弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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       主   文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は、原告の負担とする。
       事   実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告日本放送協会及び被告【A】は、原告に対し、各自金八〇〇万円及びこれ
に対する被告日本放送協会については昭和六〇年一二月二九日から、被告【A】に
ついては昭和六一年一月一日から、それぞれ支払済に至るまで年五分の割合による
金員の支払をせよ。
2 被告らは、原告に対し、各自金二〇〇万円並びにこれに対する被告日本放送協
会及び被告株式会社日本放送出版協会については昭和六〇年一二月二九日から、被
告【A】については昭和六一年一月一日から、それぞれ支払済に至るまで年五分の
割合による金員の支払をせよ。
3 被告らは、株式会社朝日新聞社、株式会社毎日新聞社、株式会社読売新聞社及
び株式会社中日新聞社各発行の新聞のテレビ・ラジオ欄の紙面に、別紙目録記載の
謝罪広告を、同目録記載の要領により各一回掲載せよ。
4 訴訟費用は、被告らの負担とする。
5 第1、2項につき、仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
 主文同旨
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
(一) 原告は、昭和三二年名古屋大学文学部を卒業後、名古屋市にある東海テレ
ビ放送株式会社に入社したが、昭和三九年退職し、それ以降、著述業にある者で、
主な作品として、「泣いて愛する姉妹に告ぐー古在紫琴の生涯」(草土文化刊)、
「とくと我を見たまえー若松賎子の生涯」(新潮社刊)、「厳本真理 生きる意
味」等の女性史における未発掘の側面に光を当てた、女性の生涯と社会の関わりに
関する著作がある。
(二) 被告日本放送協会(以下「被告協会」という。)は、放送法の規定に基づ
いて設立された法人であり、被告株式会社日本放送出版協会(以下「被告会社」と
いう。)は、被告協会の放送に関する出版物の発行、頒布等を目的とする株式会社
であり、被告【A】(以下「被告【A】」という。)は、昭和三六年ころから映
画、テレビドラマの脚本等の作成に従事している者である。
2 原告の著作物
 原告は、昭和五七年八月一五日、株式会社新潮社から「女優貞奴」(以下「原告
作品」という。)を上梓した。原告作品は、原告の著作物である。
3 被告らの行為
(一) 被告協会は、毎年、年初から年末までの一年を通じて、毎日曜日の午後八
時から四五分間の放送枠を用い、「大河ドラマ」と称するテレビ放映用作品(以下
「大河ドラマ」という。)を制作して放送してきたが、昭和五九年二月二九日、昭
和六〇年度の大河ドラマとして、「春の波涛」なる題名で女優川上貞奴(以下
「貞」又は「貞奴」という。)の生涯を中心とするドラマを制作する旨発表した。
そして、被告協会は、被告【A】の執筆による脚本をもとにテレビドラマ「春の波
涛」(以下「本件ドラマ」という。)を制作し、これを、昭和六〇年一月六日から
同年一二月一五日までの毎日曜日午後八時から四五分間(第一回の同年一月六日の
放送は、午後七時二〇分から午後八時四五分までの八五分間)、全五〇回にわたっ
て放送した。
(二) 被告会社は、本件ドラマの梗概の記載を中心とする「NHK大河ドラマ・
ストーリー春の波涛」なる書籍(以下「本件書籍」という。)を制作し、昭和六〇
年一月一〇日付けで出版したが、その五二頁から一一二頁までには被告【A】の構
成による「NHK大河ドラマ・ストーリー春の波涛」(以下「ドラマ・ストーリ
ー」という。)が、二〇八頁から二一四頁までには「エピソード人物事典」がそれ
ぞれ掲載され、右エピソード人物事典中の二一〇頁には「川上貞奴」なる項目があ
り、貞奴に関する記述がなされている(以下、右エピソード人物辞典中の貞奴に関
する記述部分を「人物事典」といい、これと本件ドラマ及びドラマ・ストーリーと
を合わせて「本件ドラマ等」という。)。
4 原告作品の特徴
 従来公刊されていた著作物においては、貞奴をその夫川上音二郎(以下「音二
郎」という。)の蔭にある女性として描いており、貞奴自身の社会的活動及び生涯
をまともに評価したものはなかった。演劇史上及び女性史上の貞奴の位置付けもな
おざりにしたものがほとんどであった。
 しかるに、原告作品は、貞奴の自我と主体性を問うという新しい視点から、資料
を掘り起こし、原資料及び参考文献を洗い直し、関係者より聴き取りをし、選び出
した素材に新たな光を当て、構成をし、創作的表現によって貞奴七五年の生涯を詳
細に再生し、貞奴の内面からその実像を求めたものであって、女優を職業として確
立するに至った道程を検証し、これを主題として演劇史上及び女性史上の新たな位
置付けを試みた文芸作品である。そして、原告作品には、右主題による貞奴の生涯
の再生と史的位置付けに、従来の著作物に見られない独自性、創作性がある。
5 本件ドラマの原告作品との類似性
(一) 本件ドラマには、別紙一「「女優貞奴」・「春の波涛」類似箇所対比表」
記載のとおり、原告作品の表現と類似する箇所が多数存在する上、貞奴が「女性と
して主体的に生きて女優業を切り開いた」という内容の主題、別紙二「女優貞奴の
構図」に記載されたような人物の関係、貞奴を主人公とする物語全体の筋とその展
開、貞と桃介の相互関係の設定と展開、桃介周辺の登場人物(福沢諭吉、その次
女・房)の相互関係と展開、貞と音二郎の相互関係の設定と展開、貞を伴侶とする
までの音二郎及びその周辺の登場人物の相互関係の設定と展開が類似している。
(二) 別紙一の類似箇所について説明を加えると、次のとおりである。
(1) 主題とその展開の類似性(別紙一の一ないし八)
① 原告作品の主題を表わした部分は、別紙一の一ないし八の上段に示したとおり
であり、その展開に従って要約すると、次のとおりである。
イ 女優の資質と素養(別紙一の一)
 貞は、芸者時代にいずれも男役つまり立役ばかりを演じて、芸者芝居に熱中し、
その資質と素養を育み、音二郎と結婚し、演劇との関わりを持つことになった。女
優の資質と素養に関して、「芸者時代の修業が役立った」として、芸者芝居への熱
中を織り込んで筋立てているが、このように明言した作品は、これまでなかった。
ロ 女優になるきっかけ(別紙一の二)
 貞が自ら女優の道を歩むことになった具体的契機は、サンフランシスコの興行先
で、貞のポスターが街角にはりめぐらされているという周囲の状況から一座を救う
ため舞台に立ったことである。
ハ 欧米で舞台に取り組む姿勢(別紙一の三)
 道成寺など「極限に追いこまれて必死につとめた舞台」が、「迫力のある舞台」
となり、「群衆を魅了し……一夜明けると貞奴はスター」になっていた。以後、貞
奴は、欧米巡業で世界屈指の女優としての名声を博した(先行資料の「川上音二郎
貞奴漫遊記」(乙四五)にあっては、舞台の姿勢が称賛されたのは、「思も寄らぬ
怪我の功名」であったとしているのに、原告作品にあっては「極限に追いこまれて
必死につとめた舞台」だったので「そこに感動が生まれ、迫力のある舞台となった
のだろう」と筋立てているのであって、この両者は決定的に異なっている。)。
ニ 女優として立つ決意(別紙一の四)
 貞は、帰国して日本で舞台に立つことになるが、女優として立つことに逡巡す
る。音二郎の妻として、夫の影になって生きるべきだという「妻の枷」をはめる世
間への慮りもあったろうが、むしろ、貞自身は、「女優の演技の基礎といえば何一
つしていないも同然」の我が身を、演劇修業の厳しさと対置させて、「出る以上
は、基本から身につけなければならない。一度失敗すれば、どういうことになる
か、無残に否定され、女優の未来はそれだけ遠ざかり、更に困難になるのだ。……
貞が失敗すれば、ただでさえ困難な女優の道がいっそう険しくなる。不用意には応
じられない。……世界女優の折り紙をつけられた貞に、失敗は許されない。」と考
え悩んだ末に決意し、自らを鍛え直した上、女優として自覚的に舞台に立つことに
なる。原告作品は、様々の資料の重なりの中から、貞の心の深みにまで光を当てて
いる(先行資料である【B】著「川上音二郎」(乙一八)によると、貞奴が日本へ
帰ったら絶対に舞台へは立たないと言った最大の理由は、「川上の心に、鞭を打つ
つもりから」であったというのものである。)。
ホ 女優としての評価(別紙一の五)
 「オセロ」、「ハムレット」等を公演し、「貞奴は、満都の人気を一身に集め
た。現象的には西洋での場合と同様、たった一年で、一際抜きんでて輝く別格の俳
優となったのである。」
 これまで、「女役者のみの『女芝居』の延長のような『女優劇』」はあったけれ
ども、貞奴の場合は、「劇界の片隅を占めるのではなく、男優をしのいでその頂点
に立った。女役者の殻を脱いで、女優への転身をなしとげたのは、貞奴自身の資質
と努力のたまものだった」のである。また、貞奴は、「お伽芝居、就中『浮かれ胡
弓』によって、演技の醍醐味を味わ」い、「さしも川上嫌いの面々も、こぞって支
持を表明した。」「子供たちを喜ばせ、貞奴自身も心を洗われた。」
 この部分は、「オセロに苦しんだ貞奴がお伽芝居によって演技の醍醐味を味わっ
て女優開眼に至り、ハムレットに及んで女役者から近代女優への転身をなしとげ
た」という物語であり、他に類のない原告作品独自の創作的表現である。また、貞
奴を女優として高く評価し、それを原告作品のように表現した作品は、他にない。
ヘ 女優養成所(別紙一の六)
 さらに、貞奴は、女優養成の必要性を痛感し、女優に対する攻撃に敢然と立ち向
かうことになる。「明治の女優排斥のすさまじさは、想像を絶するものがあった。
男尊女卑の毒素が地底から噴きあげ、火山灰になって襲いかかった。」「貞奴は猛
威をふるった女優攻撃の矢面に立って、この養成所を設立した。」
 女優といえば、品行が真先に問題とされ、堅気の娘は女優になるまじきものと考
えられていた時代に、「過剰なまでに、生徒の品行と男女交際を厳しくとりしま」
りながら、音二郎の単なる協力者としてではなく、女優の志願者に道を開いたので
ある。これは、貞奴に真に女優としての自覚がなければ到底果たしえない事業であ
った。
 原告作品には、貞奴が単に女優養成所を開設したというのではなく、「貞奴が、
猛威をふるった女優攻撃の矢面に立ち、世間の偏見に対抗して、女優への道を開い
た」という独自の物語性がある。
ト 音二郎没後の活躍(別紙一の七)
 さらに、貞奴は、新派の退潮期に女優を続け、音二郎亡き後もその遺志を継い
で、「トスカ」で好演し、敢えて「サロメ」に挑戦した。女優として高い評価を受
け、世間の「引退せよ」の声に抗して苦闘した。「貞奴は辛く苦しくはあってもこ
の時まで一度も、引退すると言ったことはなかった。それどころか折にふれて、西
洋の女優の例を話して、引退説を否定し、抗弁していた。ヨーロッパでは七十二歳
になる【C】をはじめ、高齢の女優が活躍しており、貞奴もまだ引退を考えてはい
なかった」からである。
 また、河原乞食に対する社会の排斥に立ち向かい、貞奴は、音二郎の銅像を建て
た。「音二郎が劇界につくした功績は大きくても、所詮は河原者と見下げられるの
だった。貞奴はせめて自分が銅像を建てなくて誰が建ててくれようと思った。貞奴
が銅像建立の希望を捨て、普通の石碑にしておけばこんなに苦労しなくてもすんだ
……だが、河原者の悲哀を思い知って、貞奴は逆に強くなった。」
 このように、「音二郎亡き後、女優を続け帝国座も引き継ごうとして苦しむ貞奴
が『トスカ』で芸の力を見せ、『サロメ』競演で気品と風格を示し、音二郎の銅像
建立の場面で役者蔑視の風潮と戦いながら、女優の生き辛い時代を生きぬく」とい
う筋立ては、原告作品独自の物語であり、創作的表現である。
チ 女優引退(別紙一の八)
 しかし、貞奴の引退の決断は、桃介が賭に出て打った桃介危篤の電報が地方巡業
中に届き、そのため貞奴が桃介のもとに帰ったことが引き金になった。「貞奴が桃
介の術策にかかったのだとしても、貞奴も自分の本心の見極めがついて、観念し
た。だが貞奴には、自ら芝居を捨ててしまった敗北感が残った。その敗北感を押し
やるためにも」引退興行は華やかで盛大であった。
 貞奴の「女優引退」に関して、「桃介の危篤電報を引き金として、貞奴は引退に
追い込まれる」という筋立てにしたのは、桃介が貞奴に電報を打ったとの新聞記事
をヒントにして、原告が創作したフィクションである。
リ 主題の要約
 原告作品は「あとがき」において、「貞奴は、……生まれながらにして、明眸皓
歯に恵まれていたが、何よりも精神力において、たちまさっていた。この精神の勁
さばかりは、貞奴が自ら培ったものであり、それゆえに女優の先駆たり得た。女優
が世に容れられるまでには、長い道のりがあった。当然女のすべき、というよりも
女にしか出来ない職種でさえ、それが普通の状態になるまでには、すさまじい抵抗
を受けねばならなかった。かつては役者もまた、他の職業と同じく、男の仕事であ
り、役者のみならず、芝居の構成メンバーは、表も裏も隅々まで、観客を除く悉く
が男であった。……我が国において貞奴が登場するまでの二百年余、表現者はすべ
て男だった。女はその対象であり、客体でしかなかった。」と記している。原告
は、資料を通底する女優としての自我と主体性を読み取ることによって、「内なる
炎をもたない」夫の脇役という、伝統的女性観から貞奴を解き放ち、現代に受け継
がれている女優の道の開拓者としての、貞奴の実像に迫りえたのである。
② 本件ドラマは、原告作品の主題とその展開に表われたオリジナリティー及び主
題を具象するエピソードに依拠して、貞奴の自我と主体性を全面に押し出して制作
されており、とりわけ主題の表わし方と展開は、別紙一の下段の一ないし八のとお
り、原告作品と同一又は著しく類似している。
イ 女優の資質と素養(別紙一の一)
 芸者芝居に凝っている貞に、「男役ばかりやっているんですよ。」と言わせ、ま
た、貞自ら一〇〇〇円の切符を引き受け、いわば自腹を切って熱中していた有様を
映像化している。
ロ 女優になるきっかけ(別紙一の二)
 先行資料とは表現が異なり、原告作品を脚色したものであることが明らかであ
る。
ハ 欧米で舞台に取り組む姿勢(別紙一の三)
 先行資料にはなく、原告作品と同様の立場から「欧米で舞台に取り組む姿勢」を
表現しているものであり、原告作品をもとにして作成されている。
ニ 女優として立つ決意(別紙一の四)
 本件ドラマは、何年もの修業を積んで舞台に立つ男性のみの歌舞伎を中心にした
当時の演劇の状況のもとで、貞が、女優として舞台に立つことに厳しく内省した心
のありさまをドラマ化しているもので、「女優の道」=「女優の発展」という主題
と関連づけた表現が類似し、文意が同じである。
ホ 女優としての評価(別紙一の五)
 個々の題材が類似すると共に、題材と題材とを結んで女優の道を開くという主題
に関連づけ、体系づけた物語が一致している。
ヘ 女優養成所(別紙一の六)
 「貞奴が、猛威をふるった女優攻撃の矢面に立ち、世間の偏見に対抗して、女優
への道を開いた」という独自の物語性が、そっくり再現されている。
 なお、【D】「マダム貞奴」には、女優養成所に関する言及は、全くない。
ト 音二郎没後の活躍(別紙一の七)
 選び出された題材・素材が一致し、その筋立ても同じであるものは先行資料には
ない。
 原告作品の「女優の生き辛い時代であった」という表現が、「…本当にひとりで
女優をやって行くって大変なことですものね…」(本件ドラマ第四九回・シナリオ
Ⅴ(甲三の五)の二三五頁)という貞のセリフに置きかえられて、同じことを言っ
ている。
チ 女優引退(別紙一の八)
 本件ドラマは、原告作品のフィクションの部分を脚色したものである。
リ 主題の要約
 最終回「波路も遠く」のラストは、フラッシュ・バックで、貞の女優生活の重要
な節々をとらえた上で、ロール・スーパーでもって、「貞奴が開いた女優の道は、
近代日本の文化の発展と共に、現代に脈々と受け継がれている」と主題を要約して
いる。これは、原告作品の主題と同一であり、全編にわたって主題の展開が類似し
ている。
③ これに対し、被告らが本件ドラマの原作とする【D】の「マダム貞奴」及び
「冥府回廊」における貞奴像は、原告作品及び本件ドラマのそれと正反対であり、
心の内に燃え上がる炎を持たない、消極的な受身の女性としてしか描かれていな
い。
(2) 貞奴をめぐる主要な人間関係の類似性(別紙一の九ないし一一)
 原告作品の創作性は、貞の生涯に欠かせない重要な人物と貞との出会い、結びつ
き、あるいは別れの描写に如実に現われている。
① 貞が自分から浜田家へ来た挿話(別紙一の九)
 貞が養母浜田可免を慕って自分から葭町の芸者置屋浜田家へ行ったという部分
は、貞の人生の最初の大きな節目であり、貞を描く上で極めて重要な位置を占める
が、貞が自分から浜田家へ行ったという話は、過去の文献にはない。原告は、貞の
養女川上富司と面談を重ねて聞き出した話を母体に、あたかも浜田家を駆込寺のよ
うに意味付けて描いたものであり、貞が子供なりに主体性と強い自我の芽を発揮し
たエピソードに創り上げたものである。
 本件ドラマは、貞の雛妓以前の子供時代を登場させず、代わりに架空の人物イト
を設定して貞の妹芸者とし、貞奴の分身に当たる位置を与えている。別紙一の九の
下段の記述は、原告作品の記述をイトに転用したもので、イトがドラマの上で果た
す役割は、貞の過去を暗示し、貞という人物の一面を映し出すまさに貞の分身であ
り、原告の創作的エピソードを剽窃し、脚色したものである。
② 貞が音二郎に引幕を贈った話と、貞の音二郎観・結婚観(別紙一の一〇)
イ 引幕
 貞が音二郎に引幕を贈った話は、どの文献にもない原告の独創的な記述である。
また、本件ドラマの台詞のやりとりをみると、原告作品の表現と内容が同一であ
る。
ロ 日蔭者
 原告作品は、貞と音二郎との結びつきが、受け身であったり、世の常識に順応し
たりしたのではなく、さりとて桃介への対抗意識からでもなく、音二郎の人間性に
魅せられた貞自身の選択であったことを強調している。さらに、原告作品は、名士
を排斥する貞の結婚観の背後に、薄幸の実姉花子の影を見出したものであるが、花
子については直接資料となるものはなく、まして、花子という身内の悲哀を、貞の
ものの考え方に組み込んで描いた文献は、過去において存在しなかった。
 本件ドラマは、第一一回放送において、貞の実姉の名を花子から松子に変えただ
けで、原告作品の記述をそっくり写し取り、脚色したものである。
ハ 書生が好き
 原告作品と本件ドラマの表現は、極めて類似している。「名家真相録」には「書
生肌が好き」という部分があるけれども、同一の資料をもとにしてもその読み取り
方は必ずしも一致するものではなく、原告作品の模倣なくしては、原告作品の創作
的表現と酷似することはあり得ない。
③ 桃介との遭遇、親交そして破恋(別紙一の一一)
イ 邂逅
 原告作品と本件ドラマの表現は、貞の服装が和服で馬乗袴のいでたちであるこ
と、貞の乗っている馬が暴れ馬であること、貞が暴れ馬から振り落されまいと必死
でしがみついている(落馬はしていない)状態で桃介に助けられること、原告作品
では桃介は「不動明王さながらに立っていた」のに対し、本件ドラマにおいては桃
介は暴れ馬の前に仁王立ちをしており、不動明王を連想させること、貞奴は桃介を
見て強い衝撃を覚えていること、桃介が貞にかける言葉がいずれも怪我がないかと
いうものであること、桃介の身分について慶応義塾の書生という表現を用いている
こと、貞が満足に礼の言葉を言えなかったこと、以上のように多くの類似点が認め
られる。これらの類似点は、同じように馬を仲立ちにして貞と桃介の出会いを描い
た他の作品とはまったく異なるものであり、本件ドラマは、原告作品の記述を剽窃
しながら、一部を削除することによって剽窃の事実を糊塗しようとしたものであ
る。
ロ ほのかな初恋
 貞が菓子折りを持って慶応義塾へお礼に行った後の運びは、直接の資料といえる
ものがない。そこで、原告は、貞はまだ雛妓の小奴時代であり、桃介も書生である
ことを考えて、お座敷ではなく、二人に戸外を散歩させることにし、芸者と馴染み
客のごとく描かれた先入観の払拭を意図したものである。そして、両者の年齢も考
慮して、ほのかな初恋として描くために、慶応近辺の三田台を散歩しながら、本名
が母と同じだとか、生家の没落だとか、二人に共通の話題によって親近感が生まれ
る場面を作ったもので、いずれも直接の資料に基づかない創作的表現である。本件
ドラマは、この狙いと表現をそのまま借用している。
ハ 別離
 原告作品は、貞と桃介の破恋を明治一九年、貞一五歳、桃介一八歳と特定し、貞
の性格の強さと内心の口惜しさを「またお目にかかりましょう」と涙も見せずに再
会を約す言葉を告げながらも、何が「天は人の上に人を造らず」かと小石を蹴っと
ばす行為で表現した。
これは、まったくの創作的表現である。本件ドラマは、二人の年齢、別れの言葉が
再会を約するものであること、口惜しさの表わし方において類似している。
(3) 個別的な剽窃の類型
 本件ドラマには、そのストーリーの根幹部分とは言えないものの、個別的な箇所
においても、原告作品からの顕著な剽窃が見られる。
① 引き写しの方法による剽窃(別紙一の一二ないし一九)
イ 音二郎の出自の述べ方(別紙一の一二)
ロ 貞の芸者芝居の経験を語る表現(同一三)
 本件ドラマの出版されたシナリオでは、「浜町」「有楽館」「鬼一法眼」「八幡
太郎義家」なる語を用いている(別紙一の一三の下段の2)が、原告が本訴提起前
に被告協会から提示された放送台本によれば、それらは、「蛎殻町」「友楽館」
「『菊畑』の鬼一法眼」「『八幡太郎伝授の鼓』の八幡太郎義家」となっており
(同下段の1)、これらは、原告作品で用いられている語とほとんど同一であっ
た。被告協会は、原告から原告作品との類似を指摘されたことから、本件ドラマの
シナリオを出版するに当たり、先行資料である「女優歴訪録」の記載に沿うように
改めたものであって、原告作品に依拠した事実を隠ぺいしようとしている。
ハ 貞のポスターに関する表現(同一四)
ニ 烏森芸者一行の演目(同一五)
ホ 帝国座の作りとその客足の記述(同一七)
ヘ ゴロ合わせによる引き写し(同一八)
ト 経文のカナ表記の引き写し(同一九)
② オリジナリティーの盗用例(別紙一の二一ないし二六)
イ 一ツトセ節から官ちゃんと官吏侮辱罪、逮捕のエピソード(別紙一の二一)
 原告作品は、広く流布した民権数え唄と音二郎作の替え唄とを比較して音二郎の
特色を示した上で、「官ちゃん」を理由に、音二郎が官吏侮辱罪の現行犯として逮
捕される場面に作り替えたものであり、創作的表現である。本件ドラマは、一ツト
セ節を選び出したところから逮捕に至るまで、エピソード全体が原告作品に依拠し
て制作されている。
ロ 憲法草案作成の夏、貞が水泳を習うエピソード(別紙一の二二)
 貞の記憶する一夏が明治何年のことか検証した上で、夏島草案作成の明治二〇年
に当てはめて再生し、さらに時流との対比から、貞のものおじしない進取の気性を
語らしめた創作的表現である。
ハ 音二郎の落選に関する創作的表現(別紙一の二三)
 原告作品は、原告が、音二郎の談話に基づく「名家真相録」の記載を当時の新聞
や通史、政治史等と照合し、音二郎落選の原因が通説にいうところの強い対抗馬と
か新聞に叩かれたせいばかりではなく、選挙権のない人々に政見演説をしたところ
に根本原因があったと理解して記述した創作的表現である。ドラマ・ストーリーの
当該部分(別紙三の23c)は、これを引き写したものであり、本件ドラマは、こ
れに小手先による変容を加えたに過ぎない。
ニ 川上座を手放す音二郎の心境を推測する創作的表現(別紙一の二四)
 原告作品は、出典には述べられていない川上座の転売後の使用状況につき、あた
かも自分の子供と別れるかのように思いを馳せる音二郎の心情を慮って書き加えた
創作的表現である。本件ドラマは、「氷庫」を「物置き倉庫」に置き換えたに過ぎ
ない。
ホ 貞奴の「道成寺」好評に関する表現(別紙一の二五)
 原告作品で、極限状況で必死につとめた舞台が成功の原因となったとする書き
方、「振り出し笠」の場面で貞が倒れてしまうとする点は、いずれも独自の解釈に
よる創作的表現であり、本件ドラマはこれをそのまま脚色している。
ヘ 「人肉質入裁判」の貞奴の台詞(別紙一の二六)
 貞奴がこの場面で台詞の代わりに不動明王の経文を唱えたする記述は、原告作品
以外にはない。これは、原告が、養母可免が熱心な不動明王の信者であったこと、
貞が可免のもとに養女にいったのが四歳のときであったこと、独自の調査から貞が
右の経文をそらんじて唱えることは当然できたという視点から、咄嗟の場合にも自
然に口についで出てきたであろうと想定して描写した創作的表現である。本件ドラ
マは、「スチャラカポコポコ」等に引き続いて何の脈絡もなく経文の一部を取り入
れて「ウンタラタ」「ウム、タラタ」というものであり、原告作品の創作的表現の
剽窃である。
③ 転用の方法による剽窃例(剽窃隠ぺいの塗り残し)(別紙一の九、二二、二
七)
 著作物の基本要素を適宜に取り替え、事実そのとおりに表現しないことは昔から
よく利用されており、原著作物から別のジャンルの作品を形成する翻案の場合にも
しばしば用いられる。本件ドラマも、原告作品の著作部分をもとに種々の転用を行
っており、本件ドラマが原告作品からの剽窃を行っていることの証左である。
イ 貞が養女になる経緯(イトヘの転用)(別紙一の九)
 原告作品において表現されている貞に関する著作箇所を、そのまま架空の人物で
あるイトに転じて用いている。
ロ 憲法草案と華族令草案(別紙一の二二)
 本件ドラマは、原告作品において「憲法草案」「夏島」となっている箇所を「華
族令草案」「熱海」と転用し、全体の場面描写は原告作品に全面的に依拠してい
る。この転用は、作品の資質を高めようとの意図からではなく、もっぱら剽窃であ
ることに隠ぺいするためのものである。
ハ 七二歳の【C】(別紙一の二七)
 明治大正の雑誌等に、貞の談話の形で、貞がしばしばフランスの女優【C】を引
合いに出して女優業について語っている記載があるが、原告は、これを参考にし
て、貞の引退が問題とされた大正五年の時点では、一八四四年生まれの【C】は七
二歳であるとして、創作的要素を加えて描写したものである。ところが、女優養成
所開設の明治四一年には【C】は六四歳であるのに、本件ドラマはその時点で七二
歳としたものであり、稚拙な転用である。
ニ 誓紙と誓詞(別紙一の二八)
 貞奴に関する著作で、この色紙に言及したものは原告作品以外にはない。原告作
品は、誓いを記載してある色紙の面に主眼をおいているので、「誓紙」と表現して
いるが、本件ドラマでは、「みんなで誓紙を書くのだ」「亀吉が誓紙を書いた色紙
を手にして」と表現しており、極めて奇妙な表記になっている。その場面では、
「誓紙」ではなく「誓詞」でなければならない。これは、原告作品の「誓紙」を前
後の関係を考えることなく引き写したためである。
6 ドラマ・ストーリーの原告作品との類似性
(一) ドラマ・ストーリーは、後記(二)のとおりその内容が原告作品に類似す
る上、別紙三「「女優貞奴」・「ドラマ・ストーリー春の波涛」類似箇所対比表」
記載のとおり、その表現か原告作品の表現と類似する箇所が多数存在し、右5にお
いて本件ドラマについて述べたのと同様、主題、人物関係を始めとして、序章から
結末に至るまでの筋の展開、構成においても、多数の類似箇所が存在する。
 なお、ドラマ・ストーリーを含む本件書籍は「NHK大河ドラマ『春の波涛』の
番組鑑賞の手引きとして」編集発売された旨、巻末に明記されている。主題、骨
子、全体の流れが本件ドラマの内容と掛け離れたものであれば、手引と称して発売
したことが偽りとなってしまうから、被告らが本件ドラマとドラマ・ストーリーの
内容が本質的に相違すると主張することは許されない。ドラマ・ストーリーは、ド
ラマ鑑賞の手引として、本質的に本件ドラマと同一の趣旨のものである。
(二) ドラマ・ストーリーと原告作品の筋の展開、構成の類似は、次のとおりで
ある。
(1) まず、プロローグにおいて、主人公の貞が「板垣君遭難実記」を養母浜田
亀吉と見に来て、新演劇の旗頭川上音二郎に熱中し、引幕を贈ったと告げ、「あの
人と一緒にいると、何かおもしろいことが起こりそうな気がするの。考えもつかな
いようなおもしろいことがね。」と胸中を吐露する。
 これは、本件ドラマ第一回放送の冒頭と同じである。「考えもつかないようなお
もしろいこと」として、貞が音二郎と一緒になって日本で女優の道を開くという主
題の方向が示されている。原作作品と同じ主題であり、第二章に類似している。
(2) 第一章「馬上の女」は、貞の小奴時代にさかのぼって、後に女優となる契
機がいかにして訪れたかを、直接間接に関わった主要人物の紹介と共に示して、岩
崎桃介との衝撃的な出会いから、音二郎が弁士になる直前までがまとめられてお
り、貞の相談役としての音二郎、桃介の境遇、人となりが説明されている。
 これは、第一回及び第二回放送分の手引であり、原告作品の第一章及び第二章に
類似している。
(3) 第二章「自由童子誕生」は、貞が小奴から奴となるまでの間の、貞、音二
郎、桃介の青春時代の描写により、後に貞の女優人生に大きな影響を及ぼす二人の
男性との関わりが示される。
 これは、第一回ないし第八回放送分の手引であり、原告作品の第一章及び第二章
に類似している。
(4) 第三章「オッペケペ」は、貞が女優として文字どおり苦楽を共にすること
となる音二郎と結ばれてプロローグの時点に戻り、その後、二人の結婚を中心とし
て、オッペケペの流布から、音二郎が新演劇の旗頭となり、貞の支援で渡仏し、帰
国後照明などに工夫を凝らした芝居で成功するまでがまとめられ、桃介と房子との
夫婦仲が冷たいことも組み込まれている。
 これは、第九回ないし第二一回放送分の手引であり、原告作品の第一章及び第二
章に類似している。
(5) 第四章「日本脱出」は、自前の劇場川上座建設を中心に、貞と音二郎の新
婚時代から、失意の冒険渡航がアメリカ巡業につながるまでがまとめられている。
 これは、第二二回ないし第二七回放送分の手引であり、原告作品第二章及び第三
章に類似している。
(6) 第五章「海外巡業」は、サンフランシスコに着くと貞が主演女優であるか
のように宣伝されていたため、貞がやむなく舞台に立つという経緯から、極限に追
い込まれ死力を振り絞って舞台をつとめた結果、一夜明けるとスターだったという
シカゴを経て、ロイ・フラー劇場に出演して絶賛を浴び、音二郎と共にオフィシ
ェ・ド・アカデミーを受け、世界的女優となるまでがまとめられ、脇筋に「かっぽ
れ」「ヘラヘラ」などを見せる烏森芸者一行に随行する奥平剛史との邂逅が組み込
まれている。
 これは、第二七回ないし第三二回放送分の手引であり、原告作品第三章及び第四
章に類似している。
(7) 第六章「女優第一号」は、帰朝公演では音二郎否定論の大合唱が起きた
が、二度目のヨーロッパ巡業から帰って目指す方向がはっきりするという音二郎の
動向から、日本で女優の道を開くべく『オセロ』出演を決意するまでの貞の心情、
葛藤を中心に、苦痛を伴いながらも女優として自信と意欲を持つに至るところまで
がまとめられ、プロローグに提示された主題が明確にされる。脇筋に、福沢家との
養子の縁を切ってしまいたいと思う桃介と房子との仲が破綻したことが組み込まれ
ている。
 これは、第三二回ないし第三五回放送分の手引であり、原告作品第四章及び第五
章に類似している。
(8) 第七章「劇界の改造」は、川上嫌いの面々もこぞって支持を表明し、貞自
身も心を洗われ、女優になってよかったと思うお伽芝居から、音二郎の提唱する正
劇への賛辞、「ハムレット」での改革成功を中心に、三度目のパリへ向かうまでが
まとめられて、主題が展開される。その間に、日露戦争を背景に株で巨利を得た桃
介と、帝国劇場設立発起人会での音二郎・貞夫妻との顔合わせが組み込まれてい
る。
 これは、第三五回ないし第三六回放送分の手引であり、原告作品第五章及び第六
章に類似している。
(9) 第八章「新時代の足音」は、女優養成所開設の状況を中心に、貞が、世の
ごうごうたる非難に悲憤慷慨しつつ女優を育て、かつ、音二郎の率いる革新興行の
舞台をつとめ、伊藤博文に立派な女優になったと言われるようになったこと、莫大
な借金を抱えて大阪帝国座を建てた音二郎が業半ばにして逝ったこと、音二郎の没
後、演劇の潮流が変わりつつある中で、引退説がかしましくなり、また、桃介との
スキャンダルで騒がれるが、貞は女優をやめなかったこと、しかし遂に帝国座を手
放すに至ることなど、世の偏見と戦い、女優の道を切り開き、女優を続ける貞奴が
紹介されて、主題がさらに深められる。脇筋に、松井須磨子の抬頭が組み込まれて
いる。
 これは、第三七回ないし第四六回放送分の手引であり、原告作品の第六章及び第
七章に類似している。
(10) エピローグは、約四メートルの銅像になつた音二郎に貞が微笑む場面で
締めくくり、「つらいこともあったけど、あんたと一緒になってよかった」という
貞の独白と共に、「これからの貞の道は平坦ではないし、世間の冷たい目やつらい
ことはいくらでもあるが、貞は身内に力がみなぎってくる」とこれからも世の偏見
と戦い、女優の道の開拓者としての自覚と自負をもって生きていく貞である旨、主
題を取りまとめて終わっている。
 これは、第四五回ないし第五〇回放送分の手引であり、原告作品第七章、第八章
及び終章に類似している。
(11) 右のとおり、プロローグからエピローグまで全篇を通して、原告作品の
主題と貞奴の女優人生の縮図を描き出した序章に類似している。
7 人物事典の原告作品との類似性
 原告作品と人物事典との類似性は、別紙三の58のとおり、明らかである。
8 著作権の侵害
 右5ないし7のとおり、本件ドラマ等は、いずれも原告作品の表現、主題、構成
等を剽窃したものである。したがって、本件ドラマ等を制作し、放送し、出版し、
あるいはこれら放送等の行為に関与した被告らの行為は、以下のとおり、原告が原
告作品について有する著作権及び著作者人格権を侵害するものである。
(一) 被告協会が、原告作品をドラマ形式に翻案して、本件ドラマを制作したこ
とは、原告の翻案権(著作権法(以下「法」という。)二七条)を侵害する。
 また、右翻案に係る本件ドラマは、原告作品の二次的著作物であるから、被告協
会が本件ドラマを放送したことは、原告作品の二次的著作物についての放送権(法
二八条、二三条)をも侵害する。
(二) ドラマ・ストーリー及び人物事典は、原告作品をほぼそのまま模倣したも
のであるから、被告会社がこれを制作して出版したことは原告の複製権(法二一
条)又は翻案権(法二七条)を侵害し、さらに、ドラマ・ストーリー及び人物事典
は原告作品の二次的著作物であるところ、被告会社がこれを含む本件書籍を出版し
た行為は、二次的著作物の利用に関する原著作者の権利(法二八条、二一条)を侵
害する。
(三) また、原告作品の二次的著作物である本件ドラマ等について、いずれも原
作者として原告の氏名を表示することなく、被告協会が本件ドラマを放送し、被告
会社が本件書籍を出版したことは、原告の氏名表示権(法一九条)を侵害する。
9 被告らの責任
(一) 被告協会は、原告作品についての原告の著作権及び著作者人格権を侵害す
ることを知りながら、本件ドラマを制作して放送し、被告【A】は、その脚本を執
筆することにより、右制作及び放送に関与したものであるから、被告協会及び被告
【A】は、いずれも、右著作権及び著作者人格権の侵害行為について、原告に対し
損害賠償責任を負う。
(二) 被告会社は、原告の著作権及び著作者人格権を侵害することを知りなが
ら、ドラマ・ストーリー及び人物事典を含む本件書籍を制作して出版し、被告協会
及び被告【A】は、右制作ないし出版に関与したものであるから、被告らは、いず
れも、右著作権及び著作者人格権の侵害行為について、原告に対し損害賠償責任を
負う。
10 原告の被った損害
(一) 本件ドラマに関して被告【A】が受け取った脚本料は五〇〇〇万円を下ら
ないところ、一般に原作料は右脚本料の二〇パーセントの一〇〇〇万円であるか
ら、本件ドラマの制作、放送に関して原作者が通常受けるべき金銭の額は、右一〇
〇〇万円である。したがって、本件ドラマに関する被告協会及び被告【A】の著作
権侵害行為によって原告が被った財産的損害の額は、一〇〇〇万円である。
 また、本件ドラマに関する氏名表示権の侵害によって原告が被った精神的苦痛を
慰謝するのに必要な慰謝料は、三〇〇万円を下らない。
(二) ドラマ・ストーリー及び人物事典に関し、被告【A】がドラマ・ストーリ
ーについて受け取った原稿料は二〇〇万円であったが、原作者が通常受けるべき原
作料は、その半額の一〇〇万円を下らない。したがって、ドラマ・ストーリー及び
人物事典に関する著作権侵害行為によって原告が被った財産的損害の額は、一〇〇
万円を下らない。
 また、右ドラマ・ストーリー等に関する氏名表示権の侵害によって原告が被った
精神的苦痛を慰謝するのに必要な慰謝料は、一〇〇万円を下らない。
11 謝罪広告の必要性
 被告ら(本件ドラマについては、被告協会及び被告【A】)は、原作者として
【D】の氏名のみを表示し、原告の氏名をまったく表示することなく本件ドラマ等
を制作して、これを放送又は出版したものであり、それによって原告の社会的声望
は著しく損われたから、原告の社会的声望を回復するために、請求の趣旨第3項記
載の内容の謝罪広告の掲載をすることが適当である。
12 結び
 よって、原告は、本件ドラマに関し、被告協会及び被告【A】に対し、著作権侵
害による損害賠償の一部として各自五〇〇万円及び著作者人格権侵害による慰謝料
として各自三〇〇万円(各自合計八〇〇万円)並びにこれらに対する不法行為によ
る結果発生後である被告協会については昭和六〇年一二月二九日から、被告【A】
については昭和六一年一月一日から、それぞれ支払済に至るまで民法所定年五分の
割合による遅延損害金の支払をすることを求め、ドラマ・ストーリー及び人物事典
に関し、被告らに対し、著作権侵害による損害賠償として各自一〇〇万円及び著作
者人格権侵害による慰謝料として各自一〇〇万円(合計各自二〇〇万円)並びにこ
れらに対する不法行為による結果発生後である被告協会及び被告会社については昭
和六〇年一二月二九日から、被告【A】については昭和六一年一月一日から、それ
ぞれ支払済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払をすることを
求め、著作者人格権に基づき、被告らに対し、請求の趣旨第3項記載の謝罪広告の
掲載をすることを求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1及び2の事実は認める。
2 同3の事実のうち、被告協会が制作、放送したドラマ(本件ドラマ)の内容が
貞奴の生涯を中心とする内容のものであること、被告会社が出版した本件書籍が本
件ドラマの梗概の記載を中心とするものであることは否認し、その余の事実は認め
る。
3 同4の事実は知らない。
4 同5の事実のうち、原告作品及び本件ドラマのシナリオに別紙一のとおりの記
述箇所があることは認め、その余の事実は否認する。
5 同6の事実のうち、原告作品及びドラマ・ストーリーに別紙三のとおりの記述
箇所があることは認め、その余の事実は否認する。
6 同7の事実のうち、原告作品及び人物事典に別紙三の58のとおりの記述箇所
があることは認め、その余の事実は否認する。
7 同8ないし11の事実は、否認する。
三 被告らの主張
1 原告作品の基本的性格
 原告作品は、以下の(一)ないし(三)の点から、行跡の注目すべき人物の生涯
を、様々な事件や言動を通じて描いたいわゆる伝記であり、事実の正確さを追求す
る点において、歴史ないし史学の分野に属する作品に当たる。したがって、歴史小
説、すなわち、同じ歴史上の事柄を題材としながらも歴史上の事実の真相を究明す
ることを目的とせず、美的観賞ないし娯楽上の享受を目的として作成され、発端か
らクライマックスを経て終結に至る首尾一貫した物語性をもち、それを時間的順序
に従って因果関係をたどっていく書き方や主人公に対して与えられた明確な性格等
を特徴とする小説形式とは異なる。
(一) 原告作品の本文中の序章及びあとがきの記載によれば、原告が原告作品を
執筆した意図は、女性が抑圧された状況から解放される可能性を歴史的に検証しよ
うとの要求から、明治以降の演劇史上において女優第一号と言われる貞奴の生涯を
取り上げ、その行跡を明らかにし、現代のいわゆる女性運動を励まし、勇気づけよ
うとしたところにあることが窺われる。
(二) 原告作品は、貞奴という実在の人物の行跡を、多数の先行資料によって語
らせる手法により、ほぼ年代順に記述し、その帯広告にも、伝記であることが明示
されている。
(三) 原告には、請求原因1の事実のとおり、原告作品以外の著書があるが、い
ずれも女性運動に励んだ人物を取り上げた伝記であり、原告作品もこれと同じ系列
に属する作品と考えられる。
2 本件ドラマ及びドラマ・ストーリーの制作過程
(一) 本件ドラマは、原告作品が公表される昭和五七年八月一五日より八か月以
上も前から、被告協会のドラマ部を中心にして独自に企画を立て、【D】の「マダ
ム貞奴」及び「冥府回廊」を原作として、被告【A】が、そのオリジナリティを加
えて脚本化し、独自に収集した膨大な文献を時代考証や登場人物像創造の参考資料
として駆使して、制作されたものである。
(1) 本件ドラマのチーフ・プロデューサーとして制作に当たった【E】(以下
「【E】」という。)は、昭和五二年一二月ころ、書店で右「マダム貞奴」(昭和
五〇年一月読売新聞社発行)を知り、一挙に通読して貞奴の波瀾の人生に興味を持
ち、これを素材にしてドラマを制作したいとの着想を得、【F】著の「川上音二
郎」等の資料の閲読研究を行ったが、当時の番組枠に適当なものがなかったことな
どから、ドラマ化は実現しなかった。
(2) 一方、ドラマ部においては、昭和五六年末ころ、従来の時代劇中心の大河
ドラマを、明治以後現代に至るまでの間の時代を背景に、歴史に埋没している庶民
の中の人物を取り上げ、史実を超えて自由な創作を加味して描く、いわゆる「近代
シリーズ」に転換できないかとの検討を開始し、それにふさわしい原作のための調
査資料の収集を始めたが、その際、「マダム貞奴」もリストアップされた。
(3) ドラマ部は、昭和五七年二月ころから、リストアップされたいくつかの作
品の検討を始め、以前から「マダム貞奴」のドラマ化に興味を持っていた【E】の
積極的な活動等の結果、同年末ころには、これが昭和六〇年放送予定の大河ドラマ
の原作の最有力候補として選定されるに至ったが、一年に五〇回もの莫大な表現量
を有する大河ドラマを「マダム貞奴」のみで維持するのは無理なため、新たに主人
公として、音二郎、福沢桃介(以下「桃介」という。)、福沢房子(以下「房子」
という。)を加えた上、別の観点から描いた新作(後の「冥府回廊」)を、【D】
に執筆してもらうことが、前提条件として付された。
(4) これら一連の企画作業を経た昭和五八年三月、【E】は、本件ドラマのチ
ーフ・プロデューサーとして、以下の事項について指示を受けた。
① 本件ドラマのテーマ(制作意図)は、貞奴、音二郎、桃介及び房子の四名が、
互いに織りなす愛憎を中心に、庶民の姿を描くことにあり、五〇回分の大河ドラマ
のために、「マダム貞奴」の使用と、これと表裏一体をなす新作の執筆の可能性を
探ること。
② 制作スタッフ(【E】以外にチーフ・ディレクターの【G】及びデスクの三名
を中心とする。)において、時代考証、登場人物創造のための文献、資料を収集す
ること。
(5) 以上の企画のもとに、【E】は、【D】に対し、昭和五八年四月上旬こ
ろ、本件ドラマの制作意図を説明すると共に、桃介、房子の立場から新作を書き下
ろしてほしい旨依頼し、同人はこれを承諾して、昭和五九年六月、新作「冥府回
廊」を脱稿した。
(6) また、【E】ら制作スタッフは、昭和五八年六月から、被告協会資料室の
協力を得て、昭和五四年一一月放送のテレビ番組「歴史への招待〔川上座海を渡る
ー女優一号貞奴〕」制作のために収集された文献、資料の他、改めて明治、大正時
代の政治、経済、文化全般にわたっての資料、文献を収集し、その結果、昭和五九
年五月までには、リンゴ箱大の段ボール箱五個分に相当する文献、資料が収集され
るに至った。
 なお、右の過程において、【E】は、原告作品の存在を知り、それを閲読すると
共に、昭和五九年三月、原告に対し、資料考証面での協力を求めたが、原告は、自
分を原作者とするのでなければ協力できない旨述べたので、【E】は、原告から協
力を得ることを断念した。
(7) ドラマ部は、【E】ら制作スタッフと協議の上、昭和五八年八月、脚本担
当者を被告【A】とすることに決定し、【E】は、その旨被告【A】に依頼したと
ころ、被告【A】は、【D】から、脚本を制作するに当たって原作にないオリジナ
リティーを加えることの了承を得ることを条件に、脚本執筆に応じるとの返事であ
ったため、【E】らは、【D】の承諾を得て、被告【A】の申入れに応じることに
した。
(8) 被告【A】は、【D】の新作「冥府回廊」の第一回原稿ができ上がった昭
和五九年二月二九日から脚本制作の作業に着手し、既に収集された文献、資料を読
破、検討し、【E】らとの間でドラマに登場させる人物の取捨選択等の協議を経た
上、同年七月下旬から八月上旬にかけて、第一回から第三回までの脚本の準備稿を
書き上げ、これをもとに、同年八月下旬、第一回から第三回までの脚本を完成さ
せ、以後一か月に約三回のペースで順次脚本を執筆し、昭和六〇年八月末ころまで
に全脚本を完成させた。
(9) 以上のような過程で作成された被告【A】の脚本に基づき、被告協会は、
一〇〇名を超えるスタッフをもって、それぞれの専門的場から映像化に向けての創
意工夫を行い、昭和五九年九月二〇日の海外ロケーションを皮切りに、一年余りに
わたって本件ドラマの収録を実施し、完成させた。
(二) 以上のとおり、本件ドラマは、被告協会が、【D】の「マダム貞奴」及び
「冥府回廊」を原作として、独自の企画のもとに制作したドラマである。
3 原告作品と本件ドラマ等の対比
(一) 法により保護される対象範囲は、当該作品の外面的表現形式(外面形式)
及び内面的表現形式(内面形式)に限定され、それを超えたアイデア自体、歴史的
事実・素材を要素とする先行資料、単語・慣用句・固有名詞等は、少なくとも法の
保護の対象とならない。
 したがって、複製権侵害が成立するか否かは、専ら二つの作品の外面形式におけ
る対比の問題であり、翻案権侵害が成立するか否かは、両作品の外面形式及び内面
形式における対比の問題であり、仮に、アイデア自体、歴史的事実、素材等、単
語、慣用句、固有名詞のみを対比して、類似している部分があるとしても、そのた
めに著作権侵害が成立することはあり得ない。
(二) したがって、原告作品と本件ドラマ等の外面形式及び内面形式を対比し
て、右両作品の「著作物としての同一性」の有無を判断し、それがない場合には、
本件ドラマ等による著作権侵害は成り立たないことになる。
 ところで、前記1のとおり、原告作品は伝記であって、原告の独自の調査に基づ
いて判明した事実が原告作品中で公表されたとしても、それが歴史的事実として公
表されている以上、当該事実自体が著作権の保護対象となるものではなく、この点
で、原告作品の著作権の及ぶ範囲は、自ずと限定されている。
 したがって、原告作品及び本件ドラマ等について「著作物としての同一性」があ
るとするためには、両作品の外面形式及び内面形式がすべて同一か又は大部分が同
一であることを要するところ、以下のとおり、両作品には、「著作物としての同一
性」がない。
(1) 著作物としての態様の対比
 原告作品は、多数の先行資料等を参考にして、しかも、可能な限り史実に基づい
て執筆された態様のものであり、他方、本件ドラマ等は、多数の先行資料、独自の
取材等を参考にして、男女間の愛憎、その時代の数々の社会情勢等を描写すること
によって、テレビドラマ用の生々しい人間像を創作するために制作されたものであ
る。
(2) 叙述内容の対比
 原告作品は、多数の先行資料をもとに探知収集した貞奴についての多数の歴史的
事実を、歴史的経過に従って、資料の引用等によって叙述したもので、その「史実
記述部分」と「史実記述部分」との間には大きな断層があり、「物語性」に通常存
する「一貫した連続性」を欠いた叙述内容を特徴とするのに対し、本件ドラマ等
は、貞奴、音二郎、桃介及び房子の四人の人間像を描写したもので、「一貫した連
続性」のある叙述内容を特徴としている。
(3) 叙述形式の対比
 原告作品は、先行資料に基づいて収集探知した歴史的事実を、資料の引用等によ
り客観的な形式で叙述したものであり、その史実の記述としての性格上、独創的、
個性的表現が見られないのに対し、本件ドラマ等は、各登場人物を現実に生存する
生々しい人間として、会話体の叙述形式で創作展開している。
(4) 作品の性格の対比
 原告作品は、前記1のとおり、伝記、すなわち、事実を主眼に置き、その実像に
迫る記録性の高い作品であるのに対し、本件ドラマ等は、歴史的事実を踏まえなが
らも、それを超えた創作を求める「小説」の範疇に属する芸術性、娯楽性の高い作
品である。
(5) 創作目的の対比
 原告作品が伝記のジャンルに属する作品の創作を目的とするのに対し、本件ドラ
マ等はテレビドラマ放映を目的とする娯楽性のある作品の創作を目的とするもので
ある。
(6) 構成の対比
 原告作品は、その目次の頁に記載されたとおりの構成であるのに対し、本件ドラ
マの構成がこれと異なることは、明白である。
(三) 原告は、本件ドラマが原告作品を模倣して制作されたものであり、別紙一
記載の類似箇所があると指摘する。しかし、類似箇所として指摘された点は、いず
れも先行資料によって明らかになっていた歴史的事実の確認、検証に関する記述に
過ぎず、およそドラマ化が可能となるような「物語性」を有する記述ではないた
め、結局、右指摘に係る本件ドラマの部分とは、同一性、類似性を欠くものであ
る。
 また、ドラマ・ストーリー及び人物事典は、本件ドラマの制作に当たって収集さ
れた前記各種先行資料に基づいて作成され、被告会社から、本件ドラマの放送開始
に合わせて、昭和六〇年一月一〇日付けで発行された本件書籍の一部をなす記事と
して公表されたものであって、本件ドラマと同じく、原告作品とは全く別個の企画
に基づいて作成された作品であり、別紙三における原告の類似箇所の指摘は、いず
れも当を得ないものである。
四 被告らの主張に対する原告の認否及び反論
(認否)
1 被告らの主張1のうち、原告作品が伝記であることは認め、その余の主張は争
う。
2 被告らの主張2、3は争う。
(反論)
1 本件ドラマ等の制作過程について
 被告らは、本件ドラマ等の原作は【D】の「マダム貞奴」及び「冥府回廊」であ
る旨主張しているが、「マダム貞奴」にあっては貞奴の愛憎を、「冥府回廊」にあ
っては房子の愛憎をそれぞれ主題とする筋の展開及び結末を有するものであるのに
対し、本件ドラマ等にはそれがなく、本件ドラマ等と右二作品とは、その基本的性
格を異にしている。
 したがって、本件ドラマ等は、右二作品を原作とするものではない。
2 原告作品と本件ドラマ等の対比への反論
(一) 翻案は原作の「内面形式を保ちながら外面形式を大幅に変更する」行為で
あることからすれば、著作権侵害の有無、特に翻案権侵害の有無を判断するに当た
っては、主として両作品の内面形式を対比することをもって足りるというべきであ
る。
 被告らの主張は、この点の解釈を誤り、主として原告作品と本件ドラマ等の外形
的な表現形式の相違(例えば、本件ドラマが原告作品と異なって会話体で表現され
ていることなど)をもって、翻案権の侵害がないと主張するもので、誤っている。
(二) また、被告らの主張する原告作品と本件ドラマ等との比較は、以下のとお
り、妥当ではない。
(1) 原告作品は、その帯広告に記されているように、「大きな時代のうねりに
翻弄されながらも、自らに与えられた運命を強靱な意志をもって生き切った女、し
かも〈負の切札〉しかもたなかった一人の女の見事な翻身のドラマを、綿密な考証
によって鮮やかに描出」した文芸作品であり、単に史実を記載しただけのものでは
ない。
(2) 原告作品には、資料からの引用部分があるが、前記のように、一人の女の
翻身のドラマであって、物語性を有し、したがって、当然に物語としての一貫した
連続性を有するものである。資料は、原告の思想が資料に裏付けられていることを
示すものとして引用されているに過ぎない。
(3) 原告作品は、単に資料を原文そのまま又はそれに近い表現方法で叙述する
にとどまるものではなく、独創的、個性的表現も多く用いている。
(4) 原告作品は、伝記のジャンルに属するものではあるが、単に記録性の高さ
のみをもって評価されるべきものではない。
(5) 原告作品は、伝記のジャンルに属する作品として創作されたものではある
が、一方では、従来にはなかった新しい女性像を描き出そうとする意図もあったこ
とは、無視されるべきではない。
(6) 作品の構成を目次どおりであると見る被告らの主張は、誤っている。著作
物の構成は、その叙述内容との関連において初めて明らかになるものであって、目
次における用語だけをもってその著作物の構成を決定することはできない。
五 原告の反論に対する被告らの認否
 すべて争う。
第三 証拠(省略)
       理   由
一 当事者間に争いのない事実
 請求原因1ないし3の事実(3の事実のうち、本件ドラマの内容が貞奴の生涯を
中心とする内容のものであること及び本件書籍が本件ドラマの梗概の記載を中心と
するものであることを除く。)、同5の事実のうち原告作品及び本件ドラマのシナ
リオに別紙一のとおりの記述箇所があること、同6の事実のうち原告作品及びドラ
マ・ストーリーに別紙三のとおりの記述箇所があること、並びに同7の事実のうち
原告作品及び人物事典に別紙三の58のとおりの記述箇所があることは、いずれも
当事者間に争いがない。
二 原告作品の内容について
 証拠(甲一、甲一八の三ないし五、七ないし一一、甲三五、四八、乙五〇、原告
本人)によると、原告作品について以下の事実が認められる。
1 原告作品は、女優というものの存在しなかった我が国において初めて女優とし
て活躍した貞奴の生涯を描いた伝記であり、その本文は序章から終章までの一〇章
からなり、「あとがき」、「川上貞奴関係年表」及び「参考文献」の項が付されて
いる。
2 原告作品は、貞奴の自我と主体性を問うという新しい視点から、丹念に資料を
掘り起こし、原資料及び参考文献を洗い直し、関係者より聴き取りをし、選び出し
た素材に新たな光を当て、構成をして、貞奴七五年の生涯を詳細に再生し、その実
像を求めた伝記である。その叙述の特徴は、当時の新聞・演劇雑誌等からの引用を
多用し、資料に基づく具体的な記述を積み重ね、部分的に原告の創作的表現を交え
て、貞奴の人物像を具体的に描き出そうとしたところにある。
 したがって、原告作品の本文中には、引用を示すと思われる「〈 〉」で囲まれ
た箇所が相当多数存在し、その末尾に出典が示されているものもある。また、末尾
に掲げられた参考文献のほか、本文中でも文献の紹介をしている(例えば、第四章
中の「ヨーロッパ客演旅行」の箇所でその実態に触れた文献(一一五頁)を、ま
た、第八章中の「身に累を招く」の箇所で桃介に関する文献(二三四頁)を、それ
ぞれ紹介している。)。
3 その梗概をみると、序章「厄年の決断」では、貞奴が三三歳で初めて女優とし
て日本の舞台に立った事実を取り上げ、当時の困難な社会的状況の中で身をもって
女優の道を切り開いたとして、作品全体のテーマを示し、第一章「酒の肴の物語」
では、貞奴の生い立ちから音二郎と知り合う直前の二〇代前半までを、第二章「書
生演劇」では、音二郎の出自とその活動の様子から貞奴と結婚して劇場を建築しこ
れを失うまでを、第三章「梨園の外道」では、音二郎・貞奴の築地出帆からアメリ
カ巡業までを、第四章「一九〇〇年パリ万国博覧会」では、貞奴がパリ万国博覧会
で博した名声とこれと対照的な国内での否定的劇評、川上一座のヨーロッパ客演旅
行の足跡を描き、第五章「女優開眼」では、貞奴の三三歳の一年間の女優業のパイ
オニアとしての活躍を、第六章「劇界の戦国時代」では、新派の分裂拡散期に新派
の旗頭として活動する音二郎・貞奴夫妻を、第七章「貞奴一座」では、帝国座の落
成から音二郎の死を経て貞奴の引退興行までを、第八章「かくれ里」では、女優貞
奴の引退から名古屋の「二葉御殿」住まいまでの六年間を、終章「惜別の宴」で
は、桃介への惜別とこの世への惜別をかけて貞奴の六〇歳前後から晩年までを、そ
れぞれ描いている。
4 原告作品において叙述されている事項の要旨は、別紙四「「女優貞奴」の叙述
事項」のとおりである。
5 原告作品において取り上げられている人物は、別紙二「女優貞奴の構図」に記
載されたとおりであり(括弧内の人名を除く。)、いずれも歴史上実在した人物で
ある。そして、貞奴については、人物の心情の動きにまで踏み込んで記述されてい
るが、音二郎、桃介、房の心情に関する記述が一部に見られるほかは、いずれも歴
史上の人物としてその業績、行動等が客観的に記述されているに過ぎない。
三 本件ドラマによる著作権侵害の成否について
1 前記一の争いのない事実及び証拠(甲五の一、二、乙九、一五、三五ないし三
七、四六、四九、五五、七八、証人【E】、原告本人、被告【A】本人)に弁論の
全趣旨を総合すると、本件ドラマの制作の経緯について、以下の事実が認められ
る。
(一) 被告協会においては、昭和五九年度からの大河ドラマのテーマに近代を取
り上げることとしていたが、昭和五七年一二月、被告協会のドラマ部は、部として
昭和六〇年度大河ドラマの原作を「マダム貞奴」とすることに決め、昭和五八年一
月には被告協会内部の最終的な承認を得た。そして、昭和五八年三月、被告協会の
チーフ・プロデューサー【E】が昭和六〇年度大河ドラマの制作責任者に任命され
た。
(二) しかし、一年間にわたって放送される大河ドラマを維持するためには、貞
奴を中心とする近代芸能史だけでは量的に不足していたので、描く範囲を政治、経
済にまで広げるために、福沢桃介・房子夫妻を中心に描いた新作の執筆を【D】に
依頼することとした。そして、昭和五八年四月に【D】と連絡を取り、「マダム貞
奴」と表裏一体をなす新作の執筆について大筋の合意を得た後、【D】とスケジュ
ールの調整を行い、同年六月には、【D】の了承を得た。
(三) 被告協会のスタッフは、そのころ、ドラマ制作に必要な関係資料の収集を
開始し、資料を収集した。収集された資料は多数であるが、【F】「川上音二郎」
(上・中)(昭和三八年)、【B】「川上音二郎」(昭和一八年)、【H】「川上
音二郎」(昭和二七年)、【I】「川上音二郎欧米漫遊記」(明治三四年)、同
「川上音二郎・貞奴 漫遊記」(明治三四年)、【J】「ドキュメント日本人・6
『アウトロウ』」(昭和四三年)、【K】「女優の系図」(昭和三九年)、【L】
「近代劇のあけぼの~川上音二郎とその周辺」(昭和五六年)、【M】「虹と炎の
風景 女優川上貞奴物語」(昭和五七年)、【N】「日本演劇全史」(昭和三四
年)、【O】「川上貞奴」(人物日本の女性史9)(昭和五二年)、【P】「川上
貞奴」(図説人物日本の女性史11)(昭和五二年)、【Q】「マダム貞奴」(昭
和初期ころ)、【R】「物語近代日本女優史」(昭和五五年)、【S】「激流の人
 福沢桃介の生涯」(昭和三四年)、被告協会「NHK歴史への招待12~川上座
海を渡るー女優第一号貞奴」(昭和五六年)、「新派秘話・貞奴もの語」(都新
聞・昭和八年)、【F】「浪花風流人物記川上音二郎」(新大阪新聞・昭和三八
年)等が含まれていた。また、収集された資料の中には、原告作品も含まれてお
り、被告【A】及び被告協会制作スタッフは、これを閲読し、本件ドラマ制作の材
料として利用した。
(四) 被告協会は、昭和五八年八月、本件ドラマの脚本の制作を、脚本家であり
また映画監督の経歴もある被告【A】に依頼した。被告【A】は、これを承諾した
が、他局の仕事を抱えているので脚本執筆の準備に入るのは昭和五九年二月ころか
らにしてほしいとの申入れをし、被告協会は、これを了承した。
(五) 【D】は、昭和五八年一二月から新作の執筆のため被告協会スタッフと共
に福沢家の関係者、川上富司らに対する取材を開始し、被告協会から送られてきた
福沢家を中心とする関係資料をもとに、「冥府回廊」の執筆を開始した。そして、
昭和五九年二月二九日には、雑誌連載の第一回分生原稿が完成し、被告協会に届け
られた。
(六) 右同日、被告協会は、昭和六〇年度大河ドラマとして「春の波涛」を制作
すると発表し、その原作は、【D】著「冥府回廊」、脚本は被告【A】とした。
(七) 被告協会の制作スタッフは、脚本執筆の準備のために、収集した資料に基
づいて歴史的事実をカードに記載し、これを元にして主要人物年表を作成した。ま
た、被告【A】と制作スタッフとの間で、時代背景の研究、登場人物の設定などの
検討会が度々重ねられ、昭和五九年三月末の箱根の合宿では、五〇回に及ぶ本件ド
ラマ全体の大きな流れが具体的に検討され、同年四月、第一回から第五二回までの
各回の構成案を作成した。他方、同年三月二七日には、貞奴を【T】、音二郎を
【U】、桃介を【V】、房子を【W】として、配役を発表した。
(八) 被告【A】及び【E】は、昭和五九年五月三日から、音二郎、貞奴が一座
を率いて巡業したアメリカ、イギリス、フランスの各地へ、資料収集、シナリオハ
ンティング、ロケハンティングを兼ねて、彼らが通ったコースを旅行し、関係資料
を収集した。その後、被告【A】は、シナリオ執筆の作業に入り、他方、【D】は
予定どおり、同年六月に「冥府回廊」を脱稿した。
(九) 昭和五九年七月二八日、本件ドラマの第一回の準備稿ができ上がリ、以下
第二回分が同年八月六日、第三回分が同月一一日に、それぞれでき上がり、これら
の準備稿について制作スタッフとの検討を経た上で、同月二一日、第一回から第三
回までの決定稿が完成した。以後、被告【A】は、一か月に平均四本(放送四回
分)の割合で脚本の決定稿を完成させ、昭和六〇年八月末にその全部を脱稿した。
(一〇) そして、昭和五九年九月二〇日のアメリカロケを皮切りに、本番の収録
作業が開始され、次いで、ヨーロッパロケ、生田のオープンセットでの国内ロケが
実施され、それぞれ収録作業が行われた。さらに、同年一一月六日からはスタジオ
収録が開始され、昭和六〇年一〇月までに、全五〇回の本件ドラマが制作された。
(一一) 被告協会は、本件ドラマを、昭和六〇年一月六日の午後七時二〇分から
午後八時四五分までの第一回放送を皮切りとして、以後、毎週日曜日午後八時から
四五分番組として一年間連続放送した。
(一二) 他方、原告は、被告協会に対し、本件ドラマの企画が原告作品に関する
著作権を侵害するのではないかと申し入れ、昭和五九年二月六日、新潮社と被告協
会との間で折衝が始まった。そして、同年三月一四日に、【E】は原告と面談し、
本件ドラマと原告作品の著作権との関係について話し合ったが、結論に至らなかっ
た。
2 また、証拠(甲三の一ないし五、乙九、乙一〇の一ないし三、乙一二、一三)
と弁論の全趣旨によると、本件ドラマの内容について、以下の事実が認められる。
(一) 本件ドラマの各回の概要と構成は、別紙五「「春の波涛」の各回の概要及
び構成」記載のとおりであり、各回について、その内容に応じた標題が付けられて
いる。
(二) 全五〇回分の放送時間は、合計三八時間一〇分であり、そのシーン数は、
合計一五六六であるが、そのうち、貞(貞奴)が登場するのは五〇回各回にわた
り、合計五八六シーン(全シーン数の三七・四パーセント)であり、音二郎は第一
回から第四一回まで(第六回を除く。)四四三シーン(二八・三パーセント)、桃
介は第九、一二、一三、一五、一七、二二、二五、三四、四一回を除く各回(合計
四一回)にわたり一九四シーン(一二・四パーセント)、房子は第一、二、四、
五、九、一二、一三、一五、一七、一八、二一、二二、二五、二八、三四、三八回
を除く各回(合計三四回)にわたり一四八シーン(九・五パーセント)である。こ
のほか、自由民権の壮士奥平剛史も、第一回から第五回まで、第九回、第一七回か
ら第三七回まで(第一八、二五、二六、二八、三二、三三回を除く。)(合計二一
回)にわたり九一シーン(五・八パーセント)登場する。
3 翻案権侵害の成否について
(一) 著作物についてその翻案権の侵害があるとするためには、問題となってい
る作品が、右著作物と外面的表現形式すなわち文章、文体、用字、用語等を異にす
るものの、その内面的表現形式すなわち作品の筋の運び、ストーリーの展開、背
景、環境の設定、人物の出し入れ、その人物の個性の持たせ方など、文章を構成す
る上での内的な要素(基本となる筋・仕組み・主たる構成)を同じくするものであ
り、かつ、右作品が、右著作物に依拠して制作されたものであることが必要であ
る。
 ところで、原告作品は、前示のとおり、実在した人物の伝記であり、歴史上の事
実を記述し、又は新聞、雑誌、他の著作物等の資料を引用し、若しくは要約して記
述した部分が、その大部分を占める。そして、このような場合には、著作者の思想
又は感情を創作的に表現したものとして著作物性を有する部分(独創性のある部
分)についての内面形式が維持されているかどうかを検討すべきであり、歴史上の
事実又は既に公にされている先行資料に記載された事実に基づく筋の運びやストー
リーの展開が同一であっても、それは、著作物の内面形式の同一性を基礎付けるも
のとは言えない。
 (そして、右のような意味での原告作品の内面形式の特徴は、当時の新聞、雑
誌、関係者の供述等の一次的資料から引用又は要約した客観的な事実を積み重ね、
部分的に原告の創作的表現を交えて、我が国初の女優として主体的に生きた貞奴の
人間像を具体的に描き出そうとしたところにあるものと言える。)
(二) そこで、前記二、三1、2判示の事実を前提として、原告作品と本件ドラ
マとを比較すると、次の点を指摘できる。
(1) 分量
 原告作品は本文二五八頁の単行本であるのに対し、本件ドラマは、放送時間合計
三八時間一〇分を要し、「NHKテレビ大河ドラマ全シナリオ」として出版された
ものは全五巻合計一三四七頁にのぼる(甲一、甲三の一ないし五)。
(2) 対象とする年代
 原告作品が、貞の幼少時代から晩年までを対象とするのに対し、本件ドラマは、
貞の小奴の時代から二葉御殿までを対象とする(第五〇回のラストでは、貞の墓、
貞照寺の場面等が現われるが、ドラマの筋の一部としてではない。)。
(3) 登場人物
 原告作品では、前示二5のとおり、多数の人物が取り上げられているものの、そ
のほとんどは、歴史上実在した人物について客観的な業績、行動等を叙述するもの
であるのに対し、本件ドラマでは、歴史上実在しない人物を登場させ(田代重成、
雲井八重子、三浦又吉、野島覚造、野島イト等)、また、歴史上の人物であって
も、ドラマ中の人物として脚色し、いずれも必ずしもドラマの基本となる筋の中で
重要な役割を果たしているとは言えないが、そのストーリーの展開においては、独
自の役割を持たせている。
(4) 描写の方法
 原告作品の記述は、基本的には先行資料の記述に基づく客観的なものであり、部
分的に、原告独自の見方や資料に基づく推測を交えている。
 これに対し、本件ドラマでは、ナレーション、新聞記事の紹介等により、簡潔に
時代背景や社会の動きを紹介する部分が含まれてはいるものの、表現の大部分は、
登場人物の台詞によっており、基本的な筋、ドラマの仕組みとして、登場人物相互
の人間関係、その心情等の描写が重視され、娯楽性のあるドラマとして構成されて
いる。
(5) 取り上げるエピソード等の内容
 原告作品中では、貞の幼少時代、川上一座の二度目のヨーロッパ客演旅行、お伽
芝居、パリ再訪、川上絹布設立、児童楽劇園、貞照寺の建立、貞の晩年の生活ぶり
等が相当の頁数をさいて叙述され、いずれも貞奴の生涯を特色付けるものとして描
かれているが、これらは、本件ドラマではほとんど取り上げられていない。
 また、本件ドラマでも描かれてはいるが原告作品ほどの比重は置かれていない部
分として、音二郎と貞が東京湾から小舟で出帆して神戸に着くまでの経緯、川上一
座がアメリカ東海岸からパリに着くまでの経緯、貞の二葉御殿での生活等がある。
 他方、本件ドラマで取り上げられているエピソードであって、その基本的な筋と
なり、又はストーリーの展開上独自の役割を果たしているもののうち、原告作品に
は現われないか又はごく簡単にしか触れられていないものとして、慶応義塾での音
二郎と桃介の出会い(第一回)、福沢家での遊戯会(第三回)、野島イトが浜田屋
に来る経緯(第四回、第五回)、奥平剛史の自由民権家としての活動、桃介が房子
の婿候補となる経緯(第六回)、貞と書生演劇により世に出る前の音二郎との出会
い(第七回)、貞の水揚げの儀式とその前に桃介と会う場面(第八回)、憲法草案
の盗難(第九回)、桃介が音二郎と再会する場面(第一一回)、貞が川上一座の公
演を観るため小田原まで行き、音二郎と意気投合すること(第一三回)、音二郎が
貞に結婚を申込むこと(第一四回)、奥平八重子が音二郎の子を連れて浜田屋に現
われること(第一五回)、桃介の妹せい子の登場(第一六回)、貞が落籍祝いの用
意をさせ音二郎が貞との結婚を決意すること(第一八回)、桃介が喀血して養生園
で療養する場面での房子とのやりとり(第一九回)、イトと音二郎の関係(第二〇
回)、貞が桃介に川上座建設費用の調達を相談すること(第二一回)、音二郎の選
挙運動が盛り上がること(第二五回)、桃介と諭吉との葛藤(第三〇回)、パリで
音二郎が奥平と再会すること(第三〇回)、桃介は貞に思いを寄せていること(第
三一回)、桃介がもと貞と音二郎が住んでいた大森の家に住むようになり、房子が
怒ること(第三二回)、福沢諭吉の死に対する桃介の態度(第三三回)、貞奴のオ
セロを桃介が観に来たこと(第三五回)、株で儲けた桃介が葭町芸者を買切りに
し、その機会に音二郎が桃介に近代式劇場の建設を頼んだこと(第三六回)、松井
須磨子の台頭(第三九回)、須磨子と抱月の関係(第四二回)、川上一座の解散
(第四三回)、福沢家の娯楽館の舞台開きに貞奴と須磨子が出演したこと(第四五
回)、房子が桃介と貞の間柄を知りヒステリーを起こすこと(第四七回)、抱月の
死亡(第四八回)、須磨子がカルメンを演じ、抱月のあとを追って自殺すること
(第五〇回)である。
(6) 貞奴の描写
 原作作品では、貞奴の生涯にわたる行動、業績について、客観的に記述している
が、特に、従来注目されていなかった女優としての資質、本人の自我・主体性等に
着目し、これを、客観的な事実を紹介し、かつ、これに基づく原告独自の評価を加
えることによって、具体的に表現しようとする態度が見られる。例えば、ヨーロッ
パにおける女優貞奴の評価を、ヨーロッパの著名な芸術家の批評を引用することに
よって紹介し、帰国後の女優としての活動についても、「オセロ」、お伽芝居、
「ハムレット」、「トスカ」、「サロメ」等の劇評を詳しく紹介している。また、
女優引退後の活動(川上絹布設立、二葉御殿、児童楽劇園、貞照寺)についても、
その生涯を特徴付けるものとして描かれている。さらに、原告作品全体では、「貞
が、芸者、女優及び妾という三つながら社会的に排斥される立場にありながら、女
優の先駆として道を開いた」という原告独自の貞奴観が現われており、その裏に
は、貞を取り巻く社会に対する批判的な見方が感じ取られる。
 これに対し、本件ドラマでは、貞奴が最も重要な主役であり、全回にわたって登
場するけれども、貞奴が登場しないシーンも全体の約三分の二にのぼる。また、貞
奴の描き方も、主役として、自我と主体性を有する人間として描かれてはいるが、
貞奴の周囲には、音二郎、桃介、養母亀吉、浜田屋の芸者仲間、川上一座の座員が
常に登場し、その人物たちに励まされながら生きるという描写がされており、「芸
者、女優、妾」という社会的に排斥される身分にありながら、たった一人で困難な
状況に立ち向かうという人間像が表現されているとは言えない。また、女優として
活動した時期ばかりでなく、それ以前の伊藤博文との関係、音二郎との交際、音二
郎との結婚後の行動についてドラマの筋として重点が置かれている。女優としての
活動についても、第二八回「アメリカ御難日記」以降、第二九回「女優誕生」、第
三〇回「洋行中の悲劇」、第三一回「パリで切腹」、第三二回「母と子の別れ」ま
でで、アメリカ・ヨーロッパ巡業中の貞奴の活躍を描いてはいるが、この部分は従
来から「川上音二郎 欧米漫遊記」(乙四四)、「川上音二郎貞奴漫遊記」(乙四
五)等で描かれていた部分であり、広く知られたところである。さらに、第三四回
「揺らぐ心」以降、第三五回「女優第一号」、第三六回「吹きすさぶ風」、第三七
回「女優学校は……」、第三八回「ふるさとの山河は遠く」、第三九回「その名は
須磨子」、第四二回「女の戦い」、第四四回「醜聞」、第四五回「桃介座」、第四
六回「カチューシャの唄」、第四七回「女の中の夜叉」及び第四八回「抱月、逝
く」において、その筋の一部として貞奴の女優としての活動が描かれているけれど
も、第三九回「その名は須磨子」以降は、松井須磨子の台頭が取り上げられ、その
標題からも明らかなとおり、須磨子と貞奴との比較、須磨子自身の行動に重点を置
いて描かれている。
(7) 他の主要人物の描写
① 音二郎
 原告作品では、音二郎が上京してから貞と結婚するまでの間を三七頁から五八頁
までの二二頁(全頁数の八・五パーセント)をかけて描写しているが、音二郎の活
動については、歴史上の事実に基づく客観的な描写が中心となっている。これに対
し、本件ドラマでは、音二郎は第一回から登場し、貞と結婚するのは第一八回であ
るから、この部分が全体の三六パーセントを占める。そして、桃介、八重子、奥平
及び貞との出会いとその後の交流、小田原での騒動、中村座での成功の経緯等が描
かれ、この部分の描き方は、両者で大きな相違がある。
 さらに、音二郎・貞の結婚後から音二郎が黒岩涙香を撃とうとするまでの間は、
原告作品では五九頁から六七頁まで九頁(全頁数の三・四パーセント)に過ぎない
のに対し、本件ドラマでは、第一九回「壮絶快絶」、第二〇回「思惑ちがい」、第
二一回「日本一! 音二郎」、第二二回「華麗なる幕あけ」、第二三回「危うし、
川上座!」、第二四回「好きも嫌いも」及び第二五回「音二郎錯乱」の全七回の放
送(一四パーセント)によって描かれている。
 右のとおり、本件ドラマの前半では、原告作品と異なり、音二郎の活動に重点を
置いて描いている。
② 桃介
 原告作品では、桃介については、貞との最初の出会い(馬の場面・二六頁)と二
度目の出会い(母衣引の場面・三六頁)のほかは、音二郎没後の貞との関係が描か
れ、その他には、第八章中の「身に累を招く」においてその生涯と人となりをごく
簡潔に紹介しているに過ぎない。
 これに対し、本件ドラマでは第一回から第五〇回まで合計四一回、一九四シーン
にわたって登場し、慶応義塾の塾生としての生活から、婚約、留学、帰国、結婚、
病気療養、株式投機、福沢家との関係、貞・音二郎に対する支援等を描写してい
る。
③ 房子
 原告作品では、桃介との婚約のほか、第八章中の「身に累を招く」において、そ
の生活の様子、桃介との関係等を紹介しているに過ぎない。
 これに対し、本件ドラマでは、第三回から第五〇回まで合計三四回、一四八シー
ンにわたって登場する。そして、桃介の留学中に貞と会い、また、貞奴のライバル
となる松井須磨子を応援するなど、貞に対する競争意識を持つ様子、桃介の病気療
養等の場面で貞に対する思いが断ち切れない桃介と心が通い合わない様子等が描か
れている。
④ 松井須磨子
 原告作品では、サロメを演じたことなど、歴史上の事実をごく簡潔に紹介してい
るに過ぎないが、本件ドラマでは、特に第三九回以降、貞奴と対決する女優とし
て、重点を置いて描かれている。
(三) 次に、原告の類似箇所の主張(請求原因5(二))について検討する。
 原告は本件ドラマによる翻案権の侵害を主張するものであるから、前示のとお
り、本件ドラマと原告作品との内面形式の同一性の有無を判断すべきであり、本件
ドラマの表現中に部分的に原告作品の表現と類似する箇所があるとしても、そのよ
うな類似が基本となる筋・仕組み・構成に関わるものであるために内面形式の同一
性が基礎づけられることとなる場合はともかく、基本となる筋・仕組み・構成には
関わらないいわば末節の表現が類似するにとどまる場合には、内面形式の同一性の
判断には影響しないものと言うべきである(なお、そのような末節の表現の類似で
あっても、著作権侵害の成立のためのもう一つの要件である依拠性の判断に当たっ
ては、判断要素の一つとなる。)。
 そこで、以下、右のような観点から、原告の指摘箇所について検討する。
(1) 「主題とその展開の類似性」の主張(請求原因5(二)(1))について
① 別紙一の一(女優の資質と素養)について
 原告作品の当該箇所は、演芸画報第五年第一号の「女優歴訪録(一)」(乙三
八)からの引用ないし要約と言うべきであり、原告の創作に係る表現ではない。ま
た、貞の芸者芝居と後半の女優としての活動を結び付けて「だから、まんざらのし
ろうとでもなかったわけだ。」とした先行資料もあり(乙二三の二)、これを結び
付ける点は、必ずしも原告の創作に係るものとは言えない。
 また、そもそも、当該箇所は、貞の芸者時代について記述した「芸者「奴」」
(第一章)の中で、貞が伊藤博文との特定の関係を解消したころの活動の一つとし
て、芸者芝居に熱中していたことを紹介するものであるのに対し、本件ドラマ(第
一〇回)では、房子をお座敷に連れてきて貞と対面させた福沢一太郎に、貞が芸者
芝居の切符を大量に売りつける話の一部として、貞の台詞の中で用いられているに
過ぎず、原告作品とは異なる筋の中で用いられている。
② 別紙一の二(女優になるきっかけ)について
 別紙一の二の上段の記述のうちの前半部分は、先行資料で紹介されている事実を
要約したものであり(乙一七、三八)、後半部分は、これについて原告独自の評価
を加えたものと見ることができる。
 これに対し、本件ドラマ(第二七回、第二八回)では、前半部分については、原
告作品そのままの表現は「ポスター」なる語のみであり(しかも、ポスターには
「オットー・アンド・ヤッコ」と記されていたというのであり、この点は原告作品
に記述がない。)、また、後半部分については、原告作品が指摘するような貞の
「わだかまり」は、本件ドラマでは表現されていない。
③ 別紙一の三(欧米で舞台に取り組む姿勢)について
 川上一座がシカゴ・ライリック座で舞台に立ち好評を博したことについては多数
の先行資料があり(乙一七、一八、乙一九の一、乙二一、二五、三三、三八、四
四、四五)、一座の者が必死になって舞台をつとめたことも記載されている
(【H】「川上音二郎(上)」(乙一九の一)二六九頁には、「しかし芸はどうあ
ろうとも、昨日の芝居は一座の者にとって真に命がけの芝居だった。舞台で死ぬ覚
悟で演ったのだった。それか見物人の胸をうったのであろう。」とある。)。
④ 別紙一の四(女優として立つ決意)について
 貞は帰国当初舞台に立つことを拒んでいたこと、音二郎や金子堅太郎の説得によ
り「オセロ」の鞆音役で国内では初めて舞台に立つことになったこと、貞には舞台
に立つ腕のないことを自ら知っていたこと、舞台に立つとなった以上は、自分自身
の独力で新しい女優という道を創り開拓していくことを決意し、寒風が吹きすさぶ
茅ヶ崎の海岸に立って声を鍛えたこと、涙ぐましい努力をしたことは、いずれも先
行資料に紹介されている事柄である(乙一七、一八、乙一九の二、乙三八)
⑤ 別紙一の五(女優としての評価)について
 イの下段は、新聞の劇評記事を映すもので、上段と比較して表現の類似があると
は言えない。
 ロについて、本件ドラマは、貞が立派な女優になったということを描写するに過
ぎず、表現は類似していない。
⑥ 別紙一の六(女優養成所)について
 音二郎と貞が女優養成所を始め、これに対する強い非難の声があったということ
は、歴史上の事実である(乙二三の三、乙三二、乙六一の一、二)。これに対し、
本件ドラマは、第三六回から第三八回にかけて、女優養成所の設立をめぐる動きを
基本的な筋とし、女優養成所の意義とこれに対する世間の非難を貞の台詞等を通し
て表現しているものの、原告作品に描かれているような「すさまじい非難」として
は描かれていないし、女優養成所の設立に桃介が協力したこと、お客は女優を求め
ているとして、貞一人で世間の偏見に立ち向かったという構成ではないこと、後の
松井須磨子はこの女優養成所には入れなかったこと、音二郎が大阪に帝国座の建設
を進めている関係で、女優養成所が音二郎・貞の手から帝国劇場に取り上げられた
こと、という筋になっており、原告作品とは、基本的な筋が異なる。
⑦ 別紙一の七(音二郎没後の活躍)について
 イについて、貞奴が「トスカ」を演じ好評を博したこと自体は、歴史上の事実で
ある(乙二四、二六、三一、三八)(なお、本件ドラマでは、貞が演ずるトスカ
を、客席から桃介・房子ら、島村抱月・松井須磨子らが観ており、公演後、房子、
抱月、須磨子らが食事に行くというのに、桃介は誘いを断わって貞と二人で乾杯す
るという場面に続くという筋の一部になっている。)。
 ロの貞奴がサロメを演じたこと、名古屋で松井須磨子と競演になったことは、い
ずれも歴史上の事実である(乙三八、六二ないし六四)。
 ハについて、両者の表現は類似していない。
⑧ 別紙一の八(女優引退)
 大正五年三月一四日付け東京朝日新聞には、「貞奴俄に帰京す」という記事が掲
載されており、これによれば、貞奴が九州巡業中、桃介が病気という電報が届き、
貞奴は夜行列車と汽船で帰京し、帰ってみると桃介は大分よくなったが今度は貞奴
が病気になり、九州へ帰れなくなったというのである(甲四七)。原告作品の当該
箇所は、この電報と貞奴の引退を結び付けた点、桃介危篤の電報が桃介の術策では
なかったかとする点、桃介は事業の成功のために貞を必要としていたとする点で、
原告の創作に係るもので(甲一三)、本件ドラマにおいて、偽電報のため貞が引退
に追い込まれるという筋が組まれているのは、原告作品の右のような記述がヒント
になっているものと推認される。しかし、本件ドラマの偽電報は、貞に対して嫉妬
する房子が、貞を試すためにせい子と相談して仕組んだものであって、筋が異なる
し、このような相違は、本件ドラマ全体の桃介、房子の位置付けを考慮すると、脚
色上の修正にとどまらないと言うべきである。
⑨ 主題の要約について
 第五〇回のラストのシーンで示されている、貞の女優としての人生で節目となっ
た各種のエピソードは、いずれも歴史上の事実である。また、このラストのシーン
があるからといって、本件ドラマの内面形式がこのシーンに表わされているとは言
えない。
⑩ 小括
 右に判示したところによると、女優の資質と素養、女優になるきっかけ、欧米で
舞台に取り組む姿勢、女優として立つ決意、女優としての評価、女優養成所、音二
郎没後の活躍のいずれについても、先行資料に記載がある事柄であり、原告の創作
的表現に係る基本的な筋ないし仕組みということはできない(なお、従来、貞奴に
ついて、右のような筋ないし仕組みをすべて備えた著作物がなく、原告作品はその
点において独自のものであるとしても、貞奴は歴史上の人物であって、すでに我が
国の女優第一号としての評価がされていたものであり、右のような筋ないし仕組み
そのものに著作物性があるとは言えない。)。
 これに対し、偽電報が女優引退のきっかけとなったとする点は、右と異なり、原
告の創作に係るものと言うことができるが、本件ドラマは、右⑧に判示したとお
り、これを参考にしたものではあるが、同一の内面形式を保つものではないと言う
べきである。
(2) 「貞奴をめぐる主要な人間関係の類似性」の主張(請求原因5(二)
(2))について
① 別紙一の九(貞が自分から浜田家へ来た挿話)について
 別紙五によれば、イトは、野島覚造の妹であり、麟介に対する恋愛感情を持ち、
水揚げされる前に貞から麟介との仲を取り持とうとされるが、偶然、音二郎と関係
を持ってしまうことになり、その後は、亀吉の後を継いで浜田屋の女将になるな
ど、本件ドラマ全体の筋の中で独自の地位を有するものである。したがって、イト
を貞の分身とみるのは相当ではない。
② 別紙一の一〇(貞が音二郎に引幕を贈った話と、貞の音二郎観・結婚観)につ
いて
 イの貞が音二郎に引幕を贈ったという事実自体については、先行資料がある(乙
九一)。また、そもそも、原告作品の当該箇所には、「貞に限らず、名妓たちが競
って音二郎に入れあげ、音二郎を自分の座敷に呼んだり、引幕を贈ったりした。貞
も負けずに着物羽織や、九枚笹の川上家定紋入りの人力車まで贈呈したらしい。」
とあり、貞が音二郎に引幕を贈った事実がはっきりと表現されているわけではな
い。
 ロについては、原告作品には、貞の姉がわずかなお手当で裏店に放りこまれてい
るとか、姉が芸者屋に貰われていった貞の身を案じているといった表現はなく、表
現の類似はない。
 ハの貞が「書生が好きだった」という点は、先行資料に記述されているところで
あり(乙一八、六六)、また、例えば、「貞奴のように目覚めていた女性が、初恋
をあきらめて、音二郎さんと結婚したことを不思議だとおっしゃる方もおりますけ
れど、芸者から玉の輿に乗って出世したといわれるのは嫌だったと洩らしていたこ
とがございます。……しかし、音二郎さんが、一介の貧乏書生ではあっても、志が
高く、民権思想を形にするほどの方ですから、それなりに魅力もあり、貞奴は年下
ではあっても、育てようという心意気がはたらいたのではないでしょうか。」(乙
二)という記述もある。これらを前提とすると、原告作品に現われている貞の結婚
観が原告の創作に係るものとは言えない。
③ 別紙一の一一(桃介との遭遇、親交そして破恋)
 イの貞と桃介の邂逅の描写については、原告作品のように表現した先行資料はな
く、原告の創作に係るものと認められる(甲一三)。しかし、貞と桃介の出会いに
ついては、「ある日、向島で落馬したところに、偶然桃介さんが通りかかり、親切
に介抱してくださったそうで、あとで小奴は、お菓子をもって慶応義塾の寮に二
度、三度とお訪ねしたそうです。」と記述した先行資料があり(乙二)、原告作品
の特徴は、原告作品に表現されたような筋及び仕組みによる貞と桃介との出会いの
表現にあると言うべきである。そして、原告作品が、貞が成田山まで足をのばした
帰りに野犬の群に襲われたとの出来事とし、貞は「不動明王さながらに」立つ黒い
シルエットを見て、「先刻お詣りしてきたばかりのお不動様が本堂を抜け出て、助
けに来てくれたかのようだった。貞は雷に打たれたように身が震えた。」とすると
ころを、本件ドラマは、成田山の帰りではなく隅田川の土手であること、野犬に襲
われたのではなく、馬が突然暴れ出したこと、桃介は友人田代とその前方を歩いて
いたが、馬の前に両手を広げて立ちふさがり馬を止めたこと、桃介は「お怪我はあ
りませんか」と聞き、そのまま立ち去ろうとしたこと、貞に名を聞かれても桃介は
名乗らず、田代が貞に教えたことといった点で原告作品とは異なるものであり(甲
三の一)、基本的な筋、仕組みともに異なると言うべきである(なお、本件ドラマ
のこのような表現は、原告作品以外の先行資料(乙二、五、三四)と比較した場
合、原告作品に最も近いものであり、その意味で、原告作品を参考にしたものと推
認することはできる。)。
 ロのその後の貞と桃介の交際については、二人が待合ではなく屋外を散歩したこ
と、貞の生家が没落したという身の上話をしたことという点で共通していることか
ら、本件ドラマが原告作品をヒントにしたもの推認される。しかし、原告作品は、
二人の交際について、別紙一の一一ロの上段のとおりわずかに四文で触れているに
過ぎないが、本件ドラマでは、まず貞が桃介に手紙を書き、亀吉がさしむけた俥引
きの又吉の監視のもとで増上寺境内を散歩し、貞の身の上話から、将来を誓って指
切りするという仕組みをとり、さらに、その後の筋として、慶応義塾の遊戯会の場
面(第三回)、人形町でのデート(第四回)、貞が房子の姉から桃介と房子との縁
談があることを聞かされること(第五回)を備えている。
 ハの別離についても、原告作品は、「『お互い道は違っても、いつか立派に成功
して、またお目にかかりましょう』貞は別れの言葉を告げて、桃介の旅立ちを見送
った。」とするに過ぎないのに対し、本件ドラマでは、貞は人形町の座敷で桃介か
ら別れを告げられ、表へとび出すこと(第七回)、さらに、水揚げが決まった後も
桃介に手紙を出して、亀吉の目を盗んで桃介に会うが思いを遂げることができなか
ったこと(第八回)という筋が展開されている。
(3) 個別的な剽窃の類型について
 原告は、個別的な剽窃の類型として、① 引き写しの方法による剽窃(別紙一の
一二ないし一九)、②オリジナリティーの盗用例(別紙一の二一ないし二六)、③
 転用の方法による剽窃例(剽窃隠ぺいの塗り残り)(別紙一の九、二二、二七)
を指摘する。
 しかしながら、いずれの点についても、原告作品及び本件ドラマの内面形式の同
一性を基礎付けるような重要な筋に関わるものではないと言うべきであるから、本
項冒頭の判示に照らし、原告指摘のとおりの類似があるとしても、内面形式の同一
性を判断するに当たっては、意味を持たないと言うべきである。
 なお、1のイ(音二郎の出自の述べ方)、ロ(貞の芸者芝居の経験を語る表
現)、ニ(烏森芸者一行の演目)、ホ(音二郎の銅像の記述)及びヘ(帝国座の作
りとその客足の記述)については、先行資料があり(イについて乙一、乙二三の
一、乙六七、ロについて乙三八、ニについて乙六八、ホについて乙一九の二、乙三
八、六九、ヘについて乙三二、三八、七〇、七一)、また、ハ(貞のポスターに関
する表現)、ト(ゴロ合わせによる引き写し)、チ(経文のカナ表記の引き写し)
は、原告指摘の箇所のみを取り出してそこに独立した著作物性があるとすることも
できない。
 また、②のイの一ツトセ節から官ちゃんと官吏侮辱罪、逮捕のエピソード(別紙
一の二一)については、明治一六年七月、音二郎が京都四条南の演劇場で民権自由
数え唄を披露し、警官から中止解散を命ぜられたことは、歴史上の事実である(乙
七三)。本件ドラマのうち、音二郎が歌い出す前の口上の内容や警官がまず中止を
命じたとした点は、原告作品以外の資料により作成されたと考えられるが、その
後、警官が「官吏侮辱じゃ……官ちゃんがどうのというのは、官吏侮辱!」と叫ぶ
箇所(甲三の一)は、原告作品の「「官ちゃん」は官吏侮辱罪に当り、ただちに逮
捕された。」なる記述を参考にして作成されたものと推認される。
 ②のロの水泳のエピソード(別紙一の二二)についても、貞が伊藤博文から水泳
を教わったことについては先行資料がある(乙二二、四一)。水泳を法典の起草と
結び付けたのは原告作品独自のものであるとしても、基本的な筋又は仕組みになっ
ているとみることはできない。
 ②のハの音二郎の落選(別紙一の二三)についても、原告作品の当該箇所は歴史
的事実を述べたものに過ぎない(乙一九の一、乙三八、八八、乙九五の一、二)。
原告は、音二郎落選の原因が通説に言うところの強い対抗馬とか新聞に叩かれたせ
いばかりではなく、選挙権のない人々に政見演説をしたところに根本原因があった
と理解して記述した創作的表現であると主張するけれども、「川上の共鳴者があっ
たとしてもそれは有権者ではない。彼の芝居そのものだって、看客の大部分は中以
下の階級や学生などである。当時の有権者は直接国税を十円以上納める者に限られ
た。其の社会には川上劇の支持者は少ない。」(乙一九の一)という記載のある先
行資料がある。
 ②のニの川上座を手放す音二郎の心境(別紙一の二四)については、原告作品の
当該箇所は先行資料からの引用とこれについての原告のコメントであって(乙三
八)、原告の創作に係るものとは言えない。
 ②のホの貞奴の「道成寺」好評に関する表現(別紙一の二五)についても、先行
資料があり(乙四五。ただし、「振り出し笠」ではなく「傘」とされている。)、
「花笠の踊りの段で、両手に持った振り出し笠を頭上で交互に廻しながら倒れてし
まった。」という原告作品の表現は、倒れる場面を特定している点で創作性がある
と言いうるが、本件ドラマはこの点で表現が類似しているとは言えない。
 ②のヘの「人肉質入裁判」の貞奴の台詞(別紙一の二六)については、表現の類
似はない。
 ③のイ、ロについては、既に判示したとおり、表現の類似はなく、原告作品から
の剽窃を隠ぺいしたものとも言えない。
 ③のハについては、貞が【C】を引き合いに出していた事実については先行資料
があり(乙三八、七六)、また、原告作品と本件ドラマの当該箇所で表現の類似は
ない(もっとも、【C】の年齢が事実に反している点からすれば、原告作品の当該
箇所を参照して制作されたことが窺われる。)。
 ③のニの誓紙と誓詞(別紙一の二八)について、本件ドラマは原告作品の当該箇
所からヒントを得てこのようなエピソードを取り入れたものとみられるが、原告作
品では「小奴の貞を伊藤博文からとらない」という約束であり「素人の世界ならば
婚約に相当する」とされているのに対し、本件ドラマでは「誰も手だしはしない」
という約束であり、両者の意味合いは異なる。
(四) 以上一、二、三(一)ないし(三)において判示したところによると、本
件ドラマの基本的筋については、原告作品と一部共通しており、また、本件ドラマ
には部分的に原告作品の表現を参考にして作成されたと見られる箇所が存在する。
その点と、前記三1(三)において判示したように、本件ドラマの制作過程におい
て原告作品が資料の一つとして利用されたことからすると、本件ドラマは、原告作
品を重要な参考資料として制作されたものと認められる。
 しかしながら、原告作品と本件ドラマとでは、前示のとおり、分量、対象とする
年代、叙述の対象、登場人物、描写の方法、取り上げるエピソード等の内容、貞奴
の描写、他の主要人物の描写のいずれの点においても大きな相違があり、両作品を
全体として比べると、基本的な筋、仕組み、構成のいずれの点においても同一とは
言えないから、両作品は、内面形式の同一性を欠くものと言うべきである。
 なお、本件ドラマ中には、原告作品と部分的に基本的な筋が同一であると見られ
る箇所が存在する(例えば、音二郎が書生演劇を興すまでの経緯、川上一座のアメ
リカ巡業、帰国後貞奴が女優として活躍する状況等)が、同一と見られる箇所は、
いずれも歴史上の事実であって(後記四2(三)の判示参照)、原告の創作に係る
ものとは言えないから、原告作品と本件ドラマの内面形式の同一性を基礎付けるも
のとは言えない。
 したがって、本件ドラマの制作は、原告の翻案権を侵害するものとは言えない。
 なお、ドラマ・ストーリー、被告協会が発表した広報資料(乙三五ないし三七)
並びに被告らが本件ドラマの原作であるとする【D】の「マダム貞奴」及び「冥府
回廊」がどのようなものであるかは、依拠性の判断においては重要な判断要素とな
るが、本件ドラマと原告作品との内面形式の同一性の判断に当たっては、これを検
討する必要はないと言うべきである。
四 ドラマ・ストーリーによる著作権侵害の成否について
1 証拠(乙九、一五、四六、四九、五五、一二二、証人【E】、被告【A】)と
弁論の全趣旨によると、ドラマ・ストーリーの内容及び制作の経緯について、以下
の事実が認められる。
(一) ドラマ・ストーリーが掲載された本件書籍は、本件ドラマの放送開始に合
わせて発行された番組視聴者のためのガイドブックであり、他に、【D】、被告
【A】らのエッセイ、本件ドラマの配役の紹介、対談、グラビア特集等が掲載され
ている。
(二) 本件書籍のうち、ドラマ・ストーリーの部分は五二頁から一一二頁まで
で、「構成ー【A】」「原作ー【D】『冥府回廊』『マダム貞奴』と表示され、プ
ロローグ、第一章「馬上の女」、第二章「自由童子誕生」、第三章「オッペケ
ペ」、第四章「日本脱出」、第五章「海外巡業」、第六章「女優第一号」、第七章
「劇界改造」、第八章「新時代の足音」及びエピローグからなる。本件ドラマの梗
概の紹介の体裁をとっているが、「「ドラマ・ストーリー」と放送が異なることが
あります。ご了承ください。」と注記されている。
(三) その叙述の梗概は、次のとおりである。
 プロローグでは、川上音二郎一座の公演を観ている貞を紹介し、第一章「馬上の
女」では、貞と桃介、桃介と音二郎の出会いとそれぞれの生い立ちを交えて描き、
第二章「自由童子誕生」では、音二郎と奥平剛史の出会いから、八重子と音二郎の
関係と、桃介が房子と婚約して米国留学に出発し、貞は伊藤博文に水揚げされるま
でを、第三章「オッペケペ」では、音二郎がオッペケペを始め、さらに、改良演劇
で話題を呼び、貞と結婚するまでを、第四章「日本脱出」では、川上座を開場した
ものの、国会議員に立候補して落選し、川上座も人手に渡ったことから、小さなボ
ートで貞と二人で日本脱出を試みたところまでを、第五章「海外巡業」では、川上
一座のアメリカ、パリでの成功の様子を、第六章「女優第一号」では、福沢諭吉に
反発する桃介と、帰国した川上一座の活動、貞が「オセロ」で女優第一号を演じた
こと、第七章「劇界改造」では、音二郎の劇界刷新のための改革の試みと、桃介が
株で成功したことを、第八章「新時代の足音」では、貞の女優養成所開設から伊藤
博文との別れ、大阪・帝国座の建設、音二郎の死亡までと、松井須磨子の台頭を、
エピローグでは、音二郎の銅像と貞の感慨を描いている。
(四) ドラマ・ストーリーの叙述内容は、別紙六「ドラマ・ストーリーの内容」
記載のとおりである。
(五) ドラマ・ストーリーの制作経緯は、次のとおりである。
 昭和五九年九月一四日、被告会社は、本件ドラマに関するガイドブックと言うべ
きドラマ・ストーリーの構成を被告【A】に依頼し、被告【A】は、同年一〇月後
半に一〇日間ほどかけて書き上げた。しかし、当時、本件ドラマの脚本は、全五〇
回分中の一〇回分程度しかでき上がっていなかったため、被告【A】が完成してい
た一〇回分の脚本を元にして第三章「オッペケペ」辺りまでを書き、それ以降の部
分については、同人の助手【X】が、本件ドラマの構成案及び被告協会のスタッフ
が作成した主要人物年表を元にして書き、被告【A】がチェックした後、原稿を被
告会社に渡し、被告会社は、さらに若干の手直しをして本件書籍に掲載し、出版し
た。なお、その際、参照された資料の中には、原告作品も含まれていた。
2 複製権侵害の成否について
(一) 複製とは印刷、写真、複写、録音、録画その他の方法により有形的に再製
することを言う(法二条一項一五号)が、原著作物とまったく同一ではなくとも、
これに多少の修正増減を加えた程度のものを作成することも含まれると解される。
(二) ところで、原告作品とドラマ・ストーリーとを比較すると、その叙述内容
は別紙四及び別紙六のとおり相違している。
(三) さらに、原告の指摘する別紙三記載の類似箇所について、検討する。
 1イ・1ロの音二郎・貞奴がヨーロッパから帰国し、神戸・新橋で歓迎を受ける
場面は、歴史的な事実であり、多くの新聞報道があるし、音二郎の伝記でも取り上
げられており、原告作品はそれらの先行資料に基づくものであり、先行資料の内容
を前提とすると、ドラマ・ストーリーの当該箇所の表現が原告作品に類似するもの
とも言えない(乙一の三、四、乙三の一、乙一八)。
 2の音二郎が河原乞食と言われることについて強い反発心を持っていた点は、新
聞報道されている事実であり(乙一七)、表現が類似するものとも言えない。
 3については、貞の水揚げに関して藤田伝三郎、井上馨、内海忠勝及び伊藤博文
が約束していたという事実を明記した資料はなく、この点で、ドラマ・ストーリー
のうちの3の下段で指摘されている部分は、原告作品の表現を参考にして作成され
たものと考えられる。しかし、原告作品は、貞が伊藤博文のものと公認されていた
という内容であるのに対し、ドラマ・ストーリーは、それぞれが手を出してはいけ
ないという趣旨であって、表現は異なる。
 4イ・4aについては、前記三3(四)(2)③において判示したところと同様
であり、先行資料を前提とすると、表現は類似していない。
 5及び6については、表現は類似していない。
 7の上段は、歴史的事実である(乙八八)。
 8の上段は事実を記述したものであり、下段の別の作品(【D】「冥府回廊」
(上)一八九頁、一九三頁、【S】「激流の人」五四頁)に類似の記述がある(甲
五の一、乙三四)。
 9イのうち、貞が「板垣君遭難実記」を養母と見に行って初めて音二郎を知った
と語っている部分及び名士よりも書生が好きだったという部分については、先行資
料がある(乙二、三八、四一)。
 9ロについては、「一日鳥越座に川上の芝居を母と共に見物して従来の俳優の柔
弱なるに似ず川上の元気よく気焔を吐くに感服し何事にも奇抜を好む彼女の心は遂
に一書生役者たる川上の占領する所となり」との先行資料がある(乙八九の一)。
また、9ロと9b・cの表現自体を比較しても、類似しているとは言えない。
 10の上段・10a・10bについては、いずれも先行資料がある(乙七、乙二
三の一)。
 11イないしヘ及び12の音二郎が自由童子からオッペケペ節を演ずるに至るま
での経緯については、いずれも音二郎に関する歴史的事実をその順序に従ってまと
めたものであり、先行資料がある(乙一七、二三の一、三二、九〇)。また、ドラ
マ・ストーリーには、原告作品に現われていない固有名詞や文句が記述されており
(例えば、「ヤソに神なし、仏教に仏なし」(11e)、「講釈師」(11f)、
「神田末広町の千代田亭」(11g)、「三遊亭万橘」(11h)、ヘラヘラ節の
内容(11h)、オッペケペ節の内容(12a・b))、少なくとも原告作品以外
の資料に依拠して作成されたことが明らかである(乙二三の一、三二、九〇)。
 13のうち、貞や名妓たちが音二郎に入れ上げ、引幕を贈った事実については、
先行資料がある。(乙九一)。
 14の音二郎が金子堅太郎らから洋劇視察を勧められる部分については、先行資
料がある(乙二三の二)。
 15の川上一座の出し物が大当たりとなったことは、歴史上の事実である(乙一
七、二三の二)。
 16の下段は、原告作品とは別の作品(【L】「近代劇のあけぼの」)を参考に
したものと認められる(乙三二)。
 17は、この部分だけを取り上げて表現が類似しているとは言えない。
 18イ・ロのうち、落籍祝いがされたこと、金子堅太郎が仲人を務めたこと、金
子は音二郎と同郷であったことについては先行資料があり(乙一七)、その部分を
除くと18a・bが原告作品に類似しているとは言えない。なお、ドラマ・ストー
リーでは「桃介と房子の向こうを張って、どうしてもまともな結婚をしなければな
らない意地もあった。」とあるのに対し、原告作品では「貞は養母・可免の計らい
によることを強調して、“野合”と見られるのを嫌っていた。」とある。原告作品
では右表現より前の箇所である三八頁において「貞は音二郎という存在を知るな
り、殆ど間髪をおかず、恰も電光石火の如く〈いっしょになってしまった〉」と
し、「貞はこうしたいわゆる野合説に抗議するかのように、勝手に一緒になったの
ではなく、ちゃんと養母の手でしかるべき手続きを経て結ばれた、と弁明してい
る。手続きはともあれ、貞は〈書生が好きだった〉と言い、一目で惹かれてしまっ
た。当の貞はそれ以上の説明はしてしない。」と述べている。18イの記述はこれ
を受けているものであり、桃介と房子の向こうを張るといった心情は表現されてい
ない。したがって、両者は類似していない。
 19については、歴史上の事実であり、先行資料がある(乙八〇の一、二、乙九
二の一、二)。
 20の川上一座が戦争物で大当たりをとり、歌舞伎座に進出するまでの経緯は、
歴史上の事実であり、先行資料がある(乙二三の二)。
 21イ・ロ、22イないしハ、23イ・ロ及び24は、音二郎らの川上座建設、
国会議員選挙への立候補と落選、音二郎の失意といった歴史上の事実に関する記述
であり、いずれも先行資料がある(乙一六の一、乙一九の一、乙二三の二、乙二
九、三八、三九、四一、九四、乙九五の一、二)。これに対し、ドラマ・ストーリ
ーでは、八重子が音二郎の子だから引き取ってくれと言って現われ、貞は八重子と
子供を追い出し、音二郎をとっちめたこと、選挙運動は賑やかに展開し、音二郎、
貞らも気をよくしていたこと、これを万朝報の黒岩がここぞとばかりあざ笑い、書
きまくったこと、川上座が人手に渡る場面では、音二郎と貞が二人でシャンペンを
飲んだこと、音二郎が拳銃を持って万朝報社に乗り込み、拳銃の暴発のため黒岩に
けがをさせたが、黒岩は警察には訴えずに記事にもしなかったこと等のストーリー
が加えられており、原告作品とは筋が異なる。
 25イ・ロの音二郎・貞がボートで海へ漕ぎ出し、神戸にたどり着くまでの経緯
については、音二郎の談話等の形での先行資料がある(乙二三の二、乙三三、三
八)。
 26の上段及び下段は、「大西洋岸のアトランチック・シティーで日本の庭園を
経営していた櫛引弓人が、興行方面にも手を広げていたので、サンフランシスコを
中心にアメリカの西部地方を興行して回るという話を音二郎に持ち込んだ。」とい
う限りでは、先行資料が存在する(乙一七)。ただし、両者の表現のうち、「話が
舞いこんだ」「大西洋岸のアトランチック・シティーに、茶屋、球戯場などを含む
日本庭園を経営して」「音二郎はこの話にとびついた」の部分は、他の先行資料で
は用いられていない表現であり、ドラマ・ストーリーのこの箇所は原告作品を参考
にして記述されたものと推認できる。
 27について、上段と下段の表現で共通するのは、出発と到着の日、同行したの
が一九人であり、同行者の中に音二郎の弟磯二郎と姪のツル(一二歳)、三味線の
杵屋君三郎が含まれていたことであるが、歴史上の事実であり、先行資料がある
(乙四四)。また、留守の座員を桜木に預けたことを含めると、原告指摘の部分
は、【D】「マダム貞奴」の一二三頁によったものと認められる(甲四)。
 28イ・ロ、29イないしヘについては、いずれも先行資料が存在する(乙一
七、一九、二五、二九、三〇、三八、四四)。なお、① 「町には既に貞のポスタ
ーが張り出してあり、貞が主演女優であるかのように宣伝されていた。」(28
イ)「街にはすでに貞のポスターが張り出され、まるで彼女が主演であるかのよう
に宣伝されているのである。」(28a)、② 「二十三日に着いて、二十五日か
ら公演するので、ぐずぐずしているひまは無かった。」(28ロ)「二十三日に着
いて二十五日には公演するという日取りになっているのでグズグズもいっていられ
ないのである。」(28b)、③ カリフォルニア座での収入を「千二百七十一ド
ル(二千五百四十二円)」(29イ)「一、二七一ドル(二、五四二円)」(29
a)と表現した点、④ 義捐興行による収入を「七百ドル余り」(29イ)「七百
ドル」(29a)とした点、⑤ 「いずれも着いてから劇場を探し、公演が済み次
第、夜行に乗る」(29ハ)「いずれも着いてから劇場を探し、公演がすみしだい
夜行列車に乗る」(29e)という表現、⑥ 「汽車に乗っているときだけが休息
の時間」という表現(29ハ・29e)、⑦ ライリック座の座主が日本びいきで
あると聞いたという点(29ハ・29f)、⑧ 「極限に追いこまれて必死につと
めた舞台だった」(29ホ)「極限に追いこまれた一座が死力をふりしぼってつと
めた舞台だった」(29i)という表現、⑨ 「集まった観衆は魅了され、ライリ
ック座の劇場主ホットンに一座の再演をもとめて押しかけた」(29ヘ)「ホット
ンのところには、貞奴に魅了された観衆が再演を求めて押しかけていた」(29
j)という表現は、いずれも他の先行資料とは異なっており(他の類似箇所につい
ては、同様の表現を用いた先行資料等が存在する。)、ドラマ・ストーリーの当該
箇所は、原告作品を参考にして作成されたものと推認できる。しかし、右の箇所
は、いずれも歴史的な事実に基づいて表現されたもの又は同様の表現の先行資料が
存在するものであり、独立して著作物性があるとは言えない。
 30イ・30aについて、「一夜明けると、貞奴はスターだった。」という表現
は、他の先行資料とは異なっているが、【Q】「マダム貞奴」(乙三九)四七頁に
は、同様の場面で、「一座は其折女優がなかったために苦い経験をしたので、奴は
見兼ねてその難儀を救った。義理から、人情からそれまで一度も舞台を踏んだこと
のなかった身が一足飛びに、優れた多くの女優が、明星と輝く外国に於て、貧乏な
旅廻りの一座のとはいえ、一躍して星女優となったのである。」との記述があり、
ライリック座での公演をもってスター女優となるきっかけとみること自体が原告独
自の表現とは言えない。
 30ロ、31、32イないしヘ、33イないしハ、34、35については、いず
れも歴史上の事実であり、先行資料がある(乙一七、二五、三三、四四、九九)。
これに対応するドラマ・ストーリーについても、原告作品以外の先行資料を参考に
して作成されたとみられる(30b、31、32a、32bにつき乙三三、32c
につき甲四、32dにつき乙一七、33bにつき乙九九)か、又はそもそも表現が
類似しているとは言えない(30b、31、32a、32b、32c、32d、3
2e、32f、33a、33dないしj、34、35a、35b)。原告の指摘す
る「ロイ・フラー」(32d)「オフィシェ・ド・アカデミー」(32f)の表記
が同一であること、烏森芸者たちがパノラマ館で演じた出し物が「『鶴亀』『道成
寺』『活惚』『へらへら』『凱旋踊り』」であったとするその選択と順序が一致し
ていること(33イ・33a)は、このような一致がみられることから、ドラマ・
ストーリーが原告作品を参考にして作成されたものであることの推認をすることは
できるが、右の各部分自体には独立した著作物性はない。
 36イないしハ、37イ・ロは、歴史上の事実であり、先行資料がある(乙一
七、乙二三の二、乙三二、一〇一、一〇二)のに対し、36cについては「マダム
貞奴」に記述があり(甲四)、その他の部分についても、原告作品とドラマ・スト
ーリーで共通している事項、言葉遣いについては、先行資料が存在する(なお、3
6bに「不評と叱責が待っていた。新聞はあげて音二郎否定論の大合唱である。」
とあるのは、36イの「不評と叱責に満ちた、音二郎否定論の大合唱」という表現
とよく似ているが、この部分に独立した著作物性があるとは言えない。)。
 38イは、音二郎が日本のブースたり、フローマンたることを目指して演劇に生
きる覚悟ができたとし、中央新聞の記事を引用しているのに対し、38aは俳優学
校を設立して後輩を育てる仕事をしたいということで目指す方向がはっきりと見え
始めたというのであり、内容が異なる。また、38bは【L】「近代劇のあけぼ
の」(乙三二)一七四頁を参考にしたものと認められる。
 38ロは、歴史上の事実であり、先行資料がある(乙三二、一〇四)。他方、3
8dの「世界的演劇を興すの必要」については先行資料に記載されている(乙三
二)。
 39イのうち、貞が帰国後女優として舞台に立つことを拒否していた事実につい
ては先行資料がある(乙一七、一八)。「貞が失敗すれば、ただでさえ困難な女優
の道がいっそう険しくなる。不用意には応じられない。」(39イ)、「もし、あ
たしが失敗したら、女優の発展がそれでおくれることになるんですよ。そんな重大
なつとめがどうしてできましょう」(39b)という表現は類似しているが、先行
資料には、貞が金子堅太郎から「将来の日本の演劇の、発展を考えると、女優の必
要なことは儂が言うまでもなく、前後二回の欧米巡業の体験からお前自身も痛感し
ていることだろうと思うがね。……機運は既に迫っているのじゃが、みな逡巡して
いるのじゃ。誰か一人、そのトップを切って、演劇革新のために叫ぶ者があれば、
我もわれもと追従する者の現われようとしている時期なのじゃが、不成功を怖れ
て、躊躇している有様なのじゃ。何事にも、先駆者たるには、勇気が要る。……日
本劇壇全体のためを思えば、現在こそ女優として、お前が、立つべき秋だ。」と説
得され、これに対し、貞は「私の芸は、外国でこそ胡魔化せて通っていましたが、
日本では、他人様に見せるほどの腕でないことは、百も承知しています。だからこ
そ、舞台を、あきらめていたのです。が、日本の演劇の、将来のために、私が役立
つなれば――と、斯う言われて考えました。」と構成したものがある(乙一八)。
このような記述を前提とすると、ドラマ・ストーリーの当該箇所は原告作品の表現
に類似しているとは言えない。また、39aは、原告作品ではなく、先行資料に基
づいて記述されたものと認められる(乙一七)。
 40イないしニは、歴史上の事実であり、先行資料がある(乙一七、乙二三の
二、乙一〇四)。また、40dは、原告作品ではなく、先行資料に基づいて記述さ
れたものと認められる(乙一七)。
 41イないしニは、歴史上の事実であり、先行資料がある(乙一七、三二)。し
かも、41c・41dの部分は、【B】「川上音二郎」二三〇頁・二三一頁(乙一
八)に、41eの部分は、【L】「近代劇のあけぼの」(乙三二)一八三頁・一八
四頁に、それぞれ類似しており、これらの資料を参考にして記述されたものと推認
される。
 42イ・42aは、歴史上の事実であり、類似していない(乙一七、三二)。
 42ロ・42bのうち、42bに「さしもの川上嫌いの面々もこぞって支持を表
明した。子供たちを喜ばせ、貞自身も心を洗われ、すべてを忘れて芝居に打ちこみ
ながら」とある部分は、原告作品の表現を利用したものと推認できるが、歴史上の
事実を記述したものであって、これ自体が独立して著作物性を有するとは言い難い
(乙六〇)。
 43イ・43b・c、43ハ・43d、43ニ・43eについては、多数の先行
資料がある(乙一七、乙二三の二、乙一〇六、一〇七)。
 43ホについても、先行資料があるほか(乙三二、一〇七、一〇八)、43fの
ドラマ・ストーリーの表現は、原告作品よりも【L】「近代劇のあけぼの」(乙三
二)一九三頁に類似の記述がある。
 43ヘと43g、44の上段と下段とは、いずれも類似していない。
 45イ・ロは、いずれも歴史上の事実の記載である(乙三二、九三、一〇九)。
 46イ・46aは、場面が異なり、類似していない。
 46ロについては、先行資料がある(乙一一〇、一一一)。
 46ハ・46dは、表現が類似していない。
 47は、歴史上の事実である(乙三二、八二、八三)。
 48は、先行資料がある(乙二三の二)。
 48ロ・48b・c、48ハ・48d、48ニ・48e、48ホ・48f、48
ヘ・48gは、いずれも表現が類似していない(なお、48eの箇所は、【R】
「川上貞奴」(乙三一)三四頁に類似の記述がある。)。
 49、50は、歴史上の事実である(乙八五、一一二ないし一一四)。
 51は、先行資料がある(乙三八、七〇、七一)。
 52イは、先行資料があるし(乙一七、三二)、上段と下段の表現は類似してい
ない(52aのドラマ・ストーリーの表現は、【L】「近代劇のあけぼの」(乙三
二)二五六頁を参考にしたものと認められる。)。
 52ロの音二郎の最後の言葉については、先行資料がある(乙三二)。
 52ハについては、先行資料がある(甲四、乙三二)。
 52ニのうち、音二郎の死後貞奴に引退を迫る声が強かったという点は、歴史上
の事実である(乙一一五の二)。
 53イ・53aは、表現の類似はない。
 53ロについては、先行資料がある(乙三八、一一六)。
 53ハ・53cは、表現の類似はない。
 54は、歴史上の事実である(乙一八、乙一九の二、乙三八、六九、一一七)。
 55は、歴史上の事実である(乙一一八)上、55aは【Y】「日本新劇小史」
(乙一一三)二三頁を参考にしたものと認められる。
 56イ・56a、56ロ・56b・56cは、表現の類似はない。
 57については、上段は歴史上の事実を示すものであるのに対し、下段の57
a・57b・57cについては、【D】「冥府回廊(上)」(甲五の一)二四一
頁、二七四頁以下及び同「マダム貞奴」(甲四)一一二頁の記述を参考にしたもの
と認められる。
 57ハ・57e、57ニ・57fは、いずれも表現の類似はない。
 以上のとおり、ドラマ・ストーリーには、原告作品の記述を参考にしたとみられ
る箇所(3)、外国語の表記が同一である点(32d、32f)、原告作品独自の
表現とよく似た表現が用いられている箇所(26、28a・b、29a・e・f・
i・j、30a、36b、39b、42b)が存在するが、指摘箇所の大部分は、
いずれも、歴史上の事実又は先行資料を引用若しくは要約したものであるというこ
とができ、しかも、音二郎・貞奴の日本脱出の試みから海外巡業での苦労話、帰国
後の活躍と苦心等のドラマ・ストーリーの中心として描かれている部分は、すべ
て、多くの先行資料に描かれているところであって、全体として原告作品にのみ類
似しているというわけではない。また、明らかに原告作品以外の先行資料を参考に
して記述されたとみられる箇所も多数存在する(11e・f・h、12a・b、2
7、30b、31、32a・b・c・d、33b、36c、38b、39a、40
d、41c・d・e、43f、48e、52a、55a、57a・b・c)。
(四) 右に検討したところによると、原告作品とドラマ・ストーリーの叙述内容
自体は全体として見た場合には相違しており、類似箇所として指摘された部分も、
その一部に原告作品を参考にして作成されたと見られる表現はあるものの、いずれ
も、歴史上の事実若しくは先行資料に記載された事実に係る部分又は表現が類似し
ていないと見るべき部分であるから、ドラマ・ストーリーは、原告作品に多少の修
正増減を加えた程度のものとは言えず、原告作品を有形的に再製したものとは言え
ない。
 したがって、ドラマ・ストーリーの制作は、原告作品の複製権を侵害するものと
は言えない。
3 翻案権侵害の成否について
(一) 翻案権侵害の判断の基準は前記三3(一)において判示したとおりであ
り、右の基準に照らして、前記二、三及び右1の判示事実を前提として原告作品と
ドラマ・ストーリーとの内面形式の同一性の有無について検討する。
(二) 原告作品の特徴は前示三3(二)のとおりであるところ、ドラマ・ストー
リーの特徴としては、以下の点が指摘できる。
(1) ドラマ・ストーリーの分量は、本件書籍の五二頁から一一二頁までの六三
頁であり、原告作品よりもかなり短い。
(2) 対象とする年代は、貞の小奴の時代から音二郎の銅像建立までであり、原
告作品のそれよりも範囲が狭い。
(3) 登場人物は、本件ドラマと同様、歴史上実在しない人物(雲井八重子、三
浦又吉、野島覚造等)を登場させ、ストーリーの中で独自の役割を持たせている。
(4) 描写の方法は、登場人物をめぐる歴史上の出来事を逐一取り上げるのでは
なく、節目となるエピソードを中心とし、客観的な記述というよりも読み物として
の読みやすさが重視されている。
(5) ドラマ・ストーリーのうち、第四章「日本脱出」及び第五章「海外巡業」
の全部、第六章「女優第一号」の後半部分並びに第七章「劇界改造」の部分は、そ
の叙述内容の大部分が原告作品と共通である。
 しかし、原告作品で叙述されている事項のうち、貞の幼少時代、川上一座がアメ
リカ東海岸からパリに到着するまでの経緯、二度目のヨーロッパ客演旅行、パリ再
訪、革新興行、貞の女優引退、川上絹布設立、二葉御殿、児童楽劇園、貞照寺の建
立、貞の晩年の生活ぶり等は、ドラマ・ストーリーでは取り上げられていない。
 また、ドラマ・ストーリーで取り上げられている事項のうち、慶応義塾での音二
郎と桃介・黒岩涙香の出会い、音二郎と奥平剛史との出会い、音二郎の車夫懇談会
での演説、房子が桃介に魅せられてしまったこと、奥平と八重子の関係、貞と書生
演劇で世に出る前の音二郎との出会い、貞の水揚げの儀式とその前に桃介と会う場
面、貞が初詣でをする桃介・房子夫妻を見かけ、伊藤博文との関係も切れること、
野島覚造との出会い、貞が小田原まで音二郎の興行を見に行き、騒動に巻き込まれ
て、その夜、音二郎と結ばれること、株式投機をする桃介と房子との間の溝、貞が
パリ滞在中の亀吉の容態悪化、桃介の事業の不振と諭吉との葛藤、桃介が貞を励ま
したこと、日露戦争を背景に桃介が兜町で飛将軍の名をとどろかし、芸者を買切り
にして騒いだこと、貞と伊藤博文の最後の対面、奥平の大逆事件による処刑につい
ては、原告作品ではまったく触れられていないか又はごく簡単に触れられているに
過ぎない。
(6) 貞奴の描写について、その人物像の特色、女優としての資質等が描き出さ
れているとは言えない。
(7) 他の人物については、本件ドラマと同様、音二郎、桃介、房子に関する描
写が各所に取り込まれており、全体の中でもそれらが相当な分量を占める。
(三) 原告指摘の類似箇所(別紙三)については、前記2(三)において判示し
たとおりであり、その大部分は、いずれも歴史上の事実であるか又は先行資料に記
載された事項である。
(四) 右(二)、(三)に判示したところによると、原告作品とドラマ・ストー
リーの全体を比較した場合には、分量、対象とする年代、登場人物、描写の方法、
叙述されている事項、人物の描写のいずれについても異なっており、基本となる
筋・仕組み・構成はいずれも異なると言うべきである。
 なお、ドラマ・ストーリーのうち第四章「日本脱出」及び第五章「海外巡業」の
全部、第六章「女優第一号」の後半部分並びに第七章「劇界改造」の部分は、その
ほとんどの事項が原告作品の叙述事項と共通しているところであり、原告作品独自
の表現と類似する箇所もいくつかあることから、この部分は原告作品に依拠して作
成されたものとみるべきである。しかしながら、右の部分の大部分は、いずれも歴
史上の事実であるか又は先行資料に記載された事項であって、その基本的な筋・仕
組み・構成自体は、原告の創作に係るものとは言えないから、このような部分が共
通しているからといって、著作物たる原告作品とドラマ・ストーリーとの内面形式
が同一であるとすることはできない。
 したがって、ドラマ・ストーリーは、原告作品と内面形式が同一であるとは言え
ないから、原告作品を翻案したものには当たらないと言うべきである。
五 人物事典による著作権侵害の成否について
 まず、別紙三の58イの貞の身長等に関する表現は、事実の記述である。また、
同ロの記述については、貞は一旦浜田家から加納家へ引き取られたが、そこの長男
が「貞ちゃんは今に僕のお嫁になるんだよ。」と言うのを聞き、加納家を逃げ出し
たとの先行資料がある(乙一七)。さらに、原告作品の当該箇所は、原告が川上富
司から聴取した内容を記載したものである(乙一一九、証人【E】)。
 そうすると、原告作品の当該箇所の記載内容自体は、原告の思想又は感情を創作
的に表現したもの(独創性のある部分)とは言えないから、人物事典に同じ内容の
記載があることをもって(両作品の表現方法は異なっている。)、これが、原告作
品の複製又は翻案に当たらないことは明らかである。
 したがって、人物辞典は、原告作品の著作権を侵害するものとは言えない。
六 著作者人格権の侵害について
 右三ないし五判示のとおり、本件ドラマ、ドラマ・ストーリー及び人物事典は、
いずれも原告作品の二次的著作物(又は複製物)とは言えないから、著作者人格権
の侵害はない。
七 結論
以上のとおりであるから、その余の点につき判断するまでもなく、原告の本訴請求
はいずれも理由がないので、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴
法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 岡久幸治 後藤博 入江猛)
別紙目録、別紙二、四ないし六(省略)
(別紙一)
「女優貞奴」・「春の波涛」類似箇所対比表
「女優貞奴」
一 女優の資質と素養
  (第一章 酒の肴の物語 芸者「奴」三四、三五頁)
 そのころ貞は芸者芝居に熱中していた。
(中略)
 いずれも男の役ばかり、〈立役が好きで、いつも他人さんが厭がる立役は皆背負
い込んで納っていたものです〉という。後に本職の女優になろうとは考えてもみ
ず、ただ夢中になった頃を、後年貞は〈千円位(中級官吏の月給約三年分)の切符
は引受けて、自腹をきって芝居に出て嬉しがって居たものです〉と懐かしむ。
二 女優になるきっかけ
  (第三章 梨園の外道 遥かな道 七九、八〇頁)
 町には既に貞のポスターが張り出してあり、貞が主演女優であるかのように宣伝
されていた。貞が自分は女優ではないと訂正を申し込んだがきき入れられず、劇場
主と話し合いの結果、先方の主張通り貞を中心にした演目でなければ、公演も覚束
ないことが分った。予定した『心外千万・遼東半島』をとりやめ、『児島高徳』
『楠公』『道成寺』を出すことになった。
(中略)
 かくて貞は、急遽、看板女優に仕立てられた。あとにも先にも、これほどに、貞
自身の意思によらずして決定された大きな出来事はなかった。幼時に芸者屋へもら
われたのさえ、自分で選んだことと自認する貞にとって、こだわらざるを得ないわ
だかまりとなる。その場は観念したが、好んで女優になったのではないという言い
方を、貞は折にふれて、洩らした。もって、貞を女優の自覚に欠けるかのように見
做し、傀儡にすぎないかのような評価ともなっていく。
三 欧米で舞台に取り組む姿勢
 (第三章 梨園の外道 遥かな道・Sada Yacco八四~八六頁)
 この芝居は、空腹のあまりのびてしまったのであっても、極限に追いこまれて必
死につとめた舞台だった。
(中略)
 断崖絶壁に追い詰められた一同の、心を一つにしたぎりぎりの動きだったにちが
いない。そこに感動が生まれ、迫力のある舞台となったのだろう。
(中略)
 観衆は魅了され、ライリック座の劇場主ホットンに一座の再演をもとめて押しか
けた。
(中略)
 一夜明けると、貞奴はスターだった。早朝から問合わせの電話にたたき起こされ
たホットンの方から出演交渉にやって来た。好条件で話がついた。
四 女優として立つ決意
 (第五章 女優開眼 正劇運動 一二七、一二八頁)
(略)出る以上は、基本から身につけなければならない。一度失敗すれば、どうい
うことになるか、無残に否定され、女優の未来はそれだけ遠ざかり、更に困難にな
るのだ。明治三十年代には女流作家が珍らしがられ、一時の時流に乗って実力のと
もなわぬまま世間に引張り出されたあげく、下手だ、無知だ、無能だ、だから女は
駄目だと叩きのめされて、引込んでしまったばかりか、一旦拓かれた女流作家への
道を再び閉ざし、或いは発展を遅らせることになった。貞の出来映え如何では劇界
でも同じことが起きたろう。
 貞が失敗すれば、ただでさえ困難な女優の道がいっそう険しくなる。不用意には
応じられない。一旦不出来となれば情容赦もなく罵倒される。世界女優の折り紙を
つけられた貞に、失敗は許されない。しかも女優の演技の基礎といえば、何一つし
ていないも同然だった。貞ならできる、西洋であれだけ称讃されたではないか――
まるで貞なら易々と女優になったし、なれるかの様な世間と同じ音二郎の無理解
が、貞には心外であった。
(中略)
 秋から冬へ、夜明け前の二時、三時に、きつい磯風の吹きつける湘南海岸に出
て、毎日、発声練習をした。声は寒風に吹きちぎられ、力の限り張り上げても、す
ぐ目の前の波濤にも届くかどうか、覚束ない。真冬でもたちまち汗ばんだ。砂浜を
歩いて、歩幅を変え、速度を変えても姿勢が崩れないよう、往ったり来たりした。
朝な夕な喉をきたえ、歩く練習をしながら、貞はこの沖合を小舟で渡った時のこと
を思い出した。
(中略)
 波は遥かのかなたから一散にかけてきて、浜辺に着くと、砂に吸い込まれてい
く。どの波もただ砕け散るだけなのに、海原こえて休むことなく走り続け、走るこ
とを途中で放棄する波は一つもなかった。
 貞は辛さだけなら、いかなる苦難にも耐えてきた。だがそれは砕け散るためでは
なかった。踏みにじられた名誉を挽回し、いつか見返してやるためだった。それな
のに、波は浜に吸われて消えるためにだけ、ひたすら走り続けるのだ。貞もやって
みようと思った。どの道、やる他ないのだ。
五 女優としての評価
イ オセロ
 (第五章 女優開眼 正劇運動 一三三、一三四、一三六頁)
 明治三十六年二月十一日、紀元節を期して明治座に開演、従来の如く演目を三つ
四つと並べるのでなく、『オセロ』の一本立である。
(中略)
 雑誌『歌舞伎』を中心とする「同好観劇会」も総見に来た。編集の三木竹二(鴎
外実弟)と伊原青々園、森鴎外、坪内逍遥、尾崎紅葉、与謝野鉄幹、大塚保治・楠
緒子夫妻、佐佐木信綱、上田敏、巌谷小波、桑木厳翼、井上哲次郎、新村出、東儀
鉄笛、水口薇陽、中村春雨、川尻清潭などの文人、歌人、学者、画家、音楽家たち
である。
(中略)
 逍遥も鴎外も、その社会条件と照して、音二郎の勇気と実行力に脱帽した。
 この二人の評は最も穏当な評であった。
(中略)
 『オセロ』に出た貞奴への諸評は、陶然と見惚れて嘆声をもらすばかりで、劇評
の態をなさなかった。
(中略)
 〈気品といい仕草といい、申分ございません。別に仕草は無かったが、態度に於
いて楚々人を動かすの力は充分であったようでござります〉(『東京日日新聞』明
治36・2・13~22)
(中略)
 『オセロ』は東京についで、京都、神戸、大阪を約一カ月巡演し、殊に九州弁の
九州男子音二郎のオセロ、貞奴のデスデモーナ、粂八のエミリア、山田九州男(山
田五十鈴の父)のビアンカがこぞって絶讃を博した。
ロ ハムレット
 (第五章 女優開眼『ハムレット』一五一頁)
 貞奴は、満都の人気を一身に集めた。現象的には西洋での場合と同様、たった一
年で、一際抜きんでて輝く別格の俳優となったのである。このことは貞奴の俳優と
しての適性を証明して余りある。他に女優がいなくて、女役者のみの「女芝居」の
延長のような「女優劇」はあったけれども、劇界の片隅を占めるのではなく、男優
をしのいでその頂点に立った。女役者の殻を脱いで、女優への転身をなしとげたの
は、貞奴自身の資質と努力のたまものだった。
六 女優養成所
 (第六章 劇界の戦国時代 女優養成所 一六八~一七一頁)
 フランスのコンセルバトワールの教育法に触れて、日本でも女優養成にせっかち
に功をあせることなく、気長に見守ってほしいと、訴えている。〈世の方々の御尽
力を願って、自分はその御手伝をするつもりで、只熱心の一つを以って根を枯らさ
ないことに努むるのが第一と覚悟を決めています〉(川上貞奴談『時事新報』明治
41・6・10)
 女優といえば、品行がまっさきに問題にされた。品行上の危惧ひとつで、堅気の
娘は女優になるまじきもの、と考えられていた。
(中略)
 開校準備がすすむにつれて、帝国女優養成所は轟々たる非難に包まれた。その筆
調は貞奴の心配を遥かに上廻った。養成所規則の第六項及び八項に、卒業後二カ年
を実修期間として、帝劇もしくは養成所の指定する劇場に出演することを義務づけ
ていた。それを芸者置屋が少女を養って躰をしばり、食いものにするのと同じでは
ないかと非難するものさえあった。
 女優の募集は、年若い娘を誘惑し堕落させる元だと、貞奴は総攻撃を受けた。
(中略)
 新聞雑誌に女優論が沸騰し、帝国女優養成所は又の名を″阿婆摺収容所″と呼ば
れた。
(中略)
 明治の女優排斥のすさまじさは、想像を絶するものがあった。男尊女卑の毒素が
地底から噴きあげ、火山灰になって襲いかかった。貞奴が、「どうか世間が女優を
育てる気になってほしい」と、それのみ案じたのも、杞憂ではなかった。
 女優養成所ばかりは、案ずるより産むが易しなどといえるものではなく、産みの
苦しみを引受けた貞奴を軽くあしらうのは間違っていた。貞奴は猛威をふるった女
優攻撃の矢面に立って、この養成所を設置した。森律子が自伝に記すように、女優
志願者にとって初めて開かれた道であり、その意味では砂漠の中のたった一つのオ
アシスだった。だが、絶えず砂塵が舞い上って、目潰しをくう。
 貞奴が、帝劇の資金補助と賛成署名をとりつけたのは、ひこ生えの苗木を守るせ
めてもの生垣であった。十カ月後に帝劇へ移管されたが、道づくりをして引渡した
のであって、貞奴の勇気と実行力が無かったら、怖気をふるって手を引き、女優養
成所の開設は、さらに遅れたかもしれない。
 貞奴も、引き継いだ帝劇の西野専務も、又、文芸協会の坪内逍遥も、等しく過剰
なまでに、生徒の品行と男女交際を厳しくとりしまったが、自衛のためにはやむを
えなかった。
七 音二郎没後の活躍
イ トスカの評価
 (第七章 貞奴一座 新派凋落 一九七、一九八頁)
 演目はサルドウ作・松居松葉訳『トスカ』、貞奴は九日間の稽古しかとれなかっ
たが、立ち合った松葉が驚くほどの打ちこみ方を見せた。
(中略)
〈失神の表情から忽ち覚めて殺意を起すに至るまで殆んど凡ての観る人を酔わしめ
た〉(略)(『中央新聞』大正2・6・2~3)
(中略)
〈活々した舞台〉(『時事新報』)、〈際立っていい〉(『読売新聞』)、〈近来
の嵌役〉(『二六新報』)、〈努力の賜物〉(『横浜貿易新報』)、〈光って見え
た〉(『読売新聞』)、〈その煩悶する表情は何ともいえない凄味があった〉
(『演芸倶楽部』)等々と、諸々の劇評がいっせいに賛辞を呈した。各ひいき先が
競って団体をつくり、日々見物に押しかけた。伊東巳代治夫人に付きそわれた蒙古
王が花環を贈った。金子堅太郎の万事感服したという感想も新聞に載った。音二郎
亡きあと、貞奴が東京の劇評陣に、未亡人としてではなく、女優としてまともに扱
われ評価されたのは、これが初めてだった。貞奴は花駕花束のに埋って、嬉し涙に
くれた。
ロ サロメの競演
1 (第七章 貞奴一座 隠れすむべく野菊かな 二〇三頁)
 明けて大正四年、貞奴は『サロメ』を演じた。共演者はヨカナーンの井上正夫、
ヘロディアスの河合武雄という顔ぶれだった。サロメは、「この節ざらに出るから
ザラメだ」と蔭口されながら、貞奴はあえて挑戦した。
〈貞奴のサロメ、妖艶にしてまた凄婉、首をと言い張る態度もきっぱりとしてよ
し〉(『東京朝日新聞』大正4・5・12)、
〈誰よりも王女たるの気品最も秀でて居た〉(『時事新報』同日)、〈諸優のうち
で一番美しかった。セブン・ベールスの舞もこの人が最もそれらしく挑戦的であっ
た〉(青々園『都新聞』大正4・5・14)
 『サロメ』は前年松井須磨子が沢田正二郎を相手役に演じた。ついで松旭斎天勝
も、ヨカナーンの切り落とされた生首が目をかっと見開いて恨み言を言うという奇
術をとり入れて上演した。須磨子は二十九歳、天勝は三十一歳、貞奴は四十四歳、
三人のサロメは須磨子が肉感的魅力、天勝は美貌に奇術を加えて、貞奴は気品で、
競い合うこととなった。
2 (序章 厄年の決断 一六頁)
 名古屋御園座の大道具方・浅井勇元棟梁は、明治四十四年に没した川上音二郎の
名古屋での最後の舞台を見ておられる。
(中略)
 氏はまた大正四年、名古屋の千歳劇場に来演した松井須磨子と、御園座の貞奴と
の、サロメ競演も鮮やかに記憶しておられた。
「貞奴は滅法スタイルがよくて、とにかくハイカラだった。顔だち、身のこなしな
ど何ともいえず品がいい。風格というものがあった。
 貞奴は、臭い芝居をしない。くどい演技はしない人だった。さらっとしていた」
ハ 銅像の建立
 (第七章 貞奴一座 隠れすむべく野菊かな二〇二頁)
 音二郎が劇界につくした功績は大きくても、所詮は河原者と見下げられるのだっ
た。貞奴はせめて自分が銅像を建てなくて誰が建ててくれようと思った。貞奴が銅
像建立の希望を捨て、普通の石碑にしておけば、こんなに苦労しなくてもすんだ
し、悪しざまに人格をけなされることもなかった。だが、河原者の悲哀を思い知っ
て、貞奴は逆に強くなった。
八 女優引退
1 (第七章 貞奴一座 隠れすむべく野菊かな二〇六、二〇八頁)
 貞奴は辛く苦しくはあってもこの時まで一度も、引退すると言ったことはなかっ
た。それどころか折にふれて、西洋の女優の例を話して、引退説を否定し、抗弁し
ていた。ヨーロッパでは七十二歳になる【C】をはじめ、高齢の女優が活躍してお
り、貞奴もまだ引退を考えてはいなかった。
(中略)
 貞奴は天涯孤独であり、係累のない我が身をむしろ幸いとして、喜多村緑郎等と
組んで地方巡業に出た。貞奴の健康を心配して見送った桃介が、逆に病気になっ
て、巡業先へ電報が届いた。桃介危篤の電文を見るなり、貞奴は東京へ飛んで帰っ
た。桃介の危篤が心のはかりになった。貞奴は巡業半ばで舞台を放棄して、桃介の
許へ駆けつけてしまったのだ。芝居よりも桃介の死を恐れる自分を知って、貞奴の
気持ちは急速に引退へ傾く。
 大正六年九月、貞奴は引退声明を発表した。
2 (第八章 かくれ里 川上絹布設立 二一一、二一二頁)
 桃介の危篤も、ひょっとしたら、貞奴の決断を促すための術策ではなかったか。
策ではないにしても、促す結果にはなった。桃介は若い時から結核を患って、壮健
ではなかったが、巡業に行く貞奴を見送ったあと、自分でも思いがけず容態が悪化
した。危篤はいささかオーバーだったにしても、重態に陥った桃介は、電報を打た
せて賭に出た。果たして貞奴が巡業をなげうって帰ってくるかどうかは分らない。
貞奴は帰って来た。桃介の目論み通り、或いは願いどおり、病床にかけつけた。
(中略)
 桃介は、電力王を夢見ていた。既に木曾川の水力発電に着手し、電力の需要開発
に乗り出して、電力事業を次々に拡大しつつあった。だが事業の拡大、進出には障
害も大きい。桃介としては名古屋に腰を据えて全力を傾注し、おのが畢生の事業と
して成功させたかった。そのために桃介は貞奴が欲しかった。全力をあげてとりく
むために、自分には貞奴の協力が要ると思った。その協力を、桃介は妻に期待する
ことができなかった。桃介の妻は、事業とは無縁に育ち、桃介とは別の世界に住ん
でいるようだった。桃介にとって貞奴以上の理解者が他にあろうとは思えなかっ
た。貞奴を伴侶に、人生の最後の仕上げをしたいのであった。
(中略)
 だが貞奴には芝居があった。芝居を捨ててくれとは言えなかった。桃介は辛抱強
く、貞奴の同意を待った。貞奴の女優業を邪魔しながら助けるジレンマと、貞奴を
もとめながら、妻と離別できない身の矛盾を、桃介はいかんともなし得ないでい
た。貞奴の留守に寝込んだ心の弱りが、桃介に危篤打電の非常手段をとらせた。
 貞奴が桃介の術策にかかったのだとしても、貞奴も自分の本心の見極めがつい
て、観念した。だが貞奴には、自ら芝居を捨ててしまった敗北感がのこった。その
敗北感を押しやるためにも、引退興業の準備は一気呵成にすすめられた。
九 貞が自分から浜田家へきた挿話
 (第一章 酒の肴の物語 四歳の駆込寺 二一、二二頁)
 岡本かの子の短篇『家霊』に片切彫のむつかしさ、息詰まるような仕事の辛気く
ささなど、彫金家気質の一端が描かれており、貞の預けられていた加納家の空気を
も連想させる。鬼ごっこの好きなお転婆娘の貞には、微細な塵埃もきらう片切彫の
家より、賑やかな色町の浜田家が好ましく映ったのかもしれない。
 ともあれ、貞は自分から浜田家へ行ったというのだ。
(中略)
 貞が可免にしがみついて離れないので、加納家からの迎えの人は返され、そのま
ま浜田家へ居ついたと、貞は話していたという。
一〇 貞が音二郎に引幕を贈った話と、貞の音二郎観・結婚観
イ 引幕
 (第二章 書生演劇 落籍祝い 四九頁)
 音二郎は、客席の貴女、紳士、令嬢、お妾権妻と見てとれる人々を、遠慮会釈も
なくからかった。だが、音二郎の舞台には不思議な愛嬌があったと言われる。悪態
をつきながら、ついた相手の花柳界の住人に人気があった。
 貞に限らず、名妓たちが競って音二郎に入れあげ、音二郎を自分の座敷に呼んだ
り、引幕を贈ったりした。貞も負けずに着物羽織や、九枚笹の川上家定紋入りの人
力車まで贈呈したらしい。
ロ 日蔭者
 (第一章 酒の肴の物語 芸者「奴」三四頁)
 貞は自分を卑下しないために、媚を売らず、我儘を通す。いずれ足を洗うにして
も、いかなる名士に落籍されようと、日蔭者になるのだけは厭だと、貞は思い決め
ていた。
 貞には、花子という実姉があった。貞が生まれる前に元水戸藩家老中山男爵邸へ
奉公して沢江と呼ばれ、中山信徴付きの小間使になり、一子を成したという。『華
族譜要』によれば、信徴は一八四六年生まれ、七男六女があり、花子との間に生ま
れた子は信光と名付けられ、第四子として入籍されている。しかし生母の名は記さ
れていない。
信光は明治二年生まれ、貞にとっては二歳年上の甥に当り、長じて青木家を嗣ぎ、
子爵になった。
 だがこの姉は、不遇のうちに井戸へ身を投げたという。明治四十四年十二月、享
年は分らないが、信光の生年から推して、六十歳前後と見られる。この姉の存在
が、貞のものの考え方にも、影を落していた。
ハ 書生が好き
 (第二章 書生演劇 自由童子 三八、三九頁)
 手続きはともあれ、貞は〈書生が好きだった〉と言い、一目で惹かれてしまっ
た。当の貞はそれ以上の説明はしていない。
 貞が音二郎以前に付き合った人々は、芸者という職業とその環境からいって、伊
藤博文を初め、政府高官や実業界の名士、さもなければ芸者衆と縁のある梨園の御
曹子達に限られていた。貞はもともと、これらの名士連より〈書生の方が好き〉だ
ったのである。既に名あり家ある名士より、素寒貧の名もなき「書生」といっしょ
になって、わが手で一人前の男に仕立てるのが、芸者育ちの貞の夢であった。
(中略)
 完成品に興味のない貞にとって、音二郎はまさに荒けずりの硬骨漢に見えた。山
から伐り出したばかりのように、そげ立って無骨な青年であり、しかしその活きの
良さは、貞の周辺の誰も持ち合わせないものであった。音二郎は貞が漠然と夢想し
ていた自分の相棒にぴったりの若者だった。
(中略)
 貞は二十歳そこそこでも、磨きぬかれた一級の芸者であり、音二郎は海のものと
も山のものとも先の知れない書生でしかなかった。
一一 桃介との遭遇、親交そして破恋
イ 邂逅
 (第一章 酒の肴の物語 十五の春 二六、二七頁)
 貞は乗馬を習うために本所緑町にある草刈庄五郎の道場へ通い始めた。天保二年
生まれの庄五郎は五十歳、八条流馬術師範で鹿島流馬術の達人でもあった。
 この道場で貞が習ったのは古風な武芸に基づく馬術だった。馬乗袴に白鉢巻のい
でたちで乗ったのだろう。
(中略)
 小姓のような装でも、明らかに女と分る貞の乗馬姿が隅田川べりを駆けて人目に
立った。
(中略)
 ある日貞は、一人で成田山まで足をのばした。本所から千葉の成田までは五十キ
ロ以上ある。帰途、船橋を過ぎた辺りで陽が昏れ、野犬の群に襲われた。絶壁に追
い詰められ、馬は前脚を空に足掻いていななく。貞は振り落されまいとしがみつく
のがせいいっぱいで、手にした鞭で犬を追い払う余裕はなかった。
 どれほどこらえていたのか、吠えたてる犬の声が途切れて、悲鳴に変り、その声
も遠ざかっていった。振り向くと、人影が見えた。人っ子一人いなかったのに、忽
然と現れた黒いシルエットが不動明王さながらに立っていた。まるで、先刻お詣り
してきたばかりのお不動様が本堂を抜け出て、助けに来てくれたかのようだった。
貞は雷に打たれたように身が震えた。
 人影が近づいて、貞に怪我はないかときいた。手に持っていたのは不動尊の右手
にある降魔の剣ではなくて、棒切れである。拾った棒切れと小石で野犬を退散させ
てくれた書生風の身なりの青年は、慶応義塾の岩崎桃介と名乗った。
 動顛して礼も満足に言えなかった貞は、翌日菓子折りを持って、慶応の塾舎を訪
ねた。
ロ ほのかな初恋
 (第一章 酒の肴の物語 一五の春 二七頁)
 三田台を散歩しながら、貞は桃介の母もさだという名前だときかされた。貞が生
家はとっくに没落したと言うと、桃介は自分だって水呑百姓の子だと笑った。桃介
は水呑百姓の子ではなかったが、母のさだが埼玉の旧家から分家して養子を迎えた
あと、事業に失敗したので、学資も乏しかった。桃介はその名の通り、桃太郎のよ
うにつやつやとして、意気軒昂な若者だった。
ハ 別離
 (第一章 酒の肴の物語 十五の春 二八頁)
 明治十九年に貞は十五歳、桃介は十八歳、少女と少年のほのかな初恋はあえなく
押しやられた。「お互い道は違っても、いつか立派に成功して、またお目にかかり
ましょう」
 貞は別れの言葉を告げて、桃介の旅立ちを見送った。
 偉大なる福沢諭吉の娘と、雛妓では勝負にもならない。貞は涙を見せなかった。
袂を噛んでうちしおれるのは貞の性格ではない。何が「天は人の上に人を造らず」
かと、小石を蹴っとばした。
一二 音次郎の出自の述べ方
 (第二章 書生演劇 自由童子 四〇頁)
 川上音二郎は元治元(一八六四)年一月一日、筑前博多の藍問屋に生まれた。
祖父の弥作は黒田侯の御用商人をつとめ、帯刀を許されたが、二男坊の父・専蔵は
遊芸の好きな人で、殊に鼓の腕前は素人芸の域を脱していた。母のヒサは、お父さ
んのような遊び人になってはいけないと、昔の豪傑偉人伝を音二郎に語ってきかせ
た。ヒサは、音二郎が十三歳の時亡くなった。病床のヒサは、自分亡きあとは父の
許にいないで郷里を出た方がよいと言った。
 音二郎はそれを遺言と心得たのか、母が亡くなると郷里を出奔した。
一三 貞の芸者芝居の経験を語る表現
 (第一章 酒の肴の物語 芸者「奴」 三四、三五頁)
 そのころ貞は芸者芝居に熱中していた。博文の長女・生子の夫・末松謙澄らの演
劇改良会が結成され、その会員だった渋沢栄一、大倉喜八郎、福地桜痴などと地元
の有力者との協力によって、友楽館という演芸場が新設された。浜田家に近い蠣殻
町の津山藩中屋敷跡に建てられ、明治二十二年六月に落成した。その開場式に頼ま
れて、貞は『曾我討入』の五郎を演じ、それをきっかけに、毎年暮れになると慈善
芝居をやることになった。
(中略)
『曾我討入』の五郎、『菊畑』の鬼一法眼の他に、『寿曾我対面』の五郎、敵役工
藤祐経、『八幡太郎伝授鼓』の八幡太郎源義家、『川連館』(義経千本桜の四段
目)の狐忠信、『廓文章』の藤屋伊左衛門など、いずれも男の役ばかり、〈立役が
好きで、いつも他人さんが厭がる立役は皆背負い込んで納っていたものです)とい
う。後に本職の女優になろうとは考えてもみず、ただ夢中になった頃を、後年貞は
〈千円位(中級官吏の月給約三年分)の切符は引受けて、自腹をきって芝居に出て
嬉しがって居たものです〉と懐かしむ。
一四 貞のポスターに関する表現
 (第三章 梨園の外道 遥かな道 七八、七九頁)
 一行は五月二十三日、サンフランシスコに到着した。
(中略)
 町には既に貞のポスターが張り出してあり、貞が主演女優であるかのように宣伝
されていた。
一五 烏森芸者一行の演目
 (第四章 一九〇〇年パリ万国博覧会 パリのセンセーション 一〇〇頁)
 川上一座の外にも、烏森の料亭・扇芳亭の女将・斎藤りゅうの引率する芸妓十六
歳から二十七歳までの八人がパノラマ会社に雇われて来ていた。りゅうの帰国談に
よれば『鶴亀』『道成寺』『活惣』『へらへら』『凱旋踊り』など日本舞踊を出
し、道化踊りが受けた。
(中略)
 この一行には、他に料理人、女中、噺家も加わり、奥宮健之が事務担当格でつい
ていた。
一六(欠番)
一七 帝国座の作りとその客足の記述
 (第七章 貞奴一座 帝国座 一八四頁)
 客席は円形で声のまわりを良くし、二階、三階も石灰にしてどこでも下駄履のま
ま行けるようにした。
 舞台を広くとって奥行きを深くし、全体としてテアトル・フランセを手本に日本
の特色を加味したものであったらしい。
(中略)
 藤沢紫水(浅二郎)脚色の黙劇『天の岩戸』と『ボンドマン』を上演、『天の岩
戸』は、宮内省楽人の演奏、若柳吉蔵振付、貞奴が天鈿女命を舞い、音二郎の手力
男命が岩戸を開くと、暗夜が明けて一万五千燭の電燈が輝やくという趣向であっ
た。
 三月一日から一般公開し、初日から十日ばかりは満員の盛況だった。だが〈八方
から詰めかけた債主連が毎日仕切場(勘定場)へ頑張って毎日の上りを一文残さず
引上げていくので、……大部屋連の給金が行き渡らず、衣装小道具の向きへも仕払
止め〉(『都新聞』明治43・4・3)となり、この噂を聞いて客足も遠のいてし
まった。
一八 ゴロ合わせによる引き写し
 (第二章 書生演劇 落籍祝い 五七頁)
 貞は音二郎の底知れなさと活力に惚れこんだ。けれども音二郎は後のアンケート
にも〈娯楽――芸者買い〉(『俳優鑑』明治43・3)と答えて、それを実証する
かのように、日本橋の小かね、新橋近江家のとん子、同じく新叶家の清香など名妓
といわれた人達が、音二郎との仲を自ら名乗り出た。明治の新聞は芸者の消息を常
時記事にしていた。
一九 経文のカナ表記の引き写し
 (第三章 梨園の外道 Sada Yacco 八九頁)
 「ノウマクサマンダ、バサラダン、センダ、マカロシャダ、ソワタヤ、ウンタラ
タ……」
 真言の慈救呪文ならば、浜田家に居た幼い時から覚えて、途中でつかえることは
ない。
二〇(欠番)
二一 一ツトセ節から官ちゃんと官吏侮辱罪、逮捕のエピソード
 (第二章 書生演劇 自由童子 四一頁)
一ツトセ、人の上には人はなき、権利にかわりがないからは、この人じゃもの
二ツトセ、二つとはない我が生命、捨てても自由がないからは、この惜しみゃせぬ
 この一般に伝わる民権数え唄を、自由童子の一ツトセ節はより挑発的にうたう。
一ツトセ、人のこの世に生まるるや、民権自由のあればこそ、コノあればこそ
二ツトセ、不自由極まる世の中も、これも官ちゃんが為すわざぞ、コノ憎らしや
 自由童子こと音二郎は殊更に臨検の警官に当てつけた。聴衆は喜んだが、警察は
許しておかない。「官ちゃん」は官吏侮辱罪に当り、ただちに逮捕された。
二二 憲法草案作成の夏、貞が水泳を習うエピソード
 (第一章 酒の肴の物語 芸者「奴」 三〇、三一頁)
 その夏博文は、神奈川県夏島の別荘へ貞を伴った。
(中略)
 博文はこの別荘で井上毅、金子堅太郎、伊東巳代治らと大日本帝国憲法制定の
「夏島草案」を作るために、来ていたのだった。
(中略)
 夏島に近い富岡海岸で博文と井上毅が左右から貞の手をとって水泳を教えた。
(中略)
 海水浴の習慣は、もと御殿医の松本良順が大磯に海水浴場を開いたことにより始
まったという。
(中略)
 〈我が国の婦女子がかかる風となりしもまた開化の一端ならんが、男女混同で泳
いではいかなる椿事を招くやも知れず〉と、眉をひそめ、海水浴はおろか、学校の
教科に体操を加えることすら、おなごにはもっての他と物議をかもした時代だっ
た。
二三 音二郎の落選に関する創作的表現
 (第二章 書生演劇 川上座 六五、六六頁)
 音二郎が大衆を相手に演劇会や演説会を催し、独自の選挙運動を展開しても、明
治の大衆には選挙権が無かった。選挙権は地租十五円以上を納める男子に限られ、
その数は成年男子の四パーセントに過ぎなかった。音二郎は自由童子時代の政治家
志望を諦めきれず、昔の仲間を当てにしたが、地元の対立候補の動きに無知であっ
た上に読みが浅く、地主と有産階級の選挙にピエロを演じて、袋叩きに遭った。
(中略)
 運動員に一票二十円三十円の買収費を渡し、自らの愚を棚にあげた。音二郎の知
名度は抜群だったが、大衆に選挙権のない明治には、何の役にも立たなかった。
二四 川上座を手放す音二郎の心境を推測する創作的表現
 (第二章 書生演劇 川上座 六六頁)
 〈(略)誰でもいい相手を見付けてよく働いて呉れろと言って、残りのシャンパ
ンを舞台へ撒いてグードバイをしました〉とのちに音二郎は語っている。東京座が
氷庫になってしまった例もあり、音二郎としては、たとえ手放しても、劇場以外に
転用されたくなかったのであろう。
二五 貞奴の「道成寺」好評に関する表現
 (第三章 梨園の外道 遥かな道・Sada Yacco八三~八六頁)
 〈気に張りがありましたから、まともにすっかり踊りましたけれど、今考えてみ
ますと自分ながらよく動けたと思う位でございました〉と貞は言うが、そうではな
かったらしい。
 音二郎が言うには、花笠の踊りの段で、両手に持った振り出し笠を頭上で交互に
廻しながら倒れてしまった。驚いた坊主役の一同が寄って来て輪になって助け起こ
すと、貞は何事もなかったように舞い続け、咄嗟の機転で穴をあけずにすんだ。
(中略)
 頭さえ二廻りも小さくなる程絶食つづきの舞台なので、目が眩んで倒れたのに、
観客はそうは受けとらなかった。
(中略)
 〈内幕が知れたら日本のアクトレスも、愛想をつかされてしまったかも知れな
い〉と音二郎は後の帰国談に自らを揶揄した。
(中略)
 だが、単に怪我の功名で片づけるには、説明のつかないものがある。この芝居
は、空腹のあまりのびてしまったのであっても、極限に追いこまれて必死につとめ
た舞台だった。一座に与えられた最後のチャンスであり、これをのがしたら、あと
はほんとに餓死するしかない。
(中略)
 断崖絶壁に追い詰められた一同の、心を一つにしたぎりぎりの動きだったにちが
いない。そこに感動が生まれ、迫力のある舞台となったのだろう。
(中略)
 観衆は魅了され、ライリック座の劇場主ホットンに一座の再演をもとめて押しか
けた。
(中略)
 一夜明けると、貞奴はスターだった。早朝から問合わせの電話にたたき起こされ
たホットンの方から出演交渉にやって来た。好条件で話がついた。
二六「人肉質入裁判」の貞奴の台詞
 (第三章 梨園の外道 Sada Yacco 八七~八九頁)
 音二郎は一晩で『ベニスの商人』の翻案を思いついた。
(中略)
 動作は言葉にともなう。日本人の扮装をして日本語の抑揚で喋れば、西洋風の身
振りは板につかない。西洋人の動作を真似るには日本語のセリフが邪魔になる。
(中略)
 いっそセリフを度外視して、出まかせでも「スチラカポコポコ」でも、トーンだ
け合わせる方がやりやすい。お袖ことポーシャの役を振り当てられた貞奴も、セリ
フはどうでもいいから、極力エレン・テリーそっくりに演れ、と無理矢理引きずり
出された。殆ど『道成寺』一本槍の貞にとって、初めてのドラマである。その上、
才六に慈悲を説く長ゼリフがある。
「ノウマクサマンダ、バサラダン、センダ、マカロシャダ、ソワタヤ、ウンタラタ
……」 真言の慈救呪文ならば、浜田家に居た幼い時から覚えて、途中でつかえる
ことはない。あくまで肉一ポンドをと言い募る才六に説ききかせるにもぴったりだ
った。
二七 七十二歳の【C】
 (第八章 貞奴一座 隠れすむべく野菊かな二〇六頁)
 貞奴は辛く苦しくはあってもこの時まで一度も、引退すると言ったことはなかっ
た。それどころか折にふれて、西洋の女優の例を話して、引退説を否定し、抗弁し
ていた。ヨーロッパでは七十二歳になる【C】をはじめ、高齢の女優が活躍してお
り、貞奴もまだ引退を考えてはいなかった。
二八 誓紙と誓詞
 (第一章 酒の肴の物語 十五の春 二五、二六頁)
 明治十七年七月二十日の日付のある「とらない」と書かれた色紙が、貞の養女・
川上富司の許にのこされている。藤田、井上、内海、伊藤と姓のみ四人連名になっ
ていて、宛名は「長谷川お鈴殿」とある。藤田伝三郎、井上馨、内海忠勝、伊藤博
文のいずれも四十代の政財界人四人が本挽町の待合の女将を立合人に、〈各自の寵
妓をとらないという一種の、不侵情約〉(菊地秋叟『明治史の裏面・名士と名
妓』)を結んだ誓紙だそうである。鹿鳴館の最盛期に、公侯伯子男五段階の爵位を
五百人余りに授爵する華族令が公布される一方で、自由民権運動が次々に弾圧され
た頃のことだった。
 この色紙に書かれた日、貞は十三歳の誕生日を二日前にむかえたばかりの小奴の
雛妓でしかなかった。
(中略)
「とらない」とは、小奴の貞を伊藤博文からとらないと、他の三人が約束したこと
を意味する。水揚げ前でも、小奴は博文のものと既に公認されていたのであろう。
素人の世界ならば婚約に相当する誓紙であった。
「春の波涛」
(第一〇回放送 オッペケペー シナリオⅠ 二七八、二七九頁)
一太郎「奴さんはこの頃さかんに芸者芝居に凝ってるそうじゃないか?」
貞「ええ、今度浜町に出来た『有楽館』でね、この年末には慈善芝居をやるってん
で、あたしは鬼一法眼、それから八幡太郎義家、対面の工藤……男役ばかりやって
るんですよ。お願いしようかしら……切符、五百枚くらい、捌いて頂けない?」
(中略)
一太郎「五百枚?(その数に驚くが、鷹揚に受けて)いいだろう、いつでも持って
来なさい」
貞「ワァ、嬉しい……ここのお帳場に置いておきますから、帰りに女将さんから受
け取って下さいね……あたし、千円ほどの切符引き受けちまってさ、もうあちこち
のお客さんに頼み回ってるの」
一太郎「千円とはね……さすが、葭町一の売れっ子芸者だ、やることがデカい。
さ、飲んだ、飲んだ!」
(第二七回放送 おお、サンフランシスコ シナリオⅢ 一八四~一八六頁)
サンフランシスコの街角
『オットー・アンド・ヤッコ』と書かれたポスターが貼り付けられてある。音二郎
だけではなく貞の芸者姿の全身像がデカデカと(略)貼られているのである。
(中略)
貞「どういうことなの、あんた?……どうして、あたしの広告ばかり、あちこちに
貼ってあるのかしら?」
(中略)
貞「ちょいと、高瀬さん、あんた、あちこちにあたしの広告ばかり貼り付けて、一
体どういうつもりなんですか? あたしゃ、役者じゃないんですよ!」
高瀬「奥さんにも舞台に出て頂くことになっちょりますけえ、どうぞ、そのおつも
りで……」
(第二九回放送 女優誕生 シナリオⅢ 二三五~二三七頁)
貞、(略)必死で這い起きる。
(中略)
貞、気力だけで踊りつづける。
その姿からは何か鬼気迫るものが発散され、それが恋に狂う女の執念にも似て、凄
絶である。眼を奪われて見入っている外人たち(略)。
(中略)
全身の力を振り絞って激しく舞う貞(略)。
(中略)
客席から割れるような拍手。
全員が総立ちで手を叩いている。
(中略)
ホットン「(略)こんなに素晴しい演技と舞踊を見たのは初めてだ!(略)」
(中略)
ラナ「(略)もっと沢山の人たちにあなたの演技と踊りを見て貰いたいのです。
(略)」
(中略)
ナレーション「翌日のシカゴ市内の新聞は、こぞって一座の芝居、及び舞踊を絶妙
無類と最大級に褒めたたえていた……(略)」
1(第三三回放送 巨星墜つとも シナリオⅣ六二、六三頁)
琴次「(略)…貞ちゃんは今や世界的の女優だもんね。元の芸者には戻れないよ
ね?」
シノ「これからは、芝居が忙しくなるからね、何てったって女優だもん」
貞「女優々々って言わないで……外国じゃ行きがかり上仕方なく舞台に上がったけ
ど、日本に帰って来てまであんなことをする気はありませんからね」
(中略)
貞「あたしはもともと役者でも何でもないんですからね、言葉の分らない外国でな
ら何とか誤魔化せても、日本のお客さまに見せるような芸は持ち合わせていないん
です」
琴次「でも残念だわね、せっかくフランスから勲章まで貰って、女優として評判を
取って来たのに……」
(中略)
貞「何とかかんとかうまいことを言って、またぞろあたしを舞台に上げようたって
そうはいきません。あちらじゃよんどころなく役者の真似事をしたけど、日本に帰
ってまで恥をかきたくないんだから!」
音二郎「恥だなんて、おまえの芸は立派に……」
貞「(遮るように)立派なもんですか……あたしはそれほど自惚れちゃいません。
(略)」
2(第三四回放送 揺らぐ心 シナリオⅣ 九五頁)
●介「座長、どういうんですかねえ?……いつもならせっかちに休む間もなく動き
回って、帰朝公演の準備に取りかかっている筈なのに?」
貞「(ほんのりと微笑を漂わせ)心配しなくたって、考えてるわよ。演劇改良のた
めに、今、自分が何をやれば一番いいか……今度は前のように失敗は許されないか
ら、真剣に、慎重に考えているのよ。きっと……」
3(第三四回放送 揺らぐ心 シナリオⅣ 一〇六~一〇九頁)
音二郎「(略)女優になれる女なんて、おまえさんをおいて、他に誰も居やしない
んだよ!」
貞「……」
音二郎「……忘れちゃいないだろう? アンドレ・ジッドとかいうフランスの小説
家がおまえさんの舞姿に涙を流して、ギリシャ悲劇のエスキロスを見るようだっ
て、おまえさんを賛えていたんだよ……」
貞「西洋と日本じゃ違うでしょう?」
音二郎「違うもんか……おまえさんには力が備わってる。美も備わってる……日本
で女優の草分けになるんだ! 草分けとしての栄誉をおまえさんが担うんだ……
(略)」
(中略)
貞「あたしの芸は、日本のお客様の前で見せられるものではありません!」
(中略)
熱意の固まりのように迫る●介に、貞は思わず頷きそうになるが、
貞「ちょっと、待って……もう少し考えさせて!」
と逃げるように足早やに歩き出す。
●介「貞さん……(無念そうに見送る)」
走る電車の中
シートに腰をかけた貞、深く考え込んでいる。
(中略)
貞、仕方なさそうに微笑する。だが、その微笑の中に決意が宿っている。
貞「みんながこんなに……ありがとう、あたしやってみるわ……ええ、舞台に立ち
ます!女優になります!」
琴次「貞ちゃん……!(思わず貞の手を掴み感動して見詰めている)貞ちゃん、よ
かったわね、がんばってね……」
他の芸者たちも熱い眼差しで微笑を送っている。
貞「(略)みんなのためにも、それから……音さんのためにも、頑張らなきゃ、
ね!」
茅ケ崎の海岸
貞、海に向って潮風に髪をなびかせながらセリフを喋っている。
波の音に逆らうように、声を張ってセリフを言いつづける。
その様子を少し離れた漁船の蔭から見詰めている音二郎と●介。
音二郎「(昂奮を抑えがたく)さあ、いよいよ日本初めての女優の誕生だ……女優
第一号の出発だ!」
●介「よかったです……きっとうまくいきますよ!」
貞の声、ややもすれば波の音に時々掻き消されそうになる。
だが貞は、それに抗うように、懸命に『オセロ』鞆音役のセリフを喋りつづけて―

(第三五回放送 女優第一号 シナリオⅣ(貞奴初舞台)一一六頁)
各新聞の劇評記事が重なりあって
『近来演劇界の大進歩――川上正劇“オセロ”!』
『貞奴の鞆音、さすが気品といい仕種といい、申し分なし!』
『欧米の好評もむべなるかな――貞奴、楚々たる美、大胆なる演技、本邦初舞台と
も思えず!『川上の事業、ついに成果をあらわす!』
等々の絶賛する文章が連なって躍る。
ナレーション「『オセロ』は貞奴の初舞台という話題性も大いに預かって、各新聞
から絶賛された……」
1(第三六回放送 吹きすさぶ嵐 シナリオⅣ一三七、一三八頁)
ナレーション「明治三十六年十一月の本郷座公演の『ハムレット』は音二郎の劇場
改良の試みも成功し、貞も『オセロ』に引きつづきすっかり女優としての人気を定
着させていった……」
2(第三六回放送 吹きすさぶ嵐 シナリオⅣ一六〇頁)
貞「(略)何から何まであたし一人の肩に背負わされるんじゃ、もうたまらない
わ。あたし以外にも何人もの女優が舞台で活躍してくれて、初めて日本の演劇界は
欧米の水準に近づくことが出来るんですもの、一日も早くそうなって欲しいの」
桃介「でも、そうなると、貞さんは今ほど人気を独占できなくなるかもしれない」
貞「あら、構わないわ……どんな女優が出て来ようと、あたしはあたしですもの、
一向に平気よ、そんなのは!」
桃介「そうか……さすが、女優第一号、大した自信だ!」
と見返して、深く頷くのである。
3(第三七回放送 女優学校は…シナリオⅣ一八四頁)
伊藤「いや、わしと別れたからよかったんじゃ。おまえはもともと男なんぞ必要と
しとらんオナゴかもしれんな……男の手を離れて、どんどん大きくなっていく…
…」
貞「とんでもございません。殿方が居なかったら、あたしなんぞ、何ひとつ出来や
しません。
女優になったのも音二郎があたしを押し上げてくれたからです」
伊藤「しかし、今じゃ立派に一人歩きしておるじゃないか……音二郎が居なくたっ
てもうおまえは立派な女優なんだ」
貞 「……」
伊藤「音二郎の道具なんかじゃない、おまえはおまえ、貞奴という女優なんだ…
…」
貞「御前にそう仰言られると、これまで以上にやらなければと、身が引き締まりま
す」
1(第三七回放送 女優学校は……シナリオⅣ一六四、一六五頁)
葭町・『浜田屋』・二階の座敷
新聞記者の前に貞がサバけた口調で話している。
貞「【C】っていや、あなた、そりゃもう大したものでござんすの。七十二歳もの
高齢で、おまけに胸を患っていながら、舞台に出ればそんなことなんぞ微塵も感じ
させないような堂々とした演技で……そういう立派な女優がこの先、日本に一人で
も育ってくれれば、女優養成所の目的はかなったようなものでござんすわ」
(中略)
記者「それは面白い……しかし、貞奴さんが元芸者だから、世間では芸者の養成所
のようにならないかって心配してる向きもあるんですがね?」
(中略)
同・階下の茶の間
(中略)
琴次「貞ちゃんったら、すっかりおカンムリで記者に突っかかってたわよ。音さ
ん、応援に行かなくてもいいんですか?」
音二郎「(寝転がって柏餅を食べている)役者を河原乞食と見る古い固定観念が抜
けきれないから、女優養成所なんていうと、眼の色を変えて騒ぎ立てるんだろうよ
……ま、これも通過せねばならん過程だな」
2(第三七回放送 女優学校は……シナリオⅣ一七八~一八一頁)
一枝「女優養成所なんかに通うような女は社会の風俗を乱す張本人だって……誘惑
の多い世界に引きずり込まれて、墜落するのが落ちだって言われました……」
貞「だからね、皆さんは余計気をつけなくちゃいけませんよ。世間の眼がそのよう
に偏った見方をしてるんですからね、やっぱりそうだったって言われないように、
身持ちを固くして、決して軽はずみなことはしないようにね。(略)」
真剣に悲壮に頷いている生徒たち。
ナレーション「帝国女優養成所は開設されたが、世間の眼は偏見に充ちていた…
…」
同・教員室
音二郎が新聞の記事を読んでいる。
音二郎「『アバズレ収容所』とまたの名を呼ばるる女優養成所は、いよいよ十五日
午後一時をもって天下に醜態を明らかにすることとなりたり。世の公序良俗を乱
し、良家の子女をいたずらに堕落させる『アバズレ収容所』は、川上音二郎が音頭
をとり、妻の貞奴が主任となりしが、この両人はいかに責任を取るにやあらん……
よくも書きやがるもんだねえ、こんな中傷記事を!」
(中略)
貞「本当に新聞がそんな調子なんだから、どうしようもありゃしないわ。欧米では
当り前のことなのに、全く日本って国は、どうしてこんなに遅れてるのかしらね
え!」
(中略)
貞「そんなことまで書かれて、純真な生徒たちがどんなに傷つくか知れやしない。
それでなくても、みんな、いちいち家柄や出身をホジくり回されて、気が立ってる
っていうのに……何故、もっと大らかな態度で見てくれないのかねえ!……女優養
成所は新演劇の発展のために今こそ必要だってことが、どうして分らないのかし
ら」
音二郎「その通り……いや、貞さんの言う通り!」
貞「欧州の演劇界の発展は、俳優の養成所や学校がしっかりしてるからだってこ
と、口が酸っぱくなるくらい説明してるのに、ちっとも分ってやしない……これか
らは女優が活躍しなければ日本の演劇界は壁を乗り切れないっていうのに!」
(中略)
同・教室
貞が授業を行なっている。
熱心に聴いている生徒たち。
ナレーション「世間の無理解にもかかわらず、貞の熱意に支えられて女優養成所は
着実な歩みを続けた」
1(第四四回放送 醜聞 シナリオⅤ 一〇九頁)
貞「●介さん『帝劇』に出ましょう! 一緒に、『トスカ』をやりましょう……あ
たしたちは何にも財産はないけど、この体で覚えた演技だけは残されてるわ……そ
れをこれから思いっきり二人で花咲かせるのよ。音二郎も天国からそれを見守って
てくれる!」
●介「貞さん……(涙ぐんでいる)」
貞 「(見えないものに対して誓いを込めて)あなた……やります……『トスカ』
をやります……命懸けで取り組んで、きっと成功させてみせます!」
誰もいない客席はシーンとしているが、
貞はキッと眼を据えて、どこからか聞こえてくる熱い拍手を聴いているようであ
る。
2(第四五回放送 桃介座 シナリオⅤ 一一一~一一四頁)
爆発するような拍手と共に幕が引かれる。
同(『帝国劇場』)・客席
桃介、盛んに拍手している。
房子は儀礼的に、せい子もまあまあといった顔で拍手。
覚造、本気で拍手している。
抱月も盛んに拍手。
傍の須磨子、ジロッと批難するような眼を抱月のほうへ向け、
須磨子「先生!」
抱月、慌てて手を叩くのを止める。
だが、周囲の拍手は鳴り止まない。
(中略)
ナレーション「貞奴のトスカは頗るつきの好評だった……」
同・ロビー
(中略)
抱月「なかなか見応えがありましたよ」
桃介「有難う。今を時めく須磨子女史と抱月先生に観劇して貰えたと知れば、俳優
たちもさぞかし喜びましょう」
(中略)
精養軒・店内
ビヤーを飲み飲み軽い食事で歓談している一同。
せい子「あの衣装はさすがだわねえ。貞奴がパリの万国博覧会の会場で芝居をやっ
てた頃に知り合った栗野大使の奥様がね、『トスカ』をやるんならこれをお使いな
さいってよこしたんですってよ……よく似合ってたわよねえ!」
抱月「まったくその通りです。ああいう衣装を着こなすというのは大変なことです
よ。それを易々とやってのけるんだから、貞奴という人は僕が思ってたよりもなか
なかの女優では……」
須磨子が急に咳払いとも何ともつかぬように咳込む。
抱月「どうしたの?……風邪かね?」
須磨子「いいえ……あの、おいしいわね、このお料理」
抱月「そりゃ、そうだよ、ここの料理は日本一だもの……(一同に)僕たちはいま
貧乏をしてましてね、爪に火を灯すように暮してるもんですからね……(急に元の
話題に戻り)やはり、貞奴は向こうの舞台をよく観てるんですね。発声法なんかは
ダメだけど、歌舞伎役者に較べたらはるかに声も通るし、近代演劇の呼吸が感じら
れる」
せい子「あたしもね、思わずウットリ惹き込まれちゃった」
覚造「帝劇の女優たちが幼稚だから、よけい引き立つんだな、貞奴が」
抱月「スカルピアを殺すところがいいね。
あの失神するところから次第に殺意に変わっていく表情には思わず眼を見張るもの
が……」
須磨子、また咳払いともつかぬ咳込み方をする。
(中略)
抱月「でも、いい女優ですよ、貞奴もあれはあれで……」
須磨子「(癇癪を起して)やめて下さい、先生……聞きたくないわ!もう貞奴のこ
となんか話題にしないで下さい!」
(第四七回放送 女の中の夜叉 シナリオⅤ 一六九、一七〇頁)
各紙の文芸欄、ゴシップ欄が入り乱れて――
『サロメ役者はどっち--須磨子と貞奴?!』
『気品に満ちた貞奴と肉的な須磨子……どちらに軍配が……?!』
『須磨子八十点、貞奴六十点……!!』
等々の見出し、記事がダブッて――
(中略)
名古屋・『千歳座』・表(八月)
『芸術座――サロメ』の看板と松井須磨子の似顔絵の前で●介が唖然としたように
棒立ちになっている。
ナレーション「ところが翌々月になって、貞奴の『サロメ』と須磨子の『サロメ』
が名古屋は『御園座』とすぐ近くの『千歳座』で同時期に上演という珍事が起き、
文字通りの『サロメ』競演となってしまった……」
(第四五回放送 桃介座 シナリオⅤ 一二六、一二七頁)
住職「赤穂浪士の菩提寺であるこの寺に、役者風情の銅像などを建てるのはもって
の他というわけでしてな」
貞「そう……(スッと顔が凍りつく)そういうことだったの!」
(中略)
貞「可哀そうに……死んだ後までも役者風情とか言われて……あんなに一生懸命に
欧米並みに役者の地位を上げようとしたのに、日本じゃ未だにこの始末なんだも
の、本当に悔しいったらありゃしない!」
1(第四七回放送 女の中の夜叉 シナリオⅤ一六二、一六三頁)
同(『浜田屋』)・二階の一室
貞が窓のほうに向かって立ったまま考え込んでいる。
●介が来ており、厳しい眼で詰め寄るように、
●介「今引退したら、松井須磨子に人気をさらわれてそれで引退したと世間では取
りますよ……それでもいいんですか?」
貞「でも、もう若くはないんだし、いつまでも舞台に未練たらたらしてるよりも潔
く身を引いたほうがという気も……」
●介「年だって言うけど、
【C】は七十まで現役で舞台を踏んだって……貞さんの口癖じゃないか!」
貞「そりゃね、欧米じゃいくら女優が年を取ったって、芸さえうまければ立派に世
間も認めてくれるけど、日本じゃねぇ……いっそ、もう一度欧州へ行こうかし
ら?」
2 (第四七回放送 女の中の夜叉 シナリオⅤ一七六頁)
福沢邸・房子の住まい・座敷
桃介が帰って来ており、電気アイロンでハンカチの皺を伸ばして見せている。
桃介「便利だろう? 一々炭火なんか入れなくたって、電力で綺麗に布の皺が伸ば
せる……電気の利用範囲はどんどん広がって行くよ、房さん」
だが、傍の房子は、そんなアイロンなどには関心はなく、ジッと穴のあくように桃
介の顔を見詰めている。
3 (第四七回放送 女の中の夜叉 シナリオⅤ一七九頁)
同(『喜楽座』)・楽屋の前の廊下
貞・麟介と共に溜め息をつきながら帰ってくる。
すると座員のひとりが待ち兼ねていたように、
座員「電報が来てますよ、貞さん」
貞「あら……(受け取って)どうも有難う」
そして、怪訝そうに広げ電文に眼を通す。
貞「(読んで)ヤマイニタオレタ、シキュウオイデコウ……モモスケ」
麟介「え?(思わず覗き込む)」
貞「(顔色が変わっている)どうしたんだろう?……病気だなんて……(ハッとし
て)あの時、風邪をひいてたから……」
4 (第四七回放送 女の中の夜叉 シナリオⅤ一八二頁)
走る列車の中
貞、ギュッと前方を見据えて坐っている。
貞の声「これがあたしの愛の証しなの……桃介さんに対する愛の証しなの……麟介
さん、許して!」
5 (第四七回放送 女の中の夜叉 シナリオⅤ一八五頁)
広尾・福沢家・房子の住まい・画室(翌日)
房子が絵絹の上に牡丹の花びらを描きながら、チラッと鋭く眼を上げる。
せい子が来ており、肩をすくめてフフフッ……と笑っている。
せい子「電報の効果ありよ……長距離電話で問い合わせたら、昨日から貞奴は休演
ですって……」
6 (第四七回放送 女の中の夜叉 シナリオⅤ一八六頁
名古屋・名古屋電燈株式会社・社長室
迷うような眼で窓際を歩き回っている貞を、桃介が鋭い眼差しを据えて窺ってい
る。
桃介「貞さんは計らずも選択をしてしまったんだよ……そうだろう? 偽電報を誰
が打ったにしろ、貞さんは舞台を捨ててこっちに来てしまったんだもの!」
貞「でも?……でも、一体誰が……?」
桃介「女優の仕事よりも僕を選んだ……貞さんの心がそう命じたんだ!」
貞「ひどいわよ……あんな偽電報、本当にひどいわ!」
桃介「どっちにしろ、もう取り返しがつかないんだからね……今更桃介は元気だっ
たって帰れやしないだろう? 九州興行はもう中止にするんだね」
貞「あんまりよ……一体誰なのよ、あんな罪作りな電報を?」
桃介「もし、損害賠償を請求されたら、僕が払ってあげるさ……」
貞「桃介さん、あの電報を打ったのは誰?……心当たりはないの?」
桃介「神様だろう……」
貞「神様ですって?」
桃介「神様が貞さんの心を試したんだよ、舞台をとるか、僕をとるか……さ、もう
迷うことはない、貞さんの心がそう決めたんだ。
女優なんかキッパリやめるんだ……最後の豪華絢爛の引退興行をやってそれでおさ
らばだ!ハッハハハハ……」
7 (第四七回放送 女の中の夜叉 シナリオⅤ一八八頁)
往来
貞、ひとり力なく歩いていく。
ナレーション「もはや引退は避けられぬと、追いつめられる思いの中で、貞も決意
する以外にはなかった……」
 (第五回放送 獄のうちそと シナリオⅠ 一四六~一四九頁)
イト「お姉さん、あたし、このうちの子供になっちゃいけない?」
貞「あら、イトちゃんはそのほうがいいの?」
イト「イトも、大きくなって、お姉さんみたいな綺麗な着物を着て、御座敷に出た
いの」
(中略)
イトが更に強く貞にかじりついて、
イト「お姉ちゃん、あたい、この家に居たいよう……うちに帰りたくないよう!」
貞「本当?ずっとこの家に居たいの?」
イト「うん、あたいはこの家の子供になりたいよう!」
甘えるように泣きじゃくりながら、貞の胸に顔をこすりつけて来るので、貞も愛し
さを掻き立てられて、
貞「じゃ、ここに居なさい……この家の子供になりなさい!(ギュッと抱き締め
る)おっ母さん、
いいでしょう? この子をあたしの妹にしようよ!」
(中略)
貞「おタネさん、いいでしょう? どうせ、うまくいかないんだったら、あたしに
預けて……この子は妹として、あたしがちゃんと面倒を見ますから!」
イト「お姉ちゃん……(ヒシと抱きついてくる)」
(第一回放送 自由は死せず シナリオⅠ 九、一〇頁)
葭町『浜田屋』の女将亀吉(55)と抱えっ子の貞(20)が中央のます席に座っ
て見物している。
(中略)
貞「だって、お客はみんな喜んでるじゃないか……これからの演劇はこれが本道に
なるっていうんだよ。本当のことを本当らしく、芝居に仕組むのが新しい演劇のや
り方なんだって!」
亀吉「おまえ、だいぶイカレてるねえ?」
貞「おっ母さん、見て……あの引幕、あたしが贈ったんだから!」
舞台の両袖に分れている引幕。
亀吉「そんなに入れあげる程の男かねえ、全く!」
(第一一回放送 めぐりあい シナリオⅡ 一七、一八頁)
蒲団に貞の姉の松子(38)が身を起こしている。
(中略)
松子「(略)……本当に情けない躰になっちまってね、元気なうちは、旦那さまも
しょっちゅう来てくれたけど、病気になってからは傍へ寄りつきもしない。わずか
なお手当でこんな裏店に抛り込まれて……それもこれも、あたしが日蔭者の身の上
だからだよ」
(中略)
松子「おまえもね、日蔭者になっちゃおしまいだよ……いくら芸者だからってね、
男のオモチャで終ったらいけないよ。男が出来たら、ちゃんと籍を入れて、女房に
おなり……そうしなけりゃ、あたしの二の舞だからね!」
貞、その言葉が胸に響いて背中を揉む手を止める。
松子、その貞の手をギュッと掴み、
松子「いいかい、貞?」
手を引っぱられて、貞は松子と向き合う。
松子の眼ににじんでいる涙。その眼を強く貞に据えて、
松子「おまえが芸者に貰われて行った時、あたしゃ、悲しかった。中山男爵の囲い
者になっているあたしと同じような身の上になりゃしないかと案じられてね……」
貞「姉さん、大丈夫よ、あたしは……」
松子「そりゃ、おまえも今は葭町一の売れっ子芸者で幅を利かせてるかもしれない
けど、所詮、
それも若いうちだけのことだよ。先のことをよーく考えておおきよ。女はいい男に
めぐり会って所帯を持つのが一番。芸者だからって、それができない筈はないんだ
からね、あたしみたいにならないどくれ! 貞、いいかい? あたしみたいになっ
ちゃ駄目だよ!」
泣きながらギュウギュウと手を握り締める松子に、貞は胸を衝かれて懸命に頷いて
いる。
貞「分ったよ、姉さん……よーく分ったから!」
(第一一回放送 めぐりあい シナリオⅡ 二一頁)
貞「おっ母さん、あたし、誰かと所帯を持ちたい……」
亀吉「え?……何だって?」
貞「誰か、見込みのある書生さんと……」
亀吉「(ジロリと睨んで)書生だって?……おまえ、いまだにあの福沢家へ養子に
いった奴のことを……?」
貞「そうじゃないの……あたしはね、あんまり偉い人じゃなくて、書生さんが好き
なの……」
亀吉「冗談お言いでないよ。おまえはね、伊藤の御前という立派な方が後楯に付い
て下さってるんだよ。それで何の不足があるってんだい?」
貞「でも、伊藤の御前と所帯を持つわけにはいかないし……あんな年寄りの功成り
名を遂げた人よりも、あたしはまだ海のものとも山のものともつかないような人が
好きなの……そんな人の面倒を見て、出世させてやりたい!」
亀吉「何を言い出すのかと思ったら、この子はまあ……それじゃ、わざわざ苦労を
しょい込むようなもんじゃないか?」
貞「おっ母さん……(夢見るような眼を漂わせ)好きな男がだんだん偉くなってい
くのを、蔭で支えてやるって、随分と気持がいいもんだろうね? 女の幸せって、
そういうところにあるんじゃないかしら?」
(第二回放送 馬上の女 シナリオⅠ 八〇~八二頁)
同(『浜田家』)・玄関口
貞が着物の上に股裁ちを穿いた恰好で出ようとしている。
(中略)
隅田川の土手
貞、駈け足で走らせている。気分よく、髪のほつれを風になびかせながら、調子に
乗って走らせていると、急に馬が何を驚いたのか、ヒヒーン……と跳び上がり暴れ
るようにメチャメチャ走りを始める。
貞「どう……どう!」
と必死にタテガミにしがみつくようにして、綱を引き締めようとするが、
馬は荒れ狂うばかり。貞は振り落されそうになる。
(中略)
馬は手に負えない。背中の貞を振り落そうとするように弾ね狂い、荒れ狂い、走り
回る。
(中略)
咄嗟に桃介、その前に両手をひろげて立ち塞がる。
(中略)
桃介は近づく馬を睨みつけて、両手をさし上げたまま動かない。
(中略)
ところが、どうした訳か、馬は桃介の前まできてピタリと止まるのである。
(中略)
まじまじと見詰めている貞。
桃介も一瞬吸い込まれるように見詰めているが、降りようとする貞に手を貸してや
る。
桃介「お怪我はありませんか……?」
貞「はい……」
(中略)
貞「本当に有難うございました……助かりました」
(中略)
貞「お名前を……お名前を教えて下さいませ!」
桃介「名前ですって?ハハハハッ……名乗るほどの者じゃありませんよ」
貞「でも、せめてお名前くらい!」
桃介「見ての通り、名もない書生です!」
軽く微笑を残して去っていく。
何か深く胸を衝かれる思いで立ちつくしている貞。
(中略)
貞「あたしを助けて下すったお方……慶応義塾の書生さん……岩崎……桃介さ
ん!」
(第三回放送 遊戯会 シナリオⅠ 九四~九六頁)
芝・増上寺・境内
町娘ふうの矢絣の着物に桃割れを結った貞と、桃介が山門から入って来る。
(中略)
桃介「じゃ、家が没落しちまったんだな?」
貞「あたしの家はね、芝神明で薬屋と質屋を兼ねた大店で、屋号を『小熊』って呼
ばれてたんだけどさ、旧幕時代にはあたしのお爺さんって人が両替町で町役なんか
もやって、結構幅を利かせてたんだって……ところが、あたしのお父っつあんって
人が養子でね、これが仏の久さんって言われるくらいお人好しの気の弱い人だった
らしいの。それで、他人の証文に判をついたり、騙されたりして……」
(中略)
桃介「君に変な旦那が付いてしまわないうちに、何とか出来ればいいんだが、今は
無理……そのうち、僕が大金を儲けたら……」
貞「大金を儲けたら?」
桃介「僕は成功する……事業家になって成功してみせる。その時は必ず君を自由の
身に!」
貞「本当?……桃介さん、本当?」
桃介「本当だとも……」
貞「桃介さん……(感動に息が詰まりそうになる)」
(第七回放送 小奴狂乱 シナリオⅠ 一九八~二〇一頁)
桃介「貞さん……(立ち上がって来て、傍に坐る。手酌で酒を注いで飲む)十年た
ったら、また会おう……」
貞「十年?」
桃介「その頃には俺も一端の実業家になってる筈だ……十年たっても貞さんはまだ
二十代の半ばじゃないか、福沢家から籍を抜くわけにはいかないだろうけど、貞さ
んの面倒を見るくらいは出来る。その時は芸者を辞めてもいいし、つづけていたか
ったらつづけてもいい。とにかく、俺が貞さんの旦那になるのだ……」
(中略)
貞「十年なんて、待てやしない。そんな話はあたしのほうが願い下げだ。その頃
は、あんたよりももっといい男つくって、その人と幸せに暮らしているよだ……ふ
ん、何がアメリカだ!」
裾を蹴るように憤然と立ちあがって、
(中略)
貞はすっかり逆上してとび出していく。
(中略)
近くの道
貞、眼を宙に浮かせて乱暴な足取りで歩いていく。
貞「何がアメリカだ……馬鹿にしやがって!」
(木履を放り投げる。)
雪がやんだばかりの道に裾を引きずり、汚れていくのも平気である。
(第一回放送 自由は死せず シナリオⅠ 一一、一二頁)
音二郎「九州は筑前博多の生まれ。家は代々の藍問屋、博多の川上屋と言えば、黒
田侯の御用商人をつとめ、苗字帯刀を許された知る人ぞ知る名家の出。さりなが
ら、わたしの父親と申すのが、音に聞こえた道楽者。飲む打つ買うは言うに及ば
ず、東京から来た歌舞伎役者を贔屓にしてこれにすっかり入れ上げたものですから
堪りません。あれよあれよ、といううちに身代も傾き、長男の身の上ながら、わた
しは家を出ることに相成りました。どうせあのようなケチな田舎町、この文明開化
の御時世に男子たるものくすぶっておれるところではない。政治家になるために
は、東京に出るに限る。大閤秀吉さまのことを思って頑張っておくれとの亡き母の
遺言、胸に秘め、故郷を振り返れば社の森に光る月影。男子ひとたび志を立て、郷
関を出ず。学もし成らずんば、死すとも帰らず!」
1 (第一〇回放送 オッペケペー 台本 七六頁)
一太郎「奴さんはこの頃さかんに芸者芝居に凝っているそうじゃないか?」
貞「ええ、今度蠣殼町に出来た『友楽館』でね、この年末には慈善芝居をやるって
んで、あたしは『菊畑』の鬼一法眼、それから『八幡太郎伝授の鼓』の八幡太郎源
義家(略)男役ばかりやっているんですよ」
(中略)
貞「……あたし、千円ほどの切符引き受けちまってさ、(略)」
2 (第一〇回放送 オッペケペー シナリオⅠ二七八頁
貞「ええ、今度浜町に出来た『有楽館』でね、この年末には慈善芝居をやるってん
で、あたしは鬼一法眼、それから八幡太郎義家、対面の工藤……男役ばかりやって
るんですよ。お願いしようかしら……切符、五百枚くらい、捌いて頂けない?」
(第二七回放送 おお、サンフランシスコ シナリオⅢ 一八四、一八五頁)
サンフランシスコの街角
『オットー・アンド・ヤッコ』と書かれたポスターが貼り付けられてある。音二郎
だけではなく貞の芸者姿の全身像がデカデカと(略)貼られているのである。
(中略)
貞「どういうことなの、あんた?……どうして、あたしの広告ばかり、あちこちに
貼ってあるのかしら?」
(第三〇回放送 洋行中の悲劇 シナリオⅢ 二四八、二四九頁)
貞「そうだったんですか!じゃ、奥平さんも万国博覧会に?」
奥平「『かっぽれ』とか『ヘラヘラ踊り』とか『凱旋踊り』とかね……言ってみり
ゃ、マネージャー兼通訳ってところだが」
音二郎「しかし、驚きましたね、先生が……烏森芸者を引き連れて……」
(第三八回放送 ふるさとの山河は遠く シナリオⅣ 一九九頁)
ナレーション「『帝国座』は日本でも他に類を見ないほどの豪華な劇場で、パリの
グランドオペラ座を模して(略)」
(第一八回放送 華燭 シナリオⅡ 一九九頁)
亀吉「噂って……?」
琴次「フランスから帰って来てからも、日本橋の小かね、新橋大宮のトン子、新加
納屋の清子……」
シノ「まぁ、みんな名の聞こえた芸者ばっかりじゃないか……」
(第七回放送 小奴狂乱 シナリオⅠ 一八四、一八五頁)
 床の間に不動明王の掛軸や御札が飾ってあり、その前に正座した亀吉が経をあげ
始める。
亀吉「ノウマクサマンダ、バサラザン、センダ、マカロシャダ、ソワカヤ、ウンタ
ラタ……」
(第二回放送 馬上の女 シナリオⅠ 六四、六五頁)
音二郎「さて、ここで諸君に我輩自作の『民権かぞえ唄』を披露し、暫しの気散じ
にかえたいと思う……(息を整え、音吐朗々と歌い出す)
一つとせ、人のこの世に生まるるや
民権自由のあればこそ
コノあればこそ……
二つとせ、不自由極まる世の中も
これも官ちゃんのなせる業
コノにくらしや……
警官がここぞとばかり臨検席から出び出して来る。
(中略)
警官「官吏侮辱じゃ……官ちゃんがどうのというのは、官吏侮辱!」
(中略)
聴衆たちは面白がって、
(中略)
聴衆たちが騒ぎ立てる。
(中略)
ワイワイガヤガヤと非難と不満の声の中を、音二郎は警官に手を掴まれて引っ立て
られていく。
(第二回放送 馬上の女 シナリオⅠ 七四~七六頁)
熱海の旅館・離れの一室
(中略)
伊藤の前に金子堅太郎と伊東巳代治がきちんと洋服を着て控え、政治向きの覚書き
のようなものに眼を通している。
(中略)
金子「この華族令が制定されれば、廟堂の風通しも大いによくなりましょうな。実
力もないのに家柄だけで大臣になった連中なんぞは、国家の近代化の足を引っ張る
ばかりです!」
伊藤「おぬしらも、遠慮なく意見を言ってよいぞ、これは飽くまでもまだ草案だか
らな」
(中略)
熱海の海岸
胸まで海水に浸った伊藤博文が貞の躰を掴まえ、泳ぎを教えてやっている。
(中略)
ナレーション「この当時、日本にはまだ海水浴の習慣は根づいていなかったが、伊
藤は率先してこの新しいスポーツを日常に取り入れ、息抜きにしばしば海水浴に興
じたのである……」
1 (第一二回放送 川上一座旗揚げ シナリオⅡ三三頁)
ナレーション「我が国初のこの選挙は極端な制限選挙で、選挙権を有するのは直接
国税十五円以上を納める二十五歳以上の男子と限られ、その数は国民総人口のわず
か一パーセントにしか過ぎなかった……」
2 (第二五回放送 音二郎錯乱 シナリオⅢ 一一四頁)
増谷「(略)川上音二郎の芝居にいくら人が集まったって、
その中に選挙権のある人がどれだけいると思うんだ?(選挙権所有者名簿を広げ
て)この東京第十二区で直接国税十五円以上納めた成年男子は、約五百五十人。み
んなこのあたりの地主か網元か、豪商ですよ……そういう人達がのこのこあんたた
ちの芝居を見に行くと思うのかね?」
(中略)
増谷「(略)川上音二郎の芝居を見て喜んでいる女子供に選挙権はないんですよ。
平林九兵衛、高木正平っていう海千山千の対立候補を向うにまわして、票を奪い取
ろうってえのに、客寄せに芝居やって、それでいくら演説ぶったって、あんた、そ
んなものは茶番よ!遊びじゃないんだよ、選挙ってもんはね!」
(第二六回放送 日本丸出帆 シナリオⅢ 一五五頁)
神田三崎町・『川上座』・舞台(深夜)
(中略)
音二郎「本当にアッという間だったな……たった三年も持ちこたえられなくて…
…」
立ち上がり、残りのシャンペンを少しずつ舞台上に撤いていく。
音二郎「誰でもいい、相手を見つけてこれからも働いてくれろや……決して、物置
き倉庫なんぞに落ちぶれるんじゃないぞ?……いいな、グッバイ……グッバイ!」
(第二九回放送 女優誕生 シナリオ3 二三五~二三七頁)
(貞が振り出し笠を持って「道成寺」を踊る場面が映しだされる)
大詰めの貞の激しい踊り。
だが、躰に力が入らず、バランスを崩してヨタヨタと倒れてしまう。
(中略)
小坊主に扮した粂蔵、丸山たちが貞を助け起こす。
貞、セリフで巧みに誤魔化し、必死で這い起きる。
貞「おのれ、可愛さあまって憎さ百倍……恨めしや、山三殿……恨めしや……」
とまた踊りにかかるが、あえなく倒れる。
小坊主たち、ワッとばかり駈け寄り、また助け起こす。
貞、気力だけで踊りつづける。
その姿からは何か鬼気迫るものが発散され、それが恋に狂う女の執念にも似て、凄
絶である。
眼を奪われて見入っている外人たち(略)。
ホットンもラナも息を呑むように見詰めている。
全身の力を振り絞って激しく舞う貞、だが、ついに眼がくらみ、昏倒してしまう。
(中略)
客席から割れるような拍手。
全員が総立ちで手を叩いている。
(中略)
ホットン「(英語)素晴しい……こんなに素晴しい演技と舞踊を見たのは初めて
だ!(略)」
(中略)
ラナ「(英語)本当に感動しました……もっと沢山の人たちにあなたの演技と踊り
を見て貰いたいのです。(略)」
(中略)
ナレーション「翌日のシカゴ市内の新聞は、こぞって一座の芝居、及び舞踊を絶妙
無類と最大級に褒めたたえていた……(略)」
(第三〇回放送 洋行中の悲劇 シナリオⅢ 二五二~二五四頁)
パリ・万博会場に近い公園
ベンチに坐った奥平が笑いながら、首を振って、
奥平「そりゃ、無理だわな……一晩でデッチ上げるなんて、とてもじゃないが、相
手はシェクスピアなんだから!」
(中略)
音二郎「英語の調子だけ真似して、あとは適当にしゃべっとけってことでね、どう
せ、奴らには、日本語だろうが何語だろうが、わかりっこねえんだから、スチゃラ
カ、パッハノ、トウガラシ、テケレツテンテン、スッパラパン……なあんてね!」
(中略)
ボストン・『モントレー座』の舞台
観客の前で、貞の裁判官が証文を片手に音二郎の才六相手にしゃべっている。
貞「アレワイサ、コレワイサ、スチャラカポコポコ、ウンタラタ……ヤッサ、モッ
サデ、ウンタラタ……」
(中略)
音二郎「クチャナ、バカチャナ、コノ、トトサン、モラウゾ、カシゾ、シャキン、
カエサナ、バナナ、ブレ!」
とさらに出刃包丁を取り出す。
貞「(止める仕種で)キャキ、キャキ、サラバ、ビギンナン、ウム、タラタ!」
(第三七回放送 女優学校は……シナリオⅣ 一六四頁)
葭町・『浜田屋』・二階の座敷
新聞記者の前に貞がサバけた口調で話している。
貞「【C】っていや、あなた、そりゃもう大したものでござんすの。七十二歳もの
高齢で、おまけに胸を患っていながら、舞台に出ればそんなことなんぞ微塵も感じ
させないような堂々とした演技で……そういう立派な女優がこの先、日本に一人で
も育ってくれれば、女優養成所の目的はかなったようなものでござんすわ」
(第一回放送 自由は死せず シナリオⅠ 五四、五五頁)
井上「それじゃ、こうしようじゃないか、
この小奴が一人前になるまで誰も手出しはしないと、ここでみんなで誓紙を書くの
だ!」
金子「誓紙ですか?」
井上「紳士協定だ……男同士の盟約だ!」
伊藤「それは面白い……(芸者たちに)おい、色紙と書くものを持って来い!」
芸者の一人が「はい」と立って行く。
山県ひとりだけが、さっきから無邪気な男のはしゃぎぶりを距離のある眼で見てい
る。
(中略)
葭町・『浜田家』二階・着替え部屋
亀吉が伊藤らが誓紙を書いた色紙を手にして、得々と手放しで喜んでいる。
亀吉「伊藤様に井上様、金子様に伊東巳代治様……どなたが水揚げして下すって
も、いずれ劣らぬ政界の名士揃い。貞、お前は幸せ者だよ!」
座敷から帰った貞は、シノに帯をほどいて貰いながら大して嬉しそうな顔もしてい
ない。福助が自分でも着替えをしながら、
福助「その中でも特に伊藤の御前がご執心のようだった。小奴、小奴って、膝の上
にお乗せになるんだから!」
亀吉「まあ、そうかい……伊藤の御前といやァ、内務卿で飛ぶ鳥も落す勢い。あん
な方に可愛がられたら、女冥利に尽きるというもんだよ」
シノ「伊藤の御前の奥様は元下関の芸者だっていうから、あのお方は芸者がことの
ほかお好きなのかもしれませんよ」
貞はお座敷着を脱いで普段着の着物に着替えている。
(別紙三)
『女優貞奴』・『ドラマストーリー 春の波涛』類似個所対比表
『女優貞奴』
1イ (七頁)
 日本の女優貞奴は、一九〇一年一月一日、二十世紀の到来とともに、初めて祖国
にその姿を現した。日本を発つ時には落ちぶれた河原乞食の妻・川上貞でしかなか
った者が、世界的女優・貞奴となって帰国したのである。
 元旦の神戸港は早朝からその様子を一目見ようとする人々でごった返した。
 川上音二郎・貞奴の一行十三人を乗せた神奈川丸は、ロンドンから東廻り五十四
日間の航海を終えて、この朝八時、神戸港に入港した。
1ロ (八、九頁)
 一行が上京すると、新橋駅頭では、さらに身動きもできない混雑を呈した。
(中略)
 劇場関係者と六十人余りの葭町芸者を含む、ざっと六百人ほどの出迎人が、川上
家の定紋・九枚笹を胸につけていた。
新橋停車場前の旅宿二軒が歓迎控所にあてられ、川上夫妻には特別に、二頭立の馬
車がさしむけられた。
 ところが音二郎は、
〈欧米各国の如く演芸家の位地高くして、一般社会に尊敬を受け居らば、かの国に
於ける例にならい、遠慮なく御厚情に甘ゆべきも、日本にては、未だ卑しき壮士俳
優と目せられて、かかる待遇を受くる地位に進まざれば、何卒御用捨ありたし〉と
断わり、貞奴と二人、自分で雇った二人曳きの人力車に乗って、立ち去った。
2 (一〇頁)
 貞奴の夫・川上音二郎は、河原乞食と言われることに猛反撥し、その反撥心をテ
コに、新演劇の担い手となった。
3 (二五、二六頁)
 明治十七年七月二十日の日付のある「とらない」と書かれた色紙が、貞の養女・
川上富司の許にのこされている。(略)藤田伝三郎、井上馨、内海忠勝、伊藤博文
のいずれも四十代の政財界人四人が、木挽町の待合の女将を立合人に、〈各自の寵
妓をとらないという一種の不侵情約〉(菊地秋叟『明治史の裏面・名士と名妓』)
を結んだ誓紙だそうである。
(中略)
「とらない」とは、小奴の貞を伊藤博文からとらないと、他の三人が約束したこと
を意味する。水揚げ前でも、小奴は博文のものと既に公認されていたのであろう。
4イ (二六頁)
 貞は乗馬を習うために本所緑町にある草刈庄五郎の道場へ通い始めた。天保二年
生まれの庄五郎は五十歳、八条流馬術師範で鹿島流馬術の達人でもあった。
 この道場で貞が習ったのは古風な武芸に基づく馬術だった。馬乗袴に白鉢巻のい
でたちで乗ったのだろう。(略)小姓のような装でも、明らかに女と分る貞の乗馬
姿が隅田川べりを駆けて人目に立った。
4ロ (二六、二七頁)
 ある日貞は、一人で成田山まで足をのばした。本所から千葉の成田までは五十キ
ロ以上ある。帰途、船橋を過ぎた辺りで陽が昏れ、野犬の群に襲われた。絶壁に追
い詰められ、馬は前脚を空に足掻いていななく。貞は振り落とされまいとしがみつ
くのがせいいっぱいで、手にした鞭で犬を追い払う余裕はなかった。
 どれほどこらえていたのか、吠え立てる犬の声が途切れて、悲鳴に変り、その声
も遠ざかっていった。
振り向くと、人影が見えた。人っ子一人いなかったのに、忽然と現れた黒いシルエ
ットが不動明王さながらに立っていた。まるで、先刻お詣りしてきたばかりのお不
動様が本堂を抜け出て、助けに来てくれたかのようだった。貞は雷に打たれたよう
に身が震えた。
 人影が近づいて、貞に怪我はないかときいた。手に持っていたのは不動尊の右手
にある降魔の剣ではなくて、棒切れである。拾った棒切れと小石で野犬を退散させ
てくれた書生風の身なりの青年は、慶応義塾の岩崎桃介と名乗った。
5 (二八頁)
 明治十九年に貞は十五歳、桃介は十八歳、少女と少年のほのかな初恋はあえなく
押しやられた。
6 (三〇頁)
〃勤王芸者〃〃民権芸者〃、朝野を問わず、有名人と芸者の結び付きが目立った。
権妻の権は、副知事を権知事と呼ぶのと同じく、正副の副の意味と、正妻以上に実
権を握る、両方の意味合いが含まれる。
7 (三〇頁)
 その夏博文は、神奈川県夏島の別荘へ貞奴を伴った。
(中略)
博文はこの別荘で井上毅、金子堅太郎、伊東巳代治らと大日本帝国憲法制定の「夏
島草案」を作るために、来ていたのだった。
8 (三六頁)
桃介は二十二年秋に帰国しており、予定通り房と結婚して北海道炭礦鉄道に勤務し
ていた。二十四年一月に長男が生まれ、東京支店へ転勤になったという。
9イ (三八頁)
 貞は『板垣君遭難実記』を養母と見に行って、初めて音二郎を知ったと語ってい
る。
(中略)
手続きはともあれ、貞は〈書生が好きだった〉と言い、一目で惹かれてしまった。
(中略)
 貞が音二郎以前に付き合った人々は、芸者という職業とその環境からいって、伊
藤博文を初め、政府高官や実業界の名士、さもなければ芸者衆と縁のある梨園の御
曹子達に限られていた。貞はもともと、これらの名士連より〈書生の方が好き〉だ
ったのである。既に名あり家ある名士より、素寒貧の名もなき「書生」といっしょ
になって、わが手で一人前の男に仕立てるのが、芸者育ちの貞の夢であった。
9ロ (三九頁)
 完成品に興味のない貞にとって、音二郎はまさに荒けずりの硬骨漢に見えた。山
から伐り出したばかりのように、
そげ立って無骨な青年であり、しかしその活きの良さは、貞の周辺の誰も持ち合わ
せないものであった。音二郎は貞が漠然と夢想していた自分の相棒にぴったりの若
者だった。
 けれども、貞が音二郎に惹かれたのは、そうしたあとから考える理由づけ以上
に、直感と無分別に衝き動かされてのことであったかもしれない。とにかく貞は音
二郎を見るや、たちまちにして、その魅力のとりこになってしまった。音二郎のど
こに惹かれたのでもなく、まして新演劇の『板垣君遭難実記』や「オッペケペ』を
認めたのでもなく、音二郎という人間の出来合いに、絶大な関心を持って、体当り
していった。
10 (四〇頁)
 流れ流れて東京へやってきた音二郎は葭町の口入れ屋(職業紹介所)桂庵へ行っ
たり、芝増上寺のお供物を失敬して食いつなぐ。増上寺の僧に見付かって小僧にし
てもらったが、境内へ散歩に来る福沢諭吉の目に留まって、慶応義塾の学僕として
引きとられた。音二郎、桃介、二人ながら諭吉の注意をひく少年だった訳である。
11イ (三九ないし四一頁)
音二郎は自分では政治家志望の政治青年のつもりで、それゆえ書生と言ったのでは
あったが、また、政談演説その他のために投獄されたこと公称二十回、逮捕歴百七
十回余という強者であり、その回数の多きを売りものにする壮士ごろつきとさえ思
われていた。
(中略)
 弁士になってからの音二郎は、京阪の新聞を再々賑わしていた。
 自由民権運動たけなわの頃、各地の盛り場や町辻では、さかんに演説会が開かれ
ていた。自由党総理板垣退助をはじめ名高い民権家・壮士に立ち混って、演説をし
て歩く若者が続出し、「演舌(説)つかい」と呼ばれた。音二郎は放浪の末、この
演舌つかいの群に身を投じた。
(中略)
 演舌つかいになった音二郎は滑稽政談を得意として「自由童子」と名乗り、頭角
をあらわした。
11ロ (四一、四二頁)
十六年七月、京都四条南の演劇場で民権自由数え唄を披露している。
(中略)
 自由童子こと音二郎は殊更に臨検の警官に当てつけた。聴衆は喜んだが、警察は
許しておかない。「官ちゃん」は官吏侮辱罪に当り、ただちに逮捕された。
(中略)
十六年九月には、京都府知事名によって、集会条例違反の廉で「一年間政談演説禁
止」を申し渡された。
11ハ (四二ないし四四頁)
音二郎は明治十七年九月、貧書生を募集して、十一月、神戸大黒座で仏教演説会を
開いた。明治年間には度々コレラが流行して社会問題になったが、音二郎は「コレ
ラ退治」も唄に仕立てて、演説会でうたったりした。
(中略)
 明治十八年三月、音二郎は講談師になった。芸人の鑑札を受け、自由亭雪梅と名
乗った。といっても、転身ではなく、抜け道を計ったのである。これは民権家・坂
崎斌の馬鹿林鈍翁、奥宮健之の先醒堂覚明などの先例があり、講談や落語にこと寄
せて、民権論を普及しようとしたのであった。
 明治十九年一月、音二郎は六回目の出獄になるというので六出居士と自称して、
出獄第一声盗賊秘密大演説会を開いた。その間に落語家・桂文之助、別名曾呂利新
左衛門に入門して、今度は「浮世亭○○」と名乗る。寄席芸人と役者と角力は認可
を申請しなければならず、その上で、手札大の木札に住所氏名生年月日の焼印のあ
る鑑札を受けて営業するきまりになっていた。
 この鑑札を利用して、京都笑福亭で諷刺噺をし、「ヘラヘラ、ハラハラ」という
合の手を巧みに使って大受けした。
(中略)
 そのころ、ヘラヘラ坊万橘という人の囃言葉「ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘ、
オヘケヘッホー、ヘッヘッヘイ」が受けていた。音二郎これを「ヘラヘラ、ハラハ
ラ」と単純化する。それが更に「オッペケペー」となるまでには、なお数年を要し
た。
 音二郎は講談、落語、諷刺噺を自在にこなして、当時流行の政治小説『経国美
談』や『仏国革命史』を寄席の高座から語った。だがこうした手段も、当時の取締
りの目をくぐることは出来ない。民権運動の福島事件『獄窓手枕の夢』を語ってそ
の小冊子を配り、出版条例違反に処せられた。
 もはや個人技ではいかなる手段も通らなくなり、音二郎は芝居に目を付けた。
(中略)
こうして音二郎は少しずつ演劇へ接近していった。
11ニ (四四頁)
 一方、音二郎は同郷の落石栄吉の調査によれば、明治二十一年、大阪千日前井筒
席と、
博多柳町の翠糸学校開校式でオッペケペ節を初演した。
11ホ (四五頁)
 京都では、オッペケペ節の歌詞の共作者・若宮万次郎、雑誌『活眼』の記者・藤
沢浅二郎等いわば音二郎の同類が、それぞれ滑稽政談や社会諷刺を弁じては繰り返
し検挙されていた。
11ヘ (四七ないし四九頁)
 音二郎は、前年(明治二十三年)のニワカ師の多い座組を解散して、新たに仲間
を募った。旧知の金泉丑太郎、青柳捨三郎、藤沢浅二郎の他は殆んどが地方廻りの
歌舞技役者か地方であった。二月には大阪堺の卯の日座で『経国美談』と『板垣君
遭難実記』を一週間上演、百円の前借りに加えて九十円の赤字を出したが、前年出
演した蔦座を頼って横浜へ向う。
 神奈川、小田原を巡業する間に、音二郎一座は様々の試練を経た。脚本はあらか
じめ警視庁に提出し、認可を得なければならなかったし、少しでも脚本にないしぐ
さやセリフが入ると、差し止めを喰った。土地の暴力団とも悶着が起きた。演目を
急遽差し替え、それも許されなければ演説や雑多な芸を交えて切り抜けた。座長の
音二郎が裁判にかけられたり、座員が投獄されたりしながら、一座約二十人結束し
てしのぐ間に、車夫や馬丁が味方につき、従来芝居とは無縁だった新しい客層が動
員された。
 舞台と観客との、打てば響くような熱い交流を経験した。レパートリーも増や
し、同じ演目でも『板垣君遭難実記』は初め三幕だったが、五幕に改められた。脚
本は主として音二郎が立案して、藤沢浅次郎が筆を執ったが、その多くは民権運動
に取材したものであり、自分達で脚色した自前の明治現代劇だった。
12 (四八、四九頁)
中村座の観客をまず驚かせたのは、その活気だった。添えもののオッペケペ節も、
初演から四年目にして、一世を風靡した。
権利幸福嫌いな人に、自由湯をば飲ましたい。オッペケペ、オッペケペッポーペッ
ポーポー。堅い上下かど取れて、マンテルズボンに人力車、いきな束髪ボンネッ
ト。貴女に紳士のいでたちで、うわべの飾りはよいけれど、政治の思想が欠乏だ。
天地の真理が分からない。心に自由の種を蒔け。オッペケペ、オッペケペッポ、ペ
ッポーポー。米価騰貴の今日に、
細民困窮見返らず、目深かにかぶった高帽子、金の指輪に金時計、権門貴顕に膝を
曲げ、芸者太鼓に金をまき、内には米を蔵に積み、同胞兄弟見殺しか、幾ら慈悲な
き欲心も、余り非道な薄情な、但し冥土のお土産か、地獄で閻魔に面会し、賄賂使
うて極楽へ、行けるかい、行けないよ。オッペケペ、オッペケペッポペッポーポ
ー。ままになるなら自由の水で国の汚れを落したい。オッペケペ、オッペケペ。ー
 散髪頭に白の後鉢巻、黒木綿の筒袖に小倉の滝縞の袴、緋の陣羽織、日の丸の軍
扇を片手に持って熱演する。
13 (四九頁)
 音二郎は、客席の貴女、紳士、令嬢、お妾権妻と見てとれる人々を、遠慮会釈も
なくからかった。だが、音二郎の舞台には不思議な愛嬌があったと言われる。悪態
をつきながら、ついた相手の花柳界の住人に人気があった。
 貞に限らず、名妓たちが競って音二郎に入れあげ、音二郎を自分の座敷に呼んだ
り、引幕を贈ったりした。貞も負けずに着物羽織や、九枚笹の川上家定紋入りの人
力車まで贈呈したらしい。
(中略)
音二郎は硬骨漢どころか、金廻りが良くなったとたんに、芸者遊びを趣味とする軟
派になり変ったのに、貞にはそれも眼に入らぬかのように、音二郎に夢中になっ
た。
14 (五四、五五頁)
 音二郎が洋劇視察を思い立ったのも、同郷の金子堅太郎をはじめ、伊藤博文、西
園寺公望、土方久元に会って勧められたからだった。駐仏公使野村靖への紹介状も
貰っていた。恐らく貞が引き合わせたのであろう。博文、公望は明治十九年創立の
演劇改良会の賛助者であり、土方久元は明治二十二年設立の日本演芸協会の会長に
就任していた。博文の側近・金子堅太郎も含めて、いずれも明治初期に洋行して、
欧米の演劇を見たことのある人達だった。
 音二郎は四カ月足らずで帰国した。
15 (五五頁)
〈『エヂップ・ロアー』(ギリシア悲劇『オイディプス王』)と言う大時代な狂言
を持って帰った〉(『演芸画報』明治41・10)。それは翌明治二十七年『意
外』と題する芝居に取り入れられ、『又意外』『又々意外』と打続く大当りとなっ
た。
16 (五六頁)
 茶屋を通らず木戸銭だけを払って入る立見客以外は、大なり小なり入場券以外の
諸雑費を必要とした。客を席に案内し、茶菓酒肴など注文に応じて運んだり、客の
世話をする人を〃出方〃と呼ぶ。何も注文しないという訳にはいかない。芝居を観
ながら飲食する習慣となっており、セルフサービスの制度はなかった。出方への心
付け、桟敷に入れば敷物料(座布団代)、飲食費、冬ならば火鉢代といった費用が
かかり、観劇料より諸雑費の方が嵩んだ。
17 (五七頁)
 貞は音二郎の底知れなさと活力に惚れこんだ。
18イ (五八頁)
〈川上が都合をして、吉原を始め東京中の盛り場へ立派に落籍祝いを配って呉れま
した〉と、貞は嬉れしそうに語っている。貞は養母・可免の計らいによることを強
調して、〃野合〃と見られるのを嫌っていた。仲人は貴族院議員・金子堅太郎がつ
とめた。
18ロ (五八頁)
金子堅太郎は伊藤博文の腹心で、音二郎とは同郷のよしみもあった。
19 (五九頁)
 貞が芸者を廃業して音二郎夫人となった明治二十七年は、川上一座にとって当り
年となった。
(中略)
 音二郎は書生演劇からの脱皮を意図して『意外』の番付に「川上演劇」と刷り込
んだ。(略)演出上、数々の新機軸が盛りこまれた。フランスで見て来た舞台照明
をとり入れ、客席を暗くして(通路のない枡席の上で、飲食しながら観る当時の芝
居の客席は、現在のように暗くなかった)、舞台には電気照明により月明りを見せ
た。最新文明の利器である電話を芝居にとり入れたりもした。まだ殆んど電話を見
たことも使ったこともない観客に向って、電話の場面を見せるには工夫が要る。
20 (六〇、六一頁)
『意外』シリーズが終ると日清戦争が始まり、言論界はこぞって戦争支持を表明
し、劇界も戦争もの一色に塗りかえられた。川上一座の『壮絶快絶日清戦争』は、
舞台に南京花火や癇癪玉を仕掛けて鉄砲を打ち合い、砲火の効果を出し、戦闘場面
を再現した。場内に煙硝の煙と臭いが充満して、観客は異様な興奮に誘われた。
(中略)
音二郎はこの芝居のあと、戦地視察に渡韓し、朝鮮人を一人伴って戻った。
そして『川上音二郎戦地見聞日記』を上演する。こうした機動力も歌舞伎役者には
ないものだった。
 この公演中の明治二十七年十二月九日、東京市主催の旅順占領祝賀会が開かれ
た。川上一座はアトラクションに招かれ、上野公園の野外劇に皇太子(のちの大正
天皇)を迎えて、『戦地見聞日記』を演じた。
『意外』シリーズから戦地報告劇へと、川上一座は上昇の一途を辿った。勢いに乗
って翌二十八年五月には、団十郎、菊五郎の本拠である国劇の殿堂・歌舞伎座へ進
出した。音二郎は団十郎専用の楽屋に入り、〈親の讐を討ったよりも嬉しいと言っ
た〉(伊藤晴雨『演芸世界』明治36・8)。
(中略)
 演目は川上一座の座付作者・岩崎蕣花作『威海衛陥落』と、森田思軒訳・藤沢浅
二郎脚色の『因果燈篭』である。一週間分の切符が三日目に売り切れ、三十五日間
の公演となった。
21イ (六一頁)
 不入りとなると、例によって音二郎攻撃が再燃した。
21ロ (六一ないし六三頁)
それでなくても『万朝報』をはじめ、各紙に〈駄ボラの川上〉〈山師の川上〉と書
かれていた。
(中略)
 旅先きで、黙庵と高田実を中心に、音二郎を排斥して新座を結成する相談が秘か
にすすめられた。早くから座付作者になっていた岩崎蕣花も脱退したが、藤沢浅二
郎は思いとどまった。
(中略)
 一座の稼ぎを建設費に廻し、貞も資金調達に奔走した。音二郎がホラ吹き、山師
呼ばわりされたのも、自力で劇場を建てると宣言したのが主な原因だった。一俳優
の力に及ばぬ大言壮語と、受けとられた。果たして川上座は冬になっても工事途中
で雨ざらしのまま、一向にはかどらなかった。
(中略)
しかし日清戦争以後、諸物価も上がっており、座員は給金に不満を抱いていた。
(中略)
〈演劇の改良は劇場の構造から直さなければならない〉
 劇場側との摩擦に悩まされ続けて来た音二郎は、新劇場の必要を痛感させられて
いた。
(中略)
新演劇は新演劇に適した自前の城を持たなくてはならない。それでなければ、新演
劇の発展は期待できない。
22イ (六三、六四頁)
 音二郎・貞夫婦は少しずつでも興行毎に収益を注ぎこみ、
無理算段して資金を借り尽し、最後には高利貸から借りて、二十九年六月、川上座
を完成させた。
22ロ (六四頁)
 だがその会場式に珍事が起きた。音二郎と並んで立つ貞の頭が尋常ではなかっ
た。人も羨む長い黒髪を切っており、付髷で隠していたのがお辞儀をした拍子にと
れてしまった。貞は、川上座落成間近になって、音二郎に隠し子のあることを知
り、逆上して、自ら髪を切ってしまったのだという。川上座建築の金策に夫以上の
尽力をおしまずかけずり廻っていた最中だけに、音二郎の不実は貞にこたえた。音
二郎は貞の養母、浜田可免、仲人の金子堅太郎に泣きついて貞の慰留を頼んだ。こ
の一件は落着したが、開場式の珍事となって暴露された次第であった。
22ハ (六四頁)
 川上座は開場したものの、負債の高利が嵩んで、〈金貸しに奉公するよう〉(音
二郎談)な具合になった。
23イ (六五頁)
 音二郎は高利貸アイズ退治と新演劇の保護をとなえて、代議士に立候補すること
を思い立った。一つには、青年時代の政治家志望がまだ捨て切れないでいたのでも
あった。
 音二郎は現在の大田区大森、当時の荏原えばら郡入新井村字不入斗いりやまずに
移住して、ここから立候補した。
23ロ (六五、六六頁)
音二郎はこの二度の選挙に立候補して、二度とも惨敗した。二度目は初回より更に
ひどかった。
 しかも音二郎は、きれいな選挙をして敗れたのではなかった。〈一票金廿円乃至
三十円で買って歩く騒ぎになって、三崎町の川上座もそれが為にとうとう人手に渡
して了ったのです。……この運動に就いては金を取っておいてから変替った、不道
徳な者が大分にあった〉などと憤慨している。
(中略)
 音二郎が大衆を相手に演劇会や演説会を催し、独自の選挙運動を展開しても、明
治の大衆には選挙権が無かった。選挙権は地租十五円以上を納める男子に限られ、
その数は成年男子の四パーセントに過ぎなかった。音二郎は自由童子時代の政治家
志望を諦めきれず、昔の仲間を当てにしたが、地元の対立候補の動きに無知であっ
た上に読みが浅く、地主と有産階級との選挙にピエロを演じて、袋叩きに遭った。
投票日は八月十日なので、その四日前の記事を見れば、開票をまつまでもなく、音
二郎の落選は分り切っていたのだった。
(中略)
 河原乞食といわれた役者の、そのまた外道の分際で、神聖なる国会の議場に出る
身の程知らずをあざわらわれ、その身分差別に憤然として票を買って歩く音二郎
は、二重に愚弄された。
(中略)
 八月の投票日の三日後には、三度目の歌舞伎座公演が決まっていて、『又意外』
を再演した。伊井蓉峰と、歌舞伎の女形出身で万能選手といわれた山口定雄の二人
が、音二郎の呼びかけに応じなかったが、川上演劇ではなく、「日本新演劇俳優一
同」として大合同をうたっていた。しかし初演当時の新鮮さはないと評され客足は
伸びなかった。音二郎は不評の原因を〈新演劇が増えて飽きられた〉と考え、向う
五年間東京を去ると宣言した。
 川上座は債権者に渡された。
〈たった一人で舞台の真ん中へ胡座をかいて、朝っぱらからシャンパンをぬいて三
杯を傾け、劇場に対して一言を餞けて曰く、さて漸くの苦心で芝居小屋だけは出来
たけれども、……この先の維持法についてはどう成り行くか予め計り知られない事
故、誰でもいい相手を見付けてよく働いて呉れろと言って、残りのシャンパンを舞
台へ撒いてグードバイをしました〉とのちに音二郎は語っている。
24 (六七頁)
 音二郎も貞も厭世観にとりつかれていた。川上座を手放しても、借金は始末でき
ず、大森不入斗の、白亜造りがあたりとは異っているので目にたったという洋館に
も、執達吏が押し寄せた。
 音二郎は落選以後、〈気が変になる程苦しみ通した〉とのちに述懐する。〈芝居
は損ばかりつづく。借金は嵩むばかりで四方から攻めつけられる。新聞は新聞で、
毎日くそったたきに叩きつける。さすがのわたしも実際悲観しましたよ〉
 新聞の中でもとりわけ『万朝報』を恨んで、その社長「まむしの周六」こと黒岩
涙香を殺して自分も死のうと思った。
(中略)
 再起不能と絶望した音二郎は、黒岩涙香をも撃ちそこない、いっそ奇抜な自殺の
しかたはないかと、そのことばかり思いめぐらした。
25イ (六九頁)
 明治三十一年九月十一日明け方、
夫妻は大森の家を捨てて、築地の河岸から漕ぎ出した。
25ロ (七〇ないし七六頁)
〈あの時黒岩を撃ちそこなって、わたし(音二郎)は殆んど失意の極に陥り、いっ
そ奇抜な自殺のしかたをして、世間をあっと驚かそうと決心しました。そうして築
地で小短艇を見つけたのでこれこそ天の暗示であると思って、早速それを買いもと
め、二百十日(ママ)を卜して海上へ漕ぎ出したのでした。当時幸いにその冒険を
きり抜け得るならば、自分の運命はまだ尽きていないのだから、そこで新生面を拓
こう。が、万一運が無かったら、自分の醜い死骸を人の目にさらさずに、千尋の波
の底へ、魂も運命も姓名もことごとく葬ってしまおうと決心したのでした。併しお
貞にその話をすると、彼女は何とも言わずに、直ぐ賛成してくれました。あの時ば
かりは自分の妻ながら、その強い、美しい、同情ぶかい心に泣かされました〉
(『演芸画報』大正15・9)
 ところが舟は一日かかっても東京湾を脱出できず、軍艦富士の灯を港と間違えて
横須賀軍港に迷いこんだので、いきなりつかまってしまった。
(中略)
舟には、米、味噌、醤油、塩、甘薯、乾肉、飲み水、気付けの酒、それに鍋、炭、
焜爐、食器、洗面用具、寝具代りの●袍に合羽の雨具などが積み込まれていた。
(中略)
その間に新聞は、事の真相と称して、一挺櫓の木葉船で南洋渡航、短艇渡米、自棄
渡海、負債三万円以上、財産差押さえ、夜逃げ、発狂などと書き立てた。
(中略)
 音二郎には貞を同伴することに、まだこだわりがあった。貞まで危険な冒険渡航
の道連れにせずともいいではないかと言われれば返す言葉がない。貞が元葭町の名
妓「奴」と知れば、また芸者に出るなり、養母・可免の浜田家を継ぐなり、パトロ
ンを持つなり、生きる道はいくらもあろう、という顔をして貞をかえり見る。だが
貞には全くその気がなかった。花柳界に戻るくらいなら、無人島へ漂着しようと、
海の藻屑になろうと構わないと思っていた。
(中略)
 音二郎は筒袖に二重廻しを引っかけ、貞は木綿飛白の着物一枚という軽装で再び
舟に乗りこみ、鎖を切って軍港を抜け出した。そこから先の体験を、
貞は後に詳細に語っている。観音崎を過ぎて、三浦三崎の汽船発着所まで来ると、
大風注意報の赤旗が出ていた。
(中略)
 だが穏やかな日和は続かなかった。九月の末は大型台風と集中豪雨のシーズンで
ある。名に負う遠州灘の洋上で三日間の暴風にもまれたあげく、天竜川の砂原へ打
上げられた。動かなくなった舟を下りて、浜に腰をおろしていると、土地の船頭が
やって来て、船造りの親方の家へ案内された。掛塚というところだった。二人は竜
宮の浦島太郎のような目にあった。横須賀の騒ぎ以来、諸新聞に書き立てられ、散
々馬鹿にされた自棄渡航の顛末と気狂い沙汰の数々が、ここでは同情をもって受け
とられていた。歓待された上に、道中の話をしてくれと言われ、何日も引きとめら
れることになった。広間と庭先に村中の人が集まってきて、音二郎の話に耳傾け
る。方々から請われて演説して歩いた。
 その間に舟の破損個所は修繕され、苫のような屋根もつけられた。破損がひどか
ったので、修理に一カ月近くかかったろうか、漸く出発する事になり、村の人が思
い思いに様々な食料を持って来て舟へ入れてくれる。
(中略)
 浜島沖でアシカの群に会い、危うく舟を顛覆されそうになり、恐ろしい思いをし
て逃げのびたあと、由良の港へ向う途中、嵐に遭った。
(中略)
 貞は書置きのつもりでしたためておいた可免宛の手紙を肌につけ、帯の間に四セ
ンチ足らずの銅製の不動尊を入れていた。嵐が静まり、漁船に発見された時には、
二人とも意識を失っていた。〈お粥をすすらせて貰った〉と貞は介抱された事を感
謝するのみだが、後日、再起なった七年後、この地を再訪して、仮設舞台で芝居を
して見せ、命の恩人に恩返しをしたという。
(中略)
やっとのことで紀伊半島をまわって、紀淡海峡を横切り、由良の港へ入ったのは、
この年の大晦日だった。
(中略)
翌一月二日神戸着、〈東京を出たのが前の年の九月ですから、丁度五カ月目で千辛
万苦して神戸まで来たので御座います〉
 着くには着いたが、音二郎は血を吐いて止まらず、全身青ぶくれになって、一寸
突くとすぐに血が走り、容易に止まらない。そのまま入院した。
26 (七七頁)
ところが一カ月半ほど入院を余儀なくされている間に、アメリカ行きの話が舞いこ
んだ。
 大西洋岸のアトランチック・シティーに、茶屋、球戯場などを含む日本庭園を経
営して、国際興行師をも目指す櫛引弓人くしびきゆみんどが、サンフランシスコの
興行を仲介するという。死を賭した短艇渡航は音二郎自身、万に一つののぞみでし
かなかった渡米を、夢まぼろしではなく本物にしたのだ。音二郎はこの話にとびつ
いた。
27 (七八頁)
音二郎の弟、十五歳の磯二郎(後に芸名磯太)と、十二歳になる姪のツルを子役と
して連れていくことにした。
(中略)
 明治三十二年四月三十日、音二郎を座長に一行十九人が、神戸からゲーリック号
に乗ってアメリカに向った。音二郎は途中ハワイ、ホノルルに船が一晩碇泊する間
を利用して、演説会を開き、三百九十ドル稼ぎ、船中でも座員の稽古を兼ねて、慰
問演芸会を催した。杵屋君三郎の三味線、貞とツルの踊りは喝采を浴びたが、和田
巻二(次)郎の南無阿弥陀仏節、富士田千(仙)之助の長唄、ことに大薩摩は外人
客に全く受けなかった。太鼓が潮風のためにいたんでしまったし、楽器の保全に苦
労した。
 一行は五月二十三日、サンフランシスコに到着した。
28イ (七九頁)
〈私は何にもかにもこの時始めて外国を見ましたので、只々呆気にとられてしまっ
て、天竺か雲の上ではあるまいかと疑った位で、全くこれが同じ世界のうちにある
国かしらと思いました。何しろ軌道は上下に十文字に通じている、汽車だの電車だ
の自動車だの馬車だのが通るので、始終ガーガーと音がして居ますし、家は見上げ
るように高いし、陽はささないという有様で、一寸向うへ突切ろうと思っても、怖
くって行かれないようで、〃いいかい、はぐれないようにおしよ、いいかい〃と言
い乍ら、手を引き合って行くといったような訳でしたが、興行主の案内で一同パレ
スホテルの二十一階へ上げられたのです〉
 町には既に貞のポスターが張り出してあり、貞が主演女優であるかのように宣伝
されていた。
28ロ (七九頁)
貞が自分は女優ではないと訂正を申し込んだがきき入れられず、
劇場主と話し合いの結果、先方の主張通り貞を中心にした演目でなければ、公演も
覚束ないことが分った。予定した『心外千万・遼東半島』をとりやめ、『児島高
徳』「楠公』『道成寺』を出すことになった。
 二十三日に着いて、二十五日から公演するので、ぐずぐずしているひまは無かっ
た。
(中略)
〈〃川上貞と申します〃と言うと、〃只さだでは面白くない、外に何か名は無いか
〃との事でしたから、〃以前芸者に出て居ります時分に、奴と言って居りました〃
と言うと、〃奴、奴、貞、奴、ウム貞奴がよかろう〃と言って、それから貞奴を名
乗る事になりましたので、私の名は米国で出来たのでございます〉
 かくて貞は、急遽、看板女優に仕立てられた。
29イ (八〇頁)
 一座はオッファーレル街カリフォルニア座で九日間公演して、千二百七十一ドル
(二千五百四十二円)の収入を得た。しかし一週間ほど休演して、同座で再び公演
した四日目の六月二十一日、興行主に売り上げを持ち逃げされてしまった。
 一座の興行権は、音二郎に渡米を勧めた櫛引弓人から、弁護士光瀬耕作に引きつ
がれていた。この人が悪徳弁護士だったらしく、持ち逃げした上に、広告料、電気
代なども未払いだったため、衣裳道具類を差押えられ、劇場から締め出された。
又、ホテルに置いた荷物もホテル代を払うまでの担保にとられて、ホテルからも追
い出された。
 川上一座は一瞬にして全財産を失ったうえ、宿無しになってしまった。在留邦人
の尽力で、寄席風のジャーマン・ホールに仮設花道をつけ、六日間の義捐演劇が催
された。
29ロ (八〇、八一頁)
七百ドル余り集まったので、これを旅費に一日も早く帰国するようにと忠告され
た。音二郎と貞の他は皆その気になった。一座は、汚い物置小屋を借りて蓙の上に
寝起きし、乞食のような生活をしていた。
 しかし音二郎にしてみれば、このまま帰国したのでは、切角の渡米が何にもなら
ない。尾羽うち枯らせて辛うじて帰国しても、日本には借金と嘲笑が待っているだ
けだった。「マアマア百折たゆまず、行けるところまで行ってみようじゃないか。
行くだけ行き、やるだけやって、いよいよ駄目だとなれば、その時ァ蒸気の釜焚き
かボーイになって帰るのも、いまだ遅しとなさずだ。それまでは君達の生命はおれ
に預けてくれ、頼む」
(中略)
これでどうにか芝居の荷だけは請け出すことができた。
 その間に、姪のツルはサンフランシスコに住む会津出身の画家・青木年雄の養女
として引きとられた。ツルは、長じて俳優になり、同業の早川雪洲と結婚すること
になる。弟の磯二郎はアメリカ人の学僕として預けることにした。番頭兼秘書格の
川本末次も一行と別れた。もう一人欠け、一座は十五人になった。
(中略)
一行は蹌踉として、サンフランシスコを発ち、太平洋岸沿いに北へ千五百キロ、シ
アトルへ向うことになる。
29ハ (八二頁)
 その日のうちに、汽車で二時間余り南のタコマへ移った。いずれも着いてから劇
場を探し、公演が済み次第、夜行に乗るのだった。タコマと、更に三百キロ近く南
のポートランドで、二日ずつ四回公演して、大陸横断の旅費ができた。西から東
へ、ロッキー山脈を越え、四昼夜汽車に揺られて、シカゴへ向う。道中、満足な宿
もとれず、衣裳、鬘、道具類を手分けして背負った。貞とて例外ではなく、皆草鞋
ばきで、細紐や縄で縛った重荷をかついだ。従って、汽車に乗っている時だけが休
息の時間だった。十月一日シカゴに着いた。
 舞台にありつくまで一週間と見積って、素人下宿のような二人部屋一室に七ドル
(十四円)払うと、一日一食分ずつの食費ものこらなかった。やむなく一座十五人
は、宿主の目をごまかし、規則を破って、四畳半ほどの一室に、折り重なるように
入りこんだ。
 シカゴのような大都市では劇場の数も多いが、見すぼらしい名もない一座には鼻
もひっかけない。日本領事館を訪ねれば、けんもほろろにはねつけられ、紹介状一
枚もらえず、空き腹をかかえて毎日芝居小屋を探した。
(中略)
 ライリック座のホットンという座主が日本びいきだとききこんで、これが最後の
頼みの綱と思って出かけ、一日ねばって会ってもらえることになった。
29ニ (八二、八三頁)
ホットンは、当面は次の日曜日マチネー一回しか空いていないが、
それでよければ貸すと言うので、条件の交渉に入って、「観客が来ない時はどうな
さる」と聞いたのは、音二郎の方だった。
(中略)
吉報に一座は狂喜したが、日曜日まではあと四日あった。一日一食のあげく、一人
前を二人で分け、それもできなくなって、水だけで露命をつないだ。
 それでもじっとしていられなかった。幽鬼の如く血の気のない、立てばひょろつ
いて部屋の中さえ歩けない痩せさらばえた身体に、肩で息をしながら鎧をつける。
兜を冠る。草鞋をはく。公演を控えて、広告のビラ一枚出せない代りに、この姿で
街をねり歩き、宣伝して廻ることにした。
(中略)
 ホットンが新聞記者や演劇関係者に招待状を出してくれた。武者行列の効果もあ
って、十月二十二日午後一時開演前から木戸に人だかりがした。『児島高徳』の幕
をあけた。柔道式の立ち廻りが見せ場だったが、音二郎の高徳に一同が打ってかか
って投げられると、投げられたまま起き上れない。倒れたまま幕をおろして、次は
貞奴の『道成寺』である。
(中略)
 音二郎が言うには、花笠の踊りの段で、両手に持った振り出し笠を頭上に交互で
廻しながら倒れてしまった。
29ホ (八四頁)
この芝居は、空腹のあまりのびてしまったのであっても、極限に追いこまれて必死
につとめた舞台だった。一座に与えられた最後のチャンスであり、これをのがした
ら、あとはほんとに餓死するしかない。最悪の状態だったが、貞の言うように、み
んな気が張っていたのだろう。
(中略)
 断崖絶壁に追い詰められた一同の、心を一つにしたぎりぎりの動きだったにちが
いない。そこに感動が生まれ、迫力のある舞台となったのだろう。
29ヘ (八五頁)
キリスト教の安息日、日曜日にもかかわらず、集まった観衆は魅了され、ライリッ
ク座の劇場主ホットンに一座の再演をもとめて押しかけた。
 そんなこととも知らぬ一座十五人は、約束に従って上がり高の半額三十ドルを手
にして、料理屋へ行き、ビフテキをずらりと十五人前並べて泣いていた。「たらふ
く食ってやる」と思っていたのに、嬉し涙か悲し涙か胸一杯になって、山の如き料
理を前にしながら、誰も喉を通らなかった。
30イ (八六頁)
 一夜明けると、貞奴はスターだった。早朝からの問合わせの電話にたたき起こさ
れたホットンの方から出演交渉にやって来た。好条件で話がついた。
(中略)
 間もなく、マコーレー・カムストックという興行師と四十週間の興行契約を結ん
だ。
30ロ (八六、八七頁)
 ボストンにはイギリスからアービング父子とエレン・テリーの一座が来ていた。
(中略)
それから翌日になると、アービングは自筆の紹介状をよこして、私に是非ロンドン
へ行けとすすめてきたのです
31 (九〇頁)
 丸山蔵人と三上繁が相次いで発病し、二人とも二十代の女形だったが、ボストン
の病院に入院していくばくもなく逝った。
32イ (九〇ないし九二頁)
 音二郎の手術から一か月余りボストンに釘づけになったが、明けて一九〇〇年明
治三十三年一月末には、アメリカの俳優の大一座と相乗りの臨時列車でワシントン
へ向った。先方では小村寿太郎駐米公使が待ち受けていた。シカゴ領事とは違っ
て、寿太郎は「役者の荷物の番はしない」とは言わなかった。公使館主催の夜会に
呼んで、日本人一座を引き立てると同時に、外交に役立てた。
(中略)
 ついで貞奴の『道成寺』が始まるや、ニューヨーク・ヘラルドの記者が猛然と喋
り出した。
(中略)
 余興がすむと〈千日月が一度に照り輝く〉ような電燈の下に宴席が設けられ、音
二郎へも貞奴に劣らぬ讃辞が口々に寄せられた。
(中略)
 音二郎は恋愛劇を好まず、アメリカのレディーファーストなる風習が、どうにも
気に入らなかった。ニューヨークに移ると、〈はなはだしき痴態劇〉とぶつかっ
た。
(中略)
こちらは痴態一切抜きの、うぶで清くて純情な、ごくあっさりしたところを見せ
た。婦人倶楽部がこれにとびついた。貞奴はこの婦人会と「アクトレスクラブ」に
招待され、名誉特別会員に推されて表彰されることとなった。
32ロ (九五頁)
 川上一座はこのロイ・フラー劇場に、七月四日から一週間出演する予定でパリに
やって来た。
32ハ (九六頁)
アメリカでは受けなかった忠臣もの、『児島高徳』も王制の大英帝国では喝采を博
し、ウェールス皇太子の耳にも入ってバッキンガム宮殿に招待されるという幸運を
つかんだ。庭内に設けられた仮設舞台で『児島高徳』と『芸者と武士』を演じ、
「日本の美術を居ながらに観る事ができる」と皇太子直きじきの言葉を賜った上、
日本円にして四千円相当の銀行手形が届けられた。
32ニ (九七頁)
 フラー劇場は定員五百人の小劇場だった。一座は初日、二日と入りが悪かったの
を理由に、フラーに出演料を半額に値切られた。ロイ・フラーは音二郎に「切腹」
を注文した。音二郎の扮する遠藤武者盛遠は、かつて許婚だった袈裟をあやまって
殺したため、髪を切って出家し文覚上人となるのだが、愛人を殺して髪を切ったぐ
らいでは罪が軽すぎるから切腹せよ、というのだった。
 音二郎は歴史物語の筋を改作することに後めたさを感じながらも、思い切り立ち
腹を切り血をほとばしらせた。
32ホ (九七頁)
その日からフラー劇場は俄然景気が出た。『遠藤武者』は『袈裟』と改題し、『芸
者と武士』の二つ、昼夜二回から三回、それでもさばききれず、一日四回公演に及
んだ。
(中略)
音二郎としては、国王を断頭台に上らせた国柄だけあって、切って切って切りまく
る切腹の演技に観客が殺到したと思わない訳にはいかなかった。
32ヘ (九九頁)
 川上一座は十月十五日までフラー劇場に出演して、ロンドンに戻る予定だった
が。貞奴の人気が高まる一方なので、万博の会期いっぱいパリにとどまることとな
り、更にロイ・フラーとの間に、翌年あらためて再渡航し一年間ヨーロッパを巡業
する契約が成立した。
 パリ万博は十一月三日、閉会式が行われた。川上一座はその日まで百二十三日間
休まずフラー劇場で打ち続け、『芸者と武士』二百十八回、『袈裟』八十三回、
『児島高徳』二十九回、『左甚五郎』三十四回、計三百六十四回、ほぼ一日三回平
均四カ月続演という驚異的記録となった。
(中略)
 園遊会のあと、ルーベー大統領から花束とネーム入りのゴールド・ピンが川上夫
妻に贈られ、続いて授勲の内示があった。栗野公使が身許保証人になり、受勲の答
申書を呈出して、十一月五日付でフランス政府布令により「オフィシェ・ド・アカ
デミー」に叙された。
33イ (一〇〇頁)
 エッフェル塔周辺には無数の娯楽施設があり、その中に「世界一周パノラマ館」
があった。川上一座の外にも、烏森の料亭・扇芳亭の女将・斉藤りゅうの引率する
芸奴十六歳から二十七歳までの八人がパノラマ会社に雇われて来ていた。りゅうの
帰国談によれば『鶴亀』『道成寺』『活惚かつぽれ』『へらへら』『凱旋踊り』な
ど日本舞踊を出し、道化踊りが受けた。
33ロ (一〇〇頁)
 この一行には、他に料理人、女中、噺家も加わり、奥宮健之が事務担当格でつい
ていた。万博終了後、芸者のみの一座を組み、川上一座より一足先きにヨーロッパ
巡業に出たが、その際も奥宮健之が同行した。
33ハ (一〇〇頁)
奥宮健之は自由民権時代、人力車夫の組織、車界党をつくり、民権運動の名古屋事
件で無期徒刑に処せられたが、明治三十年に恩赦で出獄した。又その間に講釈師の
鑑札をとって高座に上がったり、複雑な経歴の持主だったが、明治四十四年、五十
四歳にして大逆事件で処刑された。
34 (一〇〇頁)
 川上一座はロイ・フラー劇場の終演後、その足で直ちに大道具小道具を自分たち
で荷づくりして、翌日ブリュッセルの日本公使館の夜会に出演した。続いてベルギ
ー美術大学の演劇会に出演して、名誉記章を贈られ、ロンドンに戻って、十一月九
日、一旦帰国の途につく。
35 (一〇一頁)
 パリで世話になった栗野公使と同船して、五十四日目に神戸に着いた。音二郎は
ボストンで盲腸を手術したあとが時々痛むらしく、〈貞奴と共に有馬温泉へ湯治〉
(『中央新聞』明治34・1・4)に行きたいと思っていた。
36イ (一〇一、一〇二頁)
大阪、神戸、東京、横浜、京都、最後に再び大阪と六カ所で帰朝公演を開き、主だ
った新俳優が大合同して加わった。
(中略)
 しかし日本のセンセーションは、パリとは逆の、不評と叱責に満ちた、音二郎否
定論の大合唱となった。
 劇評家たちは失望もあらわに、洋行の成果が何一つ認められないと断じた。のみ
ならず、音二郎は、歌舞伎に反旗を翻した新興演劇家のはずなのに、海外で演じた
のは歌舞伎劇であり、しかも拙い模倣の、改悪ものではないかといわれた。恥さら
しだ、国辱ものだとも非難された。
 帰朝公演の主な演目は『洋行中の悲劇』と題するシカゴからボストンへかけての
二人の座員の客死を劇化したものだったが、その劇中劇『児島高徳』を見て、劇評
家・松居松葉は〈ギャフンとまいって〉〈これでアービングがと思うと、アービン
グがただの好奇心から川上をかつぎ廻ったのだと言う事が直ぐに分った〉(『万朝
報』明治34・2・21~23)と欧米での川上一座の評判を言下に否定した。
36ロ (一〇二、一〇四、一〇六頁)
音二郎と貞奴が知恵を絞って新狂言に組み直したのだが、日本の劇評家、もしくは
演劇史家の間では、改作ではなく、改悪だというのがほぼ定説になっている。
(中略)
その上、音二郎は貞奴の当り狂言『道成寺』も、客観の反応に応じて、受けるとこ
ろは引きのばし、だれるところは刈りこんで、〃ドシドシ増補省略〃を試みた、と
音二郎特有の語り口で喋っている。その遠慮会釈のない乱暴な言い方が、一座の海
外公演を軽視させる一因ともなったのだが、観客にへつらうのか、風土気風に合わ
せて手を加えるのかは、紙一重のところもあって、簡単ではない。
(中略)
 もっと自信を持って主張しても良かったのに、さすが外道を自認する音二郎も、
改悪だ恥さらしだという大合唱の前には身を竦めるほかなかった。
(中略)
 音二郎の名古屋山三は歌舞伎にきまりの衣裳を用いながら、その下に〈裁着をは
き両刀をたばさんだる体〉で出て来た。頭は丁髷に編み笠がきまりの型なのに、
〈赤き平たき陣笠〉をかぶって総髪を後に長く垂らしている。書生、壮士芝居なの
に演ったのは歌舞伎で、しかも全然違っている、西洋で何をしてきたか知れたもの
ではない、ということになった。
36ハ (一〇八頁)
〈私をはずかしめた人を見返す事が出来たような気がして、自分だけは非常にいい
気持ちであった〉音二郎だったのに、いささか高くなっていたその鼻をまたもや見
事にへし折られた。
 その上、帰朝公演は空前の高額料金で、しかも大入りだった(以下略)
37イ (1〇八頁)
 貞奴はこの三カ月少々の帰国期間に、いっさい出演せず、金策と再渡航の準備に
奔走していた。
37ロ (一〇九頁)
 男優では新たに藤沢浅二郎、服部谷川などを加え、一行は二十人と発表された。
子供を加えると二十一人になる。四月十日、神戸から讃岐丸に乗船して、六月四日
イギリスに到着した。
38イ (一二四、一二五頁)
 音二郎は精力的に動き廻った。気宇広大な野心を抱くのは以前と同じだったが、
足かけ四年に亙った長期の欧米巡業は、音二郎を大きく変えた。役者蔑視に反撥し
ながら、音二郎自身、役者より政治家を豪いと思う意識から脱けられなかったが、
政治への野心がふっ切れた。かつては日本と同じく卑しまれた役者が、政財界人や
学者に劣らず尊敬される社会が現実に存在し、そのために貢献したブースをはじめ
見習うべき先人のいた事を知って、日本のブースたり、フローマンたることを目指
して演劇に生きる覚悟ができた。新演劇は、音二郎にとって方便ではなく、身を挺
すべき仕事になった。
〈私の将来期するところは、旧俳優と新俳優の間に、一つ世界的演劇を仕組みたい
と思って居ります。それには完全の俳優を養成しなければなりませぬ。……彼女は
女俳優を養成える決心で居ります〉(『中央新聞』明治35・9・1)
 音二郎は「世界的演劇」を起す準備にかかり、貞は女優の養成に当る。
(中略)
 貞は二人の姪を間に合わせの速成女優にするつもりはなく、基礎的教養からみっ
ちり仕込んで、気長に育てていきたいと思っていた。ゆくゆくは、茅ケ崎の敷地内
に養成所を建て、本格的な女優養成機関を造る計画も持っていた。ニューヨークの
俳優倶楽部と演劇学校を参観した時から、いつかはきっと造ろうと夫妻で話し合っ
ていた事である。
38ロ (一二六頁)
女優になるのは真っ平だったし、舞台に立たなくても、内弟子の面倒を見、大世帯
の台所をまかない、管理していく裏方の仕事がいっばいある。妻として、奥向きを
取りしきるのが、貞にとって、本来の設計図であった。
 だが音二郎は、将来の青写真はともかく、さし当って、女優の不在にほとほと困
じた。俳優学校の設立、脚本の改良、河原者といわれるような不品行・風儀と俳優
の社会的地位向上、公立劇場設立の要望など、「世界的演劇を起すの必要」(『東
京朝日新聞』明治35・10・13~19)と題して、例によって、とてつもない
〃大言壮語〃と思われるようないわば施政方針演説を公表したものの、その第一歩
たる帰朝公演に成功しなければ、またもや全ての努力は泡と消えるのであった。
 帰朝公演に全力をあげてとりくむのが先決だったが、その演目に『オセロ』を選
んだのも、女優がいないために、女性の登場人物の多い脚本には手が出せないとい
う現実的な制約から来ている。だがヒロインのデスデモーナとエミリアだけは、女
形でなく女優でなければならぬと、音二郎は考えた。
39イ (一二七頁)
ドラマには女優が欠かせず、西洋の女優を見て来たのは貞だけなのだから、たとえ
女優の修行をしてきたのではなくても、先ず貞が立つべきだと押しつけた。
(中略)
音二郎は自分だって俳優の勉強をしてから俳優になったのではなし、貞ならばやれ
ると信じていた。
(中略)
明治三十年代は女流作家が珍しがられ、一時の時流に乗って実力のともなわぬまま
世間に引張り出されたあげく、下手だ、無知だ、無能だ、だから女は駄目だと叩き
のめされて、引込んでしまったばかりか、一旦拓かれた女流作家への道を再び閉ざ
し、或いは発展を遅らせることになった。貞の出来映え如何では劇界でも同じこと
が起きたろう。
 貞が失敗すれば、ただでさえ困難な女優の道がいっそう険しくなる。不用意には
応じられない。
39ロ (一二八頁)
 その貞を、音二郎は拝み倒し、頼み倒して、しまいには自分達の仲人である金子
堅太郎をかつぎ出し、『オセロ』に出ることを承知させた。
40イ (一三三頁)
 明治三十六年二月十一日、紀元節を期して明治座に開演、従来の如く演目を三つ
四つと並べるのでなく、『オセロ』の一本立である。葭町の芸妓時代の友達・三輪
家錦糸を発起人に、白襟黒紋付の大連(観劇団体)が初日に詰めかけた。
 雑誌『歌舞伎』を中心とする「同好観劇会」も総見に来た。
編集の三木竹二(鴎外実弟)と伊原青々園、森鴎外、坪内逍遥、尾崎紅葉、与謝野
鉄幹、大塚保治・楠緒子夫妻、佐々木信綱、上田敏、巌谷小波、桑木厳翼、井上哲
次郎、新村出、東儀鉄笛、水口薇陽、中村春雨、川尻清潭などの文人、歌人、学
者、画家、音楽家たちである。こうした大家一同が川上劇に揃って足を運ぶのは、
これが初めてだった。『歌舞伎』三四号(明治36・3)は『オセロ』の特集を組
んだ。
40ロ (一三四頁)
逍遥も鴎外も、その社会条件と照して、音二郎の勇気と実行力に脱帽した。
 この二人の評は最も穏当な評であった。
40ハ (一三五、一三六頁)
 音二郎は元々自分達新俳優には歌舞音曲の素養がないのだから〈その音楽をふり
すてて、正劇と銘を打ったのです〉と、歌舞不要説まで唱えて物議をかもした。
40ニ (一三七頁)
 調子のつかめないまま、やっとの思いでその日その日を勤めた貞奴にとって、舞
台は苦痛でしかなかった。
41イ (一三八頁)
 正劇第二回公演は、高安月郊の新作『江戸城明渡』と、土肥春曙訳述『ゼ・マア
チャント・オブ・ヴェニス』法廷の場であった。
(中略)
 朝日新聞の饗庭篁村評、東京日日新聞のりう生評など一般紙では〈巧みに猶太の
本性をあらわし得て、上乗の出来〉と言われたが、最も影響力の強い大家・逍遥と
鴎外の川上忌避はいかんともなし難く、早くも見限られたようであった。
41ロ (一三九頁)
 貞奴は出演しなかったが、六月明治座の『江戸城明渡』は、新旧の対立をあらわ
にした。音二郎は、〈維新の史劇は劇界の大沃野〉(『新小説』明治36・7)
と、大上段に振りかざして、歌舞伎の領分たる史劇に挑戦したのである。しかも例
の歌舞不要説に拠って、歌舞伎の型にとらわれることなく、写真や古老の話に基づ
いて、写実を旨とする正劇流に演じてみようという野心的な実験劇であった。西洋
の翻案ものならばともかく、これはどういうことになるのかと、歌舞伎役者が一見
に及んで、嘲笑した。
〈素人役者の寄合〉芝翫、〈川上氏の説を駁す〉高麗蔵、〈川上氏の遣口と舞台〉
家橘、〈川上芝居の見物〉左団次・莚升、等々の見出しで、刀のさし様も駕籠の出
入りも知らない、将軍と陪臣の身分による作法や装束の着け方も知らず見苦しい、
踊りの素養がないから形が付かず不様だと、口々にこきおろした。その観劇談が
『時事新報』に載ったことから端を発して、新旧の対立が煽られ、「立合演劇」申
込みに発展したのである。
41ハ (一四〇頁)
 新派が旧派に果たし状をつきつけたというので、「俳優合戦」と称して演劇ジャ
ーナリズムは囃したてる。言葉尻をとらえたやじ馬論議も混じったが、音二郎は
〈従来日本演劇一般の悪風たる荒唐無稽淫猥なる時世おくれの劇風を刷新仕りたく
候〉と自信満々だった。歌舞伎勢は「立合演劇」を一時預かりにして、この応酬を
打ち切った。
41ニ (一四〇頁)
 音二郎としては、どれほどけなされても、正劇を手がかりにして、過去の反省か
ら新たに立てた方針に確信があった。
42イ (一四二、一四三頁)
音二郎はかねてから、子供に芝居を見せるな、と言っていた。その代り子供向けの
お伽ばなしの芝居を考えていた。久留島武彦は巌谷小波と並ぶ児童文化の推進者で
あった。
(中略)
 巌谷小波は『日本お伽噺』についで、『世界お伽噺』を刊行中だった。その中か
ら第二十八編に収められた『狐の裁判』と、第三十七編『浮かれ胡弓』の二篇が選
ばれた。
 箱根へ避暑に出かける前に、あらかたの方針を決めていた。可免の死でいっとき
中断されたが、お伽芝居は演目の選定から装置、配役、衣裳、音楽その他、貞奴が
座長になって演出面全体の指揮をとる。九月はその準備に追われた。ドイツでお伽
芝居を見てきてはいたが、日本では初めての試みである。
〈三十六年十月三日午後一時五十五分チョンという初声高く、お伽芝居は向うの舞
台に花々しく生れたので御座いました〉(芹影『歌舞伎』明治36・11)
42ロ (一四五、一四六頁)
 貞奴はこのお伽芝居、就中『浮かれ胡弓』によって、演技の醍醐味を味わったの
ではないだろうか。
(中略)
 お伽芝居ばかりは、さしも川上嫌いの面々も、こぞって支持を表明した。
(中略)
 貞奴は、会場を埋めつくす子供達の、瞳の輝きと歓声に応えて、こぼれるような
笑みを浮かベ、すべてを忘れてお伽芝居にうちこんだ。なかでも『浮かれ胡弓』は
その後全国二十五カ所以上を巡演し、子供たちを喜ばせ、貞奴自身も心を洗われ
た。『浮かれ胡弓』を見て芝居に惹かれ、長じて演劇に携わることとなった人々も
出るほどの影響をのこした。
43イ (一四七頁)
 お伽芝居の第二回公演の翌日が、『ハムレット』の初日であった。
 明治三十六年十一月二日午後五時半開場。一、興行時間を従来の半分以下、四時
間半に短縮。二、入場料を三分の一の低価にして切符制度をとり入れ、木戸銭、下
足銭、敷物料を全廃する。三、客席での飲食禁止。四、人力車は受(請)負人を定
めて乗車券を閉場前に発売する。五、舞台装置は洋画家を主任とする事。以上五カ
条の改革を掲げていた。
43ハ (一四七頁)
 音二郎は、『オセロ』上演の際譲歩を余儀なくされた劇界刷新のための改革を、
今度こそはやり遂げる決意で臨んだ。
43ニ (一四七頁)
観劇中の飲食禁止や中銭廃止の代償として、出方、布団、下足番等へ、十五日間の
興行収入から千二百五十円を支払う約束で、劇場側と話合いが成立していた。
43ホ (一四七頁)
 だが開演一週間前、音二郎と番頭の二人が、出方たちに襲われ怪我をした。
〈本郷座の出方が暴行を働きし紛糾事件に付、川上音二郎は一昨日警視庁へ出頭
し、該取締に付申請したるより、本郷署にては本郷座の関係者一同を呼び出し、再
び説諭せられたり、依って株式会社本郷座は出方一同を解雇の事に決定せし処、種
々仲裁する者ありて川上は茶屋仕切場留場一同より金千円の保証金を入れさせ、契
約者の五カ条に違反したる時は、該保証金を没取する事に契約調い、全く落着を告
げたりと〉(『東京日日新聞』明治36・10・30)
 積年の習慣を改めるには、時間と金と多大の労力を要した。時が来れば当り前に
なることでも、努力なしには〃時〃も来ないのだった。
43ヘ (一四八頁)
 公演に先だって、「本郷座正劇派新狂言」として読売新聞、東京日日新聞などが
「『ハムレット』五幕の略筋」を連載し、公演後は各紙とも幕毎の劇評に紙面を割
いた。
44 (一五四頁)
 博文に関して多少の屈折が音二郎にあったとしても、又、妻の引きを利用すると
言われようと、音二郎は大ぴらに夫妻で博文の許に出入りして、博文のとりまきの
一人であることを見せつけていた。
45イ (一五七頁)
 明治三十七年二月、満州、韓国での利権を争う日露両国の外交交渉が打ち切ら
れ、宣戦が布告された。
(中略)
 開戦の翌月、音二郎は藤沢浅二郎、高田実、静間小次郎等新俳優と、写真師、画
師を加えた総勢七人で、朝鮮西岸の仁川に渡った。帰国して『戦況報告演劇』を五
月の本郷座に出し、貞奴も篤志看護婦の領事夫人役で出演した。
45ロ (一六二、一六三頁)
 興行師への転身を表明した音二郎は、今後の活動の拠点として、大阪に新劇場帝
国座を建てる計画を進めていた。四十一年落成を目指して、それまでに欧州劇界を
視察して来ようというのであった。
(中略)
 三たびパリに現れた貞奴を雑誌『Femina』が十一月号の表紙に掲げ、夫人
新聞『The Queen』が「パリ再訪」と題して紹介している。
46イ (一六七頁)
 七年前には、新橋駅頭に二頭立の馬車の出迎えを受けて断ったが、興行師として
劇場関係者一同に迎えられた音二郎は、今回は貞奴と馬車に乗りこんだ。
46ロ (一六七頁)
 六月、音二郎は革新興行事務所を、貞奴は女優養成所仮事務所を、東京の京橋区
木挽町に開設し、帰国後茅ヶ崎の家へも帰らず、忙殺された。
46ハ (一六七、一六八頁)
〈彼地は婦人に対する同情も多く、弱いものは扶けるというのが一般の風ですか
ら、少しでも善いことがあればそれを吹聴するというように、世間が手を取って導
きますので、芸術はますます発達するのでございますが、又この芸術の発達をゆる
がせにせぬその道の人々の熱心忠実な心がけにも実にかくありてこそ名人の域にも
進まるるものよと感心の外はありません〉(川上貞奴談『時事新報』明治41・
6・7)
47 (一六八、一六九頁)
 夫妻は六月九日、日本橋倶楽部に招かれ、帝国劇場の劇談会のメンバーと懇談し
た。帝国劇場は過ぐる明治三十九年、日露戦争後力をつけてきた財界人と伊藤博文
との会合に端を発し、四十年五月に着工した。この四十一年十一月礎石式を行い、
四十四年三月落成する。
〈伊藤侯の主唱に岩崎その他の幇助と言えば、無論川音が糸を引いたらしい〉(●
阿弥『文芸倶楽部』明治39・2)と見られ、創立発起人には渋沢栄一、福沢捨次
郎、福沢桃介、益田太郎、西野恵之助らが名を連ねた。帝劇は資本金百二十万円の
株式会社となり、音二郎も役者の中では筆頭の二百株を持っていた。
 帝国劇場株式会社は、貞奴の女優養成所に創立賛助費五百円と、毎月百円の補助
金を出すことに決めた。
48イ (一六九、一七〇頁)
 開校準備がすすむにつれて、帝国女優養成所は轟々たる非難に包まれた。
(中略)
 女優の募集は、年若い娘を誘惑し堕落させる元だと、貞奴は総攻撃を受けた。
48ロ (一七〇、一七一頁)
理髪店の仮教室で、翌日から毎日午前九時から午後五時までの稽古がはじまった。
新劇を川上貞奴、旧劇を市川粂八が指導し、長唄を杵屋歌司、義太夫を鶴沢文京、
鳴物を藤舎芦香、日舞を水木歌若、洋舞をミセス・ミークス、琴・茶・礼法を松岡
止波、長刀を中山博道が担当した。外に院本講義、バイオリン、声楽、英語などの
授業があったという。
 そして貞奴にはこの他に、革新興行第二団の座頭として、本郷座の舞台が重なっ
ている。
 明治の女優排斥のすさまじさは、想像を絶するものがあった。男尊女卑の毒素が
地底から噴きあげ、火山灰になって襲いかかった。貞奴が、「どうか世間が女優を
育てる気になってほしい」と、それのみ案じたのも、杞憂ではなかった。
48ハ (一七一頁)
貞奴は猛威をふるった女優攻撃の矢面に立って、この養成所を設置した。森律子が
自伝に記すように、女優志願者にとって初めて開かれた道であり、その意味では砂
漠の中にたった一つのオアシスだった。だが絶えず砂塵が舞い上って、目潰しをく
う。
48ニ (一七一、一七二頁)
 帝国女優養成所は、既に創設準備中の貞奴談話に示唆されたように、翌四十二年
七月、帝国劇場付属技芸学校と改称された。その卒業生たちによって、
四十四年開場の帝劇名物となった〃女優劇〃が生まれることとなる。
48ホ (一七三、一七五頁)
 貞奴には女優養成所の開設と同時に、女優としての勤めもあった。
(中略)
私演ではあったが、盛大な夜会に於いて、新派合同共演が実現したのであった。貞
奴はこの夜の人気を独占することとなった。
(中略)
 音二郎は「革新興行」と銘打って、良い芝居を安く見せる事を考えた。
(中略)
 明治四十一年九月十三日、第一団は明治座で、第二団は本郷座で、同時に開演し
た。この日付は、帝国女優養成所開きの二日前である。しかも、貞奴はこの興行か
ら事実上、座長であった。
48ヘ (一七七頁)
 とは言え、音二郎には貞奴という観客動員力では当代一の名優がいた。
49 (一七八頁)
 音二郎はこの秋から再び舞台に立った。麻布御用邸で韓国皇太子の十二歳になる
誕生日祝宴が開かれ、その台覧劇として音二郎は『桜井駅の正成』、伊井蓉峰は
『飛行船』を上演した。それから一週間足らずの十月二十六日、伊藤博文がハルビ
ン駅頭で韓国人・安重根に射殺された。音二郎にとって、有力な理解者を一人失っ
たことになる。
50 (一八〇頁)
 坪内逍等の文芸協会も、『ベニスの商人』『ハムレット』など二回の公演を経
て、明治四十二年五月演劇研究所を開設し、二年後から公演活動を開始して松井須
磨子を世に送る。続いて「雨後の筍」の如くと形容される勢いで新劇団が次々と現
れた。
51 (一八四頁)
客席は円形で声のまわりを良くし、二階、三階も石灰たたきにしてどこでも下駄履
のまま行けるようにした。
 舞台を広くとって奥行きを深くし、全体としてテアトル・フランセを手本に日本
の特色を加味したものであったらしい。客席ははっきりしないが、椅子席と桟敷席
が併用された。
 明治四十三年三月二十七、八両日、午後七時から大阪府の知事市長をはじめ各界
名士、演芸関係者を招いて、舞台開きが催された。
〈今の所では、類のない日本一の大阪帝国座、総ての設備、舞台の模様、どうやら
外国へ行ったような心持がする〉(『東京朝日新聞』明治43・3・1)と記者は
伝える。
だが挨拶に立った音二郎は、〈新築には成功したるが、経済には失敗しそうで御座
る〉と心細さを披露した。藤沢紫水(浅二郎)脚色の黙劇『天の岩戸』と『ボンド
マン』を上演、『天の岩戸』は、宮内省楽人の演奏、若柳吉蔵振付、貞奴が天鈿女
命を舞い、音二郎の手力男命が岩戸を開くと、暗夜が明けて一万五千燭の電燈が輝
やくという趣向であった。
 三月一日から一般公開し、初日から十日ばかりは満員の盛況だった。だが〈八方
から詰めかけた債主連が毎日仕切場(勘定場)へ頑張って毎日の上りを一文残さず
引上げていくので、……大部屋連の給金が行き渡らず、衣裳小道具向きへも仕払止
め〉(『都新聞』明治43・4・3)となり、この噂をきいて客足も遠のいてしま
った。
52イ (一八五、一八六頁)
この夏も山陰道巡業に出て、音二郎の郷里博多を廻って大阪に帰ったが、秋の帝国
座公演準備中に、音二郎は倒れた。
 帝国座は田口掬汀、佐藤紅緑、柳川春葉を座付作者に擁していたが、音二郎はイ
プセン作『社会の敵』を『人民の敵』と題して自分で芝居に仕組み、主演も兼ねる
つもりでいた。
(中略)
 音二郎の病勢はかなり前から悪化していた。
52ロ (一八六頁)
〈しかし川上は今度の脚本は演説芝居で、外の者ではとても演とおせはしないか
ら、おれがやる外はないとどうしても聞きません。やっとドクトル・ストックマン
の役を換えさせましたが、後にはその稽古さえ出来ぬ程となり、川上も床の中へ寝
たなり、私どもはその枕許で稽古をしましたが、とうとう登場は出来ませんでし
た〉(「川上貞奴と語る」松居松葉『読売新聞』明治44・11・14~17)
 十月十三日、藤川岩之助を代役に立てて開演したが、それも三日間しか開場でき
なかった。音二郎は高安病院で腹膜炎の手術を受け、腹水四升余りを排水した。
〈おれが育てた新派の家は、地震があれば倒れもするし、まだまだ不足の点が多
い。おれはこの家を頑丈なものにして死にたい。
(中略)
 若しおれが死ねば、お前(貞奴)はおれの遺志を継いでくれろ。おれが今日まで
の遣り口は、決して自己の儲け主義じゃないのだ。ここをよくよく理解して、
決して金儲けのために己の理想を枉げてくれるな〉(貞奴談『大阪朝日新聞』明治
44・11・14)
(中略)
うわ言にも芝居のことばかり呟きつつ、その後再び覚めることなく、これが最後の
言葉となった。
52ハ (一八七頁)
 音二郎は八日間昏睡状態のまま、覚めることなく、十一月十一日午前五時、北浜
の帝国座に移され、一時間後に息をひきとった。
52ニ (一八八、一八九頁)
 貞奴は先月来の心労から博多で十日ほど寝込んだが十二月には帰阪した。貞奴は
〈川上は一生を我慢で通したのですが、その我慢のために命を取られました〉と悔
やみ、〈幾度思い返しても淋しくてつらくて〉、そのせつなさを切り開くために
も、強いて、追善興行の準備にかかった。
 巷間では、のこされた貞奴の身の振り方をめぐって、お節介な品定めが渦巻いて
いた。音二郎の死に耐え、うちのめされつつ再起を計る貞奴に同情の声は小さく、
強い貞奴への反感がかき立てられた。転びつつ起き上がり、また昏倒する貞奴に
「亡夫の墓守りこそ後家の務め」とお為ごかしの勧告がかまびすしく、貞奴の再起
の意志を砕きにかかった。
(中略)
 執拗なまでに、〃後家は引っこめ〃〃尼になれ〃と繰り返された。
53イ (一九三、一九四頁)
貞奴が演劇活動を続け、その拠点としてざっと四十億円の帝国座を維持しようとし
ても、おいそれと手を貸すものはない。
53ロ (一九四頁)
 貞奴自身、スキャンダルにさらされた。福沢桃介の姿が貞奴の行く先き先きに現
れて、〈面白からぬ醜聞が折角の光ある生涯を奈落の底へ蹴落として了ったので、
今は再び起つに由なく、……近々芸壇を退くの外ほか途みちはあるまい〉(『演芸
画報』大正1・11)という風説が広まった。
53ハ (一九六頁)
帝国座の見通しも暗かった。
(中略)
 貞奴は尋ねられる毎に強い語調で答えていた。ところが、この日付から半月後、
〈遂に帝国座を手放しました〉(『九州新聞』大正2・5・24)とぽつんと一言
語って、そのいきさつについて何の説明も加えず口をつぐんだ。
54 (二〇二、二〇三頁)
 その間に音二郎の銅像建設地が、漸く谷中の天王寺にきまった。
(中略)
 谷中の天王寺は幸田露伴の小説『五重塔』で名高い。音二郎の銅像はその手前に
建てられ、音二郎の四回忌を期して、除幕式が行われた。約四メートルの銅像はフ
ロックコートの礼装に、フランス政府から贈られたオフィシェ・ド・アカデミーの
タスキをかけ、右手にステッキ、左手に山高帽を持っていた。台座の文章は、金子
堅太郎、栗野慎一郎両子爵の揮毫になる。式には新俳優、演劇関係者、貞奴の知人
などが参列した。
55 (二〇三頁)
 当時、須磨子も天勝も全盛期だった。須磨子は島村抱月と芸術座を結成して『復
活』に主演し、「カチューシャの唄」と共に爆発的な人気を博した。その上演回数
は四百四十四回と記録される。明治末イプセンの『人形の家』のノラを演じて以
来、昇り坂にあった。
56イ (二一二頁)
 桃介の妻は、事業とは無縁に育ち、桃介とは別の世界に住んでいるようだった。
56ロ (二三四頁)
 桃介は福沢諭吉の養子になって、二女・房と結婚したが、復姓を希望したとも伝
えられる。そのとき(明治三十二年)桃介は再度の喀血をし、入院中だった。
57イ (二三四頁)
諭吉も二万五千円ほど出資したという貿易会社、主として北海道から木材を輸出す
る丸三商会を創立したが失敗して、桃介は失意のどん底にあった。房夫人や家族と
別居して大森不入斗に逼塞した。闘病生活を送る間に諭吉が病没し、復姓の希望は
見送られた。
57ロ (二三四頁)
 桃介は二十代の後半から三十代へかけて、二度の闘病生活を余儀なくされたが、
その間に株式相場を寝ながら研究し、株で療養費をかせぎ出した。一年目に千円の
元手を十万円にし、十年後には二百万円儲けたと言われる。日露戦争後の株式ブー
ムが終って暴落した時、一代の大成金と称された鈴木久五郎等の成金の多くは没落
したが、桃介はその前に売りに廻った。兜町界隈では桃介の手仕舞に舌をまき、桃
介を〃売りの大成金〃〃飛将軍〃と呼んだ。
57ハ (二三六、二三七頁)
 有美は人の私事を喋々する人ではなかったが、冷えびえとして居たたまれなかっ
たという。渋谷邸の桃介は小間使の給仕で食事をし、房とは別々に、一つ家にいて
も目をそむけ、互いに見ないように心を閉ざしてやり過ごした。身も心も通わない
関係になって久しいが、壊してしまうには時が経ち過ぎていた。
57ニ (二四八、二四九頁)
 貞は非を自分に認めて、しずかに手を引いた。貞の演劇活動は、これで終った。
もう、これでいいと低く囁く声がきこえる。他ならぬ貞自身の声だったが、亡き
母・可免の朗々と響く声が和した。音二郎のしわがれ声も続いて、しきりに頷いて
みせる。いかなる時にも貞の絶対の援護者だった可免と、貞を演劇へと駆り立てて
やまなかった音二郎と、二人の懐かしい顔が立ちあらわれて、貞に慰労の微笑を送
ってよこす。
(中略)
 幼い日、浜田家へ駆けこんで芸者になった第一歩から始まって、女優生活二十
年、川上絹布に六年、川上児童楽劇園は八年、それがこの世に刻んだ貞の行跡だっ
た。その都度、身を翻して我からとびこみ、心血を注いで築いた世界である。
58イ (一五頁)
 貞奴は大柄であったかのように思われていたが、実際は五尺に満たない小柄であ
った。四尺九寸、約一メートル四十八センチ、女形と共演すれば、少くとも十セン
チは低くなる。
58ロ (一八頁)
 それは、五十歳を過ぎた貞奴が、晩酌を傾けながら話す〃酒の肴の物語〃とし
て、貞奴の養女・川上富司によって記憶される。富司は大正九年十四歳の時から貞
奴のもとに引きとられ、長じて川上家を嗣いだ人である。
「あの話はよくなさっていました。貞奴が四つ時分のことです。貞奴の兄の小山倉
吉が彫金家の加納夏雄に師事して、その娘、冬と結婚するので、貞奴も加納家に預
けられていたのですね。そこに五歳と十歳くらいの男の子が二人いて、いつも一緒
に遊んでいた。貞奴は活溌な下の子と仲良しで、おとなしい上の子は嫌いだった。
ところがある日、三人いっしょにお風呂に入って、背中を洗って貰っていた時、上
の子が、〃いまに貞ちゃんは僕のお嫁さんになるんだよ〃と言い出した。それで貞
奴は、あんなおとなしい子のお嫁さんにされては大変だと思って、翌朝起きぬけに
加納家を逃げ出して、浜田家へ行ったのだと、そうおっしゃってましたよ」
『ドラマストーリー 春の波涛』
1a (九〇頁)
 音二郎と貞は、文字どおり、世界的俳優、女優となったのである。
1b (九三頁)
 そんなある日、川上一座がいよいよ神戸に帰ってきた。
1c (九三頁)
 神戸もそうだったが、東京の新橋駅に着いたときの出迎えの人々の熱気は大変な
ものだった。座員一行十七人の親戚縁者はもちろん、川上座に関係のあった出方、
茶屋の者、留守を預かっていた桜木、かつての座員高田実や伊井蓉峰も来ている。
その他、新聞記者たちでごったがえしていた。
(中略)
貞は亀吉を気にしながら、迎えによこした二頭立ての馬車に乗って音二郎とともに
出かけた。
2 (九三頁)
「河原乞食といわれた役者に二頭立ての馬車を迎えによこすなんて、(略)
3 (五五頁)
 彼らは、みな水揚げしたいと望み、その時期がくるまでは指一本ふれちゃいかん
と紳士協定まで結びだす始末である。
4a (五四頁)
 明治十五年ごろの日本では、女は誰も馬になど乗りはしない。道行く人々がギョ
ッとしたように目をみはって立ち止まっているなか、着物の上に股立ちをはいた貞
は、風のように通り過ぎていく。
4b (五四、五五頁)
 突然、鋭いいななきとともに馬が跳びあがり、暴れだした。たてがみにしがみつ
くようにして、貞は必死で手綱をしめようとする。だが、たけり狂った馬には通じ
ない。貞をふり落とさんばかりに弾ね狂い、荒れ狂い、走り回る。
(中略)
 そのときである。猛然と走ってくる馬の前に敢然と両手をひろげて男が立ちふさ
がった。男めがけてつっ走ってくる馬。色白の貴公子のような顔立ちながら微動だ
にせぬ男――。
 止まった。
 馬は男の前でピタリと止まったのである。
「よーし、いい子だ。静かに……な」
 男は馬のくつわを取り、鼻づらをなでていたが、ふと馬上の貞を見た。
 汗びっしょりで貞も男を見た。
「小奴」といってこのころまだ半玉の貞と、慶応義塾の塾生岩崎桃介の衝撃的な出
会いであった。
5 (五五頁)
 この日から二人は恋におちたのである。
 しかし、この恋はなかなかやっかいな恋であった。
6 (七四頁)
 音二郎はかねてから貞に伊藤博文を紹介してくれぬかともちかけていた。貞が伊
藤の権妻ごんさいであったことを知らぬわけではないのに、何のこだわりも抱いて
いないらしいのである。
7 (六八頁)
 明治二十二年二月、かねてから伊藤らが草案を検討中であった大日本帝国憲法が
ついに発布される運びとなった。伊藤博文たちは、ついに憲法発布まで漕ぎつけた
慰労会を、金子堅太郎、井上毅、伊東巳代治らとともに浜町の幾松でもった。
8 (七〇頁)
 アメリカから帰った桃介と房子は北海道に居を構え、新婚生活は順調だった。
 北海道炭鉱鉄道株式会社での桃介の月給は百円であり、当時のサラリーマンとし
ては破格である。(略)しかし、房子が妊娠すると、東京からしきりに帰るように
とすすめてきた。「そんな寒い北海道で出産させるわけにはいかない」というので
ある。
9a (五三頁)
 いままさに川上音二郎一座公演のクライマックス。板垣退助と相原尚●が舞台狭
しと、組んずほぐれつの格闘を繰りひろげている。出し物は川上音二郎一座の十八
番『板垣君遭難実記』。相原役こそが川上音二郎その人である。
(中略)
 書生や職人風の観客は総立ちで拍手、拍手である。そのなかで、ひときわ人目を
ひく美しい女と、連れの粋な女将風の女がいた。
 女は「奴」こと貞。葭町の芸者置屋・浜田家の養女であり、伊藤博文が水揚げし
た売れっ子の芸者である。うっとりと舞台を見上げる目は何とも色めいて、花が匂
うようである。
9b (五三頁)
「おっかさん、どう? こんな芝居、いままで見たことある?……本当に真に迫っ
てるでしょう?」
「フン、これでも芝居かねえ。こんな与太者の喧嘩みたいなのがさ」
 気乗りしない女将は、貞の養母で、浜田家の亀吉である。「おっかさん、そこが
新しいんじゃない。みんな、あの川上音二郎が発明したんだよ」
9c (七四頁)
以来、貞の心にはドッカリと音二郎が棲んでしまったのである。
10a (五七、五八頁)
 そんなある日、葭町の口入れ屋、千束屋に奇妙な男がたずねてきた。風体からと
いうとどうも書生のようである。
(中略)
 こうして車引きを始めてしばらくしたころ、音二郎は芝増上等でお供えの膳をつ
まみ食いすることを覚え、毎朝、供物を盗むようになってしまった。ところがある
朝、待ち伏せしていた坊さんに捕まえられ、腰が抜けるほど叩かれたのである。
が、それが縁で音二郎は車引きをやめ寺に住みつくようになった。
 それにしても、人間何が幸いするかわからない。坊さんに捕まったおかげで、音
二郎は福沢諭吉宅に書生として住みこめるようになったのである。
 増上寺には福沢諭吉が散歩に来ていた。
10b (五九頁)
 こうしてついに音二郎は慶応義塾の学僕として諭吉に雇い入れられたのである。
11a (六二頁)
 自由童子こと音二郎は大阪で大活躍していた。その過激な言動は壮子たちの間で
評判になっており、実際、彼は集会条例違反、官吏侮辱罪等の罪名で何と百回以上
も投獄されていたのである。
11b (六一、六二頁)
 「おぬし! おぬしはこれから自由民権の弁士になれ! 俺たちと一緒に全国を
遊説して回るんだ。伝道者になるんだ。いいな!」
 「はいッ。やりますッ。やらせてください!」
 こうして、音二郎はその名も「自由童子」としてスタートを切ったのである。
(中略)
11c (六八頁)
 もともと「民権かぞえ唄」などを寄席で披露していた音二郎である。
11d (六二頁)
 自由童子こと音二郎は大阪で大活躍していた。その過激な言動は壮子たちの間で
評判になっており、実際、彼は集会条例違反、官吏侮辱罪等の罪名で何と百回以上
も投獄されていたのである。
11e (六五、六六頁)
 再び大阪に帰った音二郎はまたも検束された。大阪の新町座での宗教演説会で、
「ヤソに神なし、仏教に仏なし」とやり、軽禁固六か月をくらったのである。
11f (六五頁)
 釈放後、再びひとりになった音二郎は講釈師自由亭雪梅と名のって上京してい
た。奥平と同様、政治運動を禁じられ、講釈師になったのである。
11g (六二頁)
 先醒堂覚明という名で舞台に上がっている奥平は神田末広町の千代田亭を三日間
札止めにするほどの人気を博していた。
11h (六七、六八頁)
 演劇に目覚めた音二郎は出所すると大阪で落語家の桂文之助、別名僧呂利新左衛
門の弟子になり、浮世亭○○という名前で寄席で噺をするようになった。といって
も、筋だった落語を話せるわけはなく、時局の当てこみや政治漫談的な駄酒落を飛
ばしながら、自由民権の思想を吹きこもうというつもりだった。しばらくすると、
音二郎は「へらへら節」の元祖といわれる三遊亭万橘の弟子と称する橘万蔵と同じ
高座に出るようになった。橘万蔵は時の流行や時局に対する風刺的な言葉を並べ、
 太鼓が鳴ったら賑やかだ
 ほんとうにそうならすまないね
ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘ……
と踊るのだった。
 それを見ながら音二郎はえらく刺激を受けた。もともと「民権かぞえ唄」などを
寄席で披露していた音二郎である。彼なりに時局を盛りこんだ歌詞をつくり、「ヘ
ラヘラ節」の節回しでやってみたらどうかと考えていた。
11i (六六頁)
 彼は新しいみずからの方向をいまこそ真剣に模索しはじめたのである。
11j (六八頁)
 そのころ、大阪の寄席では音二郎がはじめて、「オッペケペ」を披露していた。
11k (七一、七二頁)
 それから、湯浅麟介という生きのいい若者も応募してきて、演説もうまく、また
文章も立つので、採用することにした。
11l (七一、七二頁)
 一方、音二郎はオッペケペだけでは飽き足らず、かねてから念願の改良演劇の旗
揚げをするために、新聞広告で座員を募集した。
(中略)
 とにかく、青柳捨三郎、金泉丑太郎らの芸達者もそろい、川上一座の旗揚げ興行
となった。
 場所は堺の卯ノ日座である。狂言は『経国美談』と『板垣君遭難実記』。『経国
美談』は音二郎がしばしば高座で演じたものであり、その舞台化である。
11m (七二頁)
 明治二十四年三月、音二郎は小田原の桐座で興行を打つことになった。
(中略)
 そのとき、事件がもち上がった。
『蜃気楼将来の日本』という狂言の二幕目のことである。この世に幽霊があるかな
いかで議論する芝居で、音二郎は幽霊はあると主張する役だった。ところが、桟敷
にてんでにステッキと棒を持った壮士が二十人ばかり陣取って、「幽霊はない」と
野次りだしたのである。麟介や桜木、女形の丸山蔵人まで腹を立てて、ついに役者
と壮士の殴りあいになってしまった。小田原の馬車屋が総見に来ており、彼らが役
者に味方したからさらに騒ぎは大きくなった。
11n (七二頁)
『板垣君遭難実記』のほうは新聞記事によってつくりあげた。柔術家を殺陣師とし
て雇い、歌舞伎とはまったくちがった写実的な立ち回りに徹したために、客はひと
味ちがった斬新な面白さに喜んだ。
11o (七一、七二頁)
 それから、湯浅麟介という生きのいい若者も応募してきて、演説もうまく、また
文章も立つので、採用することにした。
12a (七〇頁)
●権利幸福きらいな人に
自由湯をば飲ませたい
オッペケペ
オッペケペッポー、ペッポッポー……
12b (六八、六九頁)
●不景気きわまる今日に
細民困窮かえりみず
目深にかぶった高帽子
金の指輪に金時計
禁門、貴顕にひざを曲げ
芸者、たいこに金をまき
内には米を倉に積み
同胞、兄弟見殺しか
オッペケペ
オッペケペッポー、ペッポッポー……
12c (六八頁)
 衣裳はいつか歌舞伎の一座にいたときに使った物をヒントにして、黒木綿の筒袖
に白金巾の兵児帯、白縞の小倉袴に緋の陣羽織、後ろ鉢巻きで日の丸の軍扇を持っ
て歌い、踊ったのである。
13a (五四頁)
「おっかさん、見て……あの引き幕、あたしが贈ったのよ」「そんなにいれ上げる
ほどの男かねえ、まったく」
13b (七四頁)
 その夜、二人は固く結ばれたのだった。以来、貞の心にはドッカリと音二郎が棲
んでしまったのである。
14 (七四、七五頁)
 音二郎はかねてから貞に伊藤博文を紹介してくれぬかともちかけていた。
(中略)
 すると、伊藤はカラカラ笑って、「古いよ、古いよ。いまや日本の政治は欧米な
みに民選の議員が選ばれ、それによって国会も運営されている。藩閥政府の時代と
はちがうのだよ。そんなことを考えずに、新しい演劇を志すならば、ヨーロッパの
演劇を勉強して輸入すべきではないかね」というのである。ショックだった。
(中略)
 こうして明治二十六年正月、音二郎は座員にも告げずこっそりフランスへ旅立っ
た。
 音二郎は四か月ぶりにパリから帰ってきた。
15 (七六頁)
『オイディプス王』を下敷きにした川上一座の出し物『意外』は大ヒットした。
16 (一〇〇頁)
 当時、劇場は升席が主流であり、観客はその升を場代として買うのである。だ
が、これだけでは芝居は見られない。座席は芝居茶屋か料亭を通して買うわけだか
ら、それらに対して祝儀がいる。その金額によっては良い席になったり、悪い席に
なったりする。次に木戸をくぐって自分の席に行くのに、五銭から十銭の木戸銭を
払わなければならない。その次に履物である。下足代が二銭から五銭。座布団代が
五銭から十銭。なみの公演は十時間にも達するから、その間に弁当や煙草、酒がい
る。当然その世話をしてくれる出方に祝儀を払うことになるので、芝居見物は非常
に高くつくのだった。
17 (七四頁)
「この男と一緒にいれば、きっとおもしろいことがたくさんあるにちがいない」
18a (七六頁)
 華々しい引き祝いの席で彼女の引退を惜しむ声は多かったが、貞としては、自分
の手で音二郎をパリに遊学させたし、桃介と房子の向こうを張って、どうしてもま
ともな結婚をしなければならない意地もあった。
 仲人を伊藤博文の部下であり、音二郎と同郷でもある金子堅太郎夫妻に頼んで、
二人は豪華絢爛な披露宴を催したのである。
18b (七五頁)
 ところが、音二郎と同じ博多出身の金子堅太郎から話があり、音二郎は思ったよ
り早く伊藤と話す機会を得たのである。
19a (七六頁)
 そんななかで貞はいよいよ音二郎と結婚することになった。
19b (七六頁)
『オイディプス王』を下敷きにした川上一座の出し物『意外』は大ヒットした。舞
台の照明に工夫を凝らし、客席を暗くし、電話などの文明の利器を登場させたりし
たのが観衆に目新しく思われたのだった。
20a (七六頁)
 明治二十七年、日清戦争が始まった。
 日本中が戦争でわきかえり、軍拡に反対していた野党までが戦争を肯定しはじめ
た。
諭吉も朝鮮独立のため戦費を出すなどしていた。これらを黙って見過ごす音二郎で
はない。すぐさま『壮絶快絶日清戦争』なる芝居をでっちあげたが、これが大変な
当たり。勢いにのった音二郎はみずから戦線を取材すると、『戦地見聞日記』を上
演した。タイムリーな芝居にこれも大ヒットである。この『戦地見聞日記』は上野
の野外劇場に皇太子を迎えて演じる栄誉に浴し、音二郎の名は天下にとどろきはじ
めた。
20b (七六頁)
 そして、後日、ついに音二郎は旧劇の殿堂・歌舞伎座の板を踏んだ。そのうえ、
そこで演じた『威海衛陥落』、『因果燈篭』は絶賛を浴びたのである。
21a (七七頁)
川上一座からも急に客足が遠のいて、何をやってもヒットしない。そうなると、新
聞は音二郎の悪評を書き立てはじめた。
21b (七六頁)
これまで音二郎の芝居をチクチクと槍玉にあげていた『万朝報』の黒岩は苦々しい
思いでいた。
21c (七七頁)
音二郎攻撃は外部だけではなく、内側からも起こりはじめた。これまで川上座建設
をめざして、座員の給料は低めに抑えられていたが、その不満が爆発したのであ
る。頼りになる役者伊井蓉峰も高田実も去っていった。だが、湯浅麟介だけは去ら
なかった。
21d (七七頁)
これまで川上座建設をめざして、座員の給料は低めに抑えられていたが、その不満
が爆発したのである。
21e (七七頁)
「大風呂敷のペテン師ー川上座はいつなることやら!」
 それは、音二郎が「演劇の改良は演劇の構造から新しくしなければならならい」
とぶちあげ、目前の劇場・川上座の建設アドバルーンを上げたことへの風刺であ
る。
22a (七八頁)
 貞は伊藤博文と金子堅太郎を動かし、銀行から金を借りることに成功した。足り
ない分は高利貸しから借り、やっと明治二十九年六月、川上座は完成をみたのであ
る。
22b (七八、七九頁)
 開場式を数日後に控え、貞は満足感にひたっていたが、そこに、子連れの女が現
れた。
「この子は音二郎さんの子ですから、引きとってください」というのである。八重
子だった。
 八重子は出獄した奥平とも別れていたが、
この子は音二郎の子だといい張ってきかない。貞は八重子と子供を追い出し、帰っ
てきた音二郎をさっそくとっちめた。
(中略)
 口論の末、貞はカッとなってとび出した。浜田屋にとびこんできたその姿を見
て、亀吉はびっくりしてしまった。髷を切って、髪はザンバラである。
「もうあんな男のところには戻らない」
といい張る貞を、亀吉と、金子堅太郎が必至になだめ、とにかく川上座の開場式に
は出席することにさせた。
 その当日、来賓の金子堅太郎の祝辞が終わり、音二郎と貞が頭を下げると、その
とたんに貞の頭の付け髷がスッテンコロリと落ちてしまったのである。会場はたち
まち大笑いとなってしまった。厳粛な儀式が喜劇と変じたのであるが、この椿事ち
んじは川上座の行方がけっして安泰ではないことを象徴しているようであった。
 案の定、川上座は開場したものの、負債の利息がかさんで、公演のあがりは全部
持っていかれ、音二郎の演劇改良の志は、現実のなかで次々と足をすくわれていく
のである。
23a (七九頁)
 ところが、追いつめられても活路を見いだすのが大風呂敷の音二郎である。高利
貸しの追放と新演劇の保護を唱えて、国会議員に立候補するといい出したのであ
る。もともと政治志向の音二郎は、そう決めるとがぜん元気をとり戻した。
(中略)
 音二郎の選挙区は東京府の荏原えばら郡入新井村字不入斗いりやまずである。
23b (八〇頁)
 その年は選挙が二度あり、音二郎は周囲の反対を押しきってまたもや衆議院に打
って出た。こうなれば、もうヤケのヤンパチである。しかし、二度目の選挙も予想
どおり落選。
23c (七九頁)
 だが、彼がどんなに大衆受けしても、当時選挙権のあるのは地租ちそ十五円以上
を納めた男子に限られていた。そのうえ、音二郎は地元の対立候補の動きに無知だ
った。最後には運動員が一票二十円、三十円で票を買い、得票に狂奔したが、金は
取っても、寝返った者もかなりいて、彼は徹底的に地主と有産階級の選挙に翻弄さ
れ、蓋を開ければ落選していたのである。
23d (七九頁)
 だが、例によって『万朝報』は音二郎を攻撃し、からかい半分の記事を毎日のよ
うに載せる。「河原乞食の分際で選挙に打って出るとは音二郎も思いあがったもの
だ」と書かれ、音二郎はいまにみておれと選挙運動に駆けずり回った。
23e (八〇頁)
 それにつけても腹立たしいのは『万朝報』の黒岩である。このころ、『万朝報』
では幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦を論説委員に迎え、鋭い政治批判とともに、ヒュ
ーマニズムに根ざした論説によって、充実した内容といい読者を誇っていた。その
紙上で黒岩は川上の新派合同団結興行の『又意外』をケチョンケチョンに酷評し
て、「何の新しさもない二番煎じ」と決めつけたのである。
23f (八〇頁)
そして、ついに川上座も他人手に渡ることになった。
 誰もいない川上座。
 音二郎と貞は舞台に座ってシャンペンを飲んだ。
 この劇場建設のために、二人ともどれ程苦労をしたことか。音二郎は男泣きに泣
いた。
「あら、イヤだ。泣いたりして」
 明るくはしゃいでみせる貞であったが、やはり貞の瞳にも涙があふれていた。
24a (八一頁)
 音二郎は黒岩に哀れみをかけられたようで、やり切れない思いの日々をおくって
いた。そのうえ、借金とりには追い回され、日本国中、どこにも自分の居場所はな
いような気がしていた。
「死にたい……、どこかへ行ってしまいたい……」
24b (八〇頁)
 音二郎は怒った。
 そして『万朝報』社にのりこんだのである。それもピストルを持って--!
25a (八一頁)
 もうどうなってもかまわないという気がして、築地の岸壁で見つけておいた商船
学校のボートを買いとると、彼は日本脱出を貞にうちあけた。
(中略)
 二人は食料と水を積みこんで築地の海岸からひそかに出航した。
25b (八二頁)
 ちょうど二百十日のことである。亀吉、麟介、桜井も真っ青になった。『万朝
報』の黒岩もさすがにびっくりした。「川上音二郎、ついに発狂す」と彼は書いた
が、自殺行為ともいえる無謀な行為に、彼は音二郎の計り知れない何かを感じてい
た。
 音二郎と貞の太平洋放浪の旅がつづいた。
 横須賀港に迷いこみ、軍艦「富士」に発見されるかと思えば、そこを逃げ出して
大嵐にあう。
25c (八一頁)
 二人は食料と水を積みこんで築地の海岸からひそかに出航した。
25d (八一、八二頁)
『万朝報』の黒岩もさすがにびっくりした。
「川上音二郎、ついに発狂す」と彼は書いたが、自殺行為ともいえる無謀な行為
に、彼は音二郎の計り知れない何かを感じていた。
25e (八一頁)
「おまえさん、死ぬ気かえ?」
「出たとこ勝負、死ぬ時は死ぬさ」
「まさか、ひとりで行くってんじゃないだろうね?」
「おまえまで道連れにはできやしない」
「借金とりが捜し回ってるのに、あたしを残して行くっていうのかい? 死ぬとき
はあたしも一緒だよ、音さん」
25f (八二頁)
天竜川に打ち上げられて、ボートはすっかり破損してしまう。
 そんな難儀も数知れずあったが、その土地土地の人々はみんな親切だった。「道
中の話をしてくれ」といわれて、付近の村々でおもしろおかしく話をする音二郎た
ちは、どこへ行っても手厚くもてなされた。
25g (八二頁)
 船の修理が終わると、また出航。
25h (八二頁)
 浜島はまじま沖でアシカの群れに襲われ、由良の港へ向かう途中にまたまた大
嵐。二人の海洋の旅は逐一新聞に報道されて、浜田屋の亀吉たちをヒヤヒヤさせて
いる。
25i (八二頁)
 明けて正月二日、神戸港に着いたときには、音二郎は壊血病にかかっており、そ
のまま一か月もの入院を余儀なくされていた。
26 (八三頁)
 しかし、天は音二郎を見放しはしなかった。入院中に信じられないような話が舞
いこんできたのである。アメリカの大西洋岸のアトランチック・シティに、茶屋や
球戯場などを含む日本庭園を経営している櫛引弓人くしびきゆみんどという男が、
音二郎にサンフランシスコの興行界を紹介するから、アメリカへ興行に行かないか
とすすめにきたのだ。
(中略)
もはやこのまま日本で演劇活動をやってもパッとしないだろうし、何か目新しいも
のを求めていた音二郎はこの話にとびついた。
27a (八三頁)
 明治三十二年四月、音二郎一座はゲーリック号に乗りこみ、一路サンフランシス
コをめざした。湯浅麟介、
藤川岩之助、山本嘉一らの中堅俳優、三味線の杵屋君三郎、三上繁、丸山蔵人らの
女形、音二郎の姪で十二歳のツル、弟の磯二郎、事務員の川本末次ら総勢十九人で
ある。
27b (八三頁)
 五月二十三日、一行はサンフランシスコに到着した。
28a (八三頁)
 岸壁には櫛引弓人の紹介で、一座の斡旋役を買ってくれた弁護士の光瀬耕作が出
迎えにきてくれたが、貞ははじめて見る異国の都会に、ただただ呆気あっけにとら
れていた。サンフランシスコはこのころ、すでにケーブルが市中を走り、自動車や
馬車などがあふれている。
「いいかい、はぐれないようにおしよ」
 一行は手を取りあってビルの谷間を歩くありさまだった。街にはすでに貞のポス
ターが張り出され、まるで彼女が主演であるかのように宣伝されているのである。
28b (八四頁)
「あたしは女優じゃないわ! あんた、あたしを女優にするつもりなの?」
(中略)
「ひどい、ひどい……あんまりじゃないか」
と貞はむくれたが、二十三日に着いて二十五日には公演するという日取りになって
いるのでグズグズもいっていられないのである。貞も観念して、『道成寺』だけな
らやるということでこの場はようやく落ち着いた。
 貞がかつて奴という名前で芸者に出ていたことを知ると、光瀬は「貞奴」という
芸名がいいといい出し、かくて女優「貞奴」が誕生したのである。
29a (八四、八五頁)
 劇場はオッファーレル街のカリフォルニア座である。
(中略)
 一座は九日間公演して一、二七一ドル(二、五四二円)の興行収入をあげた。こ
の後、一週間の休養期間をおいて、再びカリフォルニア座で公演していたが、思っ
てもみない事件が起きてしまった。公演途中に光瀬弁護士が興行収入を持ったまま
姿をくらましてしまったのである。
 劇場の借りあげ賃が半分残っているうえに、広告料、電気代も未払いだったため
に、一行は衣裳、道具類を差し押さえられて劇場から締め出されてしまった。文字
どおり、路頭に迷うはめとなったのである。だが、捨てる神あれば拾う神あり、在
留邦人有志の協力により、義捐興行を打てることになり、それによって、ようやく
七百ドルが集まった。
29b (八五頁)
「帰りましょう、もう外国はこりごりです」
 座員たちはすぐにも帰りたがったが、音二郎はそのつもりはない。その金で劇場
に差し押さえられていた衣裳、小道具類を請け出すと、彼は座員たちに向かって熱
っぽく訴えた。「このままおめおめと帰っては、われわれは二度と浮かばれやしな
いぞ。外国に来た以上、大評判をとって帰るんだ。やってみようじゃないか。な、
みんな、どうか、この音二郎に命を預けてくれ!」
29c (八五頁)
 サンフランシスコで音二郎の姪ツルを養女に出し、弟の磯二郎も座を離れたが、
一行はシアトルからタコマ、さらにポートランドへ巡業をつづけた。
29d (八三頁)
湯浅麟介、藤川岩之助、山本嘉一らの中堅俳優、三味線の杵屋君三郎、三上繁、丸
山蔵人らの女形、音二郎の姪で十二歳のツル、弟の磯二郎、事務員の川本末次ら総
勢十九人である。
29e (八五頁)
一行はシアトルからタコマ、さらにポートランドへ巡業をつづけた。いずれも着い
てから劇場を探し、公演がすみしだい夜行列車に乗るのである。道中はろくな宿も
とれず、衣裳、鬘かつら、道具類を手分けして背負い、草履ぞうりばきで歩き、汽
車に乗っているときだけが休息の時間というありさまであった。
29f (八五頁)
 ようやくシカゴに着いたある日のことである。
 場末のホテルの一室を音二郎と貞の名義で借り、他の座員たちは入れ代わり立ち
代わり訪問者を装って寝にくるという苦肉の策で睡眠をとり、その間にあちこちの
劇場に掛けあうのだが、どこも相手にしてくれない。日本領事館に泣きついたが、
食い詰め者の旅芸人が何をしにきたかという態度で、けんもほろろのあしらいであ
る。
(中略)
「おや、きれいだね。いったい、そんなおめかししてどこへ行こうってんだい?」
「ライラック座よ。あそこの座主は日本びいきっていうから、あたしが行ってくる
わ」
「ダメだよ。座主のホットンって親父は頑固者で、俺が交渉したって埒があかなか
ったんだから」
「ダメでもともと。試してみるわ」
29g (八六頁)
 ところが何と、
ホテルに帰るともうホットンから一日だけ劇場を貸すという電話が入っていたので
ある。座員たちは抱きあって喜んだ。何があっても失敗は許されないという情熱だ
けを支えに、座員たちは水だけを飲んで公演の日まで命をつないだ。
 公演当日、空腹でフラフラになりながらも誰からともなく奇抜なことをいい出し
た。ひとりでも多くの客を呼ぶために、舞台の扮装で街を練り歩き、PR作戦を展
開しようというのである。
 この宣伝はバカ当りした。シカゴの街を『道成寺』の貞をはじめ、ちょん髷姿の
音二郎らが練り歩くのであるから、さしものシカゴッ子も度胆を抜かれ、入場券に
はプレミアムがつくほどであった。
 もっとも、空腹のため『道成寺』の踊りの最中に貞が舞台で倒れたり、『児島高
徳』の立ち回りでは音二郎に投げられた座員たちがそのまま起き上がれなかったり
であったが、この公演は大変な好評を博したのである。
29h (七二頁)
柔術家を殺陣師として雇い、歌舞伎とはまったくちがった写実的な立ち回りに徹し
たために、客はひと味ちがった斬新なおもしろさに喜んだ。
29i (八六頁)
 もっとも、空腹のため『道成寺』の踊りの最中に貞が舞台で倒れたり、『児島高
徳』の立ち回りでは音二郎に投げられた座員たちがそのまま起き上がれなかったり
であったが、この公演は大変な好評を博したのである。極限に追いこまれた一座が
死力をふりしぼってつとめた舞台だったので、きっと人々の胸をうったものにちが
いない。
29j (八七頁)
 そのころ、ホットンのところには、貞奴に魅了された観衆が再演を求めて押しか
けていた。
29k (八七頁)
「さあ、受けとってくれ、儲けの半分三十ドルだ」
とホットンから金を渡されて、一同はホテルの食堂へ駆けつけた。
「みんな、好きな物、何でも食べろ」
と音二郎にいわれても、座員はご馳走を前にして、うれし泣きに泣き、誰も満足に
食べられないありさまだった。
30a (八七頁)
一夜明ければ貞奴はスターになっていた。ホットンのほうから出演交渉にやってき
て、好条件で再演の話が決まったのである。
(中略)
貞の手紙によると、シカゴで大成功し、アメリカ人のマコーレー・カムストックと
いう興行師が付いて、四十週間の契約をしたと書いてあるではないか。
30b (八八頁)
 ワシントンでは日本大使館が何かと面倒をみてくれたこと、地元紙が絶賛したの
で音二郎も貞もたちまち賓客扱いされるようになったこと、ニューヨークでの成
功、ロンドンでは、アービングの紹介もあって、とうとうウェールズ親王殿下の要
請でバッキンガム宮殿で特別公演を行ったこと、もう音二郎の話はとどまるところ
を知らず、奥平はその鼻息に少々食われ気味である。
31 (八三頁)
湯浅麟介、藤川岩之助、山本嘉一らの中堅俳優、三味線の杵屋君三郎、三上繁、丸
山蔵人らの女形、音二郎の姪で十二歳のツル、弟の磯二郎、事務員の川本末次ら総
勢十九人である。
32a (八八頁)
 ワシントンでは日本大使館が何かと面倒をみてくれたこと、地元紙が絶賛したの
で音二郎も貞もたちまち賓客扱いされるようになったこと、ニューヨークでの成
功、ロンドンでは、アービングの紹介もあって、とうとうウェールズ親王殿下の要
請でバッキンガム宮殿で特別公演を行ったこと、もう音二郎の話はとどまるところ
を知らず、奥平はその鼻息に少々食われ気味である。
32b (八八頁)
 七月四日、ロイ・フラー劇場で『芸者と武士』、『遠藤武者』は幕を開けた。
32c (八八頁)
 ワシントンでは日本大使館が何かと面倒をみてくれたこと、地元紙が絶賛したの
で音二郎も貞もたちまち賓客扱いされるようになったこと、ニューヨークでの成
功、ロンドンでは、アービングの紹介もあって、とうとうウェールズ親王殿下の要
請でバッキンガム宮殿で特別公演を行ったこと、もう音二郎の話はとどまるところ
を知らず、奥平はその鼻息に少々食われ気味である。
32d (八八ないし九〇頁)
 七月四日、ロイ・フラー劇場で『芸者と武士』、『遠藤武者』は幕を開けた。と
ころがなぜか客足は案に相違して伸びないのである。音二郎も貞もこれには首をか
しげてしまった。
「ムッシュ川上、ひとつ腹切りをやってくれませんか」
 座元のロイ・フラーが妙な注文を出した。
「腹切りって、
誰が腹を切るんですか?」
「盛遠ですよ。自分の愛人を殺しておいて、坊主になるくらいじゃ不十分ですよ。
あそこは日本の侍らしく腹切りをすれば、きっと客受けします」
 この注文にはさすがの音二郎にも抵抗があった。坊主になってからが彼のほんと
うの歴史上の活躍が始まるのだから、ここで死んでしまってはあまりにも史実無視
にすぎる。だが、音二郎は承知した。
「やりましょう」
 やる以上は徹底してやるのが、彼の興行師的感覚である。一刀を腹につき立て、
キリキリッと引きまわすと血潮がものすごい勢いでほとばしる。返す刀で喉笛をか
っさばいて、クワッと両眼を見開いて、それから虚空をつかんで死ぬまでの人間の
断末魔をこれでもかこれでもかと音二郎は演じてみせた。
(中略)
 翌日から事態は一変した。ロイ・フラー劇場に押しよせる観客のものすごさ。
32e (九〇頁)
音二郎はパリ以外にも欧州各地を回りたいというつもりだったが、当分は離れられ
そうになくなってしまった。
32f (九〇頁)
 音二郎一座は万国博閉会の日まで百二十三日、一日も休まず演じつづけ、フラン
ス政府から芸術功労章として「オフィシェ・ド・アカデミー」なる勲章を授けられ
た。
33a (八八頁)
烏森芸者たちは博覧会のパノラマ館で、毎日見物客に『鶴亀』、『道成寺』、『か
っぽれ』、『ヘラヘラ』、『凱旋踊り』などを見せているというのだった。
33b (八七、八八頁)
 ちょうどそのころ、花柳界では、新橋の烏森芸者がパリの博覧会に雇われていく
というので、その噂でもちきりだった。
(中略)
 パリに着き、そこからホテルまで馬車を走らせて到着すると、ひとりの日本人が
音二郎と貞を待ち受けていた。
 それは誰あろう、奥平剛史なのである。
(中略)
 奥平は英語が堪能であるところを見こまれて、例の烏森芸者の一行の通訳兼マネ
ージャーとして随行してきたのである。
33c (九〇頁)
 パリ博覧会の途中で、奥平たちは欧州各地を巡業することになった。
33d (六一頁)
 奥平剛史。土佐出身で立志社の社員であり、また自由党の党員でもあった。
33e (六〇頁)
自由党が俺たちの見方になってくれて、車夫の懇親会を開いておおいに意気をあげ
ようってことになったんだ。
33f (六五頁)
 だが、八重子とともに東京に帰った奥平はその場で待ち伏せていた警察に逮捕さ
れ、ついに無期徒刑の判決を下されてしまったのである。
33g (七五頁)
 音二郎がパリ滞在中に奥平は無期徒刑を免れて刑務所から出所していたが、彼を
浦島太郎扱いにする自由党幹部と大立ち回りを演じ、ついに自由党からも除名され
ていた。
33h (六二頁)
 先醒堂覚明という名で舞台に上がっている奥平は神田末広町の千代田亭を三日間
札止めにするほどの人気を博していた。
33i (六五頁)
奥平と同様、政治運動を禁じられ、講釈師になったのである。
33j (一〇七頁)
 これは単なる爆発物取り締り違反であったはずなのに、全国の無政府主義者を一
網打尽に殲滅させるために「大逆罪」とされたことが感じられた。
 又吉から奥平逮捕の知らせを聞いた音二郎とてどうすることもできず、気をもむ
ばかりである。(略)秋水や菅野すがを含む他の十二名はその一週間後に死刑執行
されたのである。
34 (九〇頁)
 音二郎はパリ以外にも欧州各地を回りたいというつもりだったが、当分は離れら
れそうになくなってしまった。
35a (九三頁)
だが再会も束の間、川上一座と同行して帰国した栗野大使が歓迎パーティーを催す
というので、貞は亀吉を気にしながら、迎えによこした二頭立ての馬車に乗って音
二郎とともに出かけた。
35b (一〇七頁)
心配した貞はさっそく彼を有馬ありま温泉に連れていき、静養させることにした。
36a (九四頁)
すぐさま大阪から帰朝公演が始まった。それも川上一座のほかに、高田実、福井茂
兵衛、喜多村録郎ら新派俳優全部がほとんど顔をそろえての合同公演である。
36b (九四頁)
 ところが、東京の市村座に来ると、不評と叱責が待っていた。新聞はあげて音二
郎否定論の大合唱である。例によって『万朝報』の筆鋒が辛辣を極めている。
36c (九四頁)
「ヨーロッパの演劇の本場で技を磨いてきたかと思ったら、少しの進歩もない。
旧態依然の川上芝居。第一、貞奴が舞台に出ないのはけしからん」
「川上一座は何も新しいことをしてきたわけではなかったのである。歌舞伎をなぞ
ったような芝居を見せてきて、しかも、乱暴な改悪までしてみせた。これは日本文
化の正しい伝達ではなく、欧米人に媚びた見世物でしかない」
36d (九四頁)
「ギャフンとまいってアービングが褒めたなんて、とても信じられる代物ではな
い。アービングはただの好奇心で川上を担ぎ回ったのだ」
と欧米での成功を全面否定するような批評なのである。
36e (九四頁)
 さんざんの叩かれように音二郎もすっかりくさってしまった。
36f (九四頁)
出し物は『洋行中の悲劇』と『英国革命史』で、破格の入場料だったにもかかわら
ず、大当たりをとった。
37a (九四頁)
「ヨーロッパの演劇の本場で技を磨いてきたかと思ったら、少しの進歩もない。旧
態依然の川上芝居。第一、貞奴が舞台に出ないのはけしからん」
37b (九四頁)
「川上一座、またまた海外興行へ」と新聞に記事が出たのは、それから間もなくで
ある。
38a(九五頁)
 各国を見てきた音二郎は威勢よく気炎をあげ、ついに「俳優学校を設立し、後輩
を育てる仕事だけは自分がやりとげたい」といい出した。彼のなかにはこれからめ
ざす方向がはっきりと見えはじめていたのである。
38b (九五頁)
 「俳優の社会的地位の向上ーフランスでは、女優の【C】は大統領の次席に列し
ているし、男優のムネシュレーは音楽大学の教授として招かれている。イギリスの
アービングは男爵の地位にあるし、アメリカのブースやバローも民衆からいたく尊
敬されている。しかるに日本ではいまだに認められていない。演劇発展のために、
その様な偏見がいかに害しているか、改めなければならない。俳優学校の設立も急
務である。(略)」
38c (九五頁)
 しかし、貞はいくら口説いても舞台には立たないという。
38d (九五頁)
 二度目のヨーロッパ巡業から帰った音二郎は、さっそく、「世界的演劇を興すの
必要」なる帰朝談をぶちあげた。
38e (九五頁)
 自分の言葉を裏付けるためにも、帰朝公演はすばらしい舞台を見せなければなら
ない。ところが、問題は女優である。貞奴しかいないのである。いい芝居はいろい
ろあったが、女優が二人しか出なくてすむということで、『オセロ』を選んだ。
39a (九六頁)
「おまえでなくてはできないんだよ。お前は川上と一緒になったときに何といっ
た?『川上はいまは壮士芝居をやっていますが、ただいまのところは海のものとも
山のものともつかない。夫婦になった以上は、私の力できっと大立て者にしてみせ
ます』といったじゃないか。海外での成功はほんとうにお前の力があってこそだと
思う。だからといって、それで事業が完成したわけではない。この日本で成功しな
ければ川上の男は立たないんだよ。失敗を恐れていてどうするんだ。日本でトップ
を切るのはおまえしかないよ」
39b (九六頁)
「もし、あたしが失敗したら、女優の発展がそれでおくれることになるんですよ。
そんな重大なつとめがどうしてできましょう」
39c (九五頁)
 しかし貞はいくら口説いても舞台には立たないという。音二郎は困り果て、仲人
の金子堅太郎に頼んだが、それでも、貞は首を縦に振らないのである。
40a (九六頁)
 明治三十六年二月、シェークスピア四大悲劇のひとつ『オセロ』の翻案劇は、明
治座で上演された。
40b (九六頁)
 当時のインテリ森鴎外もりおうがい、坪内逍遥つぼうちしょうよ、尾崎紅葉おざ
きこうよう、与謝野鉄幹よさのてつかん、佐佐木信綱ささきのぶつな、上田敏うえ
だびん、巌谷小波いわやさざなみ、新村出しんむらいずるなどがそろって明治座に
足を運び、穏当な批評を語り、各紙もそろって好評を掲げた。『万朝報』も今回は
さすがに当たりさわりのない批評を載せている。
40c (九六頁)
 当時のインテリ森鴎外、坪内逍遥、尾崎紅葉、与謝野鉄幹、佐佐木信綱、上田
敏、巌谷小波、新村出などがそろって明治座に足を運び、穏当な批評を語り、各紙
もそろって好評を掲げた。
40d (九七、九八頁)
『江戸城明渡』はさんざんに叩かれた。というのも、たまたまこれを見物にきた歌
舞伎役者たちが、
「あの人たちは刀の差しよう、袴の着こなし、何ひとつできない。素人同様だ」と
談話を載せたものだからたまらない。その前に音二郎が「俳優に踊りはいらぬ」と
いったことの腹いせらしく、遠慮なく川上演劇を批判しているのだった。
40e (九七頁)
「あたしもね、華やかなことをしているようだけど、ほんとうは舞台をつとめるの
が苦痛なのよ」
41a (九七頁)
 川上一座は明治座での『オセロ』成功ののち、大阪、神戸への巡業に出て、その
六月、再び明治座で『マーチャント・オブ・ベニス』、『江戸城明渡』を演じた。
41b (九七頁)
『マーチャント・オブ・ベニス』ははじめての翻訳劇で、まあまあの評だったが
(以下略)
41c (九七頁)
『江戸城明渡』はさんざんに叩かれた。
41d (九七、九九頁)
というのも、たまたまこれを見物にきた歌舞伎役者たちが、「あの人たちは刀の差
しよう、袴の着こなし、何ひとつできない。素人同様だ」と談話を載せたものだか
らたまらない。その前に音二郎が「俳優に踊りはいらぬ」といったことの腹いせら
しく、遠慮なく川上演劇を批判しているのだった。
41e (九九頁)
 おまけに『万朝報』ではまたまた「川上は口癖のように『洋行』、『西洋演
劇』、『アービング』などと吹聴するが、川上の洋行などはたいしたことではな
い。アメリカでは生活に追われて芝居を見るゆとりもなかったし、ロンドンでもパ
リでも興行に追いまくられてほとんど外出しなかった。フランス政府から勲章をも
らったのは栗野大使のおかげである。バッキンガム宮殿に参上したのも真っ赤な
嘘。そのくせ、歌舞伎を荒唐無稽だと貶めてシェークスピアをもち上げる。しか
し、フランスでもドイツでもシェークスピアが親しまれているのは、日本人が『忠
臣蔵』や『先代萩』に親しむようなもので、荒唐無稽というものではない。いかに
演劇改良に気がはやるとはいえ、わけもわからぬ西洋談義と、柄にもない日本劇の
改良を口にするのは無知文盲をみずからさらけ出すようなものである」と書きまく
ったのである。
41f (九九頁)
 しかし、どんな酷評にもめげず、音二郎は演じつづけた。
42a (九九頁)
 明治三十六年十月、川上座は子供向けのお伽芝居を上演した。久留島武彦という
巌谷小波と並ぶ児童文学の推進者と話が合い、『狐の裁判』と『浮かれ胡弓』を貞
奴が座長で演じたが、さしもの川上嫌いの面々もこぞって支持を表明した。
42b (九九頁)
 明治三十六年十月、川上座は子供向けのお伽芝居を上演した。久留島武彦という
巌谷小波と並ぶ児童文学の推進者と話が合い、『狐の裁判』と『浮かれ胡弓』を貞
奴が座長で演じたが、さしもの川上嫌いの面々もこぞって支持を表明した。子供た
ちを喜ばせ、貞自身も心を洗われ、すべてを忘れて芝居に打ちこみながら、貞はは
じめて、女優になってよかったと思うのだった。
43a (九九頁)
 十一月からは本郷座で『ハムレット』の公演が控えていた。
43b (九九頁)
上演時間――午後五時半開場、十時終演。このうち、休憩時間は約三十分。
入場料――従来の三分の一に減額し、入場券の制度を導入する。
場内の飲食――ロビーや芝居茶屋はよいが、客席では厳禁のこと。
人力車――劇場専用の人力車業者を設け、乗車券は終演前に発売する。
舞台装置――歌舞伎の絵師を廃して、洋画家を主任にする。
43c (一〇〇頁)
 音二郎はこうした仕組みを廃止しようと五か条の改革案を出した(以下略)
43d (九九頁)
 音二郎は今度こそ、劇界刷新のための改革をやりとげるつもりでいた。
43e (一〇〇頁)
すったもんだのあげく、ようやく川上一座が劇場を一、七〇〇円で借り受けるこ
と、そして「出方、座布団、下足」のため十五日間の興行収入の中から一、二五〇
円を支払うということで折りあいがついた。
43f (一〇〇、一〇一頁)
 事件が起きたのはその直後である。音二郎が麟介とともに本郷座から帰る夜道の
ことであった。突然、暗闇から数人の暴漢が二人に襲いかかってきた。本郷座に出
入りしている出方たちである。二人は必死で防戦したが、多勢に無勢で、袋叩きに
されてしまった。
 血みどろで家へ帰ってきた音二郎と麟介の姿を見て、貞は腰を抜かさんばかりに
驚いた。欧米ではごく当たり前のことなのに、
それを敢行しようとすれば、まさに命がけなのである。
 音二郎は警視総監に面会を求めて、「紳士淑女が来場する劇場に同じようなこと
が起こっては面目が立たないから取り締まってくれ」と願い出た。本郷座の関係者
は本郷警察署に呼び出されて説諭を受け、音二郎に保証金千円を入れ、もし、今後
暴行を働く者があれば、保証金没収という一条を契約書に入れることにして、ケリ
がついた。
43g (一〇一頁)
 新聞は音二郎の勇気を褒めた。「ただ劇界のためのみならず、わが国文学、美術
界のために感謝せざるべからず。実に正劇は功を多とす」と『読売新聞』も絶大な
る賛辞を送った。
44 (七四頁)
 音二郎はかねてから貞に伊藤博文を紹介してくれぬかともちかけていた。貞が伊
藤の権妻であったことを知らぬわけではないのに、何のこだわりも抱いていないら
しいのである。
45a (一〇一頁)
 明治三十七年二月八日夜、近衛第二、第十二師団に動員令が下され、太平洋岸の
ロシア艦隊を奇襲し、二月十日宣戦が布告された。
(中略)
 音二郎も大阪の朝日座で『マーチャント・オブ・ベニス』の千秋楽の舞台上か
ら、戦況視察の意義を説き、翌日、麟介、高田実ら座員とともに宇品港から大陸に
向かった。
45b (一〇三頁)
 それからほどなく、音二郎と貞は劇界視察のためと称して、三度目のパリへ向か
ったのである。
46a (九三頁)
貞は亀吉を気にしながら、迎えによこした二頭立ての馬車に乗って音二郎とともに
出かけた。
46b (一〇三頁)
 明治四十一年六月、パリから帰国した音二郎、貞は、いよいよ女優養成所を設立
することにした。
46c (一〇四頁)
かたわら音二郎率いる新演劇合同の革新興行の舞台に忙殺されていた。
46d (一〇四頁)
「西洋ではこんなことはありゃしない。日本ってほんとうにイヤな国だねえ。世間
が女優を育てようとしないんだから!」
47a (一〇三頁)
 明治四十年、財界人を中心とする有志の間に帝国劇場設立の運動が起こりはじめ
ていた。音二郎は「俺のアピールがやはり効果を発揮したのだ」と大喜びである。
 設立発起人は渋沢栄一や房子の兄の福沢捨次郎ら。株で設け、水力電気に目をつ
けて会社を興している桃介もその呼びかけに応じて帝国劇場設立の株を持つことに
した。
47b (一〇三頁)
 明治四十一年六月、パリから帰国した音二郎、貞は、いよいよ女優養成所を設立
することにした。そして、帝国劇場設立のメンバーと懇談した際、貞の女優養成所
に創立賛助金五百円、毎月補助金百円を出してもらう約束をとりつけた。
48a (一〇三、一〇四頁)
 名称は「帝国女優養成所」。
 だが、世間は女優養成所の開設をごうごうたる非難でもって迎えた。女優の募集
は年若い娘を堕落させるだけだというのである。
48b (一〇四頁)
 貞も悲憤慷慨しながら、第一期生の生徒森律子らに演技を教え、かたわら音二郎
率いる新演劇合同の革新興行の舞台に忙殺されていた。
48c (一〇四頁)
「西洋ではこんなことはありゃしない。日本ってほんとうにイヤな国だねえ。世間
が女優を育てようとしないんだから!」
48d (一〇四頁)
 貞も悲憤慷慨しながら、第一期生の生徒森律子らに演技を教え、かたわら音二郎
率いる新演劇合同の革新興行の舞台に忙殺されていた。
48e (一〇四、一〇五頁)
 だが、四十二年、思ってもみないことが起きた。突如、「帝国女優養成所」は貞
とは関係なく、帝国劇場の自主的な運営とすることを申し渡してきたのである。渋
沢たち実業家ブレーンは、いまのうちに女優養成所を貞から引きとっておいて、帝
劇完成のあかつきには、女優たちを自由に帝劇の舞台に立たせようという腹だった
のである。
48f (一〇四頁)
 貞も悲憤慷慨しながら、第一期生の生徒森律子らに演技を教え、かたわら音二郎
率いる新演劇合同の革新興行の舞台に忙殺されていた。
48g (一〇五頁)
「おまえも立派な女優になったな」
49 (一〇五頁)
 そんなある日、貞と音二郎は麻布の御用邸で催される韓国皇太子の十二歳の誕生
祝賀会に、アトラクションとして何か演じてもらいたいと金子堅太郎から頼まれ
た。二人が座員とともに出向くと、伊藤博文も皇太子のそばに付きっきりで来てい
たが、
ひどく顔色が悪い。
(中略)
 それが伊藤を見た最後だった。日本の植民地化への怒りに燃えた青年によって、
伊藤は暗殺されたのである。貞はこの知らせに、舞台衣裳のまま、楽屋にくずおれ
た。
50 (一〇七頁)
 その年の五月二十日から七日間、新装なった帝国劇場において、坪内逍遥主宰に
よるところの文芸協会によって、『ハムレット』が公演された。
(中略)
 舞台を見終わったあと、音二郎はいったが、貞はオフィーリアに扮した松井須磨
子に何かただならぬ脅威の片鱗を抱いていた。
51a (一〇六頁)
 翌年、大阪では帝国座の竣工がなり、舞台開きが行われた。この劇場のために音
二郎と貞は莫大な借金を抱える身となったが、自前の劇場をもててどれほどうれし
かったかしれない。
 パリのテアトル・フランセを手本にし、日本の特色も生かした造りで、客席は円
形にして声の回りをよくした。そして、二階三階へも下足のままで行けるようにな
っており、当時としては画期的な構造であった。
51b (一〇六頁)
こけらおとしは『天の岩戸』、『ボンドマン』を上演。初日から十日ばかりは満員
の盛況だったが、詰めかける債権者が毎日仕切り場に押しかけ、入場料をかっさら
っていく始末に、雰囲気はブチ壊しとなった。新聞にも「役者への給金は行き渡ら
ず、衣裳、小道具方への支払いも打ち止め」などと書かれ、そんな噂を聞いてか、
客足もしだいに遠のいていった。
52a (一〇七頁)
 九月、川上一座は博多と広島で公演したが、その最中に音二郎の持病が悪化し
て、腹部が異常に腫れ上がってきた。心配した貞はさっそく彼を有馬温泉に連れて
いき、静養させることにした。だが、そのときはすでに手遅れだったのである。持
病の盲腸炎は腹膜炎に発展しており、医者は「絶望」の診断を下した。
 文芸協会で島村抱月の演出によって準備されている『人形の家』の向こうを張っ
て、川上一座では同じイプセン作の『民衆の敵』を十月に幕を開ける予定だった
が、それももはや夢となってしまった。
52b (一〇八頁)
 音二郎も死を自覚してか、貞を枕もとに呼んだ。
「俺の育てた新派の家は、地震があれば倒れもするし、まだまだ不足の点が多い。
俺が死ねば、おまえは俺の遺志を継いで、この家を立派に育ててくれよ」
 そういうと、音二郎は昏睡状態におちいった。
52c (一〇八頁)
 もはや意識のない音二郎を帝国座に運ぶと貞は舞台に布団を敷き、そっと音二郎
を寝かせた。
(中略)
「あんた、みんな来てるんだよ」
 そのとき、座員たちの見守るなか、音二郎はパチリと目を開いた。そして数珠を
持つ手を上げて、二、三度指図するかのような身振りをすると――息絶えた。
52d (一〇九頁)
 一方、貞は音二郎の追善興行に何もかも忘れて没頭していた。だが、世間では貞
奴は引退すべきだという声がかしましいのである。
53a (一一〇頁)
貞は松井須磨子への脅威を感じながら、帝国座の維持に苦しんでいた。
53b (一〇九頁)
桃介は彼女が地方都市での公演中もひょっこり楽屋に姿を現しては、労りの言葉を
かけていく。そんな二人の関係を世間ではスキャンダルとして騒ぎ立てた。
「おもしろからぬ醜聞が貞奴のせっかくの光栄ある生涯を奈落の底へ蹴とばしてし
まった。近々芸壇から身を引くほかはあるまい」
などと新聞にも書かれていた。
53c (一一〇頁)
貞は松井須磨子への脅威を感じながら、帝国座の維持に苦しんでいた。
(中略)
そして、ついに彼女は亡き夫が執着してやまなかった帝国座を手放すことにした。
54 (一一〇頁)
 谷中の天王寺の五重の塔の手前に、音二郎の銅像が建った。
 帝国座を手放しても何とか音二郎の姿を残しておきたいという貞の悲願が、やっ
と実現したのである。
 四回忌の当日、除幕式が行われたが、新俳優、演劇関係者をはじめ、桃介や又
吉、野島、琴次、桜井夫婦ら大変な人数が集まった。
 音二郎は約四メートルの銅像になって、フロックコートを着こみ、フランス政府
から贈られた「オフィシェ・ド・アカデミー」を着け、右手にステッキ、左手に山
高帽を持っている。台座の文章は金子堅太郎、栗野慎一郎両子爵の揮毫であった。
55a (一〇八頁)
 それから間もなく、帝国劇場では『人形の家』が公演され、大変な好評を博し
た。とくに松井須磨子のノラは絶賛の的であった。
 演劇の潮流は、いま、大きく脈うって変わりつつあったのである。
55b (一〇九頁)
 ついに須磨子と抱月は手に手をとって、文芸協会を辞めて、新しく芸術座をつく
ってしまった。
56a (六二頁)
 むろん、桃介の目には貞しか映らない。とはいえ、貞にとっては令嬢房子は別世
界から降りてきたような存在であった。
56b (七六頁)
 そのころ、桃介はすでに房子との間に男の子を二人もうけていたが、ある日、前
触れもなしに喀血し、大磯の療養所に移された。
56c (九二頁)
「あなたの世話にはこれ以上なりたくないんです!」
(中略)
「お言葉ですが、今後いっさい、あなたの助力はお断りします!」
(中略)
養子の縁を切ってしまいたいと心から思い、房子から何を聞かれても答えなかっ
た。
(中略)
 それから二日後、桃介は車の中で血を吐いたところを、付き添っていた部下によ
って病院へ担ぎこまれた。結核が再発したのだった。
57a (九一頁)
 そのころ、桃介が興した丸三商会は大ピンチを迎えていた。
57b (九四頁)
 北里療養所で再び病を養っていた桃介はその記事を読みながら、落ちぶれた自分
の身にひき比べて、彼らの活躍がうらやましかった。あれ以来、房子には見舞いを
禁じ、彼と房子の間には、もはやどうしようもない冷ややかな壁が立ちはだかって
いた。そんなとき、「諭吉が危篤」という知らせが入り、つづいて、「諭吉死す」
の知らせが入った。
(中略)
 盛大な葬儀の席上、房子は、夫が病気を押して顔だけでも見せてくれたらと願っ
ていたが、それはついに空望みに終わった。
57c (七七頁)
 一方、株は株でも桃介は相場に手を出していた。療養所で床に伏しながらも、彼
特有の勘を働かせて大きく儲けていたのだが、これが福沢家にもれてしまった。当
然、諭吉はいい顔をしなかった。相場は博打のようなもので、まじめな事業家のや
ることではないと苦い顔である。房子は大磯をおとずれて、株をやめるようにいっ
た。そんな妻に桃介が見せたのは貯金通帳であった。
何と三千円足らずの預金がいつの間にか十万円にもなっている。
57d (一〇二頁)
彼はたちまち株で巨万の富を得、兜町で飛将軍の名をとどろかすことになった。
57e (七七頁)
「もしかして、彼は私を愛して一緒になったのではないんじゃないかしら……」
 疑いと恐れが彼女の胸を刺した。結婚前にその仲を噂されていた貞のことが、い
まさらのように重くのしかかり、二人の間には埋めようのない冷たい溝ができてい
るのは隠しようもなかった。
57f (一一〇、一一二頁)
 貞の心のなかを、音二郎との想い出が駆けぬけていった。鉄道馬車の前から助け
てもらった出会い、いく度にもわたった海外公演、金策に走り回った日々……。い
まは、フロックコートですまして立っている音二郎であるが、いつだって何があっ
たって大風呂敷をひろげ、ひろげた大風呂敷を実践するために豪快に笑いながら猪
突猛進する人だったと、貞はふっとほほえんだ。
(中略)
だが、貞は生前の夫そのままの銅像に心のなかで話しかけつづけていくうちに、少
しずつ力がみなぎってくるのを感じていた。
「あんた、いろんなことがあったね。そりゃつらいこともあったけど、あたし、や
っぱりあんたと一緒になってよかった。おもしろかったもの。ほんとに考えもつか
ないようなおもしろいことばっかりだった……。ね、あんた……」
58 (エピソード人物事典 二一〇頁)
川上貞奴
 新派女優。明治四年ー昭和二十一年(一八七一ー一九四六)身長百四十八セン
チ、小柄ではあったが、乗馬・柔道などを得意とする男まさりの激しい気性だっ
た。
 四歳のとき、一時、兄倉吉が師事する彫金家のもとに預けられた。その家には、
十歳と五歳の兄弟がいた。貞奴は、活発な下の子が好きだった。
 あるとき、上の男の子が「大きくなったら貞ちゃんはボクのお嫁さんになるん
だ」といっているのを聞き、(あんなおとなしい子と一緒にさせられちゃかなわな
い)と、翌朝その家を逃げ出した。

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◎業務に関する質問等可能
◎事務所事件の共同受任可

応募方法
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残り応募人数(2019年5月1日現在)
採用は2名
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連絡先
〒108-0023 東京都港区芝浦4-16-23アクアシティ芝浦9階
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71期修習生 72期修習生 求人
修習生の事務所訪問歓迎しております。

ITJではアルバイトを募集しております。
職種 事務職
時給 当社規定による
勤務地 〒108-0023 東京都港区芝浦4-16-23アクアシティ芝浦9階
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応募方法
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