でも矛盾がないこと
を説明したものにすぎず,訂正後の「アクリル酸エチル」が正しい記載として一義
的に定まることを示したことにはならない。
明細書の記載を信じて理解している第三者との公平性を考えても,そのような化
合物名記載の変更を認めることは訂正審判制度の趣旨にも反するものである。
(18)原告は,甲1~7に基づく主張をする。
しかしながら,明細書の特定の記載が明らかな誤記として,当業者がそのように
当然理解するかどうかは,原則として,明細書の記載に基づいて判断されるもので,
明細書に記載のない参考文献を,本願出願日前に発行された刊行物であるからとい
って,あらゆる内容を明細書に取り込んで判断してよいわけではない。
明細書に記載のあることに関して,その表現の意味を理解することや,明らかな
誤記といえるかの判断に関して,その表現に関する技術常識を参酌することはでき
ても,明細書に実際に記載された化合物に関する内容と一致していない刊行物の内
容を理由もなく,特定の記載箇所を選択して,それらをつなぎ合わせて,誤記の存
在や,誤記の箇所の特定や,正しい記載の特定を行うことは,明らかな誤記である
かどうかの判断においては,採用できない主張である。
2取消事由2(新規事項追加の判断の誤り)に対し
原告は,本件訂正は,技術常識からみて明らかな誤記を当業者が本来の正しいも
のであると理解する記載に改めるものであって,新たな技術的事項を導入するもの
ではない旨主張する。
しかしながら,前記1のとおり,本件訂正は,技術常識からみて明らかな誤記を
訂正するものとは認められないものであり,本来の正しい記載も一義的に定まるも
のではないので,新たな技術的事項を導入するものである。
審決の特許法126条5項の判断に誤りはない。
第5当裁判所の判断
1本件発明について
(1)本件特許の特許公報(甲19)によると,特許請求の範囲及び発明の詳細
な説明の記載は,以下のとおりである。
【特許請求の範囲】
【請求項1】
式(Ⅰ):
【化1】
(式中,Rは,ヒドロキシル,O-アシル,またはO-tert-ブチルジメチル
シリルである)
を有するキラル化合物。
【請求項2】
式(ⅠⅠ):
【化2】
(式中,Rは,OH,O-アシル,O-C1~8アルキルシリル,またはO-C1~8
アルキルオキシ-C1~8アルキルである)
のC-20位がR-形またはS-形であるキラル化合物。
【請求項3】
Rが,ヒドロキシル,O-アシル,またはO-tert-ブチルジメチルシリル
である,請求項2に記載のキラル化合物。
【請求項4】
マキサカルシトールの合成に用いるための,請求項1または2のキラル化合物。
【請求項5】
下記構造を有する化合物(3):
【化3】
であるマキサカルシトールの中間体の製造方法であって,
下記構造の化合物(2):
【化4】
を金属ハイドライドで還元して化合物(3)を得る工程を含む,方法。
【請求項6】
化合物(2)を,下記構造の化合物(1):
【化5】
を,金属水酸化物および有機溶媒の存在下,酸素で酸化することによって合成する,
請求項5に記載の方法。
【請求項7】
前記金属水酸化物がKOHであり,前記有機溶媒がtert-ブタノールである,
請求項6に記載の方法。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は,ビタミンD類似体,マキサカルシトール,中間体,およびこれらの製
造方法に関する。
【背景技術】
【0002】
ビタミンDは,筋肉,免疫系,生殖系,ならびに細胞の増殖および分化に深く影
響を及ぼす。実際に,ビタミンD受容体(VDR)を有する細胞は,身体の多くの
部分(腸,腎臓,前立腺,骨,骨髄,副甲状腺,皮膚,肝臓,筋肉,およびリンパ
系組織などを含む)に見られる。VDRが広範に存在しているため,ビタミンDお
よびその類似体は,癌,皮膚,並びに骨の疾患および自己免疫疾患などを含むさま
ざまな疾患の治療のための化合物として興味が持たれている。
【0003】
何らかの構造的類似性を有するビタミンD類似体類が,これまでに開示されてい
る。・・・。
【0004】
ビタミンDおよびその類似体類は,既にSHPT(二次性副甲状腺機能亢進症)
の治療に用いられている。・・・22-オキサカルシトール(22-オキサ-1,25(OH)
2D3,マキサカルシトール)およびヘキサフルオロ-カルシトリオール(ファレカル
シトリオール)は,日本で推奨されている。
【0005】
マキサカルシトールは,いわゆる「非カルセミック」ビタミンD類似体であり,
顕著な分化誘導性/抗増殖性を有し,高カルシウム血症を引き起こす能力が低下し
ている。マキサカルシトールは,PTHの強力な抑制剤として開発された。日本で
は,その使用により慢性透析患者のSHPTの改善が認められた。加えて,尋常性
乾癬を含む角化症を有する患者に広く使用され,著しくその症状を改善している。
【発明の概要】
【発明を実施するための形態】
【0014】
本発明は,式(Ⅰ):
【化7】
(式中,Rは,OH,O-アシル,O-C1~8アルキルシリル,またはO-C1~8アルコキ
シ-C1~8アルキルである)
のキラル化合物を提供する。
【0015】
本発明はまた,式(II):
【化8】
(式中,Rは,OH,O-アシル,O-C1~8アルキルシリル,またはO-C1~8アルコキ
シ-C1~8アルキルである)
のC-20位がR-形またはS-形であるキラル化合物を提供する。
【0016】
用語「キラル」は手を意味するギリシャ語の単語「kheir」に由来し,ここで,手
は最もよく知られているキラルな物体であり,左/右対称体が存在することを意味
する。例えば,左手と右手は同じではなく,互いに鏡像体であり,したがって「キ
ラル」である。
【0017】
・・・。キラル化合物と,その鏡像体とは,エナンチオマーと呼ばれる。天然の
ほとんど全てのキラル分子は,単独のエナンチオマーとして存在する。分子を工業
的な合成によって製造すると,通常,ラセミ体,すなわち2つのエナンチオマーの
50/50組成物の形態で存在する。
【0018】
キラル分子は,光学活性を有し,したがって,エナンチオマーは,時には光学異
性体と呼ばれる。各エナンチオマーが偏光面を逆方向に回転させるため,光学活性
体と呼ばれる。光を時計方向に回転させるエナンチオマーは,右旋性すなわち(+)
であり,逆のエナンチオマーは,左旋性すなわち(-)である。ラセミ混合物は,
光学活性を示さない。
【0019】
・・・右手型および左手型は,現在,化学者らによってR(右を意味するラテン
語のrectusから)およびS(左を意味するラテン語のsinisterから)と呼ばれて
いる。・・・。
【0021】
本発明の第一の実施態様では,Rは,ヒドロキシル,O-アシル,またはO-tert-
ブチルジメチルシリルである。
【0022】
本発明では,これらの化合物を,マキサカルシトールの合成に用いる。
【0023】
本発明は,さらに,化合物(3):
【化9】
の構造を有するマキサカルシトール中間体の製造方法であって,
化合物(2):
【化10】
の構造を金属ハイドライドで還元して化合物(3)を得る工程を含む方法を提供す
る。
【0024】
本発明の方法では,化合物(2)は,化合物(1):
【化11】
の構造を,金属水酸化物および有機溶媒の存在下,酸素で酸化することによって合
成する。
【0025】
本発明の方法では,金属水酸化物は,限定されないが,水酸化カリウムであり,
前記有機溶媒は,限定されないが,tert-ブタノールである。
【実施例】
【0027】
[合成例1]:化合物(1)の合成
3(R)-(tert-ブチルメチルシリルオキシ)-20(S)-ホルミル-9,20-セコプレ
グナ-5(E),7(E),10(19)-トリエン
【化12】
化合物(1)の合成は,米国特許第4,866,048号の製造例1,4,および5~7
に記載された手順に従う。米国特許第4,866,048号に記載された先行技術に従って,
1kgのビタミンD2を用いて,800gの3(R)-(tert-ブチルメチルシリルオキシ)
-20(S)-ホルミル-9,20-セコプレグナ-5(E),7(E),10(19)-トリエン(化合
物(1))を,オイル状粘着性生成物として得た。
【0028】
[合成例2]:化合物(2)の合成
(実施例1):
3(R)-(tert-ブチルメチルシリルオキシ)-20(S)-ホルミル-9,20-セコプレ
グナ-5(E),7(E),10(19)-トリエン(化合物(1))(800g,1.8mol)のtert-
ブタノール(16L)溶液に,攪拌下,KOH(155g,2.76mol)を添加した。次いで,
この溶液に,良好な撹拌下,40℃にて4時間酸素ガスをバブルさせた。
反応が完結した後,tert-ブタノールを蒸発させて除去し,残渣を酢酸エチル(8L)
に溶解させ,水で抽出した(8Lx2回)。得られた有機相をMgSO4で無水にし
た後,濾過した。濾液を,減圧下で濃縮して乾燥させると,オイル状の残渣が得ら
れ,これをカラムカラムクロマトグラフィ-で精製(シリカゲル,溶離液はヘキサン
中の5%酢酸エチル)して,所望の生成物である化合物(2)を523g得た(収率
67%)。
【0029】
(実施例2):
フラスコに,3(R)-(tert-ブチルメチルシリルオキシ)-20(S)-ホルミル-9,20-
セコプレグナ-5(E),7(E),10(19)-トリエン(化合物(1))(3g,6.78mmol),N,N-ジ
メチルホルムアミド(150ml),1,4-ジアザビシクロ[2.2.2]オクタン(678㎎,6mmol),
酢酸銅一水和物(101㎎,0.5mmol),および2,2’-ビピリジル(82㎎,0.51mmol)を
加えた。この混合物を,40℃にて6日間,良好な撹拌下で空気をバブルさせた。
この反応混合物を酢酸エチル(200ml)で希釈し,水で抽出し(100mLx2),MgSO4
で無水にした。酢酸エチルを蒸発により除去し,オイル状の残渣をカラムクロマト
グラフィーで精製(シリカゲル,溶離液はヘキサン中の10%酢酸エチル)して,所
望の生成物である化合物(2)を得た。
【0030】
[合成例3]:化合物(3)およびその20R-異性体の合成
(実施例1):
化合物(2)(3g,7.0mmol)を,テトラヒドロフラン(140ml)に溶解し,水素
化ホウ素ナトリウム(0.13g,3.4mmol)を添加した。次いで,メタノールを,15
分かけて滴下により添加した。この反応混合物を,20分間撹拌した後,酢酸エチル
(560ml)で希釈した。この溶液を水(150mLx5)および飽和塩化ナトリウム
水溶液(150mL)で抽出し,MgSO4で無水にし,蒸発させて,無色のオイルを得た。
このオイル状の残渣をカラムクロマトグラフィーで精製した(シリカゲル,溶離液
はヘキサン中の10%酢酸エチル)。最初に留出したものが,化合物(3)の20R-異
性体(固体)であった。
【0031】
より極性の異性体(化合物(3))を含有するフラクションを蒸発させて,無色の
オイル状付加体を得た。
【化13】
【0032】
(実施例2):
化合物(2)(500g,1.16mol)をキシレン(10L)に溶解させ,この反応混合物
を100~130℃に加熱した後,LAH(リチウムアルミニウムハイドライド)(88.5
g,2.33mol)を添加した。反応を,撹拌下,20分間行い,室温に冷却した。この
反応混合物に,飽和硫酸ナトリウム溶液(100mL)を加えて30分間撹拌した。反応
混合物を濾過し,濾液を蒸発させてオイル状の残渣を得た。R/S比は65:35であっ
た。オイル状残渣をカラムクロマトグラフィーで精製(シリカゲル,溶離液はヘキ
サン中の5%酢酸エチル)して,最初の留出物が化合物(3)の20R-異性体(白色
結晶)350gであり,収率は63.6%であった。
【0034】
[合成例4]:化合物(4)の合成
【化14】
化合物(3)(123g,0.28mol)を,トルエン(6L)および(N-Bu4)NHSO4(360mmol)
に溶解させ,50%NaOH溶液およびEAC(酢酸エチル,804mL,7.28mol)を添加
した。反応は,10~20℃に制御した。反応混合物を5分間撹拌し,次いで,水で希
釈した(徐々に添加,4L)。この溶液を分離し,有機相をMgSO4で無水にし,蒸発
させて無色オイルを得た。このオイル状残渣をカラムクロマトグラフィーで精製(シ
リカゲル,溶離液はヘキサン中の3%酢酸エチル)して,目標化合物(4)をオイ
ル状付加体として得た(112g,収率73%)。
【0035】
[合成例5]:化合物(5)の合成
【化15】
化合物(4)(112g,0.21mol)を,窒素下でテトラヒドロフラン(224mL)に溶
解させた後,10℃未満に冷却した。この攪拌した溶液に,メチルマグネシウムクロ
ライド(210mL,MeMgCl,テトラヒドロフラン中22%,0.63mol)を滴下により添
加した。この反応混合物を,30分攪拌し,水を添加することによってクエンチし
(徐々に添加,38mL),次いで濾過した。得られた濾液をMgSO4で無水にし,蒸発
させて無色オイルを得た。このオイルをカラムクロマトグラフィーで精製(シリカ
ゲル,溶離液はヘキサン中の7%酢酸エチル)して,目標化合物(5)をオイル状
付加体として得た(77.9g,収率71%)。
【0036】
[合成例6]:化合物(6)の合成
【化16】
化合物(5)(77.9g,0.15mol)を,N-メチルモルホリンN-オキシド(30g,0.25mol)
を含有するジクロロメタン(467mL)に溶解させた。撹拌したこの溶液を,窒素下で
加熱還流させ,二酸化セレン(6.7g,0.06mol)のアセトニトリル(233mL)溶液を
速やかに添加した。添加した後,この混合物を約2時間加熱還流させ,次いで冷却
し,さらなるジクロロメタンで希釈し,水で洗浄し,MgSO4で無水にし,濃縮して,
粗生成物である化合物(6)を得た。次いで,この粗生成物をカラムクロマトグラ
フィーで精製(シリカゲル,溶離液はヘキサン中の10%酢酸エチル)して,目標化
合物(6)をオイル状付加体として得た(43.6g,収率54%)。
【0037】
[合成例7]:化合物(7)の合成
【化17】
化合物(6)(43.6g,0.08mol)を,テトラ-n-ブチルアンモニウムフルオライ
ド(40g,0.13mol)を含有するテトラヒドロフラン(261mL)に溶解させた。撹拌し
たこの溶液を,窒素下で2.5時間加熱還流させた。冷却した後,この反応溶液を,
酢酸エチルと2%炭酸水素ナトリウム溶液との間で分配させ,有機相を水で洗浄し,
無水にし,さらに濃縮した。残渣をカラムクロマトグラフィーで精製(シリカゲル,
溶離液はヘキサン中の50%酢酸エチル)して,化合物(7)を得た(16.2g,収率
47%)。
【0038】
[合成例8]:マキサカルシトールの合成
【化18】
化合物(7)(13.6g,30mmol)および9-セチルアントラセン(1.36g,6.17mmol)
をアセトン(2250mL)に溶解させた。このアセトン溶液を,アルゴン雰囲気下,約
5℃の温度で約4時間,350nmのUV光によって光照射した。光照射した後,フェニ
ルボロン酸(1.6g,1.31mmol)をこの反応混合物に添加し,反応物を3.5時間撹拌
した。次いで,この溶液を,濃縮し,カラムクロマトグラフィーに通して精製して,
粗マキサカルシトール(9.7g,収率74.6%)を得た。
【0039】
[合成例9]:マキサカルシトールの結晶化
粗マキサカルシトール(9.7g,23.2mmol)を,ジエチルエ-テル(200mL)に溶
解させた。この溶液を冷却し,5~10℃にて24時間保った。形成された結晶を濾過
し,減圧下,室温で乾燥させて,最終生成物であるマキサカルシトールを得た(1.5
g,純度99.8%,収率15.4%,[α]D20
D=+44°)。
【図1】マキサカルシトールの合成スキーム
(2)(1)によると,本件発明は,以下のとおりである。
ア本件発明は,筋肉,免疫系,生殖系,並びに細胞の増殖及び分化に深く
影響を及ぼすビタミンDの類似体であるマキサカルシトール(22-オキサカルシトー
ル(22-oxacalcitriol,22-オキサ-1,25(OH)2D3)ともいう。)の製造工程における
中間体及びその製造方法に関するものである。
マキサカルシトールは,慢性透析患者のSHPT(二次性副甲状腺機能亢進症)
の改善,尋常性乾癬を含む角化症を有する患者の症状の改善に使用されている。(特
許請求の範囲,発明の詳細な説明【0001】~【0005】)
イ本件発明は,①マキサカルシトールの合成に用いるための式(Ⅰ)又は
式(Ⅱ)で表されるキラル化合物,②式(Ⅰ)で表される化合物(2)を金属ハイ
ドライドで還元して式(Ⅱ)で表される化合物(3)を得る工程を含むマキサカル
シトール中間体の製造方法,③化合物(2)を,既知の化合物(1)を,金属酸化
物及び有機溶媒の存在下,酸素で酸化することによって合成する方法などから成る。
(特許請求の範囲,発明の詳細な説明【0014】~【0025】)
なお,本件訂正に係る【0034】([合成例4],【化14】)は,化合物(3)か
らの下記化合物(4)の合成に関する記載であり,本件発明(請求項1~7に係る
発明)を構成する部分ではない。
2本件明細書におけるマキサカルシトールの合成工程と,関連する周知技術に
ついて
(1)前記1のとおり,本件明細書には,ビタミンD2を出発原料として化合物
(1)~化合物(7)を経て,マキサカルシトール(下図左)を合成する工程が記
載されている(図1及び[合成例1](【0027】)~[合成例8](【0038】))。
そして,本件明細書に接した当業者は,本件発明に係るマキサカルシトールの上
記合成工程に関して,周知の合成工程(甲3,4,6,7)と同様に,原料化合物
から3-ヒドロキシ-3-メチルブトキシ基(-OCH2CH2C(CH3)2OH;
以下「マキサカルシトール側鎖」ともいう。下図右)を有する中間体化合物を得る
ための工程(「合成例5」より前の工程。以下「前半の工程」という。)と,マキサ
カルシトール側鎖を有する中間体化合物から,最終生成物であるマキサカルシトー
ルを得るための工程(「合成例6」より後ろの工程。以下「後半の工程」という。)
とから成ることを理解する。
(2)このうち,前半の工程,すなわちマキサカルシトール側鎖を導入する工程
においては,同側鎖の22位に酸素原子を配することが必要であるために,周知の
合成方法(甲3,4,6,7)は,いずれも(ステロイド構造の)20位の炭素原
子に-OH基を有する20位アルコール中間体化合物を製造し,その-OH基によ
る反応剤に対する求核反応を利用してマキサカルシトール側鎖を得ており,種々の
反応剤を用いる合成方法が試みられていた(甲4)。
3取消事由1(目的要件の判断の誤り)について
(1)特許法126条1項2号は,「誤記・・・の訂正」を目的とする場合には,
願書に添付した明細書,特許請求の範囲又は図面の訂正をすることを認めているが,
ここで「誤記」というためには,訂正前の記載が誤りで訂正後の記載が正しいこと
が,当該明細書,特許請求の範囲若しくは図面の記載又は当業者(その発明の属す
る技術の分野における通常の知識を有する者)の技術常識などから明らかで,当業
者であればそのことに気付いて訂正後の趣旨に理解するのが当然であるという場合
でなければならないものと解される。
(2)アそこで,まず,本件明細書に接した当業者が,明細書の記載は原則とし
て正しい記載であることを前提として,本件訂正前の本件明細書の記載に何らかの
誤記があることに気付くかどうかを検討する。
(ア)本件明細書の【0034】の【化14】には,以下に示す化合物(3)
から,「EAC」が添加された反応条件下で,以下に示す化合物(4)を得る工程【化
14】が示されており(下図は,【化14】の記載を簡略化し,反応により構造が変
化した部分に丸印を付したもの。),本件明細書の【0034】の[合成例4]の本
文には,化合物(3)に「EAC(酢酸エチル,804ml,7.28mol)」を
添加し,反応させて,化合物(4)を得たと記載されているから,明細書は原則と
して正しい記載であることを前提として読む当業者は,本件明細書には,化合物(3)
に酢酸エチルを作用させて化合物(4)を得たことが記載されていると理解する。
(イ)しかし,当業者であれば,以下に示す理由で,「化合物(3)に酢酸エ
チルを作用させて化合物(4)を得た」とする記載内容にもかかわらず,化合物(3)
に以下に示す酢酸エチルを作用させても化合物(4)が得られない,つまり,【化1
4】に係る原料(出発物質;化合物(3))と,反応剤(EAC)と,生成物(化合
物(4))のいずれかに誤記が存在することに気付くものと考えられる。
すなわち,本件明細書の【0034】の【化14】に接した当業者は,①ヒドロ
キシ基を有する不斉炭素(20位の炭素原子)の立体化学が維持されていることか
ら,【化14】の反応は,酸素原子が反応剤の炭素原子を求核攻撃することによる,
20位の炭素原子に結合した-OH基の酸素原子と反応剤の炭素原子との反応であ
ること(20位の炭素原子と酸素原子間のC-O結合が切れる反応が起こるのでは
なく,アルコール性水酸基の酸素原子と水素原子の間のO-H結合が切れることに
よって不斉炭素の立体構造が維持されることになる反応であること。甲2,23~
25),②上記-OH基の酸素原子が酢酸エチルの炭素原子を求核攻撃しても,化合
物(4)の側鎖である,-OCH2CH2COOC2H5の構造とはならないこと(炭
素数が1つ足りないこと)に気付き,これらを考え合わせると,【0034】の「化
合物(3)に酢酸エチルを作用させて化合物(4)を得た」という反応には矛盾が
あることに気付くものということができる。
(ウ)したがって,本件明細書に接した当業者は,【0034】の【化14】
(化合物(3)から化合物(4)を製造する工程)において,側鎖を構成する炭素
原子数の不整合によって,【0034】に何らかの誤記があることに気付くものと認
められる。
イ被告は,[合成例4]の記載内容と【化14】のスキームの表示とは,一
見して不一致となる記載がなく,また,「EAC」は酢酸エチルの略称として使用さ
れるものであることから(甲18,乙1,2,5,6),「EAC(酢酸エチル,8
04ml,7.28mol)」という記載自体に不自然な点はなく,したがって,明
細書全体に誤記がないことが当然あるという前提に立てば,本件明細書における訂
正前の記載に一見して何らかの誤記があることに気付くとはいえないと主張する。
しかしながら,前記アのとおり,当業者であれば,ビタミンD2を出発原料とし
て化合物(1)~化合物(7)を経て,マキサカルシトールを合成する製造工程の
一部を構成する【化14】の工程(すなわち,化合物(3)の化学構造,「酢酸エチ
ル」,化合物(4)の化学構造のいずれか)に何らかの誤記があることに気付くもの
と認められるから,被告の主張は理由がない。
(3)ア次に,前記(2)のとおり,特定の反応工程(【0034】の【化14】)に
おける技術的矛盾と,それに伴う誤記の存在を認識した当業者が,当該反応工程の
うち,誤記が「EAC(酢酸エチル)」であると分かるかどうかについて,検討する。
(ア)前記2のとおり,マキサカルシトールの合成方法は,マキサカルシト
ール側鎖を有する中間体化合物を得るための工程(前半の工程)と,マキサカルシ
トール側鎖を有する中間体化合物から,最終生成物であるマキサカルシトールを得
るための工程(後半の工程)に分けられる。
前半の工程,すなわち,化合物(1)から化合物(5)に至る工程([合成例2]
~[合成例5])は,既知の化合物(1)を出発原料として,各工程において側鎖部
分の化学構造のみが変化するものと記載されている。
すなわち,次の①~④の合成を行うものと記載されている。
①化合物(1)から化合物(2)の合成([合成例2],【0028】~【0029】)
-CHO→=O
酸化による脱ホルミル化(脱CHO)反応
②化合物(2)から化合物(3)の合成([合成例3],【0030】~【0033】)
=O→-OH
金属ハイドライドによる還元
③化合物(3)から化合物(4)の合成([合成例4],【0034】)
-OH→-OCH2CH2COOC2H5
EACに対する(アルコールの求核置換)反応
④化合物(4)から化合物(5)の合成([合成例5],【0035】)
-OCH2CH2COOC2H5
→-OCH2CH2C(CH3)2OH(マキサカルシトール側鎖)
MeMgCl(グリニャール試薬)による反応
(イ)ここで,化合物(2)は,本件発明の特許請求の範囲に記載された化
合物であり,特許請求の範囲及び本件明細書における複数箇所の化学構造の記載は
一致しており,これが誤りであると疑うべき事情は認められない上,既知の化合物
(1)から酸化による脱ホルミル化(脱CHO)反応により化合物(2)を得た旨
の[合成例2]の記載(【0028】~【0029】)を参照しても,既知の化合物
(1)を出発物質として,[合成例2]記載の反応物質,反応条件により,本件明細
書記載の化学構造を有する化合物(2)が得られることに技術的な矛盾は認められ
ない。このように,化合物(2)の化学構造は,当業者に正しいものと認識される
ところ,そのような化合物(2)から金属ハイドライドによる還元により化合物(3)
を得た旨の[合成例3]の記載(【0030】~【0033】)を参照しても,化合
物(2)を出発物質として,[合成例3]記載の反応物質,反応条件により,本件明
細書記載の化学構造を有する化合物(3)が得られることに技術的な矛盾は認めら
れない。
また,前記2のとおり,マキサカルシトールの合成工程において20位アルコー
ル中間体を得て,その-OH基をマキサカルシトール側鎖とする合成方法は周知で
あることからみて,本件明細書の記載に接した当業者にとって,マキサカルシトー
ルの合成工程において,[合成例3]までの工程で,20位炭素原子に-OH基を有
する化合物(3)が中間体として合成されていることに,何ら不整合な点はない。
加えて,化合物(3)は,本件発明の特許請求の範囲に記載された化合物である
上,特許請求の範囲及び本件明細書における複数箇所の化学構造の記載は一致して
いる。
そうすると,本件明細書に接した当業者にとって,化合物(3)の構造式,特に
20位の炭素原子に-OH基が結合した構造に誤りがあるとする理由は見当たらな
い。
(ウ)マキサカルシトール側鎖を有する化合物(5)を起点とする後半の工
程([合成例6]~[合成例8])は,最終生成物であるマキサカルシトールのビタ
ミンD構造における20位の炭素原子(マキサカルシトール側鎖部分)以外の部位
における公知の反応(甲26)であり,[合成例5]で化合物(5)を合成する段階
でマキサカルシトール側鎖の導入が終わっているものと把握できるから,各合成例
に関する明細書の記載が正しいことを前提に本件明細書に接した当業者にとって不
整合な部分はなく,少なくとも化合物(5)の化学構造(あるいは,マキサカルシ
トール側鎖部分)は,正しいものと考えられる。
(エ)そして,仮に化合物(4)の側鎖部分(-OCH2CH2COOC2H5)
が他の構造であり,酢酸エチルであるEACとの反応により,化合物(4)とは炭
素数が異なる(炭素数が1少ない)側鎖が結合する反応が起こったとすれば,グリ
ニャール反応によってマキサカルシトール側鎖を導入して化合物(5)を得るため
には,[合成例5]に相当する変換工程の数が図1に示された合成スキームよりも必
然的に多くなってしまうであろうことが容易に予想され,化合物(4)の側鎖の構
造式にも誤りがあるとは考えられない。
(オ)【化14】の出発物質である化合物(3)の化学構造,反応剤である
「EAC(酢酸エチル)」,生成される化合物(4)の化学構造のうちいずれかの記
載に誤記があることに気付いた当業者にとって,「(酢酸エチル,804ml,7.
28mol)」という記載に示された化学物質名と,体積と,モル数とが整合してい
るかどうかを確認することは容易であるところ,以下の計算の結果,酢酸エチル8
04mlは,8.21molであることが確認でき,本件明細書に記載されている
モル数と整合していないことが理解できる。
(計算)
酢酸エチル[分子量88.11,密度0.90g/ml(甲11)]804mlの
mol数について
804×0.9/88.11=8.21mol
(カ)本件明細書に接した当業者は,前記(ア)~(オ)において検討したとおり,
化合物(3)及び化合物(4)の化学構造については正しいものと理解し,「酢酸エ
チル」が誤記であると理解するものということができる。
また,本件明細書に記載された1
H-NMRデータや13
C-NMRデータのシグ
ナルの位置やシグナル数は,それのみによって化合物(3)及び化合物(4)の化
学構造を特定し得るものではないものの,化合物(3)及び化合物(4)の化学構
造と矛盾する点があるとまでは認められないから,本件明細書に接した当業者が,
化合物(3)及び化合物(4)の化学構造が正しいものと理解することを支持する
ものといえ,少なくともそのような理解を妨げるものであるとはいえない。
イ被告は,スキームは,化学反応の概要を示したものにすぎないから,【化
14】のスキームに全ての反応工程及び関与成分が記載されているとは限らないし,
反応剤を書き漏らしたことも当然あり得るのであるから,化合物(3)及び化合物
(4)の化学構造が正しいからといって,酢酸エチルが当然に誤記となるわけでは
ないと主張する。
しかしながら,本件発明は,マキサカルシトールの合成に関する新規の中間体及
びその製造方法に係るものであるから,本件明細書には,ビタミンD2又は既知の
化合物(1)から最終生成物であるマキサカルシトールが得られることが追試可能
な程度に記載されるのが通常であるといえ,本件明細書の[合成例4]以外の合成
例の記載内容等に照らしても,[合成例4]の記載に接した当業者において,反応剤
や他の反応工程や関与成分が記載されていないものと理解するものとはいえない。
被告の主張は,一般論として存在する抽象的な可能性をいうものであって,本件明
細書に妥当するものということはできないから,採用することはできない。
(4)ア次に,前記(3)のとおり,【0034】の「酢酸エチル」の記載が誤記で
あることに気付いた当業者が,正しい記載が「アクリル酸エチル」であると分かる
かどうかについて,検討する。
(ア)「アクリル酸エチル」は,英語で表記すると,「EthylAcrylate」であり,
「EAC」と略称されることがあるものと認められる(甲16,17)。
(イ)前記(2)のとおり,【0034】の反応では,化合物(3)から化合物(4)
への反応において不斉炭素原子(ビタミンD構造の20位の炭素原子)の立体化学
が維持されていることから,当業者は,本件出願日における技術常識を踏まえ,化
合物(3)と反応剤EACとの反応は,化合物(3)の20位の炭素原子に結合し
たアルコール性水酸基-OHの酸素の非共有電子対が反応剤(EAC)の炭素原子
を求核攻撃することによって化合物(4)が得られる以下の反応,すなわちアルコ
ールのO-H間の結合の切断を伴う反応であると理解する。
(式中,Rは,基を表す)
このような化合物(3)と反応剤EACの反応機構に加え,化合物(4)の化学
構造から,当業者は,【化14】の反応は,化合物(3)のアルコール性水酸基-O
Hの酸素の非共有電子対が反応剤(EAC)中のカルボニル基を構成する炭素原子
の二つ隣の炭素原子を求核攻撃する,①3位に脱離基を有するプロピオン酸エチル
(L-CH2CH2COOC2H5,ただし,Lは脱離基)を反応剤とする置換反応,
又は,②アクリル酸エチルを反応剤とする付加反応(甲5のオキサマイケル反応)
のいずれか(下図参照)であると理解する。
そして,【0034】の反応機構から,正しい反応剤が①3位に脱離基を有するプ
ロピオン酸エチル,又は②アクリル酸エチルに限定されることを理解した場合に,
これらの反応剤の体積及びモル数が「804ml,7.28mol」という記載に
整合するかどうかを検証してみると,以下の計算の結果,アクリル酸エチルの方が,
本件明細書記載の上記数値に整合することが理解できる。
(計算)
脱離基を有するプロピオン酸エチル及びアクリル酸エチル804mlのmol数
について
アクリル酸エチル[分子量100.12,密度0.92g/ml(甲8)]
804×0.92/100.12=7.39mol
3-クロロプロピオン酸エチル[分子量136.58,密度1.10g/ml(甲
14)]
804×1.10/136.58=6.48mol
3-ブロモプロピオン酸エチル[分子量181.03,密度1.42g/ml(甲
15)]
804×1.42/181.03=6.31mol
(ウ)以上のとおり,「EAC」は,「アクリル酸エチル」の英語表記と整合
し,略称と一致するものである上,モル数の記載とも整合するのであるから,当業
者は,正しい反応剤が「アクリル酸エチル」であることを理解することができると
いうべきである。このことは,「アクリル酸エチル」が「EA」と略称されることが
あるとしても(乙3,4),左右されるものではない。
イ(ア)被告は,明細書における特定の記載が明らかな誤記として,当業者が
そのように当然理解するかどうかは,原則として,明細書の記載に基づいて判断さ
れるもので,明細書に記載のない反応機構を検討して反応剤を推定して,初めて明
細書の記載からプロピオン酸エチル又はアクリル酸エチルと理解できるというので
あれば,二つの選択肢に限定することに関しても,正しい記載が一義的に理解でき
ることにならないと主張する。
しかしながら,明細書に接した当業者は,出願当時の技術常識を踏まえて明細書
の記載を理解するのであるから,明細書に直接記載のない事項であっても,当業者
は,技術常識を参酌して,当該明細書に記載された技術的事項及びそれらの記載か
ら自明な事項の内容を理解することができるというべきである。そして,本件明細
書に接した当業者が,本件出願日当時の技術常識を踏まえて,【化14】において化
合物(3)と反応する反応剤は,①3位に脱離基を有するプロピオン酸エチル又は
②アクリル酸エチルのいずれかであると理解することは,前記ア(イ)のとおりである。
(イ)被告は,反応剤自体を書き漏らした可能性もあるし,スキームは,出
発物質とそのプロセスの目的物質を表しているにすぎず,反応が,求核置換反応又
は求核付加反応の一段階反応とは限らず,素反応を考慮すれば,複数ステップであ
る反応を生じる場合もあるし,何れかのステップで,他の成分が関与する場合もあ
るので,全てのステップ,全ての関与成分の記載があるとは限らないスキームの記
載のみから反応剤を二つに限定することはできないと主張する。
しかしながら,前記(3)イのとおり,[合成例4]の記載に接した当業者において,
反応剤や他の反応工程や関与成分が記載されていないものと理解するものとはいえ
ないのであって,被告の主張は,一般論として存在する抽象的な可能性をいうもの
にすぎないから,被告の主張は,理由がない。
(ウ)被告は,明細書の記載の試薬の純度が100%であると仮定する理由
はないし,体積やモル数にも誤記が存在していたかもしれず,そのような仮定や体
積やモル数に誤記がないという前提の下に選択肢を限定した上で,一番近い化合物
であるはずであるという結論自体,正しい記載が一義的にアクリル酸エチルに決ま
ることを説明しているとはいえないと主張する。
しかしながら,酢酸エチル,アクリル酸エチル,3-クロロプロピオン酸エチル
等が,いわゆる汎用化学品として,高純度のものが市販されている化合物であると
認められること(甲8,11,14,15)からすると,本件明細書に接した当業
者は,市販の高純度の試薬を用いたものと理解するのが合理的であるといえる。ま
た,本件明細書における反応剤の体積やモル数については,それが誤りであると疑
うべき事情は認められないから,それを一応正しいものとして反応剤の体積やモル
数の計算を行うことは,通常の合成を行う上で必要な行為であり,それによって容
易に整合性を確認できるものと認められる。したがって,被告の主張は,理由がな
い。
(5)以上によると,本件明細書に接した当業者であれば,本件訂正事項に係る
【0034】の「EAC(酢酸エチル,804ml,7.28mol)」という記載
が誤りであることに気付いて,これを「EAC(アクリル酸エチル,804ml,
7.28mol)」の趣旨に理解するのが当然であるということができる。
したがって,本件訂正は,特許法126条1項2号所定の「誤記・・・の訂正」
を目的とするものということができる。
その他,被告が主張するところに照らしても,上記判断が左右されることがない
ことは,既に判示したところから明らかである。
取消事由1は,理由がある。
4取消事由2(新規事項追加の判断の誤り)について
前記3の取消事由1で判断したとおり,本件明細書に接した当業者であれば,本
件訂正事項に係る【0034】の「EAC(酢酸エチル,804ml,7.28m
ol)」という記載が誤りであり,これを「EAC(アクリル酸エチル,804ml,
7.28mol)」の趣旨に理解するのが当然であるということができるから,本件
訂正後の記載である「アクリル酸エチル」は,本件訂正前の当初明細書等の記載か
ら自明な事項として定まるものであるということができ,本件訂正によって新たな
技術的事項が導入されたとは認められない。
したがって,本件訂正は,特許法126条5項に規定する要件に適合するものと
いうことができる。
取消事由2は,理由がある。
5結論
以上によると,取消事由1及び2は,いずれも理由があり,審決にはその結論に
影響を及ぼす違法があるから,原告の請求を認容することとして,主文のとおり判
決する。
知的財産高等裁判所第2部
裁判長裁判官
森義之
裁判官
片岡早苗
裁判官
古庄研

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