弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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       主   文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
       理   由
 上告代理人斉藤誠、同山本政明、同佃俊彦、同坂本福子、同松井繁明、同杉井静
子、同今野久子、同堤浩一郎の上告理由及び上告人の上告理由について
一 所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし、是認す
ることができ、その過程に所論の違法があるとはいえない。右事実認定に係る論旨
は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採
用することができない。
二 原審の適法に確定した事実関係等の概要は、次のとおりである。
1 被上告人は、音響機器、通信機器等の製造販売を目的とする資本金約一〇六億
九四〇〇万円(平成五年八月三一日以降は約二二二億四〇〇〇万円)、従業員約二
〇〇〇人を擁する株式会社である。
2 上告人は、昭和五〇年七月二一日、被告に雇用され、約七年間にわたり通信機
器の製造業務等に携わった後、同六〇年一月一六日以降は、東京都目黒区α所在の
被上告人の技術開発本部技術開発部企画室(以下「企画室」という。)における庶
務の仕事に従事していた。
3 被上告人は、東京都八王子市β町所在の八王子事業所において、昭和六二年三
月からカーオーディオ事業本部向けにHIC(ハイブリッド・アイ・シー)の生産
を五人態勢で開始したところ、需要見通しが大幅に増加し人員を一〇人に増員する
必要が生じ、同事業所内の異動により同年六月、八月、九月、一二月に各一人の増
員を行ったが、残る一人については同事業所内では補充の見通しが立たなかった
上、同年八月及び九月に異動した二人が同年末には退職する見通しとなったため、
早急に右退職予定者の補充を行う必要が生じた。そこで、被上告人は、同事業所内
技術開発本部開発第三部HIC開発プロジェクトチーム課長の希望に従い、即戦力
となる製造現場経験者であり、かつ、目視の検査業務を行うことから年齢四〇歳未
満の者という人選基準を設け、右二人のうち一人は困難ながらも同事業所内で補充
を検討することとするが、残る一人は企画室を含む本社地区からの異動により補充
することとし、対象となる約六〇人の女性従業員の中から右基準に該当する者を選
定したところ、製造現場を約七年間経験し、年齢三四歳であった上告人がこれに該
当した。そこで、被上告人は、同年一二月二四日、上告人を異動対象者に選定し、
同六三年一月二七日、その上司である企画室長を通じて、上告人に対し、同年二月
一日付けで右プロジェクトチームのHICの製造ライン勤務へ異動させる旨を内示
し、同日、右異動の命令(以下「本件異動命令」という。)を行った。上告人は、
即日、被上告人の苦情処理委員会に苦情申立てをしたが、同委員会は、同月三日、
右申立てを棄却する旨の裁定を行った。
4 上告人は、本件異動命令に従わず、八王子事業所に出勤しなかった。被上告人
は、事態の打開を図るため、上告人と勤務時間、保育問題等について話し合ってで
きる限りの配慮をしたいと考えていたが、上告人は、この話合いに積極的に応じよ
うとせず、本件異動命令拒否の態度を貫き、被上告人の担当者に話合いの機会を与
えないまま欠勤を続けた。
 そこで、被上告人は、懲戒規定に基づいて、昭和六三年五月六日ころ到達の書面
をもって、上告人を同年五月九日から同年六月八日まで一箇月の停職とし、さら
に、右停職期間満了後も上告人が八王子事業所に出勤しなかったので、同年九月二
一日ころ到達の書面をもって、上告人を懲戒解雇した。
5 被上告人の就業規則には、「会社は、業務上必要あるとき従業員に異動を命ず
る。なお、異動には転勤を伴う場合がある。」との定めがあり、被上告人は、現に
従業員の異動を行っている。上告人と被上告人の間の労働契約において就労場所を
限定する旨の合意がされたとは認められない。
6 上告人は、本件異動命令発令当時、東京都品川区γ所在の借家を住居として、
夫と長男(昭和五九年六月生)との三人家族で生活しており、企画室までの通勤時
間は少なくとも約五〇分であった。夫は、東京都港区δ所在の外資系の通信機器等
の輸入及び製造販売を目的とする会社に勤務し、通勤時間約四〇分を要していた。
また、同人は残業や出張が多く、本件異動命令発令前一年間の出張は、延べ一九
回、八七日間(うち海外が五九日間)に及んでいる。上告人夫妻は、平日は長男を
保育園に預けていたところ、それぞれの出退勤の時刻と保育時間との関係上、長男
の保育園までの送迎については、水曜日は上告人が送り、パート勤務の保母に月一
万円で迎えと夕食を含む午後八時までの自宅保育を依頼し、その他の曜日は夫が送
り、上告人のかつての同僚に月一万円で迎えと午後六時五〇分までの自宅保育を依
頼していた。
7 上告人が本件異動命令発令当時の住居から八王子事業所に通勤するには、最短
経路で、行きが約一時間四三分、帰りが約一時間四五分を要する。そのため、長男
の水曜日における保育園への送り及びその他の曜日における午後六時五〇分から午
後七時三五分ころまでの保育に支障が生ずる。なお、同事業所の従業員のうちに
は、通勤時間一時間三〇分から二時間二〇分以上を要する男性従業員が数十人、同
一時間二〇分から二時間近くを要する女性従業員が約一〇人いる。
8 八王子事業所の近辺には、上告人が転居を希望すれば入居可能な相応の住居が
多数存在し、居住地をJR中央線の八王子、豊田、日野、立川各駅近辺と定めた場
合の夫の通勤時間は、乗車駅から約一時間である。また、八王子市内には、同事業
所から徒歩一五分の範囲内に三つ、被上告人の送迎バスを利用して約二〇分の範囲
内にもう一つ保育園があり、隣接する日野市内には、徒歩と路線バスを利用して約
二〇分の範囲内に二つの保育園があるところ、うち二つについては定員に余裕があ
る。
9 企画室長が上告人を退職させるための嫌がらせないし報復人事の一環として本
件異動命令を行ったとは認められない。
三 右事実関係等の下においては、被上告人は、個別的同意なしに上告人に対しい
ずれも東京都内に所在する企画室から八王子事業所への転勤を命じて労務の提供を
求める権限を有するものというべきである。もっとも、転勤命令権を濫用すること
が許されないことはいうまでもないところであるが、転勤命令は、業務上の必要性
が存しない場合又は業務上の必要性が存する場合であっても不当な動機・目的をも
ってされたものであるとき若しくは労働者に対し通常甘受すべき程度を著しく超え
る不利益を負わせるものであるとき等、特段の事情の存する場合でない限りは、権
利の濫用になるものではないというべきである(最高裁昭和五九年 (オ)第一三
一八号同六一年七月一四日第二小法廷判決・裁判集(民事)一四八号二八一頁参
照)。本件の場合は、前記事実関係等によれば、被上告人の八王子事業所のHIC
プロジェクトチームにおいては昭和六二年末に退職予定の従業員の補充を早急に行
う必要があり、本社地区の製造現場経験があり四〇歳未満の者という人選基準を設
け、これに基づき同年内に上告人を選定した上本件異動命令が発令されたというの
であるから、本件異動命令には業務上の必要性があり、これが不当な動機・目的を
もってされたものとはいえない。また、これによって上告人が負うことになる不利
益は、必ずしも小さくはないが、なお通常甘受すべき程度を著しく超えるとまでは
いえない。したがって、他に特段の事情のうかがわれない本件においては、本件異
動命令が権利の濫用に当たるとはいえないと解するのが相当である。
 また、上告人が第二子を妊娠したのは、本件異動命令の後であるから、同命令の
効力を左右しないことは、いうまでもない。
 したがって、本件異動命令に従わなかったことを理由としてされた本件各懲戒処
分には、所論の違法はないものというべきである。これと同旨の原審の判断は、正
当として是認することができ、前記判決に抵触するものではない。論旨は、違憲を
いう点を含め、独自の見解に立って若しくは原判決を正解しないでその法令違背を
いうか、又は原判決の結論に影響のない説示部分を論難するものにすぎず、採用す
ることができない。
 よって、裁判官元原利文の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文
のとおり判決する。
 裁判官元原利文の補足意見は、次のとおりである。
 私は、法廷意見の触れていない点について、補足的に考えを明らかにし、本判決
の理解に資したいと考えるものである。
一 まず、所論は原審の事実認定を非難するが、法律審である当審は、原審の事実
認定に経験則や採証法則に違反する違法が認められない限り、これを前提として法
律上の問題について判断をすべきであることは、改めていうまでもないところであ
る。この観点からすれば、原審の事実認定は、細部にわたってそのすべてを正当と
いえるか否かはともかくとして、右違法があるとまでは認められず、これを是認す
るほかはないというべきである。
 そして、法廷意見の要約する原審の適法に確定した事実関係に基づく限り、上告
人を本社から八王子事業所まで転勤させる権限が被上告人にあったということは否
定し難いものというほかはない。
二 もっとも、原審の認定事実からは必ずしも明らかではないが、論旨による上告
人の学歴と上告人と被上告人との間に雇用契約が締結された時期とを考えると、こ
のような経歴の女性労働者については、特段の事情のない限り、明示的な合意をし
ないでも、広域での異動をしないことが黙示的に合意されているとみられるのであ
って、原審が就労場所を特定の勤務地に限定する合意がされたとは認められないと
しているのも、東京都内において勤務場所を変更する異動が命じられたという本件
事例を前提としたものと理解すべきであり、より広域の異動についても被上告人に
転勤命令権があるとしたものではない。また、このような労働者の異動について
は、転勤命令権の濫用の有無についての判断においても、高学歴の営業担当者等の
異動の場合と比較して、より慎重な配慮を要するというべきである。
三 次に、論旨は、本件異動命令が上告人に負わせる不利益の程度を検討するに当
たって、本件異動命令が転居を伴わないものとして発令されたことを前提とすべき
であるという。
 異動先が遠いために必然的に転居せざるを得ない場合であれば、そのことを前提
として、異動命令に伴う労働者の不利益の程度を判断すべきであることは、当然で
あろう。しかしながら、異動先が比較的近い場合には、労働者が転勤命令に対応し
て長距離通勤のみちを選ぶか転居のみちを選ぶか、また、転居の場合に家族と同居
のみちを選ぶか別居のみちを選ぶかは、通常の場合、当該労働者ないしその家族の
判断に懸かっているものであり、異動を命ずる使用者が決定する事柄ではない。し
たがって、転勤命令に伴う不利益が当該労働者において通常甘受すべき程度にとど
まるか否かは、これらの選択肢のいずれかのみを前提に決するのではなく、異動命
令当時における当該労働者の置かれた客観的状況にかんがみて現実的に選択可能な
みちの中に通常甘受すべきものがあるのであれば、当該労働者がより不利益性の高
いみちを選択しようとする場合であっても、それは当該労働者自身の選択の結果と
いうべきであり、使用者のした転勤命令権の行使を権利の濫用とすることはできな
いものというほかはない。
 本件においては、家族と共に東京都品川区に居住していた上告人が同目黒区の職
場から同八王子市の職場への転勤を命じられたというのであり、必然的に転居せざ
るを得ない異動とはいえない。したがって、上告人及びその家族にとっては、転居
しないで上告人が長距離通勤をするみち、家族全体が転居をして上告人の夫が長距
離通勤をするみち、上告人が長男と共に転居して夫と別居するみちなどが選択肢と
してあり得ることになり、そのいずれを選択するかは上告人ないしその家族の決定
に任されているのであって、被上告人が上告人に転居をしないで異動するように命
じたものでないことは、いうまでもない。そうすると、これらのみちのいずれかに
よるならば上告人の受ける不利益を考慮しても転勤命令権の行使が濫用にわたると
までは断じ難いというのであれば、上告人ないしその家族がこれらのいずれのみち
を現実に選択したのかにかかわりなく、本件異動命令を無効ということはできない
ものといわなければならない。
四 ところで、この上告人の負わされる不利益の程度に関する判断の過程におい
て、原審は、上告人が長距離通勤のみちを選んだ場合においても、長男の二次保育
に生ずる支障が解決可能であったと判示している。しかし、これは原審の認定事実
を基にしても明確な裏付けを欠いた判断といわざるを得ず、直ちに是認し得るか疑
問なしとしない。したがって、そのことを根拠に本件異動命令による不利益が上告
人において通常甘受すべき程度にとどまると結論付けることは早計というべく、こ
の点に関する論旨の指摘は、考慮に値するといわなければならない。
 しかし、本件事実関係の下においては、上告人が転居のみちを選ぶことも客観的
状況からみて十分にあり得る選択肢と考えられるところであって、そのみちを選ぶ
ならば、上告人の従前の住居が借家であること、転居先も同じ東京都内であるこ
と、夫の通勤時間の延長も比較的短く抑えることが可能であること、転居先で長男
の保育先を確保することはさほど困難であるとはいえないことなどを指摘すること
ができる。したがって、上告人ないしその家族の負わされる不利益は、決して小さ
くないものの、なお通常甘受すべき程度を著しく超えるとまではいえないと判断さ
れるのである。
 なお、現実には上告人の夫が転居のみちに賛成しなかったことがうかがわれるの
であるが、既に述べたところによれば、同じ状況の下において、転勤命令が、夫の
賛成を得られたならば有効となるが、これが得られなかったならば無効となるとい
うように判断すべきものではないから、右事実関係の下において夫が転居のみちに
賛成することは通常期待し難いとまではいうことができない以上、この事情は右の
判断を左右しないものというほかはない。また、いうまでもないことであるが、本
件異動命令の後に上告人が第二子を妊娠したことも、同命令の効力を左右せず、し
たがって、同命令に従わないことを理由とする懲戒処分の効力にも影響しないとい
わざるを得ない。
五 以上に述べたとおりであるから、本件事実関係の下においては、本件異動命令
を違法と断ずることはできないといわざるを得ない。しかしながら、近時、男女の
雇用機会の均等が図られつつあるとはいえ、とりわけ未就学児童を持つ高学歴とま
ではいえない女性労働者の現実に置かれている立場にはなお十分な配慮を要するの
であって、本判決をもってそのような労働者であっても雇用契約締結当時予期しな
かった広域の異動が許されるものと誤解されることがあってはならないことを付言
しておきたい。
(裁判長裁判官 金谷利廣 裁判官 千種秀夫 裁判官 元原利文 裁判官 奥田
昌道)

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