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平成21年第1651号損害賠償請求事件(医療)
口頭弁論終結日平成23年7月27日
判決
主文
1被告は,原告Aに対し,950万円及びこれに対する平成21年6月25日
から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2被告は,原告Bに対し,625万円及びこれに対する平成21年6月25日
から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3被告は,原告Cに対し,350万円及びこれに対する平成21年6月25日
から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
4原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
5訴訟費用は,これを10分し,その3を原告らの負担とし,その余を被告の
負担とする。
6この判決は,第1項から第3項まで及び第5項に限り,仮に執行することが
できる。
事実及び理由
第1請求
1被告は,原告Aに対し,1357万円及びこれに対する平成21年6月25
日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2被告は,原告Bに対し,900万円及びこれに対する同日から支払済みまで
年5分の割合による金員を支払え。
3被告は,原告Cに対し,600万円及びこれに対する同日から支払済みまで
年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は,被告の開設する青葉病院に入院していた亡Dが,平成20年11月6
日,同病院の浴室において,全身の熱傷を負い意識不明の状態で発見され,その
後死亡したのは(以下「本件事故」という。),同病院の担当看護師が同人を介
助なしで入浴させた,浴室の使用方法等を説明しなかった,看視を怠った,被告
病院の院長が入浴における安全対策の構築等を怠ったなどの過失(債務不履行責
任に基づく請求においては安全配慮義務違反をいう。以下同じ。)によると主張
して,被告に対し,選択的に,不法行為(使用者責任)又は債務不履行による損
害賠償の支払を求める事案である。
1前提事実(当事者間に争いのない事実,当事者が争うことを明らかにしない
事実,当裁判所に顕著な事実及び各項末尾に掲記の各証拠により容易に認めら
れる事実。以下,特に記載のない限り,平成20年の出来事を示す。)
当事者等
ア亡Dは,昭和4年9月18日生まれの女性であり,平成20年11月7
日に死亡した(当時79歳。甲C1の6)。
イ原告Aは亡Dの夫,原告B及び原告Cは亡Dの子であり,亡Dに他に相
続人はいない(甲C1の5)。
ウ被告は,千葉市立青葉病院(以下「被告病院」という。)を開設する地
方公共団体であり,病院局を設置して同病院を管理運営している。
エEは,本件事故当時,被告に雇用され,被告病院の院長の地位にあった。
オFは,本件事故当時,被告に雇用され,被告病院に勤務する看護師であ
った。
亡Dの死亡に至る経緯
ア亡Dは,10月20日,被告病院を訪れて同病院に勤務するG医師の診
察を受け,両変形性膝関節症と診断された。
イ亡Dは,10月31日,上記疾病の手術と術後のリハビリを目的として,
被告病院に入院し(以下「本件入院」という。),もって,亡Dと被告と
の間には,亡Dの両変形性膝関節症の治療に係る診療契約が成立した。手
術日は11月7日,退院は12月中旬の予定であった。
ウ亡Dは,11月6日の午前中,被告病院の病棟担当看護師から,同日午
後2時に入浴するように指示を受けたが,上記担当看護師を含む担当者か
らは,浴室内の設備その他入浴に関し,具体的な説明や注意はなかった。
エF看護師は,同日午後2時頃,亡Dを被告病院内の小浴室(以下「本件
小浴室」という。)まで連れて行き,その際,亡Dに対し,「何かあった
らナースコールを押すこと。鍵を閉めないように。」と言ったが,それ以
外の注意や説明はせず,亡Dは本件小浴室において1人で入浴した(以下
「本件入浴」という。)。
オF看護師は,同日午後2時35分頃(被告主張)又は40分過ぎ(原告
ら主張),本件小浴室に入り,同室内の浴槽(以下「本件浴槽」とい
う。)内で,全身に熱傷を負い,浴槽にもたれかかるような形で意識を失
っている亡Dを発見した。亡Dは,この時,頭と顔以外の身体の90パー
セントに熱傷を負い(以下「本件熱傷」という。),心肺停止,意識不明
の状態であった。
カ亡Dが発見された時,本件小浴室の洗い場の混合水栓(以下「本件洗い
場混合水栓」という。)は閉まったままであった。シャワーも高い位置に
留められたままで,使用された形跡はなかった。
本件浴槽の給水栓は閉まったままであったが,給湯栓は開いており,蛇
口から55ないし56度の湯が注ぎ込まれている状態であった。
本件浴槽底の排水栓は開いたままであったが,亡Dの体が本件浴槽底の
排水口をふさいでいたため,本件浴槽内には20センチメートルないし3
0センチメートルの深さで湯が溜まっていた。
キ亡Dは,被告病院において治療を受けたが,11月7日午前4時46分,
死亡した。
被告病院における入院患者の入浴方法の概要
ア被告病院では,入院患者が使用する入浴施設として介助浴室(特殊浴
室)と本件小浴室(一般浴室)が設置されている。
介助浴室は,ストレッチシャワーとシャワーいすを使用してのシャワ
ー浴場であり,入浴には看護師の介助が必要とされている。
本件小浴室は,本件浴槽と洗い場がある。
本件洗い場混合水栓は,水温調節のハンドルを回して湯と水の混合割
合を調節することにより蛇口から流出する湯温を調節する混合栓タイプ
の蛇口が(別紙1写真-2),本件浴槽には,湯と水の量を別々に調節
して湯温を調節する混合栓タイプの蛇口が設置されている(別紙1写真
-4。以下「本件浴槽水栓」という。)。本件浴槽水栓は,給湯栓を左
に回すと55ないし56度の湯が出るように調節されていた。
イ被告病院には,入院患者の入浴についての基準ないしマニュアルはない。
熱傷に関する医学的知見等
ア熱傷深度分類(甲B12)
熱傷の深度は,Ⅰ度熱傷(EB),浅達性Ⅱ度熱傷(SDB),深達性
Ⅱ度熱傷(DDB),Ⅲ度熱傷(DB)に分類され,Ⅲ度熱傷が最も重症
である。
イArtzの熱傷重症度指標(甲B12)
軽症熱傷
外来治療可能。Ⅱ度熱傷15パーセント未満,Ⅲ度熱傷2パーセント
未満。
中等度熱傷
一般病院で入院治療を要する。Ⅱ度熱傷15ないし30パーセント,
Ⅲ度熱傷10パーセント未満(顔面,手,足以外)。
重症熱傷
総合病院での治療を要する。Ⅱ度熱傷30パーセント以上,Ⅲ度熱傷
10パーセント以上。顔面,手,足のⅢ度熱傷,気道熱傷が疑われる,
軟部組織の損傷や骨折を伴う,電撃傷。
ウ熱傷重症度の判定基準等(甲B2)
熱傷指数(BI)
熱傷指数は,「Ⅲ度熱傷面積+Ⅱ度熱傷面積×0.5」の計算から求
められる指標である。
熱傷による死亡率は,重症になるに従って増加する。熱傷治療マニュ
アル(甲B2)に示された統計によれば,BIが10未満では死亡率が
3.3パーセント,BIが20台では死亡率が27.5パーセント,B
Iが30台では死亡率が43.3パーセント,40台では死亡率が62.
6パーセントであり,BIが60台では死亡率が86パーセントであっ
た。
熱傷予後指数(PBI)
熱傷予後指数は,「熱傷指数(BI)+年齢」の計算から求められる
指標であり,熱傷の重症度を臨床的にかなり正確に反映する数値といわ
れている。
熱傷治療マニュアル(甲B2)に示された統計によれば,PBIが6
0台までは死亡率は10パーセント未満であったが,PBIが70台で
死亡率は10.3パーセント,80台で死亡率21.5パーセント,9
0台で死亡率39.4パーセントであった。PBIが100を超えると
死亡率は68.3パーセントとなり,PBIが120以上では死亡率は
90パーセントを超えていた。
2争点
過失
ア介助を付すべき注意義務違反(F看護師その他の被告病院の担当看護師
について,本件入浴の際,亡Dの介助をしなかった過失があるか)(争点
①)
イ浴室設備等説明義務違反(F看護師その他の被告病院の担当看護師につ
いて,亡Dの本件入浴に先立ち,同人に対し,浴室の設備の危険性に関す
る注意及び使用方法に関する説明をしなかった過失があるか)(争点②)
ウ入浴準備等義務違反(F看護師について,亡Dの本件入浴に先立ち,浴
槽に適温の湯を溜め,それを確認しなかった過失があるか)(争点③)
エ入浴看視義務違反(F看護師について,亡Dが本件小浴室に入ってから
約40分間,亡Dの状況について看視等をしなかった過失があるか)(争
点④)
オ安全管理態勢構築義務違反(E院長について,患者の入浴に関する看護
基準を作成して安全管理態勢を構築すべき義務を怠った過失があるか)
(争点⑤)
因果関係
被告側の過失と亡Dの死亡との因果関係(争点⑥)
損害(争点⑦)
3争点に関する当事者の主張
争点①(介助を付すべき注意義務違反)について
(原告らの主張)
ア亡Dは,当時79歳の老齢であり,両変形性膝関節症の手術のために被
告病院に入院した患者であった。初診時に亡Dを診療したG医師は,亡D
が40年前から両膝関節痛を患い,2,3年前から特に痛みが強くなり,
最近は歩行も困難となり這って移動しているとの情報を得ていた。看護記
録の共通情報にも,亡Dが最近では歩行することも少なく,トイレなど伝
え歩きしている状態となり,10月20日に被告病院を受診したことが記
載されており,被告病院の病棟担当看護師らも,入院後の短時間の観察で,
亡Dの歩行に跛行があることを確認していた。また,亡Dが入院の際に提
出した「入院されます方にお願い」でも,自分ができない動作として「浴
槽に入る」を申告していた。
イまた,被告病院の病棟担当看護師らは,少しでも事情聴取等をしておけ
ば,亡Dは,平成18年11月5日の喜寿祝いの時には,送迎用マイクロ
バスのステップに上がることもできなくなり,平成20年6月頃からは自
宅の風呂でも浴槽には入れず,洗い場で蛇口から湯を出して体を洗うだけ
であり,シャワーを使っていなかったこと,亡Dの自宅の風呂の洗い場の
混合水栓は,本件小浴室とは異なり,給湯温度が39度に保たれていて,
亡Dが給湯栓と給水栓の両方を使用して温度を調節する経験はなかったこ
と,亡Dが入浴している時は,原告Bの妻であるHが浴室のすぐ前の台所
にいて,浴室内の状況に配慮をしていたことを容易に知ることができた。
ウ以上の事情を総合すれば,F看護師その他の被告病院の病棟担当看護師
ら(以下「担当看護師ら」という。)は,亡Dを本件小浴室で入浴させる
際,医師の判断を仰ぎ,十分な調査や配慮をして介助を付すべき義務があ
った。しかし,担当看護師らは,これを怠り,本件入浴について医師の判
断を仰ぐことなく,自宅浴槽の設備などについて十分な調査をしないまま
介助の必要がないと判断し,本件入浴の際に介助を付さなかった。
(被告の主張)
争う。
被告病院では,亡Dが入院中,跛行はあるもののふらつきや膝折れ等が見
られなかったことや,自宅においても1人で入浴していたことなどを聴取し
た上で,本件小浴室への介助なし入浴を決定しており,調査,入浴の決定に
は問題はない。
争点②(浴室設備等説明義務違反)について
(原告らの主張)
本件事故当時,本件浴槽水栓の給湯栓を開くと55ないし56度の熱い湯
が出るように設定されていたこと,本件小浴室の設備と亡Dの自宅の風呂の
設備には大きな相違があったこと,亡Dは高齢で機械器具の操作が苦手であ
ったことからすれば,F看護師は,亡Dに対し,浴室設備の使用方法の具体
的説明や熱湯による危険に対する注意をすべき義務があった。
しかし,F看護師は,これを怠り,何かあったらナースコールを呼ぶこと
及び浴室の鍵をかけないことを注意したのみで,浴室設備の使用方法の具体
的説明や熱湯が出ることに対する注意をしなかった。
(被告の主張)
争う。
本件小浴室の入浴設備は一般に市販されているもので,特殊な構造をして
おらず,複雑な使用方法でもないから,その使用方法について被告病院の担
当看護師が説明する義務はない。また,F看護師も,何かあったらナースコ
ールを押すように伝えており,亡Dが本件小浴室の設備の使い方に不明であ
れば,いつでも看護師に尋ねることができた。
争点③(入浴準備等義務違反)について
(原告らの主張)
本件事故当時,本件浴槽水栓の給湯栓を開くと55ないし56度の熱い湯
が出るように設定されていたこと,亡Dが当時79歳の高齢で両変形性膝関
節症の障害を持つ患者であったことからすれば,F看護師は,亡Dの入浴に
先立ち,あらかじめ浴槽に適温の湯を溜め,それを確認した上で同人を入浴
させる義務があった。
しかし,F看護師は,これを怠り,上記のような準備をせずに亡Dを入浴
させた。
(被告の主張)
争う。
医療機関において,一般に,あらかじめ浴槽に湯を溜め,それを確認した
上で患者を入浴させるという看護水準があるとはいえない。
争点④(入浴看視義務違反)について
(原告らの主張)
高齢者の浴室内での転倒事故が多いことは周知の事実であるところ,亡D
は79歳の高齢であり,両変形性膝関節症の障害を持つ患者であったことか
らすれば,F看護師は,本件入浴の間,常に亡Dの状態を看視すべき義務が
あった。
しかし,F看護師は,これを怠り,亡Dが本件小浴室に入室した午後2時
頃から発見されるまでの午後2時40分頃までの約40分間,亡Dの状況に
つき何らの看視や配慮をせずに放置した。
(被告の主張)
争う。
被告病院では,30分に1度の割合で見回りを実施している。これは,1
0対1看護の限界や,被告病院における入院患者の入浴時間設定である30
分が一般的であることからして妥当な看護水準である。また,入院患者のプ
ライバシーの保護が最大限求められるのであって,特段の事情がない限り,
入浴中の患者の看視をみだりに行うべきではない。
F看護師は,亡Dの入浴開始から30分程度経過した時に,亡Dが入浴を
終えて病室に戻っていると思い病室に行ったが戻っていなかったので,まだ
入浴しているかもしれないと思い本件小浴室を確認し,午後2時35分頃,
亡Dを発見した。このような対応は,本件小浴室での入浴患者に対する定期
的な声掛けとして妥当であり,同看護師に過失はない。
争点⑤(安全管理態勢構築義務違反)について
(原告らの主張)
E院長は,病院全体の管理者として,患者の入浴について,①介助を付
するか否かの決定,②入浴の際の設備の説明や危険に関する注意,③浴槽
にあらかじめ湯を溜めておくべきこと,④入浴中の声掛け等の看視につい
て,看護基準を設定,指示し,病院内の安全管理態勢を確保すべき義務が
あった。しかし,E院長は,これを怠り,看護基準を設定せず,上記①な
いし④について指示しなかった。
(被告の主張)
争う。
ア①について
被告病院では,調査票を用いて患者の状況を把握するなどしており,本
件においても亡Dの症状などから入浴方法が決定されたところ,患者の入
浴については現場にいる看護師らが判断する体制が最も合理的であって,
必ずしも院長が明確な基準や方針を定めるべき事項とはいえない。
イ②③について
被告病院の看護師が,入浴する患者に対し,本件小浴室の入浴設備に関
する説明ないし注意すべき義務及びあらかじめ浴槽に湯を溜めるべき義務
がないのは,前記及びの被告の主張のとおりであるから,E院長が,
この点について看護基準を定めるべきであったとはいえない。
ウ④について
被告病院の看護師は,患者に対して定期的な声掛けを行っていたのであ
るから,E院長が,定期的な声掛けやノックをして患者の応答を確認する
ことなどを現場に徹底させていなかったとはいえない。
争点⑥(被告側の過失と亡Dの死亡との因果関係)について
(原告らの主張)
ア亡Dは,担当看護師らやE院長(以下,これらを併せて「被告側」とい
う。)の上記過失により,本件浴槽内において,生存の可能性0.9パー
セントという致死的重症熱傷を負い,死亡した。
なお,亡Dが本件浴槽内において重症熱傷を負った経緯については,現
認した者がおらず,確言することは困難ではあるが,この点についての原
告らの見解は,以下のとおりである。
亡Dは,本件小浴室において,本件洗い場混合水栓を使用しようとした
が,自宅の風呂の洗い場の水栓とは形状が全く異なっていたため,戸惑っ
ていた。そうしたところ,本件浴槽を見ると,自宅の風呂と同様に給湯栓
と給水栓が並んで付いていたため,本件浴槽の給湯栓を使ってお湯を出し,
自宅と同様に洗い場の椅子に座って体を洗おうと考えた。亡Dは,本件浴
槽には入らず,本件浴槽脇に立ったままか,立ち腰のままで,本件浴槽の
給湯栓に手を伸ばして給湯栓を開いた。そうしたところ,亡Dは,予期し
ていなかった熱い湯が出てきたため,あまりに熱いので驚いたか,何らか
のはずみで足を滑らせたかして,本件浴槽内に転倒し,その際に頭を強く
打ち,失神して意識を喪失し,そのまま55ないし56度の湯が出続けた
結果,本件熱傷を負った。
イ被告は,亡Dが本件熱傷を負う前に心筋梗塞により意識消失し,その結
果,熱湯を浴びても動かなかったため,重症熱傷になったと主張する。原
告らも,亡Dが本件浴槽内で発見された後の検査所見の一部に,心筋梗塞
を疑う所見があることは否定しないが,以下のとおり,本件熱傷を負う前
に心筋梗塞を発症したとする根拠はなく,亡Dの心筋梗塞は,本件熱傷に
併発したものにすぎない。
被告が,亡Dが本件熱傷を負う前に心筋梗塞を発症した根拠として主
張するデータは,亡Dが熱傷を負った後の検査によるものであり,上記
根拠とはならない。また,カテーテルをせず,心エコー検査データに基
づく下壁運動低下というだけでは,従前から運動低下があった可能性も
あるし,中隔心筋梗塞を疑う所見が出ていることと矛盾するから,下壁
心筋梗塞と断定することはできない。
亡Dのような重症熱傷の場合は,血管内が脱水状態となり,心筋梗塞
を起こしても不思議ではない。重度の熱傷により細胞外液が大量に流出
して血管内が脱水状態となり,冠動脈の脱水状態からプラークが崩れや
すくなり血栓を作り出す。
また,急性心筋梗塞の病態は,被告主張に限られない。熱傷時におけ
る血栓症の発症機序として,受傷後の血管透過性亢進から血液濃縮が起
こり血栓形成が促進される,疼痛によっても血圧が上昇して心負荷が増
大する,ストレスが誘因となるなどの見解も存在する。
電解質バランスが崩れた場合に心室細動などの致死的不整脈が発生し,
血行動態的に心停止と同じ状態になり,急性心筋梗塞と同様の状態とな
る。
心筋梗塞を起こして短時間で意識障害を起こすのは5ないし10パー
セントであり,心筋梗塞に伴って短時間で意識障害を来すのは,幅広い
心筋障害を起こし,心房細動を生じた場合か房室ブロックや徐脈を来し
たときに限られる。
なお,下壁心筋梗塞にブロックを併発しやすいことは認めるが,もと
もと心筋梗塞発症時には種々の不整脈を来すので,下壁心筋梗塞イコー
ル意識障害というのは短絡的である。
心エコー所見に下壁の運動不良と記載されているが,このことは,3
本ある冠動脈のうち1本(右冠動脈)の部分閉塞を意味する。
ウ仮に,被告が主張するとおり,亡Dが熱傷を受ける前に心筋梗塞により
意識消失し,その結果,熱湯を浴びても動かなかったため,重症熱傷にな
ったとしても,被告側が各注意義務を尽くしていれば,より早く事態を発
見し,緊急措置を講じることによって,重症熱傷の発症,ひいては致死の
結果を避け得たはずであり,被告側の過失と亡Dの死亡との間には因果関
係があることは明らかである。
エ亡Dの心筋梗塞は,検査所見からみても,それが熱傷前に発症したもの
であれ,熱傷後に発症したものであれ,その心筋梗塞自体が死因とは考え
難い。
すなわち,3本ある冠動脈のうち,1本(右冠動脈)の部分閉塞しかみ
られないこと,CPK値やエコー所見からは,広範囲な心筋梗塞は考えら
れないこと,トロポニンTの値も重症の心筋梗塞に比べればそれほど高値
とはいえないこと,発見された時にAEDの適用外とされ心室細動にはな
っていなかったこと等からみて,心筋梗塞があったとしても,比較的軽度
のものであり,その心筋梗塞自体により死亡したとは到底考えられない。
なお,亡Dの直接の死因が虚血性心疾患あるいは心不全であるとしても,
重症熱傷によるショック状態から心不全になったものである。
オ亡Dのショックが本件熱傷によるものであることは,同人の11月6日
午後3時38分採取の血液の検査結果(血色素量5.7,血小板数5.
5)が心筋梗塞によるショック状況では起こり得ないものであることから
も明白である。
また,心筋梗塞の疑いがある場合の検査としては心機能モニターや冠動
脈カテーテル造影検査が行われ,再灌流治療の手段として約90パーセン
トの症例において冠動脈インターベンション(PCI)が選択されている
が,被告病院では,亡Dに対して心筋梗塞の治療を一切行っていない。も
し心筋梗塞によるショックであるとすれば,亡Dは,被告病院の担当医師
らが心筋梗塞の治療を怠ったために死亡したことになる。
(被告の主張)
ア亡Dが転倒により意識を喪失したとの原告らの主張を否認する。
本件小浴室は,入口から向かって左に本件浴槽水栓があるところ,亡D
が本件浴槽の給湯栓を開いた際に,本件浴槽内に転倒したとするならば,
頭部は入口から見て左側に位置している可能性が高いが,それは亡Dの発
見時の体勢(脚部を本件浴槽の蛇口側に向けた体勢)と明らかに異なる。
そもそも亡Dが洗い場から本件浴槽内に転倒・転落して失神したのであれ
ば,頭部は浴槽の底面に位置していなければならないが,そのような姿勢
は亡Dの発見時の体勢とも矛盾するし,本件熱傷の範囲を合理的に説明す
ることもできないのであるから,原告らの主張は事実と明らかに矛盾する。
脳幹出血は高血圧などの内因的な事情を原因として発症することが多く,
頭蓋骨骨折もなしに脳幹部から出血することは考えられないから,亡Dが
本件浴槽内で転倒し,頭部の打撲により脳幹部に挫傷,出血を起こしたと
の証拠(甲D1の1,証人I)は信用性が乏しい。
イ以下の事情を総合すれば,亡Dは,本件熱傷を負う前に急性心筋梗塞を
発症し,これにより意識を喪失し,本件浴槽内に転倒し,その結果,熱湯
を浴びても動かなかったため,本件熱傷を負ったことが明らかである。
平成20年11月6日午後3時38分の血液検査の結果は,ASTが
183,LDHが619,CPKが4905であり,同日午後6時5分
にトロポニンTは高値を示し,同日午後6時22分の心エコー検査で駆
出率48ないし51パーセントで下壁運動低下が認められた。また,同
日午後6時23分の心電図検査で,中隔心筋梗塞を疑う所見が出ていた。
急性心筋梗塞の責任冠動脈病変は,50パーセント以下の狭窄の病変
が多くを占めるので,冠動脈の狭窄が高度化する前に,急性心筋梗塞は
発症し得る。
原告らは,亡Dの心筋梗塞は,本件熱傷に併発したものであると主張
する。しかし,急性心筋梗塞の病態は,冠動脈プラークの破裂・びらん
に引き続く血栓形成により冠動脈血流が途絶又は減少することにより発
生するところ,熱傷に伴う脱水がプラークの破裂・びらんの原因となる
ことはない。原告らの主張は,なぜ脱水によってプラークが崩れるのか
不明である。また,遅くとも同日午後6時22分までには心筋梗塞が発
症していたと考えられるところ,事故後には大量の輸液が行われており,
亡Dは必ずしも脱水が認められたとはいえないし,入浴中にも細胞外に
大量の流出があるほどの時間はなかった。
電解質バランスが崩れた場合に心室細動などの致死的不整脈が発生し,
血行動態的に心停止と同じ状態になり,急性心筋梗塞と同様の状態とな
る場合はあり得る。しかし,この状態ではすべての心筋への酸素供給が
止まるために,すべての心筋が急性心筋梗塞と同じ状態となるのである
から,左室下壁の壁運動低下のみが認められる本件とは矛盾する。
心筋梗塞の超急性期においては,心筋梗塞の重症度と関係なく,致死
的不整脈が発生し突然死となる可能性があり,発症後1時間以内にモニ
タリングが開始された500名のうち,98名に心室細動が観察されそ
の多くは発症後1時間以内であったとされている。特に本件の心筋梗塞
は下壁梗塞であり,高度房室ブロック発生のリスクがあり,これにより
意識消失となった可能性もあるところ,これらの意識消失・突然死の原
因となる不整脈の発生は,心筋梗塞領域が大きくなくても生じ得る。こ
れらの不整脈が発生すると,30秒ほどで意識消失となる。
心臓下壁がどの冠動脈によって灌流支配されているかは個々人により
異なり,左冠動脈によっても灌流されるのは全体の40パーセントにも
及ぶから,下壁の運動不良のみから右冠動脈の部分閉塞があったと断定
することはできない。
ウ亡Dの死因は,虚血性心疾患あるいは心不全であり,亡Dは,本件熱傷
を負う前に急性心筋梗塞を発症し,そのために意識を喪失し,熱傷とは無
関係に,急性心筋梗塞により死亡した。
亡Dの熱傷について,受傷している箇所としていない箇所が明確に区別
されていることからすれば,亡Dは熱湯に触れても覚醒しないほど深く意
識を喪失していたと考えられ,亡Dの意識喪失は,本件熱傷を負う以前に
急性心筋梗塞による不整脈を生じ,これにより脳への血流が著しく低下し
たために起きたものと考えるべきである。そして,急性心筋梗塞は致死性
疾患であり,急性心筋梗塞に伴うショック状態が生じた場合の死亡率は8
0パーセントに達するのであるから,亡Dの死因は,急性心筋梗塞である。
したがって,原告ら主張の過失と亡Dの死亡との間には,因果関係がない。
争点⑦(損害)について
(原告らの主張)
ア亡Dの損害及び相続
亡Dの慰謝料1200万0000円
亡Dは,長年悩まされてきた両膝痛から解放される日を夢見て被告病
院に入院したにもかかわらず,その手術を受ける前に,安全であるはず
の病院の浴槽内で,熱湯に浸され,全身の90パーセントの熱傷という
悲惨な状況の中で不慮の死を遂げてしまった。亡Dが負った精神的苦痛
を慰謝するに足りる慰謝料は,1200万円を下らない。
上記財産のうち,原告Aは600万円を,原告B及び原告Cは各30
0万円を相続した。
イ原告A固有の損害
固有慰謝料600万0000円
原告Aは,全身90パーセントの熱傷を負い,大量の出血と下血が,
ベッドマットを染めきって床まで流れ落ちているという見るに堪えない
惨状で,長年連れ添った妻である亡Dを失った。このような状況で亡D
を失った原告Aの精神的苦痛を慰謝するに足りる慰謝料は,600万円
を下らない。
葬儀関係費用157万0000円
原告Aは,葬儀関係費用として,下記の各支払をした。原告Aは,被
告に対し,葬儀関係費用合計157万1528円の一部である157万
円の支払を請求する。
a葬儀費用101万9408円
b死体検案書費用3万9000円
c火葬費用3万0000円
d精進落とし食事代8520円
e墓石費用5万0000円
f納骨日の僧侶への支払等38万5000円
g納骨日食事代3万9600円
ウ原告B固有の損害
固有慰謝料300万0000円
原告Bは,前記イ記載の状況で慈愛あふれる母である亡Dを失った。
このような状況で亡Dを失った原告Bの精神的苦痛を慰謝するに足りる
慰謝料は,300万円を下らない。
弁護士費用300万0000円
原告らは,本件訴訟を提起するために弁護士に依頼せざるを得なかっ
たところ,被告側の過失と相当因果関係のある弁護士費用は300万円
が相当である。
原告らは,上記弁護士費用について,原告Bがすべて負担することを
合意した。
エ原告C固有の損害
固有慰謝料300万0000円
原告Cは,前記イ記載の状況で慈愛あふれる母である亡Dを失った。
このような状況で亡Dを失った原告Cの精神的苦痛を慰謝するに足りる
慰謝料は,300万円を下らない。
(被告の主張)
ア原告らの損害の主張については争う。
イ仮に被告側の過失と亡Dの死亡との間に因果関係があるとしても,亡D
は,重症熱傷に至る前に発作性の心不全を起こして意識を失っていること
からすれば,被告の責任は相応に減責されるべきである。
第3争点に対する判断
1過失(争点①から⑤まで)に係る認定事実
前記前提事実,各項末尾に掲記の各証拠及び弁論の全趣旨によれば,次の事
実が認められる。
亡Dの自宅での生活(乙A1,証人H,原告B)
ア亡Dは,昭和45年頃から両膝の関節痛を患うようになり,平成12年
頃から自宅近所の整形外科病院に通院するようになった。近年,亡Dの両
膝関節痛は,特に痛みが激しくなり,次第に歩行が難しくなり,自宅内で
は這って移動することもあった。
イ亡Dは,平成20年5月ないし6月頃からは,あまり入浴することはな
く,同年6月頃からは,洗い場の椅子に座って体を洗うのみで,浴槽に入
ることはなく,シャワーを使用していなかった。
ウ亡Dの自宅風呂場の給湯設備の状況は,別紙1写真-1及び3のとおり
である。同風呂の給湯温度は自動設定されており,給湯栓のみを開いても
39℃以上の湯は出ず,給水栓を開く必要はなかった。そのため,自宅風
呂では,亡Dは,給湯栓のみを操作して,体を洗っていた。
エ亡Dには,加齢による難聴のために,あまり理解していなくとも返事を
してしまうことがあったが,認知症を疑わせる言動等はなく,判断力に問
題はなかった。
亡Dの入院時における担当看護師らの対応(乙A1,3,証人H,証人
J)
ア亡Dは,被告病院に入院するに先立ち,被告病院の担当者から「入院さ
れます方にお願い」(乙A3)と題する書面を交付された。「入院されま
す方にお願い」は,入院患者の看護を行う上で認識しておく必要のある事
項について,あらかじめ患者に記入を求める書面である。
イ亡Dは,原告Aと相談しながら,「入院されます方にお願い」にあらか
じめ必要事項を記入した(記入自体は原告Aが行った。)。
そのうち,「9:日常生活でご自分が出来ない動作はありますか?※幾
つでも丸をお付けください。」と書かれた項目について,亡Dは,「歩
行」,「移乗」,「浴槽に入る」,「髪を洗う」,「重い荷物を持つ」に
丸印を付け,「体を洗う」には丸を付けなかった。
亡Dは,上記設問の下の「※上記出来ない動作をどうしていますか」と
書かれた項目について,「他者に手伝ってもらう・自分なりに工夫してい
る」の選択肢のうち,「自分なりに工夫している」に丸を付けた。
ウ被告病院のK看護師は,亡Dの入院日である10月31日,「入院され
ます方にお願い」を受け取り,亡D及び同人に付き添った証人Hに対し,
「入浴は普通のお風呂と介護用のお風呂がありますが,どちらにします
か」,「1人で入っていますか」と尋ね,証人Hは,浴室には1人で行っ
ている旨回答した。K看護師は,「自分なりに工夫している」の具体的内
容等について質問することはなく,証人Hも,浴槽に入っていないことに
ついて特段告げなかった。
亡Dの本件入院中の歩行状況(乙A1,4,7,証人J)
亡Dは,本件入院中,歩行するに際し,跛行はあったものの,ふらつきや
膝折れはなく,手放しで病室のトイレに往復することができた。また,亡D
は,歩行時に膝痛があったが,自制の範囲内であった。
本件入浴時の状況(乙A1,4,7,証人J)
ア亡Dは,本件入院後,のどが痛いなどとして,入浴やシャワーを希望し
なかった。しかし,手術の前日は,身体を清潔にすることが必要であるこ
とから,F看護師を含む被告病院の本件事故当日の病棟担当チームの看護
師は,本件事故当日の午前中,カンファレンスを行い,亡Dの入浴方法等
について検討し,亡Dについて,本件小浴室で介助を付けずに入浴させる
ことを決定した。その際,カンファレンスに出席した看護師らからは,亡
Dが本件小浴室で介助を付けずに入浴することについて,特に異論は出な
かった。
イそこで,被告病院の病棟担当看護師は,11月6日の午前中,亡Dに対
し,同日午後2時に入浴するよう指示した。
ウF看護師は,同日午後2時頃,亡Dを本件小浴室に案内し,その際,亡
Dに対し,「何かあったらナースコールを押すこと。(浴室の)鍵を閉め
ないように。」と言ったが,それ以外の注意や説明はしなかった。
エ亡Dは,被告病院の病棟担当看護師から本件入浴を指示された際やF看
護師に本件小浴室に案内された際,入浴について介助を求めたり,不安を
訴えたりすることはなかった。
オ亡Dは,本件小浴室に1人で入室した。
本件洗い場混合水栓と本件浴槽水栓の形状は,別紙1写真-2及び4の
とおりである。
本件浴槽水栓は,給湯栓を開くと55ないし56度の湯が出る構造にな
っていたが,亡Dはこのことを知らなかった。
亡D発見時の状況(乙A1,4,5)
アF看護師は,亡Dを本件小浴室に案内した後,他の患者の看護などをし,
入浴時間枠である30分を経過した午後2時35分頃,亡Dが入浴を終え
て病室に戻っていると思い,病室に行ったが,亡Dは病室にいなかったた
め,まだ入浴しているものと思い,本件小浴室に行った。
F看護師は,本件小浴室のドアをノックしたが,応答がなかったため,
本件小浴室内に入り,午後2時40分頃,本件浴槽内に倒れている亡Dを
発見した。その際の亡Dの体勢は別紙2のとおりであった。
イ亡Dが発見された時,本件洗い場混合水栓は閉まったままであった。シ
ャワーも高い位置に留められたままで,亡Dが使用した形跡はなかった。
本件浴槽の給水栓は閉まったままであったが,給湯栓は開いており,蛇
口から55ないし56度の湯が注ぎ込まれている状態であった。
被告病院における患者の入浴に関する看護基準,マニュアル等(証人L,
証人J)
ア被告病院においては,患者の入浴の可否,浴室(介助浴室,小浴室)の
選択,介助の有無,方法等について,看護基準ないしマニュアルを作成し
ておらず,当該患者を担当するチームの看護師のカンファレンスにより,
これを決定していた。その際の判断基準は,次の及びのとおりである。
自分で体を動かせない患者や自分で体を洗えない患者は,介助浴室に
て介助付きの入浴を行う。
自分で体を動かせる患者は,本件小浴室にて入浴を行い,患者によっ
ては,一部介助を付けることもある。
イ被告病院においては,本件小浴室で患者を入浴させる場合に,本件小浴
室の設備の使用方法について説明しなければならない旨を定めた看護基準
ないしマニュアルは存在せず,これを説明する看護師としない看護師とが
混在していた。
ウ被告病院においては,本件小浴室で患者を入浴させる場合に,本件浴槽
を使用するか,シャワーのみで済ませるかは患者の選択に委ねており,あ
らかじめ患者の意向を聴取したり,本件浴槽に湯を溜めたりすることはな
かった。
2争点①(介助を付すべき注意義務違反)について
一般に,入浴には床の濡れによる転倒,浴槽での溺水,熱湯による熱傷な
どの危険が存在している上,入浴そのものが身体に少なからぬ負担を伴う行
為であるから,入院患者の療養上の世話をすべき看護師としては,患者を入
浴させるに当たり,当該患者の入浴の可否及び介助の要否その他入浴に関連
する事項について,患者の心身の状況,患者の疾患等の状態その他上記事項
を判断するために必要な情報を収集し,1人で入浴することにより事故発生
のおそれがある場合は,入浴に際し,介助を付する義務を負うというべきで
ある。
これを本件についてみると,前記1認定事実によれば,亡Dは,「入院さ
れます方にお願い」において,自分ですることができない動作として「浴槽
に入る」を選択したが,「体を洗う」を選択せず,すなわち体を洗うことは
自分でもすることができる動作として回答しており,実際にも,自宅では1
人で入浴し,洗い場で体を洗っていたこと,亡Dは,本件入院中,歩行する
に当たってふらつきや膝折れはなかったこと,本件入浴時において,自宅で
の入浴時と比較して身体状態が悪化していた様子はなかったこと,亡Dに判
断力の低下は認められなかったところ,亡Dは,看護師から入浴を指示され
た際に,介助を求めたり,不安を訴えたりすることはなかったこと,亡Dが,
入浴により悪化するおそれのある疾患を患っていたなどの事情もないことが
認められる。
担当看護師らは,これらの事情を前提として,亡Dについて,本件小浴室
で介助を付けずに入浴させるとの判断をしたものであるが(乙A4,7,証
人J),その判断に不合理な点は認められない。原告らは,東京都立駒込病
院においては,亡Dのような症例では介助付き入浴と判断する旨主張するが,
同病院看護師は,高齢者で足の関節症等を有する場合は介助したと思うと一
般論を述べたにとどまり(甲A19),亡Dの歩行状態等を実際に見て判断
したものではない。他に,亡Dに対して,入浴の際に介助を付する義務があ
ったと認めるに足りる証拠はない。
原告らの主張について
原告らは,担当看護師らは,本件入浴について,医師の判断を仰ぎ,かつ,
自宅の浴室設備等についても十分な調査をすべきであったと主張する。しか
し,前記1認定の亡Dの自宅での入浴状況及び歩行状況からすれば,亡Dに
対して,入浴の際に介助を付すべき必要性は認められないというべきであり,
担当看護師らが医師の判断を仰ぎ,かつ,自宅の浴室設備等について十分な
調査をすれば介助を付すべきであると判断したとはいえない。
したがって,原告らの主張は採用することができず,担当看護師らについ
て,本件入浴の際,亡Dに介助を付すべき義務があったとは認められない。
3争点②(浴室設備等説明義務違反)について
浴室の給湯・給水設備,シャワー等の形状,操作方法等は種々雑多であり,
使い慣れていない者にとっては容易に操作することができないことはしばし
ば経験するところであって,特に亡Dのような高齢者は,普段使い慣れない
用具の操作が困難であるところ,本件浴槽水栓は,蛇口から55ないし56
度という熱い湯が出る状態だったのであるから,使い方を誤れば,患者が熱
傷を負う危険が存在していたというべきである。
そうすると,F看護師は,亡Dが本件入浴を開始するに当たり,亡Dが本
件小浴室内で熱い湯を浴びて熱傷を負うことのないよう,本件浴室の給湯給
水設備の使用方法及び本件浴槽水栓から熱傷を負うおそれのある熱い湯が出
る危険について説明ないし注意すべき義務があったと認めるのが相当である。
これを本件についてみると,前記前提事実によれば,F看護師は,亡Dに
対し,「何かあったらナースコールを押すこと。(浴室の)鍵を閉めないよ
うに。」と言ったのみで,本件浴室の給湯給水設備の使用方法及び熱傷を負
うおそれのある熱い湯が出ることを説明ないし注意しなかったのであるから,
前記義務に違反した過失があると認めるのが相当である。
被告は,F看護師が亡Dに対し何かあったらナースコールをするように伝
えたのであるから,本件小浴室の設備の使い方がわからなければ看護師を呼
ぶことができたので問題はない旨主張する。
しかし,ナースコールは,入浴中に気分が悪くなったなどの緊急事態が生
じた場合や身体の動作に看護師の手を借りる必要が生じた場合などに使用す
るのが一般であり,患者としては,浴室の給湯設備の使用方法がわからない
場合にまでナースコールをしてもよいものか躊躇を覚えることも少なくない
と考えられるから,ナースコールの説明をしていれば,本件小浴室の設備の
使い方の説明をしなくともよいとはいえず,被告の上記主張は採用すること
ができない。
4争点③(入浴準備等義務違反)について
原告らは,F看護師には,本件入浴に先立ち,本件浴槽に適温の湯を溜め,
それを確認すべき義務があったと主張する。
しかし,このような義務を認めるに足りる証拠はない。なお,亡Dは,本件
事故当時,自宅の風呂でも浴槽に入っておらず(前記第3の1),亡Dが発
見された際,本件浴槽の排水栓は開いていた(前記第2の1カ)から,亡D
は,本件浴槽に湯が溜まっていたとしても,そこに入るつもりはなかったもの
と推測され,上記義務と本件熱傷との関連性も不明である。
5争点④(入浴看視義務違反)について
入浴に一定の危険が伴うことは前記2判示のとおりであるところ,高齢者
の場合は,その危険性は大きい上,亡Dのように両変形性膝関節症により歩
行に困難を伴う場合は,さらに入浴中に転倒等の事故を起こす危険性が大き
くなるのであるから,このような患者を入浴させる看護師は,入浴中に何ら
かの事故が発生した場合にも迅速に対処することができるよう,通常の患者
より頻繁に声掛けをする等により,入浴の状況を看視する注意義務を負って
いるというべきである。
これを本件についてみると,被告病院においては,入浴時間の枠を着脱衣
を含めて30分とし,30分を経過したら見回りに行くことが慣行になって
いたことが認められる(証人L)ところ,着脱衣に要する時間を考慮すると,
入浴について特に危険性の認められない通常の患者について,入浴時間の枠
を30分とすることに問題があるとはいえず,実際,他の医療機関でも,入
院中の患者の通常の入浴時間は30分程度としているところが多い(乙B9
の1ないし9)。
しかし,上記のとおり,亡Dが高齢で両変形性膝関節症により歩行に困難
を伴っていたこと,入院時に浴槽に入ることはできないと申告していたこと
(前記第3の1)からすると,30分間何らの安全確認をしないことには
疑問があり,少なくとも,担当看護師らは,30分経過時には速やかに亡D
の安全を確認すべきであったというべきである。
しかるに,F看護師は,亡Dが本件小浴室に入室してから40分経過した
午後2時40分頃,本件小浴室に入って亡Dが本件熱傷を負っていることを
発見するまで,一度も安全確認をしていない(前記第2の1エ,オ)ので
あるから,上記注意義務に違反したというべきである(なお,被告は,F看
護師が,亡Dを発見したのは午後2時35分頃であると主張するが,F看護
師が記載した診察記事(乙A1・54頁)には「14:35入浴が終わっ
たかと思い,病室を見に行くと患者は不在。そのため,小浴室まで行き中を
確認すると,浴槽内で長座位でもたれかかっているような形で意識消失をし
ているのを発見。」との記載があり,看護要約(甲A4の4)には「午後2
時45分ころ発見」と,退院時要約(甲A5)には「午後4時(午後2時の
誤記と思われる。)40分ころ発見」と記載があることを総合すれば,F看
護師が亡Dを発見した時間は午後2時40分頃と認定するのが相当であ
る。)。
被告は,入院患者のプライバシーを尊重する必要があると主張するが,入
浴の際の事故等による生命身体に対する危険とプライバシー保護を比較すれ
ば,上記危険の現実化の防止が優先されるべきことは当然である上,浴室の
外から声を掛けて返答を求めるなどの方法により患者の入浴状況を直接目視
せずに確認することも可能であるから,被告の上記主張は採用することがで
きない。
原告らは,担当看護師らは,常に亡Dの入浴状況を看視すべき義務があっ
たと主張する。しかし,亡Dは,自宅では1人で入浴しており,本件入院に
際し,被告病院側にその旨申告していたこと,看護師から本件入浴を指示さ
れた際に,介助を求めたり,不安を訴えたりすることもなかったこと,亡D
が,入浴により悪化するおそれのある疾患を患っていたなどの事情もないこ
とからすれば,担当看護師らが,常に亡Dの入浴状況を看視する必要があっ
たとは認められない。
6争点⑤(安全管理態勢構築義務違反)について
原告らは,E院長が,患者の入浴について,①介助を付するか否かの決定,
②入浴の際の設備の説明や危険に関する注意,③浴槽にあらかじめ湯を溜めて
おくべきこと,④入浴中の声掛け等の看視について,看護基準を設定,指示し,
病院内の安全管理態勢を確保すべき義務があったにもかかわらず,これを怠っ
たと主張する。
しかし,看護師の上記①ないし④に関する判断ないし行動につき過失がある
と認められるならば,被告病院における看護基準の有無にかかわらず,被告の
使用者責任ないし債務不履行責任が成立し得るし,当該判断ないし行動につき
過失がなければ,被告病院において看護基準を設定すべき義務を怠ったともい
えないのであるから,E院長個人が被告となっていない本件においては,E院
長の安全管理態勢構築義務違反の有無について判断する必要はない。
7争点⑥(被告側の過失と亡Dの死亡との因果関係)について
被告側の過失と亡Dの本件熱傷との因果関係
ア前記前提事実,前記1認定事実,証拠(甲A14,16,25,28,
29,乙A1,4,5,6)及び弁論の全趣旨を総合すると,以下の事実
が認められる。
亡Dは,平成20年6月頃からは,自宅でも,洗い場の椅子に座って
体を洗うのみで,浴槽に入ることはなく,シャワーを使用していなかっ
た。
亡Dは,本件入院後,のどが痛いなどとして,入浴やシャワーを希望
しなかった。しかし,手術の前日は,身体を清潔にすることが必要であ
るため,担当看護師から,本件入浴を指示された。したがって,亡Dが
本件小浴室に入ったのは本件入浴の際が初めてであった。
本件洗い場混合水栓は,亡Dが自宅で使用しているものと形状が異な
っていた(別紙1写真-1,2)。他方,本件浴槽水栓は,給湯と給水
の各栓の形状及び設置位置が自宅風呂と類似していた(別紙1写真-3,
4)。ただし,自宅風呂の給湯温度は自動設定されており,給湯栓のみ
を開いても39度以上の湯は出ないので,給水栓を開く必要はないが,
本件浴槽水栓は給湯栓を開くと,55ないし56度の湯が出る設定にな
っていた。しかし,亡Dはこのことを知らなかった。
亡Dが発見された時,亡Dは本件浴槽内に倒れており,その態様は別
紙2のとおりであった。
亡Dが発見された時,本件浴槽水栓は給湯栓のみが開栓されていて,
55ないし56度の湯が注ぎ出ていた。本件浴槽底の排水栓は開いてい
たが,亡Dの体が栓を塞いでいたため,本件浴槽内には上記湯が20な
いし30センチメートル溜まっていた。
亡Dは,発見された時,頭と顔以外,身体の90パーセントに熱傷を
負い,心肺停止,意識不明の状態であった。
亡Dの熱傷の状態は,熱傷をしているところとしていないところがは
っきり区別されており,亡Dは,本件熱傷を負いながらも,身体を動か
していなかったと考えられる。
亡Dの屍体には,右後頭部,右上背部及び臀部に筋肉内に出血が認め
られた。そのうち,右後頭部及び右上背部の損傷は同時に受傷した可能
性があり,本件浴槽での転倒により発生したとしても矛盾しない。
亡Dが本件浴槽内で発見された後の検査所見の一部に,心筋梗塞を疑
う所見がある。
イ以上の事実を総合すると,「亡Dは,自宅と同様に洗い場の椅子に座
って体を洗おうとしたが,本件洗い場混合水栓の使用方法がわからなか
ったところ,本件浴槽水栓は自宅の浴槽の給湯と給水の各栓と形状及び
位置が類似していたため,自宅と使用方法は同じであろうと思い,本件
浴槽水栓を使用して体を洗おうと考え,本件浴槽の中に入ってから,本
件浴槽水栓の給湯栓を開いた。そうしたところ,本件浴槽水栓の蛇口か
ら,亡Dの予測に反し,55ないし56度の熱い湯が出てきた上,足が
不自由な亡Dは本件浴槽内から容易に出ることができない状態であった
ことから,亡Dは驚愕して転倒して頭部を本件小浴室の壁等に打撲して
脳しんとうを起こし,又は急性心筋梗塞を発症し,意識を喪失して本件
浴槽内に倒れ込み,その際,亡Dの体が栓を塞いだため,本件浴槽水栓
から注がれ続けていた熱湯が本件浴槽内に溜まり,亡Dは,発見される
までの間,熱湯に浸かり続け,これにより本件熱傷を負った。」ものと
認めるのが相当である。
ウ原告らは,亡Dは,本件浴槽の外でその脇に立ったままか,立ち腰の
ままで,本件浴槽水栓の給湯栓に手を伸ばしてこれを開き,その際に熱
い湯が出たことに驚くなどして本件浴槽内に転倒したと主張する。
しかし,亡Dは,転倒した後,本件熱傷を負いながらも体を動かして
いないと考えられるところ(上記ア),同人は,発見された際,足部
が本件浴槽水栓の下辺りにあり,本件浴槽水栓とは反対側の浴槽の縁に
頭をのせるような体勢であった(別紙2)のであるが,原告らの主張す
るような転倒経緯により,このような体勢で倒れむことは考え難い。
また,仮に亡Dが本件小浴室の洗い場にいる時に湯に触れて驚いたとし
ても,原告らの主張する亡Dと本件浴槽の位置関係からして,洗い場内
に転倒することはあっても,本件浴槽内に転倒する可能性は低い。した
がって,原告らの主張は採用することができない。
原告らは,亡Dは膝関節に疾患を抱えており,自宅での入浴でも浴槽
には入らず,日常生活でも這って移動するなどしていたのであるから,
自宅の風呂の浴槽より高さのある本件浴槽に入ることはできないと主張
する。しかし,亡Dの入院後の歩行状態は,跛行はあるがふらつきはな
く,手放しで病室のトイレに往復することができ,歩行時に膝痛がある
が自制の範囲内であったこと(前記1),亡Dが手術の準備として看
護師に入浴を指示されたことからすれば,亡Dが,看護師の指示どおり
身体を洗浄しなければならないものと考え,多少の無理をしてでも本件
浴槽内に入ることはあり得ないことではないというべきである。
エ原告Bが亡Dの司法解剖の鑑定書の内容を聴取しこれを記載した書面
(甲A16。以下「本件鑑定結果聴取書」という。)には,亡Dの橋内
(脳の中心部)には,CT検査では判明しなかった点状出血が見られると
の記述があるところ,被告は,脳幹出血は高血圧などの内因的な事情を原
因として発症することが多く,頭蓋骨骨折もなしに脳幹部から出血するこ
とは考えられないから,亡Dが本件浴槽内で転倒し,頭部の打撲により脳
幹部に挫傷,出血を起こしたとの証拠(甲D1の1,証人I)は信用性が
乏しいと主張する。
しかし,被告病院の亡D死亡当時の副院長であった証人Lの証言によれ
ば,いわゆる脳しんとう,すなわち頭部を打撲して気絶した場合,その脳
内には,出血等の目に見える変化がないこともあることが認められるから,
被告の主張するとおり,本件鑑定結果聴取書記載の亡Dの橋内の点状出血
が亡Dが本件浴槽内で転倒したことにより生じたものではないとしても,
亡Dが本件浴槽内で転倒し,頭部の打撲により意識を喪失した可能性自体
は否定することができない。
オ被告は,亡Dは,本件熱傷を負う前に急性心筋梗塞を発症し,そのため
に意識を喪失したと主張する。しかし,その主張の根拠(前記第2の3
(被告の主張)イのないし)は,いずれも,亡Dが急性心筋梗塞を発
症していたことの根拠にはなり得るとしても,熱い湯が掛かる前に急性心
筋梗塞を発症したことの根拠とはなり得ないというべきである。
カ他方,原告らは,亡Dの心筋梗塞は,本件熱傷に起因して生じたもので
あると主張する。
しかし,原告らの主張するように,熱傷受傷後の血管透過性亢進から血
液濃縮が起こることにより血栓形成が促進される病態があるとしても,熱
傷受傷が心筋梗塞を引き起こすには,原告らの提出する症例(甲B9ない
し11)によっても2時間程度を要することが認められるのであって,本
件熱傷が原因となり亡Dの心筋梗塞を引き起こしたと認めるには足りない。
なお,証人Iは,この点について,熱傷受傷から20分ないし30分後で
も心筋梗塞が起きる可能性がある旨証言するが,同証言を裏付ける文献や
経験等は存在しないとも証言しており,同証言を直ちに採用することはで
きない。
さらに,M医師の意見書(乙D1)によれば,亡Dにおいては,遅くと
も平成20年11月6日午後6時22分までには心筋梗塞が発症していた
と考えられるが,事故後には大量の輸液が行われており,必ずしも脱水状
態とはいえないし,入浴中にも細胞外に大量の流出があるほどの時間はな
かった旨の指摘があるところ,亡Dが本件浴槽で熱湯に浸かっていた時間
や亡Dに対して実施された輸液量等を考慮しても,亡Dが脱水状態だった
と認めるに足りる証拠はない。
したがって,亡Dの心筋梗塞が,本件熱傷による脱水状態に起因して生
じたとは認められない。
また,I医師の意見書(甲D1)によれば,熱傷により電解質バランス
が崩れた場合に心室細動などの致死的不整脈が発生し,血行動態的に心停
止と同じ状態になり,急性心筋梗塞と同様の状態となることがあり得るこ
とは認められる。しかし,M医師の意見書(乙D1)によれば,上記の状
態ではすべての心筋への酸素供給が止まるために,すべての心筋が急性心
筋梗塞と同じ状態となるのであるから,左室下壁の壁運動低下のみが認め
られる亡Dの場合(乙A1)とは矛盾するとされており,この指摘が医学
的にみて不合理であると認めるに足りる証拠はない。
したがって,亡Dの心筋梗塞が,本件熱傷により体内の電解質バランス
が崩れたことに起因して生じたとは認められない。
そうすると,亡Dの心筋梗塞が本件熱傷に起因して生じたものであると
の原告らの主張は採用することができない。
キ上記エないしカによれば,前記イで認定したとおり,亡Dが意識を喪失
した原因が,転倒による頭部打撲なのか,急性心筋梗塞なのかは,本件証
拠上は確定することができないというべきである。
しかしながら,F看護師が,亡Dが本件入浴を開始するに当たり,本件
浴室の給湯給水設備の使用方法,特に,本件浴槽水栓の給湯栓を開くと熱
い湯が出ることについて説明していれば,亡Dが容易に脱出することがで
きない本件浴槽内において上記給湯栓を開くことはなかったというべきで
あり,そうすれば,亡Dが本件熱傷を負うことはなく,また,F看護師が
10分早く亡Dを発見していれば,その熱傷の程度はより軽かったという
べきであるから,亡Dの意識喪失の原因が,転倒による頭部打撲又は急性
心筋梗塞のいずれであっても,被告側の過失と亡Dが本件熱傷を負ったこ
との間には相当因果関係が認められるというべきである。
被告側の過失と亡Dの死亡との因果関係
ア前記前提事実,前記1認定事実,証拠(乙A1)及び弁論の全趣旨によ
れば,次の事実が認められる。(以下の時刻は,特に記載がない限り,1
1月6日の時刻である。)
亡Dの午後2時40分頃の容態は,重症熱傷(Ⅱ度熱傷90パーセン
トであり,そのうちかなりの割合でⅢ度熱傷の可能性が高いことから,
最小に見積もっても,BI45,PBI124)であり,心拍呼吸停止,
意識不明の状態であった。
担当医師は,亡Dが心拍呼吸停止状態であることを確認の後,直ちに
心臓マッサージを行いつつ,気管挿管,末梢ルートの確保,エピネフリ
ンの投与等の措置を行った。
担当医師は,亡Dに対して全自動除細動器(AED)を施行しようと
したが,AEDによる検査の結果,除細動の必要なしとされた。
亡Dは,午後2時54分頃に自己心拍を再開したものの,心拍数は毎
分30ないし40程度で不安定な状態だった。担当医師は,亡Dにアト
ピリン及びドーパミンを投与しても心拍数の増加がなかったため,経皮
ペーシングを行い,心拍数を毎分70としたところ,脈拍の振れも改善
傾向となった。もっとも,亡Dには,瞳孔の対光反射はなく,自発呼吸
も見られなかった。
亡Dの状態はいったん持ち直したため,亡Dは,集中治療室(IC
U)に転室となり,担当医師は,右大腿動脈から動脈圧ラインを確保し,
右内頸静脈に三腔柔軟カテーテルを挿入した。もっとも,各ラインから
細胞外液を大量投与しても血圧が上昇しないため,担当医師は,濃厚赤
血球輸血及び膠質液を大量投与したところ,血圧が徐々に改善傾向とな
った。
しかし,亡Dの血圧は80程度で頭打ちとなり,中心静脈圧も8前後
まで下がってきたため,担当医師は,カテコラミンを開始,増量したが,
それでも効果は一時的であり,亡Dは,ドーパミン,ノルアドレナリン,
エピネフリンを投与されても,午後8時16分頃の血圧が最高60,最
低20という容態であった。
心拍数も毎分60程度であり,カテコラミンに対する反応性が極端に
下がってきたため,担当医師は,ステロイドも使用した。最後の手段と
してバソプレッシンの持続点滴も開始した。
この頃,被告病院皮膚科の医師が亡Dの熱傷の状態について診察した
が,予後は非常に厳しいとの評価であった。
さらに,担当医師は,亡Dが昇圧剤の投与及び輸血によっても血圧を
正常に維持することができず,胃管から1000ミリリットル程度の出
血が見られたことから,消化管出血を疑い,内科担当の医師が上部消化
管の内視鏡検査を行ったところ,潰瘍性の病変はなく,十二指腸から小
腸にかけてびまん性に無数の点状出血が認められた。担当医師らは,内
視鏡による止血は困難と判断し,薬剤による消化管出血の治療を行うこ
ととした。
亡Dは,この間,全身の皮膚より体液の滲出,出血があり,胃管から
も暗血性の排液が持続していた。皮膚の出血に混じって下血もあり,シ
ーツから床にまで血液が流れてくる状態であった。体位交換も行えない
ため,ガーゼの上からおむつを当てる状態であった。
G医師は,平成20年11月7日午前4時30分頃,原告らに対し,
もうまもなく完全に心停止すること,心拍数が毎分10から20,血圧
が20から30であるが,仮に心臓マッサージを行ってもすぐに停止し,
その後の処置は手がないことを伝えた。亡Dは,同日午前4時46分,
死亡した。
午後3時38分の血液検査の結果は,ASTが183,LDHが6
19,CPKが4905であり,午後6時5分にトロポニンTは高値
を示し,午後6時22分の心エコー検査で駆出率48ないし51パー
セントで,下壁梗塞としても矛盾しない所見であった。また,午後6
時23分の心電図検査で,中隔心筋梗塞を疑う所見が出ていた。
担当医師は,CKやトロポニンTの数値の上昇が明らかに認められ
るが,心停止,心マッサージ後なので心筋梗塞による上昇とは断定す
ることができないものの,心停止の原因として十分説明がつくと考え
た。
イ証人L及び同Iは,亡Dの当時の状態は,本件熱傷を原因とする多臓器
不全であったと証言するところ,上記ア認定事実及び前記第2の1「熱
傷に関する医学的知見」によれば,亡Dの本件熱傷は,少なく見積もって
もBI45,PBI124という致死的な重症熱傷であり,前記アの亡D
が死亡に至るまでの治療経過を見ても,亡Dは全身から出血や体液の滲出
が続き,輸液等の措置を繰り返し実施しても効を奏しなかったものである
から,亡Dは,本件熱傷により死亡したものと認めるのが相当である。
ウ被告は,亡Dは,本件熱傷とは無関係に急性心筋梗塞により突然死した
と主張するところ,亡Dが本件浴槽内で発見された後の検査所見の中には,
心筋梗塞を疑う所見が認められる(上記ア)。また,証拠(乙B20,
21,乙D1)によれば,責任冠動脈病変が50パーセント以下という高
度とはいえない狭窄程度の病変でも急性心筋梗塞が発症することは多く,
高齢者では,無症状,心筋梗塞の既往がなくても,突然心筋梗塞となり得
ることが認められ,急性心筋梗塞の死亡率は20から30パーセントに達
し,急性心筋梗塞の合併症としてショック状態にあるとその死亡率は80
パーセントに達することが認められる。
しかし,上記検査所見からは,亡Dがいつ心筋梗塞を発症したのかは確
定することができず,また,CKやトロポニンTの数値の上昇は,心停止,
心マッサージの影響を受けている可能性がある(上記ア)。加えて,亡
Dは発見後の心肺蘇生措置によりいったんは蘇生していること,亡Dが発
見された際のショック状態は,本件熱傷からも生じ得るものであり(甲B
2,証人I),急性心筋梗塞の合併症としてショック状態に陥っていたと
は断定することができないことからすると,亡Dが,本件熱傷とは無関係
に急性心筋梗塞によりショック状態となり,突然死したと認定することは
できない。
なお,本件鑑定結果聴取書には,「本屍の死因は,虚血性心疾患と考え
られ,最終的に肺水腫に陥り,死亡したと推定される。」との記述がある
が,熱傷によるショックでも,血圧が低下し,心不全に陥って死亡する
(甲B2,証人I)から,上記記述から,亡Dの死因が急性心筋梗塞によ
るものと認定することはできない。
エまた,亡Dに対して本件事故後に行われた治療は,いずれも重症熱傷に
対する治療であり(前記ア,甲B2,証人I),心エコー検査により,
亡Dに下壁梗塞の疑いがあると確認することができた後も,亡Dの本件熱
傷の容態に照らして,冠動脈カテーテル造影検査を行うこともできなかっ
たのであるから(証人L,弁論の全趣旨),亡Dは,本件熱傷を負ったた
めに,心筋梗塞の詳細な検査すら行うことができない状態にあったと認め
られる。
そして,心筋梗塞の急性期での死亡率は,20ないし30パーセントで
あり,冠動脈閉塞部分の再灌流措置である冠動脈インターベンション(P
CI)や,抗凝固療法等の治療法が存在するところ(乙B2,20,D1
添付の文献5),亡Dが本件熱傷を負っていなければ,本件小浴室内で心
筋梗塞を発症して倒れているところを発見されたとしても,直ちに冠動脈
カテーテル造影検査を経て上記治療法を実施することができたと考えられ
る。
オ以上によれば,上記のとおり,被告側の過失と亡Dが本件熱傷を負っ
たことの間には相当因果関係が認められ,かつ,亡Dは本件熱傷により死
亡したと認められるのであるから,結局,被告側の過失と亡Dの死亡との
間には,相当因果関係が認められるというべきである。
8争点⑦(損害)について
亡Dの損害及び相続
亡Dが,膝関節の疾患の治療のために被告病院に入院したのに,疾患とは
無関係に浴室で熱傷を負って死亡したこと,意識を喪失していたとはいうも
のの熱湯を浴び続け,全身の重症熱傷を負い,出血・下血や細胞外液の滲出
も止まらないという悲惨な状態となり,治療も効を奏しないまま死亡したこ
とを考慮すると,亡Dが死亡するに至るまでに受けた精神的苦痛は相当に重
大であったと考えられる。この事情に加え,被告側の過失の内容,亡Dが本
件熱傷を負った際の亡Dの行動等本件に現れた一切の事情を考慮すると,亡
Dの死亡慰謝料は,1000万円が相当である。
そして,前記前提事実によれば,亡Dの相続人は,夫の原告A並びに子の
同B及び同Cであるから,上記の死亡慰謝料請求権は,原告Aが500万円
を,原告B及び同Cが各250万円を相続した。
原告A固有の損害
前記のような状態で亡Dが死亡したことにより,同人の夫である原告A
が被った精神的苦痛を慰謝するに足りる慰謝料は,300万円が相当である。
また,証拠(甲C2)及び弁論の全趣旨によれば,原告Aは,亡Dの葬儀
費用を負担したことが認められるところ,本件過失と相当因果関係のある葬
儀費用は,150万円と認めるのが相当である。
原告B固有の損害
前記のような状態で亡Dが死亡したことにより,同人の子であり,かつ
亡Dと同居していた原告Bが被った精神的苦痛を慰謝するに足りる慰謝料は,
200万円が相当である。
また,弁論の全趣旨によれば,原告らは,被告に対して各自の損害を請求
するために本件訴訟を提起するに当たり,弁護士に依頼せざるを得なかった
ところ,弁護士費用はすべて原告Bが負担したことが認められるところ,本
件過失と相当因果関係のある弁護士費用は,175万円が相当である。
原告C固有の損害
前記のような状態で亡Dが死亡したことにより,同人の子である原告C
が被った精神的苦痛を慰謝するに足りる慰謝料は,100万円が相当である。
被告の主張について
被害者に対する加害行為と被害者の罹患していた疾患とがともに原因とな
って損害が発生した場合において,当該疾患の態様,程度などに照らし,加
害者に損害の全部を賠償させるのが公平を失するときは,裁判所は,損害賠
償の額を定めるに当たり,民法722条2項の過失相殺の規定を類推適用し
て,被害者の当該疾患を斟酌することができるものと解するのが相当である。
なぜなら,このような場合においてもなお,被害者に生じた損害の全部を加
害者に賠償させるのは,損害の公平な分担を図る損害賠償法の理念に反する
ものといわなければならないからである(最高裁昭和63年第1094号
平成4年6月25日第1小法廷判決・民集46巻4号400頁)。
被告は,上記最高裁判例を引用し,仮に被告側の過失と亡Dの死亡との間
に因果関係があるとしても,亡Dは,重症熱傷に至る前に発作性の心不全を
起こして意識を失い,そのために重症熱傷を避けることができなかったこと
からすれば,亡Dの死亡には発作性心不全が大きく寄与しているから,被告
の責任は相応に減責されるべきであると主張する。
しかし,亡Dに心筋梗塞が発症していたことは認められるものの,前記7
ウ判示のとおり,その時期や程度を確定することはできず,本件熱傷の発
生に心筋梗塞が大きく寄与したとは認定することができないから,被告の上
記主張は採用することができない。
まとめ
以上によれば,被告は,使用者責任(不法行為)による損害賠償として,
原告Aに対しては950万円,原告Bに対しては625万円,原告Cに対し
ては350万円の損害賠償金及びこれらに対する不法行為の日の後である平
成21年6月25日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損
害金を支払う義務を負うというべきである。
9債務不履行による損害賠償請求について
仮に被告に診療契約上の安全配慮義務違反の債務不履行が認められたとして
も,原告らの請求金額は不法行為による損害賠償請求と同額であり,被告が前
記8の金額を超えて債務不履行による損害賠償金を支払う義務を負うことは
ないから,被告の債務不履行責任の有無について判断するまでもなく,原告ら
の被告に対する債務不履行による損害賠償請求(ただし,前記8認定額を超
える部分)はいずれも認められないというべきである。
第4結論
よって,原告らの請求は,主文第1項ないし第3項の範囲で理由があるからこ
の限度で認容し,その余をいずれも棄却することとして,訴訟費用の負担につき
民訴法61条,64条を,仮執行宣言につき民訴法259条1項を適用して,主
文のとおり判決する。
なお,仮執行免脱宣言は,相当ではないから,これを付さないこととする。
千葉地方裁判所民事第2部
裁判長裁判官白石史子
裁判官合田智子
裁判官酒井直樹
(別紙省略)

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