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裁判例


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口頭弁論終結日・平成13年10月3日
主文
1 被告は,原告乙に対し400万円,原告丙及び原告丁に対しそれぞれ200万
円と,これらに対する平成10年11月17日から支払済みまで年5分の割合によ
る金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
事実及び理由
第1 原告らの請求
主文と同旨(附帯請求の起算日は,訴状送達の日の翌日)
第2 事案の概要
 前原告である甲(本件訴訟中に死亡)は,被告が設置する病院で結腸の切除手術
を受けたが,術後の入院中に,ビタミンB1を補給しないで高カロリー輸液の投与
を受け,ウェルニッケ脳症に罹患した。
 本件は,甲の相続人で訴訟を承継した原告らが,甲は高カロリー輸液の投与によ
ってウェルニッケ脳症に罹患し,それにより記憶障害等の後遺症が残ったと主張し
て,被告に対し,診療契約の債務不履行に基づき,損害賠償として慰謝料を請求し
た事案である。
1 前提となる事実(証拠を記載したもの以外は争いがない)
  (1) 当事者等
    前原告である甲(大正4年9月1日生)は,本件訴訟中の平成11年10
月22日に死亡した(死亡当時84歳)。原告乙は甲の妻であり,原告丙と原告丁
は甲の子である。原告らは甲の相続人であり,本件訴訟を承継した。
    被告は,東京都港区に,a病院(以下「被告病院」という)を設置してい
る。A医師とB医師は,消化器外科を専門分野とする外科医であり,甲が被告病院
に入院していた当時,被告病院に勤務して,甲の診療に当たっていた。
(2) 投与された輸液等
  甲に投与された高カロリー輸液製剤は,ピーエヌツイン1号(1本あたり10
00ミリリットル,ブドウ糖120グラム,560キロカロリー)と,ピーエヌツ
イン2号(1本あたり1100ミリリットル,ブドウ糖180グラム,840キロ
カロリー)である。
  甲に対しては,その後,ビタミンB1を含む複合ビタミンB剤であるシーパラ
(1アンプルあたり2ミリリットル,塩酸チアミン10ミリグラム)が投与され
た。
  (3) 診療経過等(アからオまでは,平成8年)
   ア 甲は,平成8年6月ころから,腹部の膨満や腹痛を訴えるようになり,
8月20日から,被告病院のA医師が出向いて診療を行っていた横浜市鶴見区所在
のb病院で受診し,検査を受けたところ,上行結腸癌の疑いがあるとの診断を受
け,A医師から,被告病院に入院して結腸部分切除の外科手術を受けるよう勧めら
れた。
     そこで,甲は,9月4日,外科手術を含む適切な治療を受けるため,診
療契約を締結して,被告病院に入院した(当時81歳)。
  イ 甲は,被告病院に入院後,9月11日に予定されていた上行結腸切除手術
に向けて,腹部CT検査,大腸内視鏡検査などの術前検査を受けていたが,9月9
日,大腸内視鏡検査の施行中にS状結腸に穿孔が生じたため,同日,急きょ,S状
結腸穿孔部の切除に併せて上行結腸切除手術が行われた(以下「本件手術」とい
う)。
  ウ 本件手術後,B医師らは,甲に対し,9月17日までは食事を止めて,そ
の間は点滴により,糖質を加えた電解質製剤であるポタコールとヴィーンDを投与
し,18日から食事の経口摂取を開始した(流動食,19日からは三分粥)。
    しかし,甲には食欲がなく経口摂取が少量で,下痢も頻回となったため,
B医師らは,甲に対し,食事を止めて,9月22日から26日まで,高カロリー輸
液であるピーエヌツインを投与した(22日から25日まではピーエヌツイン1号
を毎日1本,26日はピーエヌツイン2号を1本)。この期間中,下痢が治まった
ため,25日と26日には食事の経口摂取も行われた(流動食)。
    9月27日からはピーエヌツインの投与が中止され,食事の経口摂取が行
われた(三分粥,29日は常食)。
    しかし,9月30日,腸閉塞症状が出現したので,B医師らは,再度食事
を止め,10月1日まで点滴によりポタコールと電解質製剤であるソリタT3を投
与した後,10月2日から10日まで,再びピーエヌツインの輸液を施行した(2
日と3日はピーエヌツイン1号を毎日1本,4日から10日まではピーエヌツイン
2号を毎日1本)。この期間中,腸閉塞症状が改善されたので,4日からは食事の
経口摂取も行われた(流動食,6日からは常食。5日は摂取せず)。
    以上のように,甲に対し,合計14日間にわたり高カロリー輸液であるピ
ーエヌツインが投与されたが,この輸液の施行中には,ビタミンB1が補給される
ことはなかった。
   エ 甲は,本件手術後,消化機能は順調に回復していったが,10月19日
ころから,めまい,複視(眼症状),歩行障害(運動失調)の症状が生じて,その
ころ,ウェルニッケ脳症が発症した。10月22日ころからは傾眠傾向が生じ,1
0月23日前後までには,発語が少なくなる,反応が鈍くなる,仮面様表情となる
という意識障害を呈するようになって,甲には,このころまでに,複視,歩行障
害,意識障害というウェルニッケ脳症の3主徴が発症した(乙1,証人B医師,C
医師,D医師。本件手術後,甲にウェルニッケ脳症が発症したこと自体は争いがな
い)。
   オ 10月28日,甲が被告病院の眼科で診察を受け,頭部MRI検査によ
り脳の画像診断を受けたところ,延髄から中脳にかけての背側部,乳頭体,第三脳
室周囲と視床内側部において,左右ほぼ対称に高信号強度を示す病巣が見られ,脳
障害が指摘された。
     そこで,B医師らは,ウェルニッケ脳症の可能性を疑い,ビタミンB1
の欠乏を考慮して,10月29日から11月17日まで,甲に対し,食事の経口摂
取と並行して,毎日,シーパラ3アンプルから4アンプルを投与した。
  甲が11月25日に再度MRI検査による脳の画像診断を受けたところ,
10月28日に見られた病巣は,ほぼ消失していた。甲は,12月1日,被告病院
を退院した。
  カ 甲は,被告病院を退院後,記憶障害等を訴えて,平成9年3月18日,横
浜市鶴見区所在のc病院で精神科を受診したところ,記憶障害の症状があり老年性
痴呆であるとの診断を受け,脳循環代謝改善剤であるサーミオンを処方された。
    甲は,その後,同年3月25日,4月8日,5月6日,6月3日の4回に
わたりc病院を受診し,それぞれサーミオンと脳血管障害性精神症状改善剤である
エレンを処方された。
2 争点
 (1) 被告病院での治療行為と甲に生じた脳障害との因果関係
(原告らの主張)
ア 甲は,被告病院において,ビタミンB1を補給しないで高カロリー輸液を投与
されたため,ウェルニッケ脳症に罹患し,被告病院を退院した後も,その後遺症と
して記憶障害等の脳障害が残った。すなわち,甲に生じた脳障害は,老年性痴呆に
よる症状ではなく,ウェルニッケ脳症によるものであり,被告病院での治療行為か
ら生じたものである。
   イ 甲は,被告病院で高カロリー輸液の投与を受けて,平成8年10月18
日ころに意識障害が出現するまでは,意識は清明かつ正常であり,日常生活に何ら
支障をきたすような慢性的知能低下はなく,まして,老年性痴呆の症状を呈してい
たことはない。また,入院前に脳動脈硬化症の診断がされたこともなく,健忘症状
があったということもない。
     甲が被告病院を退院後,c病院で老年性痴呆という診断を受けたのは,
担当医師が,甲がウェルニッケ脳症に罹患したことを知らず,あるいは,原因につ
いて何らの検討もなく,症状のみから判断した結果にすぎない。
   ウ 高カロリー輸液の投与からウェルニッケ脳症の発症までの期間は,発症
まで5日間という症例も報告されているように個人差があり,また,食事の経口摂
取が行われていても,それが少量ではビタミンB1の補給が十分にはできないか
ら,甲のウェルニッケ脳症の発現が非医原性であるということはできない。
   エ 平成8年11月25日に行われた脳のMRI検査の結果には変化があっ
たが,ウェルニッケ脳症の症状は脳の機能的な障害によって発生するものであり,
それはMRI検査からは判断することができないので,その変化が必ずしもウェル
ニッケ脳症の治癒を意味するものではない。そのころ甲の症状が大きく改善したこ
ともないから,甲のウェルニッケ脳症が10月29日からのビタミンB1の投与に
よって治癒したということはできない。
(被告の主張)
ア 甲に生じた脳障害は,ウェルニッケ脳症による後遺症ではなく,老年性痴呆に
よるものである。
イ 甲には,被告病院に入院する前から,めまい,集中力の低下,意欲の減退等の
老年性痴呆の前駆症状があり,健忘症状や時間的な見当識障害も出現していた。こ
れは,単なる加齢による生理的な老化を超えるものであり,既に老年性痴呆に罹患
していて,その前駆期,初期ないし中期に相当する症状が現れていたものである。
  被告病院を退院後,甲は,平成9年3月18日に受診したc病院でも老年性痴
呆と診断され,そのころ,相貌失認,短期記憶の障害,空間的な見当識障害,喚語
障害,概念比較障害など,ウェルニッケ・コルサコフ症候群の本態である健忘を超
えた全般的な痴呆の様相を呈していた。甲には進行性の脳萎縮が生じていたこと,
コルサコフ症候群に特徴的な作話が出現していないことも,退院後の甲の症状が老
年性痴呆であることを示している。
     一般に,高齢の患者が入院や手術等の生活環境の変化で生じるストレス
から適応障害を起こし,老年性の痴呆を助長するようなことは,臨床上しばしば経
験されるところである。甲についても,被告病院に入院する前に生じていた脳動脈
硬化症等の疾患が,入院生活等によるストレスが誘因となって老年性痴呆症状を進
展させたものと理解すべきである。
   ウ 甲は,被告病院に入院中,ウェルニッケ脳症に罹患したが,ウェルニッ
ケ脳症は,相当期間にわたるビタミンB1不足によって起こる疾患と考えられる。
甲に高カロリー輸液を投与した期間は合計14日間と短期間であり,そのうち8日
間は食事も経口摂取しているのであるから,甲のウェルニッケ脳症は,非医原性の
ものというべきであり,被告の治療行為とは関係がない。
   エ 平成8年10月29日からビタミンB1を投与したことにより,11月
25日のMRI検査では,甲に見られたウェルニッケ脳症に特徴的な脳所見が消失
し,そのころまでには,臨床的にも意識状態は改善し,複視や歩行障害も改善した
から,甲が罹患したウェルニッケ脳症は,このビタミンB1の投与によって治癒し
たものである。
  (2) 甲に対しビタミンB1を補給せずに高カロリー輸液を投与したことについ
ての過失
  (原告らの主張)
   ア 本件当時,甲に投与された高カロリー輸液であるピーエヌツインを製造
した製薬会社は,その添付文書(能書)において,「ビタミンB1の経口摂取が不
能又は不十分な場合,患者の糖代謝を円滑に行うため,ビタミンB1を補給するこ
と」,「高カロリー輸液療法施行中にビタミンB1欠乏により重篤なアシドーシス
が起こることがあるので,適切な量のビタミンB1の投与を考慮すること」等の警
告情報を提供していたのであるから,被告病院の医師らは,これに従うべきであっ
た。
     また,本件当時,ビタミンB1を併用せずに高カロリー輸液を投与する
場合には,ウェルニッケ脳症が発現するおそれがあり,ビタミンB1の摂取,投与
によってこれを予防できることは,外科学の医学生向け教科書,高カロリー輸液の
マニュアル,高カロリー輸液施行時のウェルニッケ脳症に関する医学文献等におい
て広く報告されていた。厚生省も,平成3年と平成6年に,高カロリー輸液療法を
行う場合には適切な量のビタミンB1の投与と施行中の注意深い観察が重要である
ことを,医薬品副作用情報により注意喚起していた。被告病院の医師らは,このこ
とを十分認識していたか,あるいは認識すべきであった。
   イ 甲は,本件手術後,食事の経口摂取が可能となった後も食欲がなくて,
わずかな量しか摂取できず,ビタミンB1の摂取が十分ではない状態であったか
ら,被告病院の医師らは,甲に対して高カロリー輸液を投与する場合には,ビタミ
ンB1を併せて投与し,甲にウェルニッケ脳症が発症しないように万全の注意を払
う義務があったのに,これを怠り,甲にウェルニッケ脳症が発症した後の平成8年
10月29日まで,ビタミンB1を投与しなかった。
したがって,被告病院の医師らが甲に対し,高カロリー輸液の投与開始時からビタ
ミンB1を投与しなかったことには,過失がある。
   ウ また,平成8年10月18日に甲に吐き気,めまい,頭痛というウェル
ニッケ脳症の症状が現れた際,直ちに診断的治療としてビタミンB1の静脈内投与
を大量に行っていれば,症状の悪化を防止して改善を図ることができたにもかかわ
らず,被告病院の医師らは,10月29日にビタミンB1の投与を開始するまで,
何らの診断も治療も行わなかった。
     したがって,被告病院の医師らが甲に対し,少なくとも10月18日か
らビタミンB1を投与しなかったことには,早期診断,早期治療義務を怠った過失
がある。
  (被告の主張)
ア 高カロリー輸液療法とは,上大静脈にカテーテルを留置して,高濃度のブドウ
糖,アミノ酸,電解質などの混合液を輸液する方法であり,1日につき体重1キロ
グラムあたり35キロカロリーを投与する場合をいうものとされ,通常,ピーエヌ
ツイン1号,2号ともに,1日あたり2本が使用される。甲に投与された輸液は,
1日あたりピーエヌツイン1号又は2号が1本のみであり,1日の投与総カロリー
は最大でも840キロカロリーで,甲の体重1キログラムあたりに換算しても21
キロカロリーである。これは末梢血管から行う通常の輸液に相当するものであり,
高カロリー輸液療法に該当するものではない。
   高カロリー輸液を投与する場合に,必ずビタミンB1も投与すべきであると
する情報が,厚生省の医薬品副作用情報等により発せられるに至ったのは平成9年
であり,本件当時はそのような情報はなかった。
   イ 被告病院の医師らは,「高カロリー輸液療法施行中にビタミンB1欠乏
により重篤なアシドーシスが起こることがあるので,投与中は観察を十分に行い,
症状が現れた場合には適切な量のビタミンB1を投与するなど適切な処置を行うべ
きである」等の本件当時における厚生省からの情報等を十分に認識したうえで,甲
に対する高カロリー輸液の投与と経過観察を行った。
     すなわち,本件において甲に投与された高カロリー輸液は,カロリー数
ないし量的にも,あくまで経口摂取の補完としてされたものにすぎず,投与された
期間は合計14日間と比較的短期間であって,その期間中8日間は並行して食事の
経口摂取もされていたし,また,甲は病院食以外の食物を持ち込んで補食もしてい
た。医師らは,甲の経口摂取の状況やビタミンB1摂取の状況を見ながら輸液の投
与を調整していたのであり,ビタミンB1の補給に気を配らなかったものではな
い。
     また,医師らは,甲に生じた精神障害等の症状については,適切に検査
を行い,ウェルニッケ脳症の疑いが生じた平成8年10月29日からは,ビタミン
B1の投与をするなど適切な処置をとっていた。
     したがって,被告病院の医師らが甲に対し,高カロリー輸液の投与開始
時からビタミンB1を投与せず,経過観察を行っていたことをもって,過失があっ
たということはできない。
(3) 損害(原告らの主張)
甲は,高齢ではあっても,それまで歩行困難なところはなく,意識も清明であった
が,ウェルニッケ脳症に罹患したことにより,記憶喪失と記憶の蓄積ができない前
健忘症の状態,知能低下,歩行失調が後遺症として残り,日常生活に介護を要する
状態となった。
甲は,自己の人生のあかしともいえる記憶を失い,趣味や旅行などによって有意義
に余生を送る機会を喪失させられたのであり,これによって被った精神的苦痛を慰
謝するのに相当な額は,少なくとも800万円である。
第3 争点に対する判断
1 甲の症状に関する事実経過
前提となる事実に証拠(甲5,6,9,10,92,93,乙1,3,4,6,2
5,26,28,証人B医師,原告丁本人)を総合すると,以下の事実が認められ
る。
(1) 甲は,横浜市鶴見区所在のd診療所で,平成3年4月3日,本態性高血圧症の
診断を受けた。平成6年12月27日には,頭痛,動悸を主訴に受診し,平成7年
7月6日には,「今日は頭がモヤモヤする」と訴えて受診した。
甲は,平成8年3月18日,午前中のめまい,ふらふら感を訴えて受診したが,c
診療所では,神経的には問題ないものと診断した。翌19日にも,甲は「少しフラ
フラする」と訴えて受診し,d診療所では,脳動脈硬化症を疑って,脳循環改善薬
であるカラナロール錠を処方した。甲は,引き続き,4月9日,4月24日,5月
9日にd診療所で受診して,それぞれカラナロール錠を処方され,6月3日には,
めまいを訴えて受診し,カラナロール錠の処方を受けた。甲は,その後も,6月2
7日,7月18日,8月20日にd診療所で受診して,それぞれカラナロール錠の
処方を受けた。
被告病院に入院するまでに,甲はd診療所で,以上のとおり頭痛やめまい,ふらふ
ら感を訴えて受診し,継続的にカラナロール錠の処方を受けていたが,d診療所が
甲について,健忘症状や見当識障害が見られるという診断をしたことはなかった。
  (2) 被告病院に入院するまでの約6か月の間に,甲は,たびたび書道教室や老
人のための教養講座に通い,運転免許の更新を行い,妻のデパートでの買物にも同
行していた。また,甲は,孫の大学の卒業式に出席するため独りで電車に乗って大
学へ行ったり,旧友らと再会するため兵庫県明石市までの旅行をしたこともあっ
た。
    甲は,被告病院に入院するまでは,毎日,自分の生活や体調等について日
記を付けていた。この日記には,起床時刻,天気,気温,その日の行動とその時
刻,病院への通院の事実,病院で計測した血圧の数値,その日の体調や気持などが
細かく記載されている。この時期の日記には,現実と異なることが記載されること
はなかった。
  (3) 甲が入院した平成8年9月4日から11月17日までの被告病院における
病院食からのエネルギーとビタミンB1の摂取状況は,別紙「被告病院における甲
の病院食摂取状況一覧表」記載のとおりである(ただし,この一覧表の数値は経口
時における数値であって,実際に体内に吸収された数値ではない)。
    また,この時期に甲に対して投与された輸液の熱量は,同表記載のとおり
である(ピーエヌツインの輸液施行時には,並行して,1日につきポタコール1本
100キロカロリーが投与された)。
  (4) 甲には,被告病院入院後,平成8年10月19日ころに複視や歩行障害等
の症状が現れるまでは,健忘症状や見当識障害など,老年性痴呆を疑わせるような
症状は現れていなかった。
 甲は,歩行障害が生じてからは自力では歩けず,車いすが必要な状況になり,自
力での坐位の保持すら困難な状況となったが,11月6日にはベッドサイドにつか
まりながら立位の練習を始め,翌7日には歩行器を使用しての歩行練習を開始し
た。11月17日ころからは,甲は,介助を受けながら歩行する練習を始めたが,
11月26日ころもまだ歩行にふらつきがあり,介助がないと歩行できない状況で
あった。
  甲は,10月25日ころから仮面様の表情を呈し,ほとんど発語がなくなっ
て,問いかけに対する反応も,意味を理解しているのかが不明なほど明確でなくな
り,10月27日には意味の不明な発語をしたり,呻き声を発するようになった。
10月29日には問いかけに対して反応が出てくるようになり,11月3日には,
「息子はどこに行った」,「ありがとう」などの発語をするようになって,話す単
語も長くなり,意思の確認は可能になったが,11月9日ころに至っても自発語は
乏しかった。
  11月11日,甲は何か頭の中が変であったと訴え,話しかけると「にへに
へ」という感じで笑うなど,痴呆様の症状が現れるようになった。翌12日からは
大便の失禁をするようになり,時々意味不明な発語もあった。11月15日には家
人が甲の名前を書いて示しても,甲は困惑した様子を見せるだけで字が書けず,1
6日には,甲は時々「どこ行くの」,「ここどこ」という意味不明な質問をした
り,看護婦に対して「隣の息子さんかい」という質問をし,また,ナースコールが
あって看護婦が訪室したのに対し「呼んだかい」と言ったり,現在いる場所を聞か
れても答えられないということもあった。
  11月17日朝には,甲は隣のベッドで寝ていたがその訳を聞いてもはっきり
答えられず,また,夜には,ナースコールを押して家に帰ると言い出した。18日
には,甲は,子の名前や自分の名前が出てこなくなり,25日には,看護婦の言う
ことが分かったり分からなかったりという様子を見せた。26日には,甲の会話は
以前よりはスムーズになってきていたが,27日も痴呆様の症状は持続しており,
ナースコールを何回も押して「押してみたの」と言っていたり,28日には,電動
ベッドを作動させるいたずらをすることもあった。29日からは,被告病院を退院
する日まで,甲は数時間ごとに失禁を繰り返していた。
甲に生じた眼症状については,11月1日ころは,まだ視線が合わない状況であっ
たが,11月5日ころには,視線が合うようになり,改善が見られた。
  甲は,12月1日に被告病院を退院するころになっても,記憶が十分にでき
ず,歩行状態も跛行していて不自由な状態にあり,発語も乏しい状況であった。
  (5) 甲は,被告病院に入院した平成8年9月4日からも,引き続き日記を付け
ていた。甲は,入院した日のことを9月3日の欄から書き始めていたが,9月6日
の欄を書く際に,「どうしたことか日次が1日狂った」と記載して,日付が1日ず
れていることに気がついている。
    日記には,本件手術が施行された9月9日まで,1日の生活の様子や面会
者等についての記載がされている。手術後,甲は,9月29日から日記を付けるこ
とを再開し,1日の生活の様子,面会者やその面会時間,食べ物の差し入れ,食べ
物についての願望,天気などについて詳細な記載をしていたが,10月16日以後
は記載がされなくなった。
  (6) 被告病院から退院後,甲は自宅に戻った。退院後の甲は,発語に乏しく,
何にも興味を示さなくなり,無表情で,新たな記憶ができない状況であり,他人の
家にいるかのように態度は整然としていた。1か月が経過するころには,甲は日常
生活にも慣れ,家事も手伝うようになった。
    甲は,家族に勧められて,平成9年2月3日から,再び日記を書き始め
た。日記の2月5日の欄には「この2,3日すっかり頭が悪くなって,記憶など殆
ど出来なくなった。唯,話をするだけだ」との記載がされ,2月22日の欄には
「◇の方も人の状態がすっかり変ったようだ。いや,まわりが変ったのではなく自
分が気くるいして居るようだ。夕方になり自宅に帰る気になって家内に漏らすと,
家内はびっくりしたように自分はこちらに居るような話をする。よく見ればここは
自分の家に真ちがいない。随分とぼけたものだと驚いた」との記載がされている。
    このころ,甲は時々,仕事に行かなければなどと口にして,家族が説明す
ると正気に戻るということもあった。
  (7) 甲は,被告病院退院後,平成9年5月ころまで,被告病院のA医師が出向
いて診療を行っている日に合わせて,b病院で5回受診した。その際,甲は毎回,
A医師に対し,新たな記憶ができないこと,歩行に障害があることを訴えた。
(8) 平成9年3月18日早朝,甲が家族の寝ている間に独りで外出し,近所の人に
保護されるということがあったので,同日,甲は,妻と次女に付き添われ,A医師
からもらった紹介状を持参してc病院へ行き,精神科のE医師の診察を受けた。品
物を見せられて名前を答える検査に対し,甲は,時計,はさみ,くし等の言葉は比
較的スムーズに出たものの,栓抜きについては喚語に困難を生じ,当日の朝食内容
の質問に対しては,まったく事実と異なることを答えていた。スズメとトンボの似
ているところ,違うところを尋ねられると,似ているところは空を飛べること,違
うところは大きさとスピードが違うことと答えたが,ほかに,暗いところがだめな
のと,昼間飛べるものとが違うとも答えていた。
  3月25日に受診した際には,付き添った妻が,E医師に対し,甲は朝は他人
行儀で,夜になると「帰ります」と言ったりすること,何の脈絡もなく,かつて役
員をしていたころの話を始めること,妻に対して「どこのお姐さん」と言うことも
あることを説明した。
  4月8日の受診では,甲は,当日の日付は答えられた。付き添った妻と次女
は,E医師に対し,甲の反応が少々早くなり,変なことを言うのも少なくなってき
たが,足取りがおぼつかなくなっていると説明した。5月6日の受診の際には,次
女が,記憶については相変わらず良好な状態といえないが,むしろ歩行がふらつき
気味であり,口数が少なく,情意が鈍麻していると説明した。
  甲は,6月3日にもc病院で受診したが,その後は,E医師から紹介を受けた
横浜市鶴見区所在のeクリニックの神経内科に一本化して,受診するようになっ
た。
  (9) 平成9年5月10日以降,死亡する平成11年10月22日までの間,甲
はeクリニックに継続して通院し,あるいは,家族が病状の報告をして,その期間
中,失調性の歩行障害(ふらつき),記憶障害(物忘れがひどい)や,住所や孫の
名前が分からないことを訴えていた。平成9年5月の受診初期のころには,甲には
構音障害も現れていた。
    eクリニックでは,平成9年5月21日,平成10年2月2日,平成11
年7月26日の3回,甲の頭部MRI検査を実施して,いずれの回も脳萎縮との診
断をした。eクリニックでは,また,平成9年7月10日に甲の脳波検査を実施
し,脳波に異常があって,ウェルニッケ脳症とは矛盾しないとの診断をした。
 2 ウェルニッケ脳症とビタミンB1
前提となる事実に証拠(甲15,19,20,32,37,39,40,41,4
2,45,47,48,50,53,69,71,72,81,82,89の5,
乙18,19,22,証人C医師,D医師)を総合すると,以下の事実が認められ
る。
(1) ウェルニッケ脳症とは,ビタミンB1(チアミン)欠乏により生じる最も重要
な中枢神経障害である。
  ビタミンB1欠乏の要因としては,摂取不足をきたす慢性アルコール中毒,慢
性消化器疾患,悪性疾患,重症感染症,妊娠悪阻,高カロリー輸液等が挙げられ
る。これらの状況においては,一般に全身状態が不良で低栄養状態に陥りやすく,
持続性嘔吐に伴い絶対的なビタミンB1の摂取不足になり,ブドウ糖を中心とする
炭水化物負荷によりビタミンB1の過剰消費をきたすため,それがビタミンB1欠
乏の原因になると考えられている。特に,ビタミンB1は糖代謝,アミノ酸代謝に
関与し,高カロリー輸液など糖質投与量が多い場合にはその必要量が増加するた
め,ビタミンB1の欠乏が生じやすい。ビタミンB1の低下をもたらすものはすべ
て,ウェルニッケ脳症を起こしうると考えられている。
(2) ウェルニッケ脳症は,定型的には眼球運動障害,運動失調,意識障害の3主徴
が急激に発症するが,これらの3主徴は常にすべてが見られるとは限らず,発症も
突然のものから数日にわたって進行するものまで様々である。
  眼球運動障害は最も重要な徴候であり,水平性ないし垂直性眼振,共同注視障
害,複視を伴う外転筋麻痺が生じる。運動失調は,歩行障害が主であり,重症のも
のは起立が不能となり,軽症例では継ぎ足歩行で初めて認められるものもある。
  意識障害は,無欲様で,集中力に欠け,周囲に無関心という症状で現れてく
る。自発語は少なく,問いかけに対して応答しないか,答えかけても途中で眠り込
んでしまうというように,傾眠がちであることが多い。また,時間や空間に対する
見当識が失われることもある。そして,ウェルニッケ脳症の80パーセントが,ウ
ェルニッケ・コルサコフ症候群に移行する。
  ウェルニッケ・コルサコフ症候群に移行すると,症状として,見当識障害,健
忘症状,しばしば短期記憶の障害やそれに伴う作話,自発性の低下が見られるよう
になるが,作話は常に認められるとは限らない。また,それ以外に認識能力の低
下,概念形成の低下,構音障害が見られることもある。ウェルニッケ・コルサコフ
症候群は,早期に診断し治療すれば,それだけ予後はよく,ビタミンB1投与によ
り,投与後数時間から数日で改善効果が現れる。しかし,記憶力障害は,いったん
完成すると完全に治癒するのは5分の1以下である。そして,ビタミンB1を投与
して意識障害が改善すると,記憶力障害がかえって顕著になることがある。ウェル
ニッケ・コルサコフ症候群に罹患した患者については,改訂長谷川式簡易知能評価
スケールにおいて20点未満の低成績(痴呆)が見られる場合もある。
(3) 本件当時に適用されていたピーエヌツインの添付文書(能書)には,「使用上
の注意」の中で,「一般的注意」として「高カロリー輸液療法施行中にビタミンB
1欠乏により重篤なアシドーシスが起こることがあるので,適切な量のビタミンB
1の投与を考慮すること」との記載がされ,「適用上の注意」として,投与時には
「ビタミンB1の経口摂取が不能又は不十分な場合,患者の糖代謝を円滑に行うた
め,ビタミンB1を補給すること」との記載がされていた。
(4) ビタミンB1は,エネルギー代謝や糖代謝に関与する補酵素として役割を果た
す。ビタミンは生体に必要不可欠なものであるが,生体内では合成されないので,
体外からの摂取が必要である。また,体外から摂取したとしても,常時尿中に排泄
されて,体内には蓄積されない。ビタミンB1の体内貯蔵量は25ないし30ミリ
グラムであり,まったく摂取されない場合には18日間で枯渇する。さらに,栄養
管理中の患者にビタミンをまったく投与しないと,症例によっては開始後7日目こ
ろからビタミン欠乏症状が生じることもある。
  ビタミンB1の所要量(経口摂取の場合の計算方法であり,通常の栄養管理の
場合にはこの数字が用いられる)は,1日あたり1ないし2ミリグラム,又は10
00キロカロリーごとに0.4ミリグラムか0.5ミリグラムであるといわれてい
る。ヒトが生命を維持するために必要なカロリー数は,1日に約1000キロカロ
リーであり,その日に摂取されたカロリー数がこれに満たない場合にも体内に備蓄
された糖質,脂肪,タンパク質を分解して不足分を補う。このような糖質の分解の
際にも,ビタミンB1を必要とするから,1日に最低限,約1000キロカロリー
を消費するためのビタミンB1が補給されている必要がある。特に高齢者について
は,単位摂取カロリーあたりのビタミンB1必要量は増加するといわれている。
(5) 高カロリー輸液の施行が発生原因になったと推定されるウェルニッケ脳症の報
告例について,輸液の開始からウェルニッケ脳症の発症までの期間をみると,2日
間から8か月間までと様々であるが,その相当数は1か月以内に発症しており,2
週間以内の発症の事例も少なくない。
 3 争点(1)(被告病院での治療行為と甲に生じた脳障害との因果関係)につい 
 て
(1) 前提となる事実と以上に認定した事実によれば,ウェルニッケ脳症はビタミン
B1の欠乏により生じる中枢神経障害であり,高カロリー輸液など糖質投与量が多
い場合にはその必要量が増加するため,ビタミンB1の欠乏が生じやすいところ,
本件手術日である平成8年9月9日から高カロリー輸液を投与した最後の日である
10月10日までの32日間のうち,9月9日から17日まで,9月22日から2
4日まで,9月30日から10月3日までと,10月5日の計17日間は,ビタミ
ンB1の病院食による経口摂取は皆無であり,そのほかの日についても,ビタミン
B1の所要量を満足している日は,1000キロカロリーあたり0.4ミリグラムと
いう数値を採ったとして,わずか1日にすぎず,甲は,慢性的にビタミンB1の欠
乏状態にあったということができる。
  ビタミンB1は体内貯蔵量が25ないし30ミリグラムであり,まったく摂取
されなければ18日間で枯渇するのであるが,前記の32日間のうち,高カロリー
輸液を投与した日は計14日間であり,B医師らは甲に対し,その間はビタミンB
1を補給しなかった。高カロリー輸液の投与終了から9日後の10月19日ころ,
甲にウェルニッケ脳症が発症したが,この9日間のうち,病院食によるビタミンB
1の経口摂取によってその所要量を満足している日は2日だけであり,ビタミンB
1の経口摂取が皆無の日も1日ある。
  そして,高カロリー輸液の施行期間が2週間程度であっても,それによってウ
ェルニッケ脳症が発症する事例も少なくないというのであるから,これらの事実を
総合すると,甲に発症したウェルニッケ脳症は,B医師らが甲に対し,ビタミンB
1を補給することなく高カロリー輸液を投与したことによって生じたものと認める
ことができる。
  被告病院での治療行為と甲のウェルニッケ脳症の発症との間には,因果関係が
ある。
  (2) 前提となる事実と前記の認定事実によれば,ウェルニッケ脳症においては
眼球運動障害,運動失調(特に歩行障害),意識障害(傾眠傾向,時間と空間に対
する見当識障害)が3主徴であり,その80パーセントがウェルニッケ・コルサコ
フ症候群に移行し,その症状として,見当識障害,健忘症状,短期記憶の障害,自
発性の低下,構音障害,認識能力の低下,概念形成の低下等が見られるところ,甲
にも,ウェルニッケ脳症の発症のころから,複視などの眼症状や歩行障害が現れる
ようになり,平成8年10月23日前後には傾眠傾向,自発性低下,発語の減少等
の意識障害が現れて,ふらつき等の失調性の歩行障害や自発語の乏しさは甲が死亡
するまで持続していた。11月16日には,甲は自分のいる場所も分からず,空間
に対する見当識障害が生じて,少なくとも翌年3月ころまではその症状が続いてい
る。
    甲の記憶障害については,被告病院を退院するころにも短期記憶の保持が
十分でない状況にあったが,退院後も短期記憶に障害が残り(甲もそれを自覚して
いた),物忘れが激しいという記憶障害は甲が死亡するまで続いていたのであり,
eクリニックでの平成9年5月の受診初期には構音障害も見られ,7月の脳波検査
では,ウェルニッケ脳症と矛盾しないとの診断がされている。
    そして,ウェルニッケ・コルサコフ症候群の症状の1つである記憶力障害
は,ビタミンB1投与による治療をしても,いったん完成すると完全に治癒するの
は5分の1以下と確率が低いというのであるから,これらの事実を総合すると,甲
に生じた脳障害は,ウェルニッケ脳症によるものと認めるのが合理的である。
したがって,被告病院での治療行為と甲に生じた脳障害との間には,因果関係があ
ると認めることができる。
  (3) これに対して,被告は,甲は被告病院入院前から既に老年性痴呆に罹患し
ていたと主張する。
 証拠(甲8,乙5,24,証人C医師,D医師)によれば,老年性痴呆は次のよ
うなものであると認められる。すなわち,老年性痴呆は,速度が遅いものの進行性
であり,老年性痴呆で死亡に至るまでの全経過は数年であることが多い。老年性痴
呆は一般に全経過を3期の病期に分けて説明される。初期(Ⅰ期)には健忘症状等
の記憶障害,判断力の低下,軽度な全般性痴呆症状,感情や意欲面の障害を主とす
る人格変化が見られる。中期(Ⅱ期)には記憶障害が顕著となり,見当識障害,失
認(認識障害),失行(行為障害),失語などの高次機能障害が出現し,神経症状
も顕在化する。末期(Ⅲ期)には高度の人格崩壊状態に至る。老年性痴呆は,心理
的負担や環境の変化により病状が大きく進むこともある。
    しかし,甲が入院前から既に老年性痴呆に罹患していたものと認めるべき
証拠はない。
    むしろ,前記の認定事実によれば,甲は,d診療所で,平成6年ころから
時々,頭痛や頭のもやもや感を訴えて受診し,平成8年3月ころからは,めまい,
ふらふら感を訴えて受診していたが,神経的には問題がないものと診断され,d診
療所が甲について健忘症状や見当識障害が見られるという診断をしたことはなかっ
た。甲は,本件手術前まで毎日日記を付けており,その日の経験に基づくことを詳
細に記載していたのであって,これは健常者でなければ期待できない作業というこ
とができるし,入院までの6か月間には,書道教室や教養講座に通い,運転免許を
更新し,旅行に行くなど,単純な日常生活を超えるようなことも行っていた。入院
後,高カロリー輸液を投与するまでの間も,被告病院の医師らが甲について,健忘
症状や見当識障害など老年性痴呆を疑わせるような症状を認めることはなかったの
である。
もっとも,甲は入院後の日記において,入院した日のことを9月3日の欄から書き
始めているが,入院後の日記はそれまでとは別の手帳に記載するようになったもの
であり,9月3日以前の欄は空白であったから(甲6),誤って1日ずらして書き
始めることがあっても不自然ではなく,3日後には日付がずれていることに自ら気
づいているのであるから,このことをもって,甲に時間に関する見当識障害が生じ
ていたものと認めることはできない。
  (4) また,被告は,甲に発症したウェルニッケ脳症はビタミンB1の投与によ
り治癒したと主張する。
    前提となる事実のとおり,頭部MRI検査による脳の画像診断では,平成
8年10月28日に見られた脳の病巣は,ビタミンB1投与後の11月25日には
ほぼ消失している。
しかし,前記の認定事実によれば,甲に発症した歩行障害や記憶障害は被告病院か
らの退院前後を通して持続しており,自発語が不十分な状態は退院後も持続してい
るのであって,証拠(証人C医師,D医師)によれば,MRIの検査結果では改善
しても症状が改善しない場合もあることが認められるから,これらによれば,甲に
発症したウェルニッケ脳症が治癒したものと認めることはできない。
  (5) さらに,被告は,被告病院退院後の甲の症状は老年性痴呆であるとも主張
する。
 しかし,甲に生じていた歩行障害,記憶障害(特に短期記憶の障害)や,空間に
対する見当識障害は,老年性痴呆だけではなく,ウェルニッケ脳症やウェルニッ
ケ・コルサコフ症候群にも当てはまる症状であり,これらの甲の症状は,ウェルニ
ッケ脳症に罹患してからおおむね1か月半以内に発症している。前記のとおり,老
年性痴呆は進行性ではあるが,その進行速度は遅く,甲が入院前から既に老年性痴
呆に罹患していたとは認められないのであるから,入院による環境変化という作用
が甲に働いたと仮定しても,これらの症状の発症はあまりに急激であり,老年性痴
呆と考えることには無理がある。
 D医師の意見(乙5,24,証人D医師)は,甲に発症した脳障害等の症状は老
年性痴呆である可能性が高いというものであるが,本件手術前から甲が既に老年性
痴呆に罹患していたことを前提とするものであるから,採用することはできない。
 また,前提となる事実のとおり,甲は平成9年3月18日にc病院で老年性痴呆
であるとの診断を受けた。c病院のE医師は,平成11年1月26日にも同様の診
断をし,その理由を,記憶障害,見当識障害などが認められ,長谷川式簡易知能評
価スケールでは14点の痴呆状態にあって,ウェルニッケ脳症の可能性も推測でき
たが,改善傾向が見られたことも総合して老年性痴呆と診断したと説明している
(乙4)。しかし,前記のとおり,ウェルニッケ脳症が治癒したわけではないか
ら,改善傾向をもってウェルニッケ脳症を否定することはできないし,E医師から
老年性痴呆の患者として甲を紹介されたeクリニックでは(乙4),平成9年7月
10日に脳波検査を実施して,ウェルニッケ脳症とは矛盾しないとの診断をしてい
るのであるから,E医師の診断をもって,甲の退院後の甲の症状が老年性痴呆によ
るものと認めることはできない。
 なお,前記認定のとおり,平成9年5月21日以降,甲はeクリニックで脳萎縮
との診断を受けているが,これも,甲の脳障害がウェルニッケ脳症によるものであ
るとの判断を覆すものではない。作話も,ウェルニッケ・コルサコフ症候群に必ず
出現するものではない。
 4 争点(2)(甲に対しビタミンB1を補給せずに高カロリー輸液を投与したこと
についての過失)について
 (1) 医薬品の添付文書(能書)の記載事項は,その医薬品の副作用等の危険性に
ついて最も高度な情報を持っている製造業者又は輸入販売業者が,投与を受ける患
者の安全を確保するために,これを使用する医師等に対して必要な情報を提供する
目的で記載するものであるから,医師が医薬品を使用するにあたって添付文書に記
載された使用上の注意事項に従わず,それによって投与を受けた患者に医療事故が
発生した場合には,注意事項に従わなかったことについて特に合理的な理由がない
限り,診療契約上,医師の過失が推定されるというべきである。
 (2) 前記の認定事実によれば,ピーエヌツインの添付文書には,使用上の注意事
項の記載の中に,一般的注意として「高カロリー輸液療法施行中にビタミンB1欠
乏により重篤なアシドーシスが起こることがあるので,適切な量のビタミンB1の
投与を考慮すること」との記載がされ,適用上の注意として,投与時には「ビタミ
ンB1の経口摂取が不能又は不十分な場合,患者の糖代謝を円滑に行うため,ビタ
ミンB1を補給すること」との記載がされていたのであり,また,医学的知見とし
て,ビタミンB1の低下をもたらすものはすべて,ウェルニッケ脳症を起こしうる
というのである。
   したがって,これらの注意事項の記載は,ピーエヌツインを使用した高カロ
リー輸液の施行によってビタミンB1の欠乏が生じるので,ウェルニッケ脳症を含
めて,ビタミンB1の欠乏に起因する疾患の発症を防止するために,ビタミンB1
の経口摂取ができないか,又は十分でない場合にはビタミンB1を補給すべきであ
ることを,添付文書によって指示していたものというべきである。
   そして,前記のとおり,本件手術日である平成8年9月9日からピーエヌツ
インを投与した最終日である10月10日までの32日間のうち,甲が1日のビタ
ミンB1所要量(0.4ミリグラム)に足りるビタミンB1を病院食の経口摂取によ
って実現した日はわずか1日にすぎず,反対に,そのうち17日間は病院食による
ビタミンB1の経口摂取は皆無であったから,被告病院の医師らは,この高カロリ
ー輸液の投与時,甲のビタミンB1の経口摂取が不十分なことを認識することがで
きた。
   したがって,被告病院の医師らには,甲に対して高カロリー輸液を投与する
際には,添付文書に記載された使用上の注意事項の指示するところに従って,適切
な量のビタミンB1を補給すべき注意義務があったというべきであるにもかかわら
ず,B医師らはこれに従わず,前記のとおり,輸液の施行中ビタミンB1の補給を
まったくしなかったのであるから,この点において診療契約上の過失がある。
 (3) これに対して,被告は,添付文書にいう高カロリー輸液療法とは,1日につ
き体重1キログラムあたり35キロカロリーを投与する場合を指すものであり,甲
に対するピーエヌツインの投与は高カロリー輸液療法に該当しないと主張する。
しかし,証拠によっても,ビタミンB1を補給すべきかどうかを区別する基準とし
て「高カロリー輸液療法」という用語を使用し,投与カロリー量によってその用語
の定義をしているものはなく,ピーエヌツインなどの高カロリー輸液を使用する治
療法の中に,患者のビタミンB1の経口摂取の状況にかかわらず,ビタミンB1の
並行投与の必要のないものが存在することを認めるものもない。添付文書の注意事
項の記載は,ピーエヌツインを使用するときは,その投与によってビタミンB1の
欠乏に起因する疾患が発症することのないよう,経口摂取の状況に応じてビタミン
B1を補給すべきことを指示しているものと理解すべきである。
 (4) この点について,厚生省薬務局発行の医薬品副作用情報には,次のような記
載がされている。
  ア 平成5年11月発行の医薬品副作用情報123号には,高カロリー輸液用
製剤にはビタミンはまったく配合されていないから,高カロリー輸液療法を行う際
には患者の状態に応じて,ビタミン等の投与量を調整する必要があること,アシド
ーシスを起こした場合には,直ちに高カロリー輸液を中止して,その治療に努め,
無効の場合にはビタミンB1の投与を行うべきことが記載されている(乙14)。
  イ 平成6年10月発行の医薬品副作用情報128号には,高カロリー輸液用
製剤にはビタミンは配合されていないから,高カロリー輸液療法を施行する際には
患者の状態に応じて,ビタミン等の投与量を調整する必要があることのほか,具体
的注意点として,ビタミンB1がまったく投与されずにアシドーシスが発現してい
る症例が多いとしたうえで,高カロリー輸液療法の施行にあたっては適切な量のビ
タミンB1の投与を行うべきこと,施行中は患者の状態の変化を注意深く観察し,
アシドーシスが起こった場合には直ちに投与を中止して,ビタミンB1の急速投与
を行うべきことが記載されている(甲87,乙15)。
   これらの情報は,高カロリー輸液を投与する際に,どのような場合でも必ず
ビタミンB1を補給すべきであるというものではないが,アシドーシスに限定した
情報とみるべきでもない。高カロリー輸液用製剤にはビタミンが配合されていない
ことについて改めて注意を喚起したうえで,高カロリー輸液を投与する際には患者
の状態に応じて,ビタミンB1を補給する必要があることを指摘するものというべ
きである。
  (5) 被告は,甲が病院食以外の食物も補食していたから,その経口摂取の状況
も見ながら輸液の投与を調整していたと主張する。
   しかし,証拠(甲6,乙1)によれば,本件手術日である平成8年9月9日
から最後に高カロリー輸液を投与した10月10日までの期間で見ると,甲が病院
食以外に経口摂取したことが認められるのは,9月24日のあめ玉4個,9月28
日の手製ののり巻き1,2個,かんぴょう巻き15個,9月29日のぶどう,かん
ぴょう巻き5個,10月9日の焼き栗3個,10月10日の差し入れの巻き寿司な
ど4個である。病院食以外の食物を摂取したのは,日数にしてわずか5日であり,
その量も多いものではないから,これらの摂取をもって,病院食で十分に経口摂取
できなかったビタミンB1を補っていたとは評価できない。
   そして,ほかには,被告病院の医師らが甲に対し,高カロリー輸液を投与す
る際にビタミンB1を補給しなかったことについて,特に合理的な理由があったと
認めるべき証拠はない。
5 争点(3)(損害)について
 甲は,81歳という高齢ではあったが,被告病院へ入院するまでは,明確な意思
を持って充実した日々を送っていたことが,その日記の記載から十分にうかがうこ
とができる(甲5)。ところが,被告病院での配慮を欠いた治療行為によってウェ
ルニッケ脳症を発症し,それにより記憶障害,歩行障害,自発性の低下等の後遺症
が残存した。以後,本件訴訟中に84歳で死亡するに至るまで,人生の締めくくり
ともいうべき余生において,人間らしい質を伴った生活を送ることができなくなっ
たのであり,甲が多大な精神的苦痛を被ったことは明らかである。
 このような甲の精神的苦痛を慰謝するに足りる金額としては,800万円を認め
るのが相当である。したがって,甲の死亡により,妻である原告乙が400万円,
子である原告丙と原告丁がそれぞれ200万円の慰謝料請求権を相続した。
第4 結論
  以上によれば,原告らの請求は理由がある。なお,仮執行の宣言は,必要がな
いので付さないこととする。
   東京地方裁判所民事第35部
          裁判長裁判官     片山良広
             裁判官     福島政幸
            裁判官     岡田紀彦

(別紙)被告病院における甲の病院食摂取状況一覧表
エネルギービタミンB1
日付給与量摂取量摂取割給与量摂取量摂取割輸液熱量
(キロ㌍)(キロ㌍)合(%)(ミリ㌘)(ミリ㌘)合(%)(キロ㌍)
9月4日6926921000.340.34100------
5日6796791000.180.18100------
6日9249241000.510.51100------
7日9249241000.510.51100------
8日9109101000.510.51100------
9日------------------------0------400
10日------------------------0------300
11日------------------------0------300
12日------------------------0------300
13日------------------------0------300
14日------------------------0------300
15日------------------------0------300
16日------------------------0------300
17日------------------------0------300
18日679432640.340.2676300
19日964193200.740.0811300
20日1087240220.710.1217300
21日853501590.570.3358300
22日------------------------0------660
23日------------------------0------660
24日------------------------0------660
25日679109160.340.0515660
26日9222830.510.036940
27日822330400.670.3146300
28日964321330.670.2131100
29日1799812450.960.4143100
30日------------------------0------350
10月1日------------------------0------350
2日------------------------0------660
3日------------------------0------660
4日67968100.340.0412940
5日924000.5100940
6日11846760.690.046940
7日2154220101.290.086940
8日2104458221.390.3626940
9日2017247121.580.149940
10日233614360.980.066940
11日903177201.300.2822100
12日1574001.3000100
13日166310661.120.098400
14日1551471300.870.2832100
15日1665668400.970.5759100

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