弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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主文
被告人を懲役6年に処する。
未決勾留日数中240日をその刑に算入する。
理由
【罪となるべき事実】
第1被告人は,酒気を帯び,呼気1リットルにつき0.15ミリグラム以上のア
ルコールを身体に保有する状態で,平成18年2月25日午前1時ころ,愛知
県春日井市a町b丁目c番地のd付近道路において,普通乗用自動車を運転し
た。
第2被告人は,上記日時ころ,業務として上記車両を運転し,上記場所先の信号
機により交通整理の行われている交差点を名古屋市西区方面から愛知県春日井
市e町方面に向かい直進しようとしたのであるから,このような場合,自動車
運転者としては,対面信号機の灯火信号の表示を確認し,その表示する信号に
従って進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り,対面信号機が赤色
の灯火信号を表示しているのに,これを看過し,漫然,時速70ないし80キ
ロメートルの速度で自車を運転して同交差点内に進入した過失により,折から
左方道路から青色信号に従って同交差点内に進入してきたA(当時68歳)運
転の普通乗用自動車右側部に自車前部を衝突させ,よって,別紙1記載のとお
り,上記Aほか3名を死亡させるとともに,別紙2記載のとおり,E(当時2
2歳)ほか1名に傷害を負わせた。
【補足説明】
第1争点
本件の争点は,①本件前における被告人の飲酒量,②被告人が赤信号を「殊
更に無視」したか否か,の2点である。
当裁判所は,飲酒検知の結果に基づいて判示第1のとおりの事実を認定した
が,被告人が赤信号を殊更に無視したと認定するには合理的な疑いが残ると判
断し,判示第2のとおり予備的訴因である業務上過失致死傷の事実を認定した。
その理由は以下のとおりである。
第2飲酒量について
1弁護人の主張
弁護人は,被告人が酒を飲んだ上で自動車を運転したことは争わないが,そ
の飲酒量について,本件事故の前日である平成18年2月24日午後10時3
0分ころから午後11時30分ころまでの間に,冷酒用グラスに八分目まで注
いだ日本酒1杯(約60ミリリットル)を飲んだだけであって,これよりも多
量の酒を飲んだことを示す飲酒検知の結果は正確性に問題があると主張する。
そして,被告人もこれに沿う供述をしている。
2当裁判所の判断
(1)前提となる事実関係
関係証拠によれば,以下の事実が認められ,これらについては争いがない。
被告人は,同月25日午前1時ころ本件事故を起こし,同日午前2時20
分ころ,搬送先の病院において,警察官Gによる飲酒検知を受けたが,その
結果は,呼気1リットル当たり0.35ミリグラムのアルコールが含まれる
というものであった。その数値から推定される飲酒量は,被告人が飲酒検知
の3時間前に飲酒したとすると,被告人が飲んだとされている日本酒であれ
ば,算出方法により,約235ミリリットルないし約450ミリリットル又
は約346ミリリットルないし約475ミリリットルに相当する。また,被
告人は,本件の前々日である同月23日夜から翌24日朝にかけて発泡酒を
飲んだが,この飲酒が今回の飲酒検知の結果に影響を及ぼすとは考えられな
い。
(2)証拠
ア証人Gの捜査報告書及び公判供述
飲酒検知を行った警察官Gは,その際の状況について,その作成にかか
る捜査報告書(甲17)及び当公判廷において,以下のとおり供述してい
る。
本件当日,交番勤務中に,本件事故の当事者の把握と事情聴取をするよ
うにと指揮を受け,被告人が搬送された病院に行った。被告人は,病院に
到着するとまずレントゲン室へ入り,その後トイレに行ってから車椅子で
処置室に運ばれた。自分は,処置室から出てきた被告人に対し,飲酒検知
を行うことにした。まず,被告人に飲酒検知を行うと告げ,うがいをさせ
てから風船でその呼気を採取し,北川式飲酒検知管SE型の新品の検知管
の両端を割り,風船を取り付けて吸引機で1回吸引し,そのアルコール濃
度を測定した。その結果,検知管は,0.35と0.4の中間の値を示し
ていたので,両者のうち小さい値である0.35を採用した。その検知管
を封筒に入れて糊付けし,被告人に割印を求めたが,いったんは拒否され
た。引き続き,鑑識カードの質問事項を被告人に尋ねたところ,被告人は,
飲酒量の質問に対し,最初は酒は飲んでいないと答え,更に質問を受けて
発泡酒を3本,缶で1.6リットルくらい飲んだなどと答えた。なお,被
告人から1メートルくらい離れたところからでもアルコール臭を感じた。
被告人の顔色は赤く,目は充血していた。歩行能力や直立能力の検査を行
ったが正常であった。その後,被告人は説得に応じ,「飲酒は認めるが,
酒気帯び運転は認めない。」などと言いながら割印をした。
イ証人Hの公判供述
本件直後に現場を通りかかり,被害者の救助活動に当たっていたHは,
当公判廷において,救助活動の合間に被告人にも声を掛けたが,その際,
被告人車両の中でアルコール臭がしていた旨供述している。
ウ証人Iの公判供述
本件事故の約50分後に現場に臨場し,被告人から事情を聴取した消防
士Iは,当公判廷において,被告人から,すぐに分かるほど強いアルコー
ル臭がしたこと,被告人に氏名等を尋ねた際,被告人ははっきりと自分の
名前を名乗り,膝が痛い旨答えたが,声が大きく,ろれつが回らないよう
な状態であったことなどを供述している。
(3)上記証言の信用性の検討
証人Gは,職務の一環として被告人の飲酒検知を行った交番勤務の警察官
であり,マニュアルで決められた手順に従って飲酒検知を行ったことやその
際の被告人の態度等について,その供述の信用性を疑わせる具体的な事情は
見当たらない。
証人Hは,偶然事故現場に居合わせた通行人であり,証人Iは,事故によ
る出動要請を受けて現場に臨場した消防指令補であって,いずれも被告人と
面識がなく,公判廷においてあえて虚偽の内容の供述をすることは考えにく
い。いずれもその供述の信用性を否定する事情を見出すことはできない。
また,互いに面識がなく,立場も異なる3名の証人が,近接した時期の異
なる場面において,被告人が酒気を帯びた状態であると認識したという点で
一致した内容の供述をしているのであって,3名の供述は互いにその信用性
を支え合う関係にあるといえる。
したがって,証人H,同I,同Gの各公判供述はいずれも信用できる。
(4)飲酒検知の正確性について
信用できる証人Gの供述によれば,飲酒検知は,マニュアルで決められた
手順に従い,新品の検知管を使って行われた。被告人は,呼気を採取する前,
飲酒検知を行うと告げられた上でうがいをしたと認められ,嘔吐による影響
は考えにくい。同証人が飲酒検知を行った経験は,警察官になってから本件
までの約9年間で30回程度であり,仮にこれが弁護人主張のように経験豊
富とはいえない程度のものであったとしても,このことは飲酒検知の結果に
直接影響を与える事情とはいえない。飲酒検知を行う条件についても,温度
が低すぎるとその正確性に疑問が生じ得るが,今回は病院の室内において,
検知管を暖房の効いた室内に持ち込んで約10分後に行われており,誤差が
生じた可能性は低い。被告人が病院で受けた治療が測定結果に何らかの影響
を与えたという事情も窺えない。
また,呼気1リットル当たり0.35ミリグラムという数値から計算され
る上記(1)記載の飲酒量は,それ自体特に不自然な量であるとはいえず,ま
た,証人G,同H,同Iの公判供述から認められるアルコール臭の存在や,
被告人の言動,顔色等とも矛盾しない。また,直立能力や歩行能力の検査の
結果が正常であったこととも矛盾しない。
本件において,飲酒検知の正確性を疑わせる事情は見当たらず,検知管が
示した数値は,被告人の呼気中のアルコール濃度を正確に反映したものであ
ることが認められる。
(5)被告人の供述
被告人は,当公判廷において,順序についての記憶ははっきりしないが,
飲酒検知の前にトイレに行って嘔吐した記憶がある旨を供述している。しか
し,この供述は,信用できる証人Gの供述と異なっている。また,被告人は,
捜査段階においては,うがいしたこと自体を否定していたと認められるとこ
ろ(乙5,7,9),公判においてはうがいをしたことは認めるがいつ頃か
分からない旨供述を変遷させている。いずれもそもそも記憶が明確でないま
まの供述ではないかと考えられるが,その変遷理由について合理的な説明は
ないといわざるを得ない。被告人の供述を信用することはできない。
(6)結論
したがって,本件当日の午前2時20分ころ,被告人が,呼気1リットル
につき0.35ミリグラムのアルコールを身体に保有していたことが認めら
れ,判示第1のとおりの事実が認定できる。
第3危険運転致死傷罪の成否
1主位的訴因
判示第2の事実に係る主位的訴因は,「被告人は,平成18年2月25日午
前1時ころ,普通乗用自動車を運転し,愛知県春日井市a町b丁目c番地のd
先の信号機により交通整理の行われている交差点を名古屋市西区方面から愛知
県春日井市e町方面に向かい直進するに当たり,同所の対面信号機が赤色の灯
火信号を表示しているか否かについて意に介することなく,同信号機が既に赤
色の灯火信号を表示していたとしてもこれを無視して進行しようと考え,同信
号機が赤色の灯火信号を表示していたのに,これを殊更に無視し,重大な交通
の危険を生じさせる速度である時速70ないし80キロメートルの速度で自車
を運転して同交差点内に進入したことにより,折から左方道路から青色信号に
従って同交差点内に進入してきたA(当時68歳)運転の普通乗用自動車右側
部に自車前部を衝突させ,よって,別紙1(本判決の別紙1と同一)記載のと
おり,Bほか3名を死亡させるとともに,別紙2(本判決の別紙2と同一)記
載のとおり,E(当時22歳)ほか1名に傷害を負わせた」というものである。
検察官の主張は,本件当時,被告人は信号による規制自体を無視し,赤信号
であるか否か意に介することなく,本件交差点に進入したというものである。
これに対し,弁護人の主張は,被告人は青信号だと思い込んで本件交差点に進
入したというものである。
2検討の方法
信号表示の認識や信号による規制に対する態度といった事実は,被告人の内
心的事実であり,これに関する被告人の供述が直接的な証拠であるほかは,直
接これを立証する証拠はないことから,当時の客観的状況や被告人の運転態度
などの間接事実からその当時の被告人の心理状態を推認することによって検討
する必要がある。
そこで,当裁判所は,まず,①本件当時の被告人車両の走行状況や運転態度
を証拠から認定し,②それらの事実から被告人が赤信号を殊更に無視したと認
めることができるか否かを検討した上で,③赤信号を看過した可能性の有無に
ついての検察官の主張を検討し,④被告人の供述の信用性にも触れ,⑤結論を
出すことにする。
3被告人車両の走行状況と運転態度
(1)前提となる事実(本件現場の状況及び被告人車両の経路)
関係証拠によれば,以下の事実が認められ,これらについては争いがない。
本件事故現場であるa町b丁目交差点(以下,「本件交差点」ともい
う。)は,東西に走る国道甲号線と南北に走る県道乙線が交差する信号機に
より交通整理の行われている交差点である。被告人が東進していた国道甲号
線は,最高速度が時速50キロメートルと指定され,片側2車線で交差点手
前では右折レーンが設置されている道路である。
本件当時,被告人は,内妻の子(当時4歳。以下,単に「子供」ともい
う。)を乗せた自動車(丙。以下,「被告人車両」という。)を運転し,自
分の経営する店から帰宅する途中であった。被告人車両は,国道甲号線にf
交差点から入り,第2車線を東へと直進し,g交差点(以下,「二つ手前の
交差点」ともいう。),h交差点(以下,「一つ手前の交差点」ともい
う。)を通過して,同日午前1時ころ,本件交差点に至った。そして,客観
的には同交差点の対面信号機が赤色を表示していた状況で,時速70ないし
80キロメートルの速度で同交差点に進入したことにより,本件事故を起こ
した。衝突の状況は判示罪となるべき事実第2のとおりである。
(2)当事者の主張
ア検察官の主張
検察官は,本件当時における被告人の運転状況は以下のとおりであった
と主張している。
「(ア)二つ手前の交差点付近において,クラクションを鳴らして通行車両
に警告を発し,急な車線変更を多用しつつ,高速度で他の走行車両を次
々と追い越して走行して,黄色から赤信号に変わるタイミングで同交差
点を通過した。
(イ)一つ手前の交差点において,赤信号のまま同交差点を通過しなけれ
ばならないやむを得ない事情もないのに,同交差点手前でクラクション
を鳴らし続けて交差道路の通行車両に警告を発しつつ,赤信号のまま同
交差点を通過して,引き続き時速約70ないし80キロメートルの速度
で走行した。
(ウ)本件交差点においても,同交差点手前で(イ)同様にクラクションを
鳴らし続けて交差道路の通行車両に警告を発しつつ,その後,ブレーキ
をほとんどかけないまま上記速度で赤信号のまま同交差点に進入して本
件事故を起こした。」
そして,検察官は,そのような運転状況に加え,被告人が走行していた
国道甲号線は,ほぼ直線であり,視界を遮る障害物はなく夜間でも見通し
がよいこと,二つ手前の交差点と一つ手前の交差点との距離は約400メ
ートル強,一つ手前の交差点と本件交差点との距離は約200メートル強
であり,時速約70キロメートルの車両がそれぞれの各交差点間を通過す
る時間は約20秒及び約10秒という短時間であることからすれば,この
ような短時間で上記(ア)ないし(ウ)のとおりの無謀ともいうべき走行方法
をする運転者にとっては,一つ手前及び本件交差点においては,もはや信
号表示など一切意に介さず,信号表示に従う意思がおよそなかったとみる
のが自然かつ合理的であると主張している。
イ弁護人の主張
これに対し,弁護人は,本件当時における被告人の運転状況は以下のと
おりであるとし,被告人が本件交差点では青信号だと思い込んでいたと主
張している。
「(ア)国道甲号線と立体交差する国道丁号線の下をくぐった後,本件交差
点の三つ手前の交差点に至るまでの間に,同乗していた子供がクラクシ
ョンを鳴らしたことが1度あった。その後,先行車両を追い越すため左
側の車線に入り,追い越し後,左側の車線前方に別の先行車両がいたた
め右側の車線に戻るという走行をした。この時点では,この2台の車両
に向けてクラクションを鳴らしたことはなく,また,両車両に接近して
車線変更をするような運転はしていない。
(イ)一つ手前の交差点の手前で,運転席と助手席の中央部分にいた子供
が,ハンドルの方に手を伸ばし,その際にハンドル操作を誤って被告人
車両の右側部分が中央分離帯に近付き,チッという音がした。自車が損
傷したことを考えているうちに同交差点が直前に迫った。そのため,赤
信号で停止できないと判断し,同交差点を抜けきるまでクラクションを
押し続ける状態で長目に鳴らして通過した。
(ウ)その後,被告人は,一つ手前の交差点を無事通過したことや,車内
で子供がクラクションに気を取られたり音楽に合わせて踊ったりしてい
たので若干気の緩みがあったことも起因したのか,本件交差点が青信号
であると勘違いして,そのまま同交差点に進入してしまった。」
(3)走行状況等
以上の当事者の主張を踏まえ,証拠によって認定できる事実関係を確定し
た上で,争点について検討する。
ア二つ手前の交差点付近における走行状況
(ア)認定した事実
被告人は,二つ手前の交差点よりも手前(西側)において,自己車両
の前方,第2車線上を走行していた上記H運転の自動車(以下,「H車
両」という。)に対し,後方からクラクションを鳴らしながら接近し,
左側車線に車線変更をして追い越すと,再びH車両の前方に割り込もう
とし,その直後に左側へ車線変更をしながら他の車両を追い越した後,
再び右側へ車線変更をして第2車線に戻った。そして,スピードを緩め
ずに同交差点を通過した。被告人車両が同交差点を通過するころ,それ
まで青色だった同交差点の信号表示が変わった。
(イ)認定の理由
上記の被告人車両の走行状況は,証人Hの公判供述によって認定でき
る。
弁護人は,証人Hには被告人が加害者であるという意識があり,その
供述は信用できないと主張し,その根拠として,同証人の供述には,①
捜査段階において,被告人車両に追い抜かれたときの位置関係を書いた
図面は,実際の道路と車線の数などが異なり,公判で書いた図面と比較
すると周りを走っていた車の台数も異なっていること,②自己の車両が
二つ手前の交差点で停止した位置についても,捜査段階では先頭で停ま
ったどうか分からないと述べたのに対し,公判廷では右折レーンの先頭
で停まったなどと述べ,供述を変遷させていること,③被告人車両が同
交差点を通過したときの信号の色について,捜査段階では青から黄色に
変わるころと述べたのに対し,公判供述では黄色から赤に変わるころと
述べ,被告人により不利益になるように供述を変遷させていること,④
被告人がゼブラゾーンにはみ出して走行したという供述について,実際
のゼブラゾーンにはポストコーンが設置されていることからするとその
ような走行はあり得ないことなどといった問題点があると指摘する。
しかし,証人Hは,これまで被告人と何の関係もなかった第三者であ
り,法廷で宣誓した上であえて虚偽を述べて被告人を陥れようとするほ
どの動機は見受けられない。供述内容をみても,クラクションの音によ
り被告人車両の存在に気付いてから同車両に追い越されたときの状況に
ついて,自分や同乗者の動作等も併せて具体的に供述しており,内容自
体も自然である。また,弁護人が指摘(②)するとおり,捜査段階の供
述とやや異なる部分はあるものの,その根幹部分,すなわち,被告人車
両がクラクションを鳴らして自車の後方から接近したこと,被告人車両
が,車線変更をして自車をぎりぎりの距離で追い越すや,すぐ前に割り
込もうとし,また左側に寄って前方の車を追い越し,さらに,右に車線
変更をして第2車線に戻ったということ,自分は二つ手前の交差点で信
号待ちのため停止したが,被告人車両はそのまま直進していったことに
ついては,捜査及び公判を通じて一貫している。
弁護人が信用性を否定すべきであるとする根拠(①)として挙げる捜
査段階で書かれた図面は,実際の道路状況を忠実に反映したものではな
く,同証人がその記憶しているイメージを表現したものであり,その車
線変更のおおまかな状況等は,公判供述と一致している。弁護人が指摘
する実際の道路状況や公判供述との違いは,その供述の信用性を否定す
る事情となるものではない。二つ手前の交差点の信号の色についての供
述の変遷(③)についても,証人Hは,被告人が二つ手前の交差点を通
過したとき,信号は黄色から赤色だったと述べる一方で,その点につい
ての記憶があいまいである旨正直に述べた上で,少なくとも,自分が赤
信号のために停車したことを根拠に信号の変わり目であったことを述べ
ており,その限度では内容は一貫しているのであって,自車の動きと関
連付けた記憶を根拠にした内容である。また,被告人車両がゼブラゾー
ンにはみ出したという供述(④)は,被告人車両が左に車線変更した際,
ハンドルの操作が急激で曲がり切れずにはみ出して行ったように見えた
というものであり,ゼブラゾーン上に,断続的にポストコーンが点在し
ていることと必ずしも矛盾する内容ではない。
以上のとおり,証人Hの公判供述は,大要において信用することがで
き,上記(ア)に挙げた事実については同証人の供述により認定すること
ができる。
これに対し,被告人は,子供がクラクションを鳴らしたことが1回あ
ったが,それはもっと前での出来事であり,H車両に対してクラクショ
ンを鳴らしたことはない,左に車線変更してH車両を追い越した後,そ
の車線前方に先行車両がいたので,H車両の前方で右に車線変更したが,
その際には,車間距離は十分に取った,自分が追い抜いた車は他にはな
いなど供述するが,上記認定の事実に反する部分はそのまま信用するこ
とはできない。
イ一つ手前の交差点付近における走行状況
(ア)客観的な走行状況
関係証拠によれば,以下の事実が認められ,これらについて争いはな
い。
被告人車両は,一つ手前の交差点に差しかかったとき,同交差点は既
に赤信号であり,左側の第1車線では,J運転の自動車が同交差点手前
で停止するため減速していた。被告人は,この車両を追い越し,赤信号
であることを認識しつつ,時速約70ないし80キロメートルの速度で
同交差点を通過し,同交差点を通過する間クラクションを鳴らし続けた。
(イ)被告人の運転態度
a被告人の供述
被告人は,一つ手前の交差点で上記のような運転をした理由につい
て,その手前で,子供が運転席と助手席との間に立ってクラクション
に向かって手を伸ばしてきたことに動揺して自車が右側の縁石に接触
したことや,同児が音楽に合わせて踊っていることなどに気を取られ,
交差点直前に至るまで赤信号だと気付かず,赤信号に気付いたときに
は停止線手前で停まれる状況になかったので,やむを得ずクラクショ
ンを鳴らし続けながら速度を落とさず直進した旨供述している。なお,
被告人車両の中での出来事についての証拠は,被告人の供述のみであ
る。
b被告人供述の信用性
検察官は,被告人の供述が変遷していることなどを挙げてその信用
性を争い,被告人には赤信号のまま同交差点を通過しなければならな
いやむを得ない事情は全くなかったのに,あえて赤信号を無視したと
主張する。
この点についての被告人の供述経過をみると,被告人は,捜査段階
において,当初は一つ手前の交差点も青信号であったと供述していた
のに,途中から,赤信号であったことを認めた上で子供の行動が原因
となったことを供述し始めた。このように供述を変遷させた理由につ
いて,被告人は,取調官からは二つの信号を無視して事故を起こした
と言われていたため,一つ手前の交差点の信号無視についてその原因
が子供の行動にあることを話すと,子供が将来負い目を感じることに
なると思い,当初は子供のことを黙っていたなどと供述している。一
つ手前の交差点における赤信号無視の事実は,本件事故の直接の原因
とはなっていないが,本件当時における危険な運転行為の一環と評価
され得るものであることを考えると,このような供述を変えるに至っ
た理由についての被告人の供述は一概に不合理であるとは言い切れな
いところがある。
また,被告人は,一つ手前の交差点直前に至るまで赤信号に気付か
なかった理由について,検察官からの質問に対して「意識して信号を
見ていなかった。」などと述べるのみで,さらにその原因となる具体
的事情を明らかにし得てはいないが,単なる不注意等によって信号の
認識が遅れることも起こり得ないものではないことを考えると,この
ような供述について,虚偽を述べたものであると断定することはでき
ない。
そして,その供述内容は,赤信号の交差点をクラクションを鳴らし
続けながら高速度のまま通過した理由の説明として,成り立ちうるも
のである。
c小括
そうすると,子供の行動に気を取られて信号に気付くのが遅れたと
いう可能性については,これを完全に排除することはできないという
べきである。
ウ一つ手前の交差点から本件交差点までの走行状況
(ア)証拠上認められる走行状況
被告人車両は,時速70ないし80キロメートルの速度のまま走行し,
対面信号機が赤信号であるにもかかわらず,ブレーキも掛けずに,本件
交差点に進入した。なお,一つ手前の交差点から本件交差点までの距離
は約222.1メートルである。
他方,その直前ころ,交差道路である県道乙線では,被害者A運転の
タクシー(以下,「被害車両」ともいう。)が乗客を乗せて南進し,本
件交差点に差しかかっていた。そして,被害車両は,青信号に従い,先
行して走っていた別のタクシーの後に続いて同交差点に進入した。そし
て,その先行するタクシーが通過した直後,被告人車両が本件交差点に
進入し,被害車両の右側面に自車の前部を衝突させた。
被告人は,一つ手前の交差点通過後39.73メートルないし49.
46メートル移動する地点までクラクションのスイッチを押していたが,
その後本件交差点に至るまでの間,クラクションを鳴らした事実は証拠
上認められない。また,被告人は,本件交差点に進入するに当たり,そ
の付近においては,クラクションを鳴らさなかったと認められる。
この点についての検察官の主張は上記3(2)ア(ウ)のとおり,「本件
交差点においても,同交差点手前で一つ前の交差点のときと同様にクラ
クションを鳴らし続けて交差道路の通行車両に警告を発しつつ,その後,
ブレーキをほとんどかけないまま上記速度で赤信号のまま同交差点に進
入して本件事故を起こした。」というものであるが,その立証は不十分
であるといわざるを得ない。検察官は,論告においては,被告人が,本
件交差点の手前104.6メートルの地点までクラクションを鳴らし続
けたという事実を前提としても,本件交差点に向けた警告であったと主
張するが,その意味でのクラクション吹鳴とは認められない。
(イ)認定の理由
a当事者の主張(クラクション吹鳴があった地点及びその意味)
検察官は,被告人は本件交差点の104.6メートル手前の地点ま
でクラクションを鳴らし続けていたのであり,それは本件交差点を通
行する車両に対する警告のために鳴らしたものであると主張する。他
方,弁護人は,被告人は一つ手前の交差点をクラクションを鳴らし続
けた状態で通過したが,本件交差点に向けてクラクションを鳴らした
ことはないと主張し,被告人も一つ手前の交差点を通過する間はクラ
クションを鳴らし続け,通過後一,二秒してから手を離したなどとこ
れに沿う供述をする。
b証人Kの公判供述等
本件直前に被告人車両の反対車線を車で走行し,被告人車両とすれ
違った証人K(以下,「K」ともいう。)は,当公判廷において,本
件交差点を北から西へと右折した後,被告人車両とすれ違ったこと,
その際,被告人車両が対向車線を前方から接近して真横を通る時点ま
で,そのクラクションが鳴り続けた状態であったこと,それ以後は聞
こえなかったことを供述し,捜査段階ではすれ違った場所として本件
交差点から104.6メートルの地点を現場で指示している(甲2
3)。
証人Kは,仕事として車を運転中,偶然被告人車両とすれ違った第
三者であり,あえて虚偽を述べる動機は乏しい。また,本件事故から
10日後に,すれ違った地点を警察官に指示説明している。その供述
の信用性を疑わせる事情は見当たらない。
したがって,証人Kの供述は信用でき,同人が本件交差点の約10
4.6メートル手前の地点で被告人車両のクラクションを聞いた事実
が認められる。
cクラクションの設定
被告人車両に取り付けられたクラクションは,そのスイッチから手
を離した後余韻が残るように設定することができるものである。本件
当時の設定がどちらであったかは,証拠上判明していない(この設定
について,被告人は,捜査段階において,一時は余韻の残らない状態
になっていたと思う旨供述し(乙5),その後余韻の残る状態であっ
たと供述を変遷させているが,その供述では当時のクラクションの設
定を認定することはできない。)ので,被告人に有利に考えるほかな
い。余韻の残る設定になっていたとすると,被告人が,証人Kがクラ
クションを聞いた位置よりも手前でクラクションのスイッチを離して
いた可能性が否定できないこととなる。
d被告人がクラクションのスイッチを離した地点
そこで,クラクションが余韻の残る設定になっていた場合において,
被告人がどの地点までクラクションのスイッチを押していたと認めら
れるかを検討する。
スイッチから手を離した後に余韻の残る時間は,被告人車両に取り
付けられたクラクションの型では,設計値で1.4秒ないし4.5秒
間,実力値で2.5秒ないし3.5秒間である(甲56)。その余韻
の残り方は,手を離した後1秒程度はスイッチを押した状態と同様の
音量であるが,時間の経過に従って音が小さくなり,設計値の最長値
4.5秒後には聞き取ることが難しい(甲78)。もっとも,個々の
機械にはある程度のばらつきがあること(甲80)を考慮すると,実
力値の最長値3.5秒後までは相当程度の音量が保たれていた可能性
は否定できないというべきである。
そこで,被告人がクラクションのスイッチから手を離した後3.5
秒間余韻が残るとして計算すると,その間に被告人車両が進む距離は,
時速80キロメートルの速度では約77.77メートル,時速70キ
ロメートルの速度では約68.04メートルである。K車両とすれ違
った地点からその距離を差し引いて考えると,被告人車両は,一つ手
前の交差点を通過してから,その速度が時速80キロメートルの場合
には約39.73メートル,時速70キロメートルの場合には約49.
46メートルの距離を移動した地点まで,クラクションのスイッチを
押していたことになる。
すなわち,被告人は,一つ手前の交差点を通過後約39.73メー
トルないし約49.46メートル移動した地点まで,クラクションの
スイッチを押していたことが証拠上認められる。
eその後のクラクション吹鳴の有無
Kがクラクションを聞いた本件交差点の104.6メートル手前の
地点より本件交差点に近い地点において,被告人車両のクラクション
が鳴っていたことを示す証拠はない。
当時,被害車両に先行して走っていたタクシーの運転手L,その乗
客M,被害車両の後続車両に乗っていたNとO,及び,本件時におい
て本件交差点東側停止線付近で信号待ちをしていた自動車内にいたP
は,捜査段階において,いずれもクラクションを聞いた旨の供述はし
ていない。これらの者は,いずれも本件事故の時点で現場近くにいた
ため本件事故の状況を見聞きしており,事故直後の記憶が鮮明な時期
にその状況について事情聴取を受けたものである。いずれの者の調書
にも被告人車両のクラクションについて言及した記載はなく,クラク
ションが鳴らなかったと明言はしていないが,クラクションを聞いた
記憶があれば,そのことを進んで供述するのが自然である。また,重
大事故の初動捜査においては,現場にいた参考人からの事情聴取に当
たり,事件の解明に関連がありそうな事情を幅広く聴取していると思
われる。このことを併せ考えると,特に,上記L及び同Mのように,
衝突音を聞いて事故に気付いた旨供述している者については,捜査官
もその詳しい状況を聴取しようと努めるであろうし,これらの者がも
しクラクションの音を聞いていたのであれば,音に関する記憶として
衝突音と併せて記憶し,取調べにおいても供述しているはずである。
それにもかかわらず,これらの者のうち誰もクラクションについて供
述していないということは,その地点ではクラクションが鳴っていな
かったことを意味していると考えられる。
したがって,被告人は,本件交差点に進入するに当たり,その付近
においてはクラクションを鳴らさなかったと認められる。
f検討
以上を前提にすると,証拠上,被告人がクラクションのスイッチを
押していたと認められるのは,一つ手前の交差点通過後約39.73
メートルないし約49.46メートルを移動した地点までであり,こ
の距離は,被告人車両の上記速度では1.8秒ないし2.5秒で移動
できる範囲である。そして,その地点以降,被告人がクラクションの
スイッチを押した事実を示す証拠は見当たらず,また,被告人は,本
件交差点に進入するに当たり,その付近でクラクションを鳴らさなか
ったと認められる。
そうすると,一つ手前の交差点を通過後一,二秒してクラクション
から手を離した旨の被告人の供述は,上記の事実関係と矛盾するもの
ではなく,これを排斥することは困難である。
なお,検察官は,このような事実関係が認められるとしても,被告
人は,一つ手前の交差点を通過した後,なおもクラクションのスイッ
チを押していたのであり,これは一つ手前の交差点を通行する車両に
対する警告とはいえない旨主張する。しかし,クラクションによる警
告は,通常は交差点に進入する前や通過している最中に行うのが自然
であるが,交差点を通過した後に多少それがずれて,一,二秒間スイ
ッチを押したままであったとしても,殊更に不自然ということはない。
むしろ,上記の認定によれば,被告人は,一つ手前の交差点通過後
約39.73メートルないし約49.46メートルを移動した地点ま
でクラクションのスイッチを押していたが,その後本件交差点までの
残りの距離約172.64メートルないし約182.37メートルを
進行する間にはクラクションを鳴らさなかったのであり,これを時間
に直せば,被告人は,一つ手前の交差点通過後1.8秒ないし2.5
秒はクラクションのスイッチを押しておきながら,本件交差点に至る
までの約8.2秒ないし約8.9秒の間にはクラクションを鳴らさな
かったことになる。すなわち,被告人は,一つ手前の交差点を通過し
た後まもなくクラクションのスイッチから手を離し,その後本件交差
点に至るまでクラクションを鳴らさなかったと認められる。
そして,このような行動からすると,検察官が主張するように,被
告人が本件交差点を通行する車両への警告の趣旨でクラクションを鳴
らしたと考えるには無理があり,合理的な疑いが残るといわざるを得
ない。
4上記の走行状況の検討
以上の事実関係を前提に,被告人が赤信号を殊更に無視したと認められるか
を検討する。
(1)本件交差点に至るまでの運転態度
被告人は,二つ手前の交差点の手前において,車線変更を繰り返しながら
他の車両を追い抜き,信号の変わり目で同交差点を通過した上,一つ手前の
交差点において,赤信号を無視してクラクションを鳴らし続けながら,指定
最高速度を時速20キロメートル以上上回る速度で同交差点を通過した。そ
の客観的な運転状況は,交通ルールに著しく違反した危険で無謀なものであ
る。
もっとも,上記のとおり,被告人車両が二つ手前の交差点を通過するとき
は信号の変わり目であり,信号がまだ青色であるか,青色から黄色に変わる
ときであった可能性があるのであって,この時点において被告人が信号の規
制自体を無視していたとはいえない。また,一つ手前の交差点を赤信号で通
過した背景には,その手前で子供の行動に気を取られて赤信号に気付くのが
遅れたという可能性が否定できない。その場合には,被告人の主観としては,
赤信号で停止できずにやむを得ずに交差点に進入したことになる。
そうすると,二つ手前及び一つ手前の交差点における運転態度は危険を伴
うものであったものの,これをもって,本件当時被告人が信号の規制自体を
無視しようとしていたという心理状態であったと認めることはできない。
(2)本件交差点における運転態度
本件交差点に至るまでの道路は,前方の見通しは良好であるが,左側に防
音壁が,右側には高速道路の高架等が停止線付近まで続いているため,左右
の見通しはよくない(甲38,当裁判所の検証調書等)。しかし,被告人は,
本件交差点に進入する際,クラクションを鳴らさず,減速もしなかった(甲
19,20)。また,衝突直前には目の前をタクシーが横切ったのに,その
存在にも気付いておらず,本件交差点に進入するに当たり,同交差点内の状
況を確認していないことが認められる。なお,本件交差点は二つ手前及び一
つ手前の交差点よりも交差道路がやや広く,被告人は本件交差点を日ごろ通
行していた。
もし,被告人が,赤信号の表示を見ていながらそれを殊更に無視し,また
は,信号の規制自体を意に介することなく本件交差点を通過するつもりであ
ったならば,交差道路を走行してくる車両と衝突する危険を避けるために,
警告のためクラクションを鳴らしたり,進入する手前で速度を落として様子
を見たり,交差点内の車両の走行状況を確認したりするなどの危険を回避す
る行動をとるのが自然であると考えられる。そして,現に,被告人は,一つ
手前の交差点においては,それに至る事情はともかくとして,赤信号を無視
して同交差点を通過するに当たっては,危険を避けるためにクラクションを
鳴らし続けていたのである。このような観点からすると,本件交差点におけ
る被告人の運転は,本件当時,被告人が,内妻の子を同乗させて帰宅途中で
あったことも併せ考えると,信号の規制を無視しようとする者の行動として
はあまりに無防備で危険な態様である。
すなわち,本件交差点におけるこのような運転態度は,被告人が赤信号を
殊更に無視していたとすると不自然な点がある一方で,青信号だと思い込ん
でいたという被告人の供述とは矛盾しないと理解することができる。
(3)小括
そうすると,本件当時の被告人車両の走行状況や運転態度を総合考慮して
も,それらからは,被告人が,信号の規制を無視し,赤信号であるか否か意
に介することなく本件交差点に進入したという事実を推認するには不十分で
ある。本件交差点に進入する際には青信号と思い込んでいたという被告人の
弁解を排斥することはできない。被告人が信号規制を無視していたと認定す
るには,合理的な疑いが残るといわざるを得ない。
5検察官の主張について
検察官は,被告人が赤信号を誤って看過したという事態は考えられないと主
張するが,上記の認定を左右するものはない。検察官の具体的な主張内容とそ
れに対する当裁判所の判断は,以下のとおりである。
(1)信号の連動性の認識について
検察官は,被告人には,一つ手前の交差点が赤信号であれば本件交差点も
赤信号となる連動性の認識を有していた上,一つ手前の交差点を赤信号で通
過したのであるから,本件交差点も赤信号となるであろうことを容易に認識
し得る状況にあったのであり,そのような状況にありながら赤信号を見間違
って看過することなどおよそ考えられないと主張する。
しかし,信号の連動性として通常理解されているのは,ある交差点を青信
号で通過したときに次の信号も青になるという関係であり,赤信号を無視し
て通過すれば次の信号も赤であるという関係は,一見その裏返しのようでは
あるが,日常の運転において必ず実感する現象ではなく,この意味での連動
性について被告人が当然認識していたと言い切ることは難しい。また,この
ような意味での信号の連動性について,被告人が仮に知識を有していたとし
ても,具体的な運転の場面において,とっさにその連動性について想起し,
一つ手前の交差点が赤信号であったから本件交差点も赤信号であると推論し,
認識するということが,常に可能であるとは限らないのであり,過失によっ
て赤信号を看過した可能性を否定することができない。
(2)客観的な道路状況について
検察官は,一つ手前の交差点から本件交差点に至る道路は,見通しが良好
であり,本件交差点手前には本件交差点の存在を予告する表示や標識も設置
され,本件交差点の赤信号も容易に認識し得る状況であって,よほど特別な
事情がない限り,赤信号を看過することは通常あり得ず,本件では青信号と
見間違えるような事情は存在しないと主張する。
検察官が指摘するとおり,一つ手前の交差点から本件交差点までの見通し
は良好であり,案内標識や道路上の表示から本件交差点の存在は明らかであ
る。また,本件交差点から少なくとも約100メートル手前付近から,道路
左側の透明板に本件交差点の赤信号2つ(なお,同交差点の被告人進行方向
の信号機は,交差点入口付近と出口付近の2箇所に設置されている。)が反
射して4つに見えること,一見して青信号と見間違えるおそれのあるような
物は見当たらないことも認められる(当裁判所の検証調書)。
しかし,注意力が散漫な状態で運転しているような場合には,信号表示が
目立つ状態にあったとしても,これを見過ごすことが全く起こり得ないとい
うわけではない。信号表示は本来,運転者にとって見やすく整備されるべき
であるところ,そのように整備された場所においてもなお信号看過を含む過
失による交通事故が発生しているのが実情である。
(3)事故直前の運転能力や運転態度について
検察官は,被告人が,酒気を帯びた状態で運転し,助手席にはチャイルド
シートを装着せずに幼児を乗車させながら,高速度で車を進行させ,二つ手
前の交差点の手前において,左右に大きく車線変更しながら複数の車両を次
々と追い越すという細心の注意が必要な際どい運転を,大型の乗用車で事故
を起こすことなく行ったのであり,本件当時運転能力を十分有していたこと
や,被告人が,信号の連動性について認識しており,本件交差点が赤信号で
あろうことを容易に認識し得る状況にあったこと,本件交差点は見通しが極
めて良いことからすると,被告人が赤信号を看過するはずがないと主張する。
しかし,運転能力の高さと信号表示に対する注意力の高さは必ずしも比例
関係にあるとは言い切れないし,運転態度についても,道路の状態,周囲を
走行する車の有無,車内の状況等に応じて,または,時間の経過により,変
化することも十分考えられる。二つ手前の交差点付近において,被告人が相
当程度の運転能力を示したことは,被告人が本件交差点において赤信号を看
過した可能性を排除するものではない。二つ手前の交差点付近で複数の車両
を追い越した際には,被告人が一定の緊張した精神状態にあったことが窺わ
れるが,本件交差点進入時にも同様の精神状態にあったという立証はない。
むしろ,被告人が供述するような,一つ手前の交差点を何とか無事に通過し
たという緊張感の緩みがあったとすれば,それは過失に結び付くものとも考
えられる。
また,検察官は,当時被告人は,酒気帯び運転に及んだ上,高速度で先行
車両を追い抜く危険な運転を繰り返し,一つ手前の交差点を赤信号で通過す
るという,交通法規を顧みない傍若無人な運転態度を示していたのであり,
このような被告人が,唐突に本件交差点の赤信号を守ろうとする意識を生じ,
赤信号を守ろうとするつもりであったのに誤って赤信号を看過したなどとい
うことも,極めて不自然であると主張する。
しかし,上記4(1)のとおり,本件交差点に至るまでの運転状況について
は,客観的には非常に危険で無謀なものであったが,被告人の主観的事情と
しては,一つ手前の交差点における信号無視は,信号による交通規制を守ろ
うという意識はあったが,子供の行動に気を取られ赤信号に気付くのが遅れ
たためのものであった可能性が排除できないのであり,検察官の主張はその
前提を異にするものである。
(4)本件交差点への進入に対する心理的抵抗について
検察官は,本件交差点が,交差道路の幅が約十数メートルしかなく,時速
70キロメートルで進入した場合でも1秒未満で通過しうる程度の比較的小
さな交差点であること,本件当時は深夜であり,交通量も比較的少ない時間
帯であること,被告人が現場交差点に到達した時点では,本件交差点は対面
信号機が赤を表示して一定時間が経過しており,本件交差点の左右道路で青
信号を待って発進した車両は既に通過しているであろうことも容易に予測で
きたこと,被告人が当時酒に酔っており,気が大きくなっていたであろうこ
とを併せ考えれば,当時の被告人にとって,信号規制を無視して本件交差点
に赤信号で進入することに対し,心理的に抵抗となる事情が乏しいことは明
らかであると主張する。
しかし,検察官が指摘する事情は,いずれも,被告人が信号の規制を無視
したとしても不自然ではないことを示すにとどまり,被告人が過失で赤信号
を看過した可能性を排除する性質をもつものではない。また,被告人は,本
件交差点よりも交差道路の幅の狭い一つ手前の交差点を通過するときには,
クラクションを鳴らして危険を回避する措置を取っていたのであり,このよ
うな被告人の行動からすると,被告人が,赤信号を認識しつつ,又は赤信号
であったとしても意に介することなく,かつ,クラクションを鳴らしたり減
速して左右を確認したりするなどの安全確保の方策を一切取ることなく本件
交差点に進入するということに,心理的な抵抗を感じなかったと考えるには
違和感を覚えざるを得ない。
ところで,被告人の元同僚である証人Qの公判供述等によれば,被告人が,
過去に高速度での走行,急な割り込み,赤信号無視などの危険な運転や飲酒
運転をしたことがあり,また,赤信号を無視して交差点を通過する際,クラ
クションを鳴らし続けながら走行したことがあると認められ,検察官は,こ
れを前提として,被告人が日ごろからそのような運転を繰り返していたと主
張した上,被告人が本件において信号表示などを意に介さない危険な運転を
したとしても,何ら不思議ではないと主張する。
しかし,関係証拠から認められる事実は,過去の特定の時点における被告
人の運転状況であり,別の時点においては常識的な運転態度をとっていたこ
ともあったと窺えることも考慮すると(証人Rの公判供述等),本件におい
て,被告人が危険で無謀な運転を常習的に繰り返していたと認めるには飛躍
がある。
6被告人の供述
(1)供述内容
被告人の供述は,上記3の関係箇所で検討したとおり,一つ手前の交差点
と本件交差点における運転状況については,客観的な事実関係に即してその
理由を一応合理的に説明しており,その信用性を否定することはできない。
もっとも,被告人は,青信号だと思い込んだ具体的理由については,工事
の看板を見間違えたのかもしれないなどと述べるにとどまり,具体的な根拠
を示し得ていない。しかし,人が思い違いや見落としをする原因は様々であ
り,外部的に明らかな事情によって説明が付く場合もあれば,具体的なきっ
かけや原因が思い当たらないのになぜか思い違いをしてしまうということも
全くないわけではない。赤信号を看過した理由について合理的な説明ができ
ないからといって,その供述が虚偽であると決め付けることは相当でない。
(2)供述経過
その供述経過についてみると,被告人は,事故直後に駆け付けた者から事
情を聞かれて「普通だった,普通だった」と述べ,救急車で病院に搬送され
る途中,「交差点に入ったら急に車が飛び出してきたんだ。」と話し,飲酒
検知の際にも,「赤信号を無視したのはタクシーの方だ。」と言うなど,事
故直後から自分の対面信号機が青信号だったと述べていた。そして,目撃者
の供述等から本件交差点が赤信号であったことを動かし難くなった後は,青
信号だと見間違えたと思う旨述べ(乙9),当公判廷においても同様の供述
をしている。つまり,被告人は,青信号だと思って本件交差点に進入したこ
とを事故直後の言動を含めて一貫して主張している。このような被告人の供
述状況は,被告人が本件交差点に進入する際には青信号だと思い込んでいた
ことと整合する事情として評価することができる。
もっとも,それ以外の点についてみると,被告人の供述は,一つ手前の交
差点の信号の色や,一つ手前の交差点と本件交差点の信号が連動しているこ
との認識の有無等について変遷しており,このような変遷は,供述の信用性
を考える上で無視することはできないが,本件交差点について青信号だと勘
違いしていたという被告人の供述の信用性に根本的な疑問を提起するには至
らない。
(3)小括
したがって,青信号だと思い込んで本件交差点に進入した旨の被告人の供
述について,その信用性を否定することはできない。
7結論
以上で検討したとおり,本件の全証拠を検討してみても,被告人が,本件交
差点に進入する時点においては青信号だと思い込んでいた可能性が払拭できな
いといわざるを得ない。
ところで,本件事故の背景としては,酒気を帯びた状態で運転し,4歳の幼
児を同乗させるのにチャイルドシートを用いず,同児が運転席付近で踊ったり,
ハンドルに手を出したりしている中で指定最高速度を上回る速度で走行を続け
たという被告人自身の危険極まりない運転態度が原因となっているといえる。
これらの一連の行為に対し,厳しい非難が妥当することは当然であろう。
しかし,刑法208条の2所定の危険運転致死傷罪は,その規定の形式から
明らかなように,単に重大な死傷事故を惹起する危険が高い運転行為により死
傷の結果を生じさせた場合の全てを処罰の対象としているわけではなく,その
中でも高度に危険な故意による運転行為として4つの類型を抽出した上,これ
に該当する運転行為により人を死傷させた場合に限って特に重く処罰するもの
である。このような趣旨からすると,赤信号を「殊更に無視」するとは,①赤
信号であることについて確定的認識があって交差点手前の停止線で停止するこ
とが十分可能であるのにこれを無視して交差点に進入する場合や,②信号の規
制自体を無視し,およそ赤信号であるか否かについては一切意に介することな
く,赤信号の規制に違反して交差点に進入する場合をいうと理解される。
そうすると,何らかの理由で,被告人が青信号と思い込んでしまったという
疑いが残る本件においては,被告人の主観的態度としては,青信号に従って交
差点に進入するつもりであり,すなわち信号の規制に従っているという心理状
態であって,この状態をもって被告人が「信号の規制自体を無視しようとして
いた」ということはできない。
結局,本件では,主位的訴因を認定することはできないが,被告人に予備的
訴因である業務上過失致死傷罪が成立することは証拠上明らかであり,弁護人
もこれを争わないので,判示第2のとおり認定する。
【法令の適用】
罰条
第1の事実平成16年法律第90号附則23号により同法による
改正前の道路交通法117条の4第2号,65条1項,
平成16年政令第390号による改正前の道路交通法
施行令44条の3
第2の事実
A,B,C,Dに対する各業務上過失致死の点
いずれも行為時においては平成18年法律第36号に
よる改正前の刑法211条1項前段(致死の場合)に,
裁判時においてはその改正後の刑法211条1項前段
(致死の場合)に該当するが,これは犯罪後の法令に
よって刑の変更があったときに当たるから,刑法6条,
10条により軽い行為時法の刑による。
E,Fに対する各業務上過失致傷の点
いずれも行為時においては平成18年法律第36号に
よる改正前の刑法211条1項前段(致傷の場合)に,
裁判時においてはその改正後の刑法211条1項前段
(致傷の場合)に該当するが,これは犯罪後の法令に
よって刑の変更があったときに当たるから,刑法6条,
10条により軽い行為時法の刑による。
科刑上一罪の処理
第2の罪刑法54条1項前段,10条(各業務上過失致死と各
業務上過失致傷は1個の行為が6個の罪名に触れる場
合であるから,1罪として最も重い業務上過失致死罪
の刑(各同罪の犯情に軽重はない)で処断)
刑種の選択
各罪いずれも懲役刑
併合罪の処理刑法45条前段,47条本文,10条(重い第2の罪
の刑に同法47条ただし書の制限内で法定の加重)
未決勾留日数刑法21条(240日算入)
訴訟費用刑訴法181条1項ただし書(被告人に負担させな
い。)
【量刑の理由】
本件は,被告人が,(1)酒気を帯びた状態で車を運転した道交法違反(判示第
1),及び,(2)赤信号を看過して交差点に進入した過失により,交差道路を走行
中であったタクシーの側面に自車前部を衝突させ,乗客3名とタクシー運転手を死
に至らしめ,乗客1名と自車の同乗者である4歳の子供に傷害を負わせた業務上過
失致死傷(判示第2)の事案である。
本件事故により,タクシーの乗客3名と運転手は生命を奪われ,乗客1名と被告
人車両に同乗していた子供が負傷した。青信号に従って交差点を通過しようとして
いたタクシーの乗客と運転手には,事故に遭わなければならない落ち度などは全く
ない。突然事故に巻き込まれた被害者らが受けたであろう驚愕や苦痛,その将来を
絶たれた被害者ら4名の無念さ,幸い負傷にとどまったが同僚らを失うことになっ
た被害者が受けた精神的衝撃,いずれをとっても,察するに余りあるものである。
家族を奪われた遺族らの悲しみは深く,怒りは激しい。そして,被告人に対する厳
罰を強く求めている。被告人は,被害者やその遺族らを慰謝することができない。
また,被告人車両に同乗していた被害者は当時わずか4歳で,加療約31日間を要
する眼底出血等の重傷を負ったのであり,その結果も重大である。
被告人は,自分の店で酒を飲み,そのまま自分の車に乗って帰宅する途中,本件
各犯行に及んだのであり,その経緯に同情すべき余地は全くない。
信号のある交差点に進入する前に信号の表示を確認することは,自動車を運転す
る際に果たすべき基本的な注意義務であって,これを怠った被告人の過失は非常に
重い。また,この過失の背景には,同乗していた幼児をチャイルドシートに座らせ
ず,同児がハンドルに手を出すなど非常に危険な状態であったのにそのまま指定最
高速度を時速20キロメートル以上も上回る高速度で走行を続けたことが認められ
るのであり,自動車運転者としての自覚が足りない。被告人が,平成12年から平
成16年にかけて,速度超過3件を含む交通違反歴6件を有し,その中には速度超
過で罰金に処せられた前科もあることも考えると,交通ルールを守ろうという意識
が薄いといわざるを得ない。
したがって,被告人の刑事責任は重大である。
そうすると,被告人車両には対人賠償無制限の任意保険が掛けられており,被害
車両に乗車していた被害者らについて今後相当額の補償が行われる見込みがあるこ
とや,被告人が本件事故を起こしたことについて反省の情を示し,被害者らにはい
まだ受け入れられていないが謝罪の手紙を書いていること,父親と内妻が更生を援
助する意思を示していることなど,被告人のために酌むことができる事情も認めら
れるが,このような事情を最大限に考慮しても,その刑事責任の重さを考慮すると,
法律の定める最高刑から刑期を減じることは相当でない。
そこで,主文のとおりの刑を定める。
(検察官森幹,弁護人宮崎真(私選)各出席)
(求刑懲役20年)
平成19年1月23日
名古屋地方裁判所刑事第2部
裁判長裁判官伊藤納
裁判官大村泰平
裁判官宮部良奈

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