弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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○ 主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
○ 事実
(当事者の求める裁判)
控訴人は、「原判決中控訴人に関する部分を取り消す。被控訴人が控訴人に対し昭
和四五年六月六日付でなした懲戒免職処分を取り消す。訴訟費用は第一、二審とも
被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴人は、主文同旨の判決を求め
た。
(当事者の主張)
当事者双方の主張は、次に付加、訂正するほかは、原判決事実摘示中控訴人に関す
る部分のとおりであるから、これを引用する。
一 原判決の付加、訂正
1 原判決A一四頁末行の「1ないし3」を「1、2」と改める。
2 同A三一頁二行目の「ならないのである」の次に「(地方教育行政の組織及び
運営に関する法律二三条二号、福岡県教育財産管理事務取扱規則(昭和三九年福岡
県教育委員会規則七号)四、一四条、福岡県教育委員会事務決裁規程一三条)」を
加える。
3 同A三二頁一五行目の次に「更に、このような書籍のレポートを生徒に提出さ
せたことは、教育基本法八条、教育公務員特例法二一条の三、本件学習指導要領二
章二節二款第二政治経済一目標(2)、(6)並びに同三指導計画作成および指導
上の留意事項(2)、(3)、(5)に違反する。」を加える。
4 同A三二頁末行の「(二)」を「(2)」と改める。
5 同A三六頁二行目の「(六)一律評価について」を「(六)考査不実施と一律
評価について」と改め、同三行目の「実施しないこと」の次に「及び一律評価」を
加え、同A三七頁の一五行目の次に「3、一律評価は、学校教育法施行規則二七、
六五条、右本件評価規定、地公法三二条に違反する。」を加える。
二 被控訴人の処分事由の主張の追加
1 控訴人の信用失墜行為
控訴人の行つた教育は、次のとおりその職の信用を傷つけるものであつた。
(1) 控訴人は、生徒に対し大学へ進むことを断念させるような指導を行い、教
師に対する期待と信頼に背いた。
(2) 昭和四五年三月六日開催の福岡県議会において伝習館高校の一部教師が生
徒に対して偏向した政治的教育を行つていることが指摘された。
(3) 伝習館高校の父兄及び卒業生をもつて組織された伝習館を守る会は昭和四
七年九月一日付「伝習館を守る」を作成のうえ地域住民に配布した。
(4) 西日本新聞昭和四五年五月一八日付夕刊は、「引きさかれた教育」と題し
て伝習館高校における控訴人の授業の実態を変つた授業として報じた。
(5) 朝日新聞昭和四五年六月二一日付朝刊は、控訴人の前年度一年間の授業を
再現した記事を掲載した。
(6) 昭和四七年七月二四日付赤旗は、控訴人の教育を「虚無と挑発の教育」と
題して報じた。右は地方公務員法三三条、二九条一項に当る。
2 控訴人の処分事由原判決摘示1、2、3、5(1)、(2)、(3)の行為
は、教育の政治的中立に違反する。右は、教育基本法八条、教育公務員特例法二一
条の三に当る。
三 被控訴人の本件処分の妥当性についての主張
1 徴戒権者がその裁量権の行使としてした懲戒処分は、それが社会観念上著しく
妥当を欠いて裁量権を濫用したと認められる場合に限り違法であると判断すべきで
あり(最高裁判所昭和五二年一二月二〇日第三小法廷判決民集三一巻七号一一〇一
頁、いわゆる神戸税関事件)、濫用の判断には行為の原因、動機、性質、態様、結
果、影響、行為の前後における態度、懲戒処分等の処分歴、処分が他の公務員、社
会に与える影響等の事情を考慮すべきである。
そして、「原因、動機」としては、基本的に控訴人は一般の地方公務貝に比しその
公共性、重要性の格段に高い教育公務員としての資質、自覚が欠如し、直接的には
大学受験教育打破という誤つた考え方を実施したことである。「性質、態様」は、
控訴人は、本件学習指導要領及び教科書使用義務を無視ないし著しく逸脱し現行の
高等学校教育を充足しなかつた。「結果、影響」としては、控訴人は、大学進学希
望者八割に及ぶ伝習館高校において受験教育打破を公言し、不十分な授業をし、生
徒、父兄に不信感と失望を与え、生徒が高等学校教育の期待する教育効果を得るこ
となく卒業し、県民の高校の教育及び教諭に対する信用を著しく失墜した。「処分
が他の公務員に与える影響」としては、福岡県下の高校教諭中に控訴人のような授
業、言動を重ねているものがあつても、授業は教室において教諭と生徒の間で行わ
れるものであるため、被控訴人及び校長としてはこれを発見、是正する方法がな
い。被控訴人がたまたま直接に調査した結果による本件処分は、同様な傾向のある
教諭に対し反省を求めるための一罰百戒としての訓戒的効果をもつものである。
2 控訴人は、昭和四三年一二月一四日ストライキ参加により戒告、昭和四五年一
月一四日ストライキ参加により減給一月の各懲戒処分を受けている。
3 更に、本件各懲戒処分の妥当性は、各処分事由を要素とする控訴人の教育に対
する基本的態度を全体として評価して決すべきである。
四 被控訴人の右二の主張に対する控訴人の認否
被控訴人主張右二の処分事由はこれを争う。
教育基本法八条二項等において禁止される政治的活動とは、特定の政党、党派の政
策ないし政治的立場を推進しあるいは反対するための政治的教育その他政治活動で
あつて、政治的宣伝であることが明白な場合に限定されると解さなければならな
い。
五 控訴人の本件学習指導要領の効力についての主張の追加
高等学校の教育ことにその社会科教育は、同じ普通教育であるといつても小学校、
中学校の教育と異なるものがあり、青年期教育としてこれに応じたものでなくては
ならず、本件学習指導要領の効力もこの観点からも検討さるべきである。
(証拠関係)(省略)
○ 理由
第一 本件処分に至る経緯等
一 控訴人の経歴
当事者間に争いのない請求原因(一)の事実並びに成立に争いのない甲第五四号
証、原審及び当審における控訴人本人尋問の結果によれば、次の事実を認めること
ができる。
控訴人(昭和一六年一一月二五日生)は、昭和四一年三月早稲田大学第一文学部哲
学科(東洋哲学専修)を卒業し、同年四月から伝習館高校教諭として勤務し、本件
処分に至るまで主として社会科の倫理社会及び政治経済を担当し、年度により時に
日本史、地理、世界史を一部担当していた。
二 本件処分に至る経緯
当事者間に争いのない請求原因(二)の事実並びに乙第三〇ないし三三号証の記載
自体、成立に争いのない甲第四五、四六、五四号証、乙第四号証、第三四号証の一
ないし四、第三七、七六ないし八二号証、原審証人Aの証言により真正に成立した
と認められる甲第二四号証、公文書であつて真正に成立したと認められる乙第六九
ないし七一号証、原審証人B、同C、同D、同E、同F、同G、同H、同I、同
J、同K、同L、同A、同M、同N、同O、P、同Q、同R、同Sの各証言を総合
すると、次の事実を認めることができる。
1 伝習館高校は、旧立花藩の藩校の名を継承し、
旧制中学以来福岡県下でも古い歴史をもつ学校の一つであり、新制高校として発足
後も名門校あるいは大学受験における受験校としてある程度の実績を有していた。
2 伝習館高校を含む大部分の福岡県立高等学校においては、昭和四二年度頃まで
事実上職員会議が校務運営を最高決議機関として決定するという校務運営規定を有
し、校長がこれを承認するという校務運営がなされ、新任の校長任命もほとんど福
岡県高等学校教職員組合の推せんする者又は承認する者を被控訴人である福岡県教
育委員会において任命するということが行われていた。
ところが、右職員会議の最高議決機関制や校長推せん制に疑問を持つた県教委が昭
和四三年四月大部分高教組の推せんのない者を新任校長に任命したため、高教組
は、その新任校長の着任拒否闘争を行い、そのため同年七月右闘争参加教諭に対す
る懲戒処分があつた。また、同年一〇月八日、昭和四四年一一月一三日には高教組
の人事院勧告完全実施等を要求する休暇闘争が行われ、その参加者に対する懲戒処
分があつた。
伝習館高校長Eは、昭和四三年四月福岡県立久留米盲学校長から着任したが、新任
校長ではなかつたため右着任拒否闘争の対象とはならなかつたものの、前記のよう
な状況から、着任後本件処分に至るまで、E校長と個々の同校教諭との話合いは高
教組役員を通じてするといつた状態で、その間の意思の疎通を欠き、校長の充分な
指導監督ができない状況であつた。
3 E校長は、昭和四四年一学期末頃教諭の一部において教科書を離れた授業を行
い、控訴人及びT教諭が成績評価について一律評価をしていることを他の教諭から
聞き、その頃の職員会議の席上、授業は教科書を基本にして行うべきであると注意
を促し、一律評価については二学期始項G教務部長等に本人に注意するよう依頼し
た。また、同年一一月中旬頃職員会議で自習時間が多く、かつ自習時間には課題を
出すことになつているのにこれをしていない教諭がいるので、そのようなことのな
いよう注意し、同年二学期末頃前記一律評価についても職員会議で注意した。
4 被控訴人の事務局である福岡県教育庁教育次長Bは、昭和四四年一一月頃伝習
館高校においては控訴人、U、T、L各教諭について、授業に自習時間が多く困つ
ているので、調査の上指導措置をすべきではないかとの匿名の投書及び電話を受
け、
教育長Kに報告し、右四名を重点として伝習館高校教職員の服務の実態を調査する
こととした。
そして、同庁の人事管理主事C及びV、W、X各主事は、同年一二月七日(日曜
日)伝習館高校において前記教諭四名の服務状況の調査を行つた。当日は、C主事
の事務連絡によりE校長、F教頭、Y事務長、G教務部長、Z生徒部長が立会つ
た。E校長らは、校長に調査報告を求めず、直接調査に来校したことに難色を示し
たが、C主事らは、教育次長の命令によるものであり、また同年六月小倉工業高校
でも自習時間が著しく多いことが取り上げられて調査したことがあることを説明し
て協力方を要請した結果、調査がなされた。
その調査の内容は、前記四教諭の一〇月及び一一月中の服務状況に主眼が置かれ、
調査資料は、出勤簿、出張命令簿、行事予定表、時間割、服務関係整理簿、教務日
誌、学級日誌等に及んだ。その結果は、小倉工業高校の場合ほど自習時間が多くな
く、自習時間自体としてはさして問題とすることはないというもので、教育庁とし
ては、直ちに結論を出さず、しばらく静観することとなつた。
5 ところで、伝習館高校においては、翌一二月八日職員会議が開催され、その席
上校長及び教頭から前日の教育庁職員による調査の概要を説明し、また一部教諭は
ホームルーム等を利用して右調査を生徒に知らせた。
ところが、同月二四日二学期の終業式の際、E校長は、生徒から右調査は教育庁に
よる不当な介入であるか否かなど五項目にわたる質問を出され、所見を求められた
が、即答を避け、来る一月八日の始業式の際全校生徒に対しその見解を表明するこ
とを約束した。
昭和四五年一月七日開催された職員会議では、教育庁の前記調査は手続的に校長に
報告を求めることなく直接調査したこと、実体的にも教育内容ことに学級日誌まで
調査したことは教育庁の不当な介入であるとの意見が多数を占め、結局右調査は教
育庁による不当な介入であると決議した。
翌一月八日E校長は、右決議に則り始業式において全生徒に対し右決議の趣旨を述
べた。そして、その後開催された職員会議でE校長は一月一六日に再度生徒に対す
る説明会と各教諭の意見発表を行うことを約束した。
右始業式後、始業式における校長の発言と一月一六日開催予定の説明会のことが教
育庁の知るところとなり、B次長は、
E校長を教育庁に呼び、始業式における発言の取消、一六日の説明会の中止等を説
得したが、一月一六日の説明会は開催された。
6 伝習館高校の教諭有志は、昭和四五年二月一一日の建国記念の日に生徒らも参
加しての建国記念の日についての討論会を企画し、同月一〇日午後四時頃から控訴
人、P1、P2、L各教諭が同校内において生徒らに「国家幻想の破砕を」と題し
翌日の登校と討論会を呼びかける別紙四記載のビラを配布し、翌一一日同校会議室
において控訴人、L、P3、A各教諭、生徒約五〇名が参加して討論会が開催され
た。
7 その後、同年二月中旬頃「柳川伝習館高校を守る会」準備委員会在東京委員会
という名義の同月一〇日付の作成者不明の二月アピールと題する文書(乙第三〇号
証、以下「二月アピール」という。)が福岡県教育庁関係者、伝習館高校の教諭、
父兄、同窓生らに対し多数郵送された。その記載内容は多岐にわたるが、控訴人は
いわゆる三派系造反教諭であるとし、同人を先頭にU、T、L、P1各教諭を中心
に勢力を拡張しつつあるとして、同人らの学校内外での具体的言動なるものが列挙
されていた。
右二月アピールに対抗して、同窓会有志名義で「伝習館を支持する会」なるものも
結成され、右五教諭を擁護するビラを配布し、以後双方から数多くの文書が配布さ
れた。
右二月アピールを契機として、伝習館高校の教諭、生徒を含む学内は動揺し、右五
教諭はこれに反発した。
そこで、B次長は、E校長に対し右二月アピール記載内容の真相を確めるべく報告
を求めたが、その報告によつても判然とせず要領を得なかつた。
8 このような学内動揺のうちに伝習館高校は同年三月一日卒業式を迎えた。とこ
ろが、右卒業式において県教育長代理のP4学校教育課長が告辞の朗読を始めるや
一部の生徒が「拒否」と書かれた横幕を掲げ、ヤジを飛ばし、校歌斉唱のとき労働
歌をうたうなどして、式場は騒然となつた。
9 更に、同年三月六、七日の両日福岡県議会が開催された際、P5、P6両県議
会議員が、伝習館高校に関する諸問題について質問し、K教育長は、これに対し二
月アピールの真相、卒業式の混乱等についてはその調査結果をまつて必要な措置を
とること、学校の管理運営及び生徒指導の適正化についても必要な措置をとること
等を回答した。
10 そこで、教育庁のO教職員課々長補佐、P、P7、P8、H、Rの各職員
は、同年三月一七日(春休み)に伝習館高校において第二回目の調査を行つた。調
査の目的は、同校における教育計画の実施状況、教師の服務の実態、前記二月アピ
ール記載内容の真相、卒業式混乱の責任等を中心とするものであつた。同日の調査
には高教組本部書記長、伝習館分会長ら数名の組合役貝が立会した。組合役員らの
調査に対する抗議等の影響もあつて、同日午前中は調査が進まず、午後一時頃から
午後六時三〇分頃まで提出書類等の調査を行つたが、学級日誌、成績評価表、伝習
新聞等が提出されなかつた関係もあつて、同日の調査は不十分な結果に終つた。
教育庁は、伝習館高校へ出向いての調査は円滑な調査が困難であると判断し、その
後、E校長から関係諸帳簿の提出を得て、分析調査を行つた。その提出書類は、こ
れまで調査した書類のほか伝習新聞、クラブ活動関係書類、試験問題、成績評価表
等であつたが、学級日誌は四月になつて同校S教諭らを通じて約五冊が提出され
た。
以上により、教育庁においては、同校教諭の教育活動に問題があることが認められ
たが、結局直接授業を受けた生徒又は卒業生についてその状況を確認する必要があ
るということになつた。
11 ところで、前記伝習館高校S教諭(化学担当)は、昭和四四年一一月一三日
の休暇闘争直前の同月上旬高教組を脱退したものであり、昭和四五年一月及び四月
U教諭に対し高教組脱退をすすめたこともあつたが、同年二月上旬教育庁B次長か
ら控訴人の行動についての調査協力方の要請を受けてこれを承諾していたことか
ら、控訴人が同月一〇日に配布したビラを翌一一日にB次長に届け、更に、前記の
とおり学級日誌を教育庁に届け、後記の教育庁の生徒等の調査に協力した。
12 そして、教育庁の前記O、P、Rの各職員は、同年四月二一日から二三日ま
での三日間柳川市において、主として前記S教諭の紹介によりその担任学級の生徒
又は卒業生約一〇名を中心として、控訴人、U、T各教諭の教科書使用実態、試験
問題等教育活動全般について事情聴取した。
更に、教育庁のC、P、D、Q、Rの各職員は、同年五月一三日から一六日までの
四日間柳川市において右同様に生徒、卒業生、父兄等約一五名から事情聴取した。
13 右二回の調査結果は、同年五月一〇日付の右O、P、C、D、Q、R連名の
報告書でK教育長に報告され、K教育長はこれらに基いて被控訴人である県教委に
対し、控訴人、U、T教諭の懲戒免職処分の提案をし、被控訴人は同年六月六日控
訴人、U、T教諭を懲戒免職した。
これより先、被控訴人は、同年六月一日E校長を所属職員に対する適切な指導監督
を怠つたとして減給処分にし、同校長は翌二日退職した。
14 そして、控訴人に対する処分説明書によれば、処分の理由は、「被処分者
は、昭和四三年四月以降再三にわたり、学校新聞等に現体制を否定するなどの特定
思想を生徒に啓蒙する文章を寄稿掲載し、さらに、同四五年二月一〇日には勤務時
間中校内において伝習館教師集団有志名義の「国家幻想の破砕を」と題する文書を
作成して生徒に配布し、建国記念の日を否定する趣旨の呼びかけを行うなど、生徒
に対し特定思想の鼓吹を図つた。また、昭和四二年度、同四三年度および同四四年
度の担当科目の授業において、所定の教科書を使用せず、かつ同四四年度における
生徒の成績評価に関して、所定の考査を実施せず、一律の評価を行つた。これらの
行為は、職務上の義務に違反し、職務を怠つたものである。」というのであり、根
拠法令として、地方公務員法(以下「地公法」という。)二九条一項に当るとして
いる。
第二 本件処分事由の主張
被控訴人は、本訴において右本件処分について、事実摘示のとおり、控訴人には大
要次のような処分事由があり、これに対する法令の適用は次のとおりであると主張
する。
一 処分事由
1 特別教育活動である演劇部主任として、昭和四三年一〇月五日及び六日公演の
「雨は涙か溜め息か」なる演劇のパンフレツトに別紙一の「夢幻の呪詛」と題する
一文を寄稿して掲載させ、これは生徒全員に配布されたが、右一文は、演劇は革命
を演出するものであり、革命とは現実の体制を精神的、制度的に破壊することであ
ると生徒に受け取られるものである。
2 特別教育活動である新聞部の顧問であつたところ、同部発行の伝習新聞第一〇
〇号(昭和四四年四月九日発行)に別紙二の「老いているであろう新入生諸君」と
題する一文を、同第一〇三号(昭和四四年六月三日発行)に別紙三の「想像力が権
力を奪う」と題する一文を寄稿して掲載させたが、前者の一文には、高校生活に期
待をもつて入学してきた新入生に対し高校教師としてふさわしくない非教育的言辞
が羅列されており、後者の一文には、革命をすすめ法律を破り、暴力や学校破壊を
奨励する言辞が羅列されている。
3 (1)昭和四五年二月一〇日勤務時間中に伝習館高校図書館において「国家幻
想の破砕を」と題する別紙四のビラを作成、印刷し、同日午後四時ごろ同校内にお
いて自ら生徒らに配布し、(2)翌一一日休業日であるのに、校長の許可を受ける
ことなく、生徒を登校させ、同校内で建国記念の日否定などのための討論会を開催
した。
4 担当の昭和四三、四四年度の倫理社会(二年生)政治経済(三年生)の授業に
おいて、所定の教科書を使用しなかつた。
5 (1)担当の昭和四三年度三年生の三学期の政治経済の授業において、昭和四
四年二月ごろ「共産党宣言」(マルクス)、「空想より科学へ」(エンゲルス)を
読み、そのいずれかの読後感をレポートとして提出するよう求めたが、その際「夏
休みに出そうと思つたが、大学受験の勉強ができないようにこの時期に出す。」と
生徒に発言した。
(2) 担当の昭和四三年度三年生の政治経済の授業において、最近のフランス学
生運動をとり上げてこれを肯定する内容の講義をし、さらにその考査において「フ
ランス革命運動の背景とその原因について」という問題を出題した。
(3) 担当の昭和四四年度二年生の倫理社会の授業において、年度当初から二学
期末までの間週二時間の授業時数のうち一時間は同校の図書館において課題研究を
命じて生徒を放任し、指導監督を怠つた。
6 担当の昭和四四年度二年生一、四、六、八、九、一〇組の倫理社会、同年度三
年生の一、六組の政治経済について、成績評価にあたり、校内規定に違反して、
(1)一学期に、考査を実施せず、(2)同学期に、生徒全員に一律六〇点と評定
し、(3)同年七月ころ校長から右評価の仕方を是正するように指示されたにもか
かわらず、二学期の倫理社会について再び全員一律六〇点と評定し、(4)三学期
に再び右各科目について考査を実施しなかつた。
7 控訴人の行つた教育は、次のとおりその職の信用を傷つけるものであつた。
(1) 控訴人は、生徒に対し大学へ進むことを断念させるような指導を行い、教
師に対する期待と信頼に背いた。
(2) 昭和四五年三月六日開催の福岡県議会において伝習館高校の一部教師が生
徒に対して偏向した政治的教育を行つていることが指摘された。
(3) 伝習館高校の父兄及び卒業生をもつて組織された伝習館を守る会は昭和四
七年九月一日付「伝習館を守る」を作成のうえ地域住民に配布した。
(4) 西日本新聞昭和四五年五月一八日付夕刊は「引きさかれた教育」と題して
伝習館高校における授業の実態として控訴人の授業を変つた授業として報じた。
(5) 朝日新聞昭和四五年六月二一日付朝刊は、控訴人の前年度一年間の授業を
再現した記事を掲載した。
(6) 昭和四七年七月二四日付赤旗は控訴人の教育を「虚無と挑発の教育」と題
して報じた。
8 右1、2、3、5(1)、(2)、(3)の行為は、教育の政治的中立に違反
する。
二 法令の適用
1 右1、2の演劇ペンフレツト、伝習新聞への寄稿掲載について学校教育法(以
下「学教法」という。)四二条高等学校学習指導要領(昭和三五年文部省告示九四
号、以下「本件学習指導要領」という。)一章二節七款道
徳教育
同三章一節特別教育活動一款目標
地公法三二条
2 右3のうち配布ビラ記載内容及び討論内容について
学教法四二条
右3のうち勤務時間中のビラの作成、配布について
地公法三五条
右3のうち生徒を登校させて討論会を開催した点について
地方教育行政の組織及び運営に関する法律(以下「地教行法」という。)二三条五

福岡県立高等学校学則(昭和三二年福岡県教育委員会規則一四号)五条六項
右3のうち校長の許可なく会議室を使用した点について
地教行法二三条二号
福岡県教育財産管理事務取扱規則(昭和三九年福岡県教育委員会規則七号)四、一
四条
福岡県教育委員会事務決裁規程一三条
右3すべてについて
地公法三二条
3 右4の教科書使用義務違反について
学教法二一、五一条
地公法三二条
4 右5(1)のうちレポート提出の時期について
本件学習指導要領一章二節六款指導計画作成及び指導の一般方針1(1)、(3)
地公法三二条
右5(1)のうちこのような書籍のレポートを提出させた点について
教育基本法(以下「教基法」という。)八条
教育公務員特例法二一条の三
本件学習指導要領二章二節二款第二政治経済一目標(2)、(6)並びに三指導計
画作成および指導上の留意事項(2)、(3)、
(5)
地公法三二条
右5(2)のフランス学生運動の授業について
本件学習指導要領の当該規定
学教法四二条
地公法三二条
右5(3)の図書館における課題研究について
地公法三二条、三五条
5 右6の考査不実施及び一律評価について
学教法施行規則二七、六五条
福岡県立高等学校学則八条
校内規定である生徒心得
地公法三二条
6 右7の信用失墜行為について
地公法三三条
7 右8の教育の政治的中立違反について
教基法八条
教育公務員特例法二一条の三
8 右1ないし8について
地公法二九条一項一ないし三号
そこで、まず、右適用法令のうち、特に当事者間に争いのある本件学習指導要領の
効力、教育の政治的中立及び教科書使用義務について判断し、ついで、本件処分事
由について認定判断することとする。
第三 わが国の教育法制と本件学習指導要領の効力及び教育の政治的中立
一 子どもの教育は、子どもにとつて必要不可欠なものであり、また共同社会にと
つても欠くことのできないものである。そして、子どもの教育は、まず親によつて
行われるものであるが、近代国家及び社会においては、子どもの教育は、教基法一
条にあるように、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真
理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ち
た心身ともに健康な国民の育成を期することを目的とするものである。ところで、
近代国家及び社会におけるこのような教育は、親ないし私的施設によつては対応し
きれないものであるので、現代国家においては、主として国公立の学校を中心とす
る公教育制度によつて、直接的には教師によつて行われることになつている。
このように成長過程にある子どもに決定的な役割を果たす公教育としての普通教育
ことにその内容及び方法について、親、国及び教師が深い関心を持つのは当然のこ
とであり、これらが一致協力してこのような教育を行うべきである。しかしなが
ら、本件で問題となつている普通教育における国と教師との関係についていえば、
国は、国政の一部として子ども自身の利益のためあるいは国家及び社会の形成者と
しての子どもを成長させるため、公教育としての普通教育を設置し適切な教育政策
を樹立実施すべきものであり、一方、教師には、子どもの教育は教師と子どもとの
直接の人格的接触によりその個性に応じて行わなければならないという教育の理念
ないし本質から、教育ことにその具体的内容及び方法について一定の範囲の自由裁
量ないし自主性が認められるべきであり、その創意工夫が尊重されるべきであるの
で、国と教師の間に普通教育の内容及び方法について主張の対立が起ることのある
のは避けられないところであり、このことはわが国の戦後の教育制度の基本的重要
問題の一つとなつている。
二 そこで、右の点についての憲法の規定をみるに、憲法二六条は、一項におい
て、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教
育を受ける権利を有する。」と定め、二項において、「すべて国民は、法律の定め
るところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育
は、これを無償とする。」と定めているが、この規定は、子どもの教育についてい
えば、子どもは自己に対し教育を施すことを要求する権利を有し、親は子どもに対
し普通教育を受けさせる義務を負い、国は普通教育の費用を負担すべきことを定め
たものであつて、直接的に普通教育の内容及び方法を決定すべきものを定めたもの
ではない。しかしながら、この規定は、普通教育についてその機会均等の確保と一
定水準の維持がはかられるべき趣旨を含むものと解される。
次に、憲法二三条は、「学問の自由は、これを保障する。」と規定するが、これに
よつて直ちに普通教育における教師の完全な教授の自由を認めたものとはいい難
く、前記の如く教育の理念ないし本質から、普通教育の教師にも一定の範囲の教授
の自由が認められるが、普通教育の児童生徒は教授内容を批判する能力に乏しく、
教師の影響力、支配力を受け易く、また、前記の普通教育の機会均等の確保と一定
水準の維持の目的から、普通教育の教師の教授の自由が制限されることはやむをえ
ないものである。もつとも、本件で問題となつている普通教育である高等学校教育
は義務教育ではなく、高等学校三年生はその学年中に満一八歳に達するものであ
り、満一八歳以上になると選挙権の与えられる欧米諸国もあることを考えると、そ
の批判力については相当程度のものが備わつているものと考えるべきである。
以上によれば、憲法は、国と教師とのいずれかのみに普通教育の内容及び方法に対
する権能があると一義的に明示しているものではない。
三 次に、その制定の経緯よりして、他の法令と矛盾するものでない限り、教育関
係法令の解釈及び運用の理念ないし原理とされるべき教基法についてみることとす
る。
まず、教基法一〇条は、一項において、「教育は、不当な支配に服することなく、
国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」と定め、二項にお
いて、「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の
整備確立を目標として行われなければならない。」と定めているが、この規定は、
国の教育行政機関の行う行政教育関係法令の適用において特定的に命じていること
を執行する場合を除き、その運用解釈において不当な支配となることがあり得るの
で、国の教育行政は教育の目的を遂行するため必要な諸条件の整備確立ことに教育
の内容及び方法に介入するに当つては、前記の教育の理念ないし本質からの教師の
教授の自由ないし自主性を尊重し、不当な支配となることのないようすべきことを
定め、国の教育の内容及び方法に対する介入が不当な支配と認められるときは、そ
の介入は違法なものとなることを定めたものというべきであるが、国が普通教育の
内容及び方法について関与することを禁止したものとはいい難い。
更に、教基法八条は、一項において、「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、
教育上これを尊重しなければならない。」と定め、二項において、「法律に定める
学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活
動をしてはならない。」と定め、わが国の憲法が議会制民主主義をとつているの
で、国民の政治的教養が必要不可欠のものであることから、政治的教養教育を尊重
すべきものとし、前記教基法一〇条において国の不当な支配による政治的中立の侵
害を禁ずると共に、学校及び教師に対しても、教育において政治的活動をすること
を禁じ、その政治的中立を求め、教師の教授の自由に制限を設けている。
四 従つて、普通教育の内容及び方法に対する国及び教師の権能の間には、前記の
憲法及び教基法の趣旨、その他の教育関係法制、教育の理念ないし本質等に照ら
し、子ども自身の利益及び子どもの成長に対する社会公共の利益のため、妥当な調
整がはかられるべきであり、その際本件において問題となつているものに限つてい
えば(従つて、宗教教育、地方自治の原則等の問題は省略することとする。)、次
の諸点を考慮すべきである。(1)前記のとおり普通教育の児童生徒は教授内容を
批判する能力に乏しく、教師の影響力、支配力を受け易い(もつとも、高等学校三
年生については批判力において相当のものが備わつていると解すべきことも前記の
とおりである。)。(2)普通教育においては子どもの側に学校や教師を選択する
余地が乏しく、普通教育の機会均等と一定水準を維持すべき要請がある。(3)前
記のとおり教育の理念ないし本質から普通教育の教師にも一定の範囲の教授の自由
ないし自主性が認められるべきであり、その教師はすべて教育職員免許法による免
許を有する専門職である。(4)前記のとおり、国民の政治的教養は必要不可欠の
ものであるから、普通教育においてもこれを尊重すべきものである反面、普通教育
において学校及び教師が政治的に中立であることが要請される。(5)戦前のわが
国の教育が国家の強い支配の下で形式的画一的に流れ、時に軍国主義的又は極端な
国家主義的傾向を帯びる面があつたことに対する反省をすると共に、戦後の議会制
民主主義をとる現在の政党政治による国政上の意思決定には政治的に中立であるべ
き教育に政治的影響が深く入り込む危険があることを考え、その時々の政治状況に
のみ迷わされて判断することなく、如何なる政治状況においても妥当な調整を考え
るべきであり、国の教育の内容及び方法に対する不当な支配介入は許されず、その
介入は抑制的であることが要請される。
五 以上によつてみると、国及び教師の一方にのみ普通教育の内容及び方法を決定
する権能があると解するのは相当ではなく、国も、教育の内容及び方法に対する権
能を有し、不当な支配介入は違法となるにしても、教育の機会均等の確保と一定水
準の維持という目的のため、前記の教師の自主性及びその資格を有する専門職であ
ることを考慮して、必要かつ合理的と認められる範囲において、かつその範囲に限
つて教育の内容及び方法についての基準を設定しうるものと解すべきである。
更に、国は、不当な支配となることのないよう配慮しつつ、学校及び教師において
その教育の内容及び方法が政治的に中立であるよう規制することができるものと解
するのが相当である。
六 ところで、本件学習指導要領は、学教法四三条、一〇六条一項、同法施行規則
五七条の二の委任に基づいて、文部大臣が、告示として、普通教育である高等学校
の教育の内容及び方法についての基準を定めたもので、法規としての性質を有する
ものということができる。
本件学習指導要領は、おおよそ別紙六記載の目次のような構成になつており、その
本件に関係のある部分は別紙六記載のとおりであるところ、その授権規定である右
学教法四三条、一〇六条一項は、「高等学校の学科及び教科に関する事項は、前二
条(高等学校の目的及び目標)に従い、監督庁(文部大臣)が、これを定める。」
と規定しているが、この規定から明らかなように、その委任したものは、高等学校
における教育の機会均等と一定水準の維持の目的のための基準であり、本件学習指
導要領を定めるについて教育の政治的中立の観点を考慮してなされたものであるこ
とは認められるものの、本件学習指導要領は、教育の政治的中立の規制の基準をも
定めたものとは解されない。そして、これについては、現行法上教基法八条、教育
公務員特例法二一条の三、国家公務員法一〇二条、人事院規則一四-七によつて判
断すべきものと解される(義務教育諸学校における教育の政治的中立に関する臨時
措置法は義務教育でない本件の高等学校には直接には適用されない。)。
このことは、本件学習指導要領をみるに、その各科目ことに社会科の目標及び内容
に直接的には教育の政治的中立の規制の基準というべきものは見当らず、また、一
章二節六款指導計画作成および指導の一般方針の1(7)に「政治および宗教に関
する事項の取り扱いについては、それぞれ教育基本法第八条および第九条の規定に
基づき、適切に行なうよう配慮しなければならないこと。」と定め、倫理社会の指
導計画作成および指導上の留意事項の(9)に「政治および宗教に関する事項の取
り扱いについては、教育基本法第八条および第九条の規定に基づき、適切に行なう
よう特に慎重な配慮をしなければならない。」と定め、政治経済の指導計画作成お
よび指導上の留意事項の(5)に「政治に関する事項の取り扱いについては、教育
基本法第八条の規定に基づき、適切に行なうよう特に慎重な配慮をしなければなら
ない。」と定めているのも教育の政治的中立の規制の基準は教基法八条によるべき
ことを定めていると解されることからも明らかであり、更に、本件当時の教科用図
書検定基準(昭和三三年文部省告示八六、一〇一号)の定める高等学校教科書検定
は、その絶対条件を「1(教育の目的との一致)教育基本法に定める教育の目的お
よび方針などに一致しており、これらに反するものはないか。また、学校教育法に
定める当該学校の目的と一致しており、これに反するものはないか。2(教科の目
標との一致)学習指導要領に定める当該教科の目標と一致しており、これに反する
ものはないか。3(立場の公正)政治や宗教について、特定の政党や特定の宗派に
かたよつた思想・題材をとり、またこれによつて、その主義や信条を官伝したり、
あるいは非難したりしているようなところはないか。」と定めているが、これは、
学習指導要領は政治的中立の規制の基準を含むとはいえないので、別に政治的中立
の規制の観点を教科書検定の条件に定めていると解されることからも明らかであ
る。
そこで、本件学習指導要領の効力について考えるに、その内容を通覧すると、高等
学校教育における機会均等と一定水準の維持の目的のための教育の内容及び方法に
ついての必要かつ合理的な大綱的基準を定めたものと認められ、法的拘束力を有す
るものということができるが、その適用に当つては、それが「要領」という名称で
あること、「大綱的基準」であるとされること、その項目の目標、内容、留意事項
等の記載の仕方等から明らかなように、その項目を文理解釈して適用すべきもので
はなく、いわゆる学校制度的基準部分も含めて、その項目及びこれに関連する項目
の趣旨に明白に違反するか否かをみるべきものと解するのが相当である。このこと
は、本件学習指導要領が、その後昭和四五年文部省告示二八一号及び昭和五三年同
省告示一六三号により二回も全面改正されていることからみて、学習指導要領は相
当柔軟な性格をもつものと解されることからも肯認できる。そして、右明白性の判
定に当つては、(1)専門職である教師の自主性を充分に尊重すること、(2)教
育の機会均等の確保と一定水準の維持という目的の範囲に限るべきであり、高等学
校の目標の一つに学教法四二条三号に「社会について、広く深い理解と健全な批判
力を養い、個性の確立につとめること」とあるように、高等学校教育においては価
値観の多様性を認める必要もあるのであるから、不必要な画一化は避けること、
(3)本件の如く懲戒処分規定として適用するには、処分事由とされる教育の内容
及び方法が、本件学習指導要領を定めた前記目的及び学校法四一、四二条に定める
高等学校の目的、目標の趣旨にも違反するか否かについてもみること、(4)前記
のとおり本件学習指導要領は教育の政治的中立の規制の基準ではないこと等を考慮
すべきである。
七 次に、教育の政治的中立についてみるに、前記のとおり議会制民主主義の憲法
を持つわが国において政治的教養教育が極めて重要なものであり、このことは戦前
の政治教育が国家主義的なものに限られていたことへの反省にも基づくものでもあ
る。そして、政治的教養とは、民主主義社会における主権者としての国民のそれで
あり、民主政治上の諸制度の知識、現実政治の理解力、公正な批判力、政治道徳、
政治的信念等であるとされる。したがつて、国は勿論、学校又は教師が教育におい
て政治的目的をもつて政治的行為をしてはならないことは、その生徒に対する影響
力を考えると当然のことである。しかしながら、学校又は教師のする民主々義政治
の教育にあたつて左右両翼の各種の政治思想、制度、国家等に及ぶことのあること
は考えられるところであるから、教師ことに本件の如き社会科の教師の授業が左右
両翼の政治思想等に及んだからといつて、政治的目的で政治的行為に出たものでな
い限り政治的中立に違反したものとすることのないように慎重に対処すべきであ
る。されば、教基法八条二項もその禁止する政治的活動を特定の政党を支持し又は
これに反対するためのものに限り、更に、これをうけた教育公務員特例法二一条の
三、国家公務員法一〇二条、人事院規則一四-七もその禁止する政治的活動を政治
的目的のための政治的行為と定めて、学校及び教師がその規制を恐れて政治教育に
消極的になることのないよう配慮しているのである。
第四 教科書使用義務
学教法二一条は、一項において、「小学校においては、文部大臣の検定を経た教科
用図書又は文部大臣が著作の名義を有する教科用図書を使用しなければならな
い。」と定め、二項において、「前項の教科用図書以外の図書その他の教材で、有
益適切なものは、これを使用することができる。」と定め、この規定は同法五一条
により高等学校に準用されている。
右にいう教科書(文部大臣の検定又は著作した教科用図書)とは、教科用図書検定
規則、教科用図書検定基準、教科書の発行に関する臨時措置法二条一項のいうよう
に教科課程の構成に応じて組織排列された教科の教材として教授用に供せられる生
徒用図書をいうものと解してよいが、その内容は、右規則及び基準によれば、本件
学習指導要領の目標及び内容によつて編成されている。
ところで、普通教育においてはその機会均等の確保と一定水準の維持という目的が
あり、この観点から普通教育である高等学校教育の内容として本件学習指導要領が
定められていることは、既に述べたとおりであるところ、右のとおり教科書は本件
学習指導要領の目標及び内容によつて編成されているのであるから、これを使用す
ることは、右目的に対して有効なものというべきであり、更に、教授技術上も教科
書を使用して授業をすることは、教師及び生徒の双方にとつて極めて有効である。
したがつて、前記学教法二一条一項、五一条は、その文理解釈からもそうであるよ
うに、高等学校教育において教師は教科書を使用する義務があることを定めたちの
と解するのが相当である。
控訴人は、文部大臣の定めた学習指導要領によつて検定を経た教科書の使用義務を
認めることは、本来否定さるべき戦前のような国定教科書制度による中央集権的画
一化による教育の内容の統制であり、国の教育内容に対する不当な支配であると主
張する。しかしながら、本件学習指導要領の教科ことに社会科の目標及び内容に不
当な支配というべきものは認められず、前記のとおり本件当時の教科用図書検定基
準によれば、検定は、(1)教基法の目的、方針、学教法の高等学校教育の目的及
び目標に一致すること、(2)本件学習指導要領の教科の目標に一致しているこ
と、(3)政治、宗教についての取扱い方が公正であることを基本条件としてなさ
れるもので、右検定基準自体には不当な支配というべきものはない。もし検定手続
において国の不当な支配と目されるものがあれば、教基法一〇条一項に違反するも
のとして是正さるべきものであるから、右主張の理由で、前記の普通教育における
一定水準の維持等の目的や教授技術上の有効性からする教科書使用義務がないとす
ることはできない。
そこで、如何なる場合に教科書を使用したということができるかという教科書の使
用形態についてみるに、当事者双方はそれぞれその使用形態を挙げて主張するが、
教科書使用義務を認めるのは、前記のように教育の一定水準の維持等という目的と
教授技術上の有効性にあるのであるから、教科書のあるべき使用形態としては、授
業に教科書を持参させ、原則としてその内容の全部について教科書に対応して授業
することをいうものと解するのが相当である。なお、被控訴人は前記教科書の発行
に関する臨時措置法二条一項の規定から教科書が主たる教材として使用されること
を要すると主張するところ、同規定は同法の教科書の定義を定めたものに過ぎない
ので、右規定を教科書の使用義務の内容として採用するのは相当でないが、通常の
教科書の内容と本件学習指導要領に定められた授業時間を見ると、右教科書を使用
しての授業でその教科、科目の授業時間の大半を要するものと認められるので、教
科書の使用形態を前記のとおり解する限り、教科書を主たる教材として使用する義
務があることになる。
そして、右教科書を使用しての授業において、教科書の棒読みの如きは教授技術上
相当でないことは勿論であり、教師においてその方法に創意工夫の求められること
はいうまでもない。
このように、教科書を使用するとは、原則としてその内容の全部について授業する
ことをいうものであるが、このことをなした上、その間に、教師において、適宜、
本件学習指導要領の教科、科目の目標及び内容に従つて、教科書を直接使用するこ
となく、学問的見地に立つた反対説や他の教材を用いての授業をすることも許され
ると解するのが相当である。このことは、学教法二一条二項がいわゆる補助教材の
使用を認め、本件学習指導要領が社会の各科目の指導計画作成および指導上の留意
事項において適宜他の教材の利用、読書、社会調査、見学、討議の学習活動の活用
が望まれるとしている(本件で取上げられた科目についていえば、倫理社会(1
0)、政治経済(7)、日本史(6)、地理B(6)、(7))ことからも明らか
である。
教科書使用義務を以上のように解すれば、戦前の国定教科書中心主義に対する反省
からの学習活動の多様化も図ることができ、教科書使用義務を認めても、教師の自
主性をそこなうことなく、教育に対する不当な支配であるということはなく、教師
に教授方法の創意工夫の余地が充分存するものということができる。
第五 控訴人に対する処分事由についての認定判断
一 演劇パンフレツト及び伝習新聞への寄稿掲載(第二、一、1、2)について
1 控訴人が、昭和四三、四四年度に伝習館高校の特別教育活動である演劇部主任
として、同部所属の生徒の指導助言に当つていたところ、昭和四三年一〇月五日及
び六日公演の「雨は涙か溜め息か」なる演劇のパンフレツト(乙第六号証)に別紙
一の「夢幻の呪詛」(以下(1)の文章という。)と題する一文を寄稿掲載させ、
これは同校生徒の大多数に配布されたこと、昭和四四年度に伝習館高校の特別教育
活動である新聞部の顧問であつたが、同部発行の伝習新聞第一〇〇号(昭和四四年
四月九日発行、乙第二号証)に別紙二の「老いているであろう新入生諸君」(以下
(2)の文章という。)と題する一文を、同第一〇三号(昭和四四年六月三日発
行、乙第三号証)に別紙三の「想像力が権力を奪う」(以下(3)の文章とい
う。)と題する一文を寄稿掲載させたことは、当事者間に争いがない。
被控訴人は、右(1)ないし(3)の各文章は、学教法四二条の定める高等学校教
育の目標、本件学習指導要領一章二節七款道徳教育及び同三章一節特別教育活動一
款目標に違反すると主張する。
2 そこで、まず、「夢幻の呪詛」と題する(1)の文章についてみるに、前出甲
第五四号証、原審証人P9、同P10、同P11の各証言、原審における控訴人本
人尋問の結果によれば、「雨は涙か溜め息か」という演劇は、伝習館高校演劇部が
春秋二回校内で行うことになつている秋の公演で、生徒である部員が脚本選定、作
成、演出、配役、出演等をきめて自主的に行うものであり、(1)の文章の掲載さ
れたパンフレツトも、部員の中のパンフレツト委員によつて作成され、(1)の文
章もその委員の依頼により控訴人が寄稿して、掲載されたもので、公演見物者であ
る伝習館高校生、同教師、一般市民等八〇〇名位に配布されたものであるが、右演
劇は、P12作の「ひかりごけ」という題の紀行文及び戯曲を素材として生徒が合
作創作したものであるが、この戯曲は、北海道で軍の徴用船が難破し船長以下四人
が雪に閉ざされた辺境で飢餓状況に陥り次々に死ぬ人の肉を食つて船長が生残ると
いう一幕とこの船長が裁かれる法廷でのやりとりの一幕の二幕物となつていること
を認めることができる。
そして、右パンフレツトに書かれた(1)の文章は、控訴人は、演劇論であるとい
うところ、高等学校生徒のみならず一般成人が読んでもその趣旨を理解することが
困難というより殆んど理解不可能であり、このような文章を主として高等学校生徒
向のものとして書くことに問題があると思われるが、右(1)の文章が、被控訴人
の主張するように、革命を慫慂し、反民主々義ないし反法治主義的思想の鼓吹、啓
発を図つたものであるとまでは認められず、前記の如き内容の演劇のパンフレツト
として読むとき、不可解ながら右演劇の説明であるとも理解されるので、その教育
的見地からの当否からして、控訴人の教師としての適格性が問題とされるにして
も、右(1)の文章の寄稿掲載行為を被控訴人主張の前記各規定に違反するとする
のは相当でない。
3 次に、「老いているであろう新入生諸君」と題する(2)の文章についてみる
に、この文章は、控訴人もいうように、新入生に対し高等学校生活に対し甘い幻想
と認識を捨てて高等学校生活の現実を直視し、主体的に生き抜くよう呼びかけたも
のと解されないではなく、新入生徒に対するこのような呼びかけをすることも考え
られるので、その教育的当否の論はあるにしても、右(3)の文章の寄稿掲載行為
を前記各規定に違反するとするのは相当でない。
4 更に、「想像力が権力を奪う」と題する(3)の文章についてみるに、この文
章は、控訴人自身も認める如く、高等学校生徒のみならず一般成人が読んでも難解
であり、このような文章を高等学校生徒向のものとして書くこと自体に問題がある
と思われるところ、被控訴人の主張するように、革命を慫慂し、反民主々義ないし
反法治主義的思想の鼓吹、啓発をはかるといつた理論ないし論理のあるものとはい
えないが、読む者に法律を破ることや暴力、破壊を奨励していると思わせるものを
含んでいると認められる。このことは、右文章の末尾にこの文章が一九六八年五月
のフランスの学生革命の際の学生の落書の言葉で構成されている旨記載されている
にしても同様である。したがつて、右(3)の文章の寄稿掲載行為は、被控訴人主
張の本件学習指導要領の項目に該当することを問うまでもなく、高等学校教育の目
標を定めた学教法四二条に違反するというべきである。
二 建国記念の日に関する事実(第二、一、3)について
1 控訴人が、昭和四五年二月一〇日伝習館高校教諭数名と放課後である勤務時間
中に同校図書館において「国家幻想の破砕を」と題する別紙四記載のビラを作成、
印刷し、同日午後四時ごろ同校内において生徒らに配布したことは、当事者間に争
いがなく、前出甲第五四号証、原審証人L、同P11の各証言、原審における控訴
人本人尋問の結果によれば、控訴人が、休業日である翌一一日校長の許可を受ける
ことなく、同校会議室において同校L、P3、A各教諭と共に、同校生徒約五〇名
が参加しての建国記念の日についての討論会を開催したが、右討論会においては、
建国記念の日の歴史的評価について同校教諭Uが作成した資料を配布」て検討した
ほか、控訴人が国家意識について講演し、これらについて参加者が質疑討論した。
このような討論会は同校において昭和四二年ごろから毎年行われ、右昭和四五年は
同校教諭有志の自主的な活動を福岡県高教組の伝習館分会が支援して行われたもの
であり、教諭及び生徒の参加も強制的なものではなく自主的なものであつたことを
認めることができる。
2 以下、控訴人の右各行為の被控訴人主張の法令違反の点についてみるに、ま
ず、被控訴人は、右配布ビラ記載内容及び討論会内容が、いたずらに法律無視、反
国家ないし反権力という特定思想の鼓吹を図つたものとして学教法四二条所定の高
等学校の目標に違反すると主張する。
そこで、検討するに、建国記念の日については昭和四一年の制定前は勿論その後も
歴史学的見地等から問題が提起され議論されていたことは公知の事実であり、これ
について討論会を開催すること自体をとがめる必要なく、前記認定以上の討論会内
容の主張も立証もなく、右認定の討論会内容及び別紙四のビラ記載内容程度では、
被控訴人主張のように特定思想の鼓吹を図つたものとして学教法四二条に違反する
とはいえず、被控訴人の右主張は理由がない。
3 次に、控訴人の右の勤務時間中にビラを作成、配布した行為についてみるに、
放課後とはいえ勤務時間中の右行為は地公法三五条に一応違反するといえるが、原
審証人A、同M、同P13の各証言によれば、伝習館高校を含む福岡県立高等学校
の大部分においては放課後の教諭の校内における利用の仕方は各人の自由意思にま
かされる運営がなされていたことが認められるので、その間の行為内容について責
任を問うことはともかく、控訴人の放課後の勤務時間中の右行為の責任を問うのは
相当でない。なお、被控訴人は、控訴人の右行為が地公法五五条の二、六項の勤務
時間中の組合活動禁止にも違反すると主張するが、前記認定事実によれば、
控訴人の右行為が組合活動であるとはいえない。
4 更に、被控訴人は、控訴人が右の休業日である建国記念の日に生徒を登校させ
たとして、地教行法二三条五号、福岡県立高等学校学則五条六項に違反すると主張
するが、この点については前記認定のとおり生徒の登校参加は自主的なもので控訴
人が強制したものと認められないので、この主張は理由がない。
5 次に、控訴人の校長の許可を受けることなく同校会議室を使用した行為につい
てみるに、地教行法二三条二号、福岡県教育財産管理事務取扱規則四条、一四条、
福岡県教育委員会事務決裁規程一三条(乙第八三号証)の規定によれば、本件のよ
うに福岡県教育委員会の所管する学校施設を一月をこえない期間本来の目的以外で
ある前記のような討論会に使用する場合は学校長の許可を受けなければならないこ
とになつているので、控訴人の右無許可使用は、右法令に違反するものである。も
つとも、原審証人L、同A、同P14の各証言によれば、本件処分前までは、本件
のように学内者である教諭が休日に学校施設を本来の目的以外でも校長の許可なく
使用するという実態であつたことを認めることができるので、控訴人の右無許可使
用の違反の程度はそれなりに評価すべきである。
三 教科書使用義務違反(第二、一、4)について
控訴人が、昭和四三年度及び四四年度に倫理社会(二年生、四三年度は組名不明で
あるが四つの組、四四年度は一、四、六、八、九、一〇組)及び政治経済(三年
生、四三年度は組名不明であるが二つの組、四四年度は一、六組)の授業を担当
し、使用が決定された教科書(倫理社会の四三、四四年度は実教出版株式会社発行
「倫理社会」(乙第四三号証)、政治経済の昭和四三年度は教育図書株式会社発行
「政治経済」、四四年度は一橋出版株式会社発行「政治経済」(乙第四一号証))
があつたことは、当事者間に争いがない。
そこで、控訴人の教科書の使用状況を中心とする授業状況についてみる。まず、昭
和四三年度及び四四年度の倫理社会については、前出甲第五四号証、乙第八二号
証、成立に争いのない乙第二九号証、原審証人P15、同P16、同P9、同P1
1、同P10の各証言、原審及び当番(第一、二回)における控訴人本人尋問の結
果によれば次の事実を認めることができる。
控訴人は、昭和四三年度及び四四年度共倫理社会の授業を各組週二時間担当してい
たものであるが、高等学校における倫理社会を含む社会科は自由な批判主体を形成
することを目指すという批判科学であつて、その対象は教科書の内容にとどまらず
生活全般であると考え、右授業の最初においてこのことを話し、教科書の目次を説
明し、教科書は読めば理解できるので読んでおくようにと言つたのみで、その後の
授業でも生徒が教科書を読んだかを確かめることはせず、以後の授業は、教科書を
用いてその内容を説明するといつたことはなく、授業内容は、その時々の新聞の記
事や控訴人が適宜取上げる思想、思想史、思想家や歴史的、社会的な例えば家族制
度、国家、天皇制、部落問題といつたことや、文学等の文芸作品を題材にしたもの
の講義であつて、その授業と教科書の部分との対応について説明することはなかつ
た。そのため一学期の授業の当初はともかく、その後は生徒も教科書を持参しなく
なつた。
以上の事実を認めることができる。
右認定事実によれば、右授業内容が結果的に前記教科書の内容に相当しあるいは関
連していたとしても、また、本件学習指導要領の定める倫理社会の内容が、現在全
体として学術的に一つの体系となつているとは認められないとしても、前記第四に
説示した教科書の使用義務形態からみて、控訴人の右認定の昭和四三年度及び四四
年度の倫理社会の授業における教科書の使用状況は、教科書をほとんど持参させ
ず、教科書に対応して授業したものとはいえないので、教科書使用義務に違反した
ものというべきである。
次に、政治経済の授業における教科書使用状況についてみるに、この点の控訴人の
陳述関係以外の証拠としては、被控訴人が処分事由としていない昭和四二年度につ
いて、(1)原審証人P17の証言、(2)同P18の証言、処分事由としている
昭和四三年度について、(3)被控訴人の職員が伝習館高校の生徒の供述を記載し
た報告書である乙第八二号証中の3、8の生徒の供述記載があるが、昭和四四年度
については証拠がない。そして、(1)、(2)の各証人は共に三年六組の生徒で
あつたものであるが、P17証人は資料集を中心に使い教科書はほとんど使わなか
つたといい、P18証人は資料集を多く使つたが教科書も使つたといい、共に具体
性に乏しく、(3)の証拠の生徒の供述の記載も教科書を使用しなかつたという簡
単な記載のみである。
そして、控訴人は、その陳述書である甲第五四号証及び原審における本人尋問にお
いて、昭和四二、四三、四四年度共教科書と資料集を併用したと述べており、控訴
人の加わつた座談会記事を掲載した雑誌朝日ジヤーナル(乙第二九号証)中の控訴
人の教科書を使用しなかつた旨の発言記載も、具体性が乏しく、前記のとおり教科
書不使用の認められる倫理社会のことか政治経済のことか両者のことか判然としな
い。結局控訴人の昭和四三年度及び四四年度の政治経済の授業における教科書使用
状況は判然とせず、したがつて、教科書を使用しなかつたと認めるに足る証拠はな
い。
四 「共産党宣言」等読後感レポート提出(第二、一、5、(1)について
控訴人が、昭和四三年度三年生の政治経済の授業において「共産党宣言」(マルク
ス)、「空想より科学へ」(エンゲルス)を読み、そのいずれかの読後感をレポー
トとして提出するよう求めたことは、当事者間に争いがない。
まず、被控訴人は、右の如き図書を読ませその読後感をレポートとして提出を求め
ることが本件学習指導要領に違反すると主張するが、右図書は、本件学習指導要領
の政治経済の内容に関連する社会科学の古典的著作であり、いわゆる左翼文献であ
るからといつて高等学校の授業で取扱つてはならぬとするのは相当でなく、本件学
習指導要領にもこれを禁ずる規定はない。
なお、教基法八条、教育公務員特例法二一条の二に違反するとの主張については、
第二、一、8の処分事由において判断することとする。
次に、被控訴人は、控訴人が右レポートの提出を求めたのは昭和四四年二月の三年
生の大学受験勉強の時期であつたと主張するが、これにそう証拠としては、前記の
被控訴人の職員が伝習館高校の生徒の供述を記載した報告書である乙第八二号証の
3のP19某女なる生徒の供述記載のみであるが、同号証の8P20なる生徒の供
述には昭和四三年七月頃との記載があり、更に、成立に争いのない乙第八号証によ
れば、同校の校内規定である生徒心得には三年生の最後の考査は一月下旬となつて
いることが認められることから、その後は授業はなかつたと認められること等か
ら、前記乙第八二号証の3の生徒の供述は採用し難く、その他右時期が被控訴人主
張の時期であり、控訴人に右により生徒の大学受験勉強妨害の意図があつたと認め
るに足る証拠はない。
したがつて、この処分事由は理由がない。
五 フランス学生運動の授業(第二、一、5、(2))について
控訴人が、昭和四三年度三年生の政治経済の授業において最近のフランス学生運動
(昭和四三年五月のいわゆる五月革命の原動力となつたとされるもの。)について
講義をし、考査において右について「フランス革命運動の背景とその原因につい
て」という問題を出したことは、当事者間に争いがない。
被控訴人は、右行為を本件学習指導要領、学教法四二条に違反すると主張するが、
右講義及び出題は、項目的には本件学習指導要領の政治経済の内容の範囲内であ
り、控訴人が、右運動を肯定したかどうか等の講義内容の主張、立証がないので、
右認定の事実をもつて右法令に違反するとはいえず、この処分事由は理由がない。
六 図書館における課題研究(第二、一、5、(3))について
控訴人が、昭和四四年度二年生(一、四、六、八、九、一〇組)の倫理社会の各組
週二時間の授業を担当し、その時期の点は別として、内週一時間は同校の図書館に
おいて課題研究を命じたことは、当事者間に争いがなく、右当事者間に争いない事
実に、前出甲第五四号証、乙第八二号証、原審証人P16、同P10、同P21の
各証言、原審における控訴人本人尋問の結果によれば、控訴人は、右課題研究を昭
和四一年度から昭和四三年度までにもしたが、その際は希望者に授業時間外に研究
させていたところ、昭和四四年度は六月中旬ごろから一〇月中旬ごろまで右のとお
り授業時間に研究させたものであり、右課題研究とは、控訴人あるいは生徒が選ん
だアメリカ合衆国の黒人問題、実存主義と虚無主義といつたテーマについて、テー
マ別に一グループ五、六人のグループをつくり、グループ毎にそのテーマについて
週一時間図書館で資料を探したり、図書を読んだりして研究するというものであつ
た。控訴人は、右生徒の研究中の図書館に行き指導することにしていたが、控訴人
が図書館に来ずに、図書館勤務の職員であるP21が騒ぐ生徒を注意することがあ
つた。その研究結果は発表することにしていたのに、どのテーマについてもまとめ
の段階に至らず、前記認定の昭和四四年末の被控訴人の立入調査に始まる騒動もあ
つて、発表もなかつたことを認めることができ、原審証人P16の証言中右認定に
反する部分は採用できない。
控訴人の陳述書である甲第五四号証によれば、控訴人は、右のグループをつくつて
の課題研究は、生徒の要望もあり、すべての生徒が自主的に研究する体験を持つこ
とは重要なことであると考えてなしたものであるというのであり、一応その意図を
理解できないものでもないが、右陳述書において控訴人も認めるように、必ずしも
右時間に授業をするよりも有効であるとはいえず、すべての生徒が意欲と力量をも
つてこれに取組んだといえない状態であつたものであつたのに、控訴人が図書館に
来すに生徒を放置したこともあつたというのであるから、一、二時間はともかく約
三箇月にわたる右課題研究について控訴人が授業時間を教育活動に専念する義務に
違反するものとして、学教法二八条六項、五一条、地公法三五条の責任を問われて
もやむをえないものである。
七 考査不実施及び一律評価(第二、一、6)について
1 当事者間に争いのない事実及び前出甲第五四号証、乙第八二号証、成立に争い
のない乙第七ないし一五号証、原審証人P16、同P10の各証言、原審における
控訴人本人尋問の結果によれば、控訴人が、昭和四四年度二年生一、四、六、八、
九、一〇組(週二時間)の倫理社会、三年生一、六組(週三時間)の政治経済を担
当し、(1)一学期に、各科目について中間考査及び期末考査を実施せず、これに
かえで「現代社会科教育批判-はたして批判教科たりえているか」の課題について
レポートを提出させ、生徒全員に一律六〇点と評定し、(2)二学期には各科目に
ついて中間考査は実施せず、期末考査は実施したが、右二年生の倫理社会について
再び生徒全員に一律六〇点と評定し、右三年生の政治経済については五段階法によ
り一律でない評定をし、(3)三学期には各科目について考査を実施しなかつた
が、年度成績の評価をし五段階法により一律でない評定をしたことを認めることが
できる。
原審証人E、同F、同Gの各証言によれば、E校長が、昭和四四年一学期末控訴人
及びT教諭の一律評価を知り、同年二学期の職員会議において一般的に一律評価を
しないように注意したことが認められるが、右証拠によれば、右注意は正式な議題
でなかつたことを認めることができるので、控訴人がその際右注意を了解したとは
認定できず、その他右事実を認めるに足る証拠はない。しかしながら右証拠によれ
ば、伝習館高校の教務部長であつたGは、昭和四四年二学期始頃E校長から右一律
評価について控訴人及びT教諭に注意するよう依頼されて一旦は断つたものの、そ
の頃右両名に対し一律評価しないように注意したことを認めることができる。更
に、原審証人Fの証言によれば、伝習館高校の教頭であつた同人も、右G教務部長
から控訴人の右考査不実施及び一律評価のことを聞き、昭和四四年二学期に控訴人
にそういうことのないよう注意したことを認めることができる。
2 被控訴人は、右認定の考査不実施、一律評価は、学教法施行規則二七、六五
条、福岡県立高等学校学則(昭和三三年福岡県教育委員会規則一四号一八条の「生
徒の学習成績の判定のための評価については学習指導要領に示されている教科及び
科目の目標を基準として、校長が定める。」旨の規定に基づいて伝習館高校の校長
が定めた校内規定である生徒心得(乙第七号証の生徒手帳記載のもの。)五条学習
成績評価規定及び学校教育法施行規則二七、六五条に違反すると主張し、控訴人
は、当時右校内規定の如き事項については校務運営の最高決議機関である職員会議
にその決定権があり、右校内規定は、校長の定めた規定でないばかりでなく、学校
と生徒との関係を規律するものであつて、教師を拘束するものではなく、考査及び
成績評価は教師の自主的判断に委されていたと主張するので、判断する。
成程、前出甲第二四、五四号証、乙第七号証、原審証人A、同M、同E、同L、同
H、同J、同I、同Kの各証言、原審における控訴人、相原告T各本人尋問の結果
によれば、当時伝習館高校を含む大部分の福岡県立高等学校において事実上校務運
営を職員会議が最高決議機関として決定するという校務運営規定を有し、校長がそ
の決定を承認するという校務運営がなされており、右生徒心得を記載した生徒手帳
も毎年右職員会議で定められたものであることを認めることができるところ、原審
証人Eの証言によれば、右職員会議で定められたものを校長である同人も承認して
生徒手帳としたものであることを認めることができるので結局前記学則八条により
右校内規定である生徒心得は校長の定めたものということができ、これが生徒を規
律する以上教師を拘束しないということはない。また、伝習館高校を含む福岡県立
高等学校において音楽、美術、保健体育、家庭科等の一斉考査の不適当な科目はと
もかく、その他の科目の考査(後記の中間考査及び三年生三学期の考査を除く。)
が教師の自主性に委せられていたと認めるに足る証拠はない。
3 そして、右校内規定である生徒心得五条三項は、「一斉考査は定期的に概ね左
の五期に実施する。五月下旬、七月中旬、一〇月中旬、一二月中旬、三月中旬(三
学年は一月下旬)」と定めているが、前出甲第四五、五四号証、原審証人M、同
A、同P14の各証言、原審における控訴人、原審相原告T各本人尋問の結果によ
れば、当時伝習館高校を含む福岡県立高等学校においては週二時間という少単位等
の科目については五月下旬、一〇月中旬のいわゆる中間考査は実施しないことが往
々あり、三年生の三学期一月下旬の考査も同様であつたことを認めることができる
ので、被控訴人もその責任を問うていると認められない中間考査の不実施及び三年
生の三学期の考査の不実施はともかく、前記認定の控訴人の一学期の倫理社会、政
治経済の期末考査及び三学期の二年生の倫理社会の考査の各不実施について右生徒
心得違反としての責任を免れない。なお、控訴人は、前記一学期においてレポート
を提出させたことをもつて考査の不実施の責任を免れると主張するようであるが、
それによつて生徒心得五条一項にいう提出物という成績評価の資料がえられ、成績
評価に支障がないにしても、考査をすること自体に、教師及び生徒のいずれにとつ
ても教育上の有効性があるのであるから、考査不実施の責任は免れない。
次に、右生徒心得五条二項は、「各科目毎に五点法で評定するが、学期成績は各教
科一〇〇点法による。」と定めており、前記のとおり控訴人が一学期に各科目につ
いて、二学期に倫理社会について各一律に評定したことは、年度成績は右五点法に
より評定したとしても、右規定に違反するのみならず、控訴人はその陳述書(甲第
五四号証)で種々述べるが、教師及び生徒にとつて教育上も不相当であることはい
うまでもない。
八 信用失墜行為(第二、一、7)について
被控訴人は、処分事由の一つとして、控訴人の行つた教育は、第二、一、7のとお
りその職の信用を傷つけるものであつたと主張する。ところで、この処分事由は、
原審の当初提出された被控訴人の答弁書には処分事由として記載されておらず、被
控訴人の原審最終準備書面にも処分事由の項にはその記載がなく総論の項において
記載されているので、本件処分の妥当性判定の一事情とも解されないでもないため
か、原判決はこれについて事実摘示及び判断をしていない。しかし、被控訴人は当
審においてこれを処分事由とすることを主張するので、以下これについて判断する
こととする。
1 まず、被控訴人は、控訴人は、生徒に対し大学へ進むことを断念させるような
指導を行い、教師に対する期待と信頼に背いたとする。
前出甲第五四号証、控訴人本人尋問の結果によれば、伝習館高校は、旧立花藩の藩
校の名を継承し、旧制中学以来福岡県下でも古い歴史をもつ学校の一つであり、新
制高校として発足後も名門校あるいは大学受験における受験校としてのある程度の
実績を有していたが、大学進学率の増加と受験競争の激化の中で受験校として次第
にふるわなくなつた。そこで、本件処分頃までに、約八〇パーセントの大学進学率
もあり、同窓会幹部等の要求や周辺高校の受験体制強化に刺激され、伝習館高校で
も、受験教育体制が強化され、控訴人の勤務当時、受験教育体制として、(A)準
正課という主要科目中心の授業時間前の補習授業、(B)英語と数学の時間の能力
別クラス編成、(C)普通科における文系進学、理系進学、就職コース別クラス編
成、(D)夏休み、冬休み中の補習、(E)受験用模擬テストの実施があり、この
ような受験教育体制は、同時に各教科、科目における各教師の授業の内容、方法も
受験向のものとなる傾向をもたらしたことを認めることができる。
このような受験教育体制については、昨今の大学進学状況からやむをえない、ある
いは当然だとする意見やこのような体制のもたらす生徒間の不平等な取扱い、これ
による生徒の差別意識、受験に必要のない教科、科目の切捨て等の弊害を説きこれ
に批判的な意見のあることは公知の事実であり、高等学校制度ひいては学校制度全
般の問題でもあり、極端にならない限りそのいずれにも一理あるものと思われると
ころ、前出甲第五四号証(陳述書)、成立に争いのない乙第二九号証(「朝日ジヤ
ーナル」の座談会記事)、原審における控訴人本人尋問の結果によれば、控訴人
は、社会科教諭として右のような受験教育体制に批判的であつたことを認めること
ができるが、その批判の具体的内容、真意等は右記載、陳述の表現が難解で理解し
難いところがあるものの、右証拠によれば、その批判の内容は、生徒の一部の要求
する受験向き教育を拒否し、伝習館高校からは誰一人大学に合格しなくてもかまわ
ないのだという考えの極端なものであつたことを認めることができる。
したがつて、控訴人の右の点において地公法三三条違反の責を問われてもやむをえ
ないというべきである。
2 次に、被控訴人は、昭和四五年三月六日開催の福岡県議会において伝習館高校
の一部教師が生徒に対して偏向した政治的教育を行つていることが指摘されたとす
る。前出乙第三七号証によれば、右事実を認めることができるが、後記のとおり前
記第二、一、8の処分事由が認められない以上、右事実を処分事由とするのは相当
でない。
3 更に、被控訴人は、西日本新聞昭和四五年五月一八日付夕刊(乙第二七号証)
が「引きさかれた教育」と題して伝習館高校における授業の実態について控訴人ら
の授業を変わつた授業として報じているとする。成立に争いのない乙第二七号証に
よれば、右事実を認めることができ、前記第一の本件処分に至る経緯等で認定した
事実に照らすと、右記事の授業の実態なるものは主として被控訴人関係者から取材
したものと認められるが、本件の他の処分事由の当否を問えば足り、右報道を処分
事由とするのは相当でない。
4 なお、被控訴人は昭和四七年九月一日付「伝習館を守る」なる文書(甲第二八
号証)の配布、朝日新聞昭和四五年六月二一日付朝刊(乙第二八号証)、昭和四七
年七月二四日付赤旗(乙第六七号証)の各報道を処分事由として挙げるが、右配
布、報道は本件処分後のことであつて、処分事由とするのは相当でない。
九 教育の政治的中立違反(第二、一、8)について
被控訴人は、原審及び当審の当初においては、控訴人の教育が本件学習指導要領等
に違反し、かつ偏向教育であると主張していたのであるが、偏向教育とは極めてあ
いまいな表現であり、教育の政治的中立違反の趣旨と解されるのに、その旨の主張
をせず、教育の政治的中立違反を規制すべき法令も摘示していなかつたので、当審
において被控訴人に釈明を求めたところ、前記第二、一、8のとおり処分事由の主
張をするに至つた。
そこで、判断するに、破控訴人は、前記第二、一、1、2、3、5(1)、
(2)、(3)の控訴人の行為が教育の政治的中立に違反すると主張するが、前記
第三、七に説示したとおり教育の政治的中立違反とは、政治的目的で政治的行為を
することをいうものであるところ、前記第二、一、1、2、3、5(1)、
(2)、(3)の主張事実及びこれについて第五、一、二、四ないし六において認
定した事実は、その職務である授業その他生徒に対する影響力のあるものではある
が、控訴人に如何なる政治的目的があつたかについて、被控訴人においてその主張
がなく、その立証もしないので、控訴人の教育の政治的中立違反の処分事由は理由
がない。
一〇 処分事由に対する法令の適用
1 地公法は、二七条三項において「職員は、この法律で定める事由による場合で
なければ、懲戒処分を受けることがない。」とし、職員の身分保障をはかるため懲
戒処分事由を限定しているが、その処分事由としては二九条一項において「職員が
左の各号の一に該当する場合においては、これに対し懲戒処分と」て戒告、減給、
停職又は免職の処分をすることができる。」とし、地公法等の法律又はこれに基く
条例、規則もしくは規程に違反した場合(一号)、職務上の義務に違反し、又は職
務を怠つた場合(二号)、全体の奉仕者たるにふさわしくない非行のあつた場合
(三号)を列挙しているところ、また、同法は職員の服務義務として、三二条が法
令等及び上司の職務上の命令に従う義務を、三三条が信用を失墜する行為の避止義
務を、三五条が職務に専念する義務をそれぞれ規定している。
2 そして、前記認定判断によると、被控訴人主張の本件各処分事由は、そのうち
次のものが、次のとおり懲戒処分事由に該当することとなる。
第二、一、2のうち「想像力が権力を奪う」と題する一文の寄稿掲載が、学教法四
二条に違反し、第二、一、3のうち建国記念の日に校長の許可なく校舎を使用した
点が、地教行法二三条、福岡県教育財産管理事務取扱規則四条、一四条、福岡県教
育委員会事務決裁規程一三条に違反し、第二、一、4のうち倫理社会の教科書使用
義務違反が学教法二一、五一条に違反し、したがつて、以上いずれも地公法三二条
に違反し、第二、一、5、(3)の課題研究を命じて生徒を放任した点が学教法二
八条六項、五一条、地公法三五条に違反し、第二、一、6の考査不実施及び一律評
価が前記判断の範囲で学教法施行規則二七、六五条、福岡県立高等学校学則八条、
生徒心得、地会法三二条に違反し、第二、一、7のうち大学受験教育批判行為が地
公法三三条に違反するものであり、以上によつて、控訴人には地会法二九条一項
一、二号の懲戒処分事由が存することになる。
第六 本件処分の違法性について
一 本件処分の手続の違法の主張について
当裁判所は、本件処分の手続に違法性はなかつたものと判断するが、その理由は、
原判決説示(B一一五頁六行目からB一一八頁一二行目まで。ただし、B一一五頁
一五行目の「適用があるが」を「適用があるか」と、末行「前説」を「学説」と各
改める。)のとおりであるから、これを引用する。
二 本件処分の懲戒権濫用の主張について
1 地公法二九条一項は前記のとおり「職員が左の各号の一に該当する場合におい
ては、これに対し懲戒処分として戒告、減給、停職又は免職の処分をすることがで
きる。」として、四種の懲戒処分を定めているが、同法は、職員に同法所定の懲戒
事由がある場合、懲戒権者が懲戒処分を行うかどうか、これを行うときいかなる処
分を選択すべきかを決するについて、公正であるべきこと(二七条一項)、平等取
扱いの原則(一三条)及び不利益取扱いの禁止(五六条)に違反してはならないこ
とを定めている。そして、その他の点については具体的な基準を設けておらず、懲
戒権者が懲戒事由に該当すると認められる行為の原因、動機、性質、態様、結果、
影響等のほか、当該職員の右行為の前後における態度、懲戒処分等の処分歴、選択
する処分が他の職員及び社会に与える影響等、諸般の事情を総合して行う判断に委
ねられ、その裁量に任されているものと解される。したがつて、右の裁量はもとよ
り恣意にわたることをえないものであるが、懲戒権者が右裁量権の行使としてした
懲戒処分は、それが社会観念上著しく妥当を欠いて裁量権を付与した目的を逸脱
し、これを濫用したと認められる場合でない限り、その裁量権の範囲内にあるもの
として、違法とならないものというべきである。
2 そこで、右見地に立つて、本件についてみると、被控訴人主張の控訴人に対す
る処分事由のうち懲戒処分事由に該当するものは、前記第五のとおりであるが、建
国記念の日の校舎使用は著しい事由とはいえないものの、教科書使用義務違反はほ
とんど教科書を使用しなかつたものであり、課題研究を命じて生徒を放任した点、
考査不実施及び一律評価(注意を受けた後も一律評価をしている。)と共に、職務
上の義務に違反し、職務を怠つたものとしては程度の高いものであり、また、大学
受験教育批判行為も度を過ぎたものというべきである。
右の控訴人の処分事由とされる行為の性質、態様、影響等に照らすと、被控訴人主
張の処分事由の中に理由のないものがある等の事情や免職処分の重大性を考慮して
も、本件処分が社会観念上著しく妥当を欠き裁量権の範囲を逸脱し濫用したものと
いうことはできない。
第七 結論
以上によれば、本件処分は相当であつて、控訴人の本訴請求は理由がなく、棄却す
べきものであるから、これと結論を同じくする原判決は相当であつて、本件控訴
は、理由がないので棄却することとし、訴訟費用の負担について、民訴法九五条、
八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 矢頭直哉 諸江田鶴雄 日高千之)
別紙一 (原判決別紙一と同じ。)
夢幻の呪詛
顧問 P22
「演劇とは何か」という、ドラマに関わる人間にとつて根源的な問に対して、伝演
公演パンフの中で私は次の如き答えを投げかけてきたと思う。「犯罪者たること。
虚構の世界に於て犯罪を試みること。」と。然しながら「犯罪」という言葉は、少
々センセーシヨナルなきらいがあるし、又比瞭的に過ぎる懸念がある。それ故にこ
こでは、ある一定の視座から「犯罪」なる言葉に照明を当てて、その偏見的意味を
演出してみたい。その視座とは何か、そは「人間的自由」の極限。そこから照らさ
れる光によつて演出される「犯罪」の偏見的像とは何か。そは「革命」。本来「犯
罪」とはタブーに対する侵犯であるが、ここで問題にすべきそれは自然発生的、外
在的なものではなく、きわめて内在的なもの、すぐれて観念的なものである。幻想
としての共同性の内に生きる我々の生活過程において、執数に、重々しく張りめぐ
らされている己の内なるタブーの網をその根底において断ち切ることである。即ち
己自身の頭脳に集約された人類の頭脳の切開手術を行うことを意味する。その頭皮
を剥ぎ、頭蓋を開けて、その中に萎縮して石のように硬化した、あるいは風化しは
てて石灰のようにぼろぼろに砕け散つた脳髄を鋭いメスで剥抉し、人類史上幾多の
夢幻者或は覚醒者が、おぼろげながら幻視の内にかいまみた全く新き物質を錬金術
者の手を借りることなく己が独手によつてつめこむことに他ならぬ。この自然と社
会の、秩序と制度の変革を引き起こし、人間存在の意味の顛倒をもたらす一つの全
く新しき思考法、世界像の全き顛倒を夢みる幻視者たちによつて、幾度も挑戦を受
けながらも、愚昧にして狡智、卑屈にして激岸な権力者とその良民共の怠惰な共犯
関係によつておこがましくも正系をもつて存在し続けて来た牢固たる思考法を根こ
そぎ顛覆し得る一つの鮮烈な思考法を己の内に所有することを意味する。これ即ち
「革命者」であれば、「犯罪者」とは即ち「革命者」の謂の比喩的表現に他なら
ぬ。それは昼の現実と夜の夢幻を、権力と階級支配の現在と、それを埋葬し終えた
幻視の彼方としての未来とを二つながら同時に生きる人間を意味する。
然しながら「革命」の意味が現実的過程に於て、左翼とか前衛とかを潜称するもの
によつて限りなく汚されているのを眼前にするとき、即ち革命なき革命の世紀を、
現実的に生きることを強いられている時、「革命者」として完全犯罪を夢みる者は
その屈辱の鉛を腹中深く飲み込みながら、あまりにも遠い未来での復讐を、濛溟た
る虚構の世界に沈みつつ、絶えず現在化する以外に術を有たないのであろうか。そ
れとも昼眠でもして白昼夢にうなされながら永遠の呪詛を続けつつ朽ち果てる道を
選ぶしか許されていないのであろうか。
別紙二(原判決別紙二と同じ。)
老いているであろう”新入生”諸君!
P22先生
”新入生”と呼ばれるところの諸君、偶然にかつ意志的に君達と関わざるを得ぬ人
間として、これからの関わりの過程に於ける、限りない愛と憎悪とを予想しつつ、
君達にまず連帯の合掌を述べたいと思う。-私流儀に
私にとつて、君達に対する連帯の挨拶とは何か。それは君達と君達をとりまく状況
と、そしてその両者の関わりをあばき、告発することであると確信している。私は
初めに「”新人生”と呼ばれるところの諸君」という表現をしたが然しこれは単な
る表現の衒いとはあくまで異なつて、本質的意味を有している。
君達が”新入生”であるのは、伝習館高等学校という場所に、そこで高校生活を生
きるものとして、新しく入つて来たという意味に於てくらいしかないのであつて、
君達の存在そのものが、フレツシユな生命あふれる若者であるという意味において
では決してあり得ない。少なくとも君達が、君達を育くんで来たところの一切を拒
絶しようと意志していない限りに於では。
先ほど卒業して行つた君達の先輩達が高校生活三年の過程を青春の楽しき思い出な
どとして、怠惰な追想をその貧相な頭脳の中にくり返している限りは、絶対に駄目
な存在でしかあり得ず、彼等が人間として自立して行くためには、現在の己を何ら
かの形で育くんだ三年間の学校生活の過程(いな十二年間の学校教育全過程)を憎
しみ抜くことを、忘れてはならないと同じように。高校生活の第一歩を踏み出さん
としている君達に私が要求する第一の課題は、まず高校に託している君達の一切の
幻想を断念すること。それは虚妄でしかありえないから。そして高校の現実に対し
て徹底的に絶望すること。もちろん、その絶望も虚妄でしかあり得ないが。君達が
その絶望的な高校の現実状況のただ中にあつて、ひるむことなく自らの生を、創造
してゆかんとするならば、まず己の退路を断つこと、即ち中学生活を幻想の中に於
て、甘美にメタモルフオーゼ(変形)して、その中に逃避することをやめよ。その
逃げこんだ地点から、今君達が立つ現実を告発したところで、それは決して批判と
しての力を持することはないのだから。確かに現在の高校は地獄である。現在の世
界がそうであるように。然し地獄とは君達を火で焼き、針で刺すといつた責苦のみ
とは限らない。真綿で首をしめ、あるいは睡眠薬で静かに眠らせたり、死を感じさ
せずに安楽死させたり、さらに酷いことには、生きながらに屍をさらさせるという
より悲惨な地獄もある。これが現代の地獄ではないだろうか。そして君達の中学の
現実も、この地獄図の一貫に過ぎなかつたということ。そしてこれから始めようと
する高校生活もその地獄図の次の一貫であること。これをしつかと認識しつつ、今
度めくる一頁は今までと異つて、己の顔つき相貌が他の鬼と戦う鬼面の一つである
ということを意志してほしい。その図の中には、私もその修羅場に立ちふさがる一
大赤鬼として描かれているであろう。
別紙三(原判決別紙三と同じ。)
”想像力が権力を奪う”
P22
想像力が権力を奪う、想像力の欠如それは欠如を想像しないことである自由は与え
られるのではない。それは奪取されるのだ。自由とはわれわれが有していた財産で
はない。
それは法律・規則・偏見・無知によつてわれわれが所有することを妨げられていた
財産なのだ人間は最後の資本家が最後のはらわたで道(原文のまま)をくくられる
まで自由に生きることはできないだろう自由の敵に自由を許すな、人間の解放は全
面的か、まつたくあり得ないかである。革命は存在することをやめて、実存すべき
であるひとつの革命をつくり上げること、それはすべての内的束縛を打破すること
である。法律がわれわれに課した欺瞞的状況から脱れる手段は唯一つ、それは法律
を破ることだ、強行しようこの言葉の中に現時点におけるすべての政略が含まれて
いる漆喰ぬり変えはやめよ、社会構造が腐敗しているのだから、権力は奪取される
のではないかき集められるのだ六月一八日の呼びかけ(総選挙)の記念日にわれわ
れはドゴールを熊手でかき集めるだろう、資本家は彼の自由を守るためにコンコル
ド広場にいつたドゴール支持の徒党は諸君に搾取される自由を保証しようというの
である資本家が自由であれば工場は徒刑場だ、ブルジヨワジーはすべての人間を堕
落させるのが唯一の快楽である、もうエレベーターに乗るな権力を奪取せよ何もの
も求めない何ものも要求しない奪取するのだ占拠するのだ快楽に対する留保は留保
なしに生きる快楽をそそりたてるまず夢想することからはじめ給え現実を欲するこ
と-結構欲することを現実化すること-もつと結構、僕は僕の欲望を現実とみなす
なぜなら僕は現実を信じているから、明日は楽しめるという展望はぼくの今日の労
苦を決して慰めてくれるものではない、今ここで楽しめ、愛をすればする程革命を
したくなり革命をすればするほど愛をしたくなる-怒れる者の一人、自由恋愛(し
かしここでは駄目)何故ここに予定されているのは疎外された恋愛のみ、私達の持
つ潜在能力を麻痺させてしまう愛情による固定化と闘いましよう、革命は事物の中
に実現される前にまず人間の中に実現されねばならぬ、俺たちは確認した2+2は
もはや4ではない、論理とは表現方法なり、主も神もなし神はぼくだ、明哲とは太
陽に最も近い傷である、文化とは生の倒錯である。「文化」という言葉を聞くとわ
が国家保安隊を出動させるのである、文化とはジヤムに似ている少なければそれだ
けうすくひきのばす、人間の前に森があつた人間の後に砂ばくが続く、君の仕事を
見つめてみたまえそこに参加しているのは虚無と責苦だ、芸術は存在しない芸術は
君である、芸術それは糞だ、アルコールは身体に悪い」L・S・Dをのもう、言語
は次の束縛の下に形成された個人間の社会関係の形態である-自然的疎外-社会的
疎外
従つて言語を文法的抑圧の地点では無に帰してしまつてはならぬ如何なる理由も存
在しないダダが言語の消滅を宣言してから文学は言語を再生させようとしてきただ
けである、何を書いてよいのか分らないそして何か素晴らしいことを言いたいのだ
が分らないすべては神秘にはじまり政治に終る、直視せよぼくの外部にある力に服
従するすべての行為はぼくを立つたまま腐らせ社会秩序の正統的な墓堀り人に埋葬
される前にぼくたちは拒否する-召集され-公団住宅化され-卒業試験化され-登
録され-教育され-遠隔操作され-催涙ガス化され-書類化され・・・・・・-る
ことを、君達のうらみつらみを総計せよ、そして恥じよ、試験=隷属立身出世階級
社会客体よ消えてなくなれ、現在そこに”生きている”社会に疑いを入れるために
は、まず自分自身に疑いを入れることができなければならぬ、侵略者とは反抗する
人間ではなく肯定する人間である服従は意識から始まり、意識は不服従から始ま
る、われわれはすべて“好ましからざるもの”だ、誰も踏み入れたことのない道に
危険をおそれず踏み込め!誰も考えたことのない思想に危険をおそれず頭をつこ
め!行為が意識を設立する、俺を解放してくれるな俺のことは俺がやる、われわれ
の一人一人が国家なり、行為は自発的でありその中に、他者の実現化を含んでい
る、われわれはわれわれの革命を起動させたにすぎない権力は大学を持つていた。
学生はそれを奪つた権力は工場を持つていた労働者はそれを奪つた権力は国立放送
局を持つていたジヤーナリストはそれを奪つた権力が持つているのは権力だけだそ
れを奪え、革命とは各委員会のものではない。それは何より君達のものだ、革命に
は二種類の人間がいる、革命をする者と革命を利用する者と、注意・出世主義者と
野心家たちが「社会主義者」の仮面をつけて扮装する可能性あり、政治屋どもとそ
の泥だらけのデマゴギーの餌食になるなわれわれ自身だけを頼りにせよ自由なき社
会主義とは兵舎である創造性自発性生死は必然的に反革命行為である、すべでの革
命家の義務は革命をすることである、中断することは禁止する、共産主義者は全員
次の真理を理解しなければならぬ権力は鉄砲から生れる、マルクスを消費するな、
もし力を用いねばならぬ必要があるならば曖昧な態度をとるな必要なことは組織的
に偶然を探究すること、火は実現する。われわれの希望は希望なき者たちからのみ
やつてくる、終りなき怖れよりも、怖るべき終りをこれが全階級の政治的遺言であ
る、全力で闘いを続けよストライキを続けよ占拠せよ意識あるところにのみ革命は
起る、労働者よ君は二五才だが君の労組は前世紀の遺物だそれを変革するためにわ
れわれに会いに来給え労組は淫売家だ、われわれが持つているのは前史的左翼であ
る、主人とは神とは何か両者とも父親の似姿であり必然的に弾圧的機能を果たす、
批判の武器は武器の批判を通して得られる、共に考えることに反対共に強行するこ
とに賛成、オーバーにやることそれが創意のはじまりだ、簡潔であれ、そして残酷
な人喰人種であれ、闘いはすべてのものの父である、破壊の情熱!はひとつの創造
的歓喜である、革命の時代に生きなかつたものは生きる喜びを知らない、ぼくはひ
とり幸福な愚かものになりたいと夢想する、芸術は死んだぼくらの日常生活を解放
しよう、自分の現実を欲望とみなすものは自分の欲望の現実性を信じているもので
ある、ソルボンヌから解放される(ソルボンヌを燃やすことによつて)学生権力、
革命、それは主導権である、アナーキーそれは私だ、栓よはねとべ大衆の革命的エ
ネルギーを放出するために、倦怠が汗をかいている、棒は無関心なものを教育する
革命そして革命のみが光を創造しそしてこの光が取り得るのは次の三つの道だけだ
詩自由そして愛、君たちの革命は混乱し形骸化した大学の模倣であつてはならな
い、このブルジヨワ的学部の施設の破損は、革命的芸術の表現である、反動派とは
改革を正当叱して受け入れてそこに破損行為が花開くことを認めないもののこと
だ、注意せよマヌケどもがわれわれを包囲している異議申し立ての劇に止まるな劇
の異議申し立てに移ろう、すべての思想の帰着それは舗石だ、通りの鋪石をはぐこ
とは都市計画破壊の手初めである、1968年に自由であることそれは参加するこ
とだ禁止することを禁止する、走れ同志よ老人が君の後にいる、死ねと叫ぶことは
生きよと叫ぶことである、君たちの乳母(学校を意味する)を強姦せよ、もうすぐ
に魅力的な廃嘘、現在に生きること、想像力が権力を奪う!(本文は1968年5
月フランスの学生革命の際に、建物や舗道に書きしるされた”落書き”という形式
の学生自身の言葉で構成す)
別紙四 (原判決別紙四と同じ。別紙五は欠。)
別紙六 高等学校学習指導要領(昭和三五年文部省告示第九四号)
目次(省略)
第一章 総則
第一節 教育課程の編成
第一款 一般方針
1 高等学校の教育課程は、教科、特別教育活動および学校行事等によつて編成す
るものとすることになつている(学校教育法施行規則第57条)。
2 学校においては、教育基本法、学校教育法および学校教育法施行規則(以下
「規則」という。)、高等学校通信教育規程、高等学校学習指導要領、教育委員会
規則等に示すところに従い、地域や学校の実態を考慮し、学校におかれた各課程お
よび各学科の特色を生かした教育ができるように配慮して、生徒の能力、適性、進
路等に応じて適切な教育を行うことができるように教育課程を編成するものとす
る。
(中略)
第二節 全日制の課程および定時制の課程における教育課程
第六款 指導計画作成および指導の一般方針
1 学校においては、下記の事項に留意して、各教科・科目、特別教育活動および
学校行事等について、相互の関連を図り、全体として調和のとれた指導計画を作成
するとともに、発展的、系統的な指導を行なうことができるようにしなければなら
ない。
(1) 各教科・科目、特別教育活動および学校行事等について、第二章以下に示
すところに基づき、地域や学校の実態を考慮し、生徒の経験に即応して、具体的な
指導の目標を明確にし、実際に指導する事項を選定し、配列して、効果的な指導を
行なうようにすること。
(2) 第二章に示す各教科・科目の内容は、標準単位数に基づいて示したもので
あるが、学校において標準単位数をこえて単位数を配当する場合には、第二章に示
した事項に習熟させることをたてまえとすること。
(3) 学校においては、第二章に示していない事項を加えて指導することをさま
たげるものではないが、いたずらに指導する事項を多くしたり、程度の高い事項を
取り扱つたりして、教科・科目の目標や内容の趣旨を逸脱し、または生徒の負担過
重にならないよう慎重に配慮すること。
(中略)
第七款 道徳教育
学校における道徳教育は、本来、学校の教育活動全体を通じて行なうことを基本と
する。したがつて、各教科・科目、特別教育活動および学校行事等の学校教育のあ
らゆる機会に、下記の目標に従つて、道徳性を高める指導が行なわれなければなら
ない。
道徳教育は、教育基本法および学校教育法に定められた教育の根本精神に基づく。
すなわち、人間尊重の精神を一貫して失わず、その精神を家庭、学校その他各自が
その一員であるそれぞれの社会の具体的な生活の中に生かし、個性豊かな文化の創
造、民主的な国家および社会の発展に努め、進んで平和的な国際社会に貢献できる
日本人を育成することを目標とする。
(中略)
第二章 各教科・科目
(中略)
第二節 社会
第一款 目標
1 自他の人格や個性を尊重して、基本的人権や公共の福祉を重んずることが、社
会生活の基本であることについての認識を深め、民主主義の諸原則を人間生活に実
現しようとする態度とそれに必要な能力を養う。
2 人間の存在や価値についての思索を通して、人間としての自覚を深め、人間生
活の向上を図ろうとする自主的な態度を養う。
3 社会生活の歴史的発展過程や地理的条件に関する理解を深めるとともに、現代
社会の諸問題に関する基本的事項を理解させて、社会生活の諸問題を正しく判断す
る能力を育て、健全な批判力をもつてこれらに対処しようとする態度を養う。
4 国際関係と世界におけるわが国の地位を理解させ、国民としての自覚を高め、
民主的で文化的な国家を建設して、世界の1平和と人類の福祉に貢献しようとする
態度を養う。
5 社会に関する問題について、科学的、合理的に研究して自主的に解決していこ
うとする態度とそれに必要な能力を養う。以上の目標の各項目は、相互に密接な関
連をもつて全体として「社会」の目標をなすものであり、「社会」の各科目の目標

もととなるものである。指導にあたつては、各科目の目標とともに教科の目標の達
成に努めなければならない。
第二款 各科目
第一 倫理・社会
1 目標
(1) 人間尊重の精神に基づいて、人間や社会のあり方について思索させ、自主
的な人格の確立を目ざし、民主的で平和的な国家や社会の形成者としての資質を養
う。
(2) 人間の心理や行動を社会や文化との関連において理解させるとともに、青
年期における身近な問題を通して、人間としての自覚を深める。
(3) 人生観・世界観の確立に資するために、先哲の人間や社会に対する基本的
な考え方を理解させ、これをみずからの問題に結びつけて考察する能力と態度を養
う。
(4) 現代社会について科学的、合理的に理解させるとともに、そこにおける人
間関係のあり方について考えさせ、人間や社会や文化の問題について、これを建設
的に解決していこうとする態度とそれに必要な能力を養う。
(中略)
第二 政治・経済
1 目標
(1) 日本の政治的、経済的および社会的生活に対する客観的理解を得させると
ともに、民主主義の諸原則を国家や社会の生活の各分野に実現しようとする態度と
それに必要な能力を養う。
(2) 民主主義の本質を認識させ、日本の政治の基本的事項を理解させて、民主
政治のよりよい実現のために努力しようとする態度を養う。
(3) 国民経済に関する基本的事項を総合的に理解させ、日本経済の特質と問題
点とを明らかにして、日本経済の民主化とその発展に貢献しようとする態度とそれ
に必要な能力を養う。
(4) わが国の近代化と社会生活の向上を図る上に、労働関係の改善や社会福祉
の増進が重要な意義をもつことを認識させるとともに、それらに必要な方策を政治
や経済との関連において考察させ、健康で文化的な生活を実現しようとする態度を
養う。
(5) 国際関係の基本問題を理解させ、国際社会におけるわが国の政治的、経済
的および文化的地位の認識とその使命の自覚を得させ、国際協力を進め、世界の平
和と人類の福祉に貢献しようとする態度を養う。
(6) 客観的な資料を選び、これを正しく利用して、現実の諸問題を科学的、合
理的に研究し、公正に判断しようとする態度を養い、それに必要な能力を高める。
(中略)
3 指導計画作成および指導上の留意事項
(1) 中学校「社会」の学習の成果を活用するとともに、高等学校「社会」の他
の科目との関連にじゆうぶん留意する。また、職業に関する教科・科目その他の高
等学校の他の教科・科目などとの関連にも留意する。
中学校「社会」の政治・経済・社会的分野の内容とのむだな重複を避け、また、そ
れと同じ事項を取り扱う場合にも、生徒の発達段階に応じていつそう深めて考察さ
せるように指導する。
(2) 内容に掲げた事項の組織・配列は、そのまま指導の順序やまとまりを示す
ものではない。各学校においては、教科および科目の目標に基づいて、各事項のま
とめ方や順序をくふうし、適切な指導計画を作成することが望ましい。また、特定
の事項だけに片寄ることなく内容の全般にわたつて指導する。
(3) 現実の諸問題に深い関心をもたせるとともに、その解決の基礎となる基本
的事項についての理解を、その歴史的背景にも留意しながら、いつそう深めて、公
正な判断力や健全な批判力を養うように指導する。
(4) 指導にあたつては、社会生活の理想や価値が政治的、経済的、社会的な事
象を通して具体化されるものであることに留意する。
(5) 政治に関する事項の取り扱いについては、教育基本法第八条の規定に基づ
き、適切に行なうよう特に慎重な配慮をしなければならない。
(6) 「政治と法および道徳」の指導にあたつては、法の尊重の意義を理解させ
るようにし、その理解を基礎として「法の支配」を取り扱うように留意する。
(7) 各種の白書、年鑑、新聞などの資料や統計などの検討・利用、討議、社会
調査、見学などを適宜実施することにより、学習効果をあげるように努める。ま
た、教材として適切なスライド、放送、映画などを精選して、これらを効果的に活
用することが望ましい。
(中略)
第三章 特別教育活動および学校行事等
第一節 特別教育活動
第一款 目標
生徒の自発的な活動を通して、個性の伸長を図り、民主的な生活のあり方を身につ
けさせ、人間としての望ましい態度を養う。
(以下省略)
(原裁判等の表示)
○ 主文
被告が原告U同Tに対し昭和四五年六月六日付でなした各懲戒免職処分はこれを取
消す。
原告P22の請求を棄却する。
訴訟費用中原告U同Tと被告との間に生じたものは被告の負担とし、原告P22と
被告との間に生じたもの
は同原告の負担とする。
○ 事実
第一 当事者の求めた裁判
(原告ら)
一 被告が原告らに対し昭和四五年六月六日付でなした各懲戒免職処分はこれを取
消す。
二 訴訟費用は被告の負担とする、
との判決。
(被告)
一 原告らの請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする、
との判決。
第二 当事者の主張
一 原告ら(請求原因)
(一) 原告P22は、昭和四一年三月早稲田大学第一文学部哲学科を卒業し、同
年四月一六日以降福岡県立伝習館高等学校に教諭として勤務し社会科(倫理社会、
政治経済、日本史等)の授業を担当し、同Uは、昭和三八年三月九州大学文学部史
学科を卒業し、同四一年九月三〇日同大学大学院修士課程文学研究科史学専攻を修
了して文学修士の学位を得、その間同年四月一日以降伝習館高等学校に教諭として
勤務して社会科(日本史、地理等)の授業を担当し、同Tは昭和三七年三月熊本大
学法文学部哲学科を卒業し同三九年四月一日教諭となり同四四年四月一日より伝習
館高等学校に勤務して社会科(倫理社会、政治経済等)の授業を担当していたもの
である。
(二) 被告は昭和四五年六月六日、原告ら三名に対し、それぞれ以下の理由をも
つて地方公務員法第二九条第一項各号に基づき各懲戒免職を行なつた。
1 原告P22は「昭和四三年四月以降再三にわたり、学校新聞等に現体制を否定
するなどの特定思想を生徒を生徒に啓発する文章を寄稿掲載し、さらに同四五年二
月一〇日には勤務時間中、校内において伝習館教師集団有志名義の国家幻想の破砕
を、と題する文章を作成して生徒に配布し、建国記念の日を否定する趣旨の呼びか
けを行なうなど、生徒に対し特定思想の鼓吹を図つた。」「また昭和四二年度、同
四三年度および同四四年度の担当科目の授業において所定の教科書を使用せず、か
つ同四四年度における生徒の成績評価に関して、所定の考査を実施せず、一律の評
価を行なつた。」
2 原告Uは、「昭和四四年度の担当科目の授業において、所定の教科書を使用せ
ず、かつ高等学校学習指導要領に定められた当該科目の目標及び内容を逸脱した指
導を行なつた。」「また同年度における授業に際し、登校していながら出席しない
生徒に対して何ら注意を与えないまま、しばしば生徒を放任するなど、生徒に対す
る指導監督を怠つた。」
3 原告Tは、「昭和四四年度の担当科目の授業において、所定の教科書を使用せ
ず、かつ高等学校学習指導要領に定められた当該科目の目標及び内容を逸脱した指
導を行なつた。」「また同年度における生徒の成績評価に関して、所定の考査を実
施せず、一律の評価を行なつた。」
(三) しかし被告の右各処分は、後に詳論するとおり実体的にも手続的にも、被
告がその処分権限を著しく濫用したものとして違法である。
そこで原告らは昭和四五年八月五日、地方公務員法第四九条の二第一項に基づき福
岡県人事委員会に昭和四五年(不)第一八八五一号ないし(不)第一八八五三号を
もつて審査請求を申し立てたがその裁決はない。
二 被告(答弁並びに抗弁)
請求原因(一)、(二)の事実はすべて認める、同(三)の事実中原告ら主張のと
おり審査請求申立てがなされたこと及び裁決がないことは認め、その余の事実を否
認する。
(原告らに対する各処分事由について)
(一) 原告P22について
1 同人は昭和四三年度及び同四四年度において伝習館高校の演劇部主任の地位に
あつて同部所属生徒の指導、助言にあたつていた。高校における演劇部の活動は、
学校教育法第四三条、第一〇六条第一項及び学校教育法施行規則第五七条の二の各
規定に基いて文部大臣が告示した高等学校学習指導要領に定められた特別教育活動
の一環として行なわれるクラブ活動である。しかるに原告P22は昭和四三年一〇
月五日及び六日の両日、伝習館高校の学校行事として実施された文化祭において同
演劇部が「雨は涙か溜め息か」なる演劇を公演した際、同部主任の立場でこれに関
与しその公演パンフレツトに別紙一の「夢幻の呪詛」と題する一文を署名入りで寄
稿掲載し、右パンフレツトは同校生徒全員に配布された。右一文は難解であるが、
素直に読めば、演劇は革命を演出するものであり、革命とは現実の体制を精神的、
制度的に破壊することである、というに帰し、この一文を読む同校生徒からもその
ように受け取られうるものである。
2 同人は昭和四四年度において伝習館高校の新聞部顧問の地位にあつて特別教育
活動の一環として同部所属生徒の新聞発行の指導助言をなすべき立場にあつた。そ
して同部発行の「伝習新聞」第一〇〇号に別紙二「老いているであろう新入生諸
君」と題する一文をまた第一〇三号には別紙三の「想像力が権力を奪う」と題する
一文を各署名入りで寄稿掲載せしめた。
その内容は前者では「君達を育くんできたところの一切」を拒絶せよとし「先ほど
卒業していつた君達の先輩達」が「怠惰な追想をその貧相な頭脳の中にくり返して
いる」とか「高校に託している君達の一切の幻想を断念すること。」「そして高校
の現実に対して徹底的に絶望すること」「これから始めようとする高校生活もその
地獄図の次の一頁であること。」等を内容とし、高校生活に期待をもつて入学して
きた新入生に対し凡そ同校教師としてふさわしくない非教育的言辞が羅列されてい
る。
また後者では、「革命は存在することをやめて、実存すべきである。
ひとつの革命をつくり上げることそれはすべての内的束縛を打破することである。
法律がわれわれに課した欺瞞的状況から脱れる手段は唯一つ、それは法律を破るこ
とだ。強行しよう」「誰も考えたことのない思想に危険をおそれず頭をつつこめ」
「通りの舗石をはぐことは都市計画破壊の手初めである」、「君たちの乳母(学校
を意味する)を強姦せよ、もうすぐ魅力的な廃墟」等革命をすすめ、法律を破り、
暴力や学校破壊を奨励する言辞を羅列している。
右はフランス学生革命の際の落書で構成したとされているが素材が何であろうと、
それが一つの思想をもつた文章に構成されている以上、構成者がその文章について
責を負うべきである。
3 同人は昭和四五年二月一〇日、勤務時間中であるにかかわらず、伝習館高校の
図書館において「国家幻想の破砕を」と題する別紙四のビラの原稿を作成し、これ
を多数印刷したうえ同日午後四時ごろ右ビラを同校内において自ら生徒らに配布
し、翌一一日、国民の祝日に関する法律の定めるところにより「建国記念の日」と
して学校は休業日(学校教育法施行規則四七条、六五条一項)であるにかかわらず
同校々長の許可を受けることなく生徒を登校せしめ、同校内で建国記念日否定など
のための討論会を開催した。
4 同人は昭和四三年度及び同四四年度において倫理社会及び政治経済の授業担当
を命じられていた。右各教科については、被告が採択し伝習館高校において使用が
決定された教科書(「倫理社会」実教出版株式会社発行-昭和四三、四四年度「政
治、経済」教育図書株式会社発行-昭和四三年度「政治、経済」一橋出版株式会社
発行-昭和四四年度)があり、この教科書を使用し授業を行なわなければならない
にもかかわらず、右各年度間の授業に際して右各教科書を教材として使用しなかつ
た。
昭和四三年度同四四年度の倫理社会の授業においても所定の教科書は使用されなか
つた。かりに教科書を使用したことがあつたとしてもそれは倫理社会の学年度の最
初の授業において社会科を批判教材として位置づける同原告独自の思想を生徒に鼓
吹するにあたり、その例証として目次を開いて説明したことがあつたかも知れない
という程度に過ぎず、教科書の内容を説明して教科指導をするというようなことは
一度も行なつていない。
また政治経済の授業も教科書も使用せず社会科の資料集による授業が多く、講義は
経済主体で政治の講義は少なく素材を恣しいままに資料集から選び、革命的思想を
鼓吹していた。
5 同人は昭和四三年度同四四年度において以下のとおり恣意にわたる教育を行な
つた。
(1) 昭和四三年度三学期(同四四年二月ごろ)三年生の政治、経済の授業にお
いて「共産党宣言」(マルクス)「空想より科学へ」(エンゲルス)を読み、その
いずれかについて読後感をレポートして提出するよう求めたが、その際「夏休みに
出そうと思つたが、大学受験の勉強ができないようにこの時期に出す」旨生徒に発
言した。
(2) 昭和四三年度における三年生の政治、経済の授業において最近のフランス
の学生運動を取り上げてこれを肯定する内容の講義をし、さらに同考査において
「フランス革命運動の背景とその原因について」という問題を出題してその所見を
求めた。
(3) 昭和四四年度における二年生の倫理、社会の授業において、年度当初から
二学期末までの間、週二時間の授業時数のうち、一時間は同校の図書館において課
題研究を命じて生徒を放任し、指導監督を怠つた。
6 同人は、昭和四四年度において二年一、四、六、八、九、一〇各組の倫理、社
会及び三年一、六組の政治、経済を担当したが、同年度一学期は成績評価について
考査を実施せず、すべての担当クラス生徒全員に一律に六〇点と評定した。
伝習館高校においては校長の制定した校内規程によつて各学期ごとに考査を行な
い、成績の評定をなすべきことが定められており原告はこれに従つて考査、評定を
なすべき義務があるにもかかわらず故意にこれに違反したものである。同人は同年
七月ごろ校長から右のごとき無責任な評価のやり方を是正するよう指示されたにも
かかわらず、これを無視し、同二学期の倫理、社会(二年一、四、六、八、九、一
〇組)の成績評価について再び全員一律六〇点と評定した。同人は右同年度三学期
においても担当教科の成績評価について所定の考査を実施しなかつた。
(二) 原告Uについて
1 同人は昭和四四年度において日本史の授業担当を命じられていた。
同教科については被告が採択し伝習館高校において使用が決定された(「詳説日本
史」株式会社山川出版社発行)があり、この教科書を使用して授業を行なわなけれ
ばならなかつたにもかかわらず同年度の授業に際して右教科書を教材として使用し
なかつた。
2 高等学校においては「教諭は生徒の教育を掌る」(学校教育法五一条、二八
条)ものであるが生徒に対する教育は監督庁の定める基準によつて行なわなければ
ならない(同法四三条)のであり就中教科指導は学校教育法施行規則第五七条の二
によつて文部大臣が告示した高等学校学習指導要領によるべきものであるが、右学
習指導要領は、前記のとおり学校教育法第四三条により法律の委任に基づき作成制
定されたものであるから法規たる性質を有するものであつて、もとより教諭の生徒
に対する教科指導の内容を拘束するものである。
同人は右学習指導要領を逸脱して次のような教育を行つた。
(1) 昭和四三年度三学期における一年生の地理テストにおいて、右学習指導要
領に定められた地理科目の目標を著しく逸脱した次の問題を出題した。すなわち
「公害と独占」「資本主義社会と社会主義社会における階級とその闘争について」
(2) 昭和四四年度一学期における三年生の日本史の中間テストにおいて右学習
指導要領に定められた日本史科目の目標を著しく逸脱した次の問題を出題した。す
なわち「社会主義社会における階級闘争について述べよ」「次の二題(テーマ)の
うち、一題を任意に選び論述せよ。スターリン思想とその批判。毛沢東思想とその
批判。」
(3) 昭和四四年度における一年生の地理テストにおいて右学習指導要領に定め
られた地理科目の目標を著しく逸脱した次の問題を出題した。「社会主義社会にお
ける階級闘争」「stalin思想とその批判」「毛沢東思想」
(4) 昭和四四年度における三年生の日本史の授業において、年度当初数時間に
わたり右学習指導要領に定められた日本史科目の目標とは関係がないマルクス、毛
沢東、米偵察機撃墜問題などに関する授業を行なつた。
3 同人は昭和四四年度における授業において、しばしば当該教科とは関係のない
雑談をなしまた当該教科から逸脱した授業を行なつたため、授業内容、態度に不満
を抱いた生徒多数がしばしば教室を出て同人の授業を放棄したにもかかわらず出欠
を点検せず、かつこれらの生徒に対して何らの注意もしないまま、生徒を放任する
など指導監督を怠つた。このため生徒の出席状況は半数ぐらいとなることもしばし
ばであつた。
(三) 原告Tについて
1 同人は昭和四四年度において「政治、経済」の授業担当を命じられていた。
同教科については被告が採択し伝習館高校において使用が決定された教科書(「政
治、経済」一橋出版株式会社発行)があり、この教科書を使用して授業が行なわれ
なければならないにもかかわらず「自分が使いたい教科書と違う」とか「真実が書
かれていない」などと生徒に発言し、同年度の授業に際して右教科書を使用しなか
つた。
2 同人は、前記のとおり法規たる性質を有する学習指導要領を逸脱して次のごと
き教育を行なつた。
(1) 昭和四四年度における三年生の政治、経済の授業においてしばしば当該科
目とは関係のないヴエトナム、朝鮮、米偵察機撃墜事件などの問題を取り上げて解
説し、生徒の意見発表を求めるなどの問題を取り上げて解説し、生徒の意見発表を
求めるなどの授業をして当該科目の目標を逸脱した。
(2) 右同授業において「ロシヤ革命」「中国の赤い星」「レーニン」など特定
の書物を読むよう指導した。
3 同人は昭和四四年度において、二年二、五、七各組の倫理社会及び三年二、
三、五、八、一〇各組の政治経済の担当を命じられていたところ、同年度一学期の
成績評価にあたり校内規定に違反して考査を実施せず、レポート提出による成績評
定を行なつたものであるが、その際レポートを提出した者は内容のいかんにかかわ
らず全員一律に六〇点、提出しなかつた者には一律に五〇点と評定した。
同人は右の成績評価について、同年七月ごろ校長から評価の仕方を是正するよう指
示されたにもかかわらず、同年度三学期には校内規定に違反して再び考査を実施し
なかつた。
(処分事由に対する法律の適用について)
(一) 原告P22の処分事由1ないし3に記載の「夢幻の呪詛」「老いているで
あろう新入生諸君」及び「想像力が権力を奪う」と題する各文の内容は、未だ心身
の発達段階にある高校生がこれを読めば、これらの各文が全体として「革命」を慫
慂し、現在の法体制ないし法律秩序を破壊し、あるいは民主々義国家、社会におけ
る法の支配の基本原則を否定することを勧めるものと理解するおそれが大である。
原告P22が右各文を高等学校における教育活動の中において発表した行為は、未
だ心身の発達段階にある高校生に対して反民主々義ないし反法治主義的思想の鼓
吹、啓発をはかつたものとして学校教育法第四二条所定の高等学校における教育目
標に違反するものであり、同条の目標に従つて定められた高等学校学習指導要領に
も違反するものであつて地方公務員法第三二条に違反する行為である。
すなわち、
1 わが国は憲法前文に明らかなとおり、国民の信託に基づき、国民の代表者によ
つて国政が行なわれる民主々義を人類普遍の原理としてこれを採用しているとこ
ろ、わが国教育はこの憲法の理念及び同理念に基づいて制定された教育基本法に則
つて実施さるべきものであり、高等学校教育は民主々義、法治主義国家の成員とし
て、その基本原則を遵守し、責任を果たしうる心身ともに健全な国民の育成を目標
として行われるべきものである。
この点について学校教育法第四二条は「中学校における教育の成果をさらに発展拡
充させて、国家及び社会の有為な形成者として必要な資質を養うこと。」と定めて
いるところであつて同人の右所為が同目標に違反することは明らかである。
2 高等学校学習指導要領は「学校における道徳教育は本来、学校の教育活動全体
を通じて行なうことを基本とする。」と定め「各教科、科目、特別教育活動及び学
校行事等の学校教育のあらゆる機会に、道徳性を高める指導が行なわれなければな
らない」としているところである。
そもそも「道徳教育は教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基
づく」ものであり、その目標の一には「民主的な国家及び社会の発展に努め、進ん
で平和的な国際社会に貢献できる日本人を育成すること」が掲げられているところ
であつて「民主的な国家及び社会」が憲法の定める議会制民主々義を指すものであ
ることは明らかであるから同人の右所為は、この目標にも違反するものである。
3 原告P22の右所為は特別教育活動としてのクラブ活動の中においてなされた
ものであるところ、高等学校学習指導要領に定められた特別教育活動の目標は「生
徒の自発的な活動を通して、個性の伸長を図り、民主的な生活のあり方を身につけ
させ、人間としての望ましい態度を養う。」と定められているところであり、民主
国家の成員として真に民主々義を尊重し、これを実践する態度をも修得させること
をねらいとしているものであるから、同人の所為は、この目標にも違反するもので
ある。
(二) 原告U及び同Tの教科指導における高等学校学習指導要領違反について
1 原告Uについて
同人の当該各教科指導は、その態様上、学校全体として実施された一斉考査におけ
る出題行為と、授業活動とに大別される。
(1) まず一斉考査における出題行為についてみる。
およそ考査は、教師にとつては生徒の履修の成果を測定するためのものであるか
ら、その出題事項には、当該教師がそれまでの授業等において生徒に教授した事項
のうち、その成果を当該教師が是非とも確認したい重点項目が必然的にとりあげら
れることになる。
また生徒にとつては、一般に考査における出題事項は、当該教科、科目の内容ある
いは日常の授業のうち、どういう事項を重点的に学習すべきであつたかについて自
覚と反省を促す実際上の効果を持つものであるから、当該出題自体が、教師が生徒
に学習の指針を示すものとして、一つの教科指導そのものであるとともに、生徒に
対し、当該科目についての将来の学習態度を決定づける作用を持つものである。以
上要するに考査における出題事項は、当該教師の日常の授業内容、方針の徴憑であ
るとともに、当該出題自体が一つの教科指導でもあるということである。
ところで生徒が高等学校における全課程の修了の認定を受けるには、「高等学校学
習指導要領の定めるところにより、八五単位以上を修得」しなければならないとさ
れているが(学校教育法施行規則六三条の二)、各教科、科目についての単位の修
得の認定は、高等学校学習指導要領では「生徒が学校の定める指導計画に従つて教
科、科目を履修し、その成果が教科、科目の目標からみて満足できると認められる
場合」になされるものと規定されている(第一章第二筋第三款)。そして右認定に
当つては生徒の「平素の成績を評価して、これを定めなければならない」ものであ
る(学校教育法施行規則六五条一項二七条)。
伝習館高校においては、生徒の「平素の成績」を評価するに当つては、一斉考査が
最も重要な評価手段とされており、一斉考査の成績は、当該教科、科目に関する単
位の修得の認定について最も重要な基礎資料とされているところである。
右のような本件一斉考査の性質及び目的に鑑みるときはその出題事項の選定は、教
師個人の恣意的ないし独善的判断に委ねられるものではなく、何をもつて当該教
科、科目にとつてふさわしい履修の成果となすかについて、高等学校学習指導要領
に規定された当該教科、科目の目標及び内容に従つた適切な教育的配慮に立脚し
て、その履修上の必須事項あるいは重要事項に沿つてその選定がなされるべきもの
である。
しかるに原告Uの前記力地理ないし日本史の一斉考査における設問はそのいずれを
とつても地理ないし日本史科目の履修上の必須ないし重要事項というには全く値し
ないから、その成績如何をもつて地理ないし日本史科目の単位の認定についての最
も重要な基礎資料としようとしたことは著しく妥当を欠き、単位の修得の認定に関
する高等学校学習指導要領の規定(第一章第二節第三款)の趣旨に違反する。
また右設問事項はその内容が「スターリン、毛沢東思想」とか「独占」「階級闘
争」等の語にみられるとおり、特定の傾向に偏り過ぎているきらいがある。このこ
とから同人の教科指導方針が特定の立場すなわち闘争的な反権力、反国家の思想に
立脚しでいるものとみられでもやむを得ず、したがつてまた本件出題行為が生徒に
与える教育的悪影響の重大さを見過すことはできない。このことは学校教育法第四
二条所定の高等学校教育の目標に反する。
なお同人の地理、日本史の設問(乙第二四号ないし第二六号証)は、右設問を別と
しても全体として当該教科、科目について高校生に求められる基礎的事項を軽視し
た高度に飛躍した応用問題に偏つており高校生の「心身の発達」を無視している点
で、学校教育法四一条所定の高等学校教育の目的に違反し「いたずら
に・・・・・・程度の高い事項を取り扱つたりして、教科、科目の目標や内容の趣
旨を逸脱し、または生徒の負担過重にならないよう慎重に配慮すること」という高
等学校学習指導要領の規定(第一章第二節第六款1(3))の趣旨にも違反する。
原告Uの一斉考査における前記設問が高等学校学習指導要領に規定された当該教
科、科目の目標に違反する理由は次のとおりてある。
「公害と独占」と地理(B)科目の目標
公害問題の根底には、国民生活を支える原動力としての国土の開発や資源の利用と
人間環境の劣悪化との相克をいかに解消するかという困難な問題があり、その指導
については、このような観点からの深い検討と慎重な教育的配慮とを要することは
勿論である。
これを地理科目において指導する場合にはその目標(2)及び(4)の趣旨に従
い、人間をとりまく環境の認識を深める観点に立つて行なわれるべきである。本件
のように地理科目において公害を「独占」と結びつけて出題し、公害と独占との関
連性を重要視して指導することは、少くとも地理科目の右のような趣旨から著しく
逸脱するものであり、右目標(2)及び(4)の趣旨に違反する。
「資本主義社会と社会主義社会における階級とその闘争」
「スターリン思想とその批判」及び「毛沢東思想」と地理(B)科目の目標
右設問事項は、目標(1)にいう「地域的特色」とは関係がなく、当該理解を通し
て「世界におけるわが国の地位を理解させて、国家や社会の形成者としての自覚を
高める」という同目標に違反する。
すなわち同目標(1)にいう「地域的特色」とは「地域相互の比較関連において明
らかに」されるべきもので、内容(12)「国家、国家群」も国際関係の現状と動
向に影響を及ぼしている地理的諸条件を考察させることに主眼があるのである。
ちなみに高等学校学習指導要領の具体化ともいうべき文部省検定済教科書「地理
B」(甲第二五号証)の「社会主義国家群」のところをみても、そこには同国家群
を形成する各国の地理的位置関係とか人口、民族、資源、工業、交通、貿易等にわ
たる地域的特色の記述しかなく右の設問事項のようなものはどこにも見当らないば
かりでなく、その他の目標及び内容とは何らの関係はない。
「社会主義社会における階級闘争」「スターリン思想とその批判」及び「毛沢東思
想とその批判」と日本史科目の目標
右設問事項は、日本史との相関々係を全く無視し、当該階級闘争とかスターリン、
毛沢東思想そのものを取り扱つたもので、目標(5)にいう「世界史的視野」とは
関係がなく「日本史の発展を常に世界的視野に立つて考察させ、世界におけるわが
国の地位や文化の伝統とその特質を理解させることによつて、国際社会において日
本人の果たすべき役割について自覚させる」という同目標に違反する。すなわち、
目標(5)にいう「世界史的視野」に立つての考察とは、現代日本の世界における
地位を決定してきた歴史的条件を考えさせることを意味し、内容(10)にいう
「世界の動向」も第二次世界大戦後の国際政局の緊張その他の世界の動きとの関連
で、わが国が今後いかに歩むべきかについて深く考えさせることに主眼があるので
ある。
(2) 次に授業活動についてみる。
原告Uは、昭和四四年度三年生日本史の授業において、年度当初数時間にわたり、
マルクス、毛沢東、米偵察機撃墜問題等に関する授業を行なつたものであるが、そ
のうち前二者については唯物史観との関連で授業をした旨の抗弁がある。
マルクス、毛沢東が唯物史観との関連で出てきたというその授業の動機は仮りに認
められるとしても、実際の授業内容は「史観」の解説の範囲を超えてマルクス主義
ないしスターリン、毛沢東思想そのもの、さらにはソ連、中共の共産党史までにも
及んでおり、しかも当該学期の中間考査には「社会主義社会における階級闘争」
「スターリン思想とその批判」及び「毛沢東思想とその批判」が、何ら唯物史観と
の関連を指摘されることなく、そのまま出題されていることから推しても、これを
到底「史観」の解説の授業とみることはできない。
なお本件のように日本史や世界史の基本的事項を系統的に理解させることなく年度
当初に数時間にわたり右のようなマルクス、毛沢東、米偵察機撃墜事件等に関する
授業を行なうことは、生徒に日本史発展の見方について予め特定の先入観を与える
結果となり、特に唯物史観は単に「歴史の変化、発展を社会構成体の継起的交替と
見る」にとどまらず、その「継起的交替」すなわち「階級闘争」を歴史発展の原動
力かつ歴史的必然と見るものであつて、本件のように著しく唯物史観に偏りすぎた
指導をなすときは生徒の日本史の理解を歪曲し、阻害する結果をもたらすことは明
白である。このことは社会科及び日本史の目標に違反することは勿論、広く学校教
育法第四二条所定の高等学校教育の目標にも違反する。
2 原告Tについて
原告Tには、昭和四四年度三年生、政治経済の授業において、しばしばベトナム、
朝鮮、米偵察機撃墜事件等の問題を取り上げて解説し、生徒の意見発表を求める等
の授業を行なつたものである。
政治経済科目は「民主々義の諸原則を国家や社会の生活の各分野に実現しようとす
る態度とそれに必要な能力を養う」(目標(1))ため「民主々義の本質」「日本
の政治の基本的事項」(同(2))「国民経済に関する基本的事項」(同(3))
「国際関係の基本問題」(同(五))等、いわば政治経済の基礎知識、能力を修得
させること及び「客観的な資料を選び、これを正しく利用して、現実の諸問題を科
学的、合理的に研究し、公正に判断しようとする態度を養い、それに必要な能力を
高める」(同(6))ことを目標とするものである。したがつて時事問題を扱う場
合には、その解決の基礎となる基本的事項についての理解をいつそう深めて、公正
な判断力や健全な批判力を養うように指導されるべきものである(指導計画作成及
び指導上の留意事項(3))
然るときは本件授業の実態は、著しく恣意的かつ独善的な時事評論であり、しかも
生徒に対し特定の立場から「間接的に火をあおられている」ような印象を与えるほ
どの政治的論評であつて、このことは社会科及び政治経済科目の目標に違反するこ
とは勿論、学校教育法第四二条所定の高等学校教育の目標にも違反する。
(三) 教科書不使用について
学校教育法第二一条第五一条の規定により、高等学校においては「文部大臣の検定
を経た教科用図書又は文部省が著作の名義を有する教科用図書を使用しなければな
らない」とされている。
その具体的内容は次のように解すべきである。
1 高等学校においては、必ず教科用図書を使用しなければならないこと。かつそ
の使用する教科用図書は、文部大臣の検定を経たもの又は文部省が著作の名義を有
するものでなければならないこと。一般に「教科書」というときは、このような教
科用図書を指すものである。(教科書の発行に関する臨時措置法-以下教科書法と
いう二条一項)
2 同一の教科・科目について数種類の教科書が発行されている場合には、当該学
校を管理する教育委員会が、当該学校長の意見をきいて採択した教科書を使用しな
ければならないこと。(地方教育行政の組織及び運営に関する法律-以下地教行法
という-二三条六号、福岡県立学校管理規則(昭和三二年福岡県教育委員会規則第
一三号)五条一項)
3 教科書の使用形態は「教科の主たる教材として、教授の用に供せられる」べき
こと。すなわち「教科書」とは「学校において、教科課程の構成に応じて組織排列
された教科の主たる教材として、教授の用に供せられる児童又は生徒用図書」(教
科書法二条一項)として法律上観念されていることからも明らかなとおり、学校教
育法第二一条の教科書使用義務の本来的意義は教師に対して、当該教科・科目の教
授に際しては、検定教科書を主たる教材として使用すべきことを命じる点にある。
このような検定教科書の使用義務は、学習指導要領の法的拘束性とともに教育の公
的性格に由来するものである。
然るときは教師の具体的教科指導において、教科書が主たる教材として使用されて
いるか否かは、次のような諸点に留意して、総合的に判断されるべきものである。
(1) 教授方法の面において、教科書が主たる教材として活用されていること。
すなわち、たとえば教師及び生徒が授業に教科書を持参し、机上に携え、あるいは
授業の進行にあたつて生徒の側からみても現在の授業と教科書の部分との対応が客
観的に明確であるというような形態が、授業の全体を通じてほぼ確保されているこ
と。
また当該授業に現実に使用されている諸教材の中では、教科書が常に中心的教材と
しで使用され、教科書以外の教材たとえば資料集、プリント、新聞の切り抜き等
は、たとえそれが授業に使用される場合でも教科書との対応関係に十分留意しなが
ら補足的に使用されていること。
したがつて文部大臣の検定を経ていない図書等(たとえば資料集、教師私製のプリ
ント等)を授業の中心的教材とすることは許されない。
(2) 授業内容の面においても、教科書の内容に従つていること。
教科書使用義務は、学習指導要領の法的拘束性と表裏一体をなすものであるから、
当該義務は、単に方法論ないし形式論として使用を義務づけるのみにとどまらず、
教師の授業内容が教科書の内容をふまえながら、それと基本的に合致したものでな
ければならないという趣旨をも包含するものである。
このことは、学校教育法第二一条の解釈として、検定不合格教科書は教科書以外の
教材としても一切使用が禁止されていることからも明らかである。(昭和二三、
八、二四文部省教科書局長通達)
4 もし仮りに、教科書を教科の主たる教材と」て使用しなくてもよいものとすれ
ば、教科書を検定にかからしめ(学校教育法第二一条等、教科用図書検定規則)、
その使用を教育委員会の採択にかからしめた(地教行法第二三条六号)、法令の規
定は、すべて無意味となるのである。
原告らは本件各授業において、学校教育法第二一条、第五一条による教科書使用義
務に違反して「教科書を教材として使用しなかつた」ものであり、当該違反の具体
的意味は以上述べたところに照らして判断されるべきである。
(四) 建国記念の日に関する原告P22の各行為が如何なる意味で法令違反とな
るかは以下のとおりである。
1 同人が昭和四五年二月一〇日、「国家幻想の破砕を」と題するビラを生徒に配
布し、翌一一日生徒を登校せしめて討論会を開催した行為は、生徒に対し建国記念
の日の否定及びこれに籍口して「国家幻想の破砕を」呼びかけ、いたずらに法律無
視、反国家ないしは反権力という特定思想の鼓吹を図つたものとして学校教育法第
四二条所定の高等学校における教育目標に違反する。
2 同人が、同月一〇日、勤務時間中にビラを作成、印刷、配布した行為は次のよ
うな理由により、地方公務員法第三五条所定の職務専念の義務に違反する。
すなわち職員は同条により勤務時間中は法令等による特別の定めがある場合を除
き、職務専念の義務を有し、その精神的、肉体的活動力の全てを職務の遂行にのみ
集中しなければならず、その職務以外のために精神的、肉体的活動力を用いること
は許されないものである。
このことは教員について、授業時間中であると否とにより異なるものでないことは
勿論であり、また本県において、教員は放課後は勤務拘束がないということを認め
てきた事実も全くない。本件行為は、翌一一日に計画された私的かつ違法な教育活
動のための準備行為であつて、それは同人の職務の遂行とは全く無関係であるとい
うべく、したがつて同人は、勤務時間中、その職務以外のために精神的、肉体的活
動力を用いたこととなり、右同条に違反することは明らかである。
3 同人は、右行為が福岡県高等学校教職員組合伝習館分会の支援の下に有志の名
において実施されたものである旨主張しているが、そうだとすると、右行為の実質
は組合活動に他ならず、条例で定める場合を除き勤務時間中の組合活動を禁止する
地方公務員法第五五条の二の六項の規定にも違反する。
4 建国記念の日は、国民の祝日に関する法律によつて、学校は休業日とされてお
り(学校教育法施行規則第四七条一項)これを授業日と振り替えて生徒を登校させ
るためには「教育上必要があり、かつやむを得ない事由があるとき」に、校長があ
らかじめ教育委員会に届け出ることを要するのである。(福岡県立高等学校学則-
昭和三二年福岡県教育委員会規則一四号-五条六項)。また学校施設をその本来の
目的以外に使用する場合には、管理者たる校長の許可を受けなければならないので
ある。にもかかわらず同人は本件討論会を計画するにあたり生徒を登校させること
について校長を通してあらかじめ県教育委員会に届け出ず、学校施設の使用につい
ても校長の許可を受けずに、無断で生徒を登校させたものである。また学校におけ
る教育活動は県教育委員会及び校長の管理の下に実施されなければならず(地教行
法第二三条五号)、本件のように、一部の教師が正規の手続を経ることなく勝手に
県教育委員会や校長の管理権限を無視し、学校において、その正規の教育課程の枠
外において恣意的な教育活動をなすときは「公教育」として生徒ないし父母、県民
に対して負う教育的責任を全うすることはできないのである。
したがつて同人のなした本件行為は、前記各条項を無視した点で地方公務貝法第三
二条所定の法令等遵守義務に違反するものである。
(五) 原告P22の恣意的教科指導について
1 処分事由(一)の5の(1)の行為について
高等学校においては一般に三年生の終り頃は、大学受験、就職その他生徒の将来の
進路撰択にあたり最も重要な時期であつて、この期における教師の教科指導は、こ
のような生徒の当面している事情に対する適切かつ個別的な教育的配慮に基づいて
慎重になされることを要するのである。
本件は、右のような時期に、生徒に対し正規の授業の一環として前記の書物のいず
れかを読むことを自宅学習として課し、その読後感をレポートとして提出するよう
求めたものであり、当該課題の回答に要する生徒の負担を考えると、生徒の当面し
ている事情に対する慎重な配慮を欠くものということができることは勿論、同人の
企図が、その言動にみられるとおりことさら「大学受験の勉強」を妨害する点にあ
つたというにおいては、子弟の大学進学を託した父母の教育要求に背馳して自己の
独善的な教育観を押しつけるものであつて到底許しがたい行為である。
このことは高等学校学習指導要領が、教科指導においては「地域や学校の実態を考
慮し・・・・・・実際に指導する事項を選定し、配列して、効果的な指導」(第一
章第二節第六款1(1))を行ない「いたずらに指導する事項を多くし
て・・・・・・生徒の負担過重にならないよう慎重に配慮すること」(同(3))
と規定している趣旨にも違反するものである。
2 処分事由同(二)の行為について
「フランス学生運動」は昭和四三年五月、フランス全土をおおつたいわゆる「五月
革命」(一千万人に近い労働者、市民が三週間以上にわたつてゼネストに参加した
もの)の原動力をなしたものとして世界的注目を集めたものである。それはわが国
では「当時のドゴール政府の一連の大学政策に対する学生の不満を契機として、単
に学生の大学管理への参加を要求するにとどまらず、ドゴール政権の打倒、反帝国
主義、反権力のために非合法的手段(ストライキ、試験ボイコツト等)ないしは暴
力的手段(大学占拠、投石等)に訴えて学生、労働者により政治権力を奪取するこ
とを目的とし既成の労働運動とは異質な反体制運動へ発展したもの」として報道さ
れた。このようなフランス学生運動は、わが国の学生運動にも波及し、過激な大学
闘争の指導理念となるとともに、高校生の過激な政治運動を生み出す誘因ともな
り、一時、一大社会問題を現出したことは周知の事実である。
本件は、このようなフランス学生運動が、未だ心身の発達段階にある高校生に与え
る教育的影響の危険性を吟味することなく、そのセンセーシヨナルな話題性に便乗
して高校生の好奇心を刺激し、安易にこれを肯定する内容の講議をするとともに、
一斉考査において出題したものであり、高等学校学習指導要額の当該各規定及び学
校教育法第四二条に違反する。
3 処分事由同(3)の行為について
教喩の主たる職務は教育を掌ることであるが、その具体的教科指導は、その職務上
の上司にあたる校長の編成する教育指導計画によつて確定するものである。したが
つて、教諭に割り振られた授業時間割は、校長の包括的な職務命令とみなすことが
でき、正当な理由のない限り、教諭は割り振られた時間に割り振られたクラスの授
業を行なうべき義務を負うものである(地方公務員法第三二条)。勿論当該包括的
職務命令は、教諭の具体的な授業の方法、内容までを指定するものではなく、それ
は一定範囲において教諭自身の創意・工夫に委ねらしれるべきものではあるが、そ
れが社会通念上許容された授業形態の範囲を逸脱し、生徒に対する指導監督を全く
放棄したと認めうる場合には、授業義務を果たしたことにはならない。本件は図書
館において生徒に自主的に課題研究をさせるという授業型態をとつたものである
が、そもそも「授業」とは、教材を媒介としで学ぶ者の学習意欲を組織しこれを促
進深化させる教師の意図的教育活動をいうのであるから、本件のように、授業の成
果が専ら生徒に委ねられ、教師の教授活動は単に補足的になされるにすぎない授業
型態は、あくまで異例なものであつて、年度当初から二学期末までの長期間にわた
り週二時間の授業時数のうち一時間をこのような異例な授業形態にあてること自体
問題があり、当該教科、科目の目標を十分に達成することは困難であるといわねば
ならない。
なお、もし本件のような授業形態を例外的にとる場合があつたとても、教師は、常
に生徒の学習現場に待機し、生徒の求めに応じて何時でも個別的に指導のできる態
勢をとつておくべきことは当然であるが、にもかかわらず本件においては同人は、
たびたび正当な理由なく当該学習現場である図書館にさえ赴かず、生徒に対する個
別的指導の態勢をとらなかつた事実があり、このことは授業そのものを放棄したに
等しく、校長の前記包括的職務命令に違反したものとして地方公務員法第三二条に
違反する。
また職員は同法第三五条により、勤務時間中は法令等による特別の定めがある場合
を除き、職務専念の義務を有し、その精神的、肉体的活動力の全てをあげて職務の
遂行に専念しなければならないものである。したがつて、右職務命令違反が同時に
本条違反となることは明らかであるが、さらに同人は、当該授業の現場である図書
館に赴き、形の上では授業をしたと見られる場合にも、その多くは生徒を放任し、
指導監督を怠り、教育者としての職責を全うしなかつたものであつて、本条に違反
するものである。
(六) 一律評価について
考査を実施しないことが校内規程に違反する理由は次のとおりである。
1 福岡県立高等学校の利用関係の基本的事項を定めた福岡県立高等学校学則(昭
和三二年福岡県教育委員会規則第一四号)八条は、「生徒の学習成績の判定のため
の評価については学習指導要領に示されている教科及び科目の目標を基準として、
校長が定める」と規定している。したがつて、本件評価規定の法的性質は、その成
立過程の如何を間わず、右学則の規定に基づき校長が定めた細則と解すべきであ
る。
一般に学則は利用者(生徒)を拘束するばかりでなく学校側の校務運営をも拘束す
るものと解せられるところ、このような学則に基づき、教育機関の長として校務全
般の総括責任者である校長(学校教育法第二八条三項)が定めた本件評価規定も、
校務運営内規としての性質を当然有し、所属教員を拘束するものと解すべきであ
る。
2 本件評価規定の内容は、次のような理由により、所属教員に対し、一斉考査に
おいて各担当科目につき考査を実施すべきことを義務づけたものである。
すなわち、一斉考査は学習成績の評価手段の筆頭に掲げられているものであり(五
条一項)また、平常考査が各教師により個別的に行なわれるものとは異なり、一斉
考査は校長があらかじめ決定した日程に従い年間五期にわたり定期的に学校全体で
実施されるものである(同三項)。
このような一斉考査の重要性に鑑み、病気その他の事故により考査を欠いた生徒に
対しては、所定の手続を経ることにより一定の比率で見込点を与えることとし(同
四項)、またその実施の厳正を期するため、不正行為を例示してこれを禁止し、違
反者は処罰する(七条)ばかりでなく、一斉考査については特に「不正行為者の当
該期一斉考査の点数は全科目とも零点とする。」(五条五項)との厳格な制裁を科
することとしているのである。
右に鑑みるときは、本件評価規定は、従来より一斉考査においては少くとも主要五
教科に属する各科目については特別の事情のない限り考査が行なわれてきた実態を
ふまえ、一斉考査において考査を行なうべきことはあらためて規定するまでもない
当然自明の義務とすることを前提として制定されたものとみるのが自然である。
三 原告ら(処分事由に対する答弁)
(一) 原告P22について
1 公演パンフレツト中の「夢幻の呪詛」が被告主張の趣旨に解釈されることを争
い、右パンフレツトが同校生徒全員に配布されたという点は否認する。その余の事
実を認める。
「夢幻の呪詛」を要約すれば、原告P22の一つの演劇論であつて「演劇とは何
か」という間に対し演劇とは「人間的自由」の極限に視座を置き、そこから見える
人間の存在のあり様を、虚構の世界において演出するものである、という趣旨であ
り、「革命」を論じたものではない。原告P22は右一文の内容解説を伝習館演劇
部が公演したP12の「ひかりごけ」を素材として行なつている。「人間を食うと
いう犯罪行為の中で、極限状況の中での人間存在、原罪とは何か。」を問題提起す
る演劇であつた。右一文に対する伝習館の生徒の理解も、素直に一つの演劇論とし
て受けとめている。
2 原告P22が、昭和四四年度、伝習館高校新聞部顧問の地位にあつたこと、
「伝習新聞」第一〇〇号に「老いているであろう新人生諸君」と題する一文を署名
入りで、また同第一〇三号に「想像力が権力を奪う」と題する一文を、それぞれ寄
稿したことは認めるが、右第一〇〇号は昭和四三年の寄稿である。なお第一〇三号
に寄稿したものが署名入りであつたこと及び寄稿「掲載せしめた」という点は否認
する。
右一〇〇号は新入生歓迎特集号であり、新入生にバラ色の幻想としての高校生活を
紹介するのではなく、新入生に同校の現実の状況を隠すことなく紹介し、生徒全員
で共に考え、学内の諸問題(制服問題能力別クラス編成問題、コース制、体育祭、
文化祭等)を協力して解決していこうという呼びかけをしているものである。
新聞部は編集会議で特集号の方針を決め、生徒間に信望のあつかつた原告P22に
寄稿依頼することを決め、原告P22に特集号の趣旨を説明しその記事を依頼し
た。
「老いているであろう新入生諸君」の内容を要約すれば「新入生諸君は高校生活に
対する甘い幻想、甘い認識を捨て、高校生活の現実を直視し、主体的に高校生活を
生き抜くよう。」と呼びかけたものである。原告P22独特の文章体と逆説的表現
ではあるが、全体を通して読めば右趣旨の理解は比較的容易であり「革命」を煽動
したり、現在の法体制破壊を勧めるものと理解するおそれはない。
また「想像力が権力を奪う」の一文は、当時の新聞部が社会問題に関心を示し、マ
スコミをにぎあわせていたフランス五月革命とりわけ学生運動に興味を持ち、編集
会議で自主的にこれを記事にすることを決め、原告P22にその記事を依頼した。
原告P22は、右五月革命の解説でなく、学生達の気持をそのまま伝えた方がよい
旨回答し、五月革命当時のパリの学生が敷石や壁に書きつけた言葉を編集した「壁
は語る-学生はこう考える」(ブザンソン編、竹内書店刊)を資料にして右資料の
中の言葉をP22が引用列挙し、一文を構成したものである。したがつて、右一文
は同人が創作したものではなく、伝習新聞にも記事の末尾に(本文は1968年5
月フランスの学生革命の際に、建物や舗道に書きしるされた“落書”という形式の
学生自身の言葉で構成す)とP22のことわり書が記載してある。但し右記事の取
扱いについて新聞部で重大な手違いがあるが(見出しで「想像力が権力を奪う」P
22となつているが、原稿では一番最後に「構成責P22」となつていた。)これ
は部員の交替により生したミスであり原告P22の意図に反するものである。右一
文を全体的に読めば、およそ論理的には理解不可能である。何故なら落書の主が種
々雑多な思想の持ち主だからである。被告は右一文中の一個所のみを取り上げ、あ
たかも原告P22が同一思想を持つているかのごとき印象を与えようとしている
が、右一文の他の個所を読めば、原告P22が同文に表現された雑多な思想と同一
思想でないことが解るのであり、原告P22の思想を代言させたものでもなく、フ
ランス五月革命を解説、論評したものでもない。
3 昭和四五年二月一〇日、原告P22が、勤務時間中(放課後)に「国家幻想の
破砕を」と題するビラを(伝習館高校の教師数人と)作成、印刷し、同日午後四時
ごろ同校内において生徒らに配布したことを認めるが「校長の許可を受けることな
く生徒を登校せしめ」たこと及び「建国記念日否定」などのための討論会を開催し
たとの点は否認する。
伝習館高校は勿論、福岡県下の県立高校では、たとえ勤務時間中であつても放課後
は、各教師の自由時間であると教育現場では考えられ、各教師は一つの現場慣行と
して受けとめていた。
右慣行は教師の職業の特殊性からして一般的に容認され、県教委も尊重していた。
従つて被告が突然勤務時間の厳正を主張して、原告P22の行為を職務専念の義務
に違反するというのは信義則違反もはなはだしい。
原告P22は、昭和四二年度から毎年「建国記念日」の日に伝習館高校で「建国記
念日」に関して生徒の有志と一緒に考え討論集会を継続して持つていた。昭和四五
年度は伝習館分会会議で教育研究運動の一環として支援することになつたが、討論
集会は教師集団有志が主催し、ビラ配布も、右有志の教育活動の呼びかけとして行
なわれた。従つて被告の主張する組合活動そのものではなく、地方公務員法第五五
条二第六項違反の問題は出てこない。
右ビラの内容は戦前の紀元節と同じように「建国記念日」は歴史学的にみれば問題
があり、学会の通説にも反するという公知の事実を明らかにし、「国家意識」とは
何かを対象化するため討論集会を持とうという趣旨である。従つて「建国記念の
日」を制度的に否定したり、「建国記念の日」反対の集会を持つ政治的呼びかけで
はなく、あくまで学問的に「建国記念日」の歴史的評価をなし、また「国家」「国
家意識」とは何かを客観的に分析するため出席者で討論し、研究しようとするもの
であつた。
原告P22は、歴史教育活動を教師集団有志と一緒に行なつたのであるが、このよ
うな教師の自主的教育活動はいろいろな型態で当時なされていた。(体育系クラブ
活動の日曜日の練習、ホーム、ルーム担当教師が私的に読書会をすること、ピクニ
ツク引卒、音楽や美術担当教師の学校での個人的指導等)このような場合に、校長
や県教育委員会の許可をいちいち受けていた事例はない。これは教育活動の特質か
ら来るものであり、教師は教育指導計画で定められた授業時間のみ教育を行ない、
他は一切行なわないと割り切ることは不可能である。
また地教行法第二三条第五号は「教育委員会は、学校の組織編成、教育課程、学習
指導、生徒指導及び職業指導に関することを管理、執行する。」と規定し、教育委
員会の職務権限を明確にしているにとどまり、教育現場での教師の自主的、主体的
教育活動を全て認めないとする趣旨の規定ではない。
原告P22らが校長の許可を受けずに、建国記念の日に伝習館高校の会議呈で討論
集会を開いたことにつき、被告は地教行法第二三条第二号、福岡県教育財産管理事
務取扱規則第四条、第一四条に違反すると主張するが、当時の伝習館高校の内規及
び慣行からして被告の主張は失当である。当時の県教委及び校長は被告の主張する
ような手続につき、一度も説明した事実はない。
4 被告主張のとおり授業担当を命ぜられていたこと及び被告が採択し同校が使用
決定した教科書のあつたことは認めるがその余は否認する。
原告P22は担当科目の授業で教科書を教材として授業を行なつた。ここで「教科
書を教材として授業を行なつた」という意味は、被告が主張するような画一的、形
式的、外面的なものではなく教科書の内容と関連した授業内容が行なわれたという
意味である。原告P22は、日本史、政治経済、倫理社会の各科目において、また
各年度において、授業型態を異にしており、それに対応した形で教科書の外面的使
用型態も異にしている。昭和四四年度の倫理社会の授業においては、原告P22は
「教科書は自分で読んでおくように」と生徒に指導したのみで授業中教科書を開い
て説明することはなかつたが、その授業内容において教科書を教材として使用した
と原告らは主張するのである。
教科書使用に関する被告主張に添つた授業展開は教育現場では不可能に近く、も
し、そのとおり授業が行なわれたとすれば、教師は最も安易な授業型態を選んだこ
とになる。社会科教育においては特に右授業型態をとる教師はまれであり、殆んど
の教師が自分の作成したノート中心の授業をするか、教科書内容を整理し直したう
えで、自分なりの授業をするか、その他の方法をとるか、常に模索しながら授業を
行なつているのが教育現場の現実の姿である。
5 原告P22が恣意にわたる教育を行なつたとの被告主張を否認する。
(1) 昭和四三年度三年生の政治経済の授業において「共産党宣言」「空想より
科学へ」を読みそのいずれかについて読後感をレポートとして提出するよう求めた
ことは認めるがその余は否認。昭和四四年二月は三年生の授業は全くない。伝習館
高校では、三年生を受験教育に専念させるため、三年生の授業は一月の下旬まで、
しかも午前中の授業のみを行ない、二月からは完全に休みとしていた。
(2) 原告P22は三年生の政治経済の授業でフランスの学生運動に関し講義し
たことはあるが、これを肯定する内容の授業を行なつたとの点を否認しその余の事
実を認める。また原告P22の出題した考査は、フランス戦後史を解答させるもの
である。
(3) 「年度当初から二学期末までの間」という点及び「生徒を放任し指導監督
を怠つた」という点を否認し、その余は認める。
6 昭和四四年度において被告主張のとおり各組の倫理社会及び政治経済を担当し
ていたこと、生徒全員に一律六〇点を評定したこと、そのいずれも認める。ただし
考査を実施せずという主張及び考査につき校長の制定した校内規程があつたという
主張は否認する。
また「同年七月ごろ、校長から右の如き無責任な評価のやり方を是正するよう指示
されたにもかかわらず、これを無視し」という点及び「所定」の考査という点は否
認するが、その余の事実を認める。
原告P22は、昭和四四年度、倫理社会は一学期から三学期まで考査を行なつてい
る(ここでいう考査とは一斉考査に組み込まれて実施されたものだけではなく、原
告P22が独自に実施したレポート形式の考査も含む。)。
原告P22が生徒全員に一律、六〇点と評定したのは、一つの教育方法として利用
したのである。当時の生徒の意識が評価のみを絶対視し、学ぶ過程を蔑視する受験
教育の弊害に侵触されていたのに対し、P22は「学ぶ」とは何か、「評価」とは
何か、を一律評価という方法を用いることによつて生徒に反省を促したのである。
P22は、一学期から三学期までの各考査の評価を全て内部では行なつており、そ
れらを綜合して学年末の評定では五段階の評価を行なつている。右教育的配慮とし
ての一律評価は、教育方法としても妥当なものであり、何ら批難されるところはな
く、P22が評価作業を故意に怠つたものでないことも明らかである。
(二) 原告Uについて
1 被告主張のとおりの授業担当を命じられていたこと及び被告が採択し同校が使
用決定した教科書のあつたことは認めるが、その余は否認する。
原告Uは教科書を使用した。同原告は年間の授業計画を立て講義ノートを作成する
にあたり本件教科書を参考にしている。右講義ノートは本件教科書だけでなく、他
の出版社の教科書、教授資料を通読し、おおまかな授業計画を立て、次に岩波書店
刊「日本歴史講座」読売新聞社刊「日本の歴史」など通史的指料、「律令財政史」
「日本荘園史概説」や「近世農民生活史」などの文献「令義解」「吾妻鏡」などの
史料等を参考にしながら作成し、月刊の歴史雑誌、学会誌等からその都度各ノート
の内容を補足していつた。
もちろん同原告は教科書を使用する義務があるから、とか学習指導要領に準拠して
書かれた教科書だからこれに副つた授業をしなければならないなどと意識していた
わけではなく、生徒に自発的な歴史研究を奨める教師の当然の姿勢として自律的に
授業計画したわけであるが、その際教科書もまた資料の一つとして利用したにすぎ
ない。
また授業には、資料集も使用したり生徒に対してプリントを作成、配布した。同原
告は生徒に教科書を朗読させ、あるいは自ら朗読した。つまり被告主張の意味でも
教科書を「使用」したのである。
2 高等学校学習指導要領の拘束力及びその逸脱があつたという被告の主張は争
う。
(1) 「目標を著しく逸脱した」との被告主張を争い、その余を認める。
(2) 「目標を著しく逸脱した」との被告主張を争い、その余を認める。
(3) 米偵察機問題の授業を行なつたという点は否認し、「日本史科目の目標と
は関係がない」という被告主張を争い、その余は認める。
「公害と独占」の出題が何故学習指導要領逸脱とされるのか不可解である。原告U
は地理の授業で、大牟田や水俣に現に発生している公害問題をとりあげ、公害発生
の仕組み、環境の変化等を実例に即しながら説明した。もつとも公害、独占企業、
即資本主義体制反対などという短絡的な論理を授業において展開したものではな
い。しかし公害の発生が独占的大企業の利潤追求のもとに、利潤を生まない安全施
設確保の懈怠に起因するものであることは今や常識であり、いわゆる四大公害裁判
や食品公害裁判などにおいて明らかにされている。
「資本主義社会と社会主義社会における階級とその闘争について」「スターリン思
想とその批判」「毛沢東思想」、右地理科目における出題は、P23教授の講演が
参考とされているが右は日本史に関連するのみならず現在のソ連、中国の産業構造
の態様にも及人でおり、地理授業に生かしうると考えた。
すなわち地理教科書(甲二五号証)中、第五章世界の結合・第四節国家・国家群の
〔5〕に「社会主義国家群」の項がある。同項にソ連に関して説明しているのみな
らず教師用「指導参考書」にもソ連の民族と国家、更には国家群形成への動向と
し)てスターリン憲法が語られている。また同教科書一五八頁にはソ連の工業につ
いて解説され、右参考書にはこの点に関し、革命後の工業、ソ連の社会主義化は政
治的には産業五ケ年計画の実施によつて始められた。産業五ケ年計画は、一九二一
年に新設されたゴスプランで作成され、一九六五年まで七次にわたる計画の実施が
計られてきたことなどが解説されている。
原告Uは、右の五ケ年計画や新経済政策について、さらにこれらが農業国ソ連から
工業国ソ連へと変化する原動力となつており、スターリンの経済的刺激の付与によ
る生産力向上政策を基盤にしていること、この工業化政策のため農業の成長率が低
くおさえられたこと、また労働者の賃金格差が現われていることなどを述べたうえ
で、これらの問題が、一九三六年のスターリン憲法、一九五六年のフルシチヨフに
よるスターリン批判、その後のブレジネフによる再スターリン化との対応でどのよ
うに変化していつたのか説明した。
中国については右教科書には独立の解説はないが、前記「参考書」には中華人民共
和国における工業の説明がある。原告Uはコルホーズやソホーズ、人民公社等につ
いても、単なる用語説明に終わることなく歴史的な変化や両国における指導者の思
想の反映の差異に留意しながら解説した。
特に社会主義国家群相互の関係については右地理教科書ではソビエト連邦は「中華
人民共和国」、朝鮮民主々義人民共和国を友好国としている、とあり、また前記参
考書にも中国は「ソ連の経済的技術的援助のもとに」社会主義社会の建設を云々と
あり貿易上からみたソ連と社会主義国家群の結合は(3)共産圏内相互の貿易に重
点がおかれているとあり、中ソ論争の顕在化している本件授業時点ではもはや時宣
にあわない叙述となつているので原告Uは最新の史料を調査したうえで補正したも
のである。
従つて前記設問に関しては指導者の思想によつて産業構造、生産力等がどのように
異なつてくるのかが解答のポイントであり、「資本主義社会と社会主義社会におけ
る階級とその闘争」は社会主義社会においては階級は消滅する方向にあるとされて
いるけれども現実には前記のような指導者の思想の差違により新たな階級の発生す
ら観念されており社会主義諸国間の関係もまた一枚岩ではなくなつてきているばか
りでなく、敵対関係にまで発展していて、たとえば貿易関係にしてもソ連、中国そ
れぞれアメリカとの貿易額が中ソのそれを上回るなど複雑な様相を呈していること
を指摘することが期待されているのである。
次に日本史の設問について述べる。
原告Uは昭和四四年度三年生の授業開始にあたつて、「歴史とは何か」というテー
マで歴史観の重要性を述べた。その際時代区分論と歴史観について解説し、唯物史
観の現実的展開である社会主義国家群そのものが矛盾に満ちたもので決して唯一絶
対の正しい理論に沿つた歴史が展開されているわけではない、という原告Uの立場
を述べた。そして例えばソ連や中国の現状に見られるように、その指導者の思想や
経済基盤、社会の発展度によつても大きな差がでてくるとして、ソ連の計画経済、
スターリン憲法、スターリンからフルシチヨフさらにブレジネフにいたるジグザグ
の矛盾に満ちた道をユーゴの離反、チエコ事件などに触れながら説明した。また中
国についても一九四九年の中華人民共和国の成立から一九六二~六六年の文化大革
命に至る経過を概略述べたうえで中ソ論争にも簡単に触れた。
これらの問題については、昭和四四年二月一五日福岡県高等学校社会科部会におけ
る九州大学名誉教授P23氏の講演「社会主義社会における階級闘争」に示唆され
るところが多かつたので参考にした点がある。
日本史における前記設問はこれらの授業に対応するものであり、もちろん高校生と
して満足すべき段階というものはあるが、原告Uは、時代区分を例にとつた史観の
重要性を知らせ、そして史観について教条主義に陥らない態度の養成を目指したの
である。
3 原告Uが日本史の授業において教科と関係のない雑談をなし、あるいは教科か
ら逸脱した授業を行なつたので、授業に不満を抱いた生徒多数が授業を放棄したこ
とはない。
右の雑談ないしエロ話とされるものが実はサエの神信仰や武烈天皇の逸話や十二単
衣に関するもので当該授業と関連があるのである。また昭和四四年一一月二七日の
六時限目の欠課者は二〇名であるが、その原因は同日五時限目のロングホームルー
ムの時間に神社や図書館に行つたまま帰つてこなかつたことにある。従つてその責
任は右ロングホームルームの担当者Sが負うべきであつて原告Uが負ういわれはな
い。右Sはしばしばロングホームルームの時間に教室に来ず、生徒を「放任」して
いたに対し、原告Uは他の生徒に依頼して図書館や運動場を探させるなどしたうえ
で発見された者は教室に入れて授業を開始しているのである。
(三) 原告Tについて
1 被告主張のとおり、授業担当を命じられていたこと及び被告が採択し同校が使
用決定にた教科書のあつたことは認めるが、その余は否認する。
2 学習指導要領の逸脱があつたという被告の主張を争う。
(1) 「当該科目とは関係がない」という被告の主張及び「目標を著しく逸脱し
た」という被告の主張を争いその余の事実を認める。
(2) 争う。
原告Tは政治経済の授業において教科書を使用した。まず政治経済の年度当初の授
業において生徒に教科書の目次を開かせ、教科書の構成を説明した。その中でI、
日本の政治II、日本の経済については教科書の配列に従つて授業をすること、I
II、労働関係と社会福祉IV、国際関係と国際協力は関連事件が起きたとき、及
びI、IIの単元と関連する事項のとき、新聞のスクラツプ、統計資料等を使つて
随時授業を行なう方針であることを説明した。III、IV単元についてこのよう
な授業方法を採用したのは、第一には政治経済は授業時間数が少なく、教科書を全
部終えることはとうてい不可能であること、第二には酸III、IV単元特にI
V、国際関係と国際協力は時事問題を扱う箇所であり、教科書に従つて単に解説す
るよりも、生の資料にもとづいて授業をすすめる方が生徒の理解を深めると考えた
からである。
原告Tは教科書だけでなく政治経済資料集(社会教材研究会編集で右は九州各県の
社会科研究部会が協力して作られたもの)を併用した。教科書の使用方法は教師の
創意工夫により様々でありうるが、原告Tは政治経済という教科の特殊性をふまえ
たうえで授業をし、教科書についても、ある時は生徒に朗読させ、ある時は自ら朗
読し、ある時は教科書の該当箇所の指摘にとどめる、などして使用している。
次に学習指導要領違反について反論する。
ヴエトナム、朝鮮問題は政治経済の教科書中、IV、国際関係と国際協力の単元に
おいて、きわめて重要な位置を占めており、これらを抜きにして、戦後の国際関係
を論ずることは無意味である。米偵察機撃墜事件は右両問題との関連において発生
した事件である。これらの問題は学習指導要領三三頁、社会科の目標、4に「国際
関係と世界におけるわが国の地位を理解させ、国民としての自覚を高め、民主的で
文化的な国家を建設」て世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする態度を養
う。」政治経済の目標(5)「国際関係の基本問題を理解させ、国際社会における
わが国の政治的及び文化的地位の認識とその使命を自覚させ、国際協力を進め、世
界の平和と人類の福祉に貢献しようとする態度を養う」指導計画作成及び指導上の
留意事項中、(3)に「現実の諸問題に深い関心を持たせるとともに、その解決の
基礎をなす基本的事項についての理解をその歴史的背景に留意しながら、いつそう
深めて、公正な判断力を養うよう指導する。」同(7)に「各種の白書、年鑑、新
聞などの資料や統計などの検討、利用討議、社会調査、見学などを適宜実施するこ
とにより、学習効果をあげるように努める。」とあるように、指導要領自体が「政
治経済」ときわめて密接な関連を有することを示している。また原告Tが使用した
教科書でもヴエトナム問題が論じられており、前記資料集の中でも朝鮮戦争、イン
ドシナ戦争、ヴエトナム戦争が論じられている。右のようにヴエトナム問題等が政
治経済の科目と関係がない、という被告の主張は、その根拠とする学習指導要領、
教科書によつても崩れている。原告Tは、時事問題の取扱いについては細心の注意
を払い「特定の立場から火をあおる」ような授業はしていない。生徒に意見発表を
求めたり、自ら意見を述べたことはあるが、自らの意見を生徒に押しつけるような
授業はしていない。生徒に対しては素材を自ら読み、自らの頭で考え抜くことを求
め、その結果でてくるものが、右翼的なものでも左翼的なものでもかまわない、と
いう考えに立つて授業をしていた。
被告の「ロシア革命史」「中国の赤い星」「レーニン」など特定の書物を読むよう
指導したという主張について、原告Tは、授業の各所において多数の図書を紹介
し、生徒に自主的に読書するようすすめている。これらの書物を紹介したのは、生
徒らが自主的な学習をすすめるための参考としてであり、したがつて種々の立場か
らの考察が可能なように配慮して多様な紹介をしそれぞれの著書の立場、特徴点な
どを解説している。決して特定の立場からのみ書物を紹介するようなことはしてい
ない。特に各国の政治型態の授業に際しては多数の書物を紹介している。被告が特
定の書物として掲げた前記書物は、特にソ連、中国の政治型態を解説する際紹介し
たものの一部であり、これらの国の政治型態を理解するうえで参考となるものであ
る。
3 「校内規定に違反して考査を実施せず」及び「内容のいかんにかかわらず」と
いう被告の主張を争う。また「成績評価にあたり同年七月ごろ校長から評価の仕方
を是正するよう指示されたにもかかわらず同年度二学期には校内規定に反し」とあ
る部分を否認する。その余の事実を認める。
右校長の定める校内規定の不存在については改めて述べることとし、考査不実施、
一律評価の被告主張について反論する。
原告Tが、三年生一学期の政治経済においてレポートによる成績評価を行なつたの
は、およそ次のような趣旨であつた。
すなわち、テストは生徒をふるいにかけて区分することを目的としてはならずあく
までも生徒の学習の成果を知り、これからの学習指導の手がかりとすること他面生
徒に対して、自分である問題を考え、論述することを経験させたかつた、というの
は今日の受験体制の中で生徒の思考が○×式、穴ウメ式テストによつて阻害されて
いるかを悟つてもらいたかつたことによる。
そして右レポートの評定は、(1)生徒が授業の内容を理解しているか、(2)ど
のような立場であれ自己の考えに基いて論述しているかの二点から行なつた。これ
に達していない生徒は面接して指導助言のうえ書きなおすよう指導した。書きなお
して合格した者と、そのままパスした者との間には差をつけず、全員六〇点とし
た。レポートを提出しない者が何人かいたがそのうち話し合つて提出しない者は全
員五〇点とした。このような配慮の下に評定を行なつているのであつて内容のいか
んにかかわらず一律六〇点と評定したものではなく、あくまで教育的配慮の下に評
定を行なつた。
なお原告Tが同年度三学期に考査を実施しなかつたのは、伝習館高校の場合、三年
生については三学期の一斉考査がないことによる。
(四) 福岡県立高校及び伝習館高校における学校管理運営の制度並びに慣行につ
いて
被告主張の処分事由の中には、あたかも校長には校務全般にわたる専権的な決定権
があり、従つて(1)校長は考査実施、成績評価に関する校内規程を制定すること
ができ(2)教育内容につき、教師に注意指導する権限を有し(3)学校施設につ
いても全面的管理権限を有し(4)また教師は公定された勤務時間に厳密に拘束さ
れるかのような主張がある。しかし、被告の右主張は全く事実に反している。即ち
福岡県下の県立学校及び伝習館高校においては、制度、慣行として職員会議を中心
として教師ないし、教師集団の自治的、自律的な校務運営が確立されていたし、教
師の勤務時間内の行動についても、教師の労働の特殊性から弾力的運用がなされ、
放課後などは比較的自由に利用していた。そこで以下これらの点について述べる。
1 昭和三一年いわゆる地教行法が成立し、学校管理権は教育委員会に付与され、
各教育委員会は「学校管理規則を制定することができるようになつた。(同法三三
条一項)福岡県においても、県教育委員会は、職員会議の諮問機関化、教頭の任命
制など、学校の管理運営に関する権限を校長に集中する方向性の強い内容を有する
学校管理規則を制定しようとしたが、福岡県下の県立各学校においては、すでに昭
和二五年ごろから総務部長等の公選制、職員会議の最高機関制などの諸制度を慣行
としており、右のような教育機関の中央集権化、権力の教育への支配介入に反揆
し、教育現場を中心とする根強い反対運動を展開した。このため福岡県学校管理規
則(昭和三二年教育委員会規則一三号)は制定されはしたが、職員会議の諮問機関
化は遂に条文に盛り込まれなかつた。もつとも同規則一二条は「校長は校務分掌、
組織及びその分掌を定め」との表現が用いられているが、これについても、県教育
委員会と福岡県高教組との間で「ただ報告と責任を明確にするために、文章表現と
して『校長が定め』とうたつているにすぎない」ことが確認されている。本件処分
当時、福岡県下の県立高校においては各学校毎に職員会議で定められた校務運営規
定があり、その中に職員会議が校務運営に関する最高議決機関であることがうたわ
れていた。
本件処分当時の伝習館高校においては、校務運営の最高機関として「校務運営規
定」が存在した。同規定の制定は昭和三七、八年ごろであり、職員会議で決定さ
れ、以後改正についても毎年選挙で選ばれた検討委員会で検討され、運営委員会の
議を経て、職員会議で決定されていた。同規程には校務運営全般に関する事項が包
合され、職員会議の最高議決機関制、校務分掌については、校務運営委員等の選
挙、学年主任、各教科主任等につき定めがあつた。
伝習館高校では職員会議の最高議決機関制が校務運営規定に明定されていただけで
なく実態としてもそのような運営がなされていたのである。従つてこのような制
度、慣行の下にあつては校長は対外的に学校を代表するけれども、その学校として
の意思は、校長単独で決定するのではなく、職員会議での決定が、学校の意思とし
て対外的に表示される。また職員会議の委任ないし承認がない限り、校長単独での
校内規定を制定することもあり得なかつた。
以上のような職員会議を最高議決機関とする制度、慣行を基軸として、校務分掌の
職場公選制は、実態的に次のとおり運用されていた。
即ち、校務運営委員、人事委員、総務、教務、生徒、厚生、図書の各部長などは、
教職員全員の選挙による。所属学年学級担任(主任、副主任)、各部の所属、クラ
ブ担任等は各人の希望に基づき、その調整を行なつたうえ職員会議で最終的に決定
する。学年主任、教科主任は、各学年、当該教科の互選に基づき職員会議で了承す
る。校務分掌公選制のもとで、総務部長(当時、県教育委員会は、職員会議で選出
された総務部長を「教頭」に充てていた-いわゆる充て教頭)をはじめとする各部
長、各学年主任、各教科主任は、相互間の連絡、調整の世話役であつて、他の教職
員とは対等の関係にあつて、上下関係は一切なかつた。従つて総務部長や教科主任
が個々の教師に対して教育内容につき注意、監督することはありえなかつた。
2 被告は、本件処分理由にいう「校内規定」とは、伝習館高校が発行した当時の
生徒手帳中の「生徒心得綱領」に掲載されている各規定であり、同規程の法的性質
は、その成立過程のいかんを問わず、福岡県立高等学校学則第八条の規定に基づ
き、校長が定めた細則であると解すべきであると主張する。
しかし、学問とは、児童、生徒を受範者として学期、休業日、児童生徒の取扱、施
設利用等を規定する「利用規則」に類するものであつて、学校当局と児童との関係
を規律する。一方、右事項を含む校務運営についての決定権を誰が有するかは、教
育を実施する学校という組織内においての、権限の配分の問題であり両者は全く次
元の異なる問題である。
さちに、右学則は、昭和三二年に福岡県立学校管理規則と同時に制定されたもので
あり、右管理規則制定の経過にみるごとく、同学則八条の「校長が定める」とは、
同一二条の「校長が定める」と同様「ただ報告と責任を明確にするため」の文章表
現にすぎない。学則第八条所定の事項についての決定権も、校長を含ん職員会議に
帰属することは、前述した職員会議の性格、実態からして明らかである。従つて生
徒心得綱領が職員を拘束するという被告の主張は誤りである。
伝習館高校では一斉考査の実施の有無は慣行として決つておりその時期については
三ヶ毎の行事計画を決定するに際し、教務部が立案して職員会議に提案し、職員会
議で決定されるしくみになつていた。
また音楽、美術、保健体育、家庭科については一斉考査はほとんど行なわれなかつ
たし地学、倫理社会、政治経済については、時期によつて実施しないことがあつた
が、誰も不思議に思う者はいなかつた。なお原告P22同Tの担当していた倫理社
会については、もともと一斉考査のうち中間考査は学校全体として行なわれていな
かつた。
ところが被告が考査実施を義務づけた校内規定として主張する「生徒手帳」の当該
規定には「一斉考査は、概ね五月下旬、七月下旬、一〇月中句、一二月中旬、三月
中旬(三学年は一月下旬)に行なう」とあるだけであつて中間考査と期末考査の区
別はない。即ち右規定が考査実施を義務づけたものであるとするならば、中間考
査、期末考査の区別なく実施が義務づけられているというべきであり、中間考査を
実施しないことも、右規定に違反するといわねばならない。従つて中間考査は場合
によつては実施しなくてもよいとする被告の立場は、すでに右規定が教師の考査実
施を義務づける根拠となる主張と明白に矛盾する。これによつても「生徒心得綱
領」が考査実施を義務づけるものでないことは明らかである。
3 教師の勤務時間及び休日の校舎使用について、
本件処分当時、伝習館高校における所定の勤務時間は概ね午前八時三〇分乃至午後
四時五〇分とされていた。授業は平日、六時間授業の場合に、三時ごろから放課と
なつていた。また教師は一日六時間も授業することはなく、空時間というべきもの
があつた。
放課となれば、生徒は大部分が下校してしまい、残る生徒は、クラブ活動その他の
個別的所用をもつ者だけである。従つて教師は原則として放課後は、生徒に対する
直接的教育の場は全体的にはなくなり、クラブ活動の指導をなす必要がある場合等
の個別的なものを除いてほか、教師は生徒から解放される。
このような放課後の利用の仕方は、各教師の自由意思にまかされていた。ある者は
生徒との自由なスポーツに興じ、ある者は私用で外出し、またある者は帰宅すると
いつた具合であつた。伝習館高校以外の県立高校においても教師の放課後の利用は
各教師の自由であつた。
次に校舎利用についてみるに、本件処分当時、伝習館高校において教師が校舎施設
を利用する場合には、特段校長の許可を要することなく、各教師の自主的な判断に
まかされていた。伝習館高校における校舎利用の手続規定としては内規集に収録さ
れてある、体育館兼講堂の使用に関する内規、及び学校施設備品の借用に関する内
規の二つが実効ある規定として存在していた。このうち後者は、規定の内容からみ
て、学校外からの借用申込みのあつたときの規定である。前者は、学校教員、生
徒、学外者を一応適用対象としている。然るに同内規は、学外者の使用については
許可制を規定するが、許可するのは校長ではなく、校務運営委員会である。また生
徒については、正課の授業以外に使用するときは、体育科教師の許可を得なければ
ならないが、クラブ活動や学校行事の場合は、連絡してその了承を得るだけで足り
るとしている。これに対して、教師が使用する場合の手続については何らの規定が
ないが、生徒に関する規定の内容からして、利用者相互間の調整をする程度で足
り、他に何らの手続をも要しないと解すべきである。
同様にして教師が講堂以外の学校施設を利用する場合には、校長の許可はおろか、
何らの許可も必要ないと解すべきであり、現実にそのようになされていた。
四 原告ら(法律上の主張)
(一) 学習指導要領の法的拘束力について、
本件各処分は、学習指導要領を処分根拠法令の一つとしているのであるが、学習指
導要領自体は以下詳述のとおり何ら法的効力がないものであるから、到底処分根拠
法令となりうるものではない。またかりに学習指導要領に、ある一面において一つ
の法的基準となりうる面を認めざるを得ないとしても処分基準となりうるものでは
ない。よつて本件処分はこの意味においても違法なものであり取消されるべきもの
である。
1 わが国戦後の教育改革は戦前の中央集権的な教育内容統制への反省としてなさ
れた。このことについては昭和二二年三月二〇日発売された学習指導要領一般試案
においても戦前教育の自己批判として文部省自身明記しているところである。すな
わち、そこでは「これまでの教育では、その内容を中央できめるとそれをどんなと
ころでも、どんな児童にも一様にあてはめて行こうとした。だからどうしても画一
的になつて、教育の実際にいろいろな不合理をもたらし教育の生気をそぐこととな
つた。しかもそのやり方は、教育の現場で指導にあたる教師の立場を、機械的なも
のにしてしまつて自分の創意や工夫の力を失わせ、ために生き生きした動きを少く
することとなり、時には教師の考えを、あてがわれたことを型どおり教えておけば
よいといつた気持におとしいれ、ほんとうに生きた指導をしようとする心持を失な
わせることもあつたのである」と指摘されている。ところで戦後最初に発表された
昭和二二年版学習指導要領はもちろん昭和二六年七月一日文部省による右学習指導
要領の改訂版においても、学習指導要領は教育課程を構成する場合の指導書ではあ
るが「そのとおりのことを詳細に実行することを求めているものでもない」と記さ
れており、それは単に指導書、参考書の域を出るものではなかつた。
ところが文部省は昭和三〇年一〇月二六日付「学習指導要領の基準性等に関する文
部省見解」を発表し、それまでの学習指導要領は教師の教育課程の編成のための手
引書、参考書である旨の見解を変更して一転、「学習指導要領によらない教育課程
を編成し、これによる教育を実施することは違法」である旨の断定を一方的になし
てきた。その後昭和三三年には文部省令である学校教育法施行規則を改正し、学習
指導要領について、文部大臣が告示する旨定め、これに基づき昭和三三年一〇月に
は「小学校用」及び「中学校用」の各学習指導要領が、昭和三五年一〇月には高等
学校用学習指導要領(本件処分に適用されている)が各々作成され、官報に告示さ
れ公示されることとなつた。
このように文部省は昭和三〇年を境として学習指導要領の法的拘束力について全く
異なる見解をするに至つたが、これには何か合理的理由が存するのであろうか。右
学習指導要領の作成を根拠づける学校教育法の該当条文(二〇条、三八条、四三
条、一〇六条)については全く変更なく、ただ文部省令である同施行規則が改定さ
れ、学習指導要領を告示する(実際には「文部省公示」として官報に告示する)こ
とに変更されただけである。
しかし右告示がなされることによつて、当然に行政立法たる法規となるとは行政法
学上も解されておらず、それが法規であるか否かは、告示された内容によつて定ま
るといわれている。
その内容そのものを定める根拠法規が前述のとおり変更されていない以上、それ以
前と同様の性格のものであり、ただひろく不特定多数人に知らせるための行政措置
として、通知にかわるものとして「告示」されたにすぎない。
文部省の前記見解が一方的に出されて以来、学習指導要領により教師の教員内容を
規制しようとする教育行政が展開されていつた。すなわち教科用図書の検定にあた
り学習指導要領に反しないことが以前の「必要条件」から「絶対条件」とされ、さ
らに文部省、各都道府県教育委員会等により、学習指導要領の伝達講習会、これに
基づく研修が開催され、教師のそれへの参加が強制され、右指導要領の内容で作成
された試験問題によつて、全国一斉に学力テストが強行もされた。ただこれまでの
文部省による学習指導要領による教師の授業内容の規制は、具体的には教科書の内
容、研修等、未だ外からの間接的規制にとどまり、直接個々の授業内容を規制する
ような措置が講じられたことはなかつた。ところが本件処分は、原告らの個々の授
業内容が学習指導要領の目標、内容に反するものと指示され、なされたものであ
る。ここに至れば教師の国家による授業への規制は、戦前の状況へ逆戻りさせられ
たともいえるもので、戦後教育改革の意味を全く突き崩す暴挙と評価せざるを得な
い。
2 元来すべての国民、とくに子どもは、生まれながらにして、教育をうけ学習す
ることにより、自発的精神に充ち人間的に成長、発達して行く権利(学習権)ある
いはまた、一定の社会的関係の中で、子どもが自己と自然、自己と他者との関係の
対象化を通じて、すなわち自由な活動を通じて成長し、自立した個人になる権利
(自己教育権)を有しているものである。教育基本法一条が教育の目的として「人
格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個
人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な
国民の育成」を掲げ、このような人間に成長する権利の存在を確認しているところ
でもある。それではこのような権利は一体、憲法上どのような権利として保障され
うるのであろうか。まず憲法二三条「学問の自由」と深くかかわることが指摘しう
る。教育基本法二条も「学問の自由を尊重し」と唱い、これを肯定している。
しかしこれのみに限定されるものではない。これら権利そのものが、自発的精神に
みちた人間、あるいは、自立した個人になる権利、また一市民として自己の人格を
完成、実現する権利なのであるから、これらの実現のためには、精神活動の自由全
般が保障されていなくてはならない。すなわち憲法が精神活動の自由の保障として
定める一九条、二〇条、二一条、二三条の全てにかかわる権利であり、一つの国民
の「文化的自由」として最大限保障されるべきものなのである。
子どもの自己教育権、学習権等は生来的に国家権力の支配から自由なものとしてま
づ尊重しなければならない。文部省の見解はこのような「自由権」の存在を否定
し、法律の授権さえあればどのようにも国家が介入しうると考える点でまさしく違
憲的な見解であり到底容認できない。
自己教育権、あるいは学習権は右に述べたとおりまづ国家の支配介入を許さない
「自由権」として把握されなくてはならないが、さらに憲法二六条一項の「教育を
受ける権利」として、国家は積極的にその権利を保障しなければならないものとし
て「社会権」としても把握される。
すなわち国民は自己教育権あるいは学習権を全うしうるような条件整備を国家に対
し要求する権利を有するものである。右教育の条件整備の義務の範囲はどのような
ものであろうか。まづ国家による教育に関する経済的な条件整備義務については、
争いのないところである。例えば、義務教育費無償化、教科用図書無償化、公立学
校の設立、整備等。国家の条件整備義務はこれにつきるものであろうか。逆にいえ
ば、国家はこれ以上教育に関し介入できないものであろうか。
学校教育法は、小、中、高等学校の「教科に関する事項」は文部大臣がこれを定め
ると規定しており、文部省は前述のとおりこの規定を根拠に、国は教育内容にも介
入でき、学習指導要領は法的拘束力を有すると主張する。
しかし、このように国が教育内容についてまで、条件整備の義務、その結果として
の権限があるとは憲法上とうてい考えられない。そのことを肯定するならば前記自
己教育権、学習権の「自由権」としての存在が全く無視されるからである。教育基
本法はこのことをおそれ、一〇条において「教育は不当な支配に服することなく、
国民全体に対し直接に責任を負つて行なわれるべきものである」と定められている
のである。むしろ自己教育権や学習権たるものは、教師と子どもとの自由な人格
的、内面的な接触を媒介としてのみその本来の目的を達せられるものであり、「教
師は、みずから自由であるときのみ、自由への教育をなしうる」のであり、国はそ
のための環境整備の義務を有するのである。そのような観点からは、教師の子ども
への教育については、その自由が保障され、教師自身、教育行政、学校管理機関よ
り法的拘束力ある監督、命令を受けないという法律的保障があたえられるべきであ
り、その保障は現行法においては、教育基本法一〇条で確認され「学校教師の教育
権の独立」として述べられているところである。即ち右一〇条一項の趣旨は、教師
は教育行政上不当な支配を受けることなく、その一方、行政組織と議会をとおさな
いで国民全体に対し直接に「教育責任」を負うというもので、教師の教育権の独立
を定めている。右教育基本法の法的性格については憲法において教育のあり方の基
本を定めることにかえて、わが国の教育及び教育制度全体を通じる基本理念と基本
原理を宣言したものであり、教育関係法令の中心的地位を占める法律であり、他の
教育関係法令の解釈及び運用については、法律自体に別段の規定のない限り、でき
るだけ教育基本法の規定及び同法の趣旨、目的に沿うように考慮が払われなければ
ならない。したがつて学校教育法の前記法条の解釈にあたつても、この教師の教育
権の独立を制限しないように解さなくてはならない。このような趣旨で前記学校教
育法について解釈するならば、右法が「教科」に関する事項は文部大臣の定める旨
規定し、「教育課程」の基準を文部大臣がすべて定める権限を有するかのごとき主
張は許されず、おのずとその制限のあることは明らかである。
「教科課程」の基準という場合、教科教育内容そのものの基準と、教科教育内容へ
の立ち入りを避けて、いわば「学校制度的基準」として、施設、学校規模、教員資
格就学年限、学年制などの設置基準的事項の延長線上で、卒業資格、授業時数、教
科名までを定める教科教育内容の制度的条件とがあり、学校教育法が定める「教科
に関する事項」とはまさに後者の教科教育内容の制度的条件として「学校制度的基
準」のみを示すものといわなくてはならない。
このようにみてくると、学習指導要領は、各教科、科目の目標、内容及びその指導
上の留意事項まで記載され、教科内容は勿論のこと教育方法まで定め、単なる「学
校制度的基準」を越え、明らかに教科内容そのものの基準を定めており、学校教育
法の定める委任立法の限界を逸脱したものであり、その法的拘束力の存しないこと
は明確である。
3 次に学習指導要領を懲戒処分規範とすることの違法性について述べる。
文部省が学習指導要領に法的拘束力ありとして適用してきた具体的事例は、学習指
導要領の伝達講習会への教師の強制参加、教科用図書検定の基準、学力テストにお
ける試験問題の基準等である。しかしこれらは教師の行なう教育活動への規制とし
てはあくまでも間接的であつた。即ち伝達講習会は教師に学習指導要領を強制的に
伝達することにはなるが教師と子どものなかに入つてくるわけではない。後二者
は、教師と子どもの中に介入してはくるが、それは教科書を介してであり、一方は
試験問題を介してである。教科書についてはその使用の仕方によつては、その介入
を弱めることができるし、学力テストも授業そのものに対しては直接的には関係の
ないものである。なるほど文部省は一般的には、学習指導要領に法的拘束力ありと
主張してきたのであるが、その適用の場は、間接的なかたちでの教育内容の規制に
とどまり、教師の個々の具体的な教育内容そのものについて、学習指導要領違反の
有無を点検するようなかたちでの運用はなされてきていなかつた。例えば「福岡県
立学校管理規則」(教育委員会規則第一三号)によれば、校長は学習指導要領の基
準により学校の教育指導計画を編成し、右計画をあらかじめ県教育委員会に届け出
なければならない旨定め(昭和四九年改定後は「承認」)右計画には、教科、科目
及び特別教育活動の学年別時間配当並びに教育指導の重点の記載を求めている。こ
の指導計画によつても、個々の教師の授業計画ないし教案までの介入はひかえてお
り、教育課程の外わくの規制にとどまつていることが明らかである。
ところが本件各処分は、従来よりもさらに学習指導要領による教師に対する規制を
強化し、教師の行なう授業内容そのものに直接介入し、規制しようとするものであ
る。
もしこのようなことが許されるとするならば、教師が校長に対し、毎週教案を提出
し、事後においても授業報告を義務づけられ、授業そのものについて監督下におか
れていた戦前の教師の立場と一歩も異ならないものである。このような教育環境下
においては、教育基本法一条が定める「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国
家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責
任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわれな
ければならない」とする教育目的の達成は絶望的となり同法一〇条の「教育への不
当な支配」は日常的に許されることになる。本件処分による規制はこれまでの学習
指導要領による規制例と質的に異なり、教育現場における教師の行なう「教育内
容」そのものを直接的に規制するものであり、教師の教育の自由を完全に剥奪する
ものである。
ところで「学力テスト」について判断を示した昭和五一年五月二一日最高裁大法廷
判決は、学習指導要領の基準性を肯定しているが、それは「単に調査のための試験
問題作成上の基準」であることに注目しなければならない。しかも右判決は、「学
力テスト」が教育の自由を阻害する危険ありや否やの判断のなかで「本件学力調査
は、生徒の一般的な学力の実態調査のために行なわれたもので、学校及び教師によ
る右指導要領の遵守状況を調査し、その結果を教師の勤務評定にも反映させる等し
て、間接にその遵守を強制ないし促進するために行なわれたものではなく」と述
べ、暗に学習指導要領が教師の勤務評定等の基準になれば、教師の教育の自由を侵
害する危険性のあることを指摘している。
以上述べたとおり、本件各処分のごとく、学習指導要領違背そのものを処分法令根
拠とすることは、学習指導要領による教育内容を一方的に、かつ直接教師に強制す
るものであり、教師の教育の自由を侵し、その結果、より根源的には、子どもの自
己教育権、学習権を侵すものとして憲法一三条、二三条、二六条、教育基本法一〇
条に違反し、違法なものといわざるを得ない。
このように処分根拠法令となり得ないものを理由としてなされた本件各処分の違法
性は明らかである。
なお、学習指導要領を処分の基準とするには、その内容があまりにも抽象的かつ曖
昧であり、処分規範としての構成要件的明確性を欠いている。一般に処分基準とな
りうるためには「身分保障」の趣旨から、行政当局の恣意的な解釈を排除しうるも
のでなくてはならない。
ところが学習指導要領自体このような明確性の原則をそなえていない。このことは
文部省関係者自身自認するところであり「学習指導要領の基準性は弾力的に判断す
べきである。つまり指導要領のある一つの事項を守らなかつたら、あるいは規定外
のある事項を余分に教育課程に盛り込んだからといつて、直ちに法的に違反したと
いうのではなく、全体として指導要領に示す方向が守られたか否かを判断すべきで
ある」(斉藤諦淳・現代教育科学一二七号)すなわち、違反の有無は全体の趣旨で
判断するというのであるから、論理的な構成要件の存在は最初から期待されておら
ず、全く恣意的に解釈され、それに対する歯止めの規定は全く存しないのである。
このように学習指導要領そのものは処分の基準たるほどの明確性をそなえず、処分
者により恣意的に解釈運用される危険性が明白であり、このような規定を根拠にな
される処分そのものは、当然にその公正な手続を欠く処分として取消しをまぬがれ
ない。
(二) 教科書使用「義務」批判
被告は、学校教育法二一条一項五一条及び教科書の発行に関する臨時措置法(以下
教科書法という)を根拠に、教師に対して教科書を主たる教材として使用する義務
を主張する。
ここで留意すべきは被告の主張は、学習指導要領の法的拘束性と表裏一体をなすも
ので検定教科書の使用義務は教育の公的性格に由来するとしている点である。
つまり国家教育権→学習指導要領の法的拘束性→検定教科書→教科書使用義務とい
うルートで国家が教育内容の隅々に至るまで統制しうる体制を貫徹しているのであ
る。教科書使用義務はまさに以上のルートにのり教育現場に国家教育権を具体的に
侵透させるための制度的保証に他ならない。
1 教科書はいうまでもなく教材のひとつであるが、ひとつの教科全般にわたり、
予め一定の価値基準に基いて教育素材の選択、組織化が行なわれている。
すなわちこれを使用する教師の手許に渡つたときすでにその内容が体系化されてい
るところに他の教材との相違点がある。もちろん副読本や資料集もそれらの教材の
範囲内で、編集者、著者による体系化がなされてはいるが、これらは他の統合され
た教材の存在、あるいは教師による位置づけを前提に作成されているのであつて、
その意味で補助教材なのである。しかしこのことは教科書が教師の教育観なり授業
構成における位置づけを許さないことを意味するわけではない。教育の本質は生徒
の「自己教育活動」にあり、教師はその契機と場を創造する責任を負つているが、
生徒の能力の顕在化のため最も適切な局面と教材を選んで用意しなければならな
い。
ところが教育の各段階における認識の度合は生徒毎に異なり、また生徒毎の理解の
構造もそれぞれ多様なのであるから、極端にいえば右に述べた局面や教材の選択、
さらに具体的な教授方法は生徒の数だけ準備されなければならないといえよう。教
師は授業を構成するにあたつては、第一には当該年度の担当すべき生徒の実情、す
なわち確認の度合なり理解の構造を予測したうえで、全般的な授業内容を公約数的
に立て、第二には現に展開される授業における生徒毎の反応を適確にとらえて当初
の授業計画を修正ないし再構成しなければならない。このような作業は実際には非
常に繁雑で、多大な労力が必要であり、現場における当該教師を除いては到底なし
得ないものであることは明らかであろう。
教科書は、当該教科についての先達である著者が科目の全般にわたりその研究の成
果を体系化しでいるのであるから「よい教科書」は教師に対する大きな授助となり
うる。
しかしながら、教科書は生徒という対象のない著者の机の上に生まれた抽象的な学
問の成果にすぎず、具体的な授業において教科書の内容自体が躍動し、吸収される
ことはありえない。教師の生徒の実情に即した自律的な授業構成なしには生徒の自
己教育活動は開花することはない。
かつて教科書で教えるのか、教科書を教えるのか、教科書でも教えられるのか、と
いつた議論がなされたことがあるが、右の意味では教育条理上は教科書でも教えら
れるというべきであろう。「教科書を教える」は生徒の実情を無視し、かつ生徒に
単一化された価値のみを注入する「教科」の思想であつて教育とは無縁であり「教
科書で教える」は教科書を教材=手段として考える点では正当な考え方としても、
教師の能動性の上位に教科書を置く点でなお不充分であるからである。
以上のように教科書は体系化された教材という意味で重要な教材となりうるが、必
ずなければならないものではなく、教師の自立的な授業構成活動のひとつの参考指
針と考えるべきであり、教育条理上からは使用義務はでてこない。
2 学校教育法二一条一項には「小学校においては、文部大臣の検定を経た教科用
図書又は文部省が著作の名義を有する教科用図書を使用しなければならない」(高
等学校については同法五一条で準用)と表現されており一見被告の主張に沿うかの
如くである。しかし本条項は法制定当時と現在とでは制定の趣旨が大きく異なつて
いる。
昭和二三年法制定当時本条項は、「文部省」は暫定的な監督庁とされているにすぎ
ず、用紙割当制が終われば都道府県教育委員会にその権限が移行されることになつ
ていたこと、当時の検定制度は現在とは逆に軍国主義の復活阻止を念頭においてい
た。つまり戦前の教育は、「教育勅語」を頂点とする皇学「教化」の手段であり、
国定教科書という国家が決定した唯一の教材によつてこれがなされたのであるが、
本条項はこの国定教科書制度・中央集権的画一主義を否定し、戦前は使用を許され
なかつた準教科書、副読本などを認めるとともに、右皇学教育によつてもたらされ
た軍国主義の復活をチエツクするため、検定制度を設けるが、その権限は各地の教
育委員会に与え、公選の教育委員に委ねて、各地方の実情に合つた多様な教科書の
出現を期待したのであつた。しかし当時は教科書を含めて用紙が極端に不足してお
り、かつ教育委員会の組織化も遅れていたため、すぐに各地の教育委員会に検定を
まかせることは公平な用紙割当ができないおそれもあつたため、文部大臣に当分の
間右権限を代行させることとしたのであつた。
従つて当時の本条項は国家による教育統制という趣旨で検定を認め、検定済み教科
書の使用義務を肯定したのではなく、地方分権を前提に、国定教科書制度とこれに
よつて展開された皇学教育-軍国主義の復活をチエツクする趣旨であつたことは明
らかであり、この頃の検定の実態はまた製本、活字、装丁などに重点がおかれたこ
ともあつて、同条項はあえて教育に対する「不当な支配」の制度化として問題にさ
れることもなかつた。しかし、昭和二七年用紙割当制は廃止されたが、検定権限は
教育委員会には移行されず、かえつて昭和二八年「監督庁」は「文部大臣」と改正
され、さらに昭和三一年地方教育行政の組織、運営に関する法律、いわゆる地教行
法が強行採決され、教育委員が都道府県知事の任命制に改められるに及んで改正前
の同条項の趣旨は没却されてしまい、検定の変容に従つてむしろ旧条項が否定した
国定教科書制度、中央集権的画一化による教育内容統制が再登場して来たのであ
る。
このような経過に照らすとき、現行の学校教育法二一条一項はいわゆる杉本判決
(東京地裁昭和四五年七月一七日判決)が検定制度自体について指摘したように、
教育に対する「不当な支配」に該当するといわざるをえず、教育基本法第一〇条に
違反し、また憲法二三条の学問の自由、同二六条の教育を受ける権利を侵害するも
のとして無効であるというべきである。
次に教科書法二条の「主たる教材」についてみる。
同条項は教科書を「主たる教材」として使用する義務を根拠づけるものではない。
元来教科書法は「現在の経済事情にかんがみ、教科書の需要供給の調整をはかり、
発行を迅速確実にし、適正な価格を維持して、学校教育の目的達成を容易ならしめ
ることを目的と」しており、法律全体の体裁から見て主として文部大臣と教科書発
行者の関係を規律したものであつて、教師に対して教科書の使用義務や使用形態を
規定したものでないことは明らかである。すなわち同条は「主たる教材」として教
科書を使用しなければならないなどという義務を定立したものではなく、単に同法
上の教科書の定義をするにあたり、実際上教材の主たる地位を占めることが多いと
思われる教科書につき叙述したにとどまると解釈する他ないと考えられるのであ
る。
3 以上のとおり法律上も教育条理上も教科書使用義務はないと解するが、本件の
場合、原告らは事実として教科書を使用している。原告らが教科書を「使う」とい
う場合には以下のような行為を指す。
(イ) 教科書を年度初めに家庭において予め通読させておいたり、あるいは各授
業時間の前に予習させておく。
(ロ) 資料集中に教科書に掲載されている史料と同一の史料が形態を違えてある
ばあいにこれを利用する。
(ハ) 教科書内容も含めて授業用ノートあるいはプリントを作成し、これにもと
づいて授業を行なう場合。
(ニ) 授業の最初に教科書の該当部分を読み、その後、その項目に関する講議、
説明討論等を行なう場合。
(ホ) その他教師が説明した内容が客観的には教科書内容に相当する場合。
これらの場合、授業時間中一度も教科書を開かず、生徒にとつて現在の授業が教科
書のどこと対応しているか判然としない場合もあるであろうが、客観的に、ないし
結果的に教科書の内容に相当していれば教科書は「使用」したというべきだろう。
(三) 手続の違法性について
1 被告は、本件懲戒免職処分に当り、原告らに対しいわゆる聴問の機会を与えな
ければならない趣旨の規定がないことを理由とする。そして、「右条例のもとにお
いては、いかなる手続によつて処分を行なうかは処分権者たる相手方の裁量に委ね
られているところである。」と主張する。しかし、この主張は、強いていうなら
ば、初歩的にみても、現代民主主義の下における「個人の尊重」の原則を忘れたも
のであつて、聴問の必要性を規定していない右条例は、それ故、後述するように憲
法一三条および三一条に違反する。
いわゆる「行政聴問」の必要性が強調されなくてはならないことは、個人の人権尊
重を第一義とする英米法系においては当然のこととされて来たのであるが、これと
必ずしも同列には論じ得ないドイツ法系においても、行政手続能率優先の原則を依
然として維持するなかで、旧来とは質的に違つた理論と実践とを展開させつつあ
る。
(1) 行政法の一般原則によつても、行政処分の相手方にその立場を陳述する機
会を与えることは、その行政処分が必要かつ許容される目的の達成にとり不要ない
し余計なものでないかどうか(いわゆる比例の原則)、行政庁にとつてやむを得ぬ
必要なものかどうか(いわゆる必要の原則)、を正確に判断することができ、その
結果煩さな行政不服申立や行政訴訟が回避されるのである(行政経済の原則)。
(2) 或いはまた法治国家原理に行政聴問が必要だとする根拠を求めることもで
き、行政聴問はもつとも原始的なかつ同時にもつとも重要な法治国家的要請である
といわれて来た。すなわち、法治国家においては、行政の法律適合性が要請され、
この要求を満たすためには、相手方の聴問により事態を正しく確認する必要があ
り、そうでなければ、行政処分は、その前提たる要件事実を不正確にすることとな
るからである。
(3) 更に一そう高い次元から、法的聴問が奉仕する最高の価値は人間の尊厳に
あり、十二分に聴問することなく人の権利・義務を左右することが許されるなら
ば、それは人間を物化し人間を冒涜することとなるのである。犯罪者も精神病者も
争うことのできない人間としての尊厳を有するからこそ、行政聴問が必要とされる
のである。
これによつてみるとき、行政聴問の必要性につき、本件において被告の主張は、原
告らの人間としての尊厳を冒涜し、必ずしも正確を保証しがたい事実に基づいて懲
戒免職処分に出ることによつて法治国原理に違反し、本来不必要な処分に相手方が
出たことによつて行政法の一般原則をも否定するに至つた。ここで、関税法におけ
る第三者没収の違憲判決を指摘しておく(最判昭和三七年一一月二八日刑集一六巻
一五七七頁、一五九三頁)。財産権の没収についてさえ何らの告知・弁解・防禦の
機会が与えられなければ違憲であると判示された。いわんや懲戒免職処分において
は、行政聴問の機会を絶対に奪うことはできない。しからざれば、行政権による個
人の人権の侵害を招くのであり、被告はまさに個人の人権を無視することによつて
民主主義の危機を導いたものとさえいうべきである。
2 憲法三一条は、たんに「法の手続」を遵守すれば足りるという趣旨の規定では
なく、その「法の手続」が「適正」な法の手続である必要をうたつたものであるこ
とは、通説の承認するところである。ここに、同条をもつて「適正条項」の保障と
いわれる所以のものがある。それ故、被告の引用する右福岡県条例がもし適正なも
のでなければ、その条例じしん憲法三一条に違反するものといわなくてはならな
い。
もつとも、憲法三一条の解釈として、本条は刑罰に対する保障条項に限られるので
あつて、行政手続に対する保障は、直接本条に関連するものではない、とするもの
がある。かりにこの解釈を認めるとしても、行政手続においてはどのようにでもそ
の手続を規定できるというものではない。行政手続においても憲法三一条の趣旨と
するところをつとめて準用すべきであり、現に地方公務員法二七条一項も、「すべ
て職員の分限及び懲戒については、公正でなければならない。」と規定する。ここ
に、同条も公正な手続によるのでなければ、すべて職員は分限、懲戒を受けること
がない、ことを保障しているのである。それでは、何が「公正な」懲戒手続といえ
るだろうか。聴問の機会の保障があることは最小限の要求であり、行政処分の相手
方に聴問の機会を与えない懲戒処分は、それだけで「公正な手続」の要請に反す
る。現行法においては、運転免許の取消・停止についてさえ、公開による聴問が保
障されているのであり(道路交通法一〇四号)、こうした例は他にも枚挙にいとま
がない。いわんや、公務員の懲戒手続においては尚更のことである。
というのは、公務員は全体の奉仕者であり(憲法一五条二項)、「そもそも国政
は、国民の厳粛なる信託によるものであつて、その権威は国民に由来しその権力は
国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」(憲法前文一項
二段)からである。公務員は行政権力の従僕ではない。そうではなく、公務員は国
民の僕であればこそ、行政権力が一方的にその職員を懲戒処分することはできない
のであつて、懲戒処分に際しては、必ず国民の前で「公開の聴問」がなされなけれ
ばならない。
のみならず、原告らは、右のごとく公務員としてその身分が保障されなければなら
ないのみならず、個人として立法その他国政の上で最大の尊重が保障されている
(憲法一三条)。それにもかかわらず、懲戒免職処分というもつとも厳しい処分に
当り、本件被告はなんら「公開聴問」の機会を与えなかつたということでは、被告
は憲法一三条に違反したものといわざるを得ない。とくに、原告らは教育公務員で
あり、教員の身分は尊重さるべきことが学校教育法六条二項により強く要求されて
いるのであつて、原告らに聴問の機会を与えないで当然視する被告には、意識する
否とにかかわらず、教員の身分を尊重しようとする意思のなかつたことを物語るの
であり、それはまた教育の破壊につながる。
右いずれの点からしても、原告らに聴問の機会を与えなかつた被告の本件懲戒免職
の処分は、甚だしくその職権を濫用したそしりを免れ得ないばかりか、地方公務員
法二七条一項、憲法一三条、同三一条に違反するものといわなくてはならない。
この一事をもつてしても、本件懲戒免職の行政処分は取消されるべきものたるのみ
ならず、原告らの法的地位にたいする重大かつ本質的な侵害として無効とさえいう
べきである。
五 被告(法律上の主張)
(一) 高等学校学習指導要領の法的拘束力について
1 国の学制によつて定められた各種の学校において、教育内容に何の制約もない
ということはあり得ない。教育は本来自由な活動といわれているが、その自由は、
学校教育、家庭教育、社会教育の分野に従い、また学校教育に関しても、大学とそ
れ以外の学校との差に従つて、一様ではない。とくに、学校教育は、次代国民の育
成教化を目的とするものであつて、強度の公共性をもつているから、国家は、これ
に関して、自由放任主義をとることはできないからである。
三 権分立主義をとるわが国憲法のもとにおいて、教育の作用が行政権に属するも
のであることは、一点疑う余地はない。教育は一般の行政作用と性格、内容を異に
するものであるけれども、その一事をもつて教育が法律の枠外にあるとか、教師の
教育活動は法令によることなく、個々の教師の独自の判断に委ねられているとかの
議論は、実定法の解釈上、一顧にも値しないものである。憲法第二六条は、「すべ
て国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける
権利を有する」と規定している。すなわち国家は、国民の教育を受ける権利を信託
され、これに基づいて具体的にいかなる内容の教育を実施すべきかをそんたくして
教育行政を実施すべきものである。而してその具体的内容については次のように定
められている。
公立学校の設置は、地方公共団体の自治事務であつて、小中学校は、市町村が設置
し、高等学校は原則として都道府県が設置しているが、地方自治の根拠規定である
憲法第九二条は、「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨
に基いて、法律でこれを定める」と規定している。すなわち、教育権は右両条にお
いて規定されているとおり、法律によつて国、地方公共団体その他に配分、分属さ
れているのである。そこで現行法体系のもとにおける教育に関する行政機関の権限
の配分をみると、次のとおりである。
文部省設置法第八条は、文部省が「学校教育の基準」を設定する旨を規定してい
る。「学校教育の基準」の具体的内容については、文部省組織令第八条及び第九条
は、文部省がつかさどる事務として「教育課程の編成その他教育に関する基準を設
定し、及びこれらの実施に関し指導と助言を与えること」および「学習指導要領の
編修及び改訂に関すること」を定めている。
換言すれば、学習指導要領は、文部省が設定する「学校教育の基準」に含まれるも
のであり、その定めるところに従つて国民が教育を受ける権利(学校及び教師が教
育を行う義務)を有するというのが、憲法第二六条及び第九二条の規定するところ
である。文部省設置法及び同組織令の右規定と対応して、学校教育法は、小・中・
高の各学校の教科に関する権限を文部大臣に付与する旨を規定しているのである
(同法二〇条、三八条、四三条、一〇六条)。
ところで、文部大臣が「学校の教育課程」の編制及びその実施について基準を設定
する権限は、学校教育のもつ公の性質にかんがみ(教育基本法第六条)、学校教育
法によつて、以下述べるとおり規定されている。
2 学校教育法第四三条には、「高等学校の学科及び教科に関する事項は前二条の
規定に従い、監督庁がこれを定める」と定められており、監督庁は当分の間文部大
臣とされている(同法第一〇六条第一項)。文部大臣が定めた教科等に関する事項
に準拠して教育が行なわれることによつて、小・中・高の各学校は、それぞれ一貫
した学校教育の機能を果す仕組みとなつているのである。学校教育法の委任に基づ
き、学校教育法施行規則は、教育課程について、次のような規定を設けているが、
これらの規定は教育課程に関するすべての事項を網羅するものではなく、学科及び
教科の具体的内容については最終的には、学習指導要領の定めるところに譲つてい
るのである。
第五七条 高等学校の教育課程は、別表第三に定める教科並びに特別教育活動及び
学校行事等によつて編成するものとする。
第五七条の二、高等学校の教育課程については、この章に定めるもののほか、教育
課程の基準として文部大臣が別に公示する高等学校学習指導要領によるものとす
る。
教育基本法第一条においては、あらゆる種類の教育全般を通ずる教育の目的が明示
されているが、そのうち学校教育法においては、憲法、教育基本法の精神にのつと
り、学校教育の体系を定めるとともに、各段階の学校ごとに、その目的を規定して
いる。小学校及び中学校においては、すべての国民に対して、その心身の発達に応
じて、初等普通教育及び中等普通教育を義務教育として施すものであり(学校教育
法第一七条、第三五条)、その教育の内容は、すべての国民が国家及び社会の形成
者として必要な資質を養うために共通に必要とされる基礎的なものである。
また高等学校においては、これらの学校における義務教育の基礎の上に立つて、高
等普通教育及び専門教育を施すことを目的としている(同法第四一条)。即ち、高
等学校の教育は、中学校における教育の成果をさらに発展させて、国家及び社会の
有為な形成者として必要な資質を養い、それぞれの進路に応じて一般的な教養を高
め、専門的な技能に習熟させることを目標としている(同法第四二条)。この意味
から、高等学校は学術の中心として広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を
教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする大学とは
性格を異にしている(同法第五二条)。
このように、小学校、中学校、高等学校においては、いずれもまだ心身の発達が十
分でない児童、生徒に対して、その心身の発達の段階に応じて、将来の国家、社会
の形成者として必要な教育を施すことを目的としているのである。そのためには、
国全体を通じて、教育の内容、理念が共通のものでなければならない。現行制度
は、これらの学校の教育課程は一定の公的な基準によることとし、それぞれの学校
の目的、目標に従い、文部大臣がその基準たる学習指導要領を定めることとしてい
るのである。
したがつて、現行法は「個々の教師の教育活動」と「学校という組織体の行なう教
育活動」の両者が相まつて、児童生徒に対する教育効果をあげることを期待してい
るのである。
このような制度の下においてはじめて、各教科の内容が調和を保ちつつ一体となつ
て実施され、児童、生徒の知能徳性の円満な発達に寄与することができる。
右のような学校教育を実施するために、教育課程と学習指導要領は必要不可欠な制
度であり、かかる目的から制定されているのである。
敗戦の結果、わが国を急速に民主化する目的をもつて、連合国最高司令部の覚書、
命令によつて、多くの米英式の法令が強制的に制定施行されたことは、公知の事実
である。而し)て、敗戦の痛手から立ち直り、社会、経済が落ちつきをとり戻し、
とくに平和条約の締結によつて、わが国が主権を回復した後においては、すべての
分野にわたつて、わが国の実情にそわない占領法令の改正が行なわれた。教育関係
法令の改正もまたその例外ではなかつた。
これらの改正は、国権の最高機関である国会で制定された法律ないしその委任立法
によつて行なわれたものであつて、間接民主々義をとるわが国憲法のもとにおいて
は、まさに国民の意思に基く改正といわなければならない。
右のような基本的事実に目をそむけて、いたずらに枝葉末節の問題をとり上げて、
現行法令を非難し、あたかも現行法令が教育の本質にそぐわないものであるかの如
き立論は、妥当公正を欠くものといわなければならない。
なお、ふえんすれば、昭和三〇年及び三一年の小学校及び中学校社会科学習指導要
領の改訂は、社会のうちとくに道徳教育及び地理、歴史教育の充実を中心として行
なわれたものであるが、その改訂の趣旨は、道徳教育については民主社会における
道徳生活のあり方の理解及び道徳的判断力の育成を図つたものであり、地理、歴史
教育についてはわが国の地理、歴史について基礎的な理解を深め、着実な学習効果
があがるように改めたものであつた。
また昭和三三年の学習指導要領の改訂の趣旨は次のとおりであつた。
第一に道徳の時間の特設については従来各教科その他の教育活動の全体を通じて行
なわれてきた道徳教育が必ずしも十分な効果をあげていないことを反省し、これを
充実徹底させようとする趣旨に基づくものであつた。そしてその目標は「人間尊重
の精神を一貫して失わず、この精神を家庭、学校その他各自がその一員であるそれ
ぞれの社会の具体的な生活の中に生かし、個性豊かな文化の創造と民主的な国家及
び社会の発展に努め、進んで平和的な国際社会に貢献できる日本人を育成するこ
と」(小、中学校学習指導要領)と定められた。
第二に地理、歴史教育については小学校においては、小学校第六学年までに、社会
科において日本の地理、歴史についての基礎的な理解や概観的なはあくができるよ
うに内容を精選充実することとし、中学校においては、内容を地理的分野、歴史的
分野及び政治、経済、社会的分野の三つの分野に分けて学習させることを原則とす
るとともに、小学校との一貫性を考慮し、かつ、内容を精選することとしたもので
あつた。
以上によつて明らかなように、これらの学習指導要領の改訂は、いづれも教育的見
地から行なわれたものであつて、原告の主張するような政治的要請や軍事的要請に
もとづくものではない。
3 原告らは、学習指導要領が学校教育法第四三条の規定により、法律の委任に基
づき制定されたものであるという法形式だけを理由として、学習指導要領が法規た
る性質を有するものとはいえず、むしろ教育の本義或いは過去の歴史的現実に徴し
て、法的拘束力をもつものと解すべきものではないとし、さらにまた、法の形式だ
けをみても学校教育法第四三条は「教科に関する事項」について同法施行規則に細
目を委任したものであるが、同施行規則の再委任に基づいて制定された学習指導要
領は、単に「教科に関する事項」に限らず、これを含めて道徳、特別教育活動、学
校行事など、いわゆる『教育課程』全般を規定するに至つているから、学習指導要
領は学校教育法第四三条の委任の範囲をこえていると主張している。
しかしながら、学校教育法及び同法施行規則の法文解釈上、『教科』は『教育課
程』と同義語と解釈すべきであり少くとも「教科に関する事項」を原告ら主張の如
く限定的に解釈すべき謂はない。
即ち学校教育法制定当時において、既に「教科」という語は「教育課程」と同じ意
義で用いられ、英文官報においても『教科』はカリキユラムと示されていた。学校
教育法第四三条に規定する『教科』とは単に国語、算数、理科等の一般にいわゆる
教科の意ではなく、教育の目的、目標を有効に達成するための教育内容を選択し、
組織し、そして指導するための教育計画を包含するものであつて、現行法における
教育課程と同じ意味で用いられたのであつた。
また、学校教育法制定当時の同法施行規則においても(学校教育法は昭和二二年三
月三一日制定、同法施行規則は同年五月二三日制定)、「第二章小学校」の「第二
節教科」において、教科の名称(二四条)、教科課程、教科内容及びその取扱いの
基準(二五条)、児童の心身の状況に適合するような教科の取扱い(二六条)、課
程の修了、卒業の認定(二七条)、卒業証書の授与(二八条)、教科用図書(二九
条)というような教育活動に関する広範な事項を規定していたことによつても、こ
れらの事項をすべて含めたものが「教科」であつたことが明らかである。このよう
に『教科』という文言は、学校教育法体系においては、教科目としての意味にでは
なく、まさに教育課程と同義語に使用されていたのであつて、原告らの右主張は失
当である。
4 次に、原告らは国家が教育に法的拘束力をもつて干渉することは否定されなけ
ればならないと主張し、その根拠としていわゆる教科書検定裁判の第一審判決を援
用している。しかしながら同判決が判示する教育権ないし教育の自由、とりわけ教
師の教育の自由については、実定法上何らの明文の規定がないのみか、従来の最高
裁判所判例並びに通説的見解を無視した全く独自のものであつて、憲法ないし教育
基本法の解釈を著しく誤つたものである。
憲法第二六条第一項は教育の機会均等を規定したものであるが、これは国家が教育
の機会均等につき配慮すべきことを国民の側から、権利として規定しているもので
あり、また同法第二三条は学問の自由を規定しているが、これと教授の自由とは概
念上別個のものであり、これらの規定から直ちに小、中、高等学校の教員に教授の
自由があり、いわゆる教育権の独立が認められているということはできない。けだ
し、憲法二三条に規定する学問の自由における「学問」とは高等な学術研究機関で
行なわれるものに限らない。大学に限らず、他の学校で行なわれるものであろう
と、また私人の資格において行なわれるものであろうと、およそ一切の学問的研究
の自由を保障する趣旨である。しかし、このように一切の学問研究を対象とする以
上、同条の学問の自由が当然に学校教育における教授の自由を含むということはで
きないのであつて、大学その他の研究機関については格別、高等学校以下の教育機
関については、そこにおける教育の本質上、教材、教科内容、教授方法の画一化が
要求される(例えば、学校教育法は小学校および中学校では監督庁の検定もしくは
認可を経た教科用図書または監督庁において著作権を有する教科用図書を使用しな
ければならないことにされており(同法第二一条、四〇条)、またその教科事項は
監督庁が定めることとされている(同法第二〇条、三八条))ため、教授の自由は
学校教育の本質上、下級の学校に至るにつれ制約される。教育は民主々義国家にあ
つてはきわめて緊要な事柄であり、国家社会の最も重大な関心事であり、教育の振
興は、国や地方公共団体の果たさなければならない重大な使命の一つであり、した
がつて国や地方公共団体は、教育に関し、積極的な役割を演ずべき義務があり、こ
こに教育行政の必要性が存することは明らかである。
しかるに個々の教師が、個々の児童、生徒の親から直接に教育を信託されていると
解することは、あまりにも現実とかけはなれた考え方であり、国政の一環として行
なわれる公教育制度としての学校教育を全く誤解するものであるといわなければな
らない。また公教育に従事する教師は、全体の奉仕者として国民の教育意思を受け
て、教育に当たるべきものであるから、教師の教育の自主性は、必然的に法令の形
で表明される国民の教育意思の制約を受けることとなるのである。
すでに詳述した如く、国民の意思は国会を通じてのみ正しく国政の上に反映される
のであつて、かりに個々の教師が勝手に国民の意思をそんたくして教育に当たると
すれば、教育を教師の恣意に委ねる結果となるという不合理極まる結論に達するで
あろう。
5 法制上、学習指導要領は形式上学校教育法第四三条に基づく省令たる同法施行
規則第五七条の二、の再委任により文部大臣が制定したもので、順次上位の法を補
充する形式をとつており、もとより法規命令たる性格をもつていることは明らかで
ある。また実質上も憲法以下の教育法体制において国家が法的拘束力をもつて教育
内容の基準を設定することは何ら違法でないのみか、むしろ国家はその責任におい
てこれが設定の義務あるものというべきである。
而して原告らは地方公務員法第三二条により法令および上司の命令に服従すべき義
務があるところ、原告らが学習指導要領に反した教育課程を実施した以上同条に違
反したことは明らかであり、任命権者たる被告が懲戒処分することはもとより正当
適法である。
(二) 弁解の機会について
原告は、憲法第三一条を根拠として、公務員の懲戒処分を行なうに先立つて、あら
かじめ弁解の機会を与えなければならないと主張するので、この点について反論す
る。
1 憲法第三一条は刑事手続に関する規定であつて、特別権力関係内部における行
政監督作用である懲戒処分にはかかわりのないものである。同条は、「何人も、法
律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑
罰を科せられない。」と規定しているが、同条は、アメリカ合衆国憲法修正五条に
いわゆる適正手続の原則の影響の下に成立したといわれるもので、主として刑罰権
の発動に関し、人身の自由の基本原理として設けられたものである。そして、同条
は、その文面のみからすると単に「法律の定める手続による」ことを要求している
にとどまるかのようにみえるが、前記のようにアメリカ合衆国憲法の適正手続の原
理に由来するものであることにかんがみ、個人に対して、その生命もしくは自由を
奪いその他刑罰を科するには、法律の定める適正な手続によらなければならない旨
を規定したものと解するのが相当である。また同条は、手続についてのみ定めてい
るかのごとくであるが、実体的要件の点でもいわゆる罪刑法定主義を定めたものと
解するのが相当である。
しかるところ、同条の規定が行政手続にも適用(または準用、以下同じ)されるの
か、また、仮に行政手続に適用されるとしても、どの範囲で適用されるかについて
は説が分かれ、たとえば、同条は単に刑罰についてのみの規定ではなく、刑罰以外
に、国家権力によつて個人の権利、利益を侵害する場合にも適用されると解する説
があるが、同条が前示アメリカ合衆国憲法の適正手続条項と異なり、「生命若しく
は自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」と規定し、また、刑事手続に
関する三二条以下の規定の冒頭に置かれていることにかんがみると、同条は、もつ
ぱら刑事手続に関するものというべきであり、さらにかりに行政手続に適用される
としても個人の生命(実際上はほとんど考えられないであろうが)、身体の自由を
奪い、個人の意志と無関係に刑罰類似の制裁を科する手続、たとえば少年法による
保護処分(同法二四条)、伝染病予防法による強制処分などについて適用されるに
とどまると解すべきである(非訟事件手続法による過料の裁判につき、最高裁昭和
四一年一二月二七日大法廷決定、民集二〇巻一〇号二二七九頁)。
原告は、さらに、憲法一三条、同三一条は国民の権利、自由が手続的にも尊重さる
べきことを要請する趣旨を含むから、国民は行政庁が国民の権利、自由に関する行
政処分をするに当たつては、前示のアメリカ合衆国憲法における適正手続と同様
に、行政庁の恣意、独断等の介入を疑われることのないような適正手続によつて行
政処分を受ける権利を憲法上保障されているというが、案ずるに、憲法の認める権
利、自由は実体的のみならず手続的にも保障されることによつて完全なものとなる
というべきであるから、行政手続においても国民の権利利益を保護するために、必
要な行政処分の告知、聴聞等の手続をとるべきことが基本的に要請されるというべ
きであり、憲法三一条について右のように解する説があるけれども、しかし、わが
憲法は、前示のとおり三一条において主として刑事手続について法律による適正手
続を保障するにとどめ、一般の行政処分ないしその手続に関しては事柄の性質の多
様性にかんがみて直接には明文の規定を設けず、むしろいわゆる法治主義(法律に
基づく行政)の原則によつて国民の権利、自由を保障しようとしているものと解す
を相当とする。
およそ公権力の行使たる行政は、国会において制定された法律に基づいて行なわれ
なければならず、ことに国民の権利義務に関する重要な事項については法律におい
てこれを明確にすべきことは、憲法四一条、一三条の趣旨に照らしても当然のこと
であり、かかる法治主義(法律に基づく行政)の原則は、近代および現代における
行政の基本原理であるというべきである。しかし処分に関する権限、基準、手続な
どのうちどの範囲でどのように法律で定め、どの範囲を命令等の下位法に委ねるか
は、結局は立法の裁量に属するというべきであるから、このことをもつて直ちに法
治主義(法律に基づく行政)の原則に違背し、違憲であるとは断定できないといわ
ざるを得ない。
2 地方公務員法第二九条第二項は、「懲戒処分の手続及び効果は条例で定める」
と規定している。懲戒処分の選択について任命権者の広い裁量権が認められている
のと同様、懲戒の手続についても、地方公共団体の立法である条例をもつて任意に
決定すべきこととされているのである。条例の中に懲戒処分の手続として、処分に
先立つて職員に弁解の機会を与えなければならない旨の条項が設けられている場合
に限つて、弁明の機会を与えなければならないのであるところ「福岡県職員の懲戒
の手続及び効果に関する条例」にはかかる規定は設けられていない。
原告の主張は、実定法の根拠なき独自の主張であつて、失当というほかはない。
(三) 本件処分の妥当性
1 最高裁判所第二小法廷判決(昭和三二年五月一〇日 最高裁判所判例集一一巻
五号六九九頁以下)は懲戒処分の性質および懲戒権者の懲戒権の行使について、
「およそ行政庁における公務貝に対する懲戒処分は所属公務員の勤務についての秩
序を保持し、綱紀を粛正して公務員としての義務を全かしめるため、その者の職務
上の義務違反その他公務員としてふさわしくない非行に対して科する所謂特別権力
関係に基づく行政監督権の作用であつて、懲戒権者が懲戒処分を発動するかどう
か、懲戒処分のうち、いずれの処分を選ぶべきかを決定することは、その処分が、
全く事実上の根拠に基づかないと認められる場合であるか、もしくは社会通念上著
しく妥当を欠き、懲戒権者に任せられた裁量権の範囲を越えるものと認められる場
合を除き、懲戒権者の裁量に任されているものと解すべきである」と判示してい
る。任命権者は、「懲戒処分が全く事実上の根拠に基づかないと認められる場合」
と「社会観念上著しく妥当を欠き懲戒権者に任された裁量権の範囲を越えたものと
認められる場合」を除いては、広い裁量権の行使を認められているのである。
さらに、裁量権行使の基準について、最高裁判所第三小法廷判決(昭和二九年七月
三〇日、最高裁判所判例集八巻七号一四六三頁以下)は、公務員の服務義務違反行
為が、懲戒に値するものであるかどうか、懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶべき
かを決定するについては、当該行為の違法性の軽重のほか、本人の性格および平素
の行状、右行為の違法性の軽重のほか、職員に与える影響、本人および他の職員の
訓戒的効果等諸般の要素をしんしやくする必要があり、これらの点の判断は、庁内
の事情に通ぎようし)直接監督の衝に当るものの裁量に任すのでなければ、到底適
切な結果を期待することはできない旨判示している。このように任命権者は所属職
員の違法行為に対する処分権の行使について、きわめて広い裁量権が与えられてい
る。一方、行政処分の取消判決は、裁量権の濫用がある場合のみ許される(行政事
件訴訟法第三〇条)。この点について特に指摘したいことは、裁量権の濫用とは何
か、ということである。
民事の領域において、権利の濫用は不法行為となる(民法第一条第三項)旨の概念
が導入されているが、民事判決において果してどのようにこの規定が解釈適用され
ているだろうか。きわめて厳格であること(逆にいえば、よほど極端な場合でなけ
れば、権利の濫用が認められていないこと)は、今更いうまでもない。しかも私権
は民法によつて概念規定がなされているとおり、固定的限定権利である。ところが
裁量権とは、行政の本質であるところの合目的的行政行為実現のため、行政権に与
えられた弾力的・包括的な判断作用である。裁量権の濫用とは、行政権の判断作用
が著しく逸脱し、放置することが正義に反することを意味するものである。裁量権
行使に多少の逸脱なり不適切があつたとしても、とつてもつて濫用とはいえない。
しかるに、裁判例の中には、処分の妥当性(妥当性を欠いてもいまだ裁量権の逸脱
ないし濫用には当らない)と違法性とを混同し、誤つた結論に達するに至つたもの
が少なくない。
この点の認識を誤ると「裁量権の濫用」という概念が濫用されることとなるのであ
る。そのよつてきたるところは、裁判所が行政機関の立場に立ち、自分ならこうし
たであろうという懲戒処分を想定し、この想定処分と審査の対象たる処分とを対比
較量して判断したことによるものと考えられる。前示最高裁判所判決のいうとお
り、「庁内の事情に通ぎようし直接監督の衝に当るものの裁量に任すのでなけれ
ば、到底適切な結果を期待することができないのである。」
2 本件懲戒処分が妥当であることを明らかにするため、最高裁判所判例集に登載
された具体的事案について、懲戒処分における任命権者の裁量権の限界をみると、
次のとおりである。最高裁判所判例は、いわゆる千代田丸事件など特殊な一、二の
事件を除いては、すべて懲戒処分を支持しており、過重でおるとして取り消した例
はないことを付言する。
(1) 前出第二小法廷判決(最高裁判所判例集一一巻五号六九九頁)の事案は、
大阪府巡査某が、(1)有夫の女子と昭和二二年頃知り合つて交際するうち、夫が
在、不在にかかわらず、しばしば同家に宿泊する等のため、昭和二五年四月頃にな
つて夫から肉体関係ありとの疑惑を持たれ、交際を拒絶するよう申し渡されたが、
その後も数回同家を訪れ、また同年六月頃偶然盛り場で出会い飲食中を夫にみられ
て更に疑惑を深められたこと、(2)夫が詐欺師で且つばくち打ちであることを知
つていながらあえて夫と金銭の貸借をなしたこと、という二つの理由で懲戒免職処
分に付せられた。
これに対して、巡査某は、右(1)(2)とも身におぼえがないことである。かり
に右事実が存在したとしても二〇数年の長期間にわたり終始無事故で格勤精励した
のみか、その間犯罪検挙、服務成績優良のため捜査部長および署長賞を授与された
こと五〇回を越え、警察部内での各種試験には首席抜群の成績をもつて一貫したと
いう立派な職歴をもつているから、(1)(2)の事由で処分することは裁量権の
範囲を越えた過重な処分であると主張した。
これに対し、第一審の大阪地方裁判所、第二審の大阪高等裁判所ともに、右(2)
の事実は認められないが(1)の事実のみを認め、「たとえ夫の嫉妬心に出たもの
であつて故意に巡査某がこれを挑発したものでないとしても警察職員として少なく
とも不注意であり、不謹慎のそしりを免れない」と認定した上で「しかしながら右
事案の性質や勤務成績、職務経歴が概ね良好であつたこと、改俊の情も顕著である
こと等を参酌して考察すれば、(1)は軽微な事案というべきであつて、これに対
して懲戒免職処分を科することはその選択を誤り著しく過重な処分に出たものであ
つて社会通念上著しく妥当を欠く違法の裁定であるといわなければならない」とし
て、懲戒免職処分を取り消す判決をした。
ところが、右第二小法廷判決は、原審判決を破棄自判して、巡査某の請求を棄却し
て日く、「本件懲戒処分は全く事実上の根拠に基づかないものであると認めること
はできないし、また(1)の行為に対して懲戒免職処分を選んだことが社会通念上
著しく妥当を欠くものと断ずることもできない」と説示し、懲戒免職処分を支持し
ているのである。
(2) 最高裁判所判決(昭二五(オ)七号二七年二月二二日、第二小法廷)は、
地公法第三六条違反行為に対する懲戒処分の限界を示している。
本件事案は、私立学校の教員が採用されるにあたり校内において政治活動をしない
ことを誓約し、これを条件として雇われた(地方教育公務員にあつては、教育公務
員特例法第二一条の三により当然禁止されている)ところ、採用後半年後に於て、
(1)校内で生徒に共産党のパンフレツトを売つたこと、(2)他村に赴いて反税
闘争を行なつたこと、(3)女子寄宿舎に党員らしい男子や職場離脱者を宿泊させ
るなどの活動を行なつたことという三つの理由で懲戒解雇された。
右第二小法廷判決は、処分理由のうち(2)(3)は証拠不十分で認めることはで
きないが、(1)については共産党の宣伝文書を生徒一人に対し売り付け、生徒二
名に購入を勧誘したが買うことを拒絶されたという事実を認め、この事実があれ
ば、懲戒解雇は適法であると判示している。
(3) 第三小法廷判決(最高裁判所判例集八巻七号一五〇八頁以下)は、公立学
校の学生の放校処分に関する事案であるが、公立学校と学生との関係は公務員の場
合と同様、特別権力関係に属すると判示している(しかして学生の場合に比して公
務員の特別権力性ははるかに強い)ので、この判決に示された法理は、公務員の職
務上の義務違反行為についても、直ちに該当するものである。
本件事案の内容は、問題のある教授の進退を決める教授会に開会前から罷免反対の
学生六名が入場していたので、非公開の採決をするため、議長が右六名に対し再三
退場を要求したにもかかわらず、退場を肯んぜず、大声で約三〇分にわたり発言を
続けたため、喧騒はなはだしく、遂に教授会は審議不能となつた。その理由で六名
の学生を放校処分した。
第一審判決は、放校処分が裁量権をこえた違法過重な処分であるとして、その取消
を命じたが、右最高裁判所判決はこれを破棄し、放校処分を適法妥当として維持し
ている。これを公務員に引きあてれば懲戒免職処分の限界を知ることができる。
右の如き最高裁判所判例は、公務員に対する懲戒処分に関する裁量権の行使につ
き、きわめて広い裁量権の行使をみとめたものである。
3 最高裁判所各判例の前記趣旨にかんがみて、本件処分が「全く事実上の根拠に
基づかないものであるものと認めることはできないし、またその行為に対して本件
処分をえらんだことが社会通念上著しく妥当を欠くものと断ずることはできない」
ことは明白である。
また、前示各最高裁判所判例の事案にみられるとおり、懲戒処分において、処分理
由となつた事実のすべてが証明できなくても、認定される事実のみをもつて、前示
原則に照して当該処分が維持される場合には、処分の効力には影響をおよぼさない
ことは明らかである。
とくに、指摘したいことは、最高裁判所判例の中で示された法律解釈は立法権およ
び行政権を拘束するものであり、行政庁としては同裁判所の法律解釈を行政権行使
の最高の基準として行政権の行使にあたつているのであるから、本件処分が裁量権
の濫用に該らないことは明白である。
第三 証拠関係(省略)
○ 理由
第一 本件処分の経過と特色
一 原告らの経歴とその地位
成立に争いのない甲第四五号証、同第四六号証、同第五四号証と当事者間に争いの
ない請求原因(一)の事実によると次の事実を認めうる。
原告P22は、昭和四一年三月早稲田大学第一文学部哲学科(東洋哲学専修)を卒
業し同年中学校及び高等学校の社会科教員免許状を取得後同年四月福岡県高等学校
教諭に採用され同月一六日以降福岡県立伝習館高校に教諭として勤務し社会科の授
業を担当していたものであるが、本件処分に至る間主として倫理社会と政治経済の
科目を担当したが、昭和四二年に日本史、昭和四三年地理を各一クラス併任し、ま
た昭和四三年度三学期に同校定時制課程で世界史も担当した。
そしてクラブ活動では年度によつて異なるが、演劇部、社研部、弁論部、山岳部等
の主任または副主任或いは顧問をしていた経歴がある。
原告Uは、昭和三八年三月九州大学文学部史学科を卒業し昭和四一年九月三〇日同
大学大学院修士課程文学研究科史学専攻を修了して文学修士の学位を得た。右大学
院在学中の昭和四〇年に福岡県高等学校教員試験に合格して昭和四一年四月以降伝
習館高校に教諭として勤務して社会科の授業を担当していたものであるが、本件処
分に至る間日本史と地理を担当していた。
原告Tは、昭和三七年三月熊本大学法文学部哲学科を卒業し、昭和三七年一〇月か
ら昭和三八年三月まで熊本県下益城郡西部中学校常勤講師として英語、数学を担当
し、昭和三八年六月から昭和三九年三月まで福岡県八女郡星野中学校常勤講師とし
て英語を担当し、昭和三九年四月教諭となり以降昭和四四年三月まで福岡県立築上
中部高等学校の教諭として倫理社会及び政治経済を担当し同年四月から伝習館高校
に勤務して社会科の授業を担当していたものであるが本件処分に至るまで倫理社会
と政治経済の授業を担当していた。
二 本件懲戒処分に至る経緯
当事者間に争いなき請求原因(二)の原告らに対する懲戒処分の事実と乙第三〇号
鉦(記載自体)、成立に争いのない乙第四号証、同第二七号証、同第二八号証、同
第三七号証、証人Lの証言によつて成立を認める甲第二九号証、証人B、同O、同
C、同P、同D、同Q、同R、同E、同F、同S、同L、同Kの各証言を総合する
と次の事実が認められる。
(一) 福岡県教育庁(被告教育委員会の事務局)の人事管理主事CほかV、W、
X各主事は、昭和四四年一二月七日(日曜日)同庁教育次長Bの指示に基づき伝習
館高校において同校教諭P22、同U、同T、同Lの四名に限定してその服務状況
の調査を行なつた。右調査の端緒は、右四名について「自習が多く調査の上指導措
置をしてほしい」旨の右Bに対する差出人不明の投書と同校卒業生と称する者から
の電話連絡にあるとされるが、連絡主の氏名が不明であるうえ、同校々長を経由す
ることなく右投書等に基づき、直接に調査を実施していることなどからすると、右
調査の端緒が真実右の如きものにとどまるものであつたか否かについてはにわかに
断定し難い点がないわけではない。
そうして、同日の調査には、C主事の事前の連絡によつて、E校長、F教頭、Y事
務長、G教務部長、Z生徒部長の各教職員が立ち会つたが、右調査にあたりE校長
らは、校長を経由せず真接調査に来校したことに難色を示したが、C主事らは教育
次長の命令によるものであり、また同年六月県議会において小倉工業高校で自習時
間が著しく多いことが取り上げられたことを説明してその協力方を要請した。
調査の内容は前記四教諭の一〇月及び一一月中の服務状況に主眼が置かれ、調査資
料は、出勤簿、出張命令簿、行事予定表、時間割、服務関係整理簿、教務日誌、及
び学級日誌に及んだ。右調査に併せ、当時高校の政治活動が各地で問題になつてい
るということで、伝習館高校における生徒の政治活動の状況が校長及び生徒部長か
ら事情聴取された。
C主事らは同日の調査結果をB次長に口頭報告したがそれによると、小倉工業高校
の場合ほど自習時間が多くなく、自習時間自体としてはさして問題とすべきでない
というものであつた。
(二) 伝習館高校では翌一二月八日、職員会議が開催され、その席上校長および
教頭から前日の教育庁職員による調査の概要を説明し、また一部教諭はホーム・ル
ーム等を利用して右調査を生徒に知らした。そこで同月二四日二学期の終業式の
際、E校長は、同校生徒から右調査は教育庁による不当な介入であるか否かなど後
記五項目にわたる質問を出され校長所見を求められたが同人は即答を避け、一月八
日始業式の場で全校生徒に対しその見解を表明することを約束した。
一 月七日開催された同校の職員会議では、教育庁の前記調査は手続的には校長を
経ることなく直接前記四教諭の服務状況の調査をしたこと、実体的にも教育内容に
ついて、ことに学級日誌まで調査したことについて教育庁の不当な介入であるとの
意見が多数を占め、結局今回の調査は教育庁による不当介入であるとの決議をし
た。E校長は右決議に則り一月八日の同校始業式において同校全生徒の前で右の決
議の趣旨を述べた。その後開催された職員会議で一月一六日に再度生徒に対する説
明会と各教諭の意見発表を行なうことを約束したが、その間に右校長発言と一月一
六日の説明会のことが教育庁の知るところとなりB次長は、E校長、F教頭、Z生
徒部長、G教務部長らを教育庁に呼び、前記校長発言の真意をたずね、同人の真意
でないならばその発言の取消と、来る一月一六日の説明会の中止或いは校長のみの
説明に留めるようE校長を粘り強く説得した。E校長はその後の職員会議で右説明
会の中止等につき再議に付したが否決された結果、一月一六日に再び生徒に対する
説明会が開かれ校長以下数名の教諭の意見発表がなされた。
(三) 伝習館高校の教諭有志は、昭和四五年二月一一日の建国記念日ら同校会議
室で建国記念日に関連した問題について生徒らと討論集会を開くことを企画し、同
月一〇日午後四時ごろからP22教諭とP1教諭は同校正門附近で、P2教諭及び
L教諭は同校裏門附近でいずれも下校中の生徒並びに教職員に「国家幻想の破砕
を」と題し、「建国記念日」の虚偽をはぎ己の観念の内なる「国家」を対象化する
ため登校と討論集会を呼びかける旨のビラを配布した。そしてP22教諭ほかL教
諭、P3教諭、A教諭ら四名は二月一一日同校二階会議室で同校生徒ら約五〇名と
共に討論集会を開いた。
ところで同校のS教諭は、昭和四四年一一月上旬高教組を脱退し、その後教職員連
合に加入しているところ昭和四五年二月上旬、前記B次長から原告ら及びL教諭ら
の行動につき調査協力方要請をうけてこれを承諾していたことからP22教諭らが
配布したビラを同月一一日右B次長の自宅に届出た。
その後、同月一九日ごろ「柳川伝習館高校を守る会」準備委員会よりの二月アピー
ル(以下単に二月アピールという)という文書(乙第三〇号証)が福岡県教育庁関
係者や伝習館高校の一部教諭、父兄、同窓生らに対し多数郵送された。その文書は
四頁にわたり「伝習館を守る会」準備委員会在東京委員会なる名義で特定人の住所
氏名の記載はなく二月一〇日付となつており東京都の京橋局の消印がある。その記
載内容は多岐にわたるが、その中には、P22教諭はいわゆる三派系造反教師と記
され同人を先頭にT教諭、L教諭、U教諭、P1教諭を中心として造反教師の集団
が勢力を拡張しつつあること及び同文書の主張にそう同人らの学校内外での具体的
言動なるものが数多く列挙されていた。
右二月アピールを契機として伝習館高校は教諭、生徒を含め学内は動揺し、ことに
造反教師と記された教諭らはこれに憤激し反撥した。
右二月アピールに対抗して同窓会有志名義で「伝習館を支持する会」も結成され造
反教師と名指しされた五人の教諭を擁護して「二月アピールは悪意に満ちた中傷
だ」とのビラを配布し、以後双方からの文書が数多く発行された。
そこでB次長はE校長に対し右二月アピール記載の事実の真相を確かめるべく報告
を求めたが、同人の報告によつても判然とせず要領を得なかつた。
(四) 前記S教諭は、昭和四五年一月一六日、深夜U教諭の自宅を訪ね、同人に
対し「P22、Tらと手を切り高教組を脱退した方がよいのではないか」と申し向
け今後のUの身の振り方について同人の回答を求めたうえ、他にこれを口外するこ
とを禁じた。右Sはその後同年四月頃も右と同趣旨の話をUにした事実がある。U
教諭は伝習館高校において高教組の分会役員をした経歴もあり当時も積極的な分会
活動家の一員であつたところ右Sの誘いには応じず他に右事実を口外しなかつたが
本件処分通告後の六月六日に同僚のL教諭及びT教諭らに右事実を公表した。
このような学園内の動揺のさ中に伝習館高校は三月一日卒業式を迎えた。ところが
右卒業式において県教育長代理のP4学校教育課長が告辞を朗読するや一部生徒は
「拒否」と書かれた横幕を掲げ、ヤジを飛ばし、校歌斉唱のとき労働歌を唄うなど
式場は騒然となつた。
その後三月六日、七日の両日、福岡県議会(昭和四五年二月定例会)が開催された
際、P5、P6両県会議員から伝習館高校に関する諸問題について質問し、K教育
長がこれに回答した。
右質問中には、前記一月八日始業式の際、生徒からの五項目(一、教育庁、国家権
力の不当介入について正式な経過報告をせよ。二、それについて明確な見解を示
せ。三、一二月七日の教育庁からの来校に対して学級日誌を見せたそうだが、何故
そうしたか。四、一二月八日にわれわれ生徒の活動を教育庁になぜ報告したのか。
五、一九日に教育の反動化粉砕と書いたビラを職員会議ではぐことをきめ、生徒に
それをはがせたのはなぜか。)の質問に対しE校長が回答したこと、前記二月アピ
ールの記載内容の真偽並びにこれに対する措置、右卒業式における混乱等について
言及した部分もある。K教育長は校長回答についてその見解を述べる一方、二月ア
ピールの真相、卒業式の混乱等については詳細な事実を調査中であるからその調査
結果をまつて必要な措置をとること、正常における学校の管理運営ないし生徒指導
の適正化について十分配慮する必要があり、県教育委員会は伝習館高校における前
記諸問題について重大視しており必要な措置をとりたい旨回答した。
(五) 教育庁のO教職員課々長補佐ほか五名の職員は、同年三月一七日(春休
み)に第二回目の伝習館高校の調査にあたつた。調査目的は、同校における教育計
画の実施状況と教師の服務の実態、具体的には前述の二月アピールの真相、卒業式
の混乱の責任、教師の服務状況等を中心とするものであつた。同日の調査には高教
組本部書記長、伝習館分会長ら数名の組合役員が立会した。組合役員らの右調査に
対する抗議等の影響もあつて同日午前中は調査が進まず午後一時ごろから午後六時
三〇分ごろまで提出書類等の調査を行なつたが、学級日誌、成績評価表、伝習新聞
等は提出されなかつた関係もあつて同日の調査結果は不十分に終つた。
そこで教育庁は伝習館高校へ出向いての実態調査は円滑な実施が困難であると判断
しその後、E校長から関係諸帳簿の提出を得てその調査分析を行なつた。その提出
書類は三月一七日調査において要求した書類(学級日誌を除く)が全部提出された
ほか伝習新聞、クラブ活動に使われたパンフレツト類、試験問題成績評価表等も提
出された。最後までその提出について難色を示していた学級日誌は、四月に入つて
S教諭を通じて五名の教諭の協力によつて五冊ぐらい教育庁に提出されることとな
つた。(この段階において原告らに対する本件処分の証拠書類は殆んど出揃つたこ
とになる。)
(六) O課長補佐ほか二名は昭和四五年四月二一日から三日間にわたりB次長の
指示に基づき原告ら三教諭の教育活動の実態調査を主目的とし、その対称を柳川市
在住の卒業生或いは在校生で、原告ら三教諭の担当する授業を受講した者に限定し
て事情を聴取することになつた。右の調査にあたつては、教育庁の取り調べに全面
的に協力していた前記S教諭が自己のかつて担任であつた三年二組と三組の卒業生
のうち電話連絡しうる者約一〇名を選んで教育庁職員に紹介し、そのうち約六ない
し七名から氏名を明かさないことの条件付で原告ら三教諭の教科書使用の実態、試
験問題、講議内容等教育活動全般について事情聴取した。
その後五月一三日から一六日にわたりC人事管理主事ほか五名の教育庁職員は前記
同様の目的で父兄並びに生徒あわせて一五名ぐらいから事情聴取したのち、同年五
月二〇日付で右一連の調査結果をO、P、C、D、Q、Rの連署でK教育長に報告
した。
そこでK教育長は、文部省高校教育課に数回指導を仰いだうえ原告ら三教諭につき
被告県教育委員会に対し懲戒免職の意見を付して提案した結果右処分について同委
員会も異論なく原告ら三教諭の弁解を聴取する必要なしとの結論を得たので事前の
聴聞を行うことなく昭和四五年六月六日付で原告ら主張の如く原告ら三教諭を懲戒
免職しその旨原告らに通告した。
以上認定の事実を覆えずに足る証拠はない。
三 本件処分の特色
被告福岡県教育委員会は、本件処分にあたり前認定の手段によつて対象事項の証拠
資料を収集した結果原告らに対する事前聴聞の機会を与えることなく、いずれも懲
戒免職を行なつた。原告らはいずれも伝習館高校の社会科担当の教諭であつたとこ
ろ本件処分は主として原告らの日常の教育活動自体を対象としている。右対象事由
を被告の処分理由に従つて分類すると次の如き事項からなつている。
(イ) 特別教育活動に関する事項、即ち伝習館高校新聞部発行の伝習新聞及び同
校演劇部発行の公演パンフレツトへの寄稿文の内容並びに教科、科目の課程に関す
る事項中授業の内容、方法、試験問題等
(ロ) 教科、科目の教授課程に関する事項中教科書使用の有無及び使用形態等
(ハ) 教科、科目の教授課程に関する事項中考査実施の有無及び評定の方法等
(ニ) 生徒に対する指導監督の懈怠、恣意的教育、校長の許可なく学校施設の利
用その他、
右対象事由(イ)は高等学校学習指導要領違反、同(ロ)は教科書使用義務違反、
同(ハ)は福岡県教育委員会規則に基く伝習館高校長の定めた校務運営内規違反、
同(ニ)のうち学校施設の利用については福岡県教育委員会規則違反にそれぞれ処
分の根拠を求めている。
これに対し原告らは対象事由(イ)は、教師に教育の自由があるとし教育内容につ
いては国家が教育内容に介入できないこと即ち文部大臣の作成した高等学校学習指
導要領の法的拘束力を否定し、少なくともこれを根拠として本件処分を基礎づける
ことはできない旨主張する。
従つてここでは学習指導要領の法的拘束力の有無が問題となりひいては憲法上の教
育を受ける権利、学問の自由、教育基本法一〇条等わが国の教育法制そのものの検
討が要求されよう。
対象事由(ロ)については原告らは教科書使用義務の存在を否定しつつ仮りに使用
義務があるとしても原告らはいずれも担当教科の授業において教科書を使用したと
主張する。
従つてここでは教科書使用義務の有無及び使用の法的意味が問われることとなる。
しかして検定済教科書は学習指導要領に準拠して検定される仕組みになつている関
係上、教科書使用の問題は一面では学習指導要領に関連し、他面では教師の教育活
動に直接関連を有し現場教師の教育内容、方法等を規制する問題を包含するもので
ある。
対象事由(ハ)は校長の定めた校務運営内規の存否その他考査を義務づける根拠規
定の存否並びに評定方法等が争点となる。同(ニ)の学校施設の利用の点について
はその根拠規定の解釈等が問題となりうる。
以上概観したとおり本件処分は教育内容そのものを対象としていることからいずれ
の処分事由も直接あるいは間接に高等学校学習指導要領と深くかかわりを有し、反
面教育の自主性との調和を考慮すべきところに本件処分の特色がある。
なお原告らに対する各処分事由はそれぞれ異なるが以下便宜上右分類の順序に従つ
て検討する。
第二 学習指導要領と原告ら三教諭の教育活動
一 学習指導要領の法的性格について
(一) 学習指導要領の概観
高等学校学習指導要領は文部大臣が学校教育法第四三条、第一〇六条、同法施行規
則第五七条の二に基づき、高等学校の教育課程の基準としてこれを定め文部省告示
をもつて公示したものである。成立に争いのない乙第一号証によると、本件処分に
適用されたのは昭和三五年一〇月一五日文部省告示第九四号として告示されたもの
である(以下本件学習指導要領という)。
学習指導要領は昭和二二年文部省によつて作成頒布され今日まで数回にわたる改訂
が行なわれている。そのうち、高等学校学習指導要額は昭和三五年一〇月一五日文
部省令一六号によつて学校教育法施行規則の一部が改正され、改正後の第五七条の
二では「高等学校の教育課程については、この章に定めるものの外、教育課程の基
準として文部大臣が別に公示する高等学校学習指導要領によるものとする。」と規
定された。
原告らは昭和二二年当初の学習指導要領は勿論昭和二六年改訂版においても学習指
導要領は手引書、参考書の域を出るものではなかつたのに右施行規則の一部改正に
伴い本件学習指導要領が文部省告示の形式で公示されたからといつて、当然に法規
となるものではないと主張する。たしかに告示とは、公示を必要とする行政措置の
公示の形式であり(国家行政組織法一四条一項)訓令または通達とは行政官庁が所
管の諸機関および職員に対してなす命令または示達の形式であり(国家行政組織法
一四条二項)一般的には法規命令の性格をもたないが、ただこれらの行政規則の形
式をとつていても実質的には法規の補充として、それ自身法規たる意味をもつもの
もある。
したがつて学習指導要領が「文部省告示」の形式をとつたことから法規命令となり
法的拘束力が付与されたと主張するのは正当でないと同時に「文部省告示」という
形式をとつたことのみを理由として法規命令でないとすることも誤りである。
したがつてこのような形式論から見る限り、本件学習指導要領は、法律、省令、告
示の順序で順次上位の法を補充する形式をとつているので法規命令たる性格をもつ
ことが可能である。しかし本件学習指導要領に記載されている事項のいづれが法規
命令たる性格を有するかは実体に即して具体的な検証を経なければならない。
次に本件学習指導要領の内容について概観すると、第一章総則第二章各教科、科目
第三章特別教育活動及び学校行事等からなつている。第一章総則においては第一節
教育課程の編成、第二節全日制の課程および定時制の課程における教育課程、第三
節通信教育における教育課程に細分されている。そして第一節一款では一般方針と
して1学校教育法施行規則五七条の規定を再録し、2学校においては、教育基本
法、学校教育法および同施行規則、高等学校通信教育規程、高等学校学習指導要
領、教育委員会規則等に示すところに従い、地域や学校の実態を考慮し、学校にお
かれた各課程および各学科の特色を生かした教育ができるように配慮して、生徒の
能力、適性、進路等に応じて適切な教育を行なうことができるように教育課程を編
成するものとする、と規定されている。
第二款では、学校教育法施行規則によつて定められた各教科と各教科に属する科目
についての標準単位数が定められ第三款では特別教育活動として、ホームルーム、
生徒会活動およびクラブ活動を実施するものとし、ホームルームに充てる授業時数
の標準が定められている。
第二節では第一款各教科、科目の履修として、すべての生徒に修得させる教科、科
目とか普通科の生徒に履修させる教科、科目とか職業教育を主とする学科の生徒に
履修させる教科、科目及びその単位数等その他について定められている。第二款特
別教育活動及び学校行事等、第三款単位の修得の認定、第四款卒業に必要な単位数
および授業時数、第五款教育課程編成上の留意事項、第六款指導計画作成および指
導の一般方針、第七款道徳教育についてそれぞれ定められている。
右道徳教育では、「学校における道徳教育は、本来、学校の教育活動全体を通じて
行なうことを基本とする。したがつて、各教科、科目、特別教育活動および学校行
事等の学校教育のあらゆる機会に、下記の目標に従つて、道徳性を高める指導が行
なわれなければならない。
道徳教育は、教育基本法および学校教育法に定められた教育の根本精神に基く。す
なわち、人間尊重の精神を一貫して失わず、その精神を家庭、学校、その他各自が
その一員であるそれぞれの社会の具体的な生活の中に生かし、個性豊かな文化の創
造、民主的な国家および社会の発展に努め、進んで平和的な国際社会に貢献できる
日本人を育成することを目標とする。」と規定されている。
第二章各教科、科目では、それぞれ各教科の目標として数項目を掲げ、各科目につ
いては、その科目の目標を数項目掲げ、その科目の内容としてかなり詳細な規定が
なされ、最後に指導計画作成および指導上の留意事項が列挙されている。
例えば「倫理・社会」では、その内容の項に、二単位を標準とし、全日制の課程に
あつては第二学年、定時制の課程にあつてはこれに相応する学年において履修させ
ることを前提として作成したものである。また指導計画作成および指導上の留意事
項(9)には、政治および宗教に関する事項の取り扱いについては、教育基本法第
八条および第九条の規定に基づき、適切に行なうよう特に慎重な配慮をしなければ
ならない、と規定され、同趣旨の規定は「政治・経済」の留意事項(5)にもあ
る。(政治に関する事項について)
本件学習指導要領が以上概観した如く、高等学校における教育課程全般を規定して
いることから、原告らは学校教育法第四三条の「教科に関する事項」を「学校制度
的基準」と解し、同条項は「教科に関する事項」について同法施行規則に細目を委
任したものであるが、同施行規則の再委任に基いて制定された学習指導要領では、
単に右の「教科に関する事項」に限らず、これを含めて道徳、特別教育活動、学校
行事などにまで及ぶ教科教育内容を規制しているから本件学習指導要領は右委任の
範囲を越えていると主張する。
しかし学校教育法および同法施行規則の法文解釈上、「教科」は「教育課程」と同
義語と解釈すべきであり、右教科に関する事項という法文が当然に原告ら主張のご
とく限定的な文理をもつていろとはいえない。
すなわち学校教育法制定当時(昭和二二年三月三一日制定)すでに「教科」という
語は「教育課程」と同じ意義で用いられ(同法第二〇条、第一七条、第一八条、第
三八条、第三五条、第三六条、第四三条、第四一条、第四二条参照)、またこれを
うけて学校教育法制定当時の同法施行規則でも第二章小学校の第二節教科という節
の名のもとに教科の名称(二四条)教科課程、教科内容およびその取扱いの基準
(二五条)児童の心身の状況に適合するような教科の取扱い(二六条)課程の修
了、卒業の認定(二七条)卒業証書の授与(二八条)教科用図書(二九条)という
ような教育活動に関する広範な事項を規定していたことからも、「教科」という文
言は学校教育法体系においては、教科目としての意味でなく今日の「教育課程」と
同義語に使用されていたのであるからこの点に関する原告らの主張は採用できな
い。
(二) 教育課程の国家基準設定の限界
1 憲法上、国が生徒の教育内容を決定する権能を有するかにつき検討する。
学問の自由を保障した憲法二三条は、高等な学術研究機関で行なわれるものに限ら
ず、すべての教育機関に保障されているが、このことから直ちに高等学校以下の教
育機関においても、学校において現実に教育の任にあたる教師は教授の自由を有
し、公権力による教育内容への介入を受けないで自由に教育内容を決定することが
できるとは考えられない。
大学教育の場において学問の自由のうちに教授の自由を含むと解し得ることについ
ては異論がない。これは学生がすでに高等普通教育の課程を修了したものであつて
一応、教授内容を批判する能力を具備しているとの前提に立脚しているからに他な
らない。
これに対し高等学校以下の普通教育では、児童、生徒に右のような批判能力が乏し
いうえ、子どもの側から学校や教師を選択する余地も乏しく、また教師の教授内容
そのものが児童、生徒に対し強い影響力、支配力を及ぼしうる。またとくに普通教
育では教育の機会均等の確保のため、どの地域にあつても、いずれの学校にあつて
も全国的に一定の水準を維持することが要請される。このことから高等学校以下の
各学校においては、教育内容(教授方法を含む)についても、右目的実現のために
公権力による規制が必要かつ要請されることともなり、これは必ずしも学問の自由
と矛盾するものではない。
しかし右のことは普通教育において公権力による特定の意見のみを、教師が教授す
ることを強制されうることを是認しうる意味を含むものではない。本来教育が、生
徒と教師との間に展開されるものであつて各生徒の能力性格等その個性に応じて行
なわれまた教師の人格的影響等教育の特性に鑑みれば、教師が具体的な授業の展開
にあたつて教授の具体的内容及び方法につき一定範囲で教授の自由がなければ教育
の存在する基盤を失なつてしまう。しかし右教授の自由は教育の本質に基づく教育
条理として認めうることであつて憲法上の「学問の自由」の保障の解釈として肯定
されるのではないと考える。
次に憲法第二六条は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応
じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と定め二項で「すべて国民は、法律
の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義
務教育はこれを無償とする。」と定めている。右規定はいわゆる社会的基本権とい
われるものであつて国が積極的に、教育に関する諸施設を設置し、国民の利用に供
する責務を負うこと、教育の機会均等を国民の権利として保障する旨を明らかに
し、児童、生徒に対する基礎的教育である普通教育の必要性から保護者に対し、そ
の子女に普通教育を受けさせる義務を課し、義務教育の費用を国において負担すべ
きことを宣言したものである。
教育基本法第一条を参照しつつ考えるとこの規定(憲法第二六条)には、すべての
国民、とくに児童、生徒が人間的に成長、発達し自己の人格を完成し、平和的な国
家及び社会の形成者として自主的精神に充ちた国民となるに必要な学習をする権利
を有するとの観念が存在しているものと考えられる。従つて子どもの教育は、児
童、生徒の右権利を充足しうる立場にある者換言すれば児童生徒の保護者、教師、
学校、地方公共団体、国等の責務に属するものと考えられるが、そのうち教師のみ
が教育内容及び方法を決定する権能があるとの結論を導くことはできない。
すなわち右条文だけから児童生徒に対する教育内容を誰が決定することができるか
という問題に対する解答は示されてはいない。
また憲法第一九条では「思想及び良心の自由」第二〇条では「信教の自由」第二一
条で「表現の自由」等が保障されているがこれらの規定から直ちに教師の教育内容
決定権能の存在を導き出すことができないのは、さきにこれらのいわば特別法たる
学問の自由について述べたところから理解される。
次に、憲法上国に教育内容の決定権能があるか否かについて見る。
教育が教師と生徒との間に展開される個人的な精神的交渉の側面があることは否定
できないが、公教育は、単にこれにとどまらず社会公共的な要素をもち国や地方公
共団体の利害にも大きな関係を有するものである。憲法第二六条によつて国は前述
のとおりの責務を負い、その教育上の責務を実現するため法律によつて学校制度を
設備し、教育上の施設を整え、広く適切な教育政策を樹立し実施しうるものとし
て、憲法上は、あるいは児童生徒自身の利益の擁護のため、あるいはその成長に対
する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲におい
て、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解する。
しかし憲法の採用する議会制民上々義の下では国民の教育意思は国会の制定する法
律制定を通じて具体化されるのであるが、政党政治に基づく多数決原理によつてな
される国政上の意思決定はもろもろの政治的要因によつて左右されがちであるから
教育内容及び方法等についての国の介入は、これらについて十分な配慮を行つた大
綱的基準の設定にとどめることが要請される。しかしこのことは生徒の教育内容に
対する国の正当な理由に基づく合理的な決定権能を否定する根拠とはならない。
2 教育基本法上、教育と教育行政に関する規制について。
教育基本法前文では、憲法の精神にのつとり民主的で文化国家を建設し世界の平和
と人類の福祉に貢献するという理想の実現は根本的には教育の力にまつべきものと
の認識に立つて、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する
とともに、普遍的でしかも個性豊かな文化の創造をめざす教育を普及徹底すべきこ
とが今後における教育の基本理念であるとしている。教育基本法前文及び各条項の
内容からみて、同法は、憲法において教育のあり方を定めることに代えてわが国の
教育及び教育制度全体を通じる基本原理を宣萌したものであつて、他の教育関係諸
立法の中で中心的地位を占めるものであることは明らかである。従つて同法の規定
は形式的には他の教育関係法規と同列であつて同法と矛盾する他の法規を無効とす
る効力はないが、実質的には教育法の中の根本法として一般に教育関係法令の解釈
及び運用にあたつては法律自体に別段の定がない限り、教育基本法の目的趣旨に適
合するよう考慮される必要がある。
教育基本法一条は教育の目的を規定している。すなわち、人格の完成をめざし、平
和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、
勤労と責任を重んじ自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期すること
にある。
本来教育は、人間の内面的価値に関する文化的営為の側面があるから「法律」によ
つて教育の内容を規制する場合、党派的な観念を盛り込んだり、党派的な利害によ
つて左右されるべきものではないから教育内容に対する国家的介入はできる限り抑
制的かつ慎重さを要請される。
教育基本法第一条は、憲法のよつて立つ人類普遍の原理として価値の多元性を容認
したうえでの、教育目的であると解釈されるし、教育条理としての「教育の自由」
をその前提として規定されたものと解される。換言すれば、教育基本法第一条に規
定する教育目的を実現するためには教師の行う教育活動、ことに教育内容及び教育
方法については教師の自主性が尊重されなければならないことを示しているものと
いえる。
更に同法第二条では、教育目的達成のためには、学問の自由を尊重し、実際生活に
即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献す
るように努めなければならないと定められている。
次に教育基本法第一〇条について検討する。
同条は教育と教育行政との関係についての基本原理を明らかにした重要な規定であ
るところ一項で「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責
任を負つて行われるべきものである。」と定め、二項で「教育行政は、この自覚の
もとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなけ
ればならない。」と定めている。
同条一項の「不当な支配」には教育行政機関が法令に基づいて行政を行なう場合に
も適用されることがあることは最高裁判所昭和四三年(あ)第一六一四号同五一年
五月二一日大法廷判決においても明らかである。
すなわち、憲法に適合する有効な他の法律の命ずるところをそのまま執行する教育
行政機関の行為がここにいう「不当な支配」となりえないことは明らかであるが、
前に述べたように、他の教育関係法律は教育基本法の規定及び同法の趣旨、目的に
反しないように解釈されなければならないのであるから、教育行政機関がこれらの
法律を運用する場合においても、当該法律規定が特定的に命じていることを執行す
る場合をのぞき、教育基本法第一〇条一項にいう「不当な支配」とならないように
配慮しなければならない拘束を受けているものと解されるのであり、その意味にお
いて、教育基本法第一〇条一項は、いわゆる法令に基づく教育行政機関の行為にも
適用があるものといわなければならない。
同条二項の解釈につき、原告らは、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確
立とは、主として教育施設の設置管理、教員配置等のいわゆる教育の外的事項に関
するものを指し、教育内容及び方法等いわゆる内的事項については、学校教育法の
委任に基づき文部大臣が定める学習指導要領でもつては規制をなし得ないものであ
る旨主張する。
しかし教育基本法第一〇条二項が、教育内容及び方法については、他の法律または
これに基づく命令によつては規制をなし得ないこと、つまり国会が同法においてこ
のような権限の行使を自己限定したものと解すべき根拠はない。
教育基本法第一〇条は、たしかに戦前教育の中央集権的な過度の統制による形式
的、画一的、国家主義的な傾向に対する反省ないしこれらの弊害を除去すべきもの
との視点から出発したものであり、かつ教育が、教師と生徒との間の直接的な人格
的接触を通じ生徒の個性に応じて弾力的に行なわなければならず、そこには必然的
に教師の自由な創意と工夫の余地が要請されることに思いをいたすとき、同条が教
育内容及び方法等につき、その規制にあたつては、教師の教育活動についてはその
自主性を尊重すべきことを要請していることは明らかである。
結局、教育基本法第一〇条は、国の教育内容及び教育方法に関する介入を全く拒否
することを前提としているわけではないが、教育行政の目標を教育の目的の遂行に
必要な諸条件の整備確立におき、その整備確立のための措置を講ずるにあたつて
は、教育に対する戦前の過度の国家権力の介入に対する反省、教育の自主性尊重の
見地から、これに対する「不当な支配」となることのないようにすべき旨の限定を
付したところにその意味があり、したがつて教育に対する行政権力の不当、不要の
介入は排除されるべきであるが、許容される目的のために必要かつ合理的と認めら
れるそれは、たとえ教育の内容及び方法に関するものであつても同条の禁止すると
ころではない、と解するのが、相当である。
3 本件学習指導要領の法的拘束力について、
まず「教育課程の基準として文部大臣が別に公示する学習指導要領」(学校法施行
規則第五七条の二)という場合の「教育課程の」基準とは、教育課程の編成及び実
施の両方の基準であると解されるが右の「基準」の意味は必ずしも明瞭ではない。
本件学習指導要領はさきに概観したとおり教育課程全般にわたつて規定され、なか
でも教科、科目の教育内容及び指導上の留意点などかなり詳細な点にまで及んでい
るが、これらの各条項の効力、即ち教師がこれに違反した場合の効果については何
らの説明がなされていない。
原告ら主張の如く、教育内容及び方法についての規定中、学校制度的な大綱的基準
を越える部分は、単なる指導助言文書に過ぎないと見れば、これらの条項に違反し
ても、少なくとも懲戒処分の対象とはなり得ないであろう。
またこれとは反対に被告主張のごとく、本件学習指導要領は法的根拠をもつて文部
大臣が制定したもので法規命令たる性格をもつとみれば、学習指導要領のすべての
条項についてこれに違反した場合には地方公務員法第三二条により法令に従う義務
に違反」たこととなり同法第二九条一項二号に該当し懲戒処分の対象となりうる。
そこで本件学習指導要領は、果たしてどのような法的性格を有するかを確定する必
要に迫まられる。この際、三通りの解釈が可能であるように思われる。その一つ
は、学習指導要領のすべての条項が法的規範のないもの(指導助言文書)、その二
はすべての条項が法的規範を有するもの(法的拘束力ある規定)、その三は法的拘
束力のある条項と指導助言文書たる条項とに分けるもの、である。
前述の憲法及び教育基本法の解釈において示した教育内容及び方法に対する規制の
限界を、再度要約すると、それは教育基本法第一〇条による教師の教育の自主性を
尊重し、教育現場で教師が創意と工夫を発揮し生徒の個性に応じた弾力性ある教育
を損わない範囲内において、教育における機会均等の確保と、全国的な一定の教育
水準の維持の必要性を充足すべき基準たるべきであると抽象的に云い得るが、現行
教育法制は地方分権の原則が採用されているところから教育に関する地方自治の原
則を考慮し、これを侵害することは許されない。
右の規制原理を調和的に解釈し、本件学習指導要領の基準性に照らして考慮すると
き、右の「基準」とはさきに示したその三の解釈を正当と考える。即ち本件学習指
導要領の条項中には強行規定に相当する部分がありこれについては法的拘束力があ
り前記の趣旨での法的制裁が及ぶがその余の条項は訓示規定として法的制裁が及ば
ないと解される。また本件学習指導要領には教育基本法、学校教育法及び省令を再
録した部分もあり(例えば前記倫理社会の3、指導計画作成および指導上の留意事
項の(9))学習指導要領によつて新たに創設された規定もある。
そこで本件学習指導要領中どの規定が法的拘束力があるかについて本件事案の解決
に必要な限度で検討する。
まず教育課程の構成要素、各教科、科目及びその単位数、高等学校卒業に必要な単
位数及び授業時数、単位修得の認定いわば学校制度に関連する教育課程の規制に関
する条項について法的拘束力があることは疑いない。
本件学習指導要領第一章第二節第七款に道徳教育の項がありその文言は「(一)学
習指導要領の概観」において述べたとおりである。
右道徳教育の目標とするところは、同条項に記載のとおり教育基本法及び学校教育
法に定めた教育の根本精神に基づいている。そしてその文言からも教育基本法前文
第一、二条の趣旨を再録したものと考えられる。ただここでは、道徳教育が単なる
道徳に関する知的な理解や判断にとどまるものではなく、道徳的な実践力となつて
現われてくるような指導を、各教科、科目、特別教育活動及び学校行事等のあらゆ
る機会に行われることを基本として規定されている。そして道徳の内容そのものに
ついては人間尊重の精神を具体的な生活の場で活かし、個性豊かな文化の創造、民
主的な国家及び社会の発展に努めること、平和的な国民を育成することを目標とし
て指導すべきことが示されている。その「道徳」とされる内容自体、憲法、教育基
本法の理念に適合し、教育の場でその理念を生かしうるよう生徒に指導すべきこと
が要請されている。
従つて「道徳教育」の条項は教育の機会均等の確保並びに教育水準の維持の視点か
らよりも教育基本法第一条の理念の実現の方法という観点から検討されるべきであ
ろう。
ここで注意すべきは、右道徳の内容となるものは、人間尊重の精神とか、民主的な
国家及び社会の発展に努めるとかの抽象的な概念であり、教師の学校内のあらゆる
教育活動に及ぶことから教師の教育の自主性尊重の原理を阻害するおそれもあるか
ら、もし法的拘束力を認めるとすれば教育行政機関がこれを適用する場合には特に
慎重な考慮が払われなければならない。教師の授業活動における一言半句或いは特
別教育活動の一端をとらえて「道徳教育」に反するとしてこれを強制するときは却
つて教育基本法第一〇条に違反する結果となる場合があるからである。
次に各教科、科目に掲げられた目標は概して当該科目について教育運営の指針を定
めた規定であると解される。いまこれを社会科の各科目の「目標」について通覧す
るに、その内容自体は教師の自主性や地方自治の原則を侵害するようなものは含ま
れてないと考えられるが、それらの規定は教師が当該科目を教育する際の大まかな
指針を列挙したものであるが抽象的かつ多義的であつてこれを教師に法的拘束力を
もつて強制することは適切でない。したがつてこれらの指針に適合しない行為があ
つた場合に、ただちに法令違反とすることはできない。
社会科、各科目の「内容」はどのように解すべきであろうか。
例えば本件学習指導要領の、倫理、社会の「内容」には、「以下に示す倫理、社会
の内容は、二単位を標準とし、全日制の課程にあつては第二学年、定時制の課程に
あつてはこれに相応する学年において履修させることを前提として作成したもので
ある。」と記されたうえ三項目にわたつて「倫理、社会」の教育内容が記されてい
ることからみると当該科目の教育内容の範囲と程度の大綱について規定されたもの
である、ということができる。
これら「内容」に関する規定は教育の機会均等の確保並びに高校における一定の教
育水準の維持の見地から規定されたものであるが、その全てにわたつて必らず生徒
に履修させることを要求しているものと解するならば、他面教師の教育の自主性と
の間に矛盾、衝突をきたすことがあるのを避けられない。
たとえば証人N、同P14の各証言によると、実業高校や高等学校の定時制課程に
おいては、生徒のいわゆる学力水準が低いため教授にあたつて高校で要求される教
育水準をそのままの形で維持することが困難でやむなく低学力対策としての教育課
程の編成を余儀なくされていることが認められる。このように本件学習指導要領の
各教科の「内容」を高校によつてはそのまま教育現場に持ち込むことが困難な場合
を想定すると、右の「内容」を考慮しつつ現場教師の創意と工夫によつてこれが達
成に努めるべきではあつても、右「内容」より知識伝達の観点のみからいえば、い
わば「程度の低い教育』を余儀なくされたことをもつて法令違反となし得ないこと
は明らかである。また本件学習指導要領の政治、経済の「内容」には(1)日本の
政治、(2)日本の経済、(3)労働関係、社会福祉、(4)国際関係と国際協力
の項目があり各項目には詳細な内容が記されている。
かりにこれらの項目の中あるものを欠落するか、あるいは右「内容」に含まれてい
ない事項を付加して教育した場合は、果たしてどのような法的効果があるのか。倫
理、社会、或いは政治、経済の科目の「内容」の範囲ならびに程度はかなり幅のあ
るものと考えざるを得ないが、それにしても明確な一線を画すること自体困難であ
ろう。
教師は当該教科について資格を有する専門家であるからこれら教科の教育「内容」
については学習指導要領を参考としつつ各学校、各生徒の能力等を考慮しながら現
実に即した適切な教育をするほかない。換言すれば各教科の「内容」の実現は法的
拘束力をもつて教師を強制するには適しないし望ましいものでもない。このような
訳で右「内容」は訓示規定と解するのが相当である。しかし訓示規定があるからと
いつて教師がこれを不問に付してよいというのでは勿論なく、むしろこれが遵守は
基本的には教師の自律的判断に期するところ大であるが、なおこれが不遵守に対し
ては指導助言の対象となり、その指導助言に教師が従わないときに場合によつては
「勤務成績が良くない」とか「その職に必要な適格性を欠く場合」に該当し分限の
対象とはなり得よう。
社会科の各科目の指導計画作成上及び指導上の留意事項は概して指導助言事項とし
て訓示規定であるといえる。
もつとも倫理、社会及び政治経済の右留意事項中には教育基本法第八条、第九条等
の再録した部分のあることは前述のとおりであり、これは注意的に規定したもので
あろう。
二 原告ら三教諭の教育活動
(一) 原告P22の特別教育活動
1 原告P22が昭和四三年度及び同四四年度において伝習館高校の演劇部主任と
して同部の生徒を指導助言すべき地位にあつたこと、同演劇部の活動が本件学習指
導要領に定められた特別教育活動の一環としてのクラブ活動であること、昭和四三
年一〇月五日及び六日の両日、伝習館高校の学校行事として実施された文化祭にお
いて同演劇部が「雨は涙か溜め息か」という演劇を公演した際に同部主任の立場で
その公演パンフレツトに「夢幻の呪詛」と題する一文(その内容は別紙一のとお
り)を署名入りで寄稿掲載されたことは、いずれも当事者間に争いがない。
原告P22本人尋問の結果その成立を認める甲第五四号証、証人P9、同P10、
同P11の証言によると、同演劇部の活動は一年に、春秋の二回にわたる校内公演
が主なものであつたところ、一つの公演を実現するためには部員は数ケ月前から脚
本選定を行ない部員全体の討議を経てこれを決定し、脚本の内容分析を行ない劇の
演出、キヤスト、スタツフ等を互選し練習に入る。「雨は涙か溜め息か」という劇
の脚本は前年度卒業生が執筆したものに部員全員が手を加えて脚色した創作であつ
た。右公演パンフレツトは部員中からパンフレツト委員が選任され、他の部員も手
伝つて同部が自主的に作成したものである。同パンフレツトは公演当日、講堂の入
口で公演見物者である伝習館高校生徒、同教師、一般市民、池高校生徒約八〇〇名
位に配布されたことを認めることができ右認定に反する証拠はない。
2 原告P22が昭和四四年度、伝習館高校の新聞部顧問の地位にあつたこと、
「伝習新聞」第一〇〇号(昭和四四年四月九日発行)に「老いているであろう新入
生諸君」と題する一文(別紙二記載のとおり)を署名入りで同第一〇三号(同年六
月三日発行)に「想像力が権力を奪う」と題する一文(別紙三記載のとおり)をそ
れぞれ寄稿したことは当事者間に争いがない。
前掲甲第五四号証と証人P24の証言によると、伝習館高校の新聞部には、昭和四
四年当時、主任はP25教諭、副主任はP26教師がおり同部の活動について指導
助言する立場にあつた。同部は一年に四回ないし五回にわたつて「伝習新聞」を発
行し、これを全生徒に配布していたが他にも学校内における各クラブ間の討論会、
父兄と教師との座談会等を企画主催しまた全国の高校新聞部との交流を行なう等の
活動をしていた。
各号の新聞を発行する手順は、部員全体で編集会議を開き、同会議において新聞の
体裁(タブロイドかブラケツトか)、特集、記事の割当、担当等を決め、その後各
部貝は取材活動、寄稿依頼、記事の整理、印刷、校正、発行に至る。前記担当教諭
は、右新聞の発行に至る過程で指導、助言はするが部員全体の自主的な運営であつ
た。原告P22は新聞部からの寄稿に応じたことが数回あるにとどまりその他の同
部の活動に積極的に参加したことはない。
「伝習新聞」第一〇〇号は、昭和四四年度に伝習館高校に入学した新入生歓迎の特
集号として発行された。しかしその趣旨は、トツプの見出しに「安閑とできない高
校生活」、リードに「新入生、あなたたちが入つて来る伝習館にはいろいろな問題
があります。現状を示すことによつて問題を把握して下さい。」と掲げ、同校内に
おける諸問題例えば生徒の制服問題、能力別クラス編成問題、コース制(就職クラ
ス、進学クラスの区別)体育祭、文化祭での生徒の自主的な取り組みの問題等が取
り上げられ、同校の実情を新入生に紹介し、これらの諸問題について一緒に考えよ
うというものであつた。
同部は編集会議で右特集号発行を決定するとともに原告P22にも寄稿依頼するこ
とを決定し、前記趣旨を同人に説明してその寄稿を依頼した。原告P22は右依頼
に応じて寄稿掲載されたものが、前記の「老いているであろう新入生諸君」と題す
る一文である。
また同部は、当時「伝習新聞」にコラムを設けて時事解説をシリーズものにして第
一〇二号では時事解説「パリ」を掲載した。そこで編集会議は当時マスコミをにぎ
あわせていたフランスのいわゆる五月革命、とりわけ学生運動の思想に関する紹介
記事を原告P22に依頼した。同人は自己の主観や或いは概念的説明よりも、当時
の学生の生まの言葉自体の方がより真実を伝えることができるとの考えに立つて、
その旨同部に伝えたうえフランスの学生運動の参加者が敷石や壁に書きつけた言葉
を編集した「壁は語る-学生はこう考える。」(J、ブザンソン編竹内書店刊)を
資料にして右資料の中の言葉を引用、列挙し一文を構成したものが前記「想像力が
権力を奪う」の一文である。
もつとも右記事では見出しで「想像力が権力を奪う、茅崎洋一」となつていて誤字
があるが原稿では右氏名はなく一番最後に「構成責P22」となつていたが新聞部
員の卒業による部員の交替によつて間違つたものと認められる。以上認定の事実を
覆えすに足りる証拠はない。
3 昭和四五年二月一〇日、原告P22が勤務時間中(放課後)に「国家幻想の破
砕を」と題するビラ(別紙四のとおり)を一伝習館高校の教師数人とともに)作
成、印刷し、同日午後四時ごろ同校内において生徒らに配布したことは当事者間に
争いがない。
証人L、同P11の各証言並びに原告P22本人尋問の結果によると、同年二月一
一日は建国記念日であつて休業日であるが、原告P22ほか同校教諭有志は同日伝
習館高校の会議室で同校生徒有志と「建国記念日」の歴史学的な評価と国家意識に
ついて討論会を開催した。右討論会には原告P22ほかL、P1、P2各教諭と生
徒五〇ないし六〇名が参加し、「建国記念日」の歴史的評価については原告Uが作
成した資料を配布して検討したほか原告P22が国家意識について講演しこれに関
し参加者で質疑したり討論がなされた。右のような討論会は昭和四二年ころから継
続して行なわれていたが、昭和四五年度は、福岡県高教組の伝習館分会会議で教育
研究運動の一環として支援はしていたものの右討論集会は右組合活動として行なわ
れたものではなくあくまでも同校教諭の自主的な教育活動として行なわれたもので
ありまた右討論会への参加の呼びかけも強制的なものではなく、生徒の参加も自主
的なものであつた。なお同校会議室の使用については同佼々長の許可を受けてはい
ない。以上の事実を認定できこれを覆えすに足る証拠はない。
(二) 原告Uの担当教科に於る教育活動
1 原告Uが昭和四四年度に伝習館高校の三年生の日本史の授業を担当し、日本史
の授業の当初に数時間にわたり毛沢東の思想やマルクスに関する授業を行なつたこ
と、そして同年度一学期の三年生の中間試験において「社会主義社会における階級
闘争について述べよ」「次の二題(テーマ一のうち一題を任意に選び論述せよ。ス
ターリン思想とその批判。毛沢東思想とその批判。」という試験問題を出したこと
は当事者間に争いがない。
被告は、日本史の右試験問題は本件学習指導要領の日本史の目標と関連がないと主
張し、原告らは試験問題から授業内容を推測する方法自体誤りであるとし具体的に
原告Uの日本史の授業内容を主張、立証するので、右試験問題に関連する限度でそ
の授業内容につき検討する。
前掲乙第一号証、成立に争いのない乙第二五号証、甲第四六号証、甲第五六号証の
二、証人P27、同P28、同P29の各証言並びに原告U本人尋問の結果を総合
すると次の事実を認めることができる。
前記日本史の中間試験は、同年五月三〇日に実施されたものであるが、右試験問題
は日本史試験問題の一部に過ぎないのでその全試験問題についてみると、次のとお
りであつた。
〔I〕 日本の原始、古代社会における土地、身分制度について論述せよ。
〔II〕 律令体制下における唐と日本との相関関係について述べよ。
〔III〕 讖緯説との関連において建国記念日を論ぜよ。
〔IV〕 社会主義社会における階級闘争について述べよ
〔V〕 次の二題(テーマ)のうち一題を任意に選び論述せよ。
A stalin 思想とその批判。
B 毛沢東思想とその批判。
右試験問題の〔IV〕、〔V〕に対応する授業は、原告Uの歴史観と昭和四四年二
月一五日福岡県高等学校社会科部会における九州大学名誉教授P23氏の講演「社
会主義社会における階級闘争」を同原告が受講しこれに示唆されたことに関連す
る。
すなわち原告Uは、前記三年生の日本史の授業開始にあたり歴史観の重要性に鑑
み、時代区分論の説明をした。右時代区分法として政権所在地によるもの、支配者
の交替に着眼したもの、歴史の変化、発展を社会構成体の継起的交替とみる唯物史
観等があること、これらの時代区分論は歴史観の具体的な表現にほかならないとし
て更に唯物史観の批判にも及んだ。
そして原告Uの唯物史観に対する考え方、即ち「唯物史観の現実的展開である社会
主義国家群そのものが矛盾に満ちたもので決して唯一絶対の正しい理論に沿つた歴
史が展開されているわけではない」との観点に立つて現在の社会主義国家であるソ
連や中国の指導者の思想や経済基盤、ソ連の計画経済、スターリン憲法、スターリ
ンからフルシチヨフさらにブレジネフにいたる過程、ユーゴのソ連からの離反、チ
エコ事件、また中国については一九四五年の中華人民共和国の成立から一九六二年
~六六年の文化大革命に至る経過の概略について授業をした。右授業を受講した生
徒も右〔IV〕〔V〕の試験問題と授業との関連を肯定しているが、生徒の一部に
は、日本史の試験問題として右〔IV〕〔V〕が出たことを全く予想外として受け
とめたものもあり、社会主義国家における指導者等の思想や国際問題はいわば時代
区分論、歴史観の説明との関連におけるいわば雑談的なものであると受けとめてい
た者もあつた。以上認定の事実を覆えすに足りる証拠はない。
およそ歴史学を研究する者にとつて歴史観が重要な意味をもち、日本の歴史につい
てそれぞれの時代をどのように区分し特色づけこれを構或するかは各歴史学者の歴
史観に影響するところが大きいことは否定できない。法的拘束力の点はともかく本
件学習指導要領の日本史の目標(2)は、日本史における各時代の政治、経済、文
化などの動向を総合的にとらえさせて、時代の性格を明らかにし、その歴史的意義
を考察させる。と規定されており右考察の前提として歴史観及び時代区分論の学習
も意義あることは明らかである。
また日本史の目標(5)では日本史の発展を常に世界的視野に立つて考察させ、世
界におけるわが国の地位や、文化の伝統とその特質を理解させることによつて、国
際社会において日本人の果たすべき役割について自覚させる。と規定され成立に争
いのない乙第四二号証(日本史の教科書)でも現代の項で中華人民共和国の成立を
めぐつて毛沢東について触れ、「国際状況の推移」の項で反ソ暴動や中ソ論争、さ
らに文化大革命等について叙述されている。しかし右はあくまで日本の現代史を学
ぶ際の、世界的視野に立つ考察として叙述されていることも明らかである。
原告Uが、歴史観及び時代区分論の授業において唯物史観を歴史学界における有力
な学説の一つとして説明すること自体は高校における日本史の目標、内容からみ
て、日本史の前記「目標」に抵触するとは言えないであろう。しかし証人P30の
証言にあるように、高校における日本史は、政治や経済あるいは思想の各部門のみ
を歴史的対象とするのではなく日本史の通史として日本の歴史の全体像を把握する
ものであつて、しかも本件学習指導要領の日本史の「内容」及び日本史の教科書
(乙第四二号証)も日本の文化を中心として叙述されている。
また歴史観及び時代区分論においても、大学教育等高度な研究機関でない高校の日
本史の教育では生徒の知的能力に応じたものであることが要請されるから、日本史
を学ぶにあたり歴史観といつた理念を先行させ強調すると生徒にその意図が正しく
認識されず、却つて日本史の正しい理解を妨げる結果ともなりかねない側面のある
ことも否定し得ないであろう。
原告Uの前記〔IV〕〔V〕の試験問題は、既に認定の原告Uの歴史観及び時代区
分論の授業を前提としても日本史との関連がはなはだ稀薄である。証人P30の証
言、並びに原告U本人も認めるごとく、右試験問題は、日本史の授業の中でも重要
と考えられる事項について出題し生徒の理解度を測定することに一つの重要な意義
がある。しかし、右問題は「社会主義社会における階級闘争について述べよ」とい
うものであつて日本史との関連性が全く欠落したまま出題されており歴史観との結
びつきも不明瞭である。「スターリン思想」「毛沢東思想」についても同様であ
る。
一年間を通じる長い日本史の授業の一環として、あるいは雑談的に或いは生徒の興
味をそそるため余談として、説明する場合と異なり試験問題は、その科目の評定と
結びつきひいては当該科目の単位の修得の認定につき重要な基礎資料となるから、
単に授業において講議したもしくは余談的に話した場合と同列に考えることはでき
ない。この点は後に学習指導要領の法的拘束力の及ぶ範囲と関連して述べる。
2 原告Uが昭和四三年度及び同四四年度において社会科の地理科目の授業を担当
し、同四三年度三学期における一年生の地理のテストに「公害と独占」「資本主義
社会と社会主義社会における階級とその闘争について」という試験問題を、昭和四
四年度における一年生の地理のテストに「社会主義社会における階級闘争」「st
alin思想とその批判」「毛沢東思想」という試験問題を各出題したことは当事
者間に争いがない。
成立に争いのない乙第二四号証同第二六号証、甲第四六号証原告U本人尋問の結果
によると次の事実を認めることができる。
前記地理Bの試験問題はいずれも当該年度に実施された問題の一部に過ぎないので
その全試験問題についてみると、次のとおりであつた。
昭和四三年度三学期一年生地理Bテスト(昭和四四年三月六日実施)
次の六問のうち任意に四問解答せよ。
〔I〕 日本の村落形成と現代の村落がもつ問題点-家族および地方権力からの解
放-
〔II〕 都市の機能と都市圏
〔III〕 公害と独占
〔IV〕 有明地域総合開発計画と問題点
〔V〕 日本林業の当面する課題
〔VI〕 資本主義社会と社会主義社会における階級とその闘争について
昭和四四年度一年生地理Bテスト
※ 八問のうち任意に五問を選び述べよ。
〔I〕 世界の人種差別と民族問題について
(A) White Australian Policy(白豪主義)
(B) Apartheid(人種隔離政策)
(C) アメリカの黒人問題
(D) 日本における社会的差別意識
〔II〕 自由主義国家群と社会主義国家群について
(A) 社会主義社会における階級闘争
(B) Stalin 思想とその批判
(C) 毛沢東思想
(D) 二つの世界の対立と中立主義国家群との関連
右「公害と独占」の試験問題に対応する授業がいかなるものであつたかについて
は、原告Uの陳述書(前掲甲第四六号証)及び原告らの最終準備書面における主張
(弁論の全趣旨として)以外にこれを立証する証拠がない。
右陳述書及び最終準備書面における主張等からすれば、原告Uは地理Bの授業にお
いて大牟田や水俣に発生した公害問題を取り上げ、公害発生の仕組、環境の変化等
を実例に即しながら説明したことを窺い知ることができる。
そして右「公害と独占」の独占とは独占的大企業を意味するものの如くである。し
かし公害と独占的大企業とが具体的にいかなる関係において出題されたかは右問題
のみから推認するのは早計であろう。
証人P31の証言並びに本件学習指導要領によると、高校地理Bは、いわゆる系統
地理学であつて、地理的事象を、空間関係の一般的な原理を追究することによつ
て、系統的に把握するもので、その基本概念は、分布、環境、地域にあるとされ
る。右公害が地理Bの教科目の範囲内の問題であることは同証人の証言並びに本件
学習指導要領の地理Bの目標及び内容に照らして明らかである。
ただ公害と独占的大企業とを結びつけて出題した趣旨やその前提となる授業が必し
も明らかではなく、「公害と独占」という試験問題が高校地理Bの試験問題として
適切か否かということはあつても地理Bの範ちゆうから逸脱していると断定するこ
とはできない。
次に前記〔VI〕、及び〔II〕の(A)(B)(C)の各試験問題について検討
する。
本件学習指導要領、地理Bの目標及び内容に照らしてみると右各試験問題は、少く
ともその問題自体からみる限り地理Bとの関連はないものといえよう。
原告Uは、この点につき地理の授業との関連を主張、立証するので必要な限度でそ
の授業内容を検討する。
前掲甲第四六号証成立に争いのない甲第四七号証及び原告U本人尋問の結果による
と、右試験問題並びにこれに対応する授業は、前記P23教授の講演が参考とされ
た。同講演はソヴイエト連邦、中国の産業構造の態様にも及んでおつたこと、即ち
ソ連については、五ケ年計画や新経済政策(ネツプ)などが一九三六年のスターリ
ン憲法、一九五六年のフルシチヨフによるスターリン批判、その後のブレジネフに
よる再スターリン化(新スターリン化)との対応でどのように変ぼうして行つたの
かについて詳しく触れた。
そこで原告Uは地理Bの授業において高校地理Bの教師用の指導参考書並びに右講
演内容をも参考とし右の五ケ年計画や新経済政策について、さらにこれらが農業国
ソ連から工業国ソ連へと変化する原動力となつたこと、スターリンの経済的刺激の
付与による生産力向上政策を基盤にしていること、この工業化政策のため農業の成
長率が低く押えられたこと、また労働者の賃金格差が現われてきたことを述べ、こ
れらの問題が、一九三六年のスターリン憲法、一九五六年のフルシチヨフによるス
ターリン批判、その後のブレジネフによる再スターリン化との対応でどのように変
化していつたのかについて授業をしな。
中国については、前記高校地理Bの教師用指導参考書及び右講演をも参考とし、中
華人民共和国成立後の中国の工業及び農業について説明し一九五三年の五ケ年計画
とか、一九六二年に端を発した毛沢東政権主流派の思想統一、異端者粛清の運動は
文化大革命と発展し、それまで中国の重工業化政策を推進し、自留地、自由企業、
自由市場、請負農業などの政策を実施してきた劉少奇らが走資派として批判され、
農業の重要性が強調され、官僚制が否定されて幹部も労働をする、賃金の格差をな
くするといつたソ連の制度とは異なる諸政策が行なわれるようになつたこと、同時
にソ連に対する依存が急速に低くなり中国は独自の経済体制をもつようになつたこ
と、等を授業した。毛沢東の思想をとりあげたのは、中国の産業構造の変遷と関連
するからであつてこのことについて授業をすると同時に試験問題として出題したこ
とを認めることができ、右認定に反すか証拠はない。
右のごとき原告Uの地理Bの授業を前提として前記各試験問題を検討するに、「資
本主義社会と社会主義社会における階級とその闘争について」及び「社会主義社会
における階級闘争」は、原告Uの指摘する本件学習指導要領の地理Bの「内容」
(12)の国家・国家群または高校地理Bの教科書及び同教師用「指導参考書」の
内容を検討しても、高校地理Bあるいは地理学との関連が極めて稀薄であるばかり
でなく高校地理Bの試験問題として出題した意図も、原告Uの主張に拘らず、明ら
かとは言えない。証人P31の証言によるも右の設問は高校地理Bの学習目標に逸
脱するとされ、これを覆えすに足る証拠もない。
以上の次第で本件学習指導要領の地理Bの「目標」「内容」からみて右各設問はい
ずれも地理Bの範ちゆうに入らないと解するを相当とする。
「スターリン思想とその批判」「毛沢東思想」の各設問は、原告Uの前記授業を前
提とするならば、ソ連、中国の産業構造についてスターリンの思想、あるいは毛沢
東の思想が影響を及ぼし得ることは否定できないことから地理学に関連して地理学
の対象ともなりうる場合のあることは、証人P31の証言によつても首肯しうる。
しかし地理学が、地理的事象を、空間関係の一般的な原理を追究するものである限
り右各設問も地理学との関連は比較的稀薄であるといえよう。ことに高校地理Bの
試験問題として、これを重要視して出題することは(単なる授業における説明にと
どまらず)本件学習指導要領の目標、内容ことに国家・国家群の項を重視したとし
ても、行き過ぎであるとの批難を免れないであろう。
(三) 原告Tの担当教科に於る教育活動
1 原告Tが昭和四四年度に伝習館高校の三年生の政治・経済の授業を担当し、そ
の授業においてヴエトナム、朝鮮、米偵察機撃墜事件などの問題を取り上げて解説
しまた生徒の意見発表を求めたことは当事者間に争いがない。
右事実をもつて高校の政治経済の科目と関係がないとはいえない。即ち前掲乙第一
号証本件学習指導要領の政治・経済の目標(5)には「国際関係の基本問題を理解
させ、国際社会におけるわが国の政治的および文化的地位の認識とその使命を自覚
させ、国際協力を進め、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする態度を養
う。」とあり同科目の内容(4)の中には「国際政治・経済の動向」とあり、右ヴ
エトナム問題、朝鮮問題、米偵察機撃墜事件(北朝鮮上空)等はいずれも戦後の国
際政治における世界的関心事であつてわが国政治・経済にも関連を有する問題であ
ることは明らかである。現に成立に争いのない乙第四一号証(政治経済の教科書)
においてもヴエトナム問題の叙述があり、成立に争いのない甲第三五号証(政治経
済資料集)でも朝鮮戦争、インドシナ戦争、ヴエトナム戦争の記述がある。
被告は、原告Tが、右諸問題を取り上げた授業において、著しく恣意的かつ独善的
な時事評論であつて、生徒に対し特定の立場から政治評論的授業をしたことを主張
し問擬している。
そこで原告Tのこれらの政治経済の授業の実態につき必要な限度で検討する。
成立に争いのない甲第四五号証、証人P27、同P32同P28の各証言並びに原
告Tの本人尋問の結果を総合すると次の事実を認めることができる。
原告Tは、政治経済の年度当初の授業で、生徒に教科書の構成を説明し、教科書中
I、日本の政治、II、日本の経済については教科書の配列に従つて授業を進める
こと、III、労働関係と社会福祉、IV、国際関係と国際協力の単元では、右
I、IIと関連する事項のとき及びIII、IVと関連する事件が発生したときに
新聞のスクラツプ、統計資料等を使用して随時授業を行なう方針であることを説明
した。
そしてヴエトナム問題に言及したのは、教科書第一章4、政治機構のなかでフラン
スの政治機構を説明する際に、フランスの戦後の歴史の概略を説明したとき合せて
ヴエトナム問題について触れ、二回目はヴエトナム戦争が激化し、ケサン、ユエ等
の都市から米軍が撤退する噂さが新聞報道されたときに新聞記事等を素材として時
事問題として解説した。その際、ヴエトナムのゴ・ヂエン・ヂエム大統領はアメリ
カのカトリツク教会で執事をしていたことを説明した。また朝鮮戦争については戦
後のアジア体制の説明のとき及び米偵察機が北朝鮮上空を侵犯して撃墜された事件
が新聞報道されたころ時事解説として授業で取り上げたがその際、アメリカがヴエ
トナム戦争で行き詰つたのでその打開のため朝鮮に戦場を求めようとしそのため米
偵察機撃墜事件が発生したとのこと、李承晩大統領が戦前からアメリカに亡命して
おり終戦直前にアメリカで朝鮮の仮政権を樹立したこと、朴大統領が日本の士官学
校の出身者であること等をも説明した。以上認定の事実を覆えすに足る証拠はな
い。
証人P33の証言中には、「朴大統領は、アメリカが南朝鮮を自由にあやつるため
にアメリカに来ていた下層階級の朝鮮人をかいらいとして坐らしたものだ。」との
供述部分があるが右は原告Tの本人尋問の結果に照らし措信できない。なお乙第三
四号証の四、9は、供述した生徒の氏名が不明であつて措信できない。
2 前掲甲第四五号証、証人P27、同P32同P29同P28の各証言並びに原
告T本人の尋問の結果によると次の事実を認めることができる。
原告Tは、昭和四四年度の三年生の政治経済の一年間の授業において、各国の政治
形態の説明及び経済等に関連し多数の書物を紹介し、生徒らが自主的な学習をすす
めるための参考とした。そしてあるときは著書の立場や特徴点を解説する場合もあ
るが、単に授業のあと、その授業に関連し書物の題名のみで内容の紹介のない場合
もあつた。いずれにしても生徒に対する書物の紹介は、生徒に対し課題を命じるも
のではなく自主的な学習をするときの一つの参考図書として紹介したに過ぎなかつ
たから、前掲証人らも書物の紹介に応じて幾冊か読んだ生徒もいる程度であつて一
般的に生徒が右紹介図書を多数読んだものとは言えない状況であつた。原告Tの紹
介にかかる図書を列挙すると別紙五のとおりである。右認定を覇えすに足る証拠は
ない。
三 処分事由に対する法的評価
(一) 原告P22について
被告は前記「夢幻の呪詛」「老いているであろう新入生諸君」「想像力が権力を奪
う」及び別紙四のビラの各文がいずれも学校教育法第四二条並びに本件学習指導要
領の道徳教育の目標に違反すると主張するので以下順次検討する。
1 「夢幻の呪詛」について
本文は既に認定のとおり伝習館高校演劇部の公演パンフレツトの中に掲載されたも
のであり、その文章内容全体を見れば原告P22の演劇論であることが理解され
る。
ただ右文章自体、原告P22も自認するごとく同人独自の用語の使用法及び文章構
成等において難解なものとなつており、まして高校生が右文章を読んで全体的な把
握が出来ると解されないことは容易に推認しうるところである。
従つて読者によつては文章の一部分を重視しこれを文章の全体的な意味として受け
取る虞れもあり得ると考えられ、証人P11、同P9、同P10、同P16らはか
つて伝習館高校の生徒であつたが、これらの証言によるも右文章の意味を十分理解
しているとは言えず、右P11、P10は漫然と演劇論であつて意識の革命につい
て論じたものとの受けとめ方をしているが右P16は、「犯罪」とか「革命」とか
の文字が出ていて異常な感じを抱き、P22先生は革命論者ではないかという話を
友人としたことがある旨証言している。証人P34の証言にあるように、右文章が
高校生を対象とするクラブ活動の一環である以上、まず高校生の理解能力の程度を
知つたうえで生徒が如何に受け取るであろうか、教師が生徒に何を理解させようと
したのであるかといつた教育的配慮を十分考慮する必要があろう。右文章が「指導
助言」の対象となり得ることは否定できない。
しかし、それはともかく、右文章を全体的に見れば、生徒に対し、現実の我国の政
治、経済体制を暴力的に破壊するいわゆる「革命」を煽動し、現在の法体制を破壊
し、あるいは民主々義国家、社会における法の支配の基本原則を否定することを勧
める内容を有するものではない。虚無的、比喩的に「革命」を礼賛する部分はある
が、右文章のいずれをとつても現実の政治制度法秩序を具体的に批難しこれが改革
について暴力による革命を煽動した部分は見当たらない。
右文章が学校教育法第四二条及び道徳教育の目標に違反するとの被告の主張は、採
用できない。
2 「老いているであろう新入生諸君」「想像力が権力を奪う」について右「老い
ているであろう新入生諸君」は既に認定のとおり、新入生に対する伝習館高校の実
情を紹介する特集号の中に掲載されたものであり右特集号の趣旨に応えて、原告P
22が「新入生諸君は高校生活に対する甘い幻想、甘い認識を捨て、高校生活の現
実を直視し、主体的に高校生活を生き抜くよう。」にとの意味で新入生に呼びかけ
たものである(原告P22本人尋問)。
原告P22独特の文章体と極端な表現(一切を拒絶する、学校生活を憎しみ抜く
等)を使用しているところから被告が指摘するような不適切な表現あるいは一見高
校生を軽蔑しているかの如き部分のあることは否定できないが、
全体的に見れば前記特集号発行の趣旨及び原告P22の右呼びかけの趣旨に沿つた
ものと解される。
しかし右文章が革命を煽動し、現在の法体制を破壊することを勧める文章でないこ
とは容易に理解することができる。
次に「想像力が権力を奪う」の一文について。
右一文は既に認定のとおりの経緯によつて、原告P22がフランスの学生運動の思
想を、当該学生達が敷石や壁に書きつけた言葉を編集した「壁は語る-学生はこう
考える。」(Jブザンソン編竹内書店刊)を資料として、その資料の中の言葉を引
用、列挙して一文を構成し、これを新聞部の要請に応じて当時のフランス学生運動
の紹介として「伝習新聞」に寄稿掲載されたものである。
右一文の中には被告の指摘するとおり「革命は存在することをやめて実存すべきで
ある」「法律を破ることだ強行しよう」、「誰も考えたことのない思想に危険をお
それず頭をつつこめ!」「通りの舗石をはぐことは都市計画破壊の手初めである」
「君たちの乳母(学校を意味する)を強姦せよ、もうすぐに魅力的な廃嘘」等の文
章があり、法律を破り、暴力革命を煽動する趣旨ととれなくはない言辞が羅列され
ている部分がある。
しかしまた原告らの指摘するように右一文の中には種々雑多なしかも断片的な思い
つきの言辞が多数列挙されており、到底論理的な一つの体系的な思想を叙述した文
章とは理解し得ない部分も多い。
それはフランスの当時の異常な学生運動の参加者たちの無責任な落書きを素材とし
て編集された前記文献を基礎として一文を構成したことに多く原因があるものと推
認される。そうであるとすると、原告P22が右一文と同様の思想をもち、これを
生徒に紹介することによつて法秩序破壊、革命を煽動したと見るのは妥当でない。
しかし右一文は、新聞部によつて寄稿依頼されたとは云え、法秩序破壊を煽動する
言辞を含み高校生として論理的に理解困難ないわば感性的な文章を高校新聞に寄稿
することは、学生運動の紹介としても高校生の教育活動の一環として不適切である
といい得よう。
証人P34の証言するごとく、高校生の理解能力をもつてしては、右一文の部分的
言辞をとらえ、あたかも原告P22も同じ思想を代弁したものと誤解することもな
いとは云えないのであつてみれば、
伝習館高校全生徒に配布される「伝習新聞」に右の如き内容を含む文章を掲載する
ことは「構成責P22」と断つていることを考慮しても高校生に対する教育的配慮
を欠いたものとの批難を免れないであろう。
従つて右一文を寄稿したことは、学校教育法第四二条、本件学習指導要領の道徳教
育の目標に違反した(法的拘束力の有無は別として)とまでは云えないにしても、
指導助言行政の対象となりうるであろう。
3 国家幻想の破砕を、と題するビラについて
右ビラの内容は別紙四のとおりである。右ビラに対応する二月一一日の討論集会は
既に認定のとおりである。右討論集会の内容を考慮し右ビラの内容の意味を探究す
ると、要するに、「建国記念日」は歴史学的に見れば問題があるとしてその歴史的
な評価と「国家」または「国家意識」とは何かを学問的に分析し討論しようではな
いかとの、討論集会への呼びかけをしたものである。「国家幻想の破砕を!」とい
う表現は前記原告P22の各文と類似しおそらく同人の発案にかかるものと窺い得
るが、結局、国家意識-それを甘美なものとする観念があることを前提としこれを
学問的に研究対象としよう-について討論集会をしようとの呼びかけを、生徒らに
アピールするための大げさな表現となつたものと推認しうる。
従つて右ビラの内容だけをもつて「生徒に対し建国記念の日の否定及びこれに藉口
して「国家幻想の破砕を」呼びかけ、いたずらに法律無視反国家ないしは反権力と
いう特定思想の鼓吹を図つたものとして学校教育法第四二条所定の高等学校におけ
る教育目標に反する」、との被告主張はたやすく採用できない。
(二) 原告Uについて
1 原告Uの前記日本史の試験問題(「社会主義社会における階級闘争」、「スタ
ーリン思想とその批判」、「毛沢東思想とその批判」)が高等学校における日本史
の試験問題としては、日本史との関連が極めて稀薄であること、換言すれば日本史
の目標を逸脱していることは既に認定したところである。
本件学習指導要領の法的拘束力の及ぶ範囲については前叙のとおりであるところ、
高等学校における全課程の修了の認定を受けるには、「高等学校学習指導要領の定
めるところにより八五単位以上を修得」しなければならないとされ(学校教育法施
行規則第六三条の二、本件学習指導要領第一章第二節第四款)各教科、
科目についての単位の修得の認定は「生徒が学校の定める指導計画に従つて教科、
科目を履修」その成果が教科、科目の目標からみて満足できると認められる場合」
になされるものと規定されている。(本件学習指導要領第一章第二節第三款)
そして右単位修得の認定にあたつては生徒の「平素の成績を評価して、これを定め
なければならない」とされている
(学校教育法施行規則第六五条一項、第二七条)。
ところが原告Uは前認定のとおり日本史の目標から逸脱した事項を試験問題として
出題し、これを日本史の単位修得の認定についての基礎資料の一部としたところ
に、本件学習指導要領の法的拘束力のある「単位修得の認定」に関する条項に抵触
したこととなり、法令遵守義務に違背したと解するを相当とする。
2 原告Uの前記地理Bの試験問題(「社会主義社会における階級闘争」「スター
リン思想とその批判」「毛沢東思想」)が高等学校の地理Bの目標、内容からみて
同科目の範ちゆうに入らないか少くとも同科目の目標との関連性は稀薄であること
は既に認定したとおりである。
従つて日本史について前叙したと同様の理由によつて、本件学習指導要領の法的拘
束力ある「単位修得の認定」に関する条項に抵触したこととなり、法令遵守義務に
違背したと解するを相当とする。
(三) 原告Tについて
1 原告Tの前記ヴエトナム戦争、朝鮮問題、北朝鮮上空での米偵察機撃墜事件に
関する授業は、高等学校の「政治・経済」の目標及び内容に照らし、当該科目の範
ちゆうの事項であることは既に認定したところである。
被告は、右諸問題に関する原告Tの授業内容そのものを問題としている。
教育基本法第八条には「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊
重しなければならない。」「法律に定める学校は特定の政党を支持し、又はこれに
反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」と規定され、本件
学習指導要領の「政治・経済」の「指導計画作成および指導上の留意事項」(5)
では右条文をうけて注意的に「政治に関する事項の取り扱いについては、教育基本
法第八条の規定に基き、適切に行なうよう特に慎重な配慮をしなければならな
い。」と規定されている。
原告Tの前記ヴエトナム戦争、朝鮮問題、米偵察機撃墜事件等の授業内容は特定の
政党、政治団体の支持又は反対のためのものとまでは認め難く、
その他右教育基本法第八条に抵触するとは認め得ない。
しかし米偵察機が北朝鮮上空で撃墜された事件を、アメリカのヴエトナム戦争の行
き詰りによつて「その打開のため朝鮮に戦場を求めたもの」との説明は、どの様な
客観的資料に基いての発言であるか本件訴訟資料からこれを見い出すことはできな
い。
アメリカのヴエトナム戦争や米偵察機の北朝鮮侵犯がわが国の新聞報道等において
批判されていた事実は公知の事実であるとしても、「政治・経済」の授業における
原告Tの右説明は自己の主観的見解を先行させ客観的分析を欠きその結果科学的真
理に乏しいものとして政治関係事項の取り扱いについて「適切に行なうよう特に慎
重な配慮をしなければならない。」との条項に反するものと評価しうる。
もつとも右条項部分(適切に行なうよう特に慎重な配慮をしなければならない。)
は法的拘束力がなく訓示規定と解し得るから、これをもつて直ちに懲戒処分の対象
とはなし得ないが、指導助言行政の対象とはなりうるものと解される。
2 原告Tが「政治・経済」の授業において生徒に紹介した図書は参考図書として
掲げたちのであつて、右図書を全部読書することを課題としたものでないことは既
に認定のとおりである。
仮りに右紹介図書を読書すべく課題として命じたものであるならば、本件学習指導
要領並びに証人P34の証言に照らし、紹介図書が、高校における「政治・経済」
の学習上あまりにも多量に過ぎること、また高校生の「政治・経済」の目標及び内
容に照らし、日本の政治、経済の理解のためにはより基本的事項に即した参考図書
を紹介するのが適切であり、前記参考図書は、高校生の知的発育程度を前提とする
限り程度が高度に過ぎる書物もかなり含まれておりその内容も政治学、経済学に関
するものから歴史学、哲学、思想、文学といつた多方面に及んでいる。(もつとも
これらの書物が学問的にみて政治学、経済学の研究にとつて有意義であることを否
定するものではない。)
従つて高校生を対象とする限り質的にも量的にも過重負担となることは明らかであ
ろう。しかし事実は、原告Tが、生徒に対し、自主的な学習をするときの参考とし
て紹介しかに過ぎない。
被告は右紹介図書の一部を把らえて特定の書物であるとし本件学習指導要領違反を
主張するが、それらの書物はソ連や中国の政治、
経済に関連する図書として紹介したに過ぎないことが推認されるから右主張は理由
がない。
(成立に争いのない甲第六三号証の一ないし五によると世界史の教授資料の中に1
別紙五の紹介図書中○印のついた書物を参考図書として掲げていることが認められ
る。)
第三 学校教育法第五一条(第二一条)と原告ら三教諭の教育活動
一 学校教育法第五一条(第二一条)の意味
(一) 学校教育法第二一条一項の沿革
学校教育法第二一条一項は「小学校においては、文部大臣の検定を経た教科用図書
又は文部省が著作の名義を有する教科用図書を使用しなければならない。」同条二
項は「前項の教科用図書以外の図書その他の教材で、有益適切なものは、これを使
用することができる。」と規定され、同法第五一条で右二一条の規定が高等学校に
準用されている。
昭和二三年学校教育法制定当時の本条一項は「文部大臣」とは規定されず「監督
庁」とされていたが、「監督庁」は「当分の間これを文部大臣とする」(第一〇六
条一項)と読み替えられていた。
これは、教育委員会法(昭和二三年法律第一七〇号)で都道府県教育委員会に教科
書検定権を付与し(同第五〇条一、二項)「用紙割当制が廃止されるまで」暫定的
に文部大臣が検定権を行使することを認める(同第八六条)旨の規定を置き、ま
た、私立学校法(昭和二四年法律第二七〇号)でも都道府県知事が私立学校(大学
を除く)教科書の検定権を有する(同第七条一、二項)「用紙割当制が廃止される
までは」文部大臣が検定事務を行なう(同付則一三)体制をとつていたことからす
ると、原告ら主張のごとく、戦前の国定教科書制度、中央集権的画一主義を反省
し、戦前は許されなかつた準教科書、副読本など各種教材の自由使用を認め軍国主
義の復活を阻止し、地方の実情に即した多様な教科書の出現を期待したのである
が、当時は教科書を含め用紙が極端に不足し、かつ教育委員会の組織化も遅れてい
たことから直ちに各地の教育委員会に検定をまかせることは公平な用紙割当ができ
ないおそれもあつたことから、文部大臣に当分の間、右検定の権限を付与していた
ものであろう。
しかし昭和二七年四月一日以降用紙割当制は廃止されたが、検定権限は教育委員会
には移行されず、昭和二八年(法律一六七号)に至り「監督庁」は「文部大臣」と
改められ、都道府県の教育委員会の教科書検定権が否定され、更に昭和三一年地方
教育行政の組織及び運営に関する法律によつて教育委員が従前の公選から都道府県
知事の任命制に改められ教育内容に関する法制の転換が行なわれた。
(二) 教科書の使用義務について
学校教育法第二一条一項(第五一条以下省略)に関し、原告らは教科書使用義務を
肯定したものでない旨主張するが、同条一項の文言上、教科用図書((1)文部大
臣が検定したもの(2)文部大臣が著作権を有するもの)を使用しなければならな
いことは明らかであるのみならず、教科書の検定制度がとられ(教科用図書検定規
則一)教科書の使用を教育委員会の採択にかからしめまた教科書以外の教材の使用
につき届出制又は承認制の定めを設けることとしている(地方教育行政の組織及び
運営に関する法律第二三条六号、同法第三三条一、二項)ことおよび教科書法の存
在等の教育法制度をみても教科書使用義務の肯定を前提としている。従つて学校教
育法第二一条一項は、検定又は著作教科書がある場合には、教師は当該科目の教育
活動において、必ず教科書を教材として使用しなければならず、使用される教科書
は検定教科書か文部省著作教科書でなければならないことを規定したものである、
と解するを相当とする。このことは、学問の自由に関して高校以下の普通教育で述
べた教育の機会均等の要請、全国的な一定水準維持の要請、子どもの側から学校や
教師を選択する余地が乏しいこと等からも裏付けられるものであろう。
しかし、教科書を使用するという場合、教師が現実の教育現場で教科書を教材とし
てどのように活用した場合に、はたして「使用した」ということになるのか、つま
り教科書の使用の仕方や補助教材との使用上の比重等については、原、被告間に著
しい見解の相異がある。
被告は、教科書の使用形態は、「教科の主たる教材として、教授の用に供せられ
る」べきこと、すなわち、「教科書」とは「学校において、教科課程の構成に応じ
て組織排列された教科の主たる教材として教授の用に供せられる児童又は生徒用図
書」(教科書法第二条)として法律上観念されていることからも明らかなとおり、
学校教育法第二一条の教科書使用義務の本来的意義は、教師に対して、当該教科、
科目の教授に際しては、検定教科書を主たる教材として使用すべきことを命ずる点
にあるとし、このような検定教科書の使用義務は、学習指導要領の法的拘束性とと
もに教育の公的性格に由来する旨主張する。
そして具体的には(イ)教授方法において教科書が主たる教材として活用されてい
るか否か、当該授業に使用される諸教材の中で教科書が常に中心的教材として使用
されているか否か、(ロ)授業内容の面でも、教科書の内容に従つていることを必
要とする旨主張するので判断する。
教科書法は、「現在の経済事情にかえがみ、教科書の需要供給の調整をはかり、発
行を迅速確実にし、適正な価格を維持して、学校教育の目的達成を容易ならしめる
ことを目的」としたもの(第一条)であり、主として文部大臣と教科書発行者との
関係を規律したものであるから同法上の教科書の定義をもつて学校教育法第二一条
一項の教科書使用義務ひいては使用形態を演鐸することは困難であろう。
思うに、教科書使用義務を肯定することは、教師が当該科目の教育活動において教
科書不使用と評価された場合、任命権者によつて地方公務員法上義務不履行として
懲戒処分の対象となることを意味する。
元来教科書は、教材の一つではあるが、著者によつて一定の価値基準に基いて教育
素材の選択、組織化が行なわれ、一つの体系化された内容を有するところに特色が
ある。一面、教科書検定は、申請図書の発行の事前における内容審査をともなう裁
量的許可制であるから検定基準によつて審査され場合によつては検定不合格とされ
る限度においては文部大臣による教育内容統制下にあることは否定できない。他
面、教科書は当該科目の先達である著者がその科目の全般にわたり研究の成果を体
系化したものであるから優れた教科書ほど教師にとつても生徒にとつても適切な教
材たりうるが、優れた教科書の存在のみでは教育の成果は期待できない。何故なら
教育は教師と生徒との間に展開されるものであるから特定の教育目的を達成するに
ついても、生徒の資質、理解力等の実情に即して、生徒の潜在能力を顕在化し、開
花せしめたるための教育の方法、手段は多様であり、そこに教師の創意工夫が要請
される所以がある。
もしかりに、教師が体系化の完成したいわば規格品である教科書にのみ頼り、単な
る教科書の棒読みや個々的な単語の説明に終つたり或いは教科書に書かれた内容に
拘束され学問的見地に立つた反対説につき検討することを許さないとすればそこに
真の教育が成り立ち得るであろうか。
教科書に絶対的な価値を認め号ことは戦前の国定教科書の例に照らしても危険を包
含している。以上の次第で教科書法上「主たる教材」であることから諸教材の中で
中心的教材として使用する義務を肯定することはできず、教科書の教え方や補助教
材との使用上の比重等は教師の教育方法の自由に委ねられているものと解するを相
当とする。
他方原告らは教科書の使用とは、教師が授業において説明した内容が客観的に、な
いし結果的に教科書の内容に相当している場合をいうものと主張し、具体的には、
(イ)教科書を年度初めに家庭において予め通読させておいたり、あるいは各授業
時間の前に予習させておく。(ロ)資料集中に教科書に掲載されている史料と同一
の史料が形態を違えてある場合にこれを利用する。(ハ)教科書内容も含めて授業
用ノートあるいはプリントを作成し、これに基いて授業を行なう場合。(ニ)授業
の最初に教科書の該当部分を読み、その後、その項目に関する講議、説明討論等を
行なう場合、等においては爾後授業時間中一度も教科書を開かず、生徒にとつて現
在の授業が教科書のどこと対応しているか判然としない場合でも客観的に教科書内
容に相当していればよい、とするので判断するに、
学校教育法第二一条が教科書使用義務を規定している以上、教師が当該科目の授業
において、教科書を教材として活用せず、教科書以外の副読本や資料集その他の教
材のみを用いてなした教育活動が客観的にあるいは結果的に教科書内容に相当して
いる場合であつても、それを目して教科書を使用したとはいえないが、右主張
(ロ)ないし(ニ)の場合には教科書を使用したとの評価をなし得る場合であろ
う。
教科書を使用したといいうるためには、まず教科書を教材として使用しようとする
主観的な意図と同時に客観的にも教科書内容に相当する教育活動が行なわれなけれ
ばならない。右の両者を併せもつとき初めて教科書を教材として使用したといいう
るであろう。もつとも一年間にわたる当該科目の授業の全部にわたり右の関係が維
持されていることを厳密に要請されるとは言えず要は当該科目の一年間にわたる教
育活動における全体的考察において教科書を教材として使用したと認められなけれ
ばならないということであろう。
従つて或る授業時間のみを把えれば教科書内容以外の講義(客観的に)や教科書以
外の研究書や資料を教材とし(主観的に)教科書内容に相当する教育活動が行なわ
れたとしても、それのみを目して教科書使用義務違反とみるのは非常識である。
学校教育法第二一条一項の教科書使用義務の意味を以上のように解すれば、教師の
教育活動における創意、工夫、自主性の要請を阻害する虞れはなく、教育基本法第
一〇条一項の教育に対する不当な支配とはなり得す、憲法第二三条の学問の自由、
第二六条の教育を受ける権利を侵害するとは到底言えないので、原告らの教科書使
用義務がないとの主張は採用できない。
二 原告らの教科書「使用」の存否
(一) 原告P22の場合
原告P22が昭和四三年度及び同四四年度において倫理社会及び政治経済の授業担
当を命じられていたこと、右各教科については、被告が採択し伝習館高校において
使用が決定された教科書(「倫理社会」実教出版株式会社発行-昭和四三、四四年
度「政治、経済」教育図書株式会社発行-昭和四四年度)があつたことは当事者間
に争いがない。
1 成立に争いのない甲第五四号証、証人P11同P9、同P10の各証言による
と次の事実を認めることができる。
原告P22は、昭和四三年度の倫理社会(二年生)の最初の授業時間において高等
学校における社会科、「倫理社会」の科目の性格を批判科学として位置づけられて
いること、倫理社会の学問対象は教科書の記述内容にとどまらず生活全般である旨
説明し、以降の授業においては、教科書は単に知識の羅列であつて各自家庭で読め
ば理解できる筈であるから授業時間中は教科書の記述を読んだり或いは指示する形
では授業を進めず生活全般を学問対象として行く旨説明し併せて教科書は各自家庭
で読むよう指導した。
原告P22自身が倫理社会の授業の目標としたところは、自由な批判主体の形成を
目指し、そのため生徒が自分の存在と意識を対象化する視座と方法を生徒が自ら獲
得しうるよう努めることに主眼を置きその授業の方法はいわゆるソクラテス的方法
に学びこれを実践することにあつたといえる。
そして現実の授業においては昭和四三年度同校二年のP11のクラスではその内容
構成は、思想史的なものとして、古代ギリシヤ思想、ソクラテスの自殺の意味、ポ
リス、プロタゴラスの人間万物尺度論、キリスト教、唯一神・超越神、近代的自我
-デカルトを中心に、現代思想-実存主義とマルクスを中心に、また歴史的、社会
的なものとして、わが国の家族制度、旧民法、国家、天皇制、部落問題、現代社会
の疎外等、その他人間存在の矛盾と苦悩の問題をテーマとした授業内容であつたが
必ずしも体系的な授業ではなく断片的で生徒が予習したり復習したりすることは講
義内容の形而上性と相まつて困難であつた。
そして右授業の教材としては、教科書は用いず、例えば現代社会と疎外においては
チヤツプリン演ずる映画「モダンタイムス」を題材とし、「人間存在の矛盾と苦
悩」では梶井基次郎著「桜の木の下には」魯迅著「狂人日記」等の文芸作品や評
論、雑誌、新聞等多種多様なものを教材として選択し使用した。そして試験問題
も、原告P22が倫理社会の目標とした前記の考えに立脚し、一学期にはエリワヒ
フロムの文章を二学期は魯迅の作品中から「賢人と馬鹿と奴隷」の文章を三学期は
「自由について」というテーマを各出題した。
同年度同校二年七組(P9)の倫理社会の授業においても教科書を用いて授業を行
なわなかつたこと、授業の方法、内容構成は曲記P11のクラスと大同少異であ
る。
昭和四四年度の倫理社会における原告P22の授業目標、教材の使用、授業内容構
成は、昭和四三年度との間に変化は見られない。すなわち教科書については、授業
の最初に、倫理社会の性格を説明すると共に、生徒各自が家庭で読むよう指導し授
業においては教科書の記述内容を指示したり読ませたりすることは一切なかつた。
授業方法は、その導入において本の紹介や説明、単語(概念)の板書や説明、生徒
への質問や討論、講義等多岐にわたつていた。
講義の内容は、価値の相対性(美意識について)、歴史的認識の相対性(アメリカ
大陸の発見)主体的思考の必要性(サルトルとフランスの一青年の会話)宗教(新
興宗教、親鸞、キリスト教等)女性問題(青鞜社運動、ボーボワール、魯迅著「ノ
ラは家出してどうなつたか」)民主々義、自由について、ソクラテス、デカルト、
マスコミ、疎外について、その他の思想及び思想家に関するものであつた。
概略以上のような授業方法及び内容であつたから原告P22はもちろん生徒も倫理
社会の教科書は一学期の初めころは教室に持参していたが、その後殆どの生徒が教
科書を持参しなくなつた。以上の事実を認めることができ、証人P15同P16の
各証言はその内容について記憶が曖昧であつて全面的には措信し難いが、前記認定
に抵触するものではなく他に右認定に反する証拠はない。
成立に争いのない乙第四三号証及び本件学習指導要領によると、原告P22の前記
倫理社会の授業内容が、客観的には教科書の内容即ち、第一章人間と社会、第二章
日本の社会、第三章現代社会の特徴と問題、第四章現代の思想、第五章人間の自覚
のあゆみ、第六章自由のいずれかに相当しあるいは関連するものではある。しかし
教科書を教材として使用したといいうるためには主観的、客観的な要件を必要とす
ることは前叙のとおりであるところ原告P22の前記認定の倫理社会の授業におい
ては主観的にも客観的にも教科書を教材として使用したとは到底言えない。
教科書を生徒各自が家庭で読むよう一応指導はしているが、これは課題として(例
えば次の授業時間までに何頁までを読むことを指導し、その内容に関連して授業を
進めるような場合)なしたものとは認められないから右をもつて教科書を使用した
ということができないのは当然である。
また前記授業内容が「倫理社会」の内容に相当ないし関連しているがこれは教科書
を教材として使用した結果ではなく、原告P22の指導計画に基づく「教科書を教
材としない」授業が、結果的には倫理社会の内容に相当ないし関連したものという
ことができる。
2 成立に争いのない甲第三一号証甲第三五号証甲第五四号証と証人P18の証言
によると、原告P22は昭和四二年度(三年六組)の政治経済の授業においては講
談社発行の教科書「標準高等政治・経済」及び社会科教材研究会編、啓隆社発行の
「政治・経済資料集」を教材として同科目の授業において使用したことを認めるこ
とができ右認定に反する証人P17の証言は措信できない。
なお原告P22の昭和四三年度及び同四四年度における政治・経済の授業において
教科書を使用しなかつたとの証拠は乙第三四号証の二38(成立についてはO、Q
の証言)以外になく右証拠は、伝聞であるうえ生徒名不詳のものであつてその内容
もたやすく措信できない。
却つて弁論の全趣旨により成立を認める甲第一、二号証並びに昭和四二年度政治経
済の授業で教科書を教材として使用している事実からすると昭和四四年度の政治・
経済の授業においては教科書を使用したことを認めることができこれを覆えすに足
る証拠はない。
(二) 原告Uの場合
原告Uが昭和四四年度、日本史の授業担当を命じられていたこと右教科については
被告が採決し伝習館高校において使用が決定された教科書(「詳説日本史」株式会
社山川出版社発行)があつたことは当事者間に争いがない。
成立に争いのない甲第二七号証、甲第四二号証甲第四六号証甲第五〇号証乙第三八
号証の一ないし五六原告U本人尋問の結果成立を認める甲第三三号証の一ないし四
一及び甲第五三号証、証人P27、同P9、同P28、同P29の各証言並びに原
告U本人尋問の結果を総合すると次の事実を認めることができる。
原告Uは昭和四四年度三年生(三組)の日本史授業において、教材として、原告U
作成の講義用ノート及びプリント、株式会社啓隆社発行の日本史資料集並びに教科
書(甲第四二号証)を使用した。
右講義用ノートは同原告が年間の日本史の授業計画にあたつて教科書及び「教授用
資料」を通読したうえ、教科書、指導書、史料集、参考書、研究論文等を参考とし
て作成されたものである。また同原告は、右プリントを生徒に配布して授業に利用
した。その内容は古代日本の奴隷制を含めアメリカの奴隷制及び人種問題までをも
取り扱つた詳細なものであつたり(甲第三三号証の一ないし六)、奈良仏教や日本
古代の政治形態についての授業内容のまとめ(甲第三三号証の七、一八、一九)で
あつたり、律令制の説明について或いは図表を示し或いは年代順に社会体制の変化
を説明した説明図的なもの(同号証の九、一〇、一四、四一など)用語説明的なも
の(同号の一、一三、一九)等多種多様であるが概して教科書内容を補足するかそ
のまとめ的なものである。
次に前記日本史資料集は、九州各県の高校教育研究会、社会科歴史部会の編集によ
るもので、編集後記には「学習指導要領や各種教科書に準拠し、実際の授業に活用
できるということを第一の目標に、史・資料を厳選し、かつ付図、付表をできるだ
け多くして生徒の自学自習にも利用可能なようにと考えて執筆、編集」したと記載
され、
現に教科書に準拠して史・資料に重点をおいて学習の便宜を考慮し作成されたもの
である。
原告Uは昭和四四年度三年生の一学期の授業では、最初の五時間ぐらいは前記「原
告Uの担当教科に於る教育活動」において認定のとおり歴史観、時代区分論、並び
に唯物史観の具体的展開としてソ連、中国の思想や経済基盤等の授業を行ない以降
教科書の順序に従い教科書、ノート、資料集を教材として併用しながら進行し一学
期末ごろの六月一六日ごろから七月三日までは前記プリントを主たる教材として使
用した。
二 学期の授業では、週四時間のうち週二時間を日本史のグループ研究に充てるこ
とを計画し、一学期末に生徒にその旨通知し、研究テーマは、原告Uが案として出
したものもあるが概して生徒が各グループ毎に教科書の目次の範囲内で自由に選択
させたが、その際伝習館高校図書館の日本史の参考文献の目録を単元毎に分類した
表を配布し、夏休み中に下調べをするよう指示した。
二 学期に入り週二時間を右の研究発表等にあてこれが一一月ごろまで継続され、
残り時間を講義形式の授業に充てた。右講義形式における教材としては教科書、資
料集、ノート、プリント等が併用された。教科書そのものの使用形態は、生徒に教
科書の記述内容を朗読させたり或いは原告U自ら朗読したこともある。資料集は前
記のとおり教科書に準拠して史料、資料等が厳選されてあるので、これを活用し授
業をすると、教科書に同様の史、資料が掲載されている場合、同時に教科書を使用
したと同一の評価をなしうると解される。原告Uは一学期ないし三学期の全般に亘
つてこのような意味で資料集の史料等をひんばんに活用したほか教科書、資料集、
日本史辞典を教室に携帯し、生徒に対してはとくに注意しなくとも教科書、資料集
は殆んどの生徒が毎時間携帯していた。原告U自身は日本史の授業において教科書
を使用する義務があると観念してはいなかつたが、教科書を教材として使用しよう
との意思に基き、客観的にも教科書を使用した。
以上の事実を認定でき、右認定に反する証人P28、同P29の証言の一部は措信
できず、他にこれを覆えすに足る証拠はない。
以上の次第で被告の教科書不使用の主張は採用できない。
既に叙述のとおり教科書の使用の仕方は、教育を掌る教師の自由に任されたもので
あり、生徒の実情に即して最もよく教育効果をあげる方法で使用されることが理想
であると考えられる。従つて単に教科書の記述を朗読する方法による場合もあれば
資料集の詳細な史、資料を説明することによつて教科書の史、資料を補足する方法
によつて教科書を使用する場合もありまた教科書内容を含めてより詳細なプリント
を作成配布しこれを講義することによつて教科書を使用する方法もある。前掲P2
8、同P29の証言では、教科書自体を朗読したり、教科書の該当箇所を説明した
りすることのみを把えて教科書を使用したと供述し、それ以外の方法による教科書
使用の意味を理解しないまま供述しているので、その限度では必ずしも前記認定に
抵触するものではない。
(三) 原告Tの場合
原告Tが昭和四四年度、政治、経済の授業担当を命じられていたこと、右教科につ
いては被告が採択した伝習館高校において使用が決定された教科書(「政治経済」
一橋出版株式会社発行)があつたことは当事者間に争いがない。
既に認定のとおり原告Tは昭和四四年度三年生の政治経済の年度当初の授業で生徒
に教科書の構成を説明し、I、日本の政治、II、日本の経済については教科書の
配列に従つて授業を進めること、III、労働関係と社会福祉、IV、国際関係と
国際協力の単元では右IIIと関連する事項のとき及びIIIIVと関連した事件
が発生したときに新聞のスクラツプ、統計資料等を使用して随時授業を行なう方針
であることを説明した。
成立に争いのない甲第三五号証、甲第四五号証、乙第四一号証、証人P28、同P
29、同P35、同P27、同P32、同P11、同P36、同P37の各証言と
原告T本人尋問の結果を総合すると次の事実を認めることができる。
原告Tは、昭和四四年度三年生(主として三組)の政治経済の最初の授業において
前記年間授業計画の説明を行なつた際教科書問題についても言及した。すなわち政
治経済は昭和三八年度までは「社会科社会」という名称で五単位であり、現行の倫
理社会と政治経済の両分野を包含していたが、実際には政治経済の部分の授業をす
るのが精一杯のところであつたこと、現行では右両教科に分離されてそれぞれ二単
位となつた結果、教科書の内容が質、量共に窮屈になつていること、更に教科書検
定制度に触れ、教科書会社は、検定に合格しなければ教科書として売れないので、
いつの間にか文部省の意に沿つた原案をつくるようになつていることや家永教科書
裁判等について説明し、また教科書(乙第四一号証)の執筆者が近代経済学の関係
の人達であるから、マルクス主義経済学の執筆者とは、その立場によつてニユアン
スが違うからそれを念頭において教科書を読むよう指導した。そして社会科の学習
方法について説明し、教科書を解説するような形の授業をしないから必ず教科書を
予め読んで教室に疑問や課題を用意してくるよういつて指導した。
教材の使用について、授業と関連して見ると、およそ次の如くである。
教科書の単元I日本の政治では、第一章第一、二節は教科書の記述を中心に教科書
を朗読あるいは説明する方法によつて教科書を使用した。同第三節、代表制と議会
政治同第四節政治機構についてはアメリカ、イギリス、ソ連、中国、フランス等の
政治形態の解説という形で授業をし教材としては社会科研究部会が協力して作成し
た政治経済資料集(甲第三五号証)を主たる教材として用いた(教科書も該当個所
を指摘した)。右授業では前記各国の歴史的背景や既に認定の時事問題(ベトナ
ム、朝鮮、米偵察機撃墜の各問題)等にも及んだため長時間をかけ教材も時事問題
については新聞の切抜き等を用いた。
第二章日本国憲法の基本問題については旧憲法と現行憲法を比較する便宜のためプ
リントを作成し生徒に配布しまた教科書を生徒に朗読させる方法によつて教科書を
使用した。単元Hの日本の経済では主として資料集を用いて授業が行なわれたが、
教科書も生徒に朗読させたり、該当個所を指摘する方法もとつた。右単元は二学期
三学期を通じ全般にわたつて授業が行なわれた。原告Tは政治経済の毎時間教科
書、資料集、ノートを教室に携帯し、生徒も怠慢な者を除く大半の生徒が教科書及
び資料集を携行した。
昭和四四年度三年生二組(P32、P33ら)の政治経済の授業も大同少異で年間
授業計画の説明、教材の使用関係等右とほぼ同様である。
原告Tの右授業における教材の使用については右のとおり政治経済資料集が重要な
教材として用いられ教科書自体の直接使用は右資料集ほどではない。
しかし右資料集は、九州各県の政治経済担当の教師からなる社会科教材研究会によ
つて編集され現に福岡県下の多くの高校においても教材として使用されているもの
であり、内容的に見ても教科書の単元と対応し教科書の記述より一層詳細なものと
なつているが、右両教材は内容的にみれば大部分重複するものといえる。従つて原
告Tの場合、教科書を念頭に置き、具体的な授業の展開において資料集を用いたと
認められるから全体として教科書を教材として使用したとの法的評価が可能であ
る。
以上の事実を認定できこれを覆えすに足る証拠はない。
証人P28、同P29、同P33の各証言では、原告Tが教材として殆んど資料集
を用い教科書を使用しなかつた、とあるが、右は本件の場合資料集使用が、全体と
して教科書を使用したと同一の評価をなしうることを考慮しない供述であつて、こ
の点に関しては前認定の事実関係に抵触するものではない。
以上の次第で、被告の教科書不使用の主張は採用できない。
第四 原告P22、同Tの考査及び評価について
一 考査について
(一) 成立に争いのない乙第七号証によると、伝習館高校の「生徒手帳」第二章
学力評価、第五条、「学習成績評価規定」では、第一項で「学習成績を一斉考査・
平常考査、観察、提出物、出欠状況、学習態度等によつて評価」し、学期末及び学
年末に生徒と保証人に通知する。ただし第三学期分は通知しないで学年成績だけを
通知する。」
第三項では「一斉考査は定期的に概ね左の五期に実施する。
五月下旬、七月下旬、一〇月中旬、一二月中旬、三月中旬(三学年は一月下旬)」
と規定されている。
原告P22が昭和四四年度において二年一、四、六、八、九、一〇各組の倫理社会
及び三年一、六組の政治経済を担当したこと、同年度三学期二年生の担当教科の成
績評価につき考査をしなかつたことは当事者間に争いがなく、また同原告が同年度
一学期に右担当クラスにおいて考査(一斉考査)を実施せずこれに替えてレポート
(テーマは「現代社会科教育批判-はたして〈批判教科〉たりえているか」)の提
出を求めたことは成立に争いのない甲第五四号証によつて明らかである。
原告Tが、昭和四四年度において二年二、五、七各組の倫理社会及び三年二、三、
五、八、一〇各組の政治経済の担当をしたことは当事者間に争いがなく、また同原
告が同年一学期に右担当クラスで考査(一斉考査)を実施せずこれに替えて生徒に
レポート(三問中一問を選択させた)の提出を求めたことは成立に争いのない甲第
四号証によつて明らかである。
原告らは右レポートをもつて考査と同視しているごとくであるが、前掲生徒手帳の
記載によると、考査には定期的に実施される一斉考査と平常考査に区分されている
ところ右レポートは「提出物」にあたる(証人Mの証言)と解釈されるので一斉考
査はもとより平常考査にも該当しないと解するを相当とする。
(二) 被告は前記一斉考査の不実施をもつて、福岡県立高等学校学同第八条に基
き伝習館高校の校長が制定した校内規定(所属教員を拘束する)に違反する、右の
校内規定とは前記の生徒手帳中第五条の「学習成績評価規定」を意味する旨主張す
るので以下検討する。
福岡県立高等学校学則(昭和三二年福岡県教育委員会規則一四号)八条は「生徒の
学習成績の判定のための評価については、学習指導要領に示されている教科及び科
目の目標を基準として、校長が定むる」と規定されている。
しかし、前記生徒手帳(生徒心得綱要を含む)の作成は、毎年生徒部を中心にして
検討され、職員会議にかけて決定されていたことは成立に争いのない甲第二四号
証、証人M、同P38、同Eの各証言によつて明らかである。
前掲甲第二四号証、証人A、同M、同E、同L、同K、同H、同J、同Iの各証言
によると、本件処分当時、福岡県立高等学校の大部分が職員会議を校務運営の最高
決議機関とする校内規定を有し、伝習館高校においても昭和三七年ごろ職員会議で
「校務運営規定」(甲第二四号証)が制定され、以後の改正についても毎年選挙で
選ばれた検討委員会で検討され、運営委員会の議を経て職員会議で決定されてい
た。右規定の第三条では、職員総会が校務運営全般に関する最高議決機関であるこ
と、職員総会の審議決定する事項として(1)本校教育の目標、指導方針(2)生
徒の入学、退学、転学、卒業及び賞罰に関する基本方針(3)重要なる対外問題の
処理方法(4)全職員の協力を必要とする事項(5)全職員に重大なる影響を与え
る事項、と規定され、実態としてもそのような運営がなされていたことを認めるこ
とができ、右認定を覆えすに足る証拠はない。
以上の事実によると前記生徒手帳は、福岡県立高等学校学則第八条に基いて伝習館
高校長が制定したものではなく、当時最高議決機関であるとされていた職員総会に
おいて審議決定されたものである。
かりに生徒手帳の成立過程のいかんを問わず、これを右学則第八条の規定に基く校
長の定めた細則であると解するとしても、生徒手帳の「学習成績評価規定」が教師
に一斉考査の実施を義務づけたものであろうか。
右生徒手帳(乙第七号証)には、「この手帳の取り扱いについて」と題し、一、こ
の手帳は本校生徒の身分を証明するものであるから、常に携帯しなければならない
二、この手帳は生徒の明朗健全な学校生活を指導するため、又学校と家庭との通信
連絡を図るためのものであるから、大切に取り扱い十分に活用すること。と規定さ
れている。その内容をみても生徒心得、選挙およびリコール細則、図書館利用規定
等生徒を受範者として学校当局と生徒との間の「利用規則」に類するものであつて
教師の教育活動(教育課程管理)を規制する目的で制定されたものとはいえない。
ちなみに、前記「学習成績評価規定」でも成績評価は一斉考査、平常考査、観察、
提出物、出欠状況、学習態度等によつてするとあり、一斉考査も定期的に概ね左の
五期に実施すると規定されているが、教師は如何なる教科目にあつても一斉考査を
実施すべき義務を規定したものとはいえないであろう。
前掲甲第五四号証、証人M、同A、同P14の各証言によれば、伝習館高校では一
斉考査実施の有無は慣行として決まつておりその時期は三ケ月毎の行事計画を決定
する際に教務部が立案して職員会議に提案し、職員会議で決定されることになつて
おり、一斉考査実施の手順は、実施期日の約二週間前に教務部が教員室の黒板に貼
る用紙に、考査を実施する教師は実施科目、クラス、担当者を書きこれに基いて教
務部が考査の時間割を作成し一週間前に生徒に通知する手続がとられていた。そし
て音楽、美術、保健体育、家庭科については一斉考査は殆んどなく、倫理社会、政
治経済等授業時間の少ない科目については一斉考査のうち中間考査は学校全体とし
て行なわれていなかつたことを認めることができ、右認定を覆えすに足る証拠はな
い。
以上の事実をも考慮すると、伝習館高校における一斉考査は各教科目により、すべ
ての一斉考査を実施する教師もあり、小単位の科目については一斉考査中中間考査
を実施しない教師もあり全く一斉考査を実施しない科目もあつたのであつて、これ
らは伝習館高校の学校のいわば慣行に従つて行なわれていたものと推認し得る。
従つて原告P22、同Tの一斉考査不実施をとらえて校内規定に違反したとは云え
ず他に一斉考査を義務づける規定の立証のない本件では一斉考査不実施をもつて直
ちに懲戒処分の対象とはなし得ない。もつとも伝習館高校において、倫理社会、政
治経済の科目が従来から一斉考査のうち期末考査が慣行としていた場合には、その
不実施につき、校長は指導助言をなしうるものと解され、若しこの指導助言を拒否
する場合には、地方公務員法第二九条一項二号の職務を怠つか場合として懲戒処分
の対象となり得るものと解される。
二 評価について、
(一) 原告P22が昭和四四年度において二年一、四、六、八、九、一〇各組の
倫理社会及び三年一、六組の政治経済を担当したが同年度一学期成績評価について
すべての担当クラス全員に一律六〇点と評定したこと、同二学期の倫理社会(二年
一、四、六、八、九、一〇組)について再び全員一律に六〇点と評定したことはい
ずれも当事者間に争いがない。
原告Tが昭和四四年度において二年二、五、七各組の倫理社会及び三年二、三、
五、八、一〇各組の政治経済の担当をしたが同年度一学期の成績評価にあたり、レ
ポート提出者に一律六〇点不提出者に一律五〇点と評定したことは当事者間に争い
がない。
(二) 被告は、原告P22、同Tが、成績評価について昭和四四年ごろE校長か
ら評価のしかたを是正するよう指示したにも拘らずこれを無視した旨主張する。
証人E証人の証言には「成績評価に関して(四四年)二学期末ごろ職員会議で、当
時社会科の非常勤講師のP39先生に考査、評価について科で話し合つていただく
ようお願いした。P22先生やT先生個人に、いちいちにわたつて言つていただく
ことまではお願いしていない。科で話し合いがなされたかわからない」との供述部
分がある。また証八Gの証言によると、同人は当時伝習館高校の教務部長であつた
ところ夏休みか九月ごろE校長から評価について教務部長からいつてくれんかとい
われたが、それはE校長から言つて下さいといつて断つた、二学期中旬、E校長が
職員会議で評価のバランスが取れないようなことがないようにといつた。それは正
式な議題ではないと供述している。
右職員会議で評価について触れたことが事実であるとしても少なくとも原告P22
同Tに対する評価方法の是正の指示といえないことは証人M、同Aの各証言に照ら
し明らかである。他に被告主張事実を立証するに足る証拠はない。
(三) 学校教育法施行規則第六三条の二では生徒が高等学校における全課程の修
了の認定を受けるには「高等学校学習指導要領の定めるところにより八五単位以上
を修得」しなければならないとされ、各教科、科目についての単位の修得の認定
は、本件学習指導要領では「生徒が学校の定める指導計画に従つて教科、科目を履
修し、その成果が教科、科目の目標からみて満足できると認められる場合」になさ
れるものと規定されている。
そして右認定にあたつては生徒の「平素の成績を評価して、これを定めなければな
らない」とされている(学校教育法施行規則第六五条一項第二七条)伝習館高校で
は、生徒の「平素の成績を評価」する手段として一斉考査が予定されているが、必
ずしもこれに限らず平常考査、観察、提出物、出欠状況、学習態度等によつて評価
するものとされている。(前掲生徒手帳)そして学期末及び学年末に生徒と保証人
に通知すると規定されている。
学期末の成績評価が適正に行なわれない場合には、ひいては単位修得の認定にも影
響を及ぼし不適切な認定のなされる虞れもある。
ところで教諭は、児童の教育を掌る(学校教育法第二八条四項)ことであると規定
され、その本務は教育課程管理であるが、具体的には教場における教育実施のほか
間接教育活動(教育計画立案、教案準備、成績評価、父母面談、研修等)及び教育
活動に直結する事務としての教務(各種教育計画書・出席簿・通信簿・指導要領・
内申書、学校日誌等の作成記入、教室教材の管理、学級学年会計の一部)をふくむ
とされる。
すなわち生徒の成績評価権は教師の職務権限であるが事実上重要な教育的機能を果
している。「指導要録」は生徒の学籍および学習の過程、結果を記録した表簿とし
て規定され学校教育法施行規則(第十二条の三、第十五条一項四号)に根拠をもち
(昭和三六年二月一三日文部省初等中等局長通達により様式、記入方法が示されて
いる)伝習館高校でも成立に争いのない甲第二四号(内規集)に生徒指導要録と題
して詳細な規定が置かれている。
右によると「各教科、科目の評定および単位修得の認定」について「評定」の欄
は、各教科、科目の学習についてそれぞれ五段階で表わし、五段階の表示は、5、
4、3、2、1とすること。高等学校学習指導要領に定める当該教科、科目の目標
に照らし、特に高い程度に達しているものを5とし、高い程度に達しているものを
4とし、おおむね達成しているものを3とし、達成がふじゆうぶんなものを2と
し、達成が著しくふじゆうぶんなものを1とすること。また評定1のときは単位の
修得を認めない取り扱いとし、「修得単位数」の欄に○と記入すること、など規定
されている。
成立に争いのない乙第八号証ないし第二三号証、甲第四五号証、甲第五四号証によ
ると、原告P22は、昭和四四年度一学期にはレポートによつて担当科目の全生徒
に六〇点と評定し同二学期は考査によつて同様全員六〇点と評定したが年度末の成
績については前記指導要録に則り五段階法によつて評価し、評定のしかたも一律で
はない。原告Tは昭和四四年度一学期はレポートによつて担当科目の全生徒に六〇
点と評定し同二学期は考査によつて一〇〇点法により一律でない評定を行ない、学
年末の成績評価については、三年生については、一、二学期の得点をもつて年度成
績を出し指導要録に則り五段階法によつて評価し一律でない評定をなし、二年生に
ついては一、二学期の得点と三学期は考査にかえ授業時間中数回の感想文を提出さ
せ、これらによつて年度成績を評価し指導要録に則り五段階法によつてそれぞれ一
律でない評定を行なつたことを認めることができ右認定に反する証拠はない。
(四) そこで問題は、原告P22、同Tが学期末の成績評価(いわゆる通知表に
記載される)についていわゆる一律の評定をしたこと、及びこの評定が年度末の評
定(指導要録記載)に影響を及ぼす限度につき検討されなければならない。
いわゆる「通知表」には法的根拠がなく、主として家庭通信を目的とする学習結果
記録として各学校により多様な形式で作成され事実上重要な教育的機能を果してい
る。
被告は前記生徒手帳の学習評価規定が福岡県立高等学校学則第八条に基いて伝習館
高校長が制定した校内規定であると主張するが、右は校長の制定したものでなく伝
習館高校の職員会議で決定され制定されたものであることば前叙のとおりである。
さきに生徒手帳の成立過程のいかんを問わず右学則第八条の規定に基く校長の定め
た細則であると解しても、学習成績評価規定の文言解釈、生徒手帳の法的性質、伝
習館高校における各教科目の一斉考査実施の慣行等に照らし、一斉考査の実施を教
師に義務づけたものではない旨述べたが、成績評価についても同様のことがいえる
であろうか。
右学習成績評価規定によると、「一斉考査の実施」はともかく、各種の方法によつ
て学習成績を評価し、生徒と保証人に通知することが規定されている。この規定の
当然の前提として教師は担当科目につき各学期毎に(ただし三学期分を除く)成績
評価すべきことが職員会議で決定されこれに基いて各学期末にいわゆる通知表とい
う形で生徒及び保証人に通知する仕組になつていると解される。
従つて原告P22、同Tの前記六〇点の評定は、各生徒の学習成績が偶然的に同一
でない限り、真の意味で学習成績の評価に基いて評定したことにはならない。少な
くとも同原告らは伝習館高校の職員会議で制定された「校内規定」に違反したもの
ということができる。
(五) 生徒の成績評価は教育上いかなる意味をもつか。
証人Hの証言にみられるごとく、教育は生徒の内に潜在する素質を発見しこれを引
き出し磨がきをかけることによつてより高次元の価値に高めること、これが教育活
動であつて、教育の成果、換言すれば生徒の進歩、変化の度合いを測定する必要が
ある。その測定活動が評価であつて、教育上重要な意味を有するものと考えられ
る。生徒の成績評価権は教師の職務権限に属するが、右重要性に鑑み、教師の恣意
的、独善的な行使が許されないことは教育条理に照らし肯し得る。
原告P22がいわゆる一律評定した理由として、述べるところは要旨次のごときも
のである(原告P22本人尋問)すなわち原告P22自身は、一学期から三学期ま
での評価をレポート、考査等によつて内部的に行ない学年末評定では前記のとおり
五段階評価としたこと、当時の伝習館高校の生徒が評点のみを重視し学ぶ過程を蔑
視する大学受験教育の弊害に侵触されていたのに対し、「学ぶ」とは何か、「評
価」とは何かを一律に六〇点と評定することによつて生徒に反省を促したのだ、
と、つまり生徒が勉強して素晴しい内容のものであれ、不勉強でそまつな内容のも
のであつても評点(一、二学期)は皆同じ六〇点だといい、受験体制のなかで形成
された意識をもつてすれば勉強した者は損をするという意識が出てくるであろう、
それでもなおかつ学ぶかどうか、そこが全員六〇点の評定をした中心的ポイントで
あり、いわば生徒への一つの挑発であるが、意図的に教育方法の一つとして全員に
六〇点の評定をしたと供述している。
原告Tは、前掲甲第四五号証において、レポートの点検は、生徒が授業の内容を理
解しているかということ、どのような立場であれ自己の考えに基いて論述している
かの二点から行なつた。そしてレポートを提出しても右の観点から、これに到達し
ていない生徒には面接をして指導、助言のうえ書き直すよう指導した。書き直して
合格した者と、そのまま合格した者との間に差をつけず六〇点と評定し、故意にレ
ポートを提出しない者に対しては、何故提出しないかの面接を行なつた。それは同
原告が、「全員に単位を出すが、最後まで全員をいじめる」といい渡してあつたか
らである。最後までレポートを提出しなかつた者が何人かいたが、そのうちのある
者は、書いてみたが気に入るものが書けなかつたというもので、それなりの努力を
した者であつて話し合つて五〇点と評定したと述べている。
原告P22の前記「評定」では生徒の側からみれば、当該科目の学習の到達度を認
識する方法を欠くこととなる。つまり教育ないし学習の結果、自己が当該科目の目
標からみてどの程度であるか、いかなる点において誤びゆうがあるか、基礎的な知
識や判断力等把握のしようがない。また学習成果の全くあがつていない者も同様に
六〇点であるならば、その生徒は学習成績があがつているとの錯覚を抱く虞れも多
い。また教師にとつても評定は各生徒の学習の到達度を認識し以後の教育の反省資
料となり教師の教育方法につき参考資料となるものである。
このような意味で教師は成績評価権を適正に行なわれなければならないのに原告P
22は(昭和四四年一、二学期において)前述のとおり独自の教育観に基いて恣意
的ないし独善的な評定を行なつたものというべきである。
原告Tの場合レポート提出者と不提出者に対しそれぞれ差等を設けている点は合理
的であるが、その余の点については原告P22と同様の批難を免れない。
付言するに同原告が、生徒に対し、出席しておれば単位は必ずやると発言(証人P
29、同P28、甲第四五号証)したことは本件学習指導要領第一章第二節第三款
(単位修得の認定-法的拘束力ある)の趣旨に反している。
なお原告P22、同Tの前記六〇点の評定が、単位修得の認定ないし指導要録の評
定に決定的な影響を及ぼしたとの立証は十分でない。
以上の事実によれば原告P22の昭和四四年度一、二学期における担当教科の全生
徒に対する六〇点の評定は教育的配慮を欠き、真の意味の評価がなされたと見るこ
とはできず成績評価権の恣意的な行使として地方公務貝法第二九条一項二号の職務
を怠つた場合に該表し懲戒処分の対象となるものと解される。原告Tの昭和四四年
度一学期における担当教科の生徒に対する六〇点と五〇点の評定も、同法第二九条
一項二号の職務を怠つた場合に該当し懲戒処分の対象となり得るものと解される。
第五 その余の処分事由
一 原告P22について
(一) 原告P22が昭和四三年度三年生の政治経済の授業において「共産党宣
言」(マルクス著)「空想より科学へ」(エンゲルス著)を読み、そのいずれかに
ついて読後感をレポートとして提出するよう求めたことは当事者間に争いがない。
被告は、右課題が同年度三学期(昭和四四年二月ごろ)であり、原告P22は右課
題を命じるに際」「夏休みに出そうと思つたが大学受験の勉強ができないようにこ
の時期に出す」旨発言したと主張し、これらの行為は本件学習指導要領第一章第二
節第六款1、(1)及び(3)に違反すると主張するので判断する。
証人P11、同Mの各証言並びに原告P22本人尋問の結果によると、昭和四四年
当時、伝習館高校においては、三年生の授業は一月末ごろまでで終つていたことを
認めることができる。
前掲生徒手帳には、一斉考査の実施時期について三月中旬とあるがこれは一、二年
生のことであつて三年生は一月下句となつている。しかし右規定に拘らず実際には
三年生は三学期(一月下旬にも)には一斉考査は実施されていなかつたことは右M
証言によつて明白である。これらの事実は三年生の授業が一月末ごろをもつて終了
していた事実の裏付けにもなる。右認定を覆えすに足る証拠はない。
従つて前記レポートの課題を命じた時期は昭和四四年二月ごろでないことは明らか
である。
乙第三四号の二、3の書面には、被告主張の事実に符合する記載がある。右書面の
成立過程については証人Oの証言によつて明らかであるが、伝聞であるうえ、供述
者の住所氏名等秘匿されたままであるので右記載内容をたやすく措信し難く、他に
右時期を立証するに足る証拠はない。
原告P22が一般的に高等学校における大学受験体制、具体的には伝習館高校にお
ける大学受験体制(的教育)を批判しこれに反撥していたことは成立に争いのない
乙第二九号証、甲第五四号証、原告P22本人尋問その他既に認定の同原告の担当
科目における授業の内容方法に照らし明白なところである。
右証拠によると、伝習館高校は、旧立花藩の藩校の名を継承し県下でも古い歴史を
もつ学校の一つであり新制高校として発足後も名門校あるいは、いわゆる「受験
校」としてのある程度の実績を有していたが、次第に強まる受験競争の激化に伴
い、「受験校」としては次第にふるわなくなつた。これに対し同校同窓会幹部の圧
力や周辺の高校の受験体制強化に刺激され伝習館高校でも次第に大学受験合格を目
指す教育体制が強化されてきた。原告らが同校に勤務する当時は、受験体制とし
て、
(A) 「準正課」という名の補習授業が、英語、数学、国語を中心に勤務時間前
に行なわれ正課授業と一体をなしていたこと、
(B) 普通科における文系進学、理系進学、就職コース別クラス編成が行なわれ
教育課程も異なる。
(C) 英語と数学の時間における能力別クラス編成
(D) 夏休み、冬休み中の補習
(E) 受験用模擬テストの実施
等があつたが、このような受験体制は同時に各教科、科目における各教師の授業課
程の編成もいわゆる「受験向き」授業への傾向をもたらした。原告P22は、社会
科教師として右のような「受験向き」教育を批判し生徒に対しても、生徒の一部か
ら要求する「受験向き」教育を拒否する態度を貫徹していたといいうる。
右態度は「朝日ジヤーナル」(乙第二九号証)の対談中の同原告の次のような発言
に端的に示されている。「あるとき、三年生の政経と日本史を担当していて、授業
が終つたあと、一人の生徒が「とにかく日本史を受験用にやつてくれ。自分は社会
科はにが手で、むづかしい思想的なことなんかわからんでもいいんだ」という。そ
の子からすれば、ぼくに教わつているのが不幸であるということらしい(笑い)そ
ういう具体的な一人の人間が目の前で要求してきたときに、それを拒否すると云い
きつてはじめてぼくは生徒に対して受験体制ナンセンスということを云つたことに
なる。あるいは職員会議で補習をどうするかというときに「伝習館からだれ一人大
学に合格しなくたつてかまわないのだ」といいきる。そのときにはじめて対教師と
の本当の葛藤関係も生じてくる。」
右のように原告P22の大学受験体制的教育への批判的姿勢は明らかであるが、事
実は前記の如く大学入試直前に被告主張の如きレポートを三年生に課したことを認
めるに足りる証拠はないのであるから、前記当事者間に争いのない事実のみから本
件学習指導要領違反(被告主張の恣意にわたる教育)を認めることはできない。
(かりに被告主張のとおり本件学習指導要領に違反したとしても、当該条項に法的
拘束力がないことは既に認定のとおりである。)
(二) 原告P22が、昭和四三年度における三年生の政治・経済の授業において
最近の学生運動につき講義し「フランスの革命運動の背景とその原因について」と
いう試験問題を出したことは当事者間に争いがない。
被告は、右授業において革命を肯定する講義をなし、本件学習指導要領及び学校教
育法第四二条に違反すると主張する。しかし、前掲乙第三号証、乙第六号証ならび
に既に認定の原告P22の授業をもつても「革命を肯定する講義」をしたとの立証
は十分でなく他にこれを認めるに足る証拠もない。
また右フランスの学生運動とわが国の学生運動との関連についても全く立証はない
ので、被告の主張は採用できない。
(三) 原告P22が、昭和四四年度における二年生の倫理社会の授業においてそ
れを行つた期間の点は別として、週二時間の授業時数のうち一時間は同校の図書館
において課題研究を命じたことは当事者間に争いがない。
被告は右課題研究の時期を年度当初から二学期末であつたと主張し、その間生徒を
放任し、指導監督を怠つたと主張するので判断する。
成立に争いのない甲第五四号証、証人P10の証言によると、右課題研究の時期
は、昭和四四年六月中旬から同年一〇月中旬までであつたことを認めることができ
右認定に反する証人P16の証言は措信できない。
右甲第五四号証、証人P10、同P16、同P21の各証言によると、右課題研究
とは、倫理社会のテーマ(原告P22が示したものと、生徒個人の出したもの)を
参考例としていくつか出し、各生徒は自分の興味あるテーマを一つ選択してグルー
プ(五ないし六人ぐらいで編成)をつくり同校図書館で資料を探がし、図書を読む
などして後日教室で生徒の前で個人ないしグループで研究発表を行なうというもの
である。原告P22は昭和四一年度から昭和四三年度までにも右の研究発表を授業
の中に組み込んでいたが、その場合は、希望者によるもので、テーマの研究も倫理
社会の授業時間外に行なうものであつた。
本件処分事由となつている昭和四四年度は、原告P22は倫理社会担当の各クラス
の生徒を集め授業のあり方や方法につき脇議を行なつた結果、倫理社会の授業のう
ち週一時間をテーマ別のグループ研究として行なうこととした。
原告P22がグループ研究を行なうに至つた動機は、全ての生徒が自らテーマを選
び、内容構成を考え、資料を探がし読書し研究するという自主的研究を体験さすこ
とは受験教育に馴らされている生徒にとつては必要なことであると考えたことによ
る。そして課題研究期間は週一時間、図書館で生徒はテーマに関連する図書を読ん
だりグループ間で討議する者もあり不真面目な生徒はテーマに無関係な読書をする
者もいた。
原告P22は殆んどの時間、図書館に赴き生徒の進行状況を聞いたり生徒からの質
問を受けたり本の紹介をするといつた形で助言はしていたが、時に図書館に来ない
場合、生徒の一部が騒ぐので同図書館勤務の係員が何度か注意することもあつた。
そして原告P22の当初の意図に反しグループ学習の研究発表は行なわれず、研究
成果をまとめたとの立証もない。以上認定の事実を覆えすに足る証拠はない。
右課題研究が授業時間を離れて行なわれた昭和四一年度ないし昭和四三年度は問題
はない。
倫理社会の授業時間は週二時間と定められており教師はその職務上の義務として正
当な理由のない限りその授業時間を教育活動に専念しなければならない。
右課題研究も教育活動の一環ではあるが、本件の場合は主として生徒の自主的な研
究活動(自習)にゆだねるという面が強く、その成果も全く各生徒に委ねられてお
り、従つて自主的研究に興味を示さないか基礎学力の十分でない者にとつては原告
P22の意図に反し、さしたる成果を期待できないものであつた。そうして原告P
22は、右の意慾、能力を欠く者について特に指導する様子はなく、主として生徒
から積極的に質問したり相談する者(時間的にも限度がある)に対して補足的に助
言をする程度にとどまつていた。
このような教育活動を週二時間の授業のうち一時間を六月中旬から一〇月中句にわ
たる長期間続けしかもその研究発表も行なわれなかつたことは生徒の教育を掌るこ
とを本務とする教師の職務上の義務に違反したこととなり、また生徒に右の「自主
研究」を行わせながら自らは図書館にも来なかつたような場合は、授業時間を教育
活動に専念しなければならない義務にも違反したこととなると解するを相当とす
る。
原告P22自身もその陳述書(甲第五四号証)において、この点に関し「確かに授
業時間にどれだけ多くの内容項目をこなすか、という「授業効率論」的観点から考
えると、非能率的に思えたし、また、生徒の興味や意慾の落差等から考えて、全て
の生徒がそれを十全にこなし得るとはとうてい思えないという点から危ぶんだこと
も事実である」と述べ、また右課題研究に授業時間を使つて行なう形態を打ち切つ
た理由として、「一つには時間的な都合から講義に切り変える必要があつたこと、
他の一つは、このまま続けた場合、半数位のグループは意慾と力量の不足からつき
当つている壁を越えることができず、惰性に流されてしまい、形式的な形態だけが
残ると考えたからである。」と述べている。
つまり原告P22の当初のグループ学習の成果に期待した意図は実現できなかつた
わけで、研究発表を行なうまでに至らなかつたことは、単なる生徒の自習とその実
態において変わるところがない。
(四) 原告P22が昭和四五年二月一〇日の勤務時間(放課後)に別紙四のビラ
を作成、印刷し、同日午後四時ごろ伝習館高校で生徒に配布したこと、翌一一日
(建国記念日)同校校長の許可を受けないで同校会議室で討論集会を行ないこれを
使用したことは既に認定したところである。
学校施設をその本来の目的以外に使用する場合には管理者たる校長の許可を受けな
ければならない(地教行法第二三条二号、福岡県教育財産管理事務取扱規則(昭和
三九年福岡県教育委員会規則第七号)第四条、第一四条)。ところが本件処分当
時、伝習館高校では、学校施設利用の手続規定として体育館兼講堂使用に関する内
規と学校施設備品の借用に関する内規が存在する(甲第二四号証)が、後者の、借
用申込内容につき疑義があるときは、過営委員会の審議を経るものと規定されてい
る。右規定内容からみて、これが学外者からの借用申込のあつたときの規定か、学
内者をも含むかは定かではない。
証人L、同A、同P14の各証言によると、学外者が学校施設を借用した場合は使
用料を払うが学内者とくに教師が使用するときは実態としては校長の許可や届出も
しないで使用していたことを認めることができ右認定を覆すに足る証拠はない。
従つて原告P22の、校長の許可を得ないで教室を使用した行為は、前記福岡県教
育財産管理事務取扱規則第四条、第一四条違反となるが、当時の伝習館高校におけ
る施設利用の実態からみて、原告P22が当時校長の許可を受けなかつたことを強
く非難することはできない。
次に放課後におけるビラの作成印刷、配布行為もこれが形式的に職務専念義務に違
反することは否定できない。しかし証人A、同Mの各証言によると当時放課後の利
用の仕方は各教師の自由意思にまかされ弾力的な運営がなされていたことを認める
ことができる。従つて原告P22にのみこの点を追及することはできない。なお建
国記念日における討論集会そのものが実質的に違法であるとの被告主張事実は立証
不十分である。
二 原告Uについて
(一) 原告Uが生徒に対する指導監督を怠つたとの主張について、
成立に争いのない乙第三八号証の一ないし六五によると、昭和四四年度三年三組の
学級日誌中、原告U担当の日本史記載欄には、四月一六日「スターリン-毛沢東」
四月一七日「米偵察機」一〇月二日「日米関係」一〇月二三日「沖縄について」一
二月四日「宗教」と記載されているが、証人P27の証言によると、右学級日誌は
授業を受けた生徒が記載するが、各生徒が授業内容を正確に書くとも限らず面倒く
さいのでいい加減に記載する場合もあると認められる。単に右記載だけから授業内
容を推測することは困難であり右記載を信用しても授業全部にわたつてその話があ
つたかどうかも明らかでなく、また「宗教」「沖縄について」「日米関係」等も日
本史的立場からの授業であつたかも知れない。要するに右記載だけから原告Uが右
日本史の該当授業において日本史と関連のない雑談をしたと推認することはできな
い。なお記入のない該当授業の内容を推測することは不可能である。
証人P28、同P29、同P27の各証言によると、原告Uの日本史授業において
(ことに一学期)、「サエの神信仰の話」「遺跡発掘で、掘つた跡が女性の性器に
似ているという話」「妊婦の腹を槍で引き裂いて嬰児をつかみ出す話」「一二単位
を着てトイレに行つてどうしたか」等いずれも日本史に関連してはいるが猥談めい
た話があり、現にその学級の女生徒(四名)らはこのようなときには下を向いて、
黙つており、恥かしい思いを抱いていたこと、また原告Uは生徒から「エロ・ハ
ン」というニツクネームをつけられていたことを認めることができ右認定を左右す
るに足る証拠はない。
(二) 被告は、原告Uの授業内容、態度に不満を抱いた生徒多数がしばしば教室
を出て同人の授業を放棄したにもかかわらず出欠を点検せず、かつ、これらの生徒
に対して何らの注意もしないまま、生徒を放任するなど指導監督を怠つたと主張す
る。
前掲P29の証言には、日本史の授業で教室に入ると他の女生徒三名がいないので
図書館に行つてさぼつた旨の供述があるが、前掲乙第三八号証の五四には、女生徒
四名が日本史を欠課したが、P29以外の二名は、一二月一九日は一日中欠席して
いることが窺われるので、原告Uの授業内容、態度に不満を抱いて欠課したとの右
証言は、他の女生徒に関する限り、たやすく措信できない。
前掲乙第三八号証の五一によると、六時限目の日本史の欠課者欄には二〇名の生徒
名が記され、また「感想及び反省」欄には、「六時限目の日本史の時間は欠課者が
多くて教室はがらんとしていた」と記載されている。前掲甲第四六号証証人P2
9、同P27の各証言によると、右期日に日本史の欠課者(二〇名)が多いのは、
同日五時限目がロング・ホームルームの時間で担任のS教諭が来なかつたため、附
近の神社や図者館へ行つた者或いはそのまま帰宅した者もいた。原告Uは、そこで
何人かの生徒に依頼して図書館や運動場を探したうえ発見された生徒を教室に入れ
て授業をしたことを認めることができ右認定に反する証拠はない。
右期日における欠課者の多いことをもつて原告Uの授業内容、態度に帰責原因を求
めることはできない。
乙第三四号証の三1、8は伝聞であるうえ供述者の氏名住所も明らかでなく措信で
きない。
被告は原告Uが同年度日本史授業において、自習時間が多かつたとして、乙第三八
号証及び証人P28の証言を指摘するが、右証言は、P27の証言並びに既に認定
の「本件処分の経過」の事実に照らし措信できない。
右乙第三八号証の記載のみから、原告Uの日本史において自習時間が多いと見るこ
とは早計である。
以上の次第で被告の前記主張は採用できない。
第六 本件処分の違法性について
一 懲戒手続の違法性の主張について
(一) 原告らは本件処分を行なうにあたつて事前聴聞の機会を与えなかつたこと
は憲法第三一条、第一三条、地方公務員法第二七条一項に違反する旨主張するので
判断する。
憲法第三一条は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自
出を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない。」と規定しているところ、単に
「法の手続」を遵守すれば足りるというものでなく個人に対して、その生命若しく
は自由を奪いその他刑罰を科するには、法律の定める「適正な手続」によらなけれ
ばならない旨を規定したものと解すべきことは同条の英米法的な沿革からいつても
首肯しうるところである。
同条が行政手続についても適用があるが、また仮に行政手続に適用されるとしてそ
の範囲について前説上の争いはあるが、同条が刑事手続に関する憲法第三二条以下
の規定の冒頭に置かれ「生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられ
ない」との文言にかんがみ同条は刑罰として生命または自由を奪われる場合(刑事
手続)に関するものであつて、ひろくあらゆる自由一般を制限される場合を意味す
るものではないと解するを相当とする。
もつとも右は、かならずしも刑罰の場合以外は「法律の定める手続に」よらずに自
由を侵してよいという意味ではなく、刑罰に準ずる身体の自由の拘束、従つて行政
手続をふくむことは肯定されるべきである。
しかし、原告らの本件行政処分に対し、事前聴聞の機会を与えなかつたことを把え
て憲法第三一条に違反するとの主張は採用できない。
即ち地方公務員の懲戒は、憲法第三一条にいう「刑罰」に含まれると解することは
できないし、その懲戒については、地方公務員法第二七条一項に「すべて職員の分
限及び懲戒については、公正でなければならない」と規定され、同法第二九条二項
に「懲戒処分の手続及び効果は、法律に特別の定がある場合を除く外、条例で定め
なければならない」と規定されている。
そして「福岡県職員の懲戒の手続及び効果に関する条例」には懲戒処分に先立ち、
当該職員に対し弁解の機会を与えなければならないとの手続規定はない。
原告らは憲法第一三条、第三一条を根拠に国民の権利、自由が手続的にも尊重され
るべきことを要請する趣旨を含むとし行政処分にあたつては行政庁の恣意、独断等
の介入を疑われることのないような適正な手続が必要で、事前聴聞は適正手続にと
つて不可欠のものであると主張する。
憲法第三一条の解釈は前叙のとおりであり、一般の行政処分ないしその手続に関し
ては事柄の性質の多様性にかんがみて直接には明文規定を設けずむしろ法律に基づ
く行政の原則によつて国民の権利、自由を保障しようとするものであると解する。
そして一般の行政処分に関する権限、基準、手続のうちどの範囲でどのように法律
で定め、どの範囲を条例命令等の下位法に委ねるかは立法裁量に属することである
から前記地方公務員法第二九条第二項に基き定めた前記福岡県条例に事前聴聞の機
会を与える旨の規定を欠くからといつて、法治主義の原則に反するとか、憲法第一
三条に違反するということはできない。
(二) なるほど原告ら指摘のとおり本件処分に先立つ調査の発端、調査の方法、
調査の対象等において適切でない処置のあつたことは既に「本件懲戒処分に至る経
緯」として認定したところである。
即ち調査の発端は匿名の電話或いは投書とされ、これに基き一二月七日伝習館高校
への立入調査が行なわれ、三月一七日の調査は「二月アピール」という匿名の文書
を根拠にしている。
調査方法も、伝習館高校長を経由しないで行なわれた場合もあり同校のS教諭を経
由し、被告の事情聴取も概して右Sと親しく反面原告らに嫌悪を感じている職員、
父兄、生徒らを中心とするものであつた。
この様な調査方法の結果は処分事由のうち一部事実誤認となつて顕われたことは、
これまで認定してきたところから明白である。一二月七日の立入調査以降伝習館高
校の生徒、教師の混乱の原因のいつぱんは被告の調査方法の不適切さにもあること
を否定し得ない。
しかしだからといつて原告らに対する懲戒処分が地方公務員法第二七条一項に違反
するとまでは云えず、右処分の効力を左右するものではない。
二 本件各処分の効力について
(一) 原告P22について
既に認定したところによると、原告P22に対する処分事由中懲戒処分の対象とな
り得るものは次のとおりである。
即ち(イ)昭和四三年度及び昭和四四年度において同原告の担当する倫理社会の教
育活動にあたり所定の教科書を使用しなかつたことが学校教育法第二一条(第五一
条)に定める教科書使用義務に違反したこと(ロ)昭和四四年度同原告の担当する
二年生の倫理社会及び三年生の政治経済の成績評価にあたり一・二学期を通じ全生
徒に一律に六〇点と評定したごとが教師としての「職務を怠つた場合」に該ること
(ハ)昭和四四年度二年生の倫理社会の授業において、週二時間の授業時数のうち
一時間を同年六月中旬から一〇月中旬まで同校図書館で、課題研究を命じ授業活動
を行なわなかつたことが、その実態において生徒の自習と変らず、教師としての職
務上の義務に違反もしくは職務専念義務に違反したこと(ニ)昭和四五年二月一〇
日勤務時間中伝習館高校の図書館で「国家幻想の破砕を」と題するビラを多数印刷
したうえ同日午後四時ごろ右ビラを同校内において生徒らに配布した行為が職務専
念義務に違反すること(ホ)同月一一日同校々長の許可を受けないで同校会議室を
使用したことが福岡県教育財産管理事務取扱い規則第四条、第一四条に違反するこ
と、以上である。
処分事由中「夢幻の呪詛」「老いているであろう新入生諸君」「想像力が権力を奪
う」の各文章は、指導助言の対象となりうるが被告ないし伝習館高校長による指導
助言をしたとの立証がないので、右各文をもつて直ちに懲戒処分の対象とはなし得
ない。その余の処分事由についてはその立証がない。
公務員に対する懲戒処分は、公務員の勤務についての秩序を保持し綱紀を粛正して
公務員としての義務を全かしめるために行なわれるものであつて職員の身分喪失、
給与減額等を直接の目的とするものではない。
任命権者が、公務員の服務違反行為に対し、懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶべ
きかを決定するについては、当該行為の違法性の軽重、本人の性格および平素の行
状右行為の他の職員に与える影響および他の職員に対する訓戒的効果等の事情をし
んしやくする必要があるが、とくに本件のごとき教師については、当該教育に利害
を有する生徒、父兄等に対する配慮も不可欠である。しかしてこれらの点について
の判断は教育事情に通ぎようし直接その衝に当るものの裁量に任すのでなければ適
切な結果を期待できない。
しかし他面、懲戒免職処分は、その者を排除するものであつて反省を求め以降の服
務義務違反の除去等を期待するものではないからその処分については憤重な考慮が
払われるべきである。本件の如く教師の教育内容に関連して行なわれる場合はとく
に他の一般教師に対する影響について深い考慮が払われるべきであろう。
以上のような観点から、任命権者が懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶべきかを決
定することは、その処分が全く事実上の根拠に基かないか重要な点において事実誤
認がある場合又は社会観念上著しく妥当を欠き懲戒権者に任された裁量権の範囲を
こえる場合を除いてはその裁量に任されるものと解するを相当とする。
原告P22に対する本件懲戒免職処分は、重要な点において事実誤認があるとは云
えず前記認定の懲戒事由に対する処分としていまだ社会観念上著しく妥当を欠くと
は考えられないので、同原告に対する処分が違法であるとの原告ら主張は採用する
ことができない。
(二) 原告Uについて
同原告に対する処分事由中懲戒処分の対象となり得るものは(イ)昭和四四年度三
年生の日本史の中間試験問題の一部が同科目の目標内容を逸脱して出題され、これ
に対する評定が日本史の単位修得の認定についての基礎資料の一部としたこと
(ロ)昭和四三年度三学期(一年生)地理Bの試験問題の一部及び昭和四四年度
(一年生)地理Bの試験問題の一部が同科目の目標、内容を逸脱して出題されこれ
に対する評定が地理Bの単位修得の認定についての基礎資料の一部としたこと、が
いずれも本件学習指導要領の法的拘束力ある「単位修得の認定」に関する条項に牴
触することである。
しかし右の逸脱した試験問題は一部であつて学年末の五段階成績評価に多少の影響
はあつたとしても、少なくとも「単位修得の認定」そのものについてこれを左右す
るほどの比重は考えられないしまたその立証もない。
その他の教科書不使用、生徒に対する指導監督の懈怠の処分事由は事実誤認であ
る。従つて同原告に対する懲戒免職処分は重要な点において事実を誤認し、なお右
学習指導要領の違反のみをもつて右処分を行なうことは社会観念上著しく妥当を欠
き懲戒権者に任された裁量権の範囲を逸脱したものと解されるから裁量権を濫用し
たものというべきである。
(三) 原告Tについて
同原告に対する処分事由中懲戒処分の対象となり得るものは、昭和四四年度同原告
の担当する二年の倫理社会及び三年の政治経済の成績評価にあたり同年度一学期に
レポート提出者に一律に六〇点、不提出者に一律に五〇点と評定したことが教師と
しての「職務を怠つた場合」に該ることである。
その余の教科書不使用は事実誤認に基くものであり学習指導要領違反は被告の法解
釈を前提として事実に適用したものであつて当裁判所は採用しない。従つて同原告
に対する懲戒免職処分も重要な点において事実を誤認しまたは法解釈を誤つて適用
したものである。
なお右評定についての違反のみをもつて右処分を行なうことは社会観念上著しく妥
当を欠き懲戒権者に任された裁量権の範囲を逸脱したものと解されるから裁量権を
濫用したものというべきである。
第七 結論
以上の次第であるから被告の原告U、同Tに対する各処分は被告が裁量権を濫用し
たちのとして行政事件訴訟法第三〇条により右各処分を取消すべきものであり、原
告P22に対する処分は違法性がないので同原告の請求を棄却し訴訟費用について
は民事訴訟法第八九条第九二条により主文のとおり判決する。
別紙一~五(省略)

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